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『あなたの神である主を愛せよ

2012.11.18 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 10章25節〜29節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』



 ハレルヤ!おはようございます。今日はこうして、みなさんの前でメッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝します。だいぶ秋も深まって、寒くなってきました。今日は少しは暖かいですが、まもなくクリスマスがやって来ます。今、デパートやスーパーに行きますと、クリスマス・ソングが鳴り響いています。十二月に入ると、新城教会ではクリスマスのいろいろなプログラムがあります。是非心に留めていただきたいと思います。
 教会の前にも、大きな垂れ幕がかかっています。ご覧になりましたでしょうか?

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 一人でも多くの方々にイエス様のことを、クリスマスを通してお伝えしたいと願っています。『あなたの神である主を愛せよ』とありますけれど、全ての人々が主を愛するようになったら、社会は変わるはずです。

 「聖書の中で最も大切な教えはなんですか?」と問われたら、それは今日読んだ御言葉であると答えることが出来ます。
 ルカの福音書十章に関連して、マタイの福音書二十二章三十四節〜四十節を見ます、次のように述べられています。

『しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 聖書はぶ厚い書物です。しかしその内容を二言で表現するのなら、「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことに集約されます。私たちが「神を愛する」ことと「隣人を愛する」を実行するなら幸せになるのです。
 キリスト教は日本では少数派です。しかし、世界中に宣べ伝えられ、この二つを受け入れ実行した人が幸せになっています。そこには実績が伴っているわけです。日本人は「仏教が一番!」などと言っていますが、仏教は世界的に見るならば少数派です。しかし世界の三分の一はクリスチャンです。

 先週は、みなさんに祈っていただき、韓国で奉仕をさせていただきました。昨年は「韓国リバイバルミッション」があり、毎月二回くらい韓国に行っていました。しかし今年はあまり行く機会がありませんでした。あまりないと言っても、三回、四回は行ったと思いますが、先週は韓国のいろいろな場所に行って、奉仕させていただきました。

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 韓国に行きますと、日本と全く違った状況があります。日本のクリスチャン率は国民のだいたい〇・四パーセントくらいだと思われます。礼拝に集まっているのは〇・二パーセントくらいだと思いますが、韓国に行くと、二十パーセントから二十五パーセントがクリスチャンだと言われます。私たちの国もそうなって欲しいと思います。
 どこに行っても教会が多くあります。先週の日曜日は江陵というソウルから車で四時間くらいの、東海岸の街に行ったのですが、そこは二十五万から三十万くらいの街でした。けれども、「教会はいくつあるんですか?」と聞いたら「二百かな、三百かな」と言っていました。豊橋市にはどのくらい教会があるのでしょうか。十か二十か、その間くらいだと思われます。韓国には、多くの教会があるわけです。
 そんな国で奉仕をさせていただき、メッセージを語らせていただきました。どこでも聖霊様が働いてくださり、良い集会を持たせていただきました。みなさんの祈りによって祝福されました。心から感謝しています。
 この頃、韓国と日本の間が政治的に微妙ですが、私たちは神の国の民として、一つとなって働けることは本当に感謝です。

 今も語りましたが、聖書全体が二つの戒めによって保たれているというのです。それが「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことです。
 「律法」とは神がモーセに与えた「十戒」を指しています。モーセの十戒は、世界的に有名です。みなさんはご存じでしょうか?十戒を心に留めると、人生は変わります。
 「教会って堅苦しいな」と思う人がいるかもしれません。私も生まれて気がつきましたら牧師の息子でしたから、「教会はやっちゃいかんことが多いな・・・」と思っていました。
 私は天国に行けたら、まずモーセに会いたいと思っていました。そしてモーセに文句を言ってやろうと思っていました。「モーセさん。あんたは四十日間も山の上で神様と交渉したのでしょ。あなたがもっと一生懸命、神様と交渉して、十の戒めを五つくらいに圧縮できたら、全人類はもっと自由で幸せでしたよ。あなたが十も神様と勝手に契約を結んでしまったから、みんな大変でしたよ。私なんか牧師の息子で、一番大変だった」と文句を言おうと思っていました。
 しかし私もイエス様をしっかりと信じてから「十戒は重要だ!」とわかりました。

