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『夜も昼も見守ってくださる主』

2012.10.28 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書 27章2節〜6節

『その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。』



 ハレルヤ!おはようございます。みなさんと共に礼拝が守れますことを、感謝します。
 成長するっていいですよね。カズキ君、聞く度に成長しています。あのキラキラ星のカズキ君から、サンサーンスのカズキ君に変わりました。また親子で共演っていいですね。お父さんがピアノを弾いて、息子がバイオリンを弾くなんて、私と親父なんか、草むしりも一緒にできないですが、本当に麗しいと思います。

 秋も深まってきまして、もうすぐ十一月です。すぐにクリスマスが来ます。クリスマスは多くの音楽が奏でられる季節でもあります。新城教会のクリスマス案内がみなさんのお手元に届いているかと思います。今年もロンブラウン率いるバンドや、その他いろいろなクリスマス祝会があります。是非とも覚えて、多くの方をお誘いください。一人でも多くの方が福音に接する機会となったらいいなと思います。
 また、教会がすべての良き文化の中心となれたらと思っています。音楽も教会がリーダーシップを取れたらいいですね。新城教会の音楽家たちが今度、新城音楽祭に出演するそうです。街の学芸会みたいなもんですが、結構大勢出場するみたいです。神の国の文化が街に、世界に拡がって行ったら素晴らしいと思います。

 しかし世の中は混乱しています。これから日本はどのような方向に行くのか不安です。
 もうすぐクリスマスだといいましたが、「ある時、サンタクロースと、正直な政治家と、酔っ払いの老人、そして妖精の四人が道を歩いていたそうです。すると、道ばたに一万円が落ちていました。さて、誰がこの一万円を手に入れたのでしょうか?」
 もう一度言います。サンタクロース、正直な政治家、酔っ払いの老人、そして妖精、この四人のうち誰が一万円を手に入れたのかわかりますか?みなさん、分からないみたいですね。答えは、「酔っ払いの老人」です。「なぜなら、他の三人はこの世に存在しない」からだそうです。
 このジョークは「正直な政治家はいない」ということを言いたいのでしょうが、国を主が治めてくださるように、祈らなければなりません。主の守りがなかったら、ある意味、一秒たりとも生きることができないのかもしれません。
 サラリーマン川柳の中に、「一戸建て、手が出る土地は熊も出る」とありましたが、この頃よく熊が出ますね。
 先日、私ともう一人の男性スタッフとで、山の中にとりなしの祈りに行きました。そうしたら、彼が「あっ!熊だ!」と叫びました。私たちは「アクマ」をやっつけに行ったのですが、「あっ!クマ」と叫びました。一応写真を撮ったのですが、これです。

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 これ、熊ですか?たぶんカモシカだと思います。彼は「熊だ!」と逃げ出しました。熊は出るは、悪魔は出るはと、日本は本当に住みにくい国です。

 しかし今日の御言葉は大変すばらしいです。この御言葉を自分に語られた言葉として、ぜひ受け取って下さい。イザヤ書二十七章二節〜三節、

『その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。』

 今日も皆で主を賛美しましたが、神ご自身も歌われる方です。みなさん、神様の歌声って聴いたことありますか?神様は歌が相当うまいと思います。言葉なる神様ですから、聖書の中でご自身、言葉で歌っておられます。
 今読んだ箇所は、神ご自身が歌っておられる箇所です。二節には、『その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。』となっていて、『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。』とあります。これは神ご自身が歌われている歌です。
 誰に対して歌われている歌かというと、それは「イスラエル」への歌です。しかしイスラエルとは、最終的には主を信じる者たち、霊的な意味ではクリスチャンのことです。
 今日、主ご自身が私たちのために、歌を歌ってくださっているのです。この歌を自分への贈り物として受け取り、お帰りになって下さい。
 最初に『わたし、主は、それを見守る者。それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。』と歌われています。
 主が見守ってくださっているのです。どんな時にも、主ご自身が歌いながら、私たちを見守ってくださっている事を知ると、勇気が湧いてきます。今日この御言葉を、自分のものとしましょう。

 この頃、私は「守り」のテーマで多方面に祈らなくてはいけないと感じています。
 ここに『その日』と、特定の日について述べ、それから歌が始まっています。イザヤ書二十七章は、一節でも『その日』という言葉が使われて、二節も『その日』と同じように語られています。イザヤ書二十七章一節、

