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『神の戦略と「戦術」』

2012.5.27(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇119篇161節〜168節

『君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行っています。私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日はみなさんの前でメッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝します。
 今日は教会の誕生日、ペンテコステの日です。イエス様がよみがえられて五十日経ったという意味です。その日に聖霊が注がれ、教会が誕生しました。
 復活祭は毎年変動しますので、ペンテコステの日も変動して忘れがちです。固定して欲しいと時々思いますが、いずれにしても、聖霊が注がれたことによって教会は始まったのです。
今、日本には八千以上の教会があります。しかし、八千の教会で礼拝を守っている人たちを全て集めても、二十数万人しかいないのです。日本のクリスチャンを人口比にしたら、〇・二パーセントくらいでしょうか。もっと日本に聖霊が注がれ、リバイバルが起きるように祈りたいです。

 先週の日曜日、私は北海道の訓子府(くんねっぷ)という街で奉仕をさせていただきました。そこには、リバイバル聖書神学校を卒業した永易先生ご夫妻が伝道しています。訓子府は人口五千人くらいの街ですが、教会がありませんでした。誰もクリスチャンはいませんでした。そこに行って、先生方は教会を始めました。ちょっと写真をお見せしたいと思います。

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 今では訓子府に綺麗なチャペルが建っています。これが、先週の礼拝の模様です。

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先週、礼拝に来られた方のほとんどは、ノンクリスチャンでした。先週はたいへんおもしろかったです。「ノンクリスチャンのための霊的戦いセミナー」をやりました。でもそれが通じることがわかりました。質問がどんどん出て、最後にはみんな「祈ってください」と言われました。それで祈ってさしあげました。
 この教会には、新城にしばらく居た、のぶや君とのぞみちゃんが結婚して住んでいます。のぞみちゃんは永易先生の娘です。かわいい息子も産まれました。懐かしかったです。

 日本中の教会でこの時間、主を礼拝しています。新城教会では近頃、インターネットで礼拝を配信しています。それでネットで礼拝に出ておられる方々もおられます。インターネット礼拝の方々には、大変不自由をおかけしているのですが、遠方の方々、また、外国からも出てくださっています。
 インターネットは回線状態で変わりますから、時々、突然切れるそうです。切れると「礼拝に出ない方が良かった」と思うくらい残念な気持ちになるそうです。

先週私たちは、三重県の田舎、員弁郡で家庭集会をしました。
 その家庭でもインターネット礼拝に出てくださっているのですが、家族の中で一人が新城教会で救われ、故郷に帰り、今ではこれだけの人が主を信じました。

 おばあちゃんは九十歳です。初めは「うちは浄土真宗だ!」と言って反対していました。うちのスタッフ達は、この家庭集会に行くのを怖がっていました。でも、前回私が行った時、おばあちゃんはイエス様を信じました。そして今回、一緒に家庭集会に出てくれました。本当に嬉しかったです。こうして家で行われる礼拝も一つの教会です。

 昨日私は、韓国の宣教団体が日本のために行っている宣教神学校、東京ビジョンスクールで奉仕をさせていただきました。そして今日は礼拝が終わったら、大阪ビジョンスクールでの奉仕があります。今、世界中から日本のリバイバルと教会のために祈られています。

 ご存知だと思いますが、今年、リバイバルミッションでは台湾とベトナムでミッションを開催します。ぜひ祈っていただきたいと思います。
 聖書の法則は不思議で、「受けるよりも与える方が幸いだ」ということです。自分の足下だけ見ていると、うまくいかないのです。日本だけでなく、他国の祝福のために働くと、気がつくと日本にリバイバルが起こっているという法則です。
 台湾が九月、ベトナムは十一月に開催されます。私は台湾もベトナムも、一度も行ったことがありません。それで一度下見というか、「とりなしの祈りから始めた方がいい」ということで、今週、台湾とベトナムに行って来ます。
 何を祈ったらいいのか、主が教えてくださるように、新しい扉が開かれるようにぜひ祈っていただきたいと思います。

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 ベトナムへは行ったことがないのですが、インターネットで写真を取りました。大勢の人たちが住んでいるようです。ベトナムには悲惨な歴史があります。日本にもフランスにも支配され、その後ベトナム戦争でひどい目に合いました。今では共産主義の国になっています。
 迫害の中で教会は伝道しています。リバイバルミッションと一緒に働きたいという希望を持っています。
 バイクが多いらしく、「道も渡るのも一苦労」らしいです。