 社会には人々が幸せに生きるために、様々な規制や法律があります。たとえば、道路交通法。それは時にはストレスになります。運転免許証は何色ですか?私は金色です。ゴールド免許です。ゴールド免許とは、「無事故・無違反」の証しです。
 しかしもう一つの証しがあります。それは「違反はしたけれど、捕まらなかった」という証しです。
 四十キロ制限の所をトロトロ運転している時はストレスですね。この頃の車のスピードメーターは二百キロくらいまであり、スポーツタイプなら百五十くらい簡単に出ます。近頃、新東名が出来まして、午後からは東京集会に行くのですが、新東名は走りやすいです。八十キロくらいかな?と思ってメーターを見ると、百二十キロとか、下手すると百四十キロも出てしまいます。しかし新東名には覆面パトカーが多いですから、気をつけてください。
 「なんでこんなに走りやすい道路を作っておいて、百キロ制限だ?」と腹が立ちます。しかし、それは私たちが安全に生きるための法則です。みんなが道路交通法を守ったら交通事故は激減するでしょう。しかしなかなか守れないから、事故も多いわけです。

 人生も同じです。神様は私たちを造りっぱなしではありませんでした。ちゃんと運用マニュアルをつけて下さいました。そのマニュアルが「聖書」です。
 しかしこれだけ分厚いマニュアルを読むのは、なかなか大変です。けれどもそれを分かり易くしてくれたのが「十戒」です。私はすでに十回以上聞きました。

 これは神様が人類の代表、モーセに与えた十の戒めです。これを心の中にきざんでおいたら、幸せになります。ちょっと上から読んでみましょうか。

一.わたしの他に何ものをも神としてはならない。
二.自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
三.主の名を、みだりに唱えてはならない。
四.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
五.父と母を敬え。
六.殺してはならない。
七.姦淫してはならない。
八.盗んではならない。
九.隣人について偽証してはならない。
十.隣人の家をむさぼってはならない。

 これを心に留めると、人生、結構うまくいくものです。
 今、私たちは礼拝を守っていますが、「子ども礼拝」が隣の建物で、ちびちゃんたちを集めて行われています。子ども礼拝を導いて下さっている方々がおられます。本当に感謝です。
 子ども礼拝に、うちの孫も出ているのですが、今、そこで大変流行っている歌があるというのです。それが何かというと、「十戒の歌」です。なかなかうまくできた歌です。
 誰がこの歌を作ったと思いますか?それは滝川充彦・真理夫妻です。彼らの言うのには、先日、車を運転していたら、突然、十戒の歌が天から降ってきたというのです。ならば、この場所で歌ってもらわなければなりません。今日はご一家で出て来て、歌ってもらいたいと思います。あまり彼らの歌はあまり期待しないでくださいね。しかし内容が大事です。
 作詞・作曲は真理ちゃんですか?「作曲は替え歌なんです。『いーとーまきまき』の替え歌です。」
 では、いーとーまきまきは忘れて、十戒の歌、よろしくお願いします。

♪他の神々があってはならない
偶像礼拝はしない
神様の名前みだりに唱えず
安息日は守ろう
父と母は大事にしよう
殺したり、姦淫したり、盗んだりしてはならない
嘘ついたり、欲しがったりはだめよ
これがモーセの十戒♪

 はい〜。ありがとうございました。これをちゃんと、小さい頃から歌っていたら、人生は変わるはずです。うちの三歳になる孫も、遊びながらこの歌を歌っております。「殺しては・・・♪」なんて歌っています。みなさんも是非、この歌を覚えて歌ってください。

 それでも十戒をすべて守るのは、大変だと思うかもしれません。しかし後にイエス様がこの地上に来られて、十の戒めをまたまた、「二つ」にまとめてくださいました。もう一度十戒を見てみましょう。

一.わたしの他に何ものをも神としてはならない。
二.自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
三.主の名を、みだりに唱えてはならない。
四.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
五.父と母を敬え。
六.殺してはならない。
七.姦淫してはならない。
八.盗んではならない。
九.隣人について偽証してはならない。
十.隣人の家をむさぼってはならない。

