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『神を信じなさい』

2012.8.12(SUN)
新城教会牧師 滝元明
ヨハネの福音書14章1節

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

マルコの福音書11章22節〜24節

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。先週の週報には、今日のメッセージは順牧師となっていましたが、私に変わりました。というのは、私は今週から沖縄に行きます。それで今度の日曜日、その次の日曜日も沖縄におりますから、そういう都合で変えたと思います。
 今からみなさんとご一緒に、聖書を学んでいきたいと思います。また、沖縄の働きのためにもお祈りください。沖縄には十日間滞在するわけですが、二日間くらいは沖永良部島に行きます。沖永良部島は鹿児島県になりますが、みなさんの中で知っている方もおられるかと思いますが、かつて茶臼山駅前の岡本さんの二階に住んでいた今栄さんご一家が、リバイバル聖書神学校を卒業して、自分の郷里、沖永良部島に帰って開拓伝道をしています。
 実は去年の九月、私は島に行きたかったのですが、ミッションの予定もあって行けませんでした。彼らは開拓伝道で苦戦しているので、ぜひ、行ってあげたいという願いを持っていまして、行くことを約束しました。ですから、みなさん覚えて祈ってあげてください。沖永良部島は、非常に小さい島です。
 沖縄から飛行機で行くのですが、その飛行機も小さいです。ですから、飛行機会社から「乗る人の体重は何キロですか?」とか質問され、それもちゃんと報告しなければいけませんでした。八人から十人くらいしか乗れない飛行機だと思うのですが、それに乗って島に行き集会をします。
 その後も、いろいろな所を周りながら集会をします。覚えて祈ってください。この度は、私とロン・ブラウンさん、エイミーさん、岩井一家、そして十日間も私の家内を残していくのもかわいそうですから、家内も一緒に連れて行くことになりました。十日間家内も守られ、沖縄の海の風で元気になって帰れるように、みなさん覚えて祈ってくださったら嬉しいです。

 これから御言葉を学びますが、今、講壇にこういう植物があります。これは「岩檜葉(イワヒバ)」といいます。この植物は普通、岩にぴたっと張り付いています。岩檜葉は不思議なことに、天気が続いたりすると枯れてしまったりします。しかし、雨が降って来て、水が入るとぱっと開くのです。死んだようでも、水を入れるとまた元気になる、ですから岩芝の呼び方は「蘇り草」、「復活草」とも言います。
 ちょうどクリスチャンも同じようなものだと思います。一週間、ある意味においてしぼんで、もうだめだと思うけれど、礼拝で御言葉を聞いて御言葉の水を受けると、ぱっと元気になり一週間勝利することができるわけです。
 みなさんと一緒に、これから聖書の御言葉を学んでいきたいと思います。今日の御言葉は、私の大好きな御言葉ですけれど、みなさんと一緒に学んでみましょう。ヨハネ十四章一節です。これはイエス様が十字架につけられる前に語られた御言葉です。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

 これは私の大好きな言葉です。イエス様が「心を騒がしてはいけない。心配せんでもいい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とおっしゃったのです。
 ここから私は日本中を回って話していますから、何百回話したかわかりませんが、とても好きなみ言葉です。
 今でも忘れることができませんが、一九七六年だったと思いますが、その時は、日本リバイバルクルセードでしたが、神戸で大きなクルセードを文化会館を借りて五日間開催しました。その時にこのメッセージをしました。来ている人たちに「今日は話を全部忘れてもいいから、この言葉だけ覚えて帰りなさい。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』」と、このメッセージを語りました。
 そうしましたら、新城教会からも大勢、神戸に行ったのですが、もうすでに天国に帰った岡本キヨ姉妹がいて、「先生!あのみ言葉、私は握りました!」と言われました。それから彼女は人生でいろんな問題にぶつかったりすると、『心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と、何回も言いました。

 みなさん、今日、この御言葉を自分の言葉として、心から神を信じたら、すばらしい人生を送ることができます。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』ということは、十字架につけられ、死人の中からよみがえられ、今天においても地においても一切の権威を持っておられるイエス様を信じなさい!ということです。