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 一節も『その日』と述べて、続く守りの歌も『その日』から始まります。
 イザヤ書は預言書ですから、近い未来、遠い未来、さらに遠い未来、永遠へと預言は続くわけです。イザヤの時代における近未来は、アッシリアの支配とか、バビロンの支配、当時の強国支配からの解放と救いについてですが、最終的には、霊的領域について、そして、終末に関する預言です。

 実はこのイザヤ書二十七章一節は、今年、私自身が主からいただいた、テーマの御言葉です。一月に一年の指針として語らせていただきました。

 『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 この御言葉を、去年の暮れに「竜が打ち落とされる年になる」と主が語ってくださいました。今年は辰年とか言って、竜がかなり持ち上げられている年です。
 このような中、主が竜、すなわちサタンと戦ってくださり、打ち破ってくださる年であると信じました。昨年の暮れから今年の始めにかけて、強く心に響いた御言葉でした。蛇、竜、イザヤ書二十七章では「レビヤタン」と呼ばれる存在が出て来ますが、それらはすべて悪魔を意味します。
 その力が打ち破られる日、その日から完全な守りがあることを教えています。これは霊的な戦いと守りとが、密接に繋がっていることを意味していると思います。

 旧約聖書中、最高の知恵文学はヨブ記です。一月に語ったメッセージでも引用させていただきましたが、ヨブ記を読むと、見える世界と見えない世界がつながっていることわかります。
 家に帰ったらヨブ記一章、二章を読んでいただきたいと思います。この箇所はヨブのことだからいいですが、自分に置き換えたら本当に恐ろしいですね。一章六節〜十六節をちょっと読んでみたいと思います。
 ヨブは地域一番の富豪で、信仰的にも神に喜ばれ、人々からも信用されていた人物でした。しかしある日、こんなことが天の会議で話題になりました。ヨブ記一章六節〜十一節、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」』

 ヨブの知らない間に、こんな会話が天でなされていたのです。地上ではヨブの一家は誕生パーティーを楽しんでいました。
 しかし、その同時刻でしょうか。天においては、こんな忌まわしい会話がなされていたのです。なんと天の会議の中に、サタン、すなわち、レビヤタンが入って来て、ヨブを神の前に訴えていたのです。そして、悪いことに天で、サタンの訴えが通過してしまったのです。なんと、ヨブを苦しめる許可証が、サタンの手に渡ったのです。

 その後、何が起こったのかが、ヨブ記一章を読んでいただきますとわかります。その日の内に、信じられない事件が次々と起こったのです。ヨブには多くの使用人を持っていましたが、突然、彼らが強盗に襲われて殺されてしまったのです。
 またある人は、道を歩いていたら突然、にわかに雲が出て雷が鳴り始め、ヨブ記には『神の火』と記されていますが、昔は雷のことを「神の火」と呼んでいましたが、雷に打たれて死んでしまったのです。
 使用人のほとんどが死んだという知らせが届いているただ中に、さらなる一報が届きました。ヨブには息子が七人、娘が三人いたのですが、みんなで宴会をしていると突然、大風が吹いて来て、家が倒壊して「子どもたちが全員死んでしまった」という、信じられない知らせでした。
 それが「その日」の内に起こりました。幸せの絶頂から、不幸のどん底に落とされてしまいました。
 時々私たちの人生にも苦しい事がありますが、ヨブと比べたらまだまだマシだと思います。もしも礼拝にヨブをヨブことができて、彼の身に起こったことを証しでもしてもらったら、「本当に大変だったんだな・・・」と、同情すると思います。

 しかし、このような悪しき事件の背景に、天においてレビヤタンが、ヨブのことを訴えていたのです。
 ヨブに起こった事件を分類してみたら、犯罪、自然災害、そして、病気です。考えてみれば、私たちも大なり小なり、同じようなことを人生で経験しています。
 近頃は物騒な時代で、犯罪には気をつけなければいけません。また、日本は自然条件が厳しい国ですから、いつ何時、地震が起こるかわかりません。天候の変化で大雨で死ぬ人もいれば、時には雷に打たれて死ぬ人もいます。そして、いつ何時、病気になるのかわからないという、私たちもヨブと同じ環境に住んでいます。
 しかし、ヨブの試練の背後に、レビヤタンの訴えがあったのです。

