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『無駄なことはひとつもない』

2012.10.14 (SUN)
新城教会牧師 岡本信弘
コリント人への手紙第Ⅰ 15章58節

『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』



ハレルヤ! 主の御名を賛美いたします。

先回、私が礼拝メッセージをさせていただいたのは六月でしたので、はや四カ月が過ぎましたが、皆さんのお祈り支えられ、健康で、喜びを持って主に仕え、ここに立つことができたことを心から感謝いたします。
季節は秋になり、朝晩ずいぶん涼しくなってきました。今年は夏が暑かったせいで、今頃になって体調を崩す方も多いようですし、昼間は暑い日があったりして寒暖の激しい時ですので、お互いの健康のために祈り、また体調には充分注意してまいりましょう。

七月の終わりに、仙台のシーサイドバイブルチャペル(内藤牧師)に、礼拝の奉仕に行かせていただきました。昨年の震災後、二度、新城教会の有志と共に炊き出しに行きましたが、今回一年ぶりに訪れた被災地の景色は、かなり変わっているように思われました。
海から遠い町の中は、それこそ本当に震災があったのかと思われるほどでしたし、以前寸断していた道も復旧していて、復興が進んでいると感じられました。
しかしその後、支援活動団体で働かせていただいている娘の運転で、被災地を回ってみたところ、そこにはまだ瓦礫や車がうずたかく積まれたままになっていたり、海岸の近くを走っていると、二階は残っているけれど、一階は空洞になっているような家が何軒もあり、復興には程遠い現実がありました。それを見て、これからまだまだ多くの時間とお金がかかるだろうなと、ため息が出ましたし、祈っていかなければならないと、あらためて思わされました。
シーサイドチャペル跡地にも行ってきました。皆さんも以前に見られたことがあると思いますが、私も写真を撮ってきたのでお見せします。

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遠くに松の木が見えますが、教会はそこから二~三〇〇メートルのところにありました。この辺りは住宅地で、教会の周りには多くの家が建ち並んでいたようですが、津波が襲い、すべての建物が流されました。しかし、奇跡的に十字架だけが残されたのです。その十字架を起こして立て、ここに以前は教会があったことを示して、多くの人がここを訪れ祈ったりしているのです。
去年行ったときには、家々がなぎ倒された残骸がかなり残っており、悲惨な状態だったのですが、今は瓦礫が片づけられ、雑草が生えており、遠くから見ると何もない草原のよう見えました。
この写真をよく見ると、十字架の後ろに松の木が何本か見えます。松の木は、目に見えない土の中に根を長く張り伸ばしてしっかりと立つために、防潮林として海岸に植えられるのです。今回の津波は想定外の大きさだったために、波を防ぐことはできませんでしたが、あの大きな地震と津波によってすべての家がことごとく流されたにもかかわらず、しっかりとした根に支えられた松の木が残ったのです。
この光景を見たとき教えられたことは、私たちの信仰生活における姿勢です。
時に私たちにも、地震のように信仰を揺り動かすような問題が起こります。津波のように今まで築いてきたすべてをさらっていってしまうような事件が起こるかもしれません。現実にそんな問題に直面して、どうしたらいいのだろうと思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。
しかしそんなときでも、あの松の木が下にしっかりとした根を張り津波を耐えたように、信仰生活において、今後何が起こるか分かりませんが、下に根を張り成長するものでありたい、どんなときにも主に仕えていきたいと、私自身が教えられ、この場所で祈ることができました。
シーサイドバイブルチャペルでの礼拝も祝福され、その後の皆さんのお話を伺う中にも、いろいろな神さまの守りと導きがあったことを知り、感謝しました。新しい会堂の建設なども含め、これからの働きが祝福されるように祈っていきたいと思います。