 一番から四番までは、自分と神様との関係です。「一.わたしの他に何ものをも神としてはならない。」「二.刻んだ像を造ってはならない。」「三.主の名を、みだりに唱えてはならない。」と続いています。「神様の名前を使っちゃいけないの?」と疑問に感じますが、英語の表現の中で神様の名前を使って、「くそ!」なんて意味する悪い言葉もあります。主イエス様の名前は尊いものです。
 そして、「四.安息日を覚えて、これを聖とせよ。」一から四番目まではすべて神様と自分との関係です。
 それをイエス様がどのようにまとめてくださったのかというと、『あなたの神である主を愛せよ』という「愛の帯」で一括りにしてくださったのです。
 愛はすべての規制を越える帯です。恋愛したことがありますか?私も一度ありますよ。それは今の家内とです。彼女が私に、婚約時代から今に至るまで言うことは、時には厳しいことを言います。でも愛によって告げてくれるので、私は喜んで受け入れることにしております。それは負担にはならないのです。

 続く、十戒の五番から十番は、「五.父と母を敬え。」「六.殺してはならない。」「七.姦淫してはならない。」「八.盗んではならない。」「九.嘘を言うな」「十.むさぼるな」という内容です。それを「隣人を愛する」という愛の帯で括られたのです。
 隣の人を愛していたら、五から十までのことはできないですよね。「あなたを愛してますよ」と言いながら、その人のお金を盗むことはできません。「あなたを愛していますよ」と言いながら嘘は言えません。
 というのは、五番目から十番目の事柄は「隣人を愛する」という、愛の帯で結ぶ事が出来ます。
 人類が十の戒めをなかなか越えることができないのを知って、イエス様が愛の帯でそれらを二つにまとめてくださったのです。ですから、私たちが「神様を愛する」ことを基本にして、「隣人を愛する」ことを学ぶなら、人生はうまく行きます。みなさんも是非、この言葉を心に刻んでいただきたいと思います。

 今日、最初に読んだテキストは、ルカの福音書十章でしたが、イエス様はこの二つの点について語り、ルカの福音書十章二十八節〜二十九節、

『イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。』

 イエス様はこの二つを「実行しなさい」と告げられました。しかし質問をした人は、イエス様に「隣人って誰のこと?」と、自分の正しさを示すために質問したというのです。その前提として持ち出されたストーリーが、有名な良きサマリヤ人のストーリーでした。ルカの福音書十章三十節〜三十五節、

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』』

 このように語った後に、イエス様は『あなたも行って同じようにしなさい。』と、実行を促されたのです。
 全体から何が言えるのかというと、「神様を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことは「表裏一体」ということです。私たちは「神様を愛する」と言いますが、神様は姿・形が見えませんから、愛しようがないですよね。目の前に、自分の奥さんとか、子どもたち、孫たちがいれば愛することはできます。でも神様は目に見えませんから「愛しています」と言っても、なかなか実感がわかないかもしれません。

 しかし不思議なのは、イエス様と会ったことはないですけれど、イエスさまに対する愛が湧き上がっています。これは、「救いを得ている証拠だ」というのです。ペテロ第一の手紙一章八節〜九節、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

 教会に来ますと、知らない内に、目に見えないイエス・キリストに心惹かれるようになります。見たことも、会ったこともない方に対して、愛が湧き上がってくるのです。これは何を表しているのかというと、『信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです』というのです。
 救われている証拠は、見たことも、お会いしたこともない、イエス様を愛するようになる事です。
 これは誰が語った言葉かと言ったら、ペテロが語りました。ペテロは実際に、イエス様の弟子でしたから、見た聞いたというようなレベルではありません。イエス様と寝食を共にした人物だったわけです。
 しかし、後に救われた人たちとの交わりの中で、「彼らは私のように、イエス様に会ってもいないのにイエス様を愛しているじゃないか。これはすごい!」と、ペテロは感動したのです。そして「これこそ、信仰の結果だ!たましいに救いを受けている証拠だ!」と語ったわけです。

 今日、みなさんの中にイエス様に対する愛が熱く燃えているとしたら、永遠のいのちを持っている証拠です。

 昨日は青年会の人たちが十二時間二十二分の連鎖賛美をしていました。十二月二十二日に青年会のクリスマス集会、「ザ・コール」があるので、それをめがけて十二時間二十二分の連鎖賛美大会が行われました。
 最後のパート、夜の十一時〜十二時二十二分の部分を受け持ってくださいと頼まれました。夜中にこの老人を引っ張り出して、青年たちの最後のパートをやらせようと言うのですからひどいじゃないですか。でも私も参加してたいへん恵まれました。みんな本当に喜んで、踊って主を賛美していました。イエス様を愛し、喜んでいました。これは、青年たちが救いを得ている証拠です。

