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『主よ、私たちに
祈りを教えてください!』

2012.10.7 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 11章1節〜8節

『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』



 ハレルヤ!おはようございます!たいへん素晴らしい演奏と映像でした。映像をうまく組み合わせ、この一曲を演奏するまでに、彼女たちは何ヶ月も祈りながら、準備をしていたのを私は知っています。神様に最高のものを捧げることは、本当にすばらしいです。人々にも感動を与え、神にも感動を与えます。主が喜んでおられると思います。
 新城教会には音楽の賜物を持っておられる方が、多くおられます。いつも、すばらしい演奏を聴かせてくだいます。すばらしい演奏を聴く度に、私はそれに見合ったメッセージを語ることができるだろうかと、いつも不安になります。しかし今日も祈って、メッセージを準備させていただきました。

 この頃は映像が手軽に使えるようになりました。昔は教会で賛美をする時は、オーバーヘッド・プロジェクターという器械を使っていました。歌詞を手動で、素早くプロジェクターに載せて投影しました。
 甲子園ミッション時代には、プロジェクターの歌詞を、素早く出す名手もおられました。その名手がN姉妹というんですが、もう一回あの妙技を披露していただきたいです。何百曲もある中から、瞬間的に出すわざは今も伝説として残っています。あれも神の与えた、時代の賜物だったと思います。

 台湾でリバイバルミッションがありましたが、台湾リバイバルミッションの初めから終わりまでを、台湾側で編集しビデオを送ってくださいました。これは日本側で制作したのではなく、台湾の視点で制作し送ってくださいました。今からその映像をお届けします。台湾に行かれなかった方も、雰囲気を味わうことができると思います。ざわめきに乗せて、映像を作ってくれました。少し台湾での様子を見ていただきたいと思います。

<台湾ミッションビデオ>

 現地より今後も、台湾リバイバルミッションを続けたいという要望もありまして、今週は信弘先生と上條先生が、台北に行かれます。是非とも祈って支えていただきたい思います。

 みなさんの祈りに支えられて、様々な宣教の働きが進んでいるわけですが、その為には「祈り」が本当に重要です。今朝は、今読んでいただきました聖書の箇所から、「主よ、私たちに祈りを教えてください!」というタイトルでみなさんと共に、祈りについて学んでいきたいと願っています。

 今も、みなさんと一緒に「主の祈り」を祈りました。弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」頼んだところ、その時に教えられた祈りが、私たちも毎週祈っている主の祈りでした。それがルカの福音書十一章に出ています。
 聖書は、ただ単にイエス様に新聞記者が付いて行って、イエス様の行動をランダムに記録した書物ではなく、伝えたい意図がしっかりあって記述されています。ルカの福音書も、ルカという記者が、読者に伝えたい意図を持って記事を構成しています。
 私も今まで何冊かの本を出版しました。つたない本ではありますが、それでも韓国語や英語に訳された本を含めると、九冊くらいになります。よくも書いたものだと思いますが、本を書く時は、まず最初に構成をしっかりと考えなければなりません。どのような内容で、どのような順序で書くかを、あらかじめ決める必要があります。起承転結をしっかりさせて、しっかりとしたコンセプトを持って書かないと、人々に意図は伝わりません。
 聖書もはっきりとした意図を持って、神の霊によって編集された書物です。ルカの十一章を家に帰ってから、よく読んでいただきたいと思うのですが、聖書の読み方としていつも教えられるのは、前後関係です。一つの御言葉だけを取り出しても恵まれますが、やはり前後関係がとても重要です。それは一つの流れの中で、メッセージが語られているからです。

 ルカ十一章に至るには、その前にルカ十章があるわけです。十章、十一章の流れで神が私たちに伝えたいメッセージがあります。十章はみなさんよくご存じの、大変有名な「良きサマリヤ人」の例えが出てきます。旅の途中、強盗に出会って倒れていた旅人をサマリヤ人が助けるストーリーです。
 イエス様がそのストーリーを語るきっかけとなったのが、ルカの福音書十章二十五節にあります。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』