 一方、台湾は綺麗な場所です。

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 これは台北の写真ですが、台北でミッションが開かれます。台湾は親日です。韓国とはちょっと違うのです。なぜそんなに日本よりかというと、それだけ日本が長く台湾を支配したからです。
ということは、台湾では、韓国とはまた違った戦いがあると思います。ぜひとも、祈って支えていただきたいと思います。

聖霊様は、どんな困難な中にも共に働いてくださいます。今も、リソスの賛美の中で、「主がいつも傍らにいてくださいます」と歌われました。聖霊が来られたことによって、主が傍らにいてくださるのです。すばらしいですね。

 弟子たちはイエス様から「力を受けるまで、都に留まって祈っていなさい」と言われ、二階座敷に上って真剣に主を求めて祈っていました。すると十日目に、激しく聖霊が注がれ、教会が誕生したのです。

 私が聖霊を受けたのは、一九九二年二月のことでした。あの時、いろんな問題があって、「もうこれ以上進むことができない」というような心境でしたが、主は、「一週間、愛知県民の森に入って祈祷会をしなさい。」と語りかけて下さいました。
 それで愛知県民の森に仕事が終わってから入って行きました。夜の十時くらいから、野外で真剣に祈りました。一日、二日、三日と、三日目くらいまでは調子よく祈っていました。しかし、四日目くらいから疲れてしまいました。初めは三十人くらいで祈りを始めましたが、段々と人数が減っていきました。
 ペンテコステの時もそうだったようです。初めは五百人くらいが祈っていたようですが、段々と減っていって最後は百二十人になった時、聖霊が注がれたのです。

 最後の七日目、たった八人しか来ませんでした。しかし、その夜、聖霊様が激しく訪れてくださいました。それから私も、教会も変えられました。聖霊様を求めることは本当に重要です。

 今日は「神の戦略と戦術」というタイトルで、詩篇一一九篇から一緒に学びたいと願っています。特に一六一節〜一六四節を中心に学んでいきたいと思います。

『君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。』

 詩篇一一九篇はたいへん長い箇所です。
 私が子どもの頃、家には一つの習慣がありました。私の親父が宣教師から導入した文化だと思うのですが、「食事の前に子どもたち全員を集め、聖書を一章読んで、長い祈りをして食事をスタートする」という習慣でした。
 私は食糧難の時代に育った世代ですから、「食事の前に、食事を目の前にして、聖書を一章読んで長い祈り」は拷問のようでした。
 しかし、詩篇に入ったら嬉しかったです。なぜならば短い箇所が続きますから「ダビデさんありがとう!」という感じでした。
しかし、一一九篇を見てびっくりしました。すごく長いのです。「すべて読んだら晩飯が朝飯になってしまう・・・」と思いました。

 詩篇の中でも一一九篇はアクロスティックという用法が使われていて、これはヘブル語のアルファベット順に、段落毎に、詩が始まっています。頭の文字が例えば日本語だったら「あいうえお」順に「あなたは・・・なになに」と次々に歌われるので、長くなったらしいです。
 うちの孫に、二歳五ヶ月のかたるという子がいるのですが、彼女がこの頃、だいぶ字を読むのです。ひらがなを読むのです。誰も教えないのにどうして知ってるのだろうかと、「誰に教えてもらったの?」と聞くと、「アンパンマンに教えてもらった」というのです。どうやってかと聞くと、「アンパンマンのあ」とか、「ドキンちゃんのど」とか、「バイキンマンのば」と言うビデオで覚えたそうです。
 詩篇一一九篇はヘブル語のアルファベット順に詩が作られていて、一六一節は『君主らは、ゆえもなく私を迫害しています』から始まります。
ダビデは王でしたから、周りから狙われていました。国々の関係とは、本当に複雑なものです。それぞれの国には、それぞれの文化があり、なかなか一致が難しいです。

 私もいろいろな国で奉仕をする機会があるのですが、日本にいる時には気づかないことが、他国に行くと分かります。
 この間、アメリカンジョークを読んでいたら、こんなのがありました。「二頭の牛を持っていた場合、それぞれの国の企業は何をするだろうか」というジョークです。

