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『あの日から20年。
収穫の日が来ました!』

2012.8.19(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
第1サムエル記7章1節〜2節

『キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。』



 ハレルヤ!おはようございます。今日は暑い中、主を礼拝する為にお集まりいただき、心から感謝します。たぶん「お休みは今日で終わり。明日からは現実の世界」という方も多いのではないかと思います。もうすでに、お仕事が始まっておられる方もいるかと思います。
 昨日はこの辺は大雨が降りまして、洪水になってしまうのではと思うほどでした。暑いやら、大雨が降ったりと、いろいろ気象条件が激しい地に住んでおりますが、最近、フィリピンでも大雨があり、洪水があったそうです。それで、こんな写真が届いています。

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 フィリピンの方々は雨にも負けずというような、環境適応がいいですね。洪水もこんな風に楽しんでいます。

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 ここでお茶をしています。

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 逆境の中にあっても、感謝できるようになりたいものです。

 今日はみなさんと共に、今読んでいただきましたサムエル記第一、七章一節〜二節から学んでいきます。
 「主の箱」がキルヤテ・エアリムにとどまって二十年が過ぎました。それは「長い年月」だと記されています。二十年が経ったというのです。その時、『イスラエルの全家は主を慕い求めていた。』という記録です。

 昨年の七月に、この箇所から一度学びましたが、近頃私は、霊的戦いが始められて二十年が経過したということで、歴史にこだわりながら、「収穫の時が来ました。」というタイトルでメッセージを続けて語っています。今日は、「収穫の日が来ました」と、時を「日」に変えてタイトルとしてみたのですが、何か主が、二十年を経たこの日に、勝利を与えてくださるのではないかと期待しています。
 私たちが信じ、期待する所に主は働いてくださいます。聖書の「あの日から二十年が経ち、イスラエルにリバイバルが起こった」という記録と、私たちの中に起こされた事柄を重ね合わせ、主の前に出る時に、主は祈りに答えてくださるのではないかと期待しています。

 先週は霊的にはちょっと大変な週でもありました。なぜなら八月十五日は終戦記念日でした。それは日本が苦しみにあった記念日でもあり、「盆」の週でもありました。日本全体で死者礼拝が盛んに行われた週でもありました。
 教会には突然のことが、よくあるわけですが、先週は葬式が二つありました。一つはNさんという方で、以前奥様が教会に来られていた方で、奥様は主を信じて天に帰られました。先週は、そのご主人が亡くなられ、葬式を行わせていただきました。
 もう一つはちょっと悲しい出来事がありました。インターナショナルの部会に所属していた、グスタボ君という四歳の男の子が亡くなりました。彼は二歳の時に小児癌が発見され、二年以上に渡って、名古屋で闘病生活を続けていました。しかし残念ながら先週、天に帰って行きました。両親にとっての始めてのお子さんで、本当にかわいい子でしたが、たった四歳で天に帰って行き、葬式が行われました。本当に悲しかったです。

 人生には、いろんなことが起こります。教会の働きが徐々に拡大すれば、裾野も広がりますから、様々なことが起こって来ます。けれども、そんなただ中にイエス様がおられるということは、私たちにとって大きな励ましであり、希望です。伝道者の書三章十一節にこんなみ言葉があります。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 私たち人類は神が行われることを、すべて知ることはできないのです。信仰生活の中でも、「なんでこんな事が起こるのだろうか・・・」、「長い間祈って来たのに・・・」また、「心から神に仕えて来たのに」と、疑問が残るような結果の時もあります。
 しかし私たちが知らなければならないのは、神の行われることを初めから終わりまで見きわめることは出来ないものの、神のなさることは、「すべて時にかなって美しい」のです。私たちは、神と被造物との、厳然たる立場の違いがある事を知る必要があります。

 『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』のです。私たちから見ると、「何が美しいんだ・・・」と思えるようなこともありますが、神の「永遠」というスケールから見るならば、それはすべて神の時にかなって美しいのです。
 寿命も、人間側からの尺度から考えると「この人は八十過ぎまで、九十過ぎまで、えっ!百才までも生きたのですか!長生きですね!」と評価します。しかし、「四歳で亡くなったのですか・・・。かわいそうだ」と言います。けれども、永遠に存在されている神の側から見るならば、『一日は千年のごとく、千年は一日のようだ』と言われます。私たちが神の前に一日生きるならば、それは千年生きたのと同じくらい価値があり、同時に、人間にとって千年というスケールも、神にとっては一日と同じようなものだというのです。