 福音書は、マタイ、マルコ、ルカを共観福音書と呼びます。この三書は同じような視点で書かれています。その為、そこには並行記事といって、同じような内容が含まれています。しかし同じ内容でも、マタイの福音書には含まれているけれど、ルカの福音書にはないもの、その逆もあります。並行して記されている記事を照らし合わせると、さらに聖書の御言葉が立体的に浮かび上がって来ます。
 律法の専門家がイエス様を試そうとして語った言葉が、マタイの福音書二十二章にも出ています。三十六節を見ると、

『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』

 実は、良きサマリヤ人の例えと、十一章の祈りの教えは「最も大切なことは何か?」ということを、私たちに投げかけているところです。
 最も大切なこと、信仰生活において、人生の中において、最も大切なことってなんだろうかと思います。「最も大切なこと」いう視点を持って、ルカ十章、十一章を読むと神からのメッセージが届きます。
 最も大切なことに関して、ルカの福音書十章二十七節とマタイの福音書二十二章三十七節では、

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 最も大切なことは「神を愛することだ」と語られました。私たちの信仰生活の中で、最も基本になることは「神を愛する」ことです。
 しかし私はいつも語るのですが、日本人は神を愛することにおいての概念はありません。なぜなら日本の神々は、怖い神様ばかりだからです。そんな神様に愛して欲しくないと思うわけです。千手観音の千本の手で抱きしめられたら困ると思いますし、不動明王みたいな怖い神とは一緒に歩きたくはないと思います。日本人は、神から愛されたいなんて、さらさら思ってはいないのです。なぜなら、全てが恐ろしい神々ですから。

 しかし、聖書の神様はそんな手が千本もあるような、気持ちの悪い神ではありません。人間を造り、生かし、愛して下さる神だからです。キリスト教信仰の基礎は「愛」です。愛を基礎に進んでいかなければならないのです。
 神も私たちを愛して下さるから、私たちも神様を愛するのです。神を愛する愛によって信仰を持つなら、負担は何もありません。
 時々、聖書の戒めを読んで「神様って怖い神様だね」という人もいますが、神の戒めは私たちの幸せのためです。
 この世の中には、いろいろなルールがあります。道路交通法も、ちょっと考えたら迷惑です。「こんな所を四十キロで走れって言うのか・・・」と、ある時は負担に思うかもしれません。しかしそれは「それ以上スピードを出すと、事故を起こしますよ」という警告であり、幸せに生きるための法則です。同様に、神が人類が幸せに生きるための法則を与えてられたわけです。ですから私たちは、神からの戒めを愛によって受け止め、愛に答えていかなければならないのです。

 『心を尽くして思いを尽くして知力を尽くしてあなたの神様を愛しなさい』という戒めの後に、「隣人を愛する」ことが語られ、良きサマリヤ人の例えが出て来ます。
 「神を愛する」とは、雰囲気ではわかりますが、神様は目には見えませんから、どう愛していいのかわかりません。しかしそれが具体的に現されているのが、「隣人を愛する」という教えです。隣人を愛することで、神を愛することが具体的に示されるのです。
 コインは表と裏で一枚です。実は神様を愛する「愛」には、「表と裏」があるのです。それは表に「神を愛する」と書いてあったら、裏には「隣人を愛する」と明記されているのです。そして隣人を愛することが何なのかを、具体的に示したストーリーが、「良きサマリヤ人」のストーリーです。
 サマリヤ人とユダヤ人は、隣同士に住む二つの民族でした。
 今回も台湾リバイバルミッションで平岡先生がメッセージをしていましたが、一般的に「だれと仲が悪いか」というと、「近い人」だと語っていました。どうでしょうか。一番トラブルを起こすのは、自分の夫と妻、子ども、友人関係と言うような、結構近い人とトラブルがあります。地球の裏側に住んでいるような人とは、トラブルはあまりありません。