 「アメリカ企業が二頭の牛をもらったら何をするのか。一頭を売却し、その金の運用に熱中する。残りの一頭に四頭分のミルクを出すように強要する。」
 フランスの企業は「牛をもう一頭よこせとストライキを起こす。」
 日本の企業は「牛を十分の一の大きさにし、元の二十倍のミルクが出るように改良する。牛は信じられないほど混雑した満員電車を乗りこなし、学校や会社でトップクラスの成績を収める。」
 ロシアの企業は、ロシア人は「酒飲み」という前提があるのですが、「まずは牛を数える。五頭いるとメモする。もう一度牛を数える。四十二頭いるとメモする。さらにもう一度メモする。十二頭いるとメモをする。そこで数えるのを止め、次のウォッカの栓を開ける。結局牛はマフィアに持って行かれる。」
そして、インドの企業。それは一言、「敬う。」

国にはいろんな文化があるわけです。

アリとキリギリスというイソップ童話があります。これは世界の国々ではこんな風に話が変わるというのです。
 アメリカの場合、「バイオリンばかり弾いていたキリギリスだが、その腕前がテレビプロデューサーの目に留まり、一躍スターになり、キリギリスは大金持ちとなった。」
 旧ソ連の場合、「アリは玄関先で倒れていたキリギリスを助け、食べ物を分け合う。しかし、結局食糧が足りなくなり、アリもキリギリスも死んでしまう。」
 日本の場合、「アリもキリギリスも過労死する。」

ダビデも自分としては、「なんでそんなに命を狙われるのか・・・」と、理由がわからないくらい迫害されていたのです。
 しかしそんな中、彼はこんな詩を読んだのです。一六二節、『私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。』

 彼は、周りの君主らから攻められ、どん底だったのかもしれません。そんな中、ある時彼は、大きな獲物を獲たかのように喜んだというのです。すごい発見をしたのです。
 『あなたのみことばを喜びます』と歌っていますが、神からの言葉をキャッチしたのです。
 そして、『私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。』と歌いました。

 彼は多くの迫害を受けたのですが、「主よ、どうか私を助けてください。守ってください。義の裁きを与えてください」と祈っていたのでしょう。
その答えとして、『あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます』と、一日に七回、主を賛美するという神からの戦術を受け取ったのです。

 私たちは「戦略」とか「戦術」という言葉をよく耳にします。一般的に「戦略」とはどういう意味かというと、「一般的には特定の目標を達成するために、長期的視野と複合思考で力や資源を総合的に運用する技術・科学。様々な分野に意味は広がっているが、元々は軍事用語である」となっていました。

 また「戦術」とは、「作戦、戦闘において任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する術」となっていました。
 「日本の企業には戦略がない」と言われますが、戦略というのは全体の枠組みというか、全体計画です。しかし「戦術」とは、全体計画の中での、個々の戦いの仕方です。

 かつての日本軍は、戦術には長けていたらしいのです。この中にも太平洋戦争に参加したおじいちゃんも居ますが、日本軍は夜襲をかけるとか、不意打ちをするとか、そういう戦術には長けていたのですが、戦略がなかったというのです。思いつきで出て行ったようなところがあったから、戦争に負けてしまったわけです。

 聖書には神の「戦略」という全体計画があって、同時にその中には「戦術」があるのです。これを知る時、私たちの信仰生活は変わると思うのです。戦術は聖霊によって、どのように戦ったらいいのかその術を教えられることです。

 神の戦略、その枠組みとは何でしょうか。それは一言で言えば、「神の御言葉」です。詩篇一一九篇のテーマは「神の御言葉」がテーマです。
 一一九篇を見ますと、「神のことば、神の教え、裁き、仰せ、戒め」という用語が、ほとんどの節に登場します。出て来ない箇所は三節しかないとありました。ほとんどの箇所に「神の御言葉、教え、裁き、仰せ、戒め」という言葉が散りばめられています。
 神の戦略は、御言葉にあるのですが、また、それ全体を一言で表している御言葉は、やはりヨハネ三章十六節だと思われます。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 これは聖書全体の『戦略』を表している言葉です。聖書は、全体で何を目的としているかというと、「神が人類をどのようにして救い出すか」という「救済の歴史」を記しているわけです。
 そして、その根源が、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』という、御言葉に表現されています。これは「神の人類に対する救い」という大きな戦略であり、聖書全体を貫いているテーマです。
 そしてその中には、神が「どのように人類を救い出すのか」という『戦術』も教えているわけです。