 私たちのスケールと神様のスケールとは、ちょっと違うのです。ゆえに、「いろんな事があるかもしれないけど、神が行われる事はすべて時にかなって美しい」と言われます。信仰によって、人生に起こる事柄を捉えなさいと聖書は告げています。
 私はグスタボ君と何度も一緒に祈ったのですが、残念ながら天に帰っていきました。しかし彼は四歳でしたが、戦いの勇士でした。彼と出会ったときは、いつも戦いの剣を受け取る祈りをしました。彼はいつも剣を振って祈っていました。最後の最後まで、彼は戦い、天に帰って行きました。
 私たちは「彼の人生に、何の意味があったのだろう・・・」と理解できない部分もありますが、神の目から見たら、その四年間は、他の誰とも比べることのできない、重要な人生であったに違いないのです。
 しかし一方では、人が平均的寿命を生きることができるように、とりなして祈る必要もあると思います。

 七月、八月は、ある意味で「死」を連想させる月かもしれません。東三河は特に、七月には設楽が原の戦いの記念日がありました。一五七五年にこの周辺で一万六千人も死にました。また一九四五年八月七日には豊川海軍工廠で、ほんの二十数分の爆撃で、二千五百名ほどの若者たちが命を落としました。原爆の記念日、終戦、盆も重なり、死を連想させます。
 しかし私たちクリスチャンには「永遠のいのち」があることを、しっかりと受け止めて日々を生きる者でなかったらいけないと思います。
 グスタボ君のお葬式はフェルナンド先生が行いましたが、私はNさんの葬式で司式をさせていただきました。百数十名の方々が集まりました。教会で行う葬式はいいですが、一般の葬儀場なんかを会場として行うと、アウェイでありまして、会場は線香臭いし、あまり気持ちの良いものではありません。
 私は昨日、そこで何をお話ししたかというと、「誰でもこの日が来る」という話しをしました。

 「死後の世界観」には、大きく分けると四つくらいあると思います。
 一つ目は、「人は死んだら消えてなくなってしまう」という考え方です。シャボン玉のように、ぱちんっとはでて、宇宙のどこを探してもそのかけらすら見いだすことができないという考えです。
 それならばどうでしょうか?一生懸命働いていますが、死と共に、何もかも消えるとしたら、そんなに虚しいことはありません。
 二番目の考え方は輪廻です。輪廻とは、人が死んでも四十九日もすれば、この世に生まれ変わって来るという考えです。しかし、一度輪廻地獄に陥ったら、二度と再会は果たせないのです。何に生まれ変われるのか、全く保障もありません。人に生まれ変わるのか、犬に生まれ変わるのか、虫になるのか、また鬼になるのか、保障は全くありません。
 輪廻したら、みんな追いかけっこです。「主人が死んで輪廻して蝉になった」としたら、蝉は大半を土の中で過ごすわけです。地上に出て、ミンミンミンと七日くらい鳴いたら、ぽとっと落ちて死ぬのです。続いて奥さんが犬になったら、蝉になったご主人と二度と会うことはできません。悲惨な輪廻じゃございませんか。

 日本人は輪廻を信じてはいますが、一番強く握っているのは「人は死んでも、霊魂はこの地上に残る」という考えです。それゆえに「盆」があるわけです。
 先週は盆でしたが、盆行事をやっているのは日本だけです。他の仏教国ではやっていません。このような形で盆をやっているのは、日本だけだというのです。仏教学会においても、盆ストーリーは作り話だ、異端だと認定されています。それは中国で付け加えられたストーリーです。
 盆になったら坊さんは袈裟をなびかせ、昔はカブで元気に走っていましたが、この頃は車で走っているようです。坊さんも喜んでやっていますが、あれはおかしいです。
 そもそも仏教に、親孝行という概念はありません。盆は、地獄に行った母親を地上の修行僧に食事をあげて助けるというストーリーですが、親孝行ストーリー自体がおかしいのです。仏教に親孝行という概念はありません。なぜなら、仏教の基本は「出家」だからです。出家とは「親を捨て、子を捨て」という考えです。親孝行の概念で行われる盆行事は、仏教ではないのです。あれは儒教です。
 日本人は、人が死んだらこの地上に霊が残ると考え、それを放っておいたら鬼になると考えています。なぜ、盆をやるかといったら、拝まないと先祖が祟るといけないからです。盆の時、三日間だけ先祖の霊が家に来ると言われます。だから火を焚いたりするわけです。家に三日間、先祖がいるのなら、なんで墓に行くのでしょうか。墓は留守じゃないのかと思うわけですが。まったく矛盾したことをやっているのです。

 四つ目の死後の世界観は、この地上の人生を終えたなら、神の元に帰り神と共に永遠に過ごし、死に別れた家族も神のみ前で、全員集合し、再会を喜び合うという、聖書の考え方です。

