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『神に喜ばれる信仰』

2012.7.8(SUN)
新城教会牧師 滝元明
ヘブル人への手紙11章6節

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。昨日は清香と菊地兄弟の結婚式がありまして、大勢の方が来てくださったことを、心から感謝します。特に感謝なことは、昨日は午前中雨が降っていましたけれど、祈りが答えられて昼からは良い天気が与えられました。今朝もこうして礼拝をみなさんと一緒に守ることができて感謝です。
 今日の礼拝の後は、清香の妹の耶恵が婚約式をします。誰と婚約するかといいますと、一年くらい新城教会で働いていましたピアス君と婚約をします。みなさん覚えて祈ってください。
 ピアス君は約一年ここで働いたのですが、耶恵がアメリカの大学に行って、ジョー先生の家から大学に通ったそうです。それでピアス君は耶恵ちゃんが好きになったようで、それをお父さんに告白したそうです。すると、「好きだったら滝元家のことをよく知らないといけないから、日本に行って滝元家のことを見て来い」ということで、一年くらい来て見たらしいですが、帰ってからプロポーズしまして、今日は婚約式ということです。

 実はアメリカでは、婚約式という式はないそうです。アメリカの場合は、男性の方が「結婚してください」と申し込み、女性が受け入れるのが婚約式だそうです。今日はある意味において、日本的婚約式をします。みなさんも祝福してくだされば嬉しいと思います。

 今日はこれから御言葉を学びますけれど、今読んでいただいた聖書の御言葉をもう一回だけ読んでみたいと思います。みなさん一緒に読んでみましょう。ヘブル人への手紙十一章六節、

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

 今日はこの御言葉です。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。』今日はほとんどクリスチャンの方ですから、みなさんは神がおられることを信じていますね。『心で信じて義とされ口に告白して救われる』と書いてありますから、私たちは全能の神様がいらっしゃること、二千年前に神が人となって来られたこと、それから私たちのために十字架について死んでくださったこと、そして死人の中からよみがえって、今も天においても地においてもすべての権威を持っておられるイエス様を信じることはすばらしいです。
 しかし、信じてもこれからの人生を歩いていくには、いろいろ問題にぶつかったりしますから、信仰を働かせていかなければならない時があります。また時々、信仰があるようで、ない時もあります。
 
 アメリカのある地方で雨が降らなかったそうです。そして、教会で真剣に祈ったそうです。雨が降るようにと祈祷会を教会で開いたそうです。
 その時にお母さんが二人の子どもを残してこう言ったそうです。「うちでよく留守番していなさいよ。お母さんはこれから教会で雨が降るように祈って来るから」と出かけたそうです。
 そうすると、子どもたちがふと気がついたそうです。「あっ!お母さんは雨が降るように祈りに行ったけど、傘を持って行かなかった。雨が降ったら濡れるから、傘を持っていこう!」と、二人は教会へ出かけていきました。
 それで教会のドアを叩いたそうです。すると、お母さんが「なんのために来たの?」と聞いたそうです。そこで子どもたちが「雨が降るように祈るって言ったけれど、傘を持って行かなかったから傘を持って来ました。」と言いました。
 するとお母さんが、「なに言ってるの!見てごらん。雨なんか降るもんか!帰りなさい!」と言って、子どもたちは家に帰されたそうです。しかし、子どもたちが帰った後に、空に雲が出て雨が降り出したそうです。
 みなさんこれは誰の信仰かというと、お父さんやお母さんの信仰じゃなくて、子どもたちの信仰ですね。

 私たちは信じているといいながら、信じないところがたくさんあります。今日はここにあるように『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』という信仰を持ったら、神様が喜んですばらしいことをしてくださるわけです。信仰を持っていきましょう。
 ヘブル人への手紙十一章七節にはこういうことが書いてあります。