さて今日は、コリント人への手紙第一の十五章五十八節の御言葉より、「無駄なことはひとつもない」というテーマで学んでいきましょう。

私は、どうしたら効率よく仕事が進んで、無駄な時間を使わないで生活できるか、いつも考えています。いつもそれができているか、いないかは別問題ですが・・・。皆さんから、「先生は何でも早いですね」とよく言われます。何でも早くやることが、効率がいいと思っているところもありますが、急ぎ過ぎて失敗をしてしまうこともしばしばです。
早いと言えば、この世の中の様々なことも、すごい勢いで進歩しています。
先日、プレイズ出版にある先生から出版の依頼があり、原稿が送られてきました。それを見て、私は唖然としました。というのも、手書きでぎっしり書かれたA4用紙が七百枚もあったからです。これは大変だなぁと思いながら、どうやったら早くデータにできるかを考えました。ワープロ打ちの早い人に打たせましたが、一枚十分位はかかることが分かり、もっと効率のよい方法はないかと探しているとき、よいものを見つけました。
スマートフォン携帯を持っている方はお分かりだと思いますが、自分の話した言葉を活字にしてくれるソフトがあります。私は、文字を打つのが遅いので、よくこの機能を使うのですが、携帯に向かって話すと、画面に文字となって出てきます。それをメールで送っていますが、同じ仕組みで、原稿を読むとそれを文字にしてくれるソフトがあります。それを購入してやってみたところ、一枚三分ほどでデータにできました。「これは効率がいい!」と思ったのですが、今はさらによい機能のものができたらしいです。
これは余談ですが、皆さんはiPadというものをご存知かと思います。いまや大学生はそれを授業に持ち込み、先生が黒板に書く文字を。そのままバシャバシャ写真に撮るそうです。その撮った画像を活字データに変換してくれるソフトがそこに入れてあれば、黒板を見て、いちいちノートに書き写さなくても、写真さえ撮っておけばあとでそれを文字にして読むことができるのです。先生が、「そのバシャバシャという音だけはやめてくれ」と言ったそうですが・・・(笑)。すごく便利な時代になったなぁと思いながら、一方で、ますます漢字が書けなくなるなぁと、心配にもなりました。このように、時代はどんどん変化しています。
ビジネス用語に『費用対効果』という言葉があります。それは支出した費用に対して得られる効果のことです。
たとえば、皆さんが毎日のように見ているテレビですが、NHKは受信料を払っていますからコマーシャル(CM)はありませんが、民放テレビでは、だいたい十五分ごとにCMが入ります。これが邪魔なんだよ、と思っている人が多いと思います。私もCMになると、チャンネルを変えることがあります。すると他の局もCMをやっていることが多いのです。同じ時間によくもそろってCMが入るものだと、変なところに感心するのですが、なんとかCMを見せようという意図が感じられますね。
ある雑誌に『CMの威力』と題する記事が載っていました。一ヵ月に何本もCMを流している会社が経営不振に陥り、経費削減をしなくてはならなくなったそうです。CMを製作して放映するためには、かなりのお金がかかりますから、そのCMをやめれば、すぐに赤字が解消され、黒字に変わることはわかっているけれども、CMをやめることは最後の最後の手段で、そう簡単にはやめられないというのです。それは、CMをやめたとたんに、一気に売上が落ちるからだというのです。そんなにもCMに効果があるのか? 本当かな? と思いましたが、ふと考えてみました。皆さんもCMを見ていて、あの商品は便利そうだな、今度買ってみようかとか、あれはおいしそうだから、あの店に行ってみよう、と思うことでしょう。もしそのCMを見なかったら、その商品を一生涯知らないかもしれないのです。そうしてみると、CMの効果は絶大です。
このように、会社では、どこにお金をかけたらどれだけの効果があがるのかを常に計算し、いちばん効率のいい宣伝をしているわけです。私も、効率のいい方法で毎日の生活ができるようにと常に願っています。
しかし、物事の効果をすべて数字で表現することは難しいですし、それが無駄であったか、無駄でなかったかは、あとになって分かることが多く、判断には時間がかかるのです。
世の中には御利益という言葉があり、お布施をたくさんしたから、たくさんの善行を積んだから、たくさんの御利益があるというように考えたりしますが、明確に計算式で導き出すことはできません。