 信じるものがあるということは、非常にすばらしいことです。よく結婚式なんかを見ると感動しますね。花婿が「僕を信じなさい。僕が君を必ず幸せにする」なんて愛の告白をします。でも、何年か経った後に、愛が壊れてしまったりします。「あの人を信じる」と言うけれど、人間というのは信じていても時々、裏切られることもあります。けれども、イエスを信じるなら、裏切られることがありません。また、マルコの福音書十一章二十二節〜二十四節、

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」』

 ここに、「神を信じる」とあります。「信じる」ということはどういうことかというと、辞書を引いてみると、「疑わずに本当に思い込むこと」とあります。神様を疑わないで思い込むことです。
 神を信じなさい。信じます。心から信じたら幸せになることができると書いてありますから、人生の中で信じるものがない人は気の毒です。ですから、神を信じるという信仰をしっかり持っていくことです。
 どんなに頭が良くても「あなたの頭の良さを信じなさい」とか、金があって「金を信じなさい」じゃないのです。「神を信じなさい!」
 私たちは神を信じると、『初めに神が天と地を創造した』とありますから、天も地も創造されたすばらしい偉大なる神、「わたしは全能の神である。できないことはない。わたしはある。永遠から永遠まで生きている。わたしはよみがえった。」と、今日も生きておられる主イエス様を心から信じることによって、幸せになることができるわけです。

 そこで今日、みなさんと一緒に、『わたしを信じなさい、神を信じなさい』というその神様がどういう方かについて少し学んでいきたいと思います。
 申命記の御言葉を見てみたいと思います。私はこの言葉で、最近すごく恵まれました。ちょうど長野県にロンさんと行く前に、これを読んで感動しました。この言葉はこう書いてあります。申命記三十二章四節、

『主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。』

 私はこの御言葉の中で特に「あぁ、そうだ!」と思ったことは、『主は真実の神で、偽りがない。』という、この御言葉が私に非常に重くのしかかりました。私たちの信じている神、天と地を造られた主、よみがえられたイエス様は真実な神。
 「真実」ということは、「偽りがない」ということです。不真実ではありません。真実な神で偽りがない。
 私もクリスチャンになって今年で六十何年です。結婚して六十二年になりますけれど、過去のことを振り返るとイエス様は真実な神でした。偽ることもない神様です。本当に感謝ですね。詩篇三十一篇五節、これはダビデ王が語った言葉ですけれど、こういう言葉があります。

『私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。』

 ダビデという王様は、神に用いられた人物ですが、「この方は真実だ!」と思い込んだのです。信じたのです。「私の信じている神は真実な方です!」こういうことです。それから、申命記七章九節〜十節、

『あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。』

 ここにあるように、『あなた方が知っているように、あなたの神、主だけが神である。』と。みなさん、神様は唯一ですね。天と地を造った主なる神、永遠に生きておられる方、この方しか神はいないのです。
 その神様は『誠実な神である』と。誠実。誠実ということは、人間的な表現をすれば「真面目な神」ということです。真心のこもった神様。嘘を言わないのです。
 いろんなおつきあいをしていて、「いや〜、この方は本当に真実な人だな。真心のこもった、真面目な方だな」ということがあります。しかし不真面目な人もいます。
 時々、私もいろんな所を回っていると、牧師先生でも、「いや〜、この方は真実な方だな」と透き通ったような方がいます。「いや〜、この牧師、ちょっと信用できんな・・・」というような人も時々ありますけれど、誰かから見たら私のことも不真実だと思うかもしれませんが、「誠実」ということは、「神様は嘘を言わない、真面目な方ですよ。だから心配しないで信じなさい。」ということです。

 私の話は昔話が多いですが、私の人生の中で考えて、「あぁ、あの時言われた言葉」と考えます。私の原点みたいなことです。東京でクリスチャンになって一年の内に開拓伝道に入りました。親から随分迫害にあったりしましたが、田口で町長さんが「三日後にいらっしゃい。そうしたら、公民館に図書館を作るから君を入れてあげる。君みたいな人物が必要だ!」とすごく喜んでくれました。
 家に帰った時に父親が「馬鹿野郎!気が狂って帰ってきやがって!こんな所で働ける場所はないぞ!」とすごく怒られました。しかし私はるんるん気分でした。「いや、仕事はあるよ。」当時は、戦争が終わったすぐ後ですから、「仕事がどこにある?」と言われました。
 私は、「田口の町長さんが公民館に図書館を作るから、そこに入れてくれると約束してくれた。三日後に行く約束を取り付けて来た」と答えました。ですから、私はいくら父に怒られても、平気な顔をしていました。
 しかし、三日後に町長さんに会いに行ったら、町長さんが暗い顔をして、「それがね…、議会で話したんだけど、時期が早いということで、今ちょっと君を入れることはできない」と断られました。
 「いつ頃になったら雇ってくれるのですか?」と聞くと、「まぁ、二、三ヶ月も経てばなんとかなるとは思うけど…」しかし、これは断りなのです。