 「四つの死後の世界の中で、みなさんはどれがいいですか?選んでください」と、葬式でお話しさせていただきました。
 『永遠に対する思いは神が与えた』と伝道者の書は告げています。死後の世界観は、人間が作った空想ストーリーのように思われるけれど、そうではないのです。永遠に関する正しい情報は、神から与えられるわけですから、間違った情報は悪魔が与えているのです。今の四つの死後の世界観の中で、どれかが神からの情報で、他は間違っているのです。間違った情報は、この世の神の偽りです。本物の神様の情報を握ったら、死後は本物の神の元で生きるのです。
 しかし悪魔が与えた情報を握ったら、それは偽りの情報ですから、偽りの父、悪魔の元で永遠に過ごすようになるわけです。四つの死後の世界観の中、どれが本物の情報かを見極めることは、宗教の問題ではなく、永遠に関する現実の問題です。

 四つの中で、どれが受け入れやすいかと言ったら、最後に語った聖書の世界観です。私たちを創造し、生かしてくださっている神がおられるならば、死後も責任を持ってくださらないはずがありません。輪廻のような使い捨てや、リサイクルは絶対にしないはずです。
 神と共に生き、永遠も神と生きることができるのです。私たちはその神に礼拝を献げています。お互いは永遠を共にする仲間なのです。お隣の方の顔をちょっと見てあげてください。その方と永遠を共にするのです。「この人と永遠か。たまったもんじゃないな」とは、言わないでくださいね。教会は、永遠を共にする仲間たちの集まりです。お互い、地上でも仲良くし、天国に行ったらさらに喜び、主と共に過ごすのです。
 すべての人が主を信じ、永遠のいのちを受け取っていただきたいです。日本人は残念ながら九十九パーセント以上が、悪魔からの情報によって騙されています。消滅する、輪廻、祖先崇拝は悪魔からの情報です。騙されたまま死後の世界に入ったら、偽りの父の支配下に完全に入ります。そうなってからでは遅いのです。だから、日本にリバイバルをいただきたいのです。

 なぜ、リバイバルが必要かといったら、「すべての人が救われて、永遠のいのちに入るため」です。みなさんの周りに、愛する人たちが大勢いると思いますけれど、まだイエス様を信じていない人がいるならば、その人たちが神からの真の情報を伝えなければなりません。真理と共に人生を終えることができるように、福音を伝えていかなければならないのです。

 来週はゴスペルランチがあります。コンサートも、バーベキューもあります。楽しく主を礼拝し、永遠のいのちについてお話しさせていただきます。死後の世界についても、分かり易く話しますから、是非とも新しい方々をお連れ下さい。
 死後の世界についてとか、霊的世界について話をすると、みんな真剣に聞いてくれます。昨日の葬式に集まった方々は、ほとんどクリスチャンではなかったですが、みんな真剣に聞いておられました。みんなその事に関しては興味があります。来週は、特に興味深いお話をさせていただきますから、是非とも、お友達をお連れ下さい。

 先ほど読みした「二十年後に、イスラエルにリバイバルが起こった」という記録は、サムエルという預言者を通して、リバイバルが起こった記録です。このようなストーリーものは、案外、リビング・バイブルで読むと分かり易いです。今日は良く理解できるように、リビングバイブルを用意いたしました。
 サムエル記第一、七章一節〜四節、

『キルヤテ・エアリムの人々は来て、神の箱を、丘の中腹にあるアビナダブの家に運び込みました。 そして、アビナダブの息子エルアザルに管理を任せました。箱は二十年間も、そこに置かれたままでした。その間、イスラエル全体がすっぽり悲しみに包まれていたのです。まるで神様から見放されたように思われたからです。その時、サムエルがイスラエル全国民に言いました。「心から神様のもとに帰りたいのなら、外国の神々やアシュタロテの偶像を取り除きなさい。神様お一人に従う決心をしなさい。 そうすれば、ペリシテ人の手から救い出していただけます。」そこで人々は、バアルやアシュタロテの偶像を取りこわし、神様だけを礼拝するようになりました。』