ここで先月行われた台湾リバイバルミッションの証しを少ししたいと思います。すでに報告を聞かれたこともあると思いますが、私の立場から見たことをお話しします。
写真をいくつかお見せします。今日配られたミッションニュースにも、証しとともに何枚かの写真が載っていますので、あとでご覧になってください。

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これは、新城から行かれた方々の写真ですが、今回の台湾ションのために、全体では六十名ほどの方々が日本から行ってくださいました。

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集会の中で披露されたハーモニカの演奏の様子です。

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公園で行われている賛美体操の様子です。月曜日から土曜日までの朝六時三十分から行われていて、賛美に合わせて約一時間体を動かします。これは、もちろん健康のためでもありますが、散歩に来られた方にも一緒に体操をするように勧め、教会に誘ったりして、伝道の大きな役割を果たしているそうです。平岡先生や、開先生も楽しそうにやっていました。

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これは、かき氷です。台湾ではかき氷もけっこう有名で、氷の上に、これでもかというほどフルーツやシロップがかけられています。私は食べることにあまり興味がないのですが、今回は娘も行きましたので、集会が終わってから夜遅くに「さあ、今から食べに行こう」と連れ出されて行きました。夜にこんなものを食べたら、お腹によくないと思うのですが・・・。

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タピオカ豆乳かき氷です。

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牡蠣がぎっしり入ったお好み焼きのようなものです。台湾ミッションが始まる数日前、日本のテレビ局が台湾の特集をしていたのですが、そこでも紹介されていて、出演者が口を揃えて、「これはおいしい!」と言っていました。私には合いませんでしたが(笑)。

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これは、台北一〇一という高さ五〇八メートルの高層ビルです。この写真は、実は私が撮ったものではなく、八十九階にある展望台に飾られていた写真を、私が撮ったものです(笑)。
このように、集会とは別においしいものを食べ、楽しく過ごす時間も与えられたことも感謝でした。