 神が天地を造られた時に、どのようにして造られたのかが、創世記一章三十一節に書かれています。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。』

 神は天と地を六日間で造ったというのです。そして二章一節〜三節、

『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』

 現在、私たちは「一週間七日」という暦で生活しています。「一週間七日」というのは、考えてみたら何とも中途半端に感じます。しかし、七日というサイクルを崩してしまうと、人間は生きることができないそうです。
 かつてフランス革命の時に「七日を十日にしよう」と変えたことがあるそうですが、やっていけなかったそうです。
 一週間が七日暦というのは、どこを調べてみても、そういう文化背景を持った人たちは見当たらないというのです。
 聖書も、成立までに周辺地域の文化、習慣の影響を受けていますが、暦に関して「一週間七日」という文化を、周辺地域で見出すことはできないそうです。これは聖書特有の暦です。
 それはどこから出たのでしょうか。「神が六日で天地を創造して、七日目は休んだ」という創造のスケジュールから来ているのです。
 二章三節に、『神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた』と記されています。これはある意味で、「創造全体の神の戦略」と理解してもいいのかもしれません。天地を六日間で造って、七日目は休む。そして、「七日目を祝福」した。「この日は聖なる日だ」と宣言されたという、神が創造全体に一つの戦略を張り巡らされたのではないかと思います。

 今日、私たちは礼拝に集っていますが、教会は日曜日、礼拝を、「七日目」と位置づけています。神はこれを聖なる日とされているのです。「神は第七日目を祝福した」とありますから、私たちが礼拝に集うことは、天地創造における神の全体的戦略の中で、「七日目に祝福をおいた」という「戦術」を知って、七日目に礼拝を守るのです。そのとき、それは聖なる日となるのです。
 聖書を見ると、「七」という数字は完全数であり、これを戦術的に理解できます。

 今日、読んだ箇所も、由縁なくダビデは迫害されていました。その時、大きな獲物を見つけたというのです。神からの戦術をもらったというのです。それは、大きな問題を解決するための戦術でした。それは、『あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます』という戦術でした。

 ダビデは聖霊によって、「敵の手から逃れるため、義の裁きのために、日に七度主を礼拝しなさい」という戦術を神から受け取ったのです。そこで、彼は一日に七回主を賛美したのです。その結果、彼は、様々な危機がありましたけれど、乗り越えることができました。
 創造の奥義で、七日目を聖なる日とされたという戦略の中、「一日に七回主を賛美する」という戦術が敵から解放される術となったのです。

 これを私たちも試してみる必要があるのではないでしょうか。それを聖霊によって実行する時、今まで動かなかった領域が動き出すではないかと思います。

 この頃私は、主から戦術について教えられているような気がします。それで聖書をいろいろ調べてみたのですが、「七日目が聖なる日」という原則は、いろいろな場面に散りばめられています。

 エジプトから脱出したイスラエルは、やがてカナンの地に入りました。カナンの地に入る前、エリコという難攻不落の街が立ちはだかっていました。その時、神がヨシュアになんと言われたのか、ヨシュア記六章一節〜四節に記されています。

『エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』

 難攻不落の大きな街、エリコを攻める時、神が与えた戦術は何であったのか。それは、「一日に一回、六日間同じように街の周りを回り、最後の日には七周せよ」と言われたのです。そして、「七日目の七周が終わったら、時の声を上げたら勝利する」と言われました。

 神が私たちに与える戦術は、我々が考えもしない方法を与えるのです。まともに戦ったら負けてしまうような戦いかもしれないけれど、神様の戦術に従うならば、ただ黙って一日、二日、そして、六日街を回り、最後の七日目には七周回って時の声をあげる、それが勝利のきっかけとなったのです。
この時も、第七日目が聖なる日となり、勝利に導かれたのです。

 続いて、第一列王記十八章を見ますと、エリヤという預言者が出て来るのですが、エリヤはバアルの預言者、アシュラの預言者たちと戦って彼らを打ち負かしました。当時、イスラエルは偶像礼拝の罪を犯していて、バアルとかアシュラと呼ばれる偶像がいっぱい入っていました。アハブ王は偶像礼拝の罪を犯していました。その結果、イスラエルに二年、三年とまったく雨が降らなくなっていました。
 そんなただ中、まずエリヤが行ったことは、バアルとアシュラの預言者らと対決して、彼らを一掃しました。その後、雨が降るように主に祈りました。その時の様子が記されています。第一列王記十八章四十一節〜四十六節、

『それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。』

 この時、エリヤは雨が降るように祈るために、山の上に登りました。そして、ひざまずいて、「どうかイスラエルに雨を降らしてください」と祈りました。その時彼は、霊的世界において大雨の音を聞いたのです。それで若い者に、「ちょっと見て来い。きっと雨雲が上がって来ているに違いない。」と言いました。
しかし、見に行ったら何もありませんでした。若者は「エリヤさん、雲なんてありませんよ。一面晴れていて、雲なんかどこにもありません。」
 しかしエリヤは「七度見て来い」と言いました。その間、エリヤは七度、続けて祈っていたと思われます。
最後の七回目に若者が登って行くと、どのようなレポートが寄せられたでしょうか。「手のひらサイズの雲が海の方から登って来るのが見えた」というのです。
 その時主は言われました。「すぐに山を降りなさい。大雨が来るから。」果たして、その通りになりました。大雨が降りました。この時も七回の祈りの最後の祈りが、聖なるものとなって、神からの答えが来たのです。
 神からの戦術を聖霊によってエリヤが受け取ったことにより、大きな勝利に繫がったのです。

 また、ナアマンというアラムの王の将軍が、らい病、この頃の聖書では「ツァラアト」と言語そのものを発音していますが、病気を患いました。するとナアマンの家に、イスラエルから捕らられて来た女奴隷がいました。彼女が「私の国には、エリシャという神の人がいて、彼に祈ってもらったら病気は治りますよ」と告げました。
この言葉を聞いて、将軍ナアマンがエリシャの所に行ったことが記されています。第二列王記の五章のところにあるのですが、エリシャはナアマンに何と告げたかというと、五章十節。

『エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」』

この返事を聞いたナアマンは怒りました。エリシャの所にわざわざ贈り物を持って、「祈ってください」と頼んだのに、当の本人エリシャは出ても来ず、使いの者が「ヨルダン川に行って七回身を沈めなさい。そうしたら良くなる」と告げたからです。
 「私はここまでわざわざ来たのだから、エリシャが出て来て手をかざして祈ってくれると思っていた。しかしなんだって?ヨルダン川に行って七回水浴びをしろだって?冗談じゃねぇ。俺を誰だと思ってるんだ!」という感じでした。
「私の国の川の方がイスラエルの川より綺麗だし、水浴びならどこの川だってできるじゃないか」と、怒って帰ろうとしたのです。
 するとナアマンのしもべたちが来て、第二列王記五章十三節〜十四節、

『そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。』

なんと、ナアマンがエリシャの言葉を実行した時、らい病でぐちゃぐちゃになっていた患部が、幼子の肌のようになってしまったというのです。
ナアマンの家来たちは、なかなか賢かったですね。「ナアマンさん。もしも、あのエリシャが出て来て、難しい条件を出したなら、きっとあなたは実行したでしょう。でも、あまりにも条件が単純すぎたから、あなたはエリシャの言葉を馬鹿にして、実行しなかったんじゃないですか?ヨルダン川に七回身を浸すというのは、いとも簡単なことじゃないですか?だまされたと思ってやってごらんなさいよ」という感じだったと思われます。
 それで、彼は、あまり気持ちは付いて行かなかったけれど、みんながそう言うから、ヨルダン川に行って、一回、二回、三回、四回、五回、六回身を沈めました。しかし、全く治っていなかったわけです。けれども七度目、身を沈めて水から出たら、ツアラアトは全く消えていたのです。

 神様が与えてくださる戦術は、難しいものではなく、単純なものかもしれません。ここでも聖霊によって与えられる単純な戦術が、大きな打ち破りをもたらすことを、教えています。

 ダビデも外敵から苦しめられ、「神様。なんとか裁きを下してください」と祈っていたことでしょう。しかし、その時に主が言われたことは、「日に七度私を誉めたたえなさい」ということでした。そして彼は、それを実行した時、勝利を勝ち取ったのです。

 私たちは結構、複雑に物事を考えますが、神の大きな戦略の中から与えられる戦術は、案外単純なものではないかと思います。
 一九九二年の二月に聖霊が注がれた時も、「一週間、県民の森に行って祈りなさい」という思いでした。六日目までは何も起きませんでした。しかし七日目です。人数も一番減ってしまって、私は「聖霊が臨まれるはずはない」と思っていたけれど、その夜に来られたわけです。
「七日目が聖なる日」という戦術を実行する時、主のわざが起きるのです。