『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』

 旧約聖書を見ると、世界が造られた後、悪が増大して、神様は「一回全部なくしてしまおう」と、「洪水で滅ぼしてしまおう」と考えました。その中で、神様はノアという家族に目を留めました。
 ノアは聖書を見ると非常にすばらしい人だったようです。ノアは、『正しい人だった。その時代にあっても全き人だった』とあります。非常に堕落した時代だったけれど、ノアの家族だけは真の神を愛していました。そして、『ノアは神と共に歩いた』とあります。
 これを神様は見られて、「ノアの家族だけは助けてあげよう」ということで、「ノア、まもなく洪水で世界を滅ぼそうとしているけれど、あなたを滅ぼさないために、あなたはこれから箱船を作りなさい」と言われました。
 すると、百二十年とも言われていますが、長い間かかって家族中で大きな箱船を作ったわけですね。聖書を見ると、長さが三百キュピト、幅が五十キュピト、高さが三十キュピトと書いてありますけれども、だいたい一キュピトというのは聖書を見ると四十四センチですから、非常に大きな船だったと思います。長さが百三十二メートル、幅二十二メートル、高さが十三メートル。三階建てのような船です。
その時代は雨がなくても蒸気が上がったり下がったりしていました。しかしノアは神様の言う通りに箱船を作って、ノアの家族が入り、獣が一つがいずつ入った時に、四十日の間雨が降ったとあります。
 なぜノアは神様に喜ばれたかというと、「神様がおっしゃることは必ずなる。間違うことはない」と信仰を持ったからです。
 ですから、信仰とは何かというと、信仰という言葉を定義したら、「神の言葉を疑わずして信じ従うこと。」これが信仰ですね。
 みなさん、私たちには聖書があります。これは神の言葉です。神様の言葉というのは一つも間違いがないから、「神様は絶対嘘を言う方ではない。神が言われた通りになる。」という信仰を持つことです。だから、神の御言葉を疑わないで信じ、そしてそれに行うこと、それが信仰です。ノアは神様がおっしゃった通りのことを信じたのです。これはすばらしいですね。

 信仰は歴史を変えます。新約聖書で最初に出て来るのは、アブラハムです。
 みなさん、アブラハムという人によって、この地のすべての人が祝福されるとありますけれど、アブラハムについてヘブル人への手紙十一章八節を見ると、こういうことが書いてあります。

『信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。』

 アブラハムに、ある時、神様が現れて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩いて全かれよ。」そして神様がアブラムにおっしゃったことは、「さぁ、あなたは父から離れて、わたしの示す地に出ていきなさい」と言われた時、「示す地」はどことは言いませんでした。
 聖書を見ると彼は、『受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。』とあります。どこに行くかはわからないけど「出て行け。」「はい。」
 これは、アブラハムが神様を信じて、信頼していたのです。神様が出て行けと言ったら、神は道を備えてくださると、疑いませんでした。神様には絶対に間違いがない。こういう一つの信頼と信仰。神様に対して「絶対に神様の言われたことはそうだ。」

 私たちは、教会に毎週来ていますけれども、信仰に関する一つのパターンが聖書には出ています。聖書に「あの人がこういう具合に信じて、こういう風になった。私も真似をしてみよう。」というパターンです。みなさん、本当に信仰を持った人のことを真似したら必ず祝福されます。

 私がイエス様を信じたのは一九四九年二月二十日です。救われて、開拓伝道の為に自分の郷里に出たのが次の年の一九五〇年三月十五日でした。だいたい一年くらいで出たわけですが、その時私は、どうしても北設楽郡の津具には父も母も住んでいるし、「イエス様を知らなければ天国に行くことができない、伝道に行こう。」と考えました。
 その時にすごく父親が怒りました。伝道に帰ることを「帰ったから勘当する!」と怒っていましたから、密かに考えました。「そうだ。津具に帰ったら親父が怒るから、少しは怒っても音の聞こえない海老に行って伝道しよう」と思いました。それで私は一回海老に行って、視察し、家があり、職があったら伝道に出ようと考えました。
 それで私は、私を導いてくださったミセス穐近に相談しました。「先生、僕は自分の村に伝道に帰りたい。そのために海老という町に行って、家があるかどうかみて、職を見つけて、あれば伝道に行きたいと思います」と話したら、ミセス穐近という方はアメリカから来られた方で、日本語が少しわからなくて、誤解してくれたのです。「家があって、職もあるから伝道に行く」と理解したそうです。
 先生は喜んで「あら、良かったですね。行きなさい」と言われたのです。これから出かけて行って、あるかないかを調べてと思っていたのに、「あら、良かったですわね。行きなさい。」と言いました。
 私はその時に目が開かれました。「あぁ、そうか」と。家があって、職があれば、信仰がなくても誰でも行けますけれど、アブラハムのことを考えました。
 アブラハムは行く所を知らずに出て行ったと書いてあるから、アブラハムにできることは、僕にもできないことはない。アブラハムも人間ですから。「よし!私も出て行こう!」と、三月十五日に行く所を知らずして、トランク一つ持って津具の方に帰って行きました。

