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『あなたは代々の荒れ跡を一新します!』

2012.9.16 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書61章1節〜4節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』



 ハレルヤ!おはようございます。今日もこうして、みなさんと共に礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。
 今日は敬老の日です。おじいちゃん、おばあちゃん方、よく生きて来られました。おめでとうございます。私も敬老の日に入れるように、がんばって生きていきたいと願っています。若い方はこれから長い人生ですが、がんばって下さい。

 いよいよ台湾リバイバルミッションが迫ってきました。今も台湾語で賛美をしました。よくわかりませんが、何か感動します。しかし台湾・中国語は漢字表記ですから、何となくは漢字を見れば意味はわかります。現地に行かれる方も、行かれない方も祈って支えていただきたいと思います。

 今回の台湾リバイバルミッションのために、ざわめきも中国語で、台湾語表記だそうですが翻訳されました。雅也先生はすごいですね。全部覚えて歌い切りました。「彼は今日、台湾語で歌うかな」と思っていたのですが、全て歌詞を覚えて歌いました。きっと彼は、昨晩は寝ていないと思います。なかなか記憶力がいいですね。
 ざわめきを中国語に訳してくれたのは、韓国リバイバルミッションを手伝ってくれた韓国人の女の子です。私たちの東京集会に集っている、ジヨンちゃんです。彼女は中国にも長く留学しており、中国語がぺらぺらです。
 また、東京は台湾人の留学生も多いので、一緒に訳してくれたそうです。昨年は韓国リバイバルミッションを開催しましたけれど、日本と韓国の連携で台湾リバイバルミッションのために働けることを、感謝しています。それも不思議な事だと思います。

 しかしこの頃、日韓関係、日中関係、また、台湾との関係も含めて、日本が孤立を深めています。このまま行くと日本は大丈夫かなという状況です。
 まずは竹島問題も深刻です。李明博大統領が竹島、韓国名は「ドクト」と言うのですが、上陸したことによって今までは良好だった関係も冷えてきました。
 東京に行きますと、大久保とか新大久保という街は韓流ブームで毎日賑わっています。この賛美を訳してくれた彼女も、そこで働いています。
 しかしこの頃は、大久保に「韓国人出て行け!」と叫ぶデモ隊が来るというのです。毎日のようにデモ隊が来て、本当に怖いというのです。
 彼女は「日本と韓国が一つとなって主のために働きたい!」というビジョンで日本に来たので、たいへん悲しかったそうです。毎日のように、自分が働いている職場の下でデモ隊が「韓国人は新大久保から出て行け!」なんて叫ぶそうです。それで本当に参ってしまって、「もう日本にいたくない」と思ったそうです。悲しくなって、韓国に帰りたくなったそうです。
 今や日本は国際社会ですから、多くの外国の方々がおられます。お互いに仲良くしなければいけません。彼女は他にも問題があって、落ち込んで韓国に帰りたいと思っていたそうです。
 すると、ある日、彼女は病院の受付をやっているのですが、あんまり知らない韓国人牧師が彼女の所に来て、「これ食べてください」と新聞紙に包んだ桃をくれたというのです。
 みなさんも果物を誰かにあげる時、新聞紙に包んであげることがあると思いますが、彼女は桃を受け取り、新聞紙を開いてみたというのです。そうしたら、びっくりしたのです。どんな新聞かちょっとお見せしましょう。

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 なんとこの新聞にくるんであったというのです。ここに出ている人は誰でしょうか?
 これは私が七月に、アメリカのシアトルの韓国教会で奉仕した集会の内容のレポートです。「滝元順という日本人牧師が、韓国と日本の一致のために働いている」というような内容です。
 それを見て彼女は慰められ、心癒やされて「日本でがんばっていこう!」という気になったというのです。
 神様って本当にきめ細やかな、配慮のあるお方です。韓国人の牧師は、彼女に桃をあげようと、そこらに落ちていた新聞紙に桃を包んだのだと思うのですが、それが韓国のクリスチャン新聞で、たまたま私のことが載っていたのです。それで癒やされたというのです。

 時々、心傷つくようなことがあったり、悲しいことがあったりしますが、神様はどんな方法でも私たちを癒やし、助けることができるのです。「わたしは、何でも出来ますよ。心配するな」ということではないでしょうか。みなさんも、安心して下さい。

 今日読んだ聖書の箇所は、イエス様が地上に来られた目的です。それがイザヤによって預言されました。『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』とあります。
 イエス様がこの地上に来てくださったのは、心傷ついた者をいやすためでした。「私の心の傷は治るわけがない」なんて思わないでください。新聞紙一枚を使っても、主は癒やすことのできるお方なのです。

 今日も子どもたちに「おもしろ写真ある?先に見せて」と言われました。
子どもたちのために持って来ました。こんなのはどうでしょうか?

