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『リアルな信仰を持とう!』

2012.7.22(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也
ルカの福音書1章1~4節

『私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。』


 ハレルヤ!今日もみなさんの前で奉仕できますことを感謝いたします。今キッズゴスペルへの賛美聞きましたが、小さな女の子たちがあんなに小さくても英語でスラスラ賛美するのは覚えるだけで大変だろうと思います。以外に子どものほうが呑み込みが早いのかもしれませんが。彼女たちは、先日、新城駅前の小さなライブハウスでコンサートをしたら、とても好評だったそうで、十一月に行われる予定の新城音楽祭でも、ぜひ歌ってほしいと、オファーがかかったそうです。今晩は、新城教会でサマーフェスティバルが開催されますが、今晩も彼女たちが歌ってくださいますので、皆さん楽しみにしていてください。

今朝は、ルカの福音書一章一~四節までのみことばから、「リアルな信仰を持とう」というタイトルで学んでいきたいと思います。

ルカの福音書の著者はコロサイ人への手紙四章十四節に紹介されている医者ルカのことだといわれています。医者であったルカがこの福音書を書きました。
我が家では、毎朝の習慣として、NHKの朝ドラを見る習慣があります。「梅ちゃん先生」というドラマをやっています。皆さんの中で、「『梅ちゃん先生』を見ています」という方はおられますか?結構いますね。今、手を挙げかけて、さっとおろした方がいましたが・・・。恥ずかしいことはありませんので大丈夫です。見ていない方には、今から少し話すことが分からないかもしれません。
このドラマは、「梅ちゃん先生」という愛称の、女性の町医者の人生を描いたものです。おっちょこちょいだけど、人の為に一生懸命にがんばる梅ちゃん先生のドラマに「松岡」という医者が登場します。彼は梅ちゃん先生とは対照的に、大きな大学病院の若い研究医で、日夜最先端の医療を目指して研究を重ねているのです。職業柄か、医学だけでなく、何でも研究してしまう変わり者です。映画の見方から恋愛感情、果てはドーナツの穴がドーナツの一部と言えるのかどうかなど、何でもかんでも研究してしまう。誠実で心優しくて生真面目な、およそユーモアなど無い人柄なのだけど、その研究心の故に他の人とは違うユニークな視点で物事を分析する姿勢が、人柄をおもしろくさせている、大まじめにやっていることが周りの笑いを誘うような人です。このメッセージを考えながら、これは僕の感じたことですが、もしかするとルカは、そんな松岡医師みたいな人物だったのかも知れないと思いました。

聖書に福音書は四つあります。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネです。この中で最初に書かれたのはマルコの福音書です。それを参考にして、ユダヤ人に向けた福音書を書いたのがマタイです。同じように、マルコの福音書をベースにして、テオピロと言う人に向けて書いた福音書が、お医者さんが書いた福音書、ルカの福音書です。ヨハネの福音書は前の三つとは全く違った視点から書かれました。それぞれの目標を持って書かれています。
ルカの福音書一章一~四節
私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

ルカの福音書の書き方は、ここに書かれてあるように、「すべてのことをはじめから詳しく調べる」という点にあります。この福音書が書かれた時代には、多くのイエスさまに関する書物が発表されていました。マタイによる福音書では旧約聖書の救い主に関する預言をたくさん引用して、イエスさまがこれらを成就されたお方として描かれています。
ルカは、その事柄が正しいことなのか、どういう流れの中で起こったのか、詳しく聞いて調べて、テオピロという、イエス・キリストの人生について明るくない人物に、順序正しく書いて、報告書のような、研究論文のようなものとして献呈した。それが、ルカの福音書です。

新約聖書の書かれた年代を調べてみると、イエスさまが十字架の救いを完成され、まもなく世界で第一号のキリスト教会が建てられたのが十字架から五〇日後、西暦三〇年くらいのことです。それから新約聖書がイエスさまの弟子たちによって書き始められるのが、紀元四〇年ころです。そして最後の書巻であるヨハネの黙示録が書き終えられたのが、紀元九〇年代後半といわれています。ルカの福音書は六〇年代前半に書かれました。つまり、新約聖書のすべての書巻、マタイの福音書からヨハネの黙示録までの二十七巻は、イエスさまの生涯後八〇年以内に書かれている。この執筆年代が意味することは、何だと思いますか?