 聖書は今を生きる私たちに対する、情報の書です。私たちは聖書から情報を受け取らなければいけません。
 このような邪悪な日の前までは、ヨブは一番の富豪であり、本当に幸せに暮らしていました。
 なぜヨブがそれまで幸せに暮らすことができたかの理由についても、ヨブ記は情報提供しています。ヨブ記一章十節、

『あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。』

 「あなたは彼と、その家」とありますが、訳し変えると、「ヨブと家族」となります。ヨブとヨブのファミリーです。神様がその家の周りに垣根を作ったのです。その垣根があった為に、敵が侵入できなかったというのです。
 みなさんの家にも塀や垣根があって、そう簡単に他人が入れなくなっているかも知れません。なぜ、垣や塀を巡らせるのかというと、外敵の侵入を阻止するためです。現実でもそうなら、最も垣を張り巡らせなければいけないのは、「目に見えない世界」です。

 毎週日曜日、私たちは集まって神の御言葉を学び、祈りの時間もあります。何を祈るのでしょうか。神に感謝を祈りますし、同時、垣に破れ口がないように、主が垣を張り巡らせてくださるように祈らなければなりません。
 先ほども主の祈りの中で「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りました。これは「垣を張り巡らせてください」という祈りです。今週も、家族、親族、そして教会に、完璧な垣根を巡らせてくださることを、主の御名によって祝福します。アーメン!
 犯罪、自然災害、病の背後に、どの程度かは分かりませんが、レビヤタンが関わっているようです。
 私はこの頃、「守りのために祈りなさい」と主から語られているような気がしています。それで「すべての兄弟姉妹が守られますように・・・」と祈っていました。

 先週は「霊的戦い専門課程」がありまして、二日間に渡って霊的戦いについての講義をさせていただきました。毎月行われるこのセミナーの発案者は他でもなく私自身なのですが、始めたばっかりに自らの首を締めています。専門課程となると、神学校より一歩先を進むことをやらなければいけませんので、なかなかストレスがあります。
 しかし、ストレスはないほうがいいと多くの人は考えますが、私がいつも思うのは、ストレスがないと人間は成長出来ません。先ほどカズキ君がバイオリンを演奏しましたが、あそこまでになるには、相当なストレスがあったと思います。親子であれだけ息の合った演奏をするまでには、相当、喧嘩があったと思います。厳しい芸術の世界です。カズキ君が私と同じくらいの歳になったら、私と同じヘア・スタイルになるかもしれません。

 しかしストレスがあると人は成長します。全然ストレスもなければ、今でも彼はキラキラ星を弾いていると思います。ストレスがあると人は成長するのです。
 時々、「ストレスがなくなりますように」と祈りますが、ストレスさえもバネにして飛躍できるように祈ったらいいと思います。
 私も、専門課程なんか始めてしまったので、「主よ、今度は何をやったらいいですか?」という祈りが常にあります。全国から牧師先生たちが集まってくださっていますから、牧会宣教にプラスとなる情報を伝えなければなりません。そしてレビヤタンと戦うことは、守りにおいても重要であることを知ってほしいと願っています。なぜなら、霊的戦いを知らなかったら、教会は悪魔の格好の標的になるからです。

 専門課程の特徴は、一日目は教室での講義、二日目は午後から実習があることです。いろいろな所へとりなしの祈りに出向いて行きます。今回もとりなしに行きました。途中、私の携帯に電話がありました。誰からかと思ったら、車の修理工場から電話がかかってきました。
 最初は気にしていなかったのですが、途中で何か気になって電話してみたら、「事故起こした車って、どこに置いてありますか?」と言うのです。「事故起こした車?事故なんか起こしてないですよ」と言うと、「えっ?事故起こしたって聞いたんですけれど、奥さんじゃないですかね」と言うわけです。
 「えっ?私の家内が?」と聞くと、「奥さんに電話をかけるのですが、出られないのでご主人に電話したのですが、知りませんか?」と言いました。びっくりして娘に電話をしてみたら、理由が分かりました。
 家内が車を運転して、豊川で信号待ちしていたそうです。娘も、かわいい二人の孫たちも乗っていたのですが、信号が青になった時、家内の後ろの車が前に車があることを忘れて出発して、追突されたらしいのです。
 一緒にとりなしに行った牧師先生が、「順先生。霊的攻撃かもしれませんね」と言われましたが、主が「守りのために祈りなさい」と言われたのは、もしかしたらこの時のためだったのかと思いました。孫たちも乗っていましたが、ちょうど車が発進する時、娘が二人の子どもたちをしっかりと抱きかかえたというのです。その直後追突されたそうです。それで人的被害はありませんでした。しかし車は後ろのバンパーを壊されてしまいました。
 でも、私の家内が来て「あんたにとってはよかったよ」と。なぜなら、先日私は後ろのバンパーを少し傷つけました。ちょっと罪悪感があって、近くのカーコンビニに見積もりに行きました。そうしたら三万円以上かかると言われました。それで修理を躊躇していたら、ぶつけてくれたのでバンパーが新しくなりました。ケガの功名というようなところもありますけれど、でも、ちょっと当たり方が悪ければ、怪我をしたかもしれません。

