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『あなたは永遠をどこで過ごすつもりですか?』

2012.8.26(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
伝道者の書3章11節

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』



 ハレルヤ!みなさんおはようございます。みなさんと共に特別な礼拝を持つことができまして、心から感謝をしています。
 今日はこの地域は防災訓練がありまして、そちらに出ている人も多いみたいですが、日本は災害が多い国です。お互いに守られるよう、祈っていきたいです。沖縄では何か、風速七十メートルという、今までにない最大の台風が近づいているそうです。沖縄の守りのためにも、ぜひ祈りたいと思います。

 今日は、うちの息子たちのバンドが演奏してくれました。彼らは大変忙しいスケジュールで、昨晩も埼玉でコンサートがあって、そこから徹夜で来てくれたのですが、この教会で賛美の働きが始まって、すでに三十年近くになりますが、それを最初に始めたのは、先ほどここで賛美リードをした開たちと、私がグロリアシンガースというバンドを結成したのが始まりでした。そこから、今は若い世代の多くが、賛美の奉仕に加わってくれるようになりました。
 現在、毎月一回、「新城プレイズミュージックスクール」を開講していまして、彼らが講師となって、指導してくれています。
 人生は本当に不思議なもんだと思います。今日は息子がベースを演奏していましたが、なぜ彼がベーシストになったかというと、彼が小学校二年生の時、この教会に来ていた一人の青年から、子ども用のベース・ギターをもらったからでした。なぜもらったかというと、ベースをくれた高校生は、勉強が全然できませんでした。なぜできなかったかというと、ベースばかり弾いていたからです。それで高校を退学させられるかもしれないということで、彼の両親があわてて私のところに来て、「うちの息子の家庭教師になってくれ」と頼みました。それで、彼の家庭教師になりました。私が彼に勉強を教えたら、彼はベースをやめて勉強をしたので、なんとクラスで一番になってしまったのです。
 彼は喜んで自分の大切にしていた、ベース・ギターを、私の息子にプレゼントしてくれたのです。そうしたら、なんとうちの息子が今度はベースばかり弾くようになって、勉強ができなくなりました。
 しかし、ベースばっかり弾いているうちに、やがて賛美するようになり、今はベースだけで飯が食えるようになりました。あの一瞬がなかったら、息子の人生は今頃、何をやっているのだろうかと思います。「一芸身を助く」といいますが、人生には、一芸あればいいのです。他になくてもいいのです。神様は、一人一人に必ず、一芸を与えてくださっています。そして、人生はちょっとしたきっかけで、大きく変わっていくのです。
 今日初めて教会に来た方もおられるかと思いますが、いろいろな理由で教会に来たのかもしれません。教会に来た事が、将来を、いや、永遠を大きく変えることになるのです。

 今朝は、「あなたは永遠を何処で過ごすつもりですか?」というタイトルで、お話をさせていただきたいと思います。今、読んだ聖書の言葉に、このように記されていました。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 これを口語訳聖書で読んでみますと、

『神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。』

となっています。
 人とは、「永遠」について考える生物です。他の動物は永遠について考えません。永遠への思いは、人だけにある思いです。どうしてそういう思いがあるのかというと、それは「神が与えられた」というのです。

 しかし日本人は、永遠についても、神についても、あまり真剣に考えない国民です。
 先日、こんな表を見つけました。

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 これは「神の存在・死後の世界に関する見方」という、二〇〇〇年の調査ですが、上の表は世界の国々に対する「神の存在を信じますか?」という調査です。ほとんどの国の人々が「神」という存在を信じると答えています。
 しかし、「信じない」という人たちが多く住んでいる国はどこかというと、そのワースト三に、日本が入っています。神の存在を一番信じない国は「ベトナム」です。これを見たとき、ベトナムでミッションを絶対にやらなくちゃいけないなと思いました。世界のワースト・スリーはベトナム、チェコで、そして第三位が日本です。

