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『神様、あなたは言われました!
(神様、約束を思い出してください!)

2012.11.11 (SUN)
新城教会副牧師 公畑フェルナンド
イザヤ書62章6~7節

『エルサレムよ。
わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。
昼の間も、夜の間も、
彼らは決して黙っていてはならない。
主に覚えられている者たちよ。
黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、
この地でエルサレムを栄誉とされるまで、
黙っていてはならない。



 ハレルヤ。感謝します。私たち夫婦のため、いつもお祈りいただいていますことを、感謝します。またインターナショナルの働きのためにも、いつもとりなし祈ってくださいまして感謝します。皆さんは、インターナショナル部会の働きをあまりご存じないかもしれません。しかし、毎週日曜日の午後、外国人のための集会を持っています。今の経済的な問題などで、多くの外国人は母国に帰られましたが、この地域に住んでいる外国人のために、続けて伝道しています。
この二か月の間にもいくつかの特別な出来事がありました。写真で紹介したいと思います。
先月は結婚式がありました。この二年の間に四組の結婚式がありました。

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このカップルはロドリゴ君とジェシカさんです。会堂も、ホールも結婚用に飾りつけして、大分変貌しています。
先週は伝道集会を行いました。「カフェ・コンサート」という集会です。この集会は15年間毎年行われている伝道集会です。毎回いろいろなバンドを呼んでコンサートをしていただいています。今回は埼玉からバンドを招きました。メンバーはみんな二十歳くらいです。彼らは日本語や英語でも歌ってくださいました。

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今回はいつもより参加者の幅が少し広がりまして、英語を話すフィリピン人の方が来てくださったり、日本人の方も来てくださいました。元気のいいロックのような賛美で最後にはみんなで前に出て飛んだり跳ねたりして、とても素晴らしい集会になりました。また多くの方がイエス様を信じることができました。また、すこし神様から離れていた方とかも信仰を回復する機会となりました。感謝します。

今日は神に聖書の約束を思い出してもらうことについてお話をしたいと思います。
効果的な祈りの仕方の一つに、ある聖書の約束を取り上げて、それについて神があなたに言われたことを思い出していただく、という方法があります。
主よ、あなたは私が祝福されると言われました。神よ、あなたは私に長い人生を与えると言われました。神よ、あなたのあわれみは永遠であると言われました。主よ、あなたの恩恵、愛顧は私を追ってくると言われました。主よ、あなたはこう言われました。主よ、あなたは言われました、と。
あなたは言われましたと宣言しながら、神のことばと共に聖なる場所に入って行く時、あなたの奇跡を妨げるものは何もありません。あなたが主のところに、あなたは約束してこう言われましたと近づく時、主はご自身のみ言葉を成就する以外に選択肢がないのです。
ですから皆さんが神のことばを愛するように、私はいつも繰り返しお願いしているのです。日曜日に語られるみ言葉だけで生きて行くことはできません。毎日、み言葉の糧をいただいて力をもらう必要があり、聖霊様と交わる必要があり、み言葉と親しくなる必要があるのです。
イザヤ書六二章六~七節

『エルサレムよ。
わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。
昼の間も、夜の間も、
彼らは決して黙っていてはならない。
主に覚えられている者たちよ。
黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、
この地でエルサレムを栄誉とされるまで、
黙っていてはならない。』
(主が約束を果たすまで、主を休ませてはならない。)(別訳)

神に神の約束を思い出させなさいと書いてあり、あなたの問題を思い出させなさいとは書いてないのです。約束を思い出させなさいと書いてあるのです。
たとえば「神様、会社の人たちが私に悪い扱いをします。いやな思いをしています!」とか、「主よ、経済的にうまくいきません!」とか、「主よ、この借金をどう払っていったらよいか分かりません!」など、あなたがこの様な祈りを続けるなら、結果としてあなたは顔のしわを増やすだけかもしれません。
しかし、今日、皆さんに新しい祈り方をお教えしたいと思います。新しいというか、実は古いもので、み言葉にあるものですが、たぶんそれをご存じなかっただけかもしれません。それは、神のみ言葉と共に神の臨在の中に入っていくという祈り方です。み言葉と共に、約束と共に祈ることです。
「主よ、借金がいっぱいあります。でも詩篇三七篇二五節には、『私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない』と書いてあります」と祈るのです。
神に正直になることは良いことですし、あなたの心の中の思いを神に知っていただくこともいいのですが、私はいやな思いをしていますとか、悲しいですとか、不安ですというよりも、「あなたは聖書の中でこう言われました!」と祈るほうが良いのです。
しかし問題なのは、あなたがみ言葉を知らないことです。ですから祈る時、たぶんこう祈るかもしれません。「フェルナンド先生が話したみ言葉が言うように」と。しかしこう祈るのは間違いです。なぜなら、神はあなたの神でもあり、あなたの父であり、あなたの主であり、あなたの養い主であるからです。私だけの主ではありませんから。
これは信じて行う人には機能する方法です。しかしまだつぶやいたり、問題ばかりを思い出しているなら、ただ落ち込むだけです。しかし状況が自分の望むように変わってほしいなら、つぶやくのをやめて、聖書の約束に立ち、こう言いましょう。「神よ、あなたはこう言われました!」と。
悪魔が来る時はこう言いましょう。「聖書にこう書いてある。主のみ言葉はこう言っている」と。そして主は約束されています。敵が来る時には、み言葉で応戦するのです。
たとえば申命記二八章七節には、「彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう」と書かれています。
あなたは私のすべての必要を与えてくださると約束されました。またあなたはこう言われました。あなたは私の羊飼い、私は乏しいことがありません!と。また言われました、あなたの打ち傷によって私はいやされた、と。私の戦いをあなたは戦い、私に勝利を与えてくださる、と。
また主よ、あなたは言われました。人にはできないことが、神にはできるのです、と。
このように、あなたが神にその約束を思い出してもらう祈りをする時、神はそれを成就してくださいます。