 道路を走るのは、「事故が起こってもいいよ」というお互いの了承の中で道路を使うわけです。ですから交通事故は、ゼロ対十というのはほとんどありませんよね。やっぱり道路を使っているかぎり、お互いに責任があるわけです。
 ということはどうでしょうか。毎日、主の垣根が必要だということです。主が完璧に垣を張り巡らせてくださるならば、見えない世界で変な動きがあったとしても、垣があるがゆえに、敵は入り込むことができません。私たちの主は、夜となく昼となく、私たちを見守ってくださっていると、今日の御言葉から学ぶことができます。

 ヨブ記を見ますと、ヨブは大変な目に遭いました。それで、ヨブも周りの人たちも「どうしてこんな目に遭うのだろう」と考えたみたいです。
 みなさんもどうでしょうか。いろいろな事件に遭遇したら、「なんでこんなことが起こったのだろう・・・」とやはり考えます。「こんな病気になったけれど、どこに原因があったのだろう・・・」と、いろいろ考えます。
 人間は平穏無事な時にはあまり考えないのですが、何かあったら、一生懸命理由を考えます。
 ヨブ記も一章二章で事件が起こって、二章後半から、ヨブ記は四十二章まであるのですが、後半に至るまで、ヨブと友達たちが集まって、様々な角度から試練の理由について論議するわけです。
 「なんでこんな事が起こったのだろうか。ヨブ、おまえは神の前に罪があったんじゃないのか・・・。」と友人達はヨブを責めました。でも、なかなか結論が出ないまま、議論は続いていきます。

 以前にもお話ししたことがあるのですが、ある時私は、ヨブ記の解説書を読みました。そこに何と解説されていたかというと、「ヨブの悲劇」というパートがありまして、「ヨブの悲劇は何であろうか」と。それは、「ヨブとヨブ記の登場人物、神を含めて、誰一人として、ヨブにこのような問題を持ち込んだ真犯人について語らなかったことだ」とありました。
 いろんな論議がなされたのですが、ヨブ記を見ると、登場人物の誰一人として、真犯人について口にしなかったというのです。
 真犯人とは誰ですか?レビヤタン、サタンだったのです。その存在について神さえも口にしなかったというのです。「それがヨブの悲劇だ」とありました。
 しかしその注解の最後に、「真犯人について知ることができるのは、ただ読者のみである」と結んでいました。「うまい!」と思いました。私たちは、聖書の情報から「真犯人はレビヤタンだ!」と気づかなければなりません。

 でも、ヨブさんはかわいそうです。私たちのために犠牲となってしまいました。万人のための犠牲者ヨブというようなもので、目に見えない領域について、真犯人について神はヨブに教えてくれなかったと言うのです。
 しかしヨブ記をよく読むと、実はそれは間違いです。実際は、真犯人について神はヨブに語っているのです。どこで語っているのかというと、ヨブが回復したのはヨブ記四十二章です。悪口を言っていた友達の祝福を祈った時、主はヨブの持ち物を二倍に回復されたとあります。
 なんと、失った物が二倍となって取り戻されたというのが、ヨブ記の結論です。この主張は、ある意味、聖書は一貫しています。失った物があっても、神と出会うなら、二倍にして取り戻すことができるのです。それが聖書のメッセージです。
 教会に来る時はいろいろな物を失ってくるのかもしれません。しかし、イエス・キリストと出会う時、それを二倍にして取り戻すことができるのです。

 実は、ヨブはヨブ記四十二章で持ち物を二倍に取り戻されるわけですが、四十一章で何が語られているのでしょうか。これについても、新年に語らせていただいたのですが、ヨブ記四十一章一節にこんなことが述べられています。

『あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押さえつけることができるか。』

 四十一章は、「レビヤタン」について述べられている箇所です。しかし四十一章についてはいろいろな解釈がありまして、「レビヤタンとは、サタンではなくてワニだ」という考え方もあるようです。
 でも、四十一章全体を見たら、レビヤタンは決してワニではありません。三十三節、三十四節を見るとレビヤタンについてこのように語られています。

『地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である。』

 これはワニではありません。聖書で「竜」「蛇」「レビヤタン」と呼ばれているのは「サタン」です。
 実は、様々な論議の中で、神は最後にレビヤタンについてヨブに語られたのです。ヨブがその情報をもらった後、何があったのでしょうか。彼は失った物を瞬間的に、二倍として取り戻し、回復されたというのがヨブ記のメッセージです。
 これはイザヤ書二十七章で語られているメッセージと同じです。二十七章一節、

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

続いて二節で、『その日』と述べて、次に何が語られているかというと、

『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。』

 ここで完璧な守りが宣言されています。「レビヤタンが打ち破られる日に、完璧な守りがある」。これはヨブ記のメッセージに通じます。

 実は今年の新年、主は私に、この御言葉を語って下さいました。今年はレビヤタンに対して、大きな勝利を与えてくださる年であると信じて、一年を始めさせていただきました。特に去年の暮れから、教会の中で、一つの街のために特別にとりなすように導かれました。
 もちろん新城市のために祈ることはもちろんですが、「隣街の豊川市のために祈りなさい!」と主が、強く導いてくださいました。
 今日も、豊川市から多くの方が新城教会に来てくださっていますけれど、豊川という街は、新城市に接し、豊橋市にも接しています。豊川は、私の感覚かもしれませんが、街に入ると何か重い空気を感じます。
 豊川稲荷という大きな偶像もありますし、新興宗教の本部もあり、今から六十数年前には豊川海軍工廠があって、二千数百人の若人たちがB29の爆撃で亡くなりました。未だに何か黒い雲が覆っているような気がします。
 また去年の暮れから、豊川市から来られている方々が、信仰のゆえに迫害されたり、様々な問題があったりと、「これは豊川の街のために祈らなくちゃいけない」と、強く教えられました。
 「どういう風に祈ったらいいですか?」と主に祈った時に「豊川市を囲んでいる、山に登って祈れ!」と導かれました。街を取り囲んでいる山の頂上に登って、街を覆っている黒い雲が取りのけられるように、神が街に与えようとしている祝福と、垣根を破って侵入する敵の力が打ち破られるように祈ってきました。
 それで豊川市に住んでおられる男性の方々に声をかけて、月一回くらいのペースで豊川市を取り巻いている山々に登って、祈り始めました。男性の方々ですから、仕事が終わってから集まるので、夜の八時から九時くらいに山に登って、真剣に街のためにとりなして祈るようになりました。すでに十数回、祈祷会は続いています。先々週も、祈祷会がありました。

 主がなにか素晴らしいことをしてくださるのではと期待して、祈りを始めました。
しかし結構困難があったり、様々な戦いがあったりして、前進はするけど後ろに引き戻されるようでちょっとストレスを感じる祈祷会でした。
 でも今年は「豊川のために真剣に祈りなさい」と示されたので、山は豊橋市の方にもぐるりと回っていますから、広い範囲で山々に登って祈り始めました。その祈りを去年の暮れから始め、寒い中、一月も二月も祈っていました。