 そしてもう一つ、「死後の世界はあると思いますか?」という問いに関して、世界の大半は「永遠の世界はある」と信じているわけです。
 しかし日本は、どの率が一番高いかというと、「わからない」というのが世界一です。
 いずれにしても日本人は、神の存在についても、永遠についても、曖昧な国民ではないかと思われます。
 しかし世界のスタンダードは、天地宇宙を造られた創造主、神がおられるという考えです。それが世界のスタンダードです。
 神の存在をどのようにして、知ることができるのでしょうか。聖書は次のように記しています。ローマ人への手紙一章二十節、

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』

 神の存在は、自然界を見ればわかるというのです。それが被造物によって証明されているというのです。日本人は、諸霊といいますか、目に見えない世界にうごめく霊については関心があるのですが、天地宇宙を造られた神については、あまり関心がありません。物は、作った人がいるから存在するわけです。
 皆さんが座っておられる椅子も、椅子屋さんが作ったのです。椅子は自然に山から生えたのではなく、メーカーがあったから椅子があり、座っているわけです。
 教会堂も建築屋さんが作ったから存在するわけです。建築のためには、設計する人がいて、また、作る人がいて家ができるわけです。これは天地、宇宙、世界も同じです。神が造られたのです。

 去年も一度お話ししたのですが、何を見たら神の存在がわかるのか。いろいろと観察眼を働かせて周りを見たら、「こりゃ、神様って絶対にいるわ」とわかります。
 夏が続いておりますが、私は夏が大好きです。しかし嫌いなものが一つあります。それは蚊が多いのが嫌です。我が家はなぜかわかりませんが、蚊が多くていつも戦っています。蚊をちょっと映像で見せたいと思います。

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 蚊は嫌ですね。どうでしょうか?本物の写真を見ると、さらに嫌ですね。
 しかし、この蚊、一匹見るだけで、この中に神のすごいハイテクが含まれているのです。
 この頃、オスプレイという飛行機が注目を集めております。

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これは我が家のオスプレイですが。

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 この飛行機の安全性が、いろいろ論議されているわけですが、蚊はオスプレイ以上のすごい性能を持っています。
 まず蚊の飛行性能。「蚊は前後左右、上下、どの方向にも自由に飛ぶことができ、もちろんホバリング(空中停止)も出来る。闇の中で狭い隙間を見つけて、中に入る航法システムも装備している。人間の皮膚が出している二酸化炭素を感知して、そちらの方向に向かって接近する。万が一にも、人間がぴしゃっと叩こうものなら、速やかに察知して回避行動を取る。皮膚の上に着陸地点を定め、軟着陸して、しっかりと足がかりを掴んで身体を固定し、皮膚の下の血管の位置をさぐって針を刺す。その時、血液凝固防止剤を注入した上で、必要十分だけの血液を抽出する。針を抜き、重くなった羽に力を入れて再度離陸する。」というのです。

 蚊は本当にちっちゃな物体ですけれど、オスプレイ以上の性能を持っているのです。「あれだけの機能が、あのサイズの中に入っている。蚊は重さにすれば数十ミリグラム。素材は、ほぼ、たんぱく質。これを人工的に造ろうとするならどうか。行動パターンのプログラムだけはコンピューターでなんとかなるかもしれないが、メカの方は全く手が出ない。人間が開発した工学でも、二酸化炭素探知とか、血液凝固防止剤注入とか、暗視飛行制御とか、着陸後の身体の保持とか、一つ一つに対する装置は作れるだろうが、それをあのサイズにまとめることは絶対に無理な話だ。たぶん重量のほうが数桁オーバーして、そうなると、飛行性能の話などする余地は全くなくなる。
 その上、蚊にはとんでもない機能がある。それは、生殖という機能で自己増殖していく。人が自己増殖するような飛行機を作ったという話は、未だ聞いていない。」とある本に書いてありました。