イザヤ書六二章六~七節のみ言葉を思い出してください。神にその約束を思い出させ、それを成就してもらうまで休ませてはいけないのです。
神を休ませないとはどういう意味でしょうか。あなたが祈っても、たぶんすぐには祈りの答えは来ないでしょう。しかしいつかは必ず来ます。「先生、どのくらい神に『あなたは言われました』と言い続けるのですか?」と聞かれるなら、「それが成就するまでです」と答えましょう。
あなたがそう言い続けるなら、「あなたは言われました」と祈るのではなく、「あなたは成就されました」と言う日が来るからです。「あなたはみ言葉を成就してくださいました」と。「あなたは私の期待を裏切りませんでした」と言う日が来るのです。
兄弟姉妹、この天地は滅びます。しかし、神のことばは決して滅びることがありません。神はうそをつかれる方ではありません。聖書に書いてあることは真実なのです。ですから、み言葉に書いてあることを神に思い出させ、それを成就してくださるまで休ませないなら、あなたの人生にそれが起こります。
どのくらい時が過ぎたかは私にとって重要ではありません。どのくらい待ったかも私にとっては重要ではありません。もしそのように祈り、信じるなら、それは成就します。
なぜなら聖書には「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」(民数記二三章一九節)と書いてあります。神が聖書に書いたことは必ず私たちの人生に起こり、また私たちの人生に経過するものであるのです。
自分の子どもや愛する人に何か約束をした時のことを考えてください。あなたは人間的に可能な限り自分の言葉の責任を果たそうとするでしょう。私の弟のことを例にあげたいと思います。
私が十八歳か二十歳ぐらいの時でした。私はすでに教会に通っていて、南米中の若者を対象にした集会がチリで行われることがありました。当時、私の弟は十歳くらいでしたが、私がチリへ行く前に、弟にお土産に何か買ってきて欲しいものがあるか聞きました。すると弟は、スニーカーが欲しいと言いました。それはこのメーカーのこの色で、このモデルだと言いました。当時、そのスニーカーはペルーで販売されてはいませんでしたが、チリでは販売されていました。弟は、「それが欲しい。約束してくれる?」と言いました。私は、「いいよ。約束するよ」と言って家を出ました。
チリに着き、自由な時間のある限り、私は探しに探しましたが、見つけられませんでした。彼は毎日私に電話してきて、買えたかどうか聞いてきました。私に休みを与えませんでした。行けるところにすべて行き、サンティアゴ市内のすべてのショッピングセンターを回りましが見つけられず、ついに小さなアディダスのお店に行きつきました。そのお店では、今は在庫がないけれど、入荷できると言われました。しかしそれがペルーに帰る二日ぐらい前のことでしたので、店側がリマまで送ってくれると言ってくれました。
そしてペルーへ帰ると、私は弟にそのいきさつを話しました。すると弟は毎日、学校から帰ってくるとすぐに、もう靴が着いたか聞いてきました。「もう着いた? もう着いた? 約束したよね」と、ついにその靴が着いた日まで聞かれました。やっと靴が届いたその時、私は、弟にあげることができてよかったと喜んだのではなく、弟の催促からようやく解放されたことに安堵しました。
これが神に思い出してもらうという意味なのです。あなたがそれを手に受けるまで、どうぞ、これだよと神様が言う時まで、私が弟に言ったように、ほら、これだよ、私は約束を守ったよ、と言わせるまで、あなたも神様から約束のものを受け取るまで神を休ませないでください。
たぶんあなたは「ああ、私は神様に祈ったけど、もう三か月も経つよ」と言うかもしれませんが、それではだめです。何か欲しいものがあるなら、私の弟のようにしなければなりません。繰り返し頼み続けるのです!
私たちが何かを望む時、それが与えられると確信があります。なぜでしょう? なぜなら神様、あなたはこう言われましたね、という祈りができるからです。ですから必ず起こることなのです。神があなたにことばを与えられたのであれば、あなたがそれを神に思い出してもらえば、その奇跡を得ることができるのです。
イザヤ書に「黙っていてはならない」と書いてあります。「あなたは言われましたよね」と言い続けるということです。
お風呂に入っている時も、「主よ、あなたは言われました!」、車を運転している時も、「主よ、あなたは言われました!」、仕事をしている時も、大きな声で叫ぶ必要はありませんが、「主よ、あなたは言われました!」と祈ってください。帰宅途中の車の中でも、電車の中でも、自転車の上でも、「主よ、あなたは言われました!」、寝る時にも「主よ、あなたは言われました!」と祈ってください。そして主が、「ほら、あげるよ。私に休みも休息も与えなかったね。とりなさい、私は確かにあなたにこれを言った、約束した。私の言葉を果たそう。」と言われるまで続けてください。