今回の台湾ミッションは、本当に恵まれ祝福された大会だったのですが、実は、始まる前が大変でした。
台湾でミッションを行うことは、今年の初めからニュースで告知がなされていて、多くの方々に祈っていただいていました。しかし、六月頃になって事態が急変し、予定していた教会でできなくなったことで、白紙の状態になってしまったのです。ミッションを開くことさえ危ぶまれるような状況の中、ミッションの実行委員会から「なんとかしてくるように」と言われ、私と上條先生が台北に送り込まれました。
平岡先生が現地の神学生を通訳に頼んでくださったのですが、正直、行くあてもなくチケットを取ったという状況でした。私たち二人とも台湾は初めてであり、言葉も通じないところに行って、台湾観光しただけで帰ってきたら、それこそお金と労力を無駄にするだけだなと思いながら、不安を抱えて出かけていきました。
しかし、行ってみて気づかされたことは、イエスさまが先に行って、道を備えてくださっていた、ということでした。台湾に着いて、どこに行こうかと考えあぐね、とりあえず以前話のあった教会にいってみようということで出かけたところ、ちょうど私たちが会いたいと願っていた牧師先生に会うことができたのです。そして、しばらく先生や長老の方と話している中で、中山(ちゅうざん)教会でミッションを開催することが決まったのです。
先週の木・金・土の三日間、今回のミッションの感謝と、今後のことを話し合うために、上條先生と私は、再度台湾へ行ってきたのですが、その際に、中山教会の先生が、「突然やってきて集会をやりたいと言われ、それを簡単に受け取ることは普通ではあり得ないことです。しかも、うちは長老教会ですから、たとえ牧師が賛成でも、長老たちが反対したらためなのです。ですから、この大会が開けたことは、本当に奇跡的なことです」と言っておられました。
ミッションが行われることは決まりましたが、次の段階になかなか進んでいかれませんでした。今までのミッションでは、何回か決起大会をして本大会を迎えるのが常でしたが、今回は、決起大会が一度も組めず、本番を迎えなければなりませんでした。
また、私が当日の事務局の運営を任されましたが、大会までの二カ月間の台湾側とのやり取りは、上條先生がしてくださっていたので、その間の様子を出かける直前に引き継ぎを受けただけで出かけなければならなかったことも、私にとってはすごく不安なことでした。
台湾側との打ち合わせのために、私は大会前日、賛美チームと一緒に台湾入りしました。私にとっては、大会の三日間よりこの前日の一日が、最も重要な仕事でした。
特に今回は、事前の打ち合わせをあまりできないままでしたので、今まで以上に不安がありましたが、案の定、プログラム確認の段階で問題が起こりました。
二週間前のこの新城の礼拝で、順先生が台湾で語られたメッセージが流されましたが、それは、三日目の日曜日の午後、伝道集会でのメッセージでした。新しい方々にも分かりやすい、素晴らしいメッセージだったのですが、実は、大会前日の話し合いの中では、伝道集会ではなく、「こちらの牧師・スタッフと、日本側の先生方・スタッフが出席して話し合いを持つ会議ですよね」と、台湾側ではこの集会を、「伝道会議」と認識されていました。
また、「台湾では、二時間、三時間続けて集会をするのは長すぎるから、一時間過ぎたらブレイクを入れてほしい」と言われました。困ったなぁと思いましたが、私は、「日本では二時間のプログラムは決して長い方ではありませんし、一時間でブレイクを入れたら流れが切れてしまいます。申し訳ありませんが、三時間プログラムには、途中で十五分のブレイクタイムを入れますから、二時間の集会はなんとか一気に行わせてください」とお願いしました。なんだかんだと、その打ち合わせは三時間ほどかかり、本当に大変で、言葉や習慣の違いは大きいなぁとつくづく思わされました。私もずいぶん疲れましたが、それでも私はミッション中に講壇にあがるわけではありませんので、この打ち合わせで、私のミッションでの役目は、80%が終わったようなものでした。
一歩間違えると、気まずくなり、しこりが残ることにもなりかねない状況でしたが、すべて平和のうちに解決され、大会へと進んでいけたことを心から主に感謝しました。これも皆さんが祈っていてくださった結果だと思います。
大会中は一人ひとりが本当に恵まれ、祝福されました。ただひとつ、集会中に気がかりなことが起こりました。台湾側の講師のお一人がメッセージ中に体調を崩されたのです。この方は、高先生という方で、九十歳を越えておられる、台湾ではいちばん有名と言っても過言ではないほどの牧師先生です。平岡先生は若い頃、高先生が日本で行われた講義を受けて、とても恵まれたとおっしゃっていました。
その高先生が講壇に立ち、四十~五十分ほどメッセージをした頃に、急に声が小さくなり、マイクを持っていた手が下がってきたので、大丈夫かなと思いました。すぐに中山教会の長老の一人で、医師でもある方が先生を椅子に座らせ、脈をとりましたが、先生はそのままメッセージを続けられました。そこには先生の奥さまもおられたので、スタッフが「どうしましょう」と伺ったところ、心配なさったと思いますが、「主人に最後までメッセージをさせてください」とおっしゃったということでした。そしてメッセージと祈りを終え、先生はすぐに病院に運ばれ緊急手術をされました。このとき、先生は脳梗塞を起こしており、危険な状態にあったようですが、命はとりとめたと、大会の最後に報告されました。
今回、その後のことを伺うと、「今はだいぶよくなりました」と聞き、安心しました。そして、先程も言いましたように、この方は大変有名な方なので、手術をしたことが台湾のテレビや新聞で、大々的に報道されたそうです。その中で、「台湾リバイバルミッションでメッセージをしていたことが報道され、そのことによって、リバイバルミッションの大会があったことが全台湾に知られた」と、中山教会の方が言っておられました。
話が前後しますが、大会三日目に、私は中山教会の一人の方とお話しました。その方はとても頭のいい方で、日本語も流ちょうに話し、日本と台湾の橋渡しのような大きな役割を果たしておられる方でした。
その方は開口一番、「今回の大会は、準備不足ですね」(その方から言われなくても、私たちもそのように思っているわけですが)、「今回の大会は、プロ野球に例えたら、公式戦でもなければオープン戦でもなく、まだキャンプインしたばかりの状態ですね」と言われ、うまい例えをするなぁと思わされました。
そして先週行ったときにも、この方とお話ができたのですが、実はその方は、大会の一週間前に教会から、「あなたも日本語ができるとから、大会に参加してください」と連絡を受け、何も期待しないまま大会に参加されたそうです。でも、「集会はすごく恵まれました。先生方のメッセージも、ざわめきの賛美、Asiaさんの歌も最高でした」と熱く語ってくださいました。
そして「日本の方々は台湾を知らないし、私たちもリバイバルミッションがどんな団体かも知らなかった。そんな中で、この大会ができたことは奇跡ですよ。これからが戦いです。これからオープン戦、公式戦を戦い、勝利を勝ち取りましょう」と最後に励ましてくださり、私たちも喜んで帰ってくることができました。
ミッションを開催したあと、その大会が成功であったのか、失敗であったのかということが問われることがあります。今回の大会はスムーズに進んだけれど、あふれるほど人が来られたわけでもないし・・・と思うと、本当のところ、どうだっただろうと思います。しかし、この時期、尖閣諸島の問題で中国との関係が悪化している中、普段あまり祈らないであろう中国や台湾のために、皆さんの祈りが積まれたことは、大きな意義があったと思います。そんな祈りの積み重ねが、主の前に届けられていることを確信しています。皆さんのお祈りを心から感謝いたします。