 みなさんどうでしょうか?あの嫌な蚊、一匹見ても、オスプレイよりもずっと高機能、高性能なわけです。数ミリグラムのタンパク質の中に、オスプレイ以上の性能を詰め込んで、それが家のまわりを縦横無尽に飛び回っているのです。墜落炎上している蚊を見たことはありません。殺虫剤をかければ知りませんが、墜落なんて絶対にしません。
 人間側から見ると蚊は害虫ですが、よく見れば「これは絶対、何かの目的で神が造ったのに違いない」と気づくのです。これは絶対に人では作れません。ちょっとした水たまりさえあれば、同じ蚊がどんどん自己増殖していくわけです。オスプレイに水をかけても増殖するということはありませんから。

 私たちは簡単に考えていますけれど、蚊を一匹見ただけでも、神は存在するに違いないとわかるのではないでしょうか。
 人間を機械として見たら、本当に精密な、相当複雑なメカです。こんな物を作ることができるのは、神以外におられません。ということは、神の存在を認めるのは、重要なことです。

 そして、この神が、なんと人の心に「永遠を思う思い」を授けられたのです。私たち人間はやがて死ぬわけです。死後についてもやはり考えます。「死んだらどうなるのか・・・」それは、死後の世界があるから考えるのです。永遠の世界があるのです。
 そして私たちの手の中に、永遠に関する選択権があるのです。「死後の世界をどこで過ごすのか、自分で決めてください」というのが、聖書のメッセージです。もしも神がおられるならば、死後だって責任を持って下さるはずです。私たちは、神が定めた死後の世界に入らなければならないのです。
 でも日本人は、そういう事柄に関して、あまり議論しないというのです。

 私の友人に、三重大学で文化地理学を教えている教授がいます。彼は何の研究で博士号を取ったのかというと、アメリカに行ってアメリカの墓場を研究しました。アメリカは世界中から移民が来て、様々な民族、様々な時代の墓場があるのですが、墓場はすごくおもしろいというのです。彼は二十万個くらいの墓を調査したというのです。墓を見ると、民族が、またその時代を生きた人たちが持っていた、死後の世界観を読み取ることができるというのです。彼はそれを調査・研究し、アメリカで博士号を取って帰って来ました。

 彼と話をしたら、二十万個の墓を調査して得た結論は何かというと、「日本人の死に関する世界観と、欧米人の死に対する世界観に大きな差を見いだした」というのです。
 欧米人は、死後の世界観をはっきりと認識していて、特に、教会でイエス・キリストを信じる信仰と、永遠の世界について聞いて、聞いた上で自分で死後の世界観を選択しているというのです。
 しかし、日本人は、死については語るけれど、死後については論じることをしないで、うやむやにしているというのです。

 これは本来、人間にとって一番重要な課題です。これをちゃんと解決しておかないと、平安な人生を過ごすことはできないのです。

 実は、教会とは、死を超越した場所なのです。教会は生きることも、死ぬことも、永遠の世界も、すべて神の御手の中にあると信じています。死も生も、神の手の中にあって、神の前には生きている人も、死んでいる人も、「皆、生きている」と信じています。
 私たちは「誰かが死んだ」というのですが、神の前には死者も生きているのです。永遠に私たちの人生はなくならない、続いて行くということです。

 教会は、大変合理的な場所でして、今私がこの場所でメッセージを取り次いでおりますが、この講壇はいろんな目的のために使います。今日はコンサートもやりましたが、時には、ここで結婚式もあります。私が立っている場所に、花婿さん、花嫁さんが立ったりするわけです。
 しかしある時には、ここに棺桶が横たわるわけです。先週も、ここに棺桶が横たわっておりました。
 普段、葬式をする会場で結婚式をやるといったら、どうでしょうか?「今度、私たちの結婚式は、○○斎場において行いますので、出席してください」と招待したら、みんな嫌だと言うでしょう。
 しかし教会は、葬式と結婚式を同じ場所でやるのです。それでみんな、違和感なく来るわけです。ここで葬式が何度あったのかわかりません。しかし「気味が悪い場所だ」とは思わないでしょう。「教会は雰囲気がいい場所だ」とみんな感じるのです。何の違和感もなく、今朝は礼拝を守っています。なぜ、こういうことができるのでしょうか。それは死を超越しているからです。