 今年の五月の二十四時間のPPHは大変恵まれました。今回は「リバイバルフェスティバル」というタイトルでなされました。
最後の賛美の時、私は真剣に賛美していました。賛美している時は他のことはあまり考えません。しかし、賛美の中で瞬間的に一つの思いが来ました。それは、今まで長いこと祈っているけれど、なかなか解決しない問題が心にふっと浮かびました。
思うようにならない問題ってたくさんありますよね。教会も人数が多くなればなるほど問題はあるし、日本のリバイバル、世界のリバイバルの為に何をどうしたらいいのかと思います。

賛美の最中、なかなか動かない問題のことが浮かんで来た次の瞬間「その問題が見える山に登って、七日間、続けて祈りなさい!」と語られました。

 案外、私たちは様々な問題に出会う時、どうしたらいいだろうかと複雑に考え、問題解決のために走り回ることがよくあるのですが、神から与えられる戦術は、複雑なものではなく、かなり単純なものかもしれません。

 今日、問題を抱えていたら、聖霊様から戦術をもらってください。それは決して複雑なものではないはずです。もしかしたら、ナアマンのように「えっ?こんな単純なこと?」と思うかもしれません。しかし、それが大きな打ち破りとなるのです。

 「七日目が聖なる日」という創造の戦略から、「七回祈る」「七日間廻る」「日に七回賛美する」と言うことは「戦術」であり、問題解決の鍵かもしれないと感じています。
 何か問題があったら、問題が見える象徴的な場所に行き、七日間、主を賛美し、祈ってみてください。第七の日に、主が勝利に導いてくださるかもしれません。

 また、ある人には、単純な祈りを与えて下さるのかもしれません。しかし、聖霊様が与えてくださる戦術を受け取る時、それは大きな勝利へ繋がるのです。

 ダビデに主は「日に七回賛美しなさい」と言われました。例えば、このようなスケジュールはいかがでしょうか。「一、朝起きた時。二、十時の休憩。三、お昼。四、三時の休憩。五、晩ご飯の前。六、お風呂に入る前。七、寝る前」と決めて、主を賛美して祈る、ダビデに習って試してみましょう。普通じゃ考えられないような方法で、神が私たちを勝利に導いてくださると信じます。

 私たちは日本のリバイバルのために真剣に祈っていますが、どこに糸口があるだろうかと思います。しかし主は、「あなた方は戦略を求めると共に、わたしから戦術を求めなさい」と語られているような気がします。
「単純な戦術を教えてください」と、私は今、祈っている最中です。
 みなさんもこの神様からの戦術を受け取って、ヨシュアのように、エリヤのように、またナアマンのように、そして、ダビデのように実行しましょう。日本に大きなリバイバルが現されると心から信じます。

 もう一度詩篇一一九篇一六一節から読んでみます。

『君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。』

 神様の戦略は御言葉です。御言葉にいつも親しみ、大きな獲物、神の戦術を受け取りましょう。詩篇一一九篇一六五節、

『あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。』

聖霊によって戦術を受け取る時、そこには平和があり、つまずきがないとあります。今日は主からの戦術を求め、聖餐を持ちたいと思います。「戦術を与えてください」とご一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。一言お祈りいたします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。私たちを救うための大きな戦略が、すでに与えられていることを感謝します。しかし、個々に戦うための戦術を授けてください。
 今日は日曜日、聖なる日としてこの場所に集まりました。ここに主の祝福があることを感謝いたします。聖霊様、今日はあなたが来てくださったこの記念日に、どのように戦ったらいいのか、戦術を授けて下さい。
 今からの聖餐の一時を祝福してください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。

 今日、聖餐式を受ける前に、「問題に対処する、神の戦術を教えてください」と祈りましょう。
 今からしばらく祈って、聖餐式を受け取りたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。今、一人一人に戦術を教えてください。語りかけてください。様々な状況の中からここに集まっておられます。聖餐式を前にして、主よ、あなたからの戦術を求めます。日本のリバイバルのために、何をしたらいいのか、問題解決のために、何をしたらいいのか、一人一人に語りかけてください。今からの聖餐式の一時を祝福してください。御名によって祈ります。アーメン。