 国々も、やはり隣国との関係が悪いというのです。アメリカでも一番関係が悪いのが、お隣の「カナダ」だそうです。私の友人のジョー先生の教会の副牧師はカナダ人です。ジョー先生はいつも、カナダの変なジョークばかり言います。やっぱり、アメリカとカナダにはなんかあるのかな、と思います。
 そして日本も仲が悪いのは、一番近い韓国とか、ロシアとか、中国です。近隣諸国とのトラブルが多いわけです。平岡先生がそういう話を台湾でして、大丈夫かなと思いましたけれど、そういう中でも、台湾との関係がいいと話していました。
 良きサマリヤ人の話は、「お隣の国の人と仲良くしましょう!」というのが、かなり大きなテーマだと私は考えています。
 神を愛するとは、隣に住む民族の方々を愛する事により、具現化されるのです。もちろん、自分のすぐ近くの人を愛することも含んでいますが、隣人を愛するとは、ユダヤ人とサマリヤ人との関係、隣同士に住む違う民族を、自分と同じように愛する事なのです。

 ですから、日本に適用したら、韓国、中国、ロシア、そして、台湾の方々を愛し、祈っていくことが最も大切なことの一つであるということです。
 でも今どうでしょうか。それらが崩れている現実です。私たちが「神を愛する」と言うならば、「お隣の民族」を自分と同じように愛さなければなりません。新城教会では、そういう意味で、いろんな国から来てくださっていますから、お互いに愛し合うことを勉強できることは感謝です。

 その後のストーリーが、弟子たちの「イエス様、祈りを教えてください」という質問に繁がるわけです。
 実は、十章、十一章で伝えたいメッセージは、「最も大切なことは何か」それは、「神様を愛すること、隣人を愛すること、そして祈りが、最も大切ですよ」と教えているわけです。
 みなさん、この三つを、よく心に刻んでおくならば、我々の信仰生活は間違いありません。神を愛する、隣人を愛する、特に、隣の民族を愛する、そして、祈りです。その事柄を実行するならば、幸せになることができるのです。

 「祈りを教えてください」と頼んだ時、イエス様が弟子たちに教えられたのが、有名な「主の祈り」と呼ばれる祈りです。
 実はルカの福音書十一章と、マタイの福音書六章九節からも同じ祈りが記録されています。しかしこの二つをつきあわせてみますと、ルカの内容が少し欠けています。どうして欠けたのかは、いろいろな解釈があるのですが、私たちが礼拝の中で普段祈っている主の祈りは、マタイ六章の方です。マタイの福音書六章九節〜十三節を見てみたいと思います。

『だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕』

 このマタイの福音書に出ている祈りを、私たちも毎週礼拝で共に祈っているわけですが、もしかしたら題目ように唱えている人もいるかもしれませんが、実は、最も大切なこととして、主が教えられた祈りの中でも重要な部分であるわけです。

 イエス様が教えられたこの祈りは、当時ユダヤ人たちが神殿で祈っていた祈りの形式を踏襲しているとの事です。
 ユダヤ人たちは毎日祈りをしていたのですが、特にユダヤ人たちが重要だと考えていた祈りが、一日三回の祈りでした。それは朝の祈り、午後の祈り、そして夜の祈りでした。
 ペテロとヨハネが午後三時に、神殿に祈りに行った記事が出ています。そこで足の萎えた人を癒やした奇跡が使徒の働きに載っています。それは「午後の祈り」の時間でした。この三回の祈りを「シュモネー・エレス」と呼ぶそうです。「十八」という意味だそうですが、その祈りは十八の祝福の祈りから構成されているのですが、それを大別すると、三部構成になっているそうです。

 前半の部分では「賛美」から始まるというのです。『だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」』と教えられましたが、これは「賛美」です。第一にユダヤ人たちが祈っていた祈りは、最初に「賛美」を捧げたというのです。
 そして、次の祈りは何かというと、願い事「嘆願」だというのです。「神様こうしてください」というような願いです。案外、私たちの祈りはいきなり、お願いから始まることがありますが、祈りはまずは「賛美」から始めなければなりません。時々、子どもたちが親の所に来て「お父ちゃん、自転車買って」なんていきなり言われても、「なんで?」と思いますが、おだてから始められると親の場合もうまくいくことがあります。それと神様を一緒にしてはいけませんが、やはり神様も感情を持っておられるお方ですから、まず祈りも感謝から始め、次にお願いに入るのです。
 そして三番目は何かというと、最後は感謝だというのです。このユダヤ人たちがシュモネー・エレスという祈りの時、日に三回、「賛美」「嘆願」そして、「感謝」という順序で祈っていたそうです。先週読んだ本に、そのように書かれていました。主の祈りも最後も、『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。』と、賛美と感謝を捧げています。
 私たちの祈りもいきなりお願いではなく、神を賛美し、最後には感謝する三部構成で祈る時、神は祈りを聞いて下さるのです。それを主の祈りから学ぶことができます。

