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『あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けます』

2012.7.1(SUN)
新城教会牧師 上條実
詩篇112篇

『ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う人は。彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。』


 ハレルヤ!今日はみなさんの前でひさしぶりに立たせていただいて奉仕ができることを心から感謝します。今日この地域では、ちょうど礼拝時間と同時間に、設楽が原決戦場祭りが行われています(実際は、この時間に予定されていた行事は雨天のため中止となっていました)。歴史を知るという事から、小学生、中学生も参加して行われます。戦没者の供養の為に戦没将士慰霊祭を行なっています。ぜひとりなしの祈りをささげながら、礼拝に参加して頂きたいと思います。また昨日六月三十日は、大祓(おおはらえ)という悪しき催しがなされました。国民が犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)と呼び、地域の神社でも、また宮中でも行われ、半年間で知らず知らずのうちに身についた穢れを祓い清め、生命力の回復をはかる日とされて、行われました。先週は週報でとりなして下さいと書かれてあり、多くの方がお祈り下さったと思いますが、私たちクリスチャンはイエスキリスト以外に救いはないと信じる事ができています。日本が偶像礼拝から解放されるように、守られるようにも祈りつつ礼拝をささげて頂ければ感謝です。まず一言お祈りさせていただきます。

 愛する天のお父様。ありがとうございます。こうして私たちは礼拝を守ることができることを感謝します。今日の礼拝にてあなたを心から礼拝することができますように、また一人一人がみ言葉の剣を受け取る時になるよう祝福してください。特に、今日、上に立つ人々のためにお祈ります。天皇や、新城市の上に立つ人たちをイエス・キリストの名によって祝福し、その偶像礼拝を赦してください。また、小学校・中学校のためにも祈ります。供養のために今日は学校が出校日となり、設楽が原決戦場祭りに参加させられています。子どもたちを守り、罪からお守り下さい。またこの地域をお守り下さい。この地域がきよめられ、祝福されますように。いつも祈っていますリバイバルの業が一日も早く現されますように導いてください。今からこの小さき者がみことばを語ります。お一人お一人に聖霊様ご自身が教師となってみことばを与えて下さいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 お祈り頂いております滝元順牧師とフェルナンド副牧師のスペイン伝道も、祝福された集会を持っているようです。現地では金曜日、こちらでは土曜日夜十二時くらいから、牧師先生方を集めての霊的戦いセミナーが持たれました。百名くらいの方が集まられているそうです。そして「今度は大勢集めるので、ぜひ来年も来て下さい。」と、集まった方々から恵みを喜ぶ感想を受けたという、祝福された報告を聞いております。また滝元明牧師のためにもお祈り頂いておりますが、今日は岩手県盛岡市で礼拝を持っています。午後からも別の所で集会をして、今日の夜帰って来ることになります。続けて祈り下さい。

 また皆さんご存知だと思いますが、今週の土曜日は一時半より菊池兄と清香姉の結婚式が行われます。ぜひ皆さん祝福の為にご出席下されば幸いです。そして日曜日はピアス兄と耶恵姉の婚約式が行われます。結婚式、婚約式は特別の祝福の時です。祝福は素晴らしい事です。私たちはいつも祝福を持ち続けたいと願っています。何と、今日のメッセージのタイトルは、「あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けます」です。ぜひこのみことばを受け取って下さい。

 私たちの教会に霊的戦いが始まってちょうど二十年になります。今まで戦って来られた事を心から感謝し、その中で祝福を私たちは多く頂いて来ました。しかし今日のみことばは、あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けることができるとつけさせて頂きました。一部分の人たちだけが祝福されるのではなく、えこひいきのない神さまですから、全ての人が祝福されるのです。ですから、今がどんな状況であろうとも受け取ってください。あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けとる時であると信じましょう。

 先ほど詩篇百十二篇を読んでいただきました。もう一度お読みしたいと思います。私はJ-Bibleという、パソコンで聖書を読むためのソフトを使って、新改訳聖書とリビングバイブルを一緒に開いて読むようにしています。そのためよくリビングバイブルを読むのですが、リビングバイブルで読んでみたいと思います。

『神様をほめたたえましょう。神様を信じて従う人は、口で言い表わせないほどの祝福を受けます。心から、神様のおっしゃるとおりにする人はしあわせです。正しい人は息子にまで祝福が受け継がれます。正しい人は資産にも恵まれ、善行をたたえられるでしょう。たとい、暗やみの力に巻き込まれたとしても、すぐに光にこうこうと照らされるでしょう。彼はあわれみ深く、親切です。公平な取り引きをするので、万事がうまく運びます。このような人は、事態が思わしくなくなったからといって、動じたりしません。周囲の人々は、神様が彼をいつも引き立てておられる様子を見て、深い感銘を受けるのです。彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと、信じきっているからです。ですから、何事も恐れないで、冷静に敵の顔を見つめることができるのです。彼は物惜しみしたりせず、貧しい人に気前よく与えます。その善行は、いつまでも忘れられず、人々の尊敬を集めます。これを見たひねくれ者は、怒りに震えますが、歯ぎしりしながら、逃げるしかありません。望みが消え去ったからです。』