 サムエルという預言者がイスラエルを治めていた頃、イスラエルには宿敵がいました。それがペリシテ人でした。彼らから頻繁に攻め込まれて、苦しめられていました。
 ペリシテ人とはどういう民族かというと、現在、イスラエル地域を「パレスチナ」と呼びますが、「パレスチナ」というのは「ペリシテ人の地」という意味です。「パレスチナ解放戦線:PLO」がありますけれど、あれは「我らこそ元々イスラエルに住んでいた」と主張しているわけです。しかしペリシテ人とは、海からカナンの地に侵入して来た民族でした。海神「ダゴン」を礼拝する、偶像礼拝がとても強い民でした。
 しかし、彼らが住んでいた地域にイスラエルはエジプトから帰って来たわけです。イスラエルの人たちは真の神様をよく知っていたはずなのに、この地に来てから、このペリシテ人の神々の影響を強く受け、ダゴンだとか、アシュタロテだとか、バアルと呼ばれる神々を拝むようになってしまったのです。
 そうしたら何が起こったのかというと、収穫が近くなり、「収穫の時が来た」と楽しみにしていると、突然、ペリシテ人たちが入って来て、収穫物を全て奪うようになったのです。
 お百姓さんが丹精込めて育て「さぁ、収穫だ!」という直前に、台風が来たりとか、害虫にやられたという事を時々聞きますが、本当に悲しいですよね。さらに悲しいことは、敵が攻めて来て、収穫物だけをさらっていくなんて、耐えられない事です。
 案外、人生にはそういうことが多いのではないかと思われます。一生懸命働いて、「さぁ、これからだ」という時に、すべての財産が奪われたり、健康を奪われたりとか、様々な問題が起こることがあります。
 その原因が何かについて、サムエルは語っています。イスラエルに対して、「外国の神々を全て捨てろ!」と言いました。「アシュタロテ、バアル、ダゴンとかの偶像を捨てなさい!」とイスラエルに告げました。彼らが偶像を捨てた時、その後の記録を見ますと、「二度とペリシテ人たちが侵入しなくなった」というのです。
 イスラエルの人たちは、皆、主を求め、サムエルの存命中は素晴らしい時代となったのです。

 幸せの秘訣は何かと言いますと、お金や名誉を追い求めたり、ある事柄を追い求めることが幸せの秘訣かのように思いますけれど、それは秘訣ではないのです。「偶像を放り出せ!」というのが、幸せの基本中の基本なのです。なぜなら、偶像とは、ただの像ではなく、背後に偽りの父である悪魔と悪霊どもが関わっているからです。
 この盆の時期、みんな「先祖様、先祖様」と言っていますけれど、家に帰ってくるのは先祖ではなくて、「先祖のふりをした、先祖の死に関わった死の霊」が入ってくるわけです。先祖のような仮面をかぶって、家の中に入って来るわけですが、家に入ったらその仮面を取るのです。そして、祖先に行った同じ悪さを、新しい世代の中でも行うのです。もしも家族が「これは先祖の霊じゃない。先祖のふりをした悪霊だ!」と気づいたら、先祖崇拝を止めると思いますけれど、気がつかなければ騙され続け、滅ぼされてしまいます。偶像との繋がり、イコール悪魔・悪霊との繋がりなのです。
 偶像を全て捨てて、イスラエルにリバイバルが起こったのです。

『キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。』

 それが、あの日から数えて「二十年目」に始まったのです。あの日から数え、二十年の長い年月が経ち、やっとイスラエルは外敵から解放され、民全体が主を求めるリバイバルが起きたのです。
 「あの日」とは一体、どの日でしょうか。それは「主の箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日」からです。

 実は、この出来事には背景があります。イスラエルは常に、ペリシテ人との戦いがあり、イスラエルはいつも、ペリシテには負けていました。昔も今も戦争とは、人と人との戦いとか、国と国との戦いのように見えますが、究極的には「神々の戦い」です。その国が信じている神と、相手が信じている神との戦いなのです。戦争に勝つとは、戦勝国の信じている神の勝利ということです。

 太平洋戦争もまさしくそうでした。日本はアマテラスという神を掲げ、国家神道をまとって世界に出て行ったわけです。日本は日本神話の神々を掲げ、アジア・環太平洋の広範囲に出て行きました。

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 この図は太平洋戦争時に日本が戦った場所です。こんなにも広範囲でした。日本の神々を掲げて、出て行きました。現在、日本と韓国、また、日本と中国の関係がたいへん微妙です。これからどうなるのかと心配です。

 今年、九月に台湾リバイバルミッションがありますので、是非とも祈っていただきたいのですが、実は十一月にベトナムでリバイバルミッションを計画していたのですが、中止になりました。なぜ、中止になったかといいますと、ベトナムは社会主義の国で、基本的にはキリスト教を禁止しています。
 最初、ベトナム側との話し合いでは大丈夫でしたが、近頃、ベトナム政府はかなり教会を弾圧するようになったのです。
 今、中国に行きますと、中国でも教会は弾圧されています。中国は情報をすべて管理しています。ですから、中国のクリスチャンとメールする時に、「ハレルヤ」とか、「主の御名を賛美します」、「主を礼拝するために中国に行きます」なんて書くと危ないのです。メールは全て、情報機関経由で配信されますから気をつけないと危険です。宣教を行ったりすると、公安が来たりします。
 近頃、ベトナムでも情報管制が強くなり、教会が迫害されるようになったというのです。ちょっと状況が危ないので、詳しいことは言えないというのです。電話も盗聴されるし、メールも解析されたりするので、「今回は中止し、またいつかしましょう」ということになりました。続けて、祈らなくてはいけないと思います。