 結局、海老にはなくて、田口で探して、最後には自分の家の前に入ったわけです。しかし、あの時に伝道に出て良かったと思います。だから神様は今日まで、私を祝してくださったと思います。信仰によってアブラハムの真似をしたので祝されたと思います。ですから、みなさん信仰を持つことは非常に大切なことですね。

 先週はみなさんに祈っていただいたのですが、私は東北に行きました。六月二十七日に家を出て、宮城県の気仙沼に行きました。だいたい八時間かかりました。朝列車で一関まで行って、また列車で気仙沼まで行って集会をして、次の日は花巻で集会をして、その次の日は青森県の弘前で集会をして、その次の日は八戸で、その次の日は盛岡で、そして家へ帰ってきました。列車に乗る時間がすごく長いのです。
 こだま号を取ってくれましたので、豊橋から東京まで二時間ちょっとだったのですが、また東京から一関まで、仙台より上ですから長い時間です。みなさん、電車で行くということは、すばらしいことです。なぜかというと、聖書をたっぷり読む時間があるからです。人がどう思うかは構わない。聖書を出して一生懸命聖書を読んで行きました。
 私と家内が毎朝読んでいる聖書箇所があります。出エジプト記だとか、レビ記だとか民数記を読んでいます。ちょうど民数記を読んでいました。そこをよく調べた時に、民数記十三章十七節〜二十節に、こんなことが書いてあります。

『モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。』

 これはどういうことかというと、イスラエル民族が四百三十年の間、奴隷生活をして解放されました。そして、紅海を渡ってすばらしい奇跡を見ました。だんだんと約束の地に近づいた時、神様がモーセに、カナンの地に登って行って、よく調べて来いと言われたわけです。そこに住んでいる人、カナンの七つの民族ですけれども、「強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい」と言われました。また続けて読んでいくと、

『また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。』

 十二部族の中からユダから誰、レビから誰、ルベンから誰、それぞれ十二人が斥候に行ったことが書かれています。このことはみなさんよく知っていると思います。
 彼らが四十日ずっとカナンの地を見て来たそうです。イスラエルに行くとおみやげが売っていますが、よく見かけるのは、カナンの地から取った大きなぶどうを二人の人たちが担いでいる絵があります。すごいぶどうがあったと思います。
 私の所も今ぶどうが出来ていますから、またぶどうが出来たら聖餐式のために私が作ろうと思っていますが、この間、ある教会の兄弟姉妹が家に来て一緒に食事をした時に、ぶどうを見ながら、「いや〜、先生、すばらしいね。先生、ここのぶどうは虫が食わないんですね」というから、私は答えました。「全然食わん。消毒もしたことない」と答えました。「いや〜、すごいですね〜」と言っていましたが、数日経ってみたら、葉っぱがたくさん虫に食われていました。「あれ?」と思って、それから裏を見てみたら、いっぱい虫がついていました。「いや〜、虫が食わんなんて言ったけどやっぱり食ったな」と思いました。それから私は虫を全部手でつぶしました。でも、いいぶどうができると思います。しかし小さいです。
 しかし、カナンのぶどうは大きくて、棒を通して二人で担いだというのです。みなさんすごかったじゃないでしょうか。そして彼らは帰って来まして報告をしたわけです。報告した時に彼らはなんと言ったかというと、民数記十三章二十八節、