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 なかなかいいですね。小さな椅子でも座ることができます。また、これはどうですか?

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 わかりますか?大根です。おもしろいですね。子どもたちとのお約束でした。

 さて、今読んだ聖書の箇所は「救い」には、どのような意味があるのかについて述べられています。
 「救い」とは「心の癒やし」と、『捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ』とありますから、「解放」であると述べられています。
 さらに救いとは、個人の救いに留まらず、四節を見ますと、『彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』と、街、さらには国の復興まで拡大します。
 イエス・キリストを信じるとは、ただ個人の救いと回復だけではなく、街の回復、国の回復、国々の回復という大きな目的があるのです。そんな救いの中に私たちは入れられているのです。
 今日は四節の御言葉から題をつけさせていただきました。『あなたは代々の荒れ跡を一新します。』
 私たちは、代々続いて来た荒れ跡を一新するために救われたのです。ですから、個人が救われたことで満足してはいけないのです。それ以上の概念と目的が、救いの中にはあることを捉える必要があるのです。

 実はイザヤ書六十一章は、イエス様がご自分でも引用され、「この御言葉が今、成就しました」と語られました。ルカ四章十八節〜二十一節。
 イエス様が手にイザヤ書の巻物を受け取り、シナゴーグで、主の日に選び出しました。今私たちが持っている聖書はページ物ですけれど、昔は巻物でした。イザヤ書は長いですから、相当な巻物だったと思われます。後ろの方までごろごろ転がして、ある箇所を選ばれたのです。それがイザヤ書六十一章でした。昔は章も節もありませんでしたが、この箇所をピックアップしました。

『「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」』

 イザヤ書六十一章の御言葉は、イエス様が地上に来られたことによって、実現しました。それも「今日、聖書の御言葉があなた方が聞いた通り実現しました」と語られました。

 私たちは、人との会話の中で、何を聞きながらコミュニケーションしているのかといいますと、「時制」を意識しています。そのことが過去に起こったのか、現在のことなのか、未来のことなのか、すなわち、過去、現在、未来という時制を気にしながら会話し、生活しています。
 もちろん、特には意識しないのかもしれませんが、「これは過去のことだ、未来のことだ、現在のことだな・・・」と瞬時に仕分けしながら、会話しています。日本語の中には時制がありますから、自然と使われるものです。これは元を正せば、ギリシャ的時制概念だというのです。ギリシャ語も、過去、現在、未来が区別されていて、人々は時制を区別しながら生活しているのです。
 しかし、ヘブル語は時制の概念が違うというのです。イエス様はヘブル語、当時はアラム語を話されていたのですが、ユダヤ人は時制の概念が違うというのです。
 うちに孫がいるのですが、彼女と会話をしていると、過去のことはすべて「昨日」、そして、現在と未来のことは「今日」と表現するので、いつの話か考えなければいけないのですが、ユダヤ的時制概念は、「完了」か「未完了」のどちらかだというのです。完了したのか、未完了なのか、二つの時制だというのです。

 神が言葉を語られる、また、イエス様が語られるとは、何を意味するのでしょうか。それは神が言葉を出された瞬間、既にそれが完了しているのです。神にとっては未完了はなく、完了なのです。
 私たち人間ならば、まだ終わっていないことは未完了になりますけれど、神様は未来に行われる事柄も、言葉を出した時点で完了形となるのです。
 私たちが神の御言葉に接し、「この御言葉が実現したらいいな」と考えるわけですが、神は言葉を発せられた時点で、すでに実現しているのです。
 ということは、個人の救いだけでなく、家族の救いも、地域の救いも、国の救いも、国々も神の手の中にあっては既に完了形であるのです。
 私たちは日本のリバイバルのために真剣に祈っていますけれども、これは神様の中ではすでに完了形です。ですから私たちは常に神の視点で、また神の時制で物事を捉えなければいけないのです。神の手の中にあっては、完了形であることを信じて歩んでいきたいと思います。