 アジア・環太平洋に向けて祈り始めたら、日韓関係、日中関係が微妙になり、領土問題がクローズアップされ、緊張してきました。霊的世界と強い繋がりがある気がします。
 国々は自分たちの神々を掲げ、戦いを挑んでいるのです。昔と全く変わらない現実があるわけです。

 実は、こういう環境はいつから始まったかというと、罪ある人間の歴史と同時に始まりました。戦争とは神々の戦いなのです。イスラエルとペリシテの戦いも、まさにそうでした。その事を理解して聖書を読むと、聖書はもっと身近になります。リビングバイブルでサムエル記第一、四章五節〜九節を読むとこんな風になっています。

『神の箱が着いた時、イスラエル軍からは思わず大歓声があがり、その響きは地をも揺るがさんばかりでした。ペリシテ人は、「いったい、どうしたんだろう。やつら何を喜んでいるんだ?」と不思議がりました。そして、神の箱が着いたからだと知らされて、すっかりうろたえてしまいました。「やつらが神様を呼んだって?こいつは大へんなことになったぞ。こんなことは初めてだ。いったいだれが、あのイスラエルの力に満ち満ちた神から、救い出してくれるだろう。あの神は、イスラエル人が荒野をさまよっている間も、ありとあらゆる災害をもたらしてエジプト人を滅ぼした神じゃないか。さあ、みんな、今までになく気を引きしめて戦おうぜ。さもないと、以前われわれの奴隷だったやつらに、今度は奴隷にされてしまうぞ。」』

 イスラエルの主の箱というのは、イスラエルの神を表すシンボルでした。それが戦場に運び込まれた時、「強い神が来た!真剣に戦わなくては!」とペリシテ人たちは、ダゴンという神を掲げて真剣に戦ったのです。
 そうしたら、イスラエルの神が負けてしまったのです。四章十節から見ると、

『こうしてペリシテ人は、総力をあげて戦ったので、またもイスラエルは敗れてしまいました。 その日のうちに、ひどい伝染病が発生し、三万人が死に、生存者はほうほうのていで、めいめいのテントへ逃げ帰りました。おまけに神の箱まで奪われ、ホフニとピネハスも殺されたのです。』

 なんと、天と地を創造された、イスラエルの神様が、偶像の神々に負けてしまったというのです。そしてその後、どういうことが起こったのかというと、五章一節〜四節、

『ペリシテ人は奪い取った神の箱を、エベン・エゼルの戦場からアシュドデの町へ移し、偶像ダゴンの宮に運び込みました。ところが、翌朝、人々が見物に来ると、どうでしょう。 ダゴンが神の箱の前で、うつぶせに倒れているではありませんか。 人々はあわてて、元どおりの場所に安置しました。ところが、次の日も同じことが起こったのです。 ダゴンの像は神の箱の前に、うつぶせに倒れていたのです。 しかも、今度は胴体だけで、頭と両手は切り取られ、戸口のあたりに散らばっています。』

 イスラエルの神のシンボルであった「神の箱」が、ダゴンの神殿に安置されたというのです。
 それは何を意味するのかといったら、「ダゴンの神が勝ったぞ。イスラエルの神は敗北した」ということです。
 これはペリシテ人にとっては、画期的な大勝利でした。それでペリシテ人たちは、イスラエルの神の箱を一目見ようと、ダゴンの神殿にみんな押し寄せて来たのです。ここからも戦争が神々の戦いだということがわかります。

 実は、古来の日本も全く同じでした。近くに本宮山がありますが、本宮山の頂上に行くと「大国主」という神が祭ってあります。そこには立て札があって、「昔、ここに大国主という霊が降りて来て、穂の国という地域を作りました」と書いてあるのです。
 新城、豊川、豊橋付近は、昔は穂の国と呼ばれたのですが、これは大国主という霊が来て、地域が作られたというのです。この地域は悪霊に捧げられているような場所です。
 しかし、大国主が祭ってある頂上の下に、ひっそりした祠があります。それを見ると「足の神」と書いてあります。だから、本宮山に登る人たちはそこを拝むのです。そこには「アラハバキ神社」と書いてあります。
 また、教会のそばに大宮という地域があるのですが、そこには石座神社という神社があります。その神社の鳥居の前の片隅にも、本当に小さな祠があるのです。そこに行くと、赤ん坊のよだれかけがいっぱいかけてあって、「赤ん坊のための祠」とあり、だれも気にも留めません。
 それも、「アラハバキ」なのです。何を現しているのかというと、アラハバキとは、日本列島に最初に入って来た「縄文人」が持ち込んだ神なのです。それはバアルとか、アシュタロテと同じ系列の「土偶」です。それを縄文人たちは拝んでいたわけです。
 しかしやがて、稲作系の人たちが出雲の方からこの地域に入って来たわけです。そして縄文人をやっつけたわけです。始め、本宮山の頂上にはアラハバキという土偶が祀ってあったのですが、それを下に落として、「おまえは足だ」と言っているわけです。アラハバキは大国主の足の下に支配されたことを意味しています。