 私は今年の二月にイギリスで奉仕があり、帰りにアムステルダム空港で六時間くらい待ち時間があって退屈でした。やっと飛行機に乗れると思った時に、私の携帯電話にメールが入って来ました。
 みなさんの携帯電話は、世界中どこに行っても通じます。だから気をつけないと、うっかりメールや電話を全て受けると、何十万円という請求が来ますから気をつけて下さい。私は海外に行ったら注意深くやっています。アムステルダムでメール受信機能を切って乗ろうとしたとたん、携帯メールが来ました。
 メールもコンピューター経由で来るメールと、携帯に直接来るメールがあります。私の場合、携帯に直接来るメールは緊急性の高いメールが多いです。ちょっと胸騒ぎがして、そのメールを開けてみました。
 そうしたら、先ほど司会をしていた雅也先生からのメールでした。それは「豊川市から教会に来ている男性が病で倒れ、危篤状態です。」というメールでした。「意識はなく、救急車で病院に搬送されています」というメールでした。私はどきっとしました。
 私たちは山の上で、彼のために祈っていました。神様が良いことをしてくださるかと思ったら、なんと、そんな悪い知らせでした。本当に心が暗くなりました。「メールを開かなければ良かった・・・」と思うくらいでした。
 すぐにアムステルダムから電話して雅也先生に状況を聞いたら、「状況は厳しいです」と言いました。「日本に着いたら葬式かな」と覚悟して、十二時間くらいの飛行中で、ずっと彼のために祈っていました。
 日本についてすぐに電話をしたら、まだ息はありました。しかし、状況はもっと厳しいと言われました。日本について、私はすぐに豊川市民病院に行きました。そうしたら、家族しか会うことができないと言われました。「私は牧師です。彼の友人ですからぜひ会わせてください」と言ったのですが、「それはできません」と断られました。「じゃぁ、この人の容体はどうなんですか。」と聞くと、「教えることはできません」と言われました。しかし「でも、ここに入ってるくらいですからね・・・」と看護士さんは言いました。彼には人工呼吸器を付けられ、意識不明の重体でした。
 祈り始めたのに「なんでこんな事が起こるんだろうか・・・」と思いました。しかし、それまでの祈りも、前もって神が与えてくださる守りの祈りの一つでした。さらに私たちは、彼のために祈りました。

 先々週、豊川市を見下ろす山に登っての祈り会がありました。なんとそこには、元気になった彼の姿がありました。彼は山の祈祷会に来て、共に、豊川市の祝福を祈っていました。詳しい内容について申し上げることはできませんが、それは本当に奇跡でした。
 彼は、肺をやられて死にそうだったのですが、いやされたのです。今日も礼拝に来られています!
 山の上に登って、「レビヤタンに立ち向かって祈れ」と主が語られた一つに、「彼の守りと、いやし」が含まれていたのです。私たちの期待以上に、大きな勝利を彼に与えてくださいました。

 私たちの人生には、主が張り巡らされる垣根が必要です。それと共に、レビヤタンに対して立ち向かう時、主が完璧な守りを与えてくださるということを知らされます。
 今日のこのテキストであるイザヤ書二十七章五節、

『しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。』

 「和を結ぶがよい」と二度も繰り返し歌われています。天地宇宙を造られた神様と、常に良い関係にあったら、私たちは神のとりでの中で守られます。自分自身と神との関係をチェックし、もしも何か関係を止める罪があったら、悔い改めて聖くしていただき、神との平和を保つとき、守りは完璧になり、レビヤタンは打ち破られます。

 エジプトを脱出したイスラエルのために、神はどのようにされたのかが、出エジプト記十三章二十一節〜二十二節に記されています。

『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』

 イスラエルが四十年間、荒野を安全に移動できたのは、昼は雲の柱、夜は火の柱が常に見守っていた為でした。神ご自身が二十四時間体制で、彼らを守っていたのです。主が二十四時間体制で私たちを守ってくださるように祈りたいです。続いて詩篇一二一篇ではこのように約束されています。

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』

 「昼は日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことがない」とあるように、ここでも「二十四時間体制で見守ってくださる主」について述べられています。

 霊的戦いの権威はどこに与えられているのでしょうか。それは個人というより、キリストの各器官の共同体である「教会」に与えられている権威です。レビヤタンに勝つためには、キリストを頭とする各器官が集結し、敵に立ち向かうときにレビヤタンは打ち破られるのです。
 エペソ人への手紙三章八節〜十一節を読み、その事を確認して終わりたいと思います。

『すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 天にある支配と権威、すなわちレビヤタンとその組織に対抗するのは「教会」の役目です。神は教会にその権威を託されたのです。キリストのからだが一つとなって、レビヤタンに立ち向かい、守りを祈る時に、主は完璧な守りを教会に与え、「ヨブとその家族」とあるように、家族全体にも守りを与えてくださると信じます。
 今から聖餐式を行います。これはイエス様の十字架の血潮の守りを宣言することです。聖餐式は儀式ではありません。主が定められた重要な神秘です。主の守りを宣言する時です。一言祈ります。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。あなたは私の神であり、十字架によって和解されていることを心から感謝います。私たちの人生に、完璧な垣根を巡らせてください。
 今、あなたの十字架の勝利を宣言する、聖餐式を行います。主が教会に与えられた権威を通し、レビヤタンに立ち向かい勝利できますように。二〇一二年の後半、あなたの大きな勝利を皆に見せてください。尊きイエス・キリストの御名によって勝利を宣言して祈ります。アーメン。