 私は雇ってもらえると思って有頂天でした。しかし、どんっとどん底に落ちました。私の信仰生活の中で、そんなに苦しかったことはありませんでした。親に捨てられるとか、兄弟に捨てられるということはいいけれど、私の信じていた神様が祈りを聞いてくれないということですから、私はその晩ある汚い宿屋に泊まって、悲しくて一晩中泣きました。「せっかく伝道に来たのに、家も職も与えられない、親にはあると言ったのに・・・」と、わんわん泣きました。
 その晩、一晩中眠ることができなくて、朝の四時頃、薄っぺらい布団の上に座って、「イエス様、あなたまで私を見捨てたんですか?」と泣きました。
 神様に見捨てられたと思うほど、悲しいことはないです。「なぜ祈りが聞かれないんですか?伝道に来たんです。親も捨てました。兄弟からも捨てられました。しかし、イエス様も私を捨てたのですか?」と祈りました。

 その時に、私は生まれて始めて、神の御声を聞きました。大きな声で、『我さらに汝を去らじ。汝を捨てじ。』と、あの時代は文語体ですから、神様も私に文語体で話してくれました。今の御言葉だとこういうことです。『わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない』という言葉ですけれども、『我さらに汝を去らじ。汝を捨てじ。』と、この言葉を聞いた時に、私はびっくりして、「イエス様!あなたですか?あなたでしたら、聖書のどこにそんなことが書いてあるのか教えてください」と聞きました。
 私は救われて一年くらいしか経っていませんでしたから、あんまり聖書に詳しくありませんでした。その時に「聖書のヘブル書十三章五節を開け」と言われて、私は聖書を開きました。すると、そこにありました。『我さらに汝を去らじ。汝を捨てじ。』
 私はその時に立ち上がりました。神様が見捨てないから大丈夫だと。どんなに親から反対されてもやっていく。「できる!」と確信を持ちました。

 みなさん、今日まで、私は六十何年、イエス様は真実であり、見捨てることなく、見離すことなく、ここまで来れました。
 それからも、よく親の迫害にあって悲しくて山の中に入ってお祈りしましたけれども、もう一つの言葉も私がよくみなさんにお話しする言葉ですけれども、ヘブル書六章十三節〜十四節の言葉を、私に語りかけてくださいました。

『それ神はアブラハムに約したもうとき、さして誓うべき己より大いなる者がなきゆえに己をさして誓いて言いたまえり。われ必ず汝を恵み恵まん。汝を増やし増やさん』

 聖書は『御言葉が開かれると光を放つ』とありますけれども、本当にイエス様が私の前に立たれたみたいに、『われ必ず汝を恵み恵まん。汝を増やし増やさん』と言われたのです。今の言葉では、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。』
 六十数年の間、私が手放さないみ言葉は『われ、必ず汝を恵み恵まん。増やし増やさん。』という言葉を信じてきました。