 同時に「神を愛する」とはどこに現されるのかというと、「隣人を愛する」という、この良きサマリヤ人のストーリーに代表される概念の中に「神を愛する」という姿が映し出されているのです。
 私たちが「隣人を愛する」ならば、それは『あなたの神である主を愛せよ』という第一の戒めをも守っていることになるわけです。
 さて、「隣人を愛する」とは、どういう意味があるのでしょう。良きサマリヤ人の話を読んだら分かるのですが、イエス様が『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と語られたように、まず第一の隣人は誰かと言えば、お隣の誰かさんもありますが、それ以上に『あなた自身のように』とありますから、「自分自身」だと思われます。

 現代人の八十パーセント以上が劣等感を持っていると言われます。悪魔が日本で最も成功している戦略は、「劣等感と低い自己評価」だと言われます。
 みなさんはいかがでしょうか?自分自身をどのように受け入れているでしょうか?ナルシストのように「自分はすばらしい~」と自分に酔っている人とはちょっと違いますが、まず自分を「神様から与えられた人生として受け入れる」ことから始めなければいけないと思うのです。
 「隣人を愛する」前提として、『あなた自身のように愛しなさい』ということですから、「神から託された人生を生きている」と信じることが何よりも大切です。

 先週も、ある方とお話をしたら、「私は生きる意味がわからない・・・」と悩んでおられました。私は「人生は、神から与えられた良いものですよ」とお話しさせていただきました。
 私はエペソ人への手紙二章十節の御言葉が大好きです。よくいろんな所でお話しさせていただくのですが、この言葉をすべての学校の生徒たちに暗唱させたら、社会は変わると思います。この言葉を一緒に読んでみたいと思います。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 どうでしょうか。日本中の学校が朝礼の時に、「エペソ二章十節!私たちは神の作品であって…」と、みんなで暗唱したら、社会は変わると思いませんか?
 日本は、進化論を真理かのように教えます。進化論は自然淘汰、偶然の産物です。そして、強いものに価値があるという考え方です。「弱い種族は淘汰されて、死んで行った・・・。強い種族が生き残り、価値があるんだ!」という考えですから、当然のように差別や支配が起こってきます。
 でも聖書は、私たちを創造してくださった神がおられ「神の作品だ」と告げています。このことを知るだけで、劣等感から解放されるのではないでしょうか。

 昔読んだ本に、人は四つの劣等感を持っていると書いてありました。その第一は「身体的劣等感」です。また「社会的劣等感」があるそうです。自分の社会的ポジションを誰かと比較するわけです。「性格的劣等感」という、自分の性格に自信が持てない人もいます。また「能力的劣等感」という劣等感もあるそうです。
 「身体的劣等感」「社会的劣等感」「性格的劣等感」「能力的劣等感」、これらは全て、「人との比較」の中で生まれてくるものです。

 でも神様は、私たちを誰かと比較される方ではないのです。その人自身を作品として造られたのです。みなさんが今座っている椅子は作品ではありません。それらはすべて製品です。ですから、左の椅子も右の椅子もみんな同じです。しかし私たちは神の作品ですから、お隣の人の顔を見ればみんな顔かたちが違うわけです。「違い」は、神が私たちを作品として造ってくださった証拠です。
 「良い行い」、それは言い換えれば「幸せ」と訳してもいいのではないでしょうか。幸せはすでに神によって「創造済み」だというのです。神様は私たちの人生が始まる前から、完璧な計画を立て、人生をスタートさせてくださったのです。

 しかし、神様に自由意思があるのと同じように、私たちにも自由意思があるわけです。神様の完璧な計画を受け取るもよし、拒否するもよし、自分で歩むのもよしというわけです。人には限界がありますから、自分で「完璧だ!」と立てた計画も、思うようにはいかないのです。でも、人生の紆余曲折を通して、最終的に天地宇宙を造られた神の所に戻り、「私のためにあらかじめ創造してくださった良い物を、受け取らせてください!」と手を出したら、神によってあなたの為に用意された良き物が手渡されるのです。