 今日は夜の七時からPPHという集会があります。PPHってなんだ?と思っている方もいるかもしれません。PPHとかPPMとか、この頃英語の頭文字が流行っています。私の若い頃、PPMというフォーク・グループが有名でした。私はあまり好きではなかったですが、PPHとは、「Praise & Prayer Hour」の頭文字です。これは甲子園ミッションの時に私が名付けたんですよ!プレイズ&プレイヤーアワーです。
 この集会は、神様を賛美し、祈り、また神を賛美し、祈る、繰り返しの集会です。これはイエス様時代の祈りと同じです。主の祈りと同じ構成です。
 賛美と祈りは、鳥でたとえるならば両翼です。鳥は片方の羽だけでは飛べないのです。両翼で飛ぶのです。賛美と祈りが一つになるこのプログラム、それは画期的なものでした。みなさん、是非とも今夜は集まって賛美して祈りましょう。この繰り返しの中で、主が私たちの祈りに答えてくださると教えています。主の祈りは最も大切なことの一つにリストアップされているのです。

 賛美の祈りの後、何を祈れと主は言われたかというと、「御国が来ますように」と祈れというのです。これはどういう意味でしょうか。御国とはギリシャ語では「バシレイア」英語では「Your kingdom」です。
 先週、ある先生がこの事について解釈している記事を読んで感動したのですが、御国とは「王国、統治、支配」という意味で「神が支配する王国」を意味します。
 この世には多くの国があります。世界中にどれだけ国があるのか知りませんが、きっと何百とある事でしょう。しかし世界には、たった二つしか国はないというのです。それはどのような国かと言えば、「神の王国」と、もう一つは「サタンの王国」の二つです。
 世界に存在する国々は、現実には神の国か、サタンの国の、どちらかに属しているのです。中間はないというのです。人はどちらかの支配に寄りかかって生きているのです。そして大部分が、悪魔の王国に属している現実があるのです。
 先週も「幻のない民は、欲しいままに振る舞う」という御言葉から語らせていただきました。神の律法を持たない国は無秩序になる、なぜかというと、悪魔の王国に属しているからです。日本も、周辺諸国も、一言で言うならば悪魔の王国に属しています。
 そんな中で唯一、神の国に属しているのは誰かといったら、クリスチャンです。クリスチャンの使命、神を信じる者たちが最初に祈らなければならないのは何かというと、「御国が来ますように!」という祈りです。それは、「神の国の支配が国に現されますように」という宣言であり、最初の祈りです。
 悪魔の王国のただ中に、神の支配が現されるように熱心に祈れ、と命令されています。原文は命令形です。それを宣言しなさいということです。「御国が来ますように~」とソフトに祈りますが、原文は命令形であり、「御国よ来たれ!」と悪魔の王国のただ中に、神の王国を宣言するのです。その祈りを最初に主は弟子たちに教えられました。

 次の祈りが、『みこころが天で行われるように地でも行われますように。』です。これも、『御国が来ますように』と同じ、命令形です。「御心よ、なされよ!」という宣言です。
 神の国では、神の計画は百パーセント実現しています。しかし悪魔の国においては、神の計画が止められ実現していないのです。ですから、神の支配が訪れ、そこに神の御心が現されるように宣言しなさいと教えられました。
 「御心」とはギリシャ語では「セレーマ」というそうですが、ここには二つの側面があると説明されていました。一つ目は神の完全な計画であり、それは誰も手を出すことができない神の計画です。人も、悪魔も、宇宙で誰も手出しできない神の御心があります。
 しかし、それと並んでもう一つは、「神の望まれる御心、神様の期待」という側面があるというのです。それは我々に任されている領域だというのです。実は、この御心も同様にセレーマという言葉が使われているそうです。しかし同じ言葉が使われているけれど、注意深く読むと、内容が区別されているというのです。
 動かすことのできない神の計画と共に、私たちに対する神の期待があります。私たちの行動いかんで、神の計画が実現するか否かが決まるのです。『御心が天であるように地でもなりますように』とは、私たちクリスチャンの行動と関わりが深いわけです。