 これは自慢話ではなく、私は家内と結婚して六十二年になりますけれども、今日まで考えるとイエス様が『恵み恵まん。』と語られたとおりに、恵まれました。新城教会がここまで来たことは、神しかないのです。
 そして、『増やし増やさん』と聞いた時に、私は結婚する前でしたから、「いや〜、結婚したら子どもが大勢できるのかな〜」と思いました。私の家内はその時二十七歳でしたから、そんなに子どもはできないと思っていました。
 私の両親のところに家内が来て、「はじめまして。清子でございます」と手をついた時、みんながじろっとにらみつけ、「よくもうちの小僧を騙したな」というような目で見られ、「あんなやせっぽちが子どもを産めるのか?」と兄嫁が言いました。
 しかし、なんと家内は八人子どもを産みました。一人は天国に行きましたけれども、今、七人の子ども、孫が二十一人、ひ孫が十四人、九月にはもう一人産まれるので十五人になります。
 私も数えてみました。嫁のこと、婿のこと、全部で何人くらいになったかというと、六十人くらいになりました。
 神様って決して嘘を言いません。『必ず恵み恵まん。増やし増やさん。』みなさん、信じたことに裏切らない神様ですから、信じたら絶対に裏切ることはありません。今、どんな境遇にあっても、どんなに苦しくても、「神を信じます。」と、心から信じることです。『疑う人、二心の人は何も受けることができない』とありますけれども、信じ続けていくことが非常に大切です。

 私も、イエス様を信じたら、空の鳥でも神様は養ってくださる。鳴くカラスの子に餌をあげるのは誰か?ですから、本当にイエス様を信じたら、必ず必要なものをくださると、信じてきましたけれども、今日まで必要なものが与えられました。

 一九八一年四月、今は上條牧師ですが、実が来て、「おとっつぁん、俺、四月二十九日に結婚式をしたい。」「おぉ、そうか。」今度は、リソスでドラムを叩いていました治が来て、「お父さん、俺、六月七日に結婚することにしたで頼むよ」と言うのです。「おぉ、そうか。」そうしたら、今度は望が来て、「親父、十一月二十三日に俺結婚式するで頼む。」と言いました。一年に三つ結婚式です。
 ちょうどその年に、ドイツに招かれて集会をして、それからアメリカにも行くことになりました。そうしたら私を導いてくださった先生が、「滝元兄弟、大丈夫か?三人も結婚式をして、アメリカにもドイツにも行ったりして、経済的に大丈夫か?」と言いました。
 「先生。先生が私に教えたことは、神の国と神の義を求めたら必要な物は付け加えられると言われたんじゃないですか?」と答えました。すると、「それはそう言ったけどな・・・。」
 みなさん、感謝なことに神様がすべての必要な物を与えてくださいました。

 今、どうであっても、神様を信じることです。「アブラハム、神を信ず。」アブラハムはなぜ祝福されたかというと、「アブラハム、神を信ず。」信仰によって義とされたとあります。今、私たちは、「全能の父なる神を信じます。またよみがえられたイエス様を信じます。聖霊なる神を信じます。」信じることによって、すばらしい人生を送ることができるわけです。
 しかし、現実的には時々信仰の世界にはいろいろと戦いがあります。私の人生もいろいろと戦いがありました。しかし私たちの戦いは聖書を見ると、有名な言葉ですけれども、エペソ人への手紙六章十二節、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 みなさん、クリスチャンになったら、何でもさーっと行くわけではありません。敵がいるのです。信仰に入ろうと思うと、「やめとけ、やめとけ。信仰を捨てろ、うまくいかんぞ」とか、悪い声が聞こえるのです。しかし、信じることです。「大丈夫。私は神を信じました。」信仰を持つことです。

 聖書を見ると、ダビデ王様は、歴代誌だとか、サムエル記だとか、列王記なんかを見ていきますと、ダビデの生涯というのはほとんどが戦いです。戦いの人生です。彼はベツレヘムで羊飼いをしていて、神様から特別に見込まれました。「あっ!この少年、見込みがある。」それで油注がれました。そして、ゴリアテと戦ってゴリアテをやっつけた。それから今度は王様の娘のミカルと結婚しました。しかし、王様のサウルが妬んで、彼を何回か殺そうとしました。七年間、ダビデは逃げ回りました。
 しかし、ダビデはえらい人だったと思います。ダビデがある時のこと、洞穴の中に逃げ込んで家来と隠れていたら、そこにダビデの命を狙っていたサウル王が用足しに入ったというのです。そうしたら家来がダビデに向かって「今こそ主があなたにサウルを殺す時を与えられました」。
 しかしダビデは、サウルが用足しをしている時に、着物だけをさっと切ったのです。彼は良心をとがめられました。「いかん、油注がれた王には絶対手を出しちゃいけない。」そこで、彼が用足しを終えた時に、「王様!ちょっと待ってください!」「おまえは誰だ?ダビデか?」「はい。王様、今あなたの命を神がくださったけれど、私は王に手をくだしませんでした。見てください。ここにあなたの着物の切れっ端があります。」サウルも泣きながら、「ダビデ、おまえは俺よりも正しい。」