 石座神社と呼ばれるように、かつては縄文人たちが岩を拝んでいたわけです。けれども、それが稲作系の民族に追い出され、鳥居の横にひっそりと、赤ん坊のよだれかけを付けられて、屈辱的に祀られているわけです。それは何を現しているのかといったら、かつてこの地域でも支配権が転換されるような戦いが起こったことを意味します。
 イスラエルの地域でも同じでした。イスラエルの神とダゴンが戦って、ダゴンが勝利し、神の箱がダゴンの神殿の片隅に祀られたのです。
 一般的に一度そういう構図になったら、敗北した神は、二度と立ち上がることは出来ません。

 アラハバキは縄文人たちが一万年くらい拝んで来た強力な神でしたが、弥生人たちに征服されて以来、二千年近く、一度も刃向かうこともできずに、足の下に踏みつけられています。
 世界の歴史を見ると、一度負けた神は二度と立ち上がることはできません。ずっと支配され続けるのです。

 しかし、この聖書の箇所はすごいです。どういうことが記録されているかというと、翌朝、人々は自分たちが征服したイスラエルの神を見物に来たわけです。「すげ〜。ついに、イスラエルの神を征服した!」と言って、ダゴンの宮に来たら、「あれ?どうしたの?」ペリシテ人たちのダゴンという土偶が倒れていたのです。「縁起が悪いな」と思ったはずです。
 昨日勝利したダゴンが、神の箱の前で倒れていました。「地震があったのかなと・・・」と、物は水平力をかければ倒れるのです。これは物理的法則です。とりあえずダゴンをおこしたわけです。「こういうこともあるかもしれない・・・」と、最初の日はあまり気に掛けなかったと思います。

 しかし次の日も、ダゴンは神の箱の前にうつぶせに倒れていました。しかも、翌日は胴体と、頭と両手は切り取られ、戸口のあたりに散らばっていたというのです。二日連続で、変なことが起こって、二日目はダゴンがばらばらになっていたというのです。

 普通は一回支配された神は立ち上がることはないはずですが、イスラエルの神様は負けたように見えましたが、何とダゴンの神殿の中に持ち込まれても負けてはいなかったのです。ペリシテのシンボル、ダゴンはぶっ倒れただけでなく、ばらばらになったのです。
 これは何を意味しているのでしょうか。物体とは押せば倒れるのです。私は昔、土木技術者をやっておりました。大学の卒論は「構造力学」でした。だからそういうことについては少し詳しいのですが、物理的な力さえかかれば物体は倒れるのです。
 しかし、これはただ単なる「物理的に物が倒れた」だけではなかったのです。それは、目に見えない世界で起こったことが、現実の世界に預言的に現された現象でした。
 ダゴンが倒れた後、ペリシテ人の街に変なことが起こり始めたのです。人々の体に同じでき物ができて、人々は苦しみ出したのです。「みんなにでき物ができた。なんだろう・・・」と。

 日本人も考え方は同じです。普通、できものは医学的な問題です。「病院に行って薬をもらえばいい」と思うのですが、何か問題が起こったら、医学的な問題だけでは終わりません。「盆の時期に起こったのは、霊的なことかもしれない!気持ち悪い。」と考えます。ペリシテ人も同じで、「神の箱が来てから、こういうことが起こったぞ」と、霊的な世界と関連づけました。日本人も、昔のユダヤ人たち、ペリシテ人たちと同じなのです。人間は、全然変わっていないのです。

 ちょっと気味が悪いということで、神の箱を他の街に移してみました。他の街に移したら、なんと、同じことがその街に起こったのです。それでみんな震えあがりました。そのことがサムエル記第一、五章六節〜十節、

『そのうえ神様は、アシュドデと周囲の村々の住民をはれ物で悩ませ、滅ぼしにかかりました。この出来事に、人々はわめき始めたのです。「これ以上、イスラエルの神の箱をここに置いてはいかん。ダゴンの神様もろとも、みんなおだぶつだぞ。」ペリシテ人の五つの町の指導者が召集され、神の箱をどうしたものか協議しました。その結果、ガテに移すことになりました。ところが、移せば移したで、今度はガテの町の人々が、老若を問わず、はれ物によって滅ぼされそうになったのです。町はパニック状態に陥りました。そこで人々は、その箱をエクロンに送りました。箱を見たエクロンの人々は、「イスラエルの神の箱を持って来たりして、ガテの連中はわしらまで殺す気か」と叫びだしたのです。』