我が家で取っている新聞では、今年になってから、太平洋戦争中の悲惨な出来事を、実際に体験した人々の談話を元にした特集をシリーズで掲載しています。沖縄戦線や、南洋の島での玉砕から奇跡的に生き延びた人の体験談、シベリアでの抑留生活を振り返った手記、日本軍が大きな犠牲を払ったビルマ戦線やインパール作戦での悲惨な出来事などを生々しく書き記した記事が連載されています。その中には、玉砕覚悟の激戦の中で、仲間との死別を通して深く刻まれた心の傷を、今に至るまで持ち続けて生きている人々の苦悩がありありと描かれていて、何とも言えない気持ちになりました。
その連載のタイトルは「特集・連載 最後の証言」です。これらの連載に登場する人たちは、まさに生き地獄の日々を経験した人たちですが、今は皆九〇歳を過ぎたお爺さんやお婆さんになっています。この連載は、戦後六七年が過ぎようとしている今、これらの方々も高齢になり、将来語り口がこの世からいなくなって、この悲惨な出来事が人々から忘れ去られるまえに、記録として残して後生に伝えるということを目的として作られたわけです。

つまり、経験者の生の声を後生に伝えることに、「真実」という比類のない価値が備わっているのです。「真実」の故に、人々は深く感銘を受けるのです。

先ほど朝ドラの話しをしましたが、ドラマには二つの種類があります。それは「フィクション」と「ノンフィション」です。フィクションは作家が考えた作り話であり事実とは無関係です。対してノンフィクションとは実際の人物をモデルとして作られたストーリーです。「梅ちゃん先生」は前者で、その前にやっていた「カーネーション」は後者なわけです。フィクションはどれほど感動的であっても所詮は作り話です。しかし、ノンフィクションは、実話であるという特別な感動をもたらします。最近公開された「ソウルサーファー」という映画は、サメに襲われ左腕を失いながらもプロを目指して再起した実在のサーファー、ベサニー・ハミルトンの実話を映画化したものです。実際の彼女はクリスチャンだそうですが、映画の中でも彼女の信仰が現れていて、大変感動する映画だそうです。僕はまだ見ていませんが、DVDが出たら見たいと思います。

聖書はどちらでしょうか?言わずと知れた後者です。

ルカの福音書一章一~四節
私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

これは、ルカが自分の調べたイエス様についてのレポートが、脚色されたものではなく、間違いなく事実を正確に記述したものですよと、まえがきとして提示したものです。ちょうど中日新聞で連載した「最後の証言」と同様に、事実を目撃した人々が、自分が見聞きし、手で触れた、常軌を逸したものすごい体験を、罪の赦しを、永遠のいのちを、当時の世界に、そして、後生の全人類に伝えるためのジャーナリズムなのです。ルカの福音書は、まさにそういう精神で書き記されました。ジャーナリズムを辞書で見てみると、

ジャーナリズム【journalism】
日々に生起する社会的な事件や問題についてその様相と本質を速くまた深く公衆に伝える作業。

と書かれていました。

ペテロの手紙第Ⅱ一章十六~十八節
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

ここにも、イエス様と絶えず行動を共にし、後に初代教会の指導者として活躍した使徒ペテロも、「自分の目で見た」と証言して語り、聖書に記したのです。

ルカは、特に「いつ」「どこで」「だれが」「どのように」「なにをした」という、いわゆる事実を人にことばで伝えるジャーナリズムの基本を良く踏まえて福音書を書いています。

ルカの福音書三章一~二節
皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。

こんな朗読者泣かせなカタカナいっぱいの一文を占めているのは、ヨハネという人物の出現がいつ起きた出来事なのかという説明です。ルカは生真面目で筋を通し、裏を取るタイプの人ですから、くどいくらいに当時の世界の権力地図を描いて、イエスさまの公生涯に先立ち道ぞなえをした、ヨハネの出現の真実性を裏付ける時代背景を明確に記録しました。これはこの福音書の読者であったテオピロも、ある程度権力を持った人であったからだと言われています。

最近、日本人の持つ天国のイメージについて書かれた本を読みました。日本人の一般的な「天国」は、「極楽」と言い、鎌倉時代にできた「法然の説いた浄土宗」と「親鸞の説いた浄土真宗」を主体とするいわゆる「念仏仏教」から出ています。それ以外の日本の仏教諸宗派には、もともと極楽がありません。
浄土仏教の根幹と言える「極楽」の元になっているのが、「無量寿経」「阿弥陀経」などの教えです。これらは釈迦が説いたという形で書かれていますが、実は釈迦の時代から五百年も後の時代、紀元一世紀頃に編纂されたと言われます。また、この経典の作者はわかっていません。そして、その内容はおよそ現実とは言い難い、神話のような内容です。