 私たちは二十一世紀の街に住んでいますが、世界のどの街を見ても、ひどく荒れ果てています。どんどん悪くなっています。昔は考えなかった治安について真剣に考えるようになりました。この近所でもそうです。私の小学校の頃、鍵をかけている家なんてありませんでした。学校から帰ってランドセルをぽーんっと投げて、すぐに友達の家に遊びに行きました。何処の家でも玄関を開けると開きました。「だれだれちゃん!遊ぼ!」と言うと、家の中に声を響かせることができました。ピンポンなんてなかったです。
 返事が無くしーんとしていると、「だれだれちゃん!いるの?」とか言って、家の中まで入って行って、「どこに隠れているの?」と、一つ一つの部屋を見て廻り「あれ?誰もいない?」と言って、裏口から出て行ったものです。
 でも、この頃ではどうでしょうか?鍵をかけていない家なんて、この近所でもどこにもありません。この頃の家は、玄関の鍵が上下に二つかかるようにできています。なぜならば、街が荒れて来たからです。これからどうなってしまうのだろうかと思います。

 実は、世界で初めて街を創った人物は、どういう人物かが聖書に記されています。創世記四章十七節に記されています。

『カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。』

 誰が世界で最初に「都市」の建設に手を染めたかというと、カインという人物でした。最初の街の名前は「エノク」。自分の息子の名前をつけたというのです。
 実はこのカインという人物、四章を初めから読んでいくと分かりますが、世界で最初の犯罪者でした。どんな犯罪を犯したのかと言うと、殺人です。
 アダムとエバにカインとアベルという二人の子どもが産まれました。この二人が神の前に捧げ物をしたら、弟のアベルの捧げ物を神は受け取り、カインの捧げ物を拒否されたのです。そのことでカインは弟に対して腹を立てたのです。それは自分自身の神に対する態度が悪かったのですが、彼は弟のアベルを野原に連れて行って、殺してしまったのです。兄弟喧嘩もほどほどにしておかなければいけないですね。重大な事件にまで発展しますから。
 それで神は、カインをその土地から追い出してしまったのです。創世記四章十四節〜十五節、

『ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。』

 カインという男は殺人の罪を犯し、神によって土地から追い出されました。しかし神様には愛があります。こんな殺人を犯した男に対しても、彼を守られたのです。彼に手出しする人物には、七倍の復讐を受けると言われ、一つのしるしをカインに与えました。
 「しるし」とはどういうものか、注解書を見ると、たぶん「すごみ」であっただろうと言われます。彼はその後、すごく恐ろしい雰囲気になったというのです。彼を見た者は「恐ろしい!カインには近寄らない方がいい!」という風に変わったのです。それでカインは守られたというのです。
 それは彼自身の守りではあるけれど、一方では、罪の結果でもあります。彼が殺人の罪を犯したゆえに、彼にすごみがついてしまい、地方を渡り歩くさすらい人になっていくわけです。

 このカインの手によって、世界初の街が創られたと記録されています。四章をずっと読んでいきますと、カインから子孫が生まれ出て、二十三節から見ると、カインから数えて五代目にあたる「レメク」という男が出て来ます。二十三節〜二十四節、

『さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」』

 この箇所をわかりやすく訳し直したリビングバイブルで見ますと、

『ある日、レメクはアダとツィラに言いました。「おまえたち、よーく聞けよ。身のほど知らずにわしを襲い、傷を負わせた若僧がいたのさ。で、そいつを殺してやった。カインを殺す者は七倍もの罰を受けるんだったな。だが、わしの場合はそんなもんじゃない。あの若僧のかたきを討とうなんてやつは、七十七倍の罰を受けねばならんぞ。」』

 こうして見ますと、一回憎しみの剣や、死の剣が家族、家系の中に入ると、放っておくとどんどん増殖していくのがわかります。
 カインがアベルを殺した時は一人を殺したようですが、カインを殺した者には七倍の復讐を受けるという法則が適用されてしまい、その後五代目のレメクの世代では「カインに七倍の復讐があったら、レメクには七十七倍だ」と。
 レメクの世代では、なんと七十七倍の破壊の剣となっていたのです。家系に悪い剣が入る事は恐ろしいです。
 また、街に一度破壊の剣が入ると、放っておくとどんどん増殖してしまうのです。ゆえに、現代社会は悪くなっていくのだろうと思われます。