イエス様は一度、不正な裁判官のたとえを話されました(ルカ十八章一~五節)。
彼のところに一人の女性が来て言いました。「ある男が来て私を困らせます。助けてください」。しかし裁判官は時間がないからと取り合わないでいました。なぜなら聖書によると、彼は神を恐れず、人を人とも思わない人物であったと書かれています。
しかしこの婦人は律法を知っていて、裁判官が、自分の事件に対して裁判を行わなければならないと律法に書いてあることを知っていました。この婦人は決心し、毎朝身支度を整えました。そしてこの裁判官が裁判所に着くと、だれがいたでしょう? この婦人がいるのです! 
「裁判官様、おはようございます」。裁判官は「うわ、今日もいる」と思ったでしょう。
これはイエス様が語られたたとえ話ですが、私は少し言い変えて説明しています。
またこの裁判官が昼食を取りに行こうとすると、この婦人が待っていて、「私の問題を擁護する律法があるのを思い出してください。裁判をしてください!」と言ってきます。しかし裁判官は無視しました。そして昼も夜も朝も夕方も婦人は言い続けるのです。この婦人は会いにくる、電話をかけてくる、伝言を置いていく、メールも入れる、フェイスブックに載せるは、ツイートするはで、最終的に裁判官は疲れてしまいました。そして裁判官に、「あなたのために裁判します!」と言わせたのです。
この裁判官は不正な裁判官で、また憐みのない人だったのですが、思い出してください、私たちの神は正しい方で憐れみ深い方なのです。不正な裁判官がこの婦人のために裁判をしたのは、この婦人のためではなく、自分がしたいからでもなく、ただその婦人がうるさくて仕方がなかったからなのです。この婦人はこう言ったでしょう。「私にとって裁判が開かれた理由は重要ではない。しかし私の望んだものを得られたことが重要なのです」と。
さあ今、あなたには天の裁判官がいます。それは神様です。しかし覚えてください、神の右には、あなたの弁護士であるイエス様がいらっしゃるということを。あなたが神の前に出て、「あなたは言われました」と祈る時、イエス様は横を向いてこう言います。「父よ」。そして両手の傷穴を見せてさらにこう言います。「わたしも、あなたがそれを言われたことを知っています」。
証拠があるのです。あなたが裁判をする時には証拠がなくてはできません。裁判に臨む時には、勝つための確かな証拠が必要です。分かりますか? あなたには確かな証拠があるのです。それは神のみ言葉です。
主よ。イザヤ書五四章一七節であなたは言われました、
『あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる』と。これが証拠です。
主よ。詩篇四六篇一節であなたは言われました、『神はわれらの避けどころ、また力。苦しむとき、そこにある助け』と。これが証拠です。 
主よ。詩篇七五篇一〇節であなたは言われました。『悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高くあげられる』と。これが証拠です、と祈ってください。
裁判官の前に立つ時は証拠なしではいけません。彼はあなたの言うことを聞きますが、あなたが証拠を示す時にのみ応えてくださるのです。イザヤ書四一章二一節

『あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。』

あなたの言い分や、証拠や理由は何ですか? もしあなたが神の前に立つなら、み言葉と共に立ち、こう言ってください。「主よ、これが私の証拠です。私には足りないものがあります。しかしあなたは言われました。主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません」と。「主よ、お金が足りません。しかしあなたは言われました、私が十分の一をささげるなら、あなたは天の窓を開いてくださると。ですから、今天の窓を開けてください。あなたが私に言われましたから。私に約束してくださいましたから。成就してください」と。

主に自分の問題を提示していますか? 神様からいただきたいことがいくつもあるのに、問題を神の前に提訴するための「神のことば」という証拠を持っていないということはありませんか?
み言葉という証拠あふれている状態で、裁判官の前に出てください。そして、「あなたはこう言われました。こう約束されました!」と訴えてください。そうすると、次にあなたはこう言うようになります。「主よ。あなたはこれをして下さいました! 成就してくださいました! 与えてくださいました!」
感謝に変わる日が来るのです。