 聖書を見ると、私の好きな御言葉ですけれども、第一サムエル記二十五章二十八節に、アビガイルというナバルの妻が出てきます。ナバルというのは「愚か者」という意味で、ダビデが祭りのお祝いに何かくれと言った時に、罵って返したのです。
 その時に、ダビデ王が「今まで守ってやったけど、本当にあいつは何の恩もしらない。さぁ、ついて来い!」二百人くらいを連れて、「明日の朝まで、あのナバルの家のやつらを全部殺してしまおう!」と言いました。
 ナバルの奥さんのアビガイルは、すごく美人だったそうです。そこに家来たちが来て「奥さん、ダビデが私たちをいつも守ってくれていたのに、ご主人は罵って返しました。きっとダビデが来て、私たちを殺しますよ。」
 アビガイルはナバルに黙って、すぐにたくさんの贈り物を持って、ダビデの所に行きました。ちょうどダビデが剣を帯びて「明日の朝までに、ナバルの家には一人も残してはいけない。今まで良くしてやったことが無駄になった!」と言っていたときに、アビガイルが来ました。
 アビガイルは「ちょっとお待ちください。王様。実は私の夫の名はナバル。それは、愚か者という意味です。あの人のいうことを、どうか気に留めないでください。私がその時にいなかったからです。どうかこの贈り物を受け取ってください。」と言いました。その時に、こういうことを言っています。第一サムエル記二十五章二十八節、

『どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。』

 こういう言葉を語りました。『ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。』
 今の時代の戦いとは違い、これは戦争ですけれども、ダビデは偶像礼拝者たちと戦っていました。ここに『ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。』と語ったのです。

 新城教会はどうでしょうか?一九九二年七月九日からでしょうか。霊的戦いが始まりました。今、順牧師はじめ、みんなが霊的戦いのために一生懸命やっております。ある人は批判する人もおります。「霊的戦い。悪霊との戦い。あんなことばっかやっててもいいか」と悪口を言う人がいますけれども、これは主から出たことで、悪口を言ってはいけません。

 これは、『主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。』
 みなさん、信じなければならないことは、霊的戦いを通して、必ずリバイバルが来ます!信じますか?信じましょう。信じることです。

 みなさん、私たちの戦いは血肉ではないと書いてありますけれど、私は一年くらい津具鉱山で働いて、今度は八橋という所に引っ越しました。引っ越した家のすぐ上が八橋神社でした。今考えてみると、やっぱり悪霊が妨げたと思います。随分いろいろな迫害がありました。私の父親が心配して、「明の小僧。八橋に行くとみんなから嫌われるぞ。」と言いました。すると本当に反対する人がいました。
 すごくキリスト教が嫌いなおじさんがいて、ある時のこと私が道を歩いていたら、「やい、小僧!待て!」「なんですか?」「てめぇ、外国の宗教なんかこんな所で伝道する必要はない!」と、すごく怒られました。「日本には日本の宗教がある!」と言うのです。「日本の宗教ってなんだい?」と聞くと、「仏教だ!」と答えるので、「仏教?あれはおじさん、インドから、ネパールの近所から出たやつじゃない?あれは外国の宗教だ」というと、「嘘を言うな!」とよく私と喧嘩しました。
 道を歩いていると、「やい、小僧!ちょっと待て!てめぇな、毎日一日千円くらいアメリカから金が送られて来てるというじゃないか」というのです。
 私の給料はその時分いくらぐらいもらっていたかというと、八橋マンガンで一日の給金は三百円でした。その当時、一ドルは三百六十五円でしたから、一ドルです。一生懸命稼いで働いて、汗かいて働いている私を捕まえて「貴様、一日千円もらっとると言うじゃないか!」と言うのです。
 私はその時、「誰がそう言った?みんなって誰だ!言ってみろ!」私はすごい喧嘩をしました。「一日千円もアメリからもらっていたら、こんな鉱山では働かんよ!」とものすごい喧嘩をしました。やっぱりサタンも偽りを入れて来るのです。