 イエス様の時代、ある時イエス様に「誰かが悪い事をしたら何回まで赦すべきですか?七回ですか?」と質問したら、イエス様は「七を七十倍するまで赦しなさい」と言われました。七を七十倍といったらどうでしょう?四百九十倍です。レメクの時には七十七倍でしたけれど、イエス様の時代には、少なくとも、四百九十回も繰り返し赦さなければならないほどの事が起こっていたはずです。
 「憎しみ」という剣が街に入ると「放っておくとどんどん自己増殖し、街が破壊されます」と教えています。

 私達がイエス・キリストを信じるとは、街のただ中で、どんな意味があるのかというと、個人の救いだけでなく、「代々の荒れ跡を一新する」という役割も担っているということです。
 生まれた家や家系の中に、破壊の剣が入っていたとしても、イエス・キリストを信じる救いの中に、「代々の荒れ跡を復興する」という役割が含まれているのです。
 イエス・キリストを信じる時、代々破壊の剣が侵入していたとしても、それを一掃することができるのです。
 そのような役割を果たさせていただきたいと願っています。新しい世代の中には、決して破壊の剣は持ち込まれないという、勝利の宣言です。
 それは、自分自身の家系だけではなく、先の荒れ跡を復興し、廃墟の街々と拡大されているように、やがては、国単位で復興する計画まで含まれているのです。

 街を支配しているのは誰か?先ほど学んだように、そもそも街の原点にカインと殺人の罪が関わっていたように、悪い罪の土台があるのです。その罪が、自己増殖して、街々を破壊しています。それは何が言えるかというと、世界の街々を支配しているのは、神ではなくて、神のふりをした存在、すなわち悪魔・悪霊であるということです。
 イザヤ書十四章十六節〜十七節を読みますと、こんな記述があります。イザヤ書十四章は悪魔について言及している箇所であると言われます。新共同訳ですが、十六節から見ると、

『お前を見る者は、まじまじと見つめお前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ国々を揺るがせ世界を荒れ野としその町々を破壊し捕らわれ人を解き放たず故郷に帰らせなかった者か。」』

 やがて人類が知る日が来るのです。それはすべて人類の歴史が終わってから知らされるのかもしれません。「おまえだったのか!犯人は!」と。街々を荒れさせ、人々を捕らえて苦しめていたのは「おまえだったのか!」と気づく日が来るというのです。
 「おまえ」とは誰のことでしょうか。これは悪魔・悪霊どもです。私たちは悪魔・悪霊どもが支配している街々、国々の中に生まれ、生活しているわけです。しかしそんなただ中で、昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の街々、代々の荒れ跡を一新するために、選ばれたことを知る必要があるわけです。主がそのような役割を与えてくださっているのです。
 新約聖書に至っては、使徒の働き三章十九節〜二十節、

『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』

 街の人たちが悔い改めて、主に立ち返ることは、街の回復に繋がるのです。回復の時が来ると預言されています。しかし最終的回復は、主がもう一度帰ってこられる再臨の日に、完全な回復が起こります。けれども、私たちクリスチャンは回復のために働いているのです。そして、その回復は、ただの回復ではなくて、街々、国々を支配している「おまえだったのか」と言われる悪魔・悪霊との対決の中で実現していくのです。

 今週は、台湾リバイバルミッションがあるのですが、是非とも祈っていただきたいと思います。今週私には二つの大きな仕事がありまして、なかなか大変な週です。まずは明日と明後日と、「霊的戦い専門課程」が始まります。これは特に、牧師や牧会に携わっている方々と共に、現実的に霊的戦いをどう進めるのかを、お互いに深く学ぶことを目的に設けられました。毎月二日間、これからずっと受け持つことになります。是非とも祈っていただきたいと思います。何を話したらいいだろうかと、昨日も真剣に祈っていたのですが、是非とも、私のために祈っていただきたいと思います。
 そして二十一日から二十三日は、台湾でリバイバルミッションがあります。私は二十日に台湾に行くことにしています。今週は関係スタッフたちが、台湾に行って準備をします。ぶっつけ本番みたいな集会です。
 韓国リバイバルミッションの時は、いろいろ準備集会が出来、韓国の方々と良い関係の中で開催出来たのですが、台湾では、ある意味、顔見せ興行みたいなところがありまして、最初の集会だから、気楽にやればいいかなと思っていました。
 しかし偶然に台湾でリバイバルミッションをやるように考えますが、偶然ではなく、「神の時」の中、こういう働きがなされていることがわかります。