 先ほどうちの息子がベースを弾いておりましたが、今から数年前になるかと思いますが、彼の結婚式がありました。彼らの結婚式を、忘れることができません。
 今日は奥さんも一緒に来ておりますが、彼らは自分たちの結婚式のために、綿密な準備をしておりました。花嫁さんが結婚式に持つブーケは、何か名古屋の有名な花屋さんに行って注文して、結婚式当日を迎えました。結婚式の時間までに、素晴らしいブーケを届けてくれることになっていました。
 しかし式が始まる一時間前になっても、ブーケが届きませんでした。ちょっと不安になりました。「どうしたかな?もうちょっと待ってみましょう。名古屋からだから遠いのだろう・・・」と待っていました。けれども、式の始まる三十分前になっても来ませんでした。
 それでブーケ屋に電話しました。そうしたら「えっ?結婚式って、今日でしたっけ?」と、忘れていたのです。けしからん話じゃないですか。花嫁さんがもう、入場しなければならないのに、手に持つ花がなかったのです。それにブーケ屋が気づいた時は、式の直前十五分前くらいでした。

 しかし感謝でした。その結婚式の前日に教会では葬式があったもんだから、教会には葬式で使った花がどっさりありました。それで教会にはブーケを上手に作る方がおられて、葬式の花を使って美しいブーケを作って下さいました。
 彼女にはその時は言いませんでしたが、普通ならどうでしょうか?「そんな縁起の悪い花で、信じられない」と言うかと思いますが、これをやっちゃえるのは、死を超越しているからです。
 ブーケ屋、本当にしょうがないですよね。でも、彼らはお見舞い金をもらったみたいで「得した」と言っていました。
 いずれにしても、みなさん、教会は超越しているのです。なぜならば、永遠の国があるからです。この事を知ったなら、私たちは勇気百倍です。

 先週もお話ししたのですが、世界の死後の世界観は大別して、四つくらいに分けることができます。
 一つは「死んだらすべてが消える」という考え方です。死によって何もかも消えてしまうという、考え方です。でも、それはちょっと虚しすぎますよね。
 天文学者でホーキンスという人物がいるのですが、彼が「死後の世界はない」と発言して、世界中の論議となりました。彼は「コンピューターは壊れてしまったら使い物にならないだろう。人間の脳はコンピューターと同じだ。死によって壊れたら、全てがおしまいだ」と言うのです。
 人間の作ったコンピューターと、神様の造った人間を比較すること自体がおかしいのです。訳が違いますから、死ですべてが終わると信じたくないですよね。こんなに愛し合って、すばらしい雰囲気の中で礼拝を持っているけれど、死によって消滅し、どこを探しても消えてしまうなら、そんな悲しいことはありません。

 またもう一つ、日本人がよく口にするのが「輪廻」です。人は死んでもまた新たに生まれ変わると言います。それは結構、日本人が口にする死後の考えです。
 ある本を読んだら、この頃、動物愛護が世界中で叫ばれているのですが、世界の動物愛護精神と、日本の動物愛護精神にはちょっと差があると書いてありました。それは、ある社会学者が書いていたのですが、日本の動物愛護精神は「輪廻とつなかっている」と論じていました。
 私はこの間、浜松のモールに行き、ぶらぶらしていましたら、うちの孫にちょうど良さそうなセーターがありました。一歳の孫にぴったりなセーターを見つけました。ちょっと高そうでしたが、買ってあげようと思いました。やっぱり、おじいちゃんです。店に入って行って、セーターを手に取って見ました。横幅はぴったりです。「いいセーターだな」と思ったら、たけがちょっと長いのです。「おかしいな」と思ってよく見たら、足が出る所もあって、「なんだ、これは?」と思って、店の看板を見たら、「ペット・ショップ」でした。それは犬に着せるセーターだったのです。「これは駄目だ」とやめましたが、この頃は動物愛護の精神が高まり、「犬にもセーターを着せるのかい!」とびっくりしました。結構それは高い物でした。
 動物を愛することは悪くありません。ヨナ書を読むと『神は動物にさえ、目を留めておられる』とありますから、虐待してはいけません。