 神の箱が運ばれる先々で変なことが起こり、神の箱はたらい回しにされました。最終的には、イスラエルに返してしまったという記録です。
 これは、何を意味しているのかというと、普通は支配されたら支配されっぱなしで、負けた神になってしまうのですが、聖書の神様は一度負けたように見えても、「負けてはいない」ということです。異教の神の神殿の片隅に祀られたとしても、その力を打ち破る、すごい神様であることを表しているのです。

 先週は盆もあり、クリスチャンとして、ちょっと大変だったかもしれません。「実家に戻ったら、針のむしろでした」とか、「何で仏壇を拝めんのか。手を合わせろ!」とか言われて、「私はクリスチャンとして、肩身の狭い思いをしました」という方もおられるかもしれません。外見では「仏教の神に、キリスト様は足下にも及びませんでした」と言われるかもしれません。
 日本はどうでしょうか。九十九パーセント以上がクリスチャンではありません。ほとんどが仏教徒です。クリスチャンはたった一パーセント弱です。こんなことで大丈夫かなと思いきや、実は、聖書の神様は、そのようなただ中で勝利する神なのです。そして、目に見えない世界を改革される神なのです。

 そして、クリスチャンとは「生ける神の箱」ですから、異教の中に入ったとしても、悪しき力の影響を受けるのではなく、逆に見えない世界ではダゴンが倒れるのです。だから日本で一パーセント弱のクリスチャンだとしても、恐れることはありません。私たちが生ける神の臨在を運び込む、主の箱の存在となって、地域に入って行くなら、敵は倒れるのです。敵はこの国を支配しているように見えるかもしれないけれど、打ち破られるのです。

 実はそのような華々しいことが、イスラエルにおいて二十年前に起こったのです。主の箱が奪われた敵陣の中に起こったことでした。ペリシテ人たちは、神の箱は気味が悪いので、イスラエルに送り返したのです。
 送り返されてどうなったかというと、キルアテ・エアリムという所に運び上げられ、アビナダブという家の人たちが管理して、長い年月、二十年間も経ってしまったのです。その間、イスラエルにとっては、まだまだペリシテは来るし、あまり良い時代ではなく、困難は続いていたのです。

 しかし、二十年目に、イスラエルの全家は主を求め、その日、サムエルが立ち上がって人々に呼びかけたのです。
 「すべての偶像を捨てて、主を激しく叫び求めましょう!」と。するとリバイバルがミツパで起こされて、二度とペリシテ人は侵入することがなくなったというのです。

 この記録を見る時、二十年前、霊的戦いを始めてくださり、ある意味で、ダゴンが倒れるような事が起こされました。「主が立ち上がられた日」という本を読んでいただきますと、その時に何が起こったのかを知ることが出来ます。日本での霊的戦いが、甲子園ミッションと共に始められました。当時はリバイバルを叫び求めていたけれど、二十年間、あまり派手なリバイバルも起こらず、本当に主は生きておられるのだろうか、私たちのことを忘れてしまったのではないかと、日本のクリスチャンは失望しています。しかし、二十年が過ぎた日に、主はわざを始められると信じます。
 私は、主が何か、新しいことを始められるのではないかと、大きく期待する者です。
 二十年が経ちました。いよいよ時が満ち、主の御業が始まるのです。神の国は、人手によらずに進んで行くと先日も学びました。マルコ四章二十六節〜二十九節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 神の国は、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ち、収穫の日が来るのです。神の国の働きは、この地の収穫の法則とよく似ているのです。
 それがダゴンが倒れた日から数えて二十年が経過した時、イスラエルに収穫の日が訪れたのです。目に見えない世界では、いろいろなことが起こっていたということです。詩篇一二七篇一節〜五節、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』

 私たちは毎日忙しく働いていますけれども、ここで『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』と詩篇の記者は述べています。リビングバイブルで読むと、

『神様に建築責任者になっていただかないのなら、家を建ててもむだです。神様に町を守っていただかないのなら、見張りが立つ意味もありません。暮らしを支えるために朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いたとしても、それが何になるでしょう。神様は、愛する者に適当な休息を与えようとなさるお方です。子供たちは神様からの贈り物であり、ほうびなのです。若いうちに生まれた子供は、身を守る鋭い矢のようです。矢筒が矢でいっぱいの人はしあわせです。 敵と論争する時にも、ちゃんと味方がついているわけです。』