 主が「この人には、こういう生き方をして欲しいな・・・。この人には、こういう祈りをして欲しいな・・・」という期待があるのです。その期待通りに、私達が生きることができるように祈らないといけません。そしてそれを止める敵の力に、立ち向かわなければならないことを教えられます。

 次に祈れと言われたのが、『日ごとの糧をきょうもお与えください。』という祈りです。現代において『日ごとの糧をきょうもお与えください。』という祈りは、あんまり必要ではないように思われます。なぜなら、今、お腹がすかしている人はいるかもしれませんが、それはただ、食物があっても食べる暇がなかったに過ぎません。
 食品には、賞味期限というのがあります。私は長い間、賞味期限なんて考えたこともありませんでした。みなさんはどうでしょうか。賞味期限を気にしますか?「当たり前だよ」と言われるかもしれません。
 しかし賞味期限と共に、「販売期限」というのがあるのをご存じですか?先週、テレビでやっていたんですが、販売期限には、三分の一法則というのがありまして、賞味期限の期間を三つに割るそうです。始めの三分の一は、商品の宣伝の期間で、真ん中の三分の一は店頭に出す期間で、最後の三分の一の時期になったら廃棄するというのです。
 普通、日本で売っているものというのは、賞味期限の三分の二以内で販売しているといいます。最後の三分の一の期間を残すと、食品は廃棄処分にされるというのです。年間一千五百億円分くらいの食品が、捨てられていると報道されていました。そんなことをしないでもいいのに、もったいないと思うのですが、廃棄する食品をフードバンクに引き取ってもらい、恵まれない方々に分けたりする運動を紹介していました。
 そんなのを見ますと、主の祈りの中で『日ごとの糧をきょうもお与えください。』なんて、祈る必要は無いと思われます。「もうすでに与えられている」と思ってしまうのですが、実は日ごとの糧の「糧」とは、ギリシャ語で「アルトス」という言葉だそうですが、「パン」と訳すことができるそうです。
 「日ごとのパンを今日も与えてください」と訳すことができるそうです。これは食糧がないから与えてくださいという意味もありますが、祈りの中で重要な真理を見落としているとありました。
 それは、イエス様が「わたしはいのちのパンです」と言われ、悪魔が石を持って来て、「イエス、おまえが神の子ならば、この石をパンに変えてみろ」と誘惑したとき、どのようにして悪魔に勝利されたかというと、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によると書いてある』と、マタイの四章四節にありますが、その御言葉で悪魔に勝利されました。
 『日ごとの糧をきょうもお与えください。』とは、ただパンを与えてください、食糧を与えてくださいという祈りではなく、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』、すなわち、「今日も、神様の言葉によって生かしてください」と祈りなさい、と告げているわけです。
 今週、朝、家を出る前に、「今日も一日、神からの言葉によって私を支え、生かしてください」と祈る必要があるのです。

 その後に教えられた祈りが『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』という祈りです。しかしその前提となるのが、六章十二節、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』という告白です。
 この意味は、どういう意味かというと、私が読んだ記事にはこう書かれていました。『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』の「悪」という言葉は「ポロネース」という言葉が使われているそうですが、これは「悪しき者」とか「悪魔」とも訳すことができる言葉であり、「私たちを肉的な誘惑に陥らせず、悪しき者、すなわち悪魔の策略に陥ることのないように私たちを守ってください」という祈りだというのです。
 「悪魔の策略に陥りませんように」と日々祈りなさいと言うのです。私たちが住んでいる世界には、悪魔の策略、仕掛けがいっぱいあります。それに引っかからないようにと祈りなさいと告げています。