 日本人と動物愛護がどのように、輪廻とつながっているのかと言いますと、飼っている犬も、「こいつも昔は人間だったかもしれない・・・」と考えるらしいのです。
 日本人は犬が死にそうになったらどうでしょうか?「とことん看病して、死ぬ寸前まで付き添ってあげたい」という気持ちがあります。
 でも案外、欧米に行きますと、ペットが弱ったりしますと、獣医さんに連れて行って注射して安楽死させ、帰りには新しいペットを飼ってきたりするのです。だいぶさばけているなぁ、と思うのですが、日本人は最後の最後まで看取ってあげたいと考えるのは、輪廻と関係があるらしいのです。
 「この犬も、昔は人間で、人間の世界に生きていたとき、ちょっと失敗をやらかして、今は輪廻して犬になっているのかもしれない・・・」と考えるそうです。だから、「よく、この犬を看病してあげないと、自分も死んでから犬になったら困る・・・」という考え方が根底にある、とその社会学者は分析していました。

 みなさん、もしも輪廻が本当なら、そんな悲しいことはありません。一度輪廻のサイクルに陥ったら、追いかけっこになりますから、二度と会うことができません。
 ご主人が亡くなった、そして奥さんが亡くなった。どっかでまた会おうと思っても、ご主人が人間になっているのか、犬になっているのか、虫になっているのか、鬼になっているのか、わかりませんから、どこに輪廻しているのかわかりません。二度と会うことはできないのです。悲しいですよね。輪廻は受け入れたくないですよね。

 日本人はもう一つ、「死んだら、この地上に霊・魂が残る」と考えます。そして、「よく拝んであげたら霊魂が報われるけれど、拝むのを忘れると鬼になって、家族を苦しめる」と考えるわけです。
 一生懸命、先祖崇拝をしているのもその為です。みなさんどうでしょうか?愛していた家族が死んだ後、鬼となって家族を苦しめるなんて、そんなことありえないのではないでしょうか。
 もしも死後の世界から、生ける者の世界にチャンネルが残っていたら、私なら、何が何でも、生きている人たちを助けたいと思います。でも、放っておくと鬼になるというのは、絶対におかしいことです。
 「輪廻」と、死後、地上に霊魂が残ることを前提とした「祖先崇拝」とは、真っ向から対立する考え方です。輪廻が本当ならば、墓もいらないし、また先祖の霊もいないのです。
 でも、日本人は墓を大切にし、先祖の霊が地上にいることを前提として、先祖崇拝をやります。これは輪廻とは、まったく反対の考え方です。

 日本人は、死んだら無くなってしまうのか、輪廻か、地上に霊魂が残るのか、考えが混乱していて、ミックスしているのです。はっきりしていないのです。曖昧です。これではいけません。
 聖書では、はっきりとしています。死後の世界について、曖昧ではなく、はっきりと伝えています。それは聖書以外にありません。死後についての四つの世界観について先週も話しましたが、四つの内でどれかを選択しなければなりません。

 聖書の世界観はどういうものかについて、リビングバイブルでルカの福音書十六章十九節〜三十一節をちょっと読んでみたいと思います。死後の世界について、イエス様が語られた箇所です。この所を読むと、死後の世界についてわかります。ちょっと長いですけれど、読んでみたいと思います。ルカの福音書十六章十九節〜三十一節(リビングバイブル)、