無量寿経には阿弥陀如来の誕生と極楽浄土の完成について書かれています。簡単にまとめるとこんな感じです。

『久遠無量の昔、五十三の仏が世に出た最後に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)が出ました。ある時、ひとりの王さまがこの仏の話を聞き、富や権力のある王の位におりながら味わうことができなかった広大な世界があることを知りました。そして、王位を捨て(娑婆世界を越えた仏の道へ入られ)修行者となった。これが阿弥陀如来の前身である「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」です。
この法蔵菩薩が五劫(ごこう)という長い長い間思案をして、立てた願いを四十八にまとめ、「これらの願いを叶えるために私は仏になる」と、全ての生きとし生けるものの前に述べた。これが「四十八願(しじゅうはちがん)」です。法蔵菩薩は、この四十八の願いを成就するために兆載永劫(ちょうさいようごう:言葉では言えないほど長い期間)の修行をし、ついにその修行が終わって四十八願は完成され、極楽浄土ができあがり、彼は成仏して阿弥陀如来となった。極楽浄土ができて、法蔵菩薩が阿弥陀如来になったのは、今から十劫の昔だといわれています。』

劫(こう)は仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位で、一劫 = 約四十三億年です。どうですか?これを聞いてこの物語に「ほう、そうなんだ」と納得して、にわかに「極楽」を現実として受け入れることが出来ますか?ぼくにはできません。

さらに、天国がクリスチャンにとって最終目的地であるのに対して、極楽は通過地点です。すなわち、仏教の最終目的地は、「悟り」であり、極楽は苦しみのない美しい場所なのですが、「悟り」にいたるための前段階の仮の場所です。「悟り」とは、釈迦が到達した仏教の最も重要な教理であり、目指すところは、一切が空・無であることを知ることにあります。「諸行無常」とか言いますが、つまり、世界は全て実態のない空しいものであると言うことを知ることが「悟る」ということが、仏教の最終目的です。それを知ると、聖書の言う天国と極楽の違いを感じます。もちろん、先に申したように極楽の話し事態の真実味は、?なところが多々あるのですが。

テモテへの手紙第Ⅱ三章十六節
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

ペテロの手紙第Ⅱ一章二〇~二十一節
すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

旧約三十九巻、新約二十七巻からなる聖書は、書き始めから書き終わりまで実に一五〇〇年もかかっていると考えられています。聖書の多くの書巻に人の名前がついているように、聖書には四〇人もの人物がそれぞれの次代に様々な場所で書巻の執筆に当たったと言われます。異なった時代の、異なった身分の、異なった職業の、異なった場所で、書かれたにも関わらず、全体を通して完全な調和と統一性があります。「聖書は誰が書いたのか」と考えるとき、これらの人々が書いたと言えるのですが、今お読みしたみことばでは、聖書は神様の霊感によって成り立っている、聖書は人の意志によってもたらされたのではなく、聖霊によって神からのことばを語ったと書かれています。

聖書は、書き記された誤りなき神のことばであるが、いままで学んできたように、同時に歴史的な人間の言葉でもあると言えるのです。

ヨハネの福音書一章一節
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

主イエス・キリストは、まことの神であり、かつ、まことの人でした。神のことば、イエスさまそのものが二重性をもっている故に、書き記された神の言葉である聖書も、神ご自身が著者であり、神の導きを受けた人間が著者であるという二重性を持っているのです。

故に、神ご自身と神に導かれた人間が伝えたいと意図した神のことばを正しく理解していくためには、「そこで何が言われているのか」、「なぜそこで言われているのか」と問いながら、聖霊の導きを祈りつつ聖書を開き、また著者の意図をくみ取って理解する作業がなされる必要があるのです。そのためには、著者の人物像、書かれた時代背景などを調べることによって、書かれた言葉の本来の意味を深く知ることができます。これらの手続き全般を、「聖書釈義」といいます。

それに対し、聖書の釈義に基づいて、みことばが言わんとすることを神の導きを得ながら私たちの人生にあてはめていくことを目指す作業のことを「聖書解釈」といいます。

みことばの意味を正しく理解するためにも、みことばから人生の導きを得るのにも、神様からの助けと、私たち側の努力の両輪が必要なのです。棚ぼた式に「神様の助けだけいただいておこう」というのではうまくいかないと言うことですね。でも、そこが良いんです。サンデースクールなどに出てそのような釈義を身につけることは、助けになる。前回僕がここでお話ししたのは四月十五日でしたが、そのときは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」というみことばから、「みことばはあなたを守る」と題してお話ししました。それと同じですが、本当にみことばを良く味わい、心の糧にするときに、私たちの人生は必ず良くなります。幸せに生きることが出来ます。