 私たちがこのような働きをして、「これは本当の神様の働きだ!時を掴んでいる!神がこの集会を準備された!」とわかるのは、全てがうまく進んで扉が開かれる事からもわかりますが、それ以上に、様々な戦いが起こり、緊張感が出て来る時に、「あっ!これは主の働きだ!」と気づくのです。
 それはある意味、どの領域でも同じかもしれません。みなさんが何かしようとする時、妨害されるような、悪魔のアタックを感じる時があるかもしれません。それは、その戦いに勝利した向こう側に、神の大きな計画があることを教えているのではないかと思います。
 戦いが起こらなかったら、御心かどうか、ちょっと考えた方がいいのかもしれません。スムーズに行くのも恵みですが、戦いが起こる時、それを否定的に考えるのではなく、何らかの神の大きな計画と共にあると理解し、さらに勇気を持って前進する事が必要だと思います。

 実は二〇〇九年、最初の「韓国リバイバルミッション」を開きました。仁川において、五千人くらい入る会場で集会をさせていただきました。韓国の大きな教会が関わってくださいましたから、私たちがやらなくても人集めとかいろいろやってくださり、扉が開かれていきました。
 集会は二〇〇九年五月二十九日から始まったのですが、その前後で大きな戦いがありました。その時のことを覚えておられますでしょうか?それも国を超えて、戦いが起こったのです。覚えておられますか?

 まずは、韓国リバイバルミッションの開催月、五月が近づいて来た時、日本で新型インフルエンザ、豚インフルエンザが流行りました。最初それはメキシコから始まって、この頃、ウイルスも飛行機に乗って世界を移動するみたいです。エコノミーに乗るのか、ビジネスクラスに乗るのか、ファーストクラスに乗るのか知りませんが、飛行機で来るみたいです。
 成田空港で一人の日本人が新型に感染していることが発見されました。それが大きなニュースとなりました。あっという間に、何十人と日本に患者が拡大して、韓国からは「日本人、来るな」という感じでした。日本人が来たら、ウイルスも一緒に来ますから、検疫体制がすごく厳しくなりました。
 そうこうしていたら、ウイルスが今度は韓国に入ったわけです。すると日本人が韓国旅行に二の足を踏むようになりました。私たちは幾つかのツアーを計画していたのですが、ツアー参加者から「すいません。韓国で新型インフルエンザが流行っているので、行くの止めます」とか、「日本から出ちゃいかんと言われています」とか、いろいろあって大変でした。

 今じゃどうでしょうか?この頃みなさんがかかるインフルエンザは、ほとんどが新型らしいです。「おめでとうございます、新型です。」というような感じで、誰も気にしていません。けれども、あの時はみんなびくびくしていました。インフルエンザで「ミッションはできなくなるのかな・・・」という感じでした。

 そうこうしていたら、なんと韓国に大事件が起こりました。二〇〇九年五月二十三日に「盧武鉉」という元大統領が突然、自殺しました。あれはセンセーショナルでした。
 私はその時、韓国にいましたから韓国社会がどう変化したかをこの目で見ました。かつて日本で昭和天皇が死んだ日、テレビ・ラジオは全て暗い音楽になって、国全体が喪に伏したような状態になりましたが、韓国もまさに同じでした。
 しばらく前まで活躍していた元大統領が痛ましい自殺という死を遂げたことで、国民が痛み悲しみ、死者を拝む祭壇が全国に築かれ、本当に微妙な雰囲気になりました。
 韓国の葬式は三段階に別れていて、三日葬、五日葬、一番長いのが七日葬です。葬式が七日間続くのです。この人は元大統領なので七日葬になったのです。それは死んだ日から数えるので、二十三日から数えると、二十九日に葬式が終わるというのです。リバイバルミッションは二十九日からでした。
 私は心配になっていろいろな方に聞きました。「こういう時に日本主催の集会はどうでしょうか?」「そりゃ、微妙ですね」と言われました。知り合いの国会議員の方から電話がかかってきて、「順先生、そちらの集会、気をつけた方がいいよ」と言われ、緊張しました。「もしかしたら、大会ができなくなるかもしれない・・・」と思いました。
 やはり日韓関係は微妙なところがありますから、国民が悲しんでいる中で日本人主催の派手な集会は「そんなの止めちまえ」と言われるかもしれないのです。デモが起こったり、問題が起きるかもしれないと緊張しました。
 しかし、七日葬は午前中に終わったのです。集会は午後からで、セーフでした。けれども、何か起こるといけないということで会場前にはパトカーと警察官が配備されていました。そんな体験をしました。