『イエスは話を続けられました。「金持ちがいました。きらびやかな服を着、ぜいたくざんまいの暮らしでした。ある日のこと、その家の門前に、ひどい病気にかかったラザロというこじきが横になっていました。金持ちの家の食べ残りでもいい、とにかく食べ物にありつきたいと思っていたのです。 かわいそうに、犬までが、おできだらけのラザロの体をなめ回します。やがて、このこじきは死にました。御使いたちに連れられて行ったのは、生前神を信じ、正しい生活を送った人たちのところでした。そこで、アブラハムといっしょにいることになったのです。そのうち、金持ちも死んで葬られましたが、彼のたましいは地獄に落ちました。苦しみあえぎながら、ふと目を上げると、はるかかなたに、アブラハムといっしょにいるラザロの姿が見えます。金持ちはあらんかぎりの声を張り上げました。『アブラハム様ーっ!どうぞお助けを。お、お願いでございまーす。ラザロをよこし、水に浸した指先で、ほんのちょっとでも舌を冷やさせてください。この炎の中では、もう苦しくて、苦しくてたまりません。』しかし、アブラハムは答えました。『思い出してもみろ。 おまえは生きている間、ほしい物はなんでも手に入れ、思うままの生活をした。だがラザロはどうだ。全くの無一物だった。それで今は反対に、ラザロは慰められ、おまえは苦しむのだ。それに、そちらへ行こうにも、間に大きな溝があって、とても行き来はできない。』『ああ、アブラハム様。それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。まだ五人の兄弟がいるのです。彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを、教えてやってください。』『それは聖書が何度も警告してきたことではないかね。その気があれば、いつでも読めるはずだよ。』金持ちはあきらめません。『でも、アブラハム様。 彼は、聖書を読みたがらないのでございます。ですが、もしだれかが死人の中から遣わされて行ったら、彼らも罪深い生活から立ち直れるでしょう。』アブラハムはきっぱり言いきりました。『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで同じことだ。 彼らは聞こうとしないだろう。』」』

 死後は、二つの場所があるというのです。それは神と共に過ごす場所と、もう一つは神に見捨てられた場所です。
 今日、最初に読んだ聖書の箇所に、『神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた』とあります。死後に関する世界観は、空想だとか、人が作り出した物語だと考えるのですが、そうではないのです。死後の世界は霊的世界と強く繋がっています。天地宇宙を造った神は、死後に関しても正しい情報を人類に与えるはずです。
 しかし、先ほど語ったように、大別すると死後については、四つくらいの考え方があるということは、一つは正しくて、あとの三つは間違っているということです。
 間違った情報はどこから来たのか。「それは人間が考え出したことでしょう」と言いますが、そうではないのです。死後の世界、永遠への思いは神が与えたとすれば、真の情報は神が人類に与えているのです。
 ということは、正しい情報は神から来るけれど、偽の情報は、神のふりをした悪魔から来るということです。
 悪魔の情報を掴んで、人生を終えたらどういうことになるのか?それこそ、悪魔の思うつぼです。

 神がおられると同時に、悪魔が世界に存在することは、誰も否定できないのです。時代が進んで、便利な時代になり、科学も、教育も、経済も発展して来ましたが、人類そのものはまったく良くなっていません。それどころか、どんどん悪くなっています。その理由は、人類のただ中に、透明人間のような悪魔・悪霊どもが侵入しているからです。
 悪魔・悪霊どもは何をしているのかと言ったら、死後、自分たちの住処に人類を連れて行こうとしているのです。絶対に私たちは、この悪魔の偽情報に騙され、死後、悪魔・悪霊どもの住処に引きずり込まれてはいけないのです。天地・宇宙を造られた、神の国に入らなければならないのです。
 イエス・キリストを信じるとは、すばらしいです。ラザロは神を信じていました。お金も、地位も、名誉もなかった、しかし彼は神を信じていたのです。
 ラザロは死後、天使に連れられて天国に入ったわけです。そこで彼は報いられたのです。

 クリスチャンにも、時には悲しい別れがあります。けれども、希望があります。やがて私たちは再会できるのです。ヨハネの黙示録十四章十三節に、このように記されています。これはヨハネという人物が、天から神の声を聞いて記したのですが、