皆さんは。日々の生活の中に、また人生を振り返るときに、無駄な時間を過ごしてしまった、失敗してしまった、と思ったことがあるかもしれませんが、皆さんに是非覚えていただきたいことは、無駄なことはひとつもないということです。
聖書の列王記第二の五章にナアマンという将軍が出てきます。全部を読むことができませんが、かいつまんでお話をします。
彼は、らい病を患っており、その病をなんとか治したいと思っていました。彼は、エリシャという預言者が癒しの賜物があることを聞き、その方に会って治してもらいたいと、たくさんの贈り物を持ってエリシャのところに出向いていって癒しを請いました。しかし彼がエリシャの家の入口に立ったとき、エリシャはナアマンに会おうともせず、患部を見ることもせず、使いをやって「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」と言わせました。ナアマンは、怒って言いました。「私がわざわざ来たのに・・・。私にもたくさんの部下がいる。みんな私の前にひざまずき、言うことを聞く。でもエリシャはなんだ。私は彼がきっと出てきて、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに」。彼は憤慨して帰ろうとしましたが、そのとき、ナアマンのしもべたちがナアマンにこう言いました。列王記第Ⅱ五章十三~十四節

『わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、「ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになった。」』

とあります。
普通では考えられないことです。私もその状況になったときには、「ばかばかしい」といって、帰ってしまったかもしれません。しかし、そんなことをしても無駄だ、癒されるはずがないと思われたけれども、やってみたらナアマンは癒されたのです。
何が有効で、何が無駄なのかと考えるときがありますが、無駄を回避する方法があります(といって、私ができているわけではないのです・・・)。もし、明日のことが分かっていたら、無駄な行動をとる必要はありません。どれだけのお金をかけたらどれだけの効果があるか事前に分かっていたら、無駄なお金を使うこともないし失敗もしないでしょう。ナアマンもヨルダン川に入れば癒されるという結果が分かっていたら、初めから喜んでヨルダン川に飛び込んだことでしょう。
神さまは、そのことをどのように教えているかというと、エレミヤ書二十九章十一節

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

神さまは、あなたに計画を持っておられ、それは、わざわいではなくて平安を与えるものであり、将来と希望を与えるものだ、という約束です。でも、私たちは時々、御言葉を知っていると言いながら、神さまを信じていると言いながら、「そうは言っても、子どもの将来を考えて貯蓄をすることは必要でしょ。先々のことを心配することも大切でしょ」と言い訳をします。
しかし、聖書は次のように教えています。マタイの福音書六章三十三~三十四節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 私たちは、明日のことはわかりません。しかし、心配するなという神さまの御言葉を心に留め、信じて、神を第一に求めていくことが大切です。そうすれば、私たちに必要なすべてのものを与えてくださるのです。