 教会に来られたら、神様があらかじめ用意されたプレゼントを、絶対に受け取らなければいけません。その中には悪い物は決して含まれていないはずです。様々なことがあって教会に来られて、イエス様と出会い、神の完璧な計画を受け取るならば、人生は捨てたものではないです。私たちは神によって作られたすぐれた作品です。それを知るなら、すべての劣等感は消え去っていくのです。
 イザヤ書四十三章四節、これは大変有名な御言葉です。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 天地宇宙を造ってくださった神様が、私たちに語っておられるのです。ただ神の作品として無機質にこの地上に送り出されたのではなく、愛の内に育まれているのです。
 愛を感じることができるのは、すばらしいことです。家族の中で愛情を感じることができる、友達関係の中で愛を感じることができたら幸せです。もしも「愛」がなくなったら、社会はどうなってしまうのだろうかと思います。人間の中に愛という感情、衝動があるとしたら、何を意味しているのでしょうか。それは、完璧な愛の形が、創造主、神の中に存在していることを意味しています。神様の完璧な愛と共に、私たちが行動する時、普通では越えることができないハードルをも越えることができるのです。
 ですから、あなたは自分自身を、神に愛されている者として、神の作品として、受け取ってくださいというのが聖書のメッセージです。

 今日は、私を含めて全員が、信じ受け取って帰りましょう。そうしたら「私は駄目な人間だ」といって、四つの劣等感に苛まされることもないはずです。これを基本として「隣人愛」という教えが展開していくわけです。

 良きサマリヤ人の例えは、ユダヤ人とサマリヤ人の間に起こった事件です。聖書は、何の背景も知らずに読んでも分かるのですが、当時の社会状況などを知識に加えて読むと、もっと深く理解できます。
 ユダヤ人とサマリヤ人は、当時対立していました。エルサレムからエリコに下る道でこの事件は起こったのですが、エルサレムからエリコへの道はユダヤ人もサマリヤ人も共に使っていた道路でした。
 これは隣り合わせて住んでいる、二つの民族間に起こった出来事なのです。

 先日もオリンピックがありましたが、前にもお話ししましたように、オリンピックは放っておいてもナショナリズムが高揚します。「私は日本人だ」と気づくのは、スポーツ観戦するときわかります。別に頼まれもしないのに、「ニッポン!ニッポン!」と応援するわけです。選手と自分とは何の関係もないし、その人が優勝したって一円ももらえるわけではないけれど、日本の選手が勝つと嬉しいわけです。そして隣の国の選手が負けたら嬉しいのです。やった!という感じです。
 特に日本のお隣近所の国々といったら何処でしょうか。韓国、ロシア、中国、台湾など、周りの諸国が負ければ「やった!」と喜ぶのです。しかし日本が負けたら悲しみます。
 良きサマリヤ人の話は、民族的な対立構造の中で起こった問題です。「隣人を愛する」とは、突き詰めれば、「民族問題」に突き当たるのです。

 私は先週、韓国で奉仕をさせていただいたのですが、韓国に行きますとあまり嬉しくない言葉があります。それは日本のことを「近くて遠い国」と呼ぶ表現です。距離的には近いけれど、遠い関係の国だと。
 この頃も竹島問題、韓国から言ったら「独島」と呼びますが、その領有権が争われています。領土問題はロシアともあるし、中国、台湾ともあります。
 「隣人を愛する」とは、倒れていたユダヤ人をサマリヤ人が助けたという設定で語られています。それはただ「隣のおばちゃんが嫌い。でも、キリストの愛によって頑張って愛しましょう」というだけに止まらず、さらに広く民族問題まで扱っているのです。聖書は幅広い問題提起をしているわけです。
 隣近所の方々とうまくやっていても、隣国との関係になると、自動的に憎しみのスイッチが入るようなセッティングが内側にあります。これは良くないことです。
 「私は聖書に従って歩んでいますよ」と言いながら、隣国との関係は別なのです。「誰かを憎まないように努力しています。会社にいるパートのおばちゃんは嫌な人だけど、頑張って愛しています。」とか、「うちの旦那、この頃気に食わんけれど愛します。」という領域は努力しますが、自然に憎しみのスイッチが入るのが、民族問題にあります。隣国との利害関係のニュースが流れたら、自動的に反応する自分がいます。
 しかし聖書は「それも取り除きなさい。」と教えています。