『その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。』

 彼らがこのように報告しています。アナク人というのは巨人です。「巨人がいましたよ!」それから三十一節〜三十三節を見ると、

『しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」』

 これは不信仰な人たちです。そして、

『彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」』

 彼は「いや〜、行ってみたらすごい所で、土地は肥えてるし、人々は大きいし、私たちはいなごみたいに見えましたよ。大きな家に住んで、城壁もあるし、これは私たちを食い尽くす地だ。うちの子どもたちが、みんな食い尽くされますよ」と不信仰な報告をしたのです。
 この不信仰な報告した時に、みんなは泣き出したというのです。「これからエジプトに帰ろう!誰か指導者を立てて帰ろう!」とわんわん泣いたのです。
 なぜ彼らが不信仰を持ったかというと、彼らは偉大なる神様を見ないで大きな家を見たのです。永遠に生きておられる神を見ないで人間を見たのです。彼らは目の前のものを見て、それで評価したのです。「うわぁ〜すげぇ。これはとてもじゃない。俺たちには勝ち目がない」と思ったのです。

 しかし、これとは対照的にすばらしい信仰を持った人たちがいました。それがヨシュアとカレブです。カレブがこう言っています。民数記十三章三十節、

『そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」』

 こういうことを言っています。二人だけでした。その内のカレブという人は、ユダの代表です。「みなさん、ぜひとも上って行ってそれをしましょう!必ずそれができます!」彼らは信仰を持ったわけです。そして、民数記十四章六節〜九節、

『すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』

 すごいことを言いました。その時、みなさん、反発した人は何をしたかというと、石でヨシュアとカレブを打ち殺そうとしたのです。その時に神様の栄光が現れました。
 みなさん、同じものを見ても、「わぁ!すごい!これは神様がくださるんだ!」という信仰と、「こりゃだめだ。あんまり大きすぎる。我々は勝てない。」という二つがあります。しかし同じものを見ているのです。
 ヨシュアとカレブが語ったすばらしい言葉が九節に書かれています。『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。』
 その次に、『彼らの守りは、彼らから取り去られている。』みなさん、どこがというと、人間の肉で見た人と、ヨシュアとカレブは霊的な目で見たのです。

 実はみなさん、明日はどういう日かというと、新城教会では忘れることのできない日です。二十年前に霊的戦いが始まった日です。あれから新城教会は霊的戦いということで、順牧師を始めみなさんが「敵は見える人じゃなくて悪魔だ!」と、悪魔との戦いを今日まで、二十年間続けて来たわけです。

 日本の教会には、いろいろと批判する人もいますが、先週私は弘前に行きました。弘前でどういう集会をしたかというと、アグローの集会に行きました。ここにもアグローを一生懸命されている方が何人かいらっしゃいますけれど、アグローの責任者の方がこう言いました。「先生、新城教会で始まった霊的戦い。初めはよくわからなかったけれど、最近やっと霊的戦いがわかって来ました」と言うのです。私が行ったことを期待していました。
 私は朝九時五十五分の電車で着いて、それから会場に入って、集会が十時半から始まって賛美が三十分間。それから会長さんが「さぁ、これから期待していた滝元明先生から話を聞きましょう。」
 私は「何分くらい話したらいいですか?」と聞くと、「十一時から一時まで話してください」と言うのです。二時間話をして欲しいというのです。
 二時間話した後で、それからみんなが祈ってくださいというのでお祈りして、その祈った後、また、「寺町にとりなしに行きますから、とりなしに一緒に来てください」と言われて、私も一緒に行きました。皆さん、すごく燃えていました。

 霊的な目が開かれたことは何かというと、ヨシヤとカレブは霊的な目が開かれていたのです。彼らも、巨人を見、大きな家を見、地を見、ぶどうを見たのです。しかしその時に彼らは、「なんだ。彼らの守りは取り去られている。」ということは、このイスラエル民族がエジプトから奴隷解放され、サタンたちは、「逃げろ!」と逃げてしまって、彼らに対する守りがなくなったというのです。
 聖書をあとから見ると、カナンの地に入ってエリコに行った時、斥候がラハブという遊女に出会った時、ラハブが言ったことは、「もうエリコの街の人たちはあなたたちの噂を聞いて、恐ろしくて恐ろしくて、ぶるぶる震えています。」と言いました。
 ということは、敵は恐れているのです。神の力がそこに来ていたのです。
 今日も昼から山に行ったり、あちらこちらへ行きますけれど、今日、目を開いて参りましょう。「あっ!新城に対する敵の守りはなくなった。豊川の守りがなくなった!豊橋も守りがなくなった!まもなくリバイバルがこの地に訪れる!」という目を開かなければなりません。
 「豊川稲荷は大きい」とか、「うわぁ、新城は難しいな。みんな仏教じゃないか。」というように思ってはいけないのです。そんなことは構わないのです。神様が働いて霊的に勝利をくださることを信じる事によって、勝利することができるわけです。