 またそれを上塗りするかのように、これでもかというように五月二十五日に、北朝鮮が第二回目の核実験をしたのです。それに対して韓国が二十六日に対抗処置を取ったのです。韓国と北朝鮮は戦時中で、今はただ、休戦状態なのです。それで警戒レベルが一気にトップレベルにまで上がり、あわや戦争になるかもしれないという雰囲気にまでなってしまいました。
 本当に「これでもか、これでもか、これでもか」という感じで、集会は妨害されました。最後の最後、本当に心が暗くなりました。
 でも、そんな時、私たちも、また共に働いてくれた韓国側のスタッフたちも、気づきました。「これだけの事があるということは、絶対に、ただの集会じゃない!大きな神様の計画が背後にある。私たちを使って、荒れた国々を復興させるために、霊的な領域で大きな勝利がある!」と気づかされました。それで戦いを進めることができた事を思い出します。

 今回は台湾ということで、どういう事になるかと思っていました。ベトナムミッションも計画していたのですが、ベトナムも国内事情が変わって中止となりました。しかし、「台湾は日本と友好関係だから大丈夫だ」と思っていたのですが、どうでしょうか。この頃、本当に、台湾周辺がキナくさくなって来ました。
 前回もお話ししましたが、今日本を中心軸にいろんな問題、それも領土問題に荒れています。日本のナショナリズム、国家主義が高揚してきた時にこういう領土問題が起こるというのも、私は霊的戦いがこの背後にある気がしてなりません。
 一昨年、「坂の上の雲」が流行り、みなさんの中でもそれにはまった人がいるかもしれませんが、あれは何を描いていたのか。司馬遼太郎は「日本の歴史の中で、明治の初期が最も活力がありすばらしかった。あの青年期の日本に戻ろう」というような描かれ方でした。しかしあれはあくまでも小説であり、真の歴史ではないのです。
 あの時が一番良かった、なんていうことは決して出来ません。歴史とは連綿と続き流れるものですから、決して、その時期だけを強調できないはずです。何かあの時が、日本の始まりみたいに勘違いさせられています。「今の日本は悪くなってきた。あの時に戻ろう。」という気運が、形成されました。あの時期は国家神道が台頭した時期でした。
 そして今年はオリンピックでした。オリンピックは、国家主義が自然に盛り上がります。人に圧力をかける権威を使う時、例えば「オリンピックだ。おまえら日の丸を掲げろ!」なんて言われたら反発を感じるわけです。明日は敬老の日ですが、「祝日には日の丸をあげろ!」と国が一軒一軒に圧力をかけたら「強制するな。やだよ、俺は!」と反発するのです。抑圧的な権威は必ず破綻します。誰かからプレッシャーをかけられて行動しても、初めは従いますが、抑圧的権威は歴史を見てもわかりますが、必ず破綻する日が来るのです。
 でも、同じ権威でも抑圧的でない使い方があるのです。それが何かといったら、オリンピックなどのスポーツです。たとえばサッカー。日本を応援するために、国から「応援しろ!日の丸を持って行け!」なんて言われないのに、自分のほっぺたに日の丸を自ら描いてしまうのです。日の丸をまとって「日本!日本!」と叫ぶのが快感となるのです。同じ日の丸を掲げるのにも、全然、権威の使われ方が抑圧的なのか、自主的なのかで違うのです。

 教会も抑圧的な権威ではなく、神様の権威を自分で体験することが必要です。賛美の中で主の臨在を体験したら、自然に賛美しますよね。もしも私が講壇から「おい、みんな!賛美の声が小さい!もっと大声で賛美しろ!」なんて言ったら、みんな反発します。でも、個人的に主の臨在に触れたら、自主的に大声で賛美するのです。
 日本が、オリンピックで金メダルを取ったとかいって興奮し、ナショナリズムが高揚した時、右よりのグループが出て来て、そのただ中で北方領土にメドベージェフ大統領が行ったり、竹島に韓国の大統領が上陸したり、尖閣諸島の問題が起こっているわけです。