 私たちクリスチャンは、基本的には、悪魔・悪霊どもの力から解放された者たちですが、ちょうどオレオレ詐欺のようなもので、詐欺師の策略に引っかかると、騙されてしまうのです。普通は詐欺には騙されませんが、オレオレ詐欺のような巧みな電話で、相手が自分の孫だとか子どもだと勘違いしたら、財産を奪われるのと同じように、「悪魔の策略に引っかからないように、日々祈りなさいよ」というのです。

 そして、その前提として語られているのが、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します』という「悔い改めの祈り」です。いつも礼拝で、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈っています。私たちが罪から離れ、聖くなる時、悪魔の策略に引っかからないことを教えています。
 私たちは日々、悪魔の策略を見抜き、勝利する者になりたいと願います。主の教えられた祈りは、さすが、深い内容を含んでいるわけです。
 この内容をよく理解し、私たちの祈りの生活の中に組み入れていくのなら、私たちの生活のただ中に、神の国が現されるということではないでしょうか。
 今日、プレイズ&プレイヤーアワーがありますけれども、主が教えられた祈りを心に留めながら、皆で主を賛美し、祈りたいと思います。

 実は、この祈りを前提にして、ルカはさらに進んで祈りについて記しています。先ほど読んだのはルカの福音書十一章一節〜八節ですが、その中で、主の祈りの次になんと記されているかというと、ルカの福音書十一章五節〜七節、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」』

 ここで述べられている「三つのパン」のストーリーも祈りに関する教えです。主の祈りを基本にし、さらにルカは突っ込んで祈りについて書いているわけです。
 この箇所からどんなストーリーによって祈りを教えているかというと、真夜中にある人のところに友人が訪ねてきたというのです。友人は「泊めてくれ」と言っただけでなく、「腹が減った」というのです。それで友人の腹を満たすために、その人は、なんとお隣の住人を、真夜中で寝静まっているのにも関わらず、たたき起こしてパンを三つ借りてくるという、普通に考えたら、むちゃくちゃなストーリーです。
 それを題材に「祈り」を教えているわけです。夜中に訪ねて来た友人のお腹を満たす、これは何を意味するのか。
 ルカの福音書十一章の前にあったストーリーを思い出してください。それは良きサマリヤ人のストーリーです。ある旅人が旅の途中、倒れていた旅人を助ける話によく似ています。そことリンクしているわけです。普通なら関わらなくてもいいような人に、積極的に関わって愛を表す行為です。三つのパンのストーリーは、「良きサマリヤ人の祈り」と名付けてもいいのではないかと思います。夜中に訪ねて来た友人の空腹を満たす祈りです。

 祈りとは、自分のお腹を満たすためではなく、ある意味で、通りすがりに倒れている人の為、または、真夜中に訪ねてきた空腹の友人のお腹を満たす為に、どれだけ真剣に求め、探し、叩くかという事です。自分以外の人たちの必要の為に、ひたすら祈ることが、祈りの真髄であることを教えているわけです。
 案外、私たちは祈りとなると、自分のこととか、自分に関連する周りについては祈りますが、通りすがりの人のために祈ることはないですよね。先ほど、良きサマリヤ人のストーリーの背景は、対立する二つの民族だと言いましたが、隣の国に住む、あまり関係のよくない人たちの為には祈りません。敵が倒れたら「ざまあみろ」と言ってしまいがちです。しかしそんな人たちのために愛を表し、必要を真剣に祈れと言うのです。中々出来ないことですが、そのような領域に祈りを向けて行くことが重要だと教えているのです。

 夜寝静まっている隣人の所に行って無理矢理起こして、三つのパンを借りて来るなんて、普通で言ったら関係を壊してしまう行為かもしれません。しかし自分の家に訪ねて来た、お腹をすかした友人のために、それほど真剣に祈ってあげなさいということです。
 夜中に隣にパンを借りに行くというのは、非常識なように見えるけど、よく考えてみれば、また逆から言えば、そこまで出来る信頼関係が確立した人が隣に住んでいることを意味します。
 実はこのストーリーを読んで行きますと、初めは隣人、友人と出て来るのですが、最後は父と子の関係に変わっています。これは父と子、神様と私たちの関係を表しています。夜中にたたき起こしても良いように、日頃から父なる神様との関係をしっかり保っておきなさい、と言っているわけです。
 私たちが常に神を愛し、神と共に生きているならば、夜中にたたき起こすような頼み事でも、ちゃんと答えてくださるのです。祈りの生活の中で、どんな時にも神様に祈りを捧げることができる体制作りをしておきたいものです。
 傷ついて倒れている隣人、空腹の友人ために祈りなさい、自分のためよりも他の人のために祈りなさいというのです。