 しかし、不信仰を持つことによって神様が民数記十四章十一節でこうおっしゃっています。

『主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。』

 みなさん考えてみたら、イスラエル民族の人たちは昼には何がありましたか。雲の柱でずっと導いたでしょ。夜は火の柱。それから食べ物がないから、天からマナを降らせたのにも関わらず、信じられなかったのです。神様としては、「わたしをいつまで侮るか、馬鹿にするのか」と言われたのです。
 みなさん、今日みなさんの信じている神様は、よみがえって生きておられ、天においても地においても一切の権威を持っておられます。「いつまでわたしを信じないか。馬鹿にするな。」そう言われちゃいけません。「信じます!」と信じたら祝福されます。
 結果は、民数記十四章三十七節〜三十八節に書かれています。

『こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。』

 私はカレブとヨシュアが好きです。ヨシュアとカレブはカナンの約束の地に入ったと書いてあります。八十五歳の時にこう言っています。「私は四十年前と今と同じ力があって、若者と同じように戦うことができる!」私もその言葉が好きなのです。なぜかというと、今、私も今年四十三歳。じゃなくて、今年、八十三歳になります。あと二年で八十五歳、カレブと同じ歳になりますが、カレブと同じように「日本のリバイバルを見せてもらいたい!」と、信仰を持つか、不信仰か。どっちかということは問題です。みなさん、私が不信仰を持たないように、覚えて祈っていただきたいと思います。
 このことから私たちは信仰を持たなければいけません。私はずっと聖書を読んでいて、不信仰な人が何を言ったかといったら、こう言っているのです。「俺たちの子どもは餌食になる」と泣いた人たちはこう言ったのです。「主は、私たちを憎んでおられて、荒野に連れて来てここで滅ぼすためだ」と言っているのです。

 みなさん、エジプトから解放されて、蜜が流れている地に連れて行くと神様がおっしゃったのに、「神様は私たちを憎んでいるんだ。荒野で滅ぼすつもりなんだよ」と、こういっているのです。
 今日、みなさん「私は神様から憎まれている」と思っている人はいますか?だめです。憎まれていない反対は何かというと、愛されているのです。
 信仰がなくて喜ばれることができない土台は何かというと、「神は私を愛しておられる」ということを、絶対的に信じなければなりません。有名な御言葉ですが、第一ヨハネの手紙四章十六節を一緒に読んでみましょう。

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』

 みなさんここに、『神は愛です』とあります。「私たちは」という所に自分の名前を入れて読んでみたらいいと思います。「滝元明は、滝元明に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」
 今日初めて来られた方もいらっしゃるかもしれませんが、神様はみなさんを愛しています。ですからみなさん、愛してくださることを信じてください。どのくらい愛されていますか。このくらいですか?身代わりになって死んでくださったほど愛してくださる。イエス様は私みたいな罪人のために十字架にかかって死んでくださったほど愛してくださる。信じましょう。祝されます。

 信じた人にはこう書いてあります。第一ヨハネの手紙 五章十四節〜十五節、

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

 みなさんこれから神に愛されるということを信じたら、「何事でも神の御心にかなうことは、神はその願いを聞いてくださる」ということが私たちの確信です。
 「神様の御心にかなったことを願ったら、必ず聞いてくださる」ということがわかったら、「願ったことをすでに聞いてくださる」と信じなければいけません。