 これって誰が犯人なのでしょう?国々の背後に働いている、暗闇の存在がいるのです。このような時、私たちは日本人の視点に立って物事を判断してはいけません。神の国に国籍がある者として、「今、国々に何が起こっているか」を見分けなければならないのです。神の時を悟り、祈らなければならないのです。
 日本内外の問題は、決して政治的問題ではないのです。それは霊的問題です。裏ですべてを仕組んで働く存在がいるのです。「おまえだったのか!」と「やがて」気づくのもいいですけれど、先に気づくことが大切です。それがクリスチャンの役目です。
 目に見えない存在である悪魔・悪霊どもが諸国の敵なのです。この存在に立ち向かっていかなければならないのです。

 現在、最も大きな問題が「尖閣諸島問題」です。尖閣諸島ってどこにあるのか、みなさん知っていますか。ちょっと地図を出したいと思います

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 この辺で竹島と言っても、蒲郡の竹島しか思い出さないのですが、竹島は韓国と日本の間にあります。そして、尖閣諸島は台湾のすぐ側にあります。もう少し詳しく見るとこうです。

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 魚釣島ってよく出て来ますが、石垣島のすぐ近くです。沖縄本島から四百十キロ、台湾から百七十キロ、中国から三百三十キロ、台湾のすぐ側なのです。
 今まさに、日本と中国が戦争になりそうな状況です。日本は中国を憎み、中国は日本を憎んで大変な状況になっています。今週は中国から漁船団が向かうと予想されています。朝の討論番組を見ても、自民党の総裁選挙のことばかりが報道されています。中国に対して、断固とした態度を取らなければいけないというような意見が出ていて、これからどうなるのか心配です。台北は尖閣諸島寄りの場所です。今回、主の何らかの計画があるのではないか、と私は思います。このような時期に、人や国を敵とするのではなく、背後で働き、国々を潰そうとしている霊的勢力に立ち向う時、廃墟は建て直され、復興し、廃墟の街々、代々の荒れ跡を一新してくださると信じます。

 今回の台湾リバイバルミッションが、ただの集会になるのではなく、暗闇の天において、勝利を宣言する時になって欲しいと心から願っています。
 現地に行かれる方も行かれない方も、是非とも祈っていただきたいと思います。最後にエレミヤ書三十一章の御言葉を読んでみたいと思います。二節〜六節、

『主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 イスラエルは十二部族で構成されていました。しかしそれが分裂し、ばらばらになりました。けれども、主はやがてすべて回復すると預言されています。
 三節に『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。」』と語られています。
 解放と救いは、個人、家族、代々という家系、さらには地域、街、街々、国、国々という、大きな視点で語られています。今週、この御言葉が実現するよう、祈りたいと思います。

 週報の中に「今週の御言葉を宣言しましょう」と「御言葉の剣」がありますけれど、毎回これは、預言的な御言葉です。是非とも宣言していただきたいと思います。今週はエレミヤ書三十一章四節、

『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』

 国々が主によって一つとなり、喜び踊る者たちの輪に出て行くリバイバルが前進するように祈っていただきたいと思います。
 『彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』このような役割を果たして行きたいと願っています。
 最後に一言お祈りして、聖餐式を持ちたいと思います。祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちを救ってくださったことを、心から感謝します。ただ個人の救いと回復だけでなく、多くの領域にその責任が及んでいることを今日、学びました。主よ。救いをただ個人的なものにするのでなく、多くの領域の廃墟を建て直す者として、用いて下さい。代々の荒れ跡を一新する者として、油注いでください。
 今週は台湾でリバイバルミッションがあります。それがただの集会に終わるのではなく、目に見えない世界において、多くの領域を勝ち取るものとなりますように。私たちが為すべきことを教えてください。
 今から聖餐式を行います。聖霊と御言葉によって聖餐式を行います。主よ、この時があなたと一つになり、御心を悟る時となりますように。聖餐式と共に、御言葉が実現すると宣言します。
 イエス・キリストの御名によって祈りします。アーメン。