滅多に世界に出ない天才と言われた二〇世紀の考古学者ウィリアム・F・オルブライトは「聖書の記述中、問題となっている大きな点は全部歴史的であることが、証明されている」と言っています。始めに読んだルカの福音書でもそうですが、聖書を書き記した人々は、実際に起こった出来事を、目で見て、体験し、あるいは耳で聞いて、調査して、正しく書いています。今私たちが読んでいるのは、その時代に生きていた神のしもべ達、クリスチャンが語った証言なのです。そこには、神様に関する生々しい告白で満ちています。神様がどれほど素晴らしいお方であるのか、良いお方であるか、私たちが敬い恐れなければならないお方であるか。また、神様を信じ、罪から離れて正しく生きることが祝福に繋がり、神様を信ぜず罪の中を歩むことがどれほど危険な、大変な目に遭う道であるのかを、聖書の中に登場する人々の生き様から、ありありと受け取ることが出来るのです。
皆さん、聖書を読んで下さい。良い人生を送る秘訣がそこにあります。「愚かな者は経験に学び、賢い者は歴史に学ぶ」とは、有名なことばですが、歴史に中には神様の正しさがにじみ出ているのです。

皆さん、家庭集会って恵まれますよね。日曜礼拝や、個人的な神様との交わりにはない、特別な恵みがそこにあると思います。僕は職業柄、毎週何日かは家庭集会に参加していますのでよくわかります。家庭集会の中で受ける大きな祝福は、クリスチャン達が各方面で体験した祝福の、生の証しです。これは、本当に素晴らしいもので、しばしばそのとき語られるメッセージよりもインパクトのある刺激を受けることが出来ます。神様が生きておられる物語を、それこそノンフィクションで見せられるのですから、本当に励まされます。新城教会では数多くの家庭集会をやっています。全部数えると三〇以上あります。皆さん、家庭集会に参加されていますか?ぜひ、一つ参加してみて下さい。

皆さん、今日は歴史を通して変わることのない神様がおられるというテーマでお話ししています。私たちは神様を肉眼で見ることが出来ませんし、信仰も形のない、物質的なものではないので、時々勘違いしてしまうのです。私たちが信じていることは、本当は雲を掴むような、無意味なものなんじゃないか?と。しかし、そうではありません。これは、リアルなのです。
私たちの持っている信仰は、歴史に裏付けられたリアルなものです。聖書が私たちに提供しているものは、神話やファンタジー、妄想などではなく、現実です。だとすれば、私たちの信仰も現実なのです。

先週の礼拝では順先生から、新城教会に主が霊的戦いを始められて二〇年が満ち、二十一年目に突入したとお話がありました。この二〇年間、神様は大きな恵みを持ってこの教会を導き、実を結ばせて下さいました。先週話されたスペインのホルヘ先生による働きもそのひとつです。彼は霊的戦いが始まって何年か後に、この新城で救われ霊的戦いの勇士とされました。この先生によって、西の果てにあるスペインで大きな実が結ばれています。これは新城教会の歴史の中に主が現わされた真実であり、神様が生きておられる証しです。聖書の中に生きておられる神様が私たちの中にも生きておられるのです。私たちの信仰生活を振り返ってみるときに、短い歴史ではあってもその中に、神様のわざを振り返ることができます。素晴らしい神様を誉めたたえましょう。これからも神様を心から信頼して歩んでいきましょう。

今日は夕方六時から、サマーフェスティバルがあります。二〇年前にもハートフルサパーという大きな集会がありました。今日は詳しく話せませんが、この集会と先週順牧師が話されたレッツプレイズが、新城教会にとって霊的戦いの呼び水になるような、大きな意味のある集会でした。今年も先週行われたレッツプレイズに続いて行われるサマーフェスティバルですので、神様の素晴らしい計画があるに違いないと思っています。皆さん、祝福を祈ってください。おいしい食事もありますし、楽しいゲーム、またキッズゴスペルや、インターナショナルの兄姉によるダンスもあります。ヘブンリーキングダムの賛美と、上條先生がゴスペルメッセージを語ってくださいます。今晩は時間を作って、ぜひ参加して下さい。ぜひ、お友達を誘ってお越し下さい。今日きっと神様が素晴らしい御わざを表してくださると信じます。そして、それも生の証として私たちの信仰を勇気づけることと期待します。これから、リバイバルに向けこの地に福音を投げかけていくために、働くことができるように。神様は決して、夢物語や作り話ではなく現実です。本当に頼れる神様です。だから、私たちは確信をもって神様を信じて、神様のために働いていきたいと思います。

お祈りします。
ハレルヤ天のお父様。感謝します。聖書の時代に生きていたクリスチャンたちが、あなたを目で見、手で触れた、感動の体験をもって全世界に出ていきました。彼らの言行録を私たちは手に取って読んでいます。あなたは、歴史の中にご自身が生きておられることを知らせておられることを感謝します。この、リアルな、現実の神様に私たちの人生をゆだね、生きていくことができますように。私たちに聖霊による導きと力を与え、さらにあなたの御前にみこころを知り、歩むことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。