 聖書の中で、これも私が好きな言葉ですから、みなさん一緒に読んでみましょう。マタイの福音書六章三十三節〜三十四節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 ここに「神の国とその義とを、まず第一に求めたら必要が与えられる」とあります。この御言葉も、信じるかどうかです。信じて人生を歩く人は必ず必要が与えられます。最近私が与えられている御言葉で、好きな御言葉は、詩篇二十三篇六節の御言葉です。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 みなさん、本当にイエス様を愛してイエス様に従ったら、「いつくしみと恵みが私を追ってきます。」「神の国と神の義を求めたらすべての物が与えられますよ。空の鳥を見なさい。種を蒔くことも刈ることもしないけど、天の父が養っているでしょう。心配するな。」こういうことです。
 みなさん、信じますか?神を第一にしましょう。とにかくイエス様を第一にして、週の初めには礼拝を守って、御言葉をしっかり受け止めて、この間も順牧師がメッセージしておりましたが、「十分の一を捧げたら、必ず天の窓を開いて祝される」と語っていましたが、みなさん、これも信仰を持つか持たないかです。「十分の一?そんなに捧げたら俺は食っていけない」と思わないで、「はい、わかりました。」「天の窓を開いて溢れるばかりの恵みを与えてくださるのを試してみよ」というのも、これも一つの信仰ですね。ですからみなさん、一つ信仰を持っていきましょう。

 それからもう一つ。有名な言葉をみなさんで見たいと思います。使徒の働き十六章三十一節、

『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。』

 みなさん、今、みなさんの中で、親、親戚がすごく反対している人がいても、聖書の言葉は『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』という約束。これは信じるか信じないかです。「うちの親父に限っては難しい!」やっぱり難しい人もいます。
 私の父親たちもすごく頑固でしたけれども、かろうじて信じました。母親は八十三歳で救われて、九十二歳で天国に行きました。信じることです。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』

 この間、私は弘前に行った時に、終わった頃に一人の人から会長さんに電話がかかってきました。「どうしても滝元先生に会いたいです!」ということでした。実はその前の日に会いに来たそうなんですが、「間違えたので今から行きます!」ということで、「これからとりなしがあって忙しい」と言ったのですが、「それでもちょっとでも会いたい!」ということで来られました。ギデオン協会に入っている方で、私とほんの少し話をして、また、最後には帰る時間の待合時間にわざわざ追って来て、駅でお話をしました。
 その方がこういう本をくれました。「寺の中からキリストへ」みなさん読んだことがありますか。その日、私はすごく疲れて、盛岡から新青森まで行って、そこから弘前に行って集会をして、弘前から青森まで行って集会して、それでまた八戸に行って、向こうの先生が待っていて一緒に食事をしたりして、その日はどっ疲れていました。普段は風呂に入ってから眠りますが、八時頃ホテルに入ると、そのままベッドの上でばたんと寝てしまいました。目が覚めたら、翌朝の六時でした。十時間くらい寝ましたので疲れが取れました。
 それから、本なんかもらうと、嬉しいような嬉しくないようなところがあります。旅の重荷になりますから。でも、何をくれたのか読んでみようと思ってこれを読んだら、すごく恵まれました。

 この福井さんという方は大正四年生まれの方です。小さい時から悩みがあったそうです。死んだらどうなるか。死んだら天国に行けるか。仏教で地獄の話をするから、地獄に行ったらたまらん。地獄に行きたくない。
 年頃になって、坊さんから結婚を申し込まれて、寺にお嫁に行ったそうです。二十三歳の時に寺の坊さんと結婚したそうです。寺に行ったら、坊さんは聖職だから立派な人だと思って入ったけど、いろいろと問題があった。入ったはいいけど、寺の間の争いがあるし、坊さんたちの不品行はあるし、ある時二人の坊さんが自殺したというのです。すごくショックを受けて、「どうしたらいいか。自分は死んだらどこへ行くか」とわからないで、すごく悩んだそうです。
 戦争が終わった後、この人が洋裁の資格を持っていたから、寺の中で洋裁を教える塾を開いたそうです。そうしたら、いろいろな人が入って来たそうです。その中に中里紀子さんという方が入って来たというのです。
 この人は何で入って来たかというと、宣教師に聞いたそうです。「先生、寺に伝道に行ってもいいですか。」「いいですよ」ということで、「生徒になれば伝道に行ける!」と思って、この方は洋裁をやっている間、洋裁が目的でないから、「イエス様を信じたら天国に行けます。信じなかったら地獄に行きます。イエス様が十字架にかかって死んでくださいました」と一生懸命伝道したそうです。
 そうしたら、この福井さんという方は「イエス様を信じるだけで永遠の命を持つ」ということがわかり、びっくりしたそうです。「イエス様を信じただけで天国に行ける!仏教とは違う!すごい!」
 そうしたら、寺の坊さんが怒鳴り飛ばしたそうです。「馬鹿野郎!キリストの伝道するなら来るな!」とすごく叱られたそうです。
 だけど寺の坊さんが出張している時、留守に一生懸命伝道して、とうとうその寺の坊さんの奥さんがクリスチャンになったのです。
 そして罪が赦されたことがわかって、嬉しくて嬉しくてたまらなくて、それから四年後にバプテスマを受けてイエス様を信じたそうです。