 しかし、一番困ったことは、秋が段々近づいて私の家のすぐ上に神社があり、祭りが来る。それまでは感謝なことに八橋には、いい人もたくさんいましたが、祭りが来たら困ったなぁ、と私は思いました。
 八橋の分校の生徒のほとんどが日曜日には教会に来ました。ある方は「イエス様はすごいな。みんな教会に行く」と誉めてくれたけれど、「これで祭りで妥協しなかったら、きっと迫害があるな。」私は考えました。どうしたらいいか・・・。
 祭りの時に、なんとか逃れる道はないかと、真剣に考えました。「イエス様、ドでかい台風を送ってください。それで神社がつぶされるようにお願いします」と祈りました。でも考えてみたら、神社が潰れるくらいだったら、私の家も潰れますから、これもまずいなと思いました。それで私も悩みました。どうしようかな。どうしようかな・・・。
 それで聖書を開いた時に、主が逃るべき道をくださいました。どういう御言葉かというと、第二テモテ三章十二節の御言葉でした。これをくださいました。これは文語体で、

『おおよそキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過ごさんと欲する者は迫害を受くべし。』

 今の訳し方では、『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。』、文語体は『おおよそキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過ごさんと欲する者は迫害を受くべし。』

 私は「わかりました。これが逃るべき道。」その晩、村の議員やってる人だとか有力者の人たちが寄付金を集めに来て、「ごめんください。滝元さん。あのね、祭りが来るんだけど、今寄付金を集めています。ちょっと見てください。お隣の人はいくら。お隣の人はいくら。お宅は神社の下でしょ。だからたくさん出してくださいよ。どうですか?いくらぐらい出してくださいますか?」
 私は、「一円も出しません。」

 彼らはびっくりしていました。「どうして?」「私は、天と地を造った真の神様を伝道しています。この神社は戦争中も嘘を言った偽りの神ですよ。神じゃないから私はそんな偽りの神に金を出すことはできません。」「出せないんですか?」「はい、出せません」と言いました。
 すると、「がらがらぴしゃん!」と戸を閉めて帰って行きました。それから村人たちが集まって「あの滝元のやつは神社の下におりながら金も出さん。やっつけろ!」と言いました。その時から子どもたちが親に扇動されて、道を通りながら「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン。」と言ったり、家の中に石を投げ込んだり、鉱山行く時に「おはようございます!」とあいさつすると、いつもは「おはようございます」と言っていたのに、「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン」と言うのです。
 私は彼らは気の毒だと思いました。二、三人だと悪口を言うけど、一対一だったら言わないのです。言ったらいいじゃないか。しかし、そこで考えました。私はこの人たちに生ける真の神を伝えるために来た。だから絶対に妥協することはできない。
 それから、借りていた家を買ってくれと言われ、買うことが出来ず新城に来ました。
 しかし感謝なことに、八橋に行ったことによって、清崎で見城姉妹が救われ、岡本姉妹が救われ、新城に来れました。そして新城で元ダンスホールを買いました。なんでかというと、私の結婚に反対していた父と母が「おまえたちはいい働きをしているから、山をあげる」と言って山をくれたからです。それを売って、いくらでダンスホールを買ったかというと、十四万七千五百円で買いました。二十二坪でした。そこで七年間伝道しました。