 今週は、宮崎市で集会があります。どういう集会かというと「ブレッシング・ジャパン」という集会です。そこで私はメッセージを語ることになっています。今週は少々忙しいのですが、出かけることにしました。
 なぜブレッシング・ジャパンが開催されるようになったかというと、昨年は「ブレッシング・コリア」という集会がありました。それは「日本と韓国と一つとなって祈りましょう」という集会でした。どこで集会をやったかというと、イムジンガクという、北朝鮮と韓国の国境線で集会を持ちました。
 国境線から北を眺めると、対岸には真っ暗な世界が広がっているのです。その場所に行って、「韓国を祝福し、南北が分断していますが、一つにしてください」と祈りました。日本人が韓国の為に祈るなんて、普通は考えないかもしれません。しかしクリスチャンになると、自分のことだけではなく、お隣の民族に対しても関心を持ち、倒れている人たちのために祈るようになるのです。
 テレビで北朝鮮の拉致問題のニュースが流れたら、「なんだ北朝鮮は。本当にしょうがない!」と怒ります。けれども、それを越えてとりなし祈る時、神の愛が示されるのです。
 今年は宮崎で「ブレッシング・ジャパン」という集会が計画されました。それは宮崎の教会が主催しているのですが、その集会の為に韓国から六十名以上の方々が来られます。私にも「ぜひ来てください」と言われ、韓国から六十人も来られるのですから、頑張って行くことにしました。

 けれども日本のために、真剣に祈らなければいけない時が来ています。先週は、衆議院が解散しました。そして十二月には選挙があります。今のところ十二月四日公示、十六日に投開票が行われます。私たちクリスチャンは、国の未来のために真剣に祈らなければいけません。
 現在、思想的にかなり右寄りの人たちが、政治的に力をつけています。今の政府は靖国神社は参拝しないという立場を取っているわけですが、今度は逆に振れていく可能性が大です。第三極といわれるような人たちの意見を聞くと、怖い感じがします。日本が昔の状況に戻ろうとしているような感じがします。
 どこの国も同じですが、歴史は権力者によって書かれると言われます。国には偽りが多いのです。日本の歴史にも、国家的偽りが置かれています。「日本の宗教は古来からずっと神道だ」と言います。けれども、江戸時代は神道の影は薄かったのです。徳川幕府が天皇家の神々を強調するわけがないのです。
 徳川幕府が倒れた時、新しい神が必要だったわけです。それで宮中で細々と行われていた神道を引っ張り出し、国家神道を仕立てたのです。
 明治政府が始まった頃、ヨーロッパの列強がキリスト教的世界観と共に世界を制覇していました。ほっておけば、日本も飲み込まれてしまう心配がありました。近代化の波は受け入れなければならないが、キリスト教を受け入れると欧米諸国に支配されかねない。それで明治政府は何をしたかというと、「疑似キリスト教」の創作でした。
 イエス・キリストの代わりに天皇を持ち出し、聖書の代わりに古事記を当てはめ、あたかも一神教かのごとく、他の宗教を弾圧しました。神道はもともと多神教ですから、他宗教を、キリスト教を迫害するのはおかしい事です。
 これは歴史学者たちも指摘していることですが、国家神道は列強に対抗する為に作り上げられた「疑似キリスト教」だと言う指摘です。伊勢神宮に行くと、ダビデの星が灯籠についています。それを見てある人たちは「もしかしたら、イスラエルの失われた部族が日本に来たかも?」と考えるのです。
 しかしそれは違うのです。そういう風に明治政府が作ったわけです。その中で、国家神道のシンボルとしたのが宮崎神宮でした。
 ここに一つの写真がありますが知っていますか?

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 今では「平和の塔」と呼ばれていますが、正面に「八紘一宇」という文字が見えます。「八紘一宇」とは、帝国主義拡大の為に用いられたスローガンでした。そこには「世界を神道で統一する」という思想がありました。
 当時の教育を受けられた方々もおられますが、滅私奉公、忠孝一致、一億一心、神州不滅、武運長久というような言葉を並べ立て、太平洋戦争に突き進んで行ったわけです。
 太平洋戦争の間、日本国内に泥棒はいなかったそうです。殺人事件もほとんどなかったそうです。しかし国外で、日本人は二百万人以上死にました。そしてその六割が餓死だったというのです。日本人は太平洋戦争によって、三百十万人死んだと言われます。それが国家神道の結果でした。
 日本は今、少し弱くなっています。あの明治から昭和に至る時代の、アクティブな時期に戻りたいという願望があるのでしょうが、その根底に流れている思想は決して良いものではありません。それは「隣人を愛する」という考えに立ったものではないのです。