 リビングバイブルで読むと今風に表現していますので、とても分かりやすく、意味を理解しやすいです。 正しい人は息子にまで祝福が受け継がれ、その子らは至る所で尊敬を集めます。また多くの資産に恵まれ、いつも神さまの光に照らされ、万事がうまくいく。等々素晴らしい祝福を頂けるのです。ご自分でもゆっくり詩篇百十二篇を読んで下さい。そしてこのみ言葉をご自分の剣として持たせて頂きましょう。今何もない状況でも、エリヤがバアルの預言者たちと戦い勝利した時、全く雨が降るはずのない状況から、手ほどの雲が現れ、その後大雨が降ったように、あなたにも、また日本にも必ず祝福が表されます。
 しかし、それには条件があります。百十二篇一節をもう一回見てみたいと思います。新改訳では、

『ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。』

とあります。リビンブバイブルでは、

『神様をほめたたえましょう。 神様を信じて従う人は、口で言い表わせないほどの祝福を受けます。心から、神様のおっしゃるとおりにする人はしあわせです。』

 と書いてあります。ここに条件が書いてあります。主を恐れとあります。私たちは主を恐れることが必要です。イエス様が恐い方で罰を与える方だから「恐れる」と言うのではありません。「主を恐れる」というのは、主に従う事です。今日も聖餐式を行いますが、私たちのためにイエス・キリストが十字架にかかって葬られて、よみがえってくださったということを心から信じ、主を愛して仕えていくことが主を恐れることです。そして、その後に『その仰せを大いに喜ぶ人は』とあります。リビングバイブルでは、『心から、神様のおっしゃるとおりにする人はしあわせです』とあります。続いての条件として、私たちは主を恐れて、イエス様に従う。みことばに従っていくならば、というのです。
 しかし私たちは、「そんなこと言っても、こんな健康状態では・・・・。こんな状況では…・」と、サタンの策略によって、私たちは目を問題の方に向けさせられてしまいます。私は信仰が弱い、私には祝福なんて無理だと言われる方もいるかもわかりませんが、あなたがそれを信じ、実行する時、ちょうど良い時に言い表せないほどの祝福を下さいます。いくら現実、家族のこと、夫婦のこと、この地域のこと、経済的なこと、人間関係、病気などなど様々な問題があったとしても、しかしイエス・キリストのみ言葉を握っていただきたいのです。
 そんなことを考えながら聖書を読んでいた時、私に神さまから一つの御言葉を教えていただきました。それはマルコによる福音書六章三十四節からのみ言葉です。これは大変有名な五つのパンと二匹の魚の例えのところです。

『イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」』

 三十四節を見ると、多くの群衆をイエスさまはご覧になり、まるでその群衆が羊飼いのいない羊のようでした。そして三十五節には、「もう時刻もおそくなりました。こんなへんぴな所ですから、人々を食べに帰らせてください」と言っています。「へんぴな所」です。そして、「夕暮れでおそくなりました」と書いてあります。暗くなり始めたときです。
それもみんな夕食時なのに食べ物を持っていません。空腹です。「二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか」と弟子たちは言っています。二百デナリというのは、一デナリは一日の給金ということですので、わかりやすく言えば、二百万円と言えるでしょう。弟子たちはそのお金を持っているはずがなく、全ての状況が、マイナスの状況です。そして、今お読みしませんでしたが、三十八節を見ると、「じゃぁ、ここにいる人たちの中でどれぐらい食べ物があるか見なさい」と言って探し、イエスさまの前に持って来たのは何んと二百デナリとは程遠い、一人の少年の弁当である五つのパンと二匹の魚だけでした。人々はイエスさまのことばに耳をひたすら傾けていたため、夕食の事など気にしていなかったのではないかと思います。しかし弟子たちは心騒いでいました。そして、イエス様が言ったのは、「あなたがたで何か用意しなさい。」これはとても薄情のように聞こえます。他の聖書の箇所には「試して言われた」ともあります。イエス様は弟子たちがどんな反応をするか試して「あなたがたで何か食べる物を探しなさい。あげなさい」と言いました。
 私たちはイエス様が神さまであると認めています。信じています。イエス様は私の為に十字架にかかってくださった。私が滅びに行かなければいけない所を代わりに十字架にかかってくださり、葬られ、裁かれ、三日目によみがえってくださいました。死から命にかえられました。永遠の命をいただくことができる。そして私たちの神は力ある神だと知っています。しかし現実はこの二匹の魚と五つのパンのように、祝福とはほど遠い状態。私たちは心配で、大波で揺れている小さな船のように心騒いでしまいます。イエス様はどんな方かは知っています。しかし自分には無理だと不信仰を持つのです。男だけで五千人と書いてありますから、ある人は「二万人の人々がそこにいただろう」と言っています。弟子たちは「もう夕暮れです。食べることがありません。」と、現実を見ていました。
 その時に、三十七節

『すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」』

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言いました。二百デナリ、日本円で二百万円のパンが必要な状況で、イエスさまは「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われました。これは不思議なことです。主が私たちに要求していることは「あなたがたでなんとかしなさい」ということなのです。
 私たちは今まででも一生懸命がんばって祈って来た。戦って来た。もう疲れました。自分では動けません。精神的にぼろぼろです。と私たちは考えて、自分で何かすることができません。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」「いや、絶対無理です。」と、不信仰をしっかり握ってイエスさまに反論する人かも知れません。そして五つのパンと二匹の魚では何の足しにもならない。自分の信仰も同じ。なんの役にもたたない。と考えてしまいます。しかし神様は、そのような事は全てご存じで、「あなたができることをしなさい」と言っているのです。
この時、弟子が持ってきたわずかの、少年一人分の弁当。この弁当を祝福して、なんと二万人の人に食べさせる事ができ、満足させて、余り溢れる奇跡をイエスさまは現して下さいました。
 今日、自分は一生懸命やっているけれども、何も祝福をもらえないと、あきらめていませんか?今日、あなたの様々な状況の中で、あなたのできることでいいのです。もし「どこどこ行って路傍伝道しなさい」なんて言ったら、できる人もいるかもしれまっせんが、恥ずかしいと思ってなかなか路傍伝道なんかできません。また「献金をいくらしなさい。百万円、一千万円ささげなさい」なんて言われたらできるはずがありません。「今日雨の中で、トラクトを一万枚配ってください。そうしたら祝福されます」と言われてもできません。いやある方はできるかも知れません。イエスさまが言われたのは「あなたのできること」です。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」なんにもない状況で、あなた方であげなさい。だからあなたができる事で良いのです。それを主にささげる時、祝福を下さるのです。あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けることができます。

 悪魔は私たちを進ませないように立ち止まらせてきます。もう駄目だとあきらめさせます。現実だけを見させてきます。みことばの剣を持たせないように、また持ってしまった人には、さぞかし大変な事だと思わせ、みことばの剣を持たせないようにして来ます。一人の少年の弁当。そんな小さな物で、男の人五千人。その数にも入らない子どもの持っていた物です。主はそれを使って、二万人もの人に食べさせ、余り溢れる祝福をくださいました。
 だから、私たちはできることを、どんな小さな事でもイエスさまにして下さい。
あなたができることで一歩前に進んでください。聖書の中には、『隣人を自分自身のように愛せよ』とありますが、私たち人間は、自己中心的な信仰生活になりがちです。しかし、今日あなたがしてもらいたい事を、隣人にしてあげて下さい。祈ってください。先ほどの二匹の魚と五つのパンの時は、食べるものが必要だったのです。だから少年の弁当を持ってきたのです。パンを探したが、取るに足りない、なんにもならないものであってかも知れません。しかし主はそれを用いて、人々を満足させ、溢れる祝福と変えて下さいました。あなたの一番必要な問題に対し、どんなに小さなことでもいいので、隣人のためにして下さい。そのときあなたの問題が動き始め、祝福につながります。またマタイ六章三十三節~三十四節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 自分中心の人生はやめましょう。イエスさま中心、神の国と神の義第一にして下さい。また使徒の働き二十章三十五節、

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』

とあります。聖書は「受ける、受ける、受ける。」そうではありません。ここにあるように、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』とあります。
みなさんで告白してみましょうか?