 どこの人かといいますと、私は十三日からまた伝道に行きますから祈ってください。十三日は石川県に行きます。その次には金沢に行きます。それから富山です。ロン・ブラウンさんと一緒です。それから飯田へ行きます。これは長野県。それから上田にも行きます。それから前橋。軽井沢にも行きます。十日間くらい廻るのですが、この人は石川県七尾というところがありますが、そこの寺の坊さんの所に入った人でした。彼女はイエス様を信じて、バプテスマを受けて嬉しくて仕方がなかった。「これで死んでも天国に行けるー!」とすごく喜んで、そうしたらご主人がものすごく怒って、ある晩のこと、包丁をとりだして、「さぁ、どうだ!今夜やってやろうか!おまえが死なないなら、俺を殺せ!どちらかが死んだら解決がつく!」と出刃包丁を持って、奥さんを殺そうとしました。
 しかし彼女は我慢しました。主人がすごく迫害したそうです。殴られて痛くて痛くてたまらなくて、最後には布団かぶって耐えていたそうです。彼女は考えたそうです。「このままだったら主人に殺される。」
 そこで何をしたかというと、家出したそうです。逃げ出し、キリスト教の関係の施設に「助けてください!殺されます!」
 何年も隠れていたそうですけれど、子どもたちが「これじゃいかんから、お父さんと和解しなさい」ということで、お父さんと出会って約束をしたそうです。「絶対暴力を振らないこと。信教の自由を認めること。」

 しかし、いろいろと話をしたけど、別れて生活をしたそうです。けれども、やがてご主人も坊さんを止めて、「俺も聖書の話を聞きたい。」と言いました。今度は一緒に住んで寺の坊さんが聖書を読んだそうです。なんと最後には、寺の坊さんがイエス様を信じたそうです。
 最後に死ぬ時に「お父さん大丈夫?イエス様信じてる?」「うん」と言って、喜んで天に凱旋したそうです。
 みなさん、これは信仰です。どんなに迫害があろうとも、イエス様は約束されたことを必ず成し遂げてくださるということを信じた信仰によって、勝利したのです。
 みなさんこれからよく伝道してください。人を恐れないで、「あの人は頭が良さそうだな。あの人金持ちそうだな」とかじゃなくて、信じなきゃ救われませんから、みなさんもよく信仰を持って伝道しましょう。
 信仰なくては神に喜ばれることはできません。神に来る者は神がおられること、求める者には必ず報いてくださることを信じなければなりません。
 ということで、今日の話はここまでにします。信じますか?「アーメン。」信じますか?「アーメン。」はい、アーメンですね。一言お祈りします。

 愛するイエス様感謝します。今日、私たちのために死んで葬られ、よみがえられたイエス様を信じます。これから聖餐にあずかります。あなたがパンを取ってこれを割いて、「これはあなた方のための私のからだだ」とおっしゃいました。杯を取って、「あなたがたのための契約の血だ」とおっしゃいました。
 イエス様、主が来られるまでこれを守れとおっしゃいましたけれども、今日はこれから聖餐を守ります。私たちの犯した罪を血潮によって聖めてください。イエス様、あなたの打たれた傷によって病める人も、今日は信仰によっていやしてくださるようにお願いします。年老いた人も今日は若返るようにお願いいたします。どうかヨシュアとカレブを祝福したように、新しい油注ぎをくださるようにお願いします。
 イエス様の御名によってお祈りします。アーメン