『また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」』

 私たちは死ぬことが最も不幸だと考えます。しかしここには、不思議な言葉が記されています。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』というのです。イエス・キリストを信じて死ぬ死者は「幸せです」というのです。
 『彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行く』というのです。
 彼らの行いは彼らについて行くとは、「死んでも鬼になったり、犬になったり、猫になったり、虫になったりするようなことはない」のです。「消える」こともありません。そのままの天国に入って、地上での記憶も全て受け継がれ、神の国に生きるのです。
 やがてその場所で、再会するのです。地上では苦しいことや悲しいことがあるかもしれないけれど、永遠の世界があるのです。そこでみんな集まり、死も苦しみも悲しみもない場所で、神の百パーセント支配の中で生きていく、というのが聖書が教える死後の世界です。

 しかし悪魔が吹き込んだ偽の情報を自分のものとしたら、どういうことになるのでしょうか。死後、百パーセント悪魔・悪霊どもに支配された悪魔の王国に住まなければならないのです。それが地獄です。それはもう、本当に考えるのも恐いというか、考えたくもないことです。
 天地宇宙を造った神、イエス・キリストを信じ、永遠の世界を神と共に過ごしてください、というのが聖書の中心的メッセージです。

 ですから、キリスト教は宗教ではないのです。「生きる」ことが現実ならば、死後も現実ですから、死後の現実は何かを知ることであり、宗教ではありません。死後の世界を、宗教の世界にしてはいけないのです。「事実、死後はどうなるのか」ということを、真剣に考えなければなりません。そして「本物を掴まなければならない」のです。

 先ほどの四つの中で、どれが最も受け入れやすい死後の世界観でしょうか?消滅する、輪廻する、鬼になって地上に残る、天国に行って神と共に過ごす、の中でどれがよろしいでしょうか?天地宇宙を造ってくださった神がおられるのならば、死後も責任を持ってくださるはずです。
 この地上は、私たちが永遠を何処で過ごすかの、準備の場所であるわけです。この地上でちゃんと準備し、正しい情報を掴んでいたら、死は恐くないのです。
 新城教会から天に帰られた方々は、今どうでしょうか。きっと今頃、みんな集まってこの礼拝を見ているに違いありません。
 「天に帰った人たちは、花園で寝そべっているのではない」のです。とりなし手となるのです。私たちを雲のように取り巻いて、私たちの働きを一喜一憂しながら、神の前でとりなし祈り、応援しているのです。
 新城教会の天の応援団も、だいぶ多くなったのではないかと思われます。天国では、真剣に新城教会のリバイバルと、一人一人の祝福のために祈っているはずです。神の御心を百パーセント掴んで祈っているはずです。
 私たちもまた、神の御心を百パーセント掴んで祈るなら、天の祈りと地上の祈りが一つになりますから、主の祈りと同じように、「御心が天でなるように地でもなり」、この地上に天国がおりてきます。それが更に深い、神の国の奥義もあるわけです。

 死後、神と共に過ごすためには何をしたらいいのかといったら、それは「イエス・キリストを自分の救い主として、個人的にお迎えする」事が必要です。イエス・キリストを自分の神とすることが重要です。

 最後に二、三、聖書の御言葉を学んで、終わりにしたいと思います。聖書はだいぶ分厚い書物ですが、創世記から黙示録まで一貫しています。そこには一貫したストーリーがあるのです。
 創世記の三章に、人間が罪を犯したために、神から追放されたというストーリーがあります。創世記三章二十四節、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

 これは聖書の最初の部分です。人間が罪を犯したために、神の前から追放されてしまったという、人類の罪の始まりと堕落を表しています。
 そして聖書の終わりの部分が「ヨハネの黙示録」です。聖書には六十六冊の本が一冊になっていますが、その最後の書です。何千年というスパンの中で、ストーリーが展開し、最後にヨハネの黙示録に到達します。ヨハネの黙示録二十二章十四節にどのように記されているのかというと、

『自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。』

と記されているのです。
 すごいじゃないですか。創世記に、「いのちの木への道がふさがれた」とあって、聖書の最後に「もう一度、いのちの木の実を食べれるようになる」そして、「都の中に入れるようになる者は幸いだ」と結んでいるのです。
 聖書の初めと最後の言葉の二節をピックアップしてみても、聖書が神から人類に与えられた書物だ、と信じざるを得ません。こんな本ってどこにありますか?何千年もかかったストーリーの中で、始まりと終わりがつながっているなんて、普通、そんなのあり得ません。伝言ゲームを何千年も続けたら、普通はむちゃくちゃになってしまいます。しかし聖書は違います。