 それも、どのくらい真剣に祈ったらいいのかというと、「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」という、三つ祈りを推奨しています。実は、「三つのパンを貸してください」とは、この三つの祈りに対応しています。

『わたしはあなた方に言います。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」』

 求める祈りで不十分ならば、探す祈りをし、探す祈りで不十分ならば、叩く祈りまでレベルアップしなさいと教えています。
 私たちの祈りは求める祈りだけかもしれませんが、それだけでなくて、探す祈りが必要です。それは鍵を探す祈りです。
 私もこうして牧師として働いていますけれど、求めるという領域だけでは勝利の扉が開かれないのを多く体験します。次に何をしなければならないのか、それが探す祈りです。すなわち鍵を探す祈りです。鍵を見つけるならば、簡単に扉は開きます。

 初代教会においてあのペテロ先生が、ある時捕まって牢屋にぶち込まれてしまいました。「もしかしたらペテロ先生は明日殺されてしまうかもしれない」という中で、教会はこぞって集まり祈っていました。そうしたら天使が牢獄の鍵を開けて、ペテロが出て来て、祈っている教会の中まで入って来ました。みんなそれを信じられませんでした。
 探す祈りはどことリンクしているかというと、「教会の祈り」とリンクしていると思うのです。教会が心を一つにして、閉じ込められている人たちが解放されるように、鍵を求めて探す祈りをするようになったら、解放の鍵が与えられると信じます。
 ただ求める祈りだけではなく、探す祈りをしなさい。そして最終的には「叩く祈りをしなさい」と勧められています。

 叩く祈りとは何かというと、先ほどこの主の祈りの中にあった『我らを試みに合わせず悪より救い出したまえ』という、この「試み」とは、イエス様も悪魔の試みを受けられましたが、悪魔・悪霊どもに対する立ち向かう「戦いの祈り」だというのです。
 叩く祈り、霊的戦いの祈りがそこに加わる時、三つのパンが完成するのです。私たちがただ求めるだけの祈りではなく、探し、叩く祈り、すなわち、霊的な戦いの祈りまで習得しなければなりません。全幅の祈りを習得する時、神の国は力強く前進するのです。そのことをこの箇所で教えていると信じます。

 今日は、プレイズ&プレイヤーアワーがありますけれど、先ほども申しましたように、賛美と祈りは鳥でいったら両翼です。両翼を使い始めて飛び立つ事ができるのです。今日は熱心に主を賛美し、誉めたたえ、主に願い祈りましょう。しかしその願いは主の祈りにそった祈りと、三つの祈り、「求め、探し、叩く祈り」によって勝利しましょう。

 ルカの福音書十章、十一章から最も大切なことに数えられている祈りについて深く学び、日々の生活の中で勝利を受け取りましょう。最後に一言祈って、今日のメッセージに代えさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。あなたは賛美されるべき方です。心から感謝いたします。あなたは最も大切なことの中で、祈りを教えてくださいました。主よ、私たちに祈りをさらに深く教えてください。
 私たちの生活のただ中で常に主を求め、探し、叩き続けることができますように。この地に御国を来たらすために、祈り続けることができますように。
 あなたが十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなって犠牲となってくださったことを心から感謝します。今から聖餐式を行います。主よ、その一時を祝福してください。
 この中で、もう一度、あなたが私たちに教えられた大切なことについて心を留めることができますように。日本に大きな勝利が現されるために、私たちを使ってください。
 今から聖餐式を行いますが、今からの一時を祝福してください。ここに出されたパンとジュースを、御言葉と聖霊によってイエス様と一つとなるために用いてください。すべてのことを感謝し、この聖餐を祝福し、御名によって祈ります。アーメン。