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』

 そうです与えていきましょう。今までの自分の祈りを考えると、「こうして欲しい、こうして欲しい」と求める祈りばかりだと反省させられます。今日から与え始めて下さい。先ほども言いましたが、あなたの持っている問題は、隣人で同じ問題を持っている方々が大勢いると思います。その方のためにあなたが時間を割いて祈ることです。自分と同じように、隣人を愛する事、その人の祝福を自分の祝福と思って、その人のために祈ってください。
 そしてもう一つは、「聖さ」です。汚れたままで「ください、ください」と言っても主は与えてくださいません。「祈ってください」と来られる中でも、自分が罪を犯していながら、「こんな大変なことが起きた。助けて!」と祈りを求めてくる人もいます。自分の生活、聖さは全く考えずに、問題だけを持って来て、「祈ってください。」と言われる方もいるかも知れません。しかし答えられない。あなたが聖くなることが祝福の扉を開ける鍵だと信じます。
旧約聖書に出てくるダビデ王は、すばらしい祝福をもらった人物です。しかし彼はⅡサムエル十一章にあるように夕暮れ時、ダビデは王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているを見ました。その女が非常に美しかったので、誰かを調べさせました。それはウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバでした。人妻であることを知りながら、関係を持ちました。そしてバテ・シェバは子どもをみごもってしまったのです。その後いろんな工作をし、それでもうまくいかない為、王の権威でバテ・シェバの夫ウリヤを殺してしまいました。しかし、主は一人の預言者ナタンを使わし、罪を示しました。ぜひⅡサムエル十一章~十二章を読んで下さい。ダビデ王は隠していた罪を悔い改めました。その悔い改めが、主の前に受け入れられ、赦しを頂きました。
今日、私たちは本当に悔い改めたいと思います。隠している罪を告白して、主からの聖さを、今日受け取りましょう。隠した罪は心をむしばみ、腐らせ、祝福を奪い取られます。今日あなたのできる事をしてください。与える時、悔い改める時、主は祝福をくださいます。

 今日主に聞いてみてください。「神様私は何をした良いのでしょうか?今はこんなに最悪な状況です。だから今何をしたら良いのでしょうか。」と主に静まって聞いて下さい。あなたが解決して頂きたい祈りを、とりあえず横において「あなたができることをしなさい」と言われたように、主に聞いて下さい。主はあなたに必要なことを語ってくれると思います。
 自分のことで精一杯になってしまうと、霊的な耳は聞こえません。主に「この状況の中で私は、何をしなければなりませんか。」と祈ってみてください。主が答えてくれます。
 しかし、その十二のかごいっぱい集めた後の記事がマタイ十四章二十三節~二十五節、

『群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。』

とあります。有名なイエス様が湖の上を歩かれたところです。五千人に食事を与えた奇跡の後、真っ暗闇の中で嵐になって、弟子たちの乗った舟は進めませんでした。その時十四章二十六節、

『弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。』

 弟子たちは奇跡を体験した後、ギブアップしてしまっています。二十七節、

『しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。』

とあります。「しっかりしなさい」と神様は語っています。なんとペテロは「もしイエス様であったら私を歩かせてください」と言っています。そしてペテロは湖の上を歩き始めたのです。しかし風を見てしまい、三十節、

『ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。』

 その時に、三十一節~三十四節、なんて書いてありますか?『すぐに』とあります。

『そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。』

 弟子たちは、何度も何度も何度もイエスさまを疑っています。しかし、主を恐れ、みことばに従い、聖さを持ち、疑わずに「主よ私は何をしたら良いのでしょう」と祈って下さい。私たちはこの詩篇百十二篇一節~十節のみ言葉が全てあなたのものとなります。「あなたができるものをしてあげなさい」あなたが必要なものを、人のために行ってみてください。実行するかしないかでは、大きな違いがあります。今日ある方には、「戦いなさい。とりなしなさい」と言われるかもしれません。ある方は「献身しなさい」と言われるかもしれません。ある方は「これだけをささげなさい」とか言われるかも知れません。あなたは、主の声に聞き従う器になっていただきたいと思います。

 私が小さい時覚えたみことばはマタイ十三章九節

『耳のある者は聞きなさい。』

耳のある方は聞いてください。祝福をもらえます。ぜひあなたも主の前に何をしたら良いかを聞く時にしたいと思います。

 まず今日、イエス・キリストが自分の神様である事を信じましょう。あなたのために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださった主を覚えるために、記念として聖餐を受けなさいとあります。聖餐式を受ける時に、「イエスさま私は何をしたらよいのでしょうか」と聞く時にして下さい。主はあなたの人生に「あなたは言い尽くせないほどの祝福を受けます」と語って下さいます。一言お祈りさせていただきます。

<祈り> 
 愛する父なる神様。今日今の現状は祝福というにはほど遠い現状かもしれません。
しかし主よ。「私は何をしたらよいのでしょうか?」主よ、私にお語り下さい。そして私に祝福を与えて下さい。主よ、語ってください。私は何をしたらいいんですか。
 そのためにも今から聖餐式を受けます。もう一度自分の神様として、イエス・キリストを受け入れます。今このパンとジュースは御霊によって、イエスさまの流された血潮と肉であることを宣言します。主イエスさま、あなたは私の神さまです。全能なる神様、この聖餐式の時を通して私に、教会に触れてください。主イエス・キリストの御名によって勝利を宣言してお祈りします。アーメン。