 私は今までに三回、組長をやりました。区長さんに言いました。「もちろん組長はやりますけれど、私はクリスチャンなので、偶像関係はやりません。神社の祭りだとか、一切、寄付金集めたりするようなことはしません。」
 区長さんは「そうですか。では私がみんなに伝えます」と言って、「みなさん、聞いてください。滝元さんは宗教的な理由で神社費を集めるとか、神社の祭りはしないということですから、誰かが代わりにやってください。次に組長となる人にやってもらいましょうか。どうですか?」
 そうしたら、次の組長になる人が、すぐ隣の家の人で、学校の先生をやっている人でした。そうしたらその人が怒り出しました。「なに!キリスト教ってそんなものか?貴様たちなんだ!いつも、でけぇ声出して歌いやがって!あれは歌っているんじゃない。怒鳴っているんだ!」と言って、当時の教会は四軒長屋でしたから、賛美がよく聞こえるわけです。「本当にやかましい!おまえたちキリスト教はそんなもんか!」
 「そんなもんだよ。あんたね、これからの日本を救うために、青年たちが喜んで賛美しているのに、喜べないのか?」と私も喧嘩しました。
 ちょうど田中先生が救われた頃で、「なんだって?罪から救われた。罪ってなんだ?」
 私は、「あの人たちは酒もタバコも飲まなくなって、悪い遊びもしなくなって、聖らかな生活をしています。」すると、その先生が「酒飲むことのどこが悪い!」「何?学校の先生のくせに、そんなことがわからんのか!」と、私はかんかんに怒りました。すると、幼稚園の園長先生が、「やめてください。私がやります。」
 私は彼に「あんたね、僕は殺されたって恐ろしくないよ。」
私はいつでも、イエス様のためだったら殺されたっていいと思って来ました。今日、教会がある意味で祝福されたことは、真理に堅く立って、サタンに立ち向かったからです。今は特に、もう一歩進んで、霊的戦いがあるということは、希望を持ってください。この街がみんなクリスチャンになるように、みんなで信仰を持ちましょう。信じることです。

 それからもう一つ、私たちの信じる神様はどういう方ですか?二〇〇三年一月二十八日に早天祈祷会がありました。私は少し早く出て行って、聖書を読んでいました。その時、あたかもイエス様が私の前にお立ちになったかのように、語りかけてくださいました。その言葉は、今でも忘れることができません。ダニエル書十章十九節、

『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』

 みなさん、昔、今のイラクかイランだと思いますが、チグリス川のほとりでダニエルという人に神が現れ、語られた言葉です。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』
 みなさん、一緒に言ってみましょう。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』

『彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。』

 この御言葉を聞いた時、私は大泣きしました。『神に愛されている人よ。』と、ダニエルに語られた言葉を、神様は私にも語ってくださいました。今日、みなさん、信じてください。私たちの信じる神様は、愛の神様です。みなさんもう一回読みましょうか。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』
 みなさん、神に愛されいてることを信じたら、恐れがなくなります。『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』心配事もなくなります。弱い人も強くなります。神が私と共におられる。
 私の好きな言葉をもう一つお読みします。申命記三十三章十二節、

『ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」』

 毎朝、私と家内は、必ず五曲くらいざわめきを歌うことにしています。私は関心します。いや〜、すごいな。誰が作った曲かというと、うちの息子の開が作りました。つい先週も、仙台に集会に行きました。内藤智裕先生の教会に行った時に、智裕先生が台湾に招かれたそうです。台湾に招かれて行ったら、向こうの歌をいくつか歌ってくれたそうです。そして「一つだけ日本語で知っている歌を歌います。」と言って歌ってくれた曲が、この歌だったそうです。「主に愛されている者」

 今日はみなさん、主に愛されていることを信じましょう。どのくらい愛していてくださいますか?イエス様が私たちのために死んでくださったほど、愛していてくださいます。十字架の上に身代わりになって死んでくださったほどに、神様は愛していてくださいます。だから『心配するな。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』
 みなさん、一緒にこの歌を歌いましょう。

♪主に愛されている者、彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼は主の彼肩の間に住むかのように♪

 みなさん、神を信じましょう。誠実な方です。真実な方です。偽りがありません。一緒に戦って勝利してくださる神。私たちを愛してくださる神様を、心から信じてこれから幸せな道をいきましょう。もしみなさんの中にまだ信じていない方がいらっしゃったら、今日は信じてください。神を信じます。
 一言、お祈りして聖餐にあずかりましょう。今日みなさん一緒にお祈りしましょう。今日、私も信じます!疑わないで信じ込みます!そして、イエス様の十字架の愛を心から感謝して、お祈りして聖餐にあずかりたいと思います。一言お祈りします。


 愛する天のお父様、心から感謝します。『あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』『イエスは答えて言われた。神を信じなさい』とおっしゃいました。今日、信じます。あなたは偽りのない真実な神様です。また戦いの中で共にいてくださる神様です。また愛していてくださる神様です。今日は、十字架の上で身代わりになって死んでくださったほど愛してくださったイエス様、感謝を込めて聖餐にあずかります。今日、聖餐にあずかる一人一人の上に祝福がありますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。