 国のために真剣に祈らなくてはいけない時に来ています。今週は、韓国から大勢のクリスチャンたちが宮崎に来て、平和の塔付近で集会をします。日本のために心を尽くして祈る為に来られます。「日本」を隣人と心に抱いて祈りに来られます。私たちも真剣に日本の未来の為に祈らなければなりません。
 どんなときにも神の国の人として行動し、隣人を愛する者になりたいと思います。その時「神様の愛」が実現するのです。

 ルカの福音書はルカが記したわけですが、意図を持って記されています。良きサマリヤ人の話の後に出て来るストーリーはマルタとマリヤの話です。
 ある場所にイエス様が行かれた時、マルタとマリヤという二人の姉妹が住んでいました。マルタはイエス様が家に来られたので、嬉しくて一生懸命接待しました。しかし妹のマリヤはイエス様の足下に座り込んで手伝いもしないで、イエス様からの話を聞いていたのです。それでマルタはマリヤに向かってキレたのです。
 「マリヤは何をしているんだ。少しくらい手伝え。イエス様。マリヤに手伝うように言ってやってください!」と怒りました。その時、イエス様はなんと答えられたか記されています。ルカの福音書十章四十一節〜四十二節、

『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

 これは「奉仕することよりも、イエス様の側に座って話を聞く方がいい」ということではなく、私たちは忙しい世の中に住んでいますけれど、そんな中、優先順位を何にすべきかについて教えています。
 神を愛する、イエス様を最優先にするとき、人生はすべてうまく行くのです。四十二節に、『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。』とありますけれど、今週もいろいろな出来事があって忙しいかもしれませんが、常に良い方、イエス様に心を留めて主の御言葉を聞くなら、いのちが溢れるのです。

 最後に、ルカの福音書十章には、隠された「最も大切なこと」というメッセージが含まれています。ルカ十章の「神を愛する」「隣人を愛する」という二つの要素は、最も大切なこととして、動かすことはできない真理ですが、もう一つ、隠された重要なテーマがあります。
 ルカ十章はどこから始まっているかというと、七十人の弟子たちが宣教のために遣わされたことから始まっています。初め弟子たちはびくびくしながら出て行ったのですが、彼らは嬉々として帰って来たのです。ルカの福音書十章十七節〜二十節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 ここには「霊的な戦いの大勝利」が語られています。そして、イエス様が持ち出されたのが良きサマリヤ人のストーリーでした。
 そこで強盗に襲われ倒れていた人の話が語られたのですが、「強盗」とは誰を意識して語られたのかというと、目に見える強盗と共に、究極的には「目に見えない敵」を表現しているのです。「私たちには目に見えない敵がいる。その敵に立ち向かわないと、神を愛することも、人を愛することもできない」と、二つの対立する民族のただ中に存在する「共通の敵」について教えているのです。
 私たちが知らなければならない、もう一つの隠された大切なことは、クリスチャンには、敵に立ち向かい、勝利する権威が与えられているということです。ルカの福音書十章十九節、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 これこそ私たちに与えられた究極の権威ではないでしょうか。しかしなぜそんな大きな権威が与えられているのかというと、それは最も大切な事実、「あなたの名が天に書き記されているから」だというのです。
 イエス・キリストを信じるならば、名が天に記されているがゆえに、敵に打ち勝つ権威が与えられています。その権威と共に神を愛し、隣人を愛する生活をするならば、人生は揺るぎないものに変わっていくでしょう。
 今日、いくつかのことを学びました。私たちの心に、御言葉を留めていきたいと願っています。
 神を愛する。隣人を愛する。すなわち、自分自身を受け入れる。そして隣人を受け入れる。さらには、隣の民族を受け入れる。国に起こっている事柄に関して祈っていく。その背後に敵がいることを意識し、立ち向かう必要性を教えられます。

 今週も神の御言葉によって生きて行きたいと願っています。最後に一言お祈りさせていただき、聖餐式に移らせていただきたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめます。今日はあなたの御言葉を学ぶことができ心から感謝します。特に「最も重要なこと」というテーマを学びました。主よ、あなたを心から愛する者としてください。今週もマリヤのように、常に主を第一として、主を愛して歩むことができますように。
 また隣人を愛する者として歩むことができますように。様々な事柄が周りにありますけれど、私たちを守り、勝利させて下さい。
 今からあなたが流してくださった十字架の血潮、愛のシンボルである聖餐式を行います。神の愛を私たちの心に、もう一度注いでください。感謝を持って、この祈りをイエス・キリストの名によって、主の御前にお捧げいたします。アーメン。