 リビングバイブルは意訳していますので、元々のヘブル語のテキストとは違いますけれど、全体の意味を把握するのにはいいと思います。私たちは現実の世界に生きていますけれど、目に見えない世界との関わりの中で生きているのです。「主が共に働いてくださらなければ無駄ですよ」と述べられています。
 『主は愛する者には眠っている間にも備えてくださる。』とありますが、イスラエルは二十年間、霊的には眠っていたような状況でしたけれど、ダゴンが倒れてから二十年も経って、もう駄目かと思っていたけれど、神はちゃんとイスラエルの為に準備されていて、収穫の日が来たのです。
 二十年経って何が起こっていたのでしょうか?今度は新しい世代がイスラエルには誕生し、育っていたのです。その世代を新たなる戦いの世代として、用いようとされていたに違いありません。

 新城教会も、霊的戦いが始まって二十年が経ち、二十年前には生まれていなかった世代の子どもたちが、この教会で共に信仰生活を送っています。
 今こうして礼拝をしている間も、礼拝はこの会堂だけではなくて、隣の教育館にも中継されていますし、インターネットでは、全国、いや全世界で礼拝に参加できます。
 また礼拝と並行して「子ども礼拝」もあります。会堂にいる子どもたちは小学生以上ですけれど、いい子ですね。大人の集会にちゃんと出ています。しかし幼稚園以下は子ども礼拝に出ています。子ども礼拝を担当して下さっている人たちがいます。みなさん、そういう人たちを覚えて、是非とも感謝して下さい。奉仕してくださっている方たちに、心から感謝します。

 先週は、「子ども礼拝スペシャル」という、幼稚園以下の子どもたちの集会がありました。たいへん恵まれました。

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 子どもたちが集まって、みんなで御言葉を学び、最後はみんなが剣を受け取る祈りをしました。
 今読んだように、『幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と語る時にも恥を見ることがない』とありますけれど、教会は大人や成人に関心があるのですが、子どもたちに対してはあまり重要に考えていないのです。「早く大きくなってね、おとなしく礼拝に出てね」と考えるのですが、実際は、こういう世代が戦いの世代で、彼らが主からの剣をもらう時、新しいダゴンが立ち上がろうとしても、それらは打ち砕かれるのです。

 まさに二十年前も、子どもたちの霊的な目が開かれたことによって、霊的戦いが進んで行きました。是非とも、次の新しい世代のために祈っていただきたいと思います。
 先週、子どもたちのために、戦いの剣をもらうように、聖霊の油注ぎを受けるように祈りましたが、子どもたちは口々に「剣をもらった!」と叫んでいました。
 うちの孫も「じいじ、剣をもらったよ」と私に言って来ました。そして、「祈ったらみんな倒れちゃったね」と言っていました。孫にもインパクトが強かったらしいです。子どもたちが剣をもらうのは、新たなる戦いの幕開けです。

 二十年前に主はダゴンを倒す業を始められて、その後なんで沈黙されていたのでしょうか。それには訳があると思います。それは新たなる勇士を育てるためには時間がかかるのです。それは人間的教育ではなく、新しい世代が産み出されるための時間です。新しく生まれ出た子どもたちが勇士となる時に、リバイバルは進んで行くことを教えているのではないでしょうか。

 「あの日から二十年。収穫の日が来ました!」新城教会にも新しい世代か産み出され、次の世代を担う剣を与え、リバイバルのため準備の二十年ではなかったかと思われます。
 これから私たちは大きく主に期待し、主が必ず成し遂げてくださると信じましょう。御霊で始まったことは、必ず御霊によって終結します。二十年前に、新城教会で霊的戦いを始められたのは、確実に聖霊様の働きでした。それは決して肉では終結しません。必ず御霊によって終結されるのです。

 そのために必要なのは、『イスラエルの全家が主を慕い求めていた』とありますけれど、二十年が過ぎたこの日、全員が主を慕い求め、また新しい世代に新しい油注ぎと剣がもたらされる時、勝利が前進すると期待します。最後に一言お祈りして終わりにさせていただきます。


 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。あなたが聖書の中からダゴンが倒れてから二十年目に、ミツパにおいてリバイバルが起こったことを教えてくださっていることを心から感謝します。
 新城教会においても、主が立ち上がられ、霊的戦いが始められて二十年が経ちました。主の時を迎えていることを、心から感謝をいたします。新しい世代が立ち上がり、『門で敵と語る時にも決して恥を見ることがない』という、リバイバルを始めてください。
 主よ。あなたは決して、他の神々に支配されるような方ではありませんから感謝します。どんな所でも敵は倒れることを、教えてくださったことを心から感謝します。イエス様の十字架の勝利がここにあることを心から感謝いたします。
 今日はイエス様の十字架の勝利のシンボルである聖餐をいただきます。もう一度、私たちが二十年目に、主を慕い求めることができますように。主よ、あなただけが神です。あなただけに仕えていきます。どうか私たちを用いてください。今、この聖餐を御言葉と聖霊によって、イエス様の十字架の勝利としてください。感謝を持って、イエス・キリストの御名によって祈りをお捧げいたします。アーメン。