 そして、聖書のある意味での真ん中、「ヨハネの福音書」を開きますと、五章三十九節にこう記されています。

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』

 なんと、永遠のいのちを与えるのは誰かといったら、「わたし」、イエス様だというのです。旧約聖書から新約聖書までを通して、「永遠のいのち」というテーマがあるのですが、それを与えて下さるのが誰かといったら、「イエス・キリストだ」というのです。
 このように、聖書には三本の太い柱が立っていて、その真ん中の最も重要な柱が「イエス・キリスト」柱なのです。
 同じヨハネの福音書三章十六節には、大変有名な言葉があります。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 イエス・キリストを自分の救い主として受け入れたら、永遠のいのちを持つことができるのです。滅びではなくて、神の国、天国に入ることができると教えているのです。
 死後の世界について、はっきりと理解しなければなりません。曖昧さの中で放っておいてはいけないのです。それもまた、悪魔の策略です。知らないうちに滅びの世界に連れて行かれます。
 けれども、私たちが神の御言葉から、死後についてはっきりと知り、そのためには何をしたらいいのかを理解したら、それさえ握るなら、永遠の世界を、神と共に過ごすことができるのです。

 あなたは永遠を何処で過ごすつもりですか?「天国で過ごすつもりです!」と答えることができたら、幸いですね。決して悪魔の支配している地獄には行かないでください。悪魔の情報に騙されないでください。私たちの造り主である、また、救い主であるイエス・キリストを信じて、神と共に生きて下さい。

 そのためには、簡単です。「イエス様、私の人生に来てください」とお祈りするだけでいいのです。イエス様は、私たちを死からいのちへと移してくださるというのが、聖書が教えです。

 最後に、永遠を過ごす場所をしっかりと定めて、礼拝を終わりたいと思います。一度みなさんお立ち上がりくださいますか?そして、みなさんと一緒に、お祈りの時を持ちたいと思います。今日は、永遠の命を与えていただけるように、お祈りしましょう。
 人類は罪を犯したために、エデンの園から追放されてしまったのですが、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪の身代わりとなって死んで下さいました。それは、私たちの罪を赦すためでした。私たちが「罪を赦してください」と口に出すだけで、赦してくださるのです。「イエス・キリストを信じます」と告白するだけで、救ってくださるのです。
 今日は全員が、イエス・キリストを自分の救い主として、受け入れるお祈りをしたいと思います。私が祈りますから、みなさんも大きな声で、告白して下さい。『口の告白によって救われる』とありますから、しっかりと告白していただきたいと思います。
 今日の告白が、みなさんの永遠を変える告白となります。では祈ります。

 「イエス様。今私は、イエス様を私の神として信じます。私の救い主として信じます。私の人生に来てください。永遠の世界を変えてください。神と共に過ごす場所に私を入れてください。この地上においても、問題のない、楽しい人生を与えてください。悪魔の情報に騙されませんように。神の教える正しい情報を、人生の中心に据えます。イエス様、あなただけが神であることを宣言します。私の永遠は、あなたと共にあります。信じます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 では私がお祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、父なる神様。御名をあがめ、心から賛美します。今日は私たちの永遠に関わる話をしましたが、主よ、あなたは私たちの人生を、永遠に保ってくださるお方ですから感謝します。永遠の住処を用意してくださっていることを、ありがとうございます。
 主よ、一人一人の上に、守りを与えてください。あなたの住まいで共に過ごすことができる仲間を、心から感謝します。また、このことを多くの人たちに伝えることができますように。悪魔の情報に、決して、惑わされることがないようにしてください。
 お一人お一人の上に、特別な祝福をお与えください。あなたから与えられた人生を、勇気を持って歩むことができますように。心から感謝して、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 隣の方に「あなたの永遠は天国にあります!」と宣言して、お座りください。