もう一つ、最近心に留まっている御言葉があります。
伝道者の書十二章十三節

『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』

私たちは、いつも神さまに言い訳をし、いろいろなことを訴えます。しかし、神さまは、「わたしを恐れて、命令を守ればいいんだよ。それがすべてなんだよ。だから、言い訳をするな」とおっしゃいます。
ここに、神を恐れよと書いてありますが、「恐れる」というと恐ろしいというイメージがありますが、私たちの信じている神さまは、恐ろしい方ではありません。
クリスチャンの神への恐れは、神への尊敬であり、私たちが神を恐れかしこみ、罪から離れて生活していくなら、恵みの生活、喜びの生活、祝福の生活をすることができるのです。

ある本にこんな証しが載っていました。
昔、ある人がグリーンランドに宣教に行きました。当時グリーンランドでは、鯨を捕まえて、それを命の糧にしていました。鯨は、人々の食糧源であり、また鯨からとれる油は、灯油として使われていました。
ところが、宣教師がやってきた年、人々がどんなに努力しても一匹の鯨も捕まえることができませんでした。やがて灯油もなくなり、冬の長い夜の間、人々は暗闇の中で過ごさなければなりませんでした。いよいよ食べ物がなくなり、犬も一匹、また一匹と殺されていきました。
そこで、人々は宣教師のところに行って、「おまえの神に頼んで鯨を捕れるようにしてみろ。それでももし鯨が捕れなかったら、キリスト教の宣教師が入ってきたことを、この土地の神々が怒っているからだ。そのときは、おまえを崖から突き落としてやる」とさんざん迫ったそうです。宣教師は昼も夜も必死に祈りましたが、鯨は一匹も獲れませんでした。怒った人々は、ついに宣教師を崖から突き落として殺してしまいました。
しばらくして、人々が宣教師の死体を探しに行ったところ、その死体のそばに、巨大な鯨が座礁していて、人々はその鯨によって命を救われたということです。その後、人々は、この宣教師を葬り、彼のために鯨の骨で作った十字架の墓を立て、心から悔い改めて、この宣教師が伝えた神を信じ、神の前にひざまずいた、とありました。
 この宣教師は、生きている間、ここに住む誰ひとりキリストのもとに導くことはできませんでした。伝道は失敗したかのように見えましたが、彼の死は無駄になりませんでした。彼の死後、そこにいた全員が救われたのです。ヨハネの福音書十二章二十四節に、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』

とあります。
イエスさまが十字架にかけられ死なれたとき、人々は「キリストも死んで終わりじゃないか」と思ったことでしょう。また、キリストに望みをおいていた人たちの中でも、失望した人が大勢いたと思います。しかしイエスさまの死は、全人類一人ひとり、あなたの罪の身代わりでした。イエスさまの死は、当時は、無駄であったように見えたでしょうかが、死の力を打ち破ることによって、決して無駄でなかったことを証明してくださいました。すでに二〇〇〇年がたっていますが、イエスさまは今もここにおられ、イエスを信じる者に永遠のいのちを与えるというその約束は、今も有効であり、実を結び続けているのです。

 初めにお読みした御言葉をもう一度見てみましょう。コリント人への手紙第Ⅰ 15章58節

『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』

私たちが主の業に励み、労苦したことは、主にあって無駄でないことを皆さんも知っておられますね。皆さんが行なったことは、確かに天に貯えられ、この地上でどれだけの評価を受けたか、どれだけの効果があったとかではなく、主の前で、「よくやった、忠実なしもべだ」と言っていただけるものです。どれだけの財産、どれだけの効果をいただけるかは、はかり知れません。
皆さんがしていることが、無駄に思えるようなことであったとしても、私たちが主に従い、主の御心を現したいと願い前進していくときに、無駄なことは一つもないことを覚えてください。
お祈りします。