HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 12月 > 12月23日

『Merry Christmas!

2012.12.23 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書2章8節〜11節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』



 ハレルヤ!みなさん、メリークリスマス!
クリスマスおめでとうございます。今日は本当にすばらしい演奏と賛美を聴かせていただきました。イエス様の誕生は全世界で、様々な形で祝われております。今朝の聖歌隊はいつもの聖歌隊とは違っていましたね。指揮者もすごかったですね。「石塚先生!」っていう感じでした。本当にすばらしかったです。一人一人に主が賜物を与え、神を礼拝し誉めたたえるために用いてくださっていることを、心から感謝します。

 教会では毎日のように、いろんな形でクリスマス祝会が開かれております。先週もみなさんのお祈りに支えられ、大変素晴らしい集まりを持たせていただきました。
 水曜日には水曜主日礼拝のクリスマス会が開催されましたが、百名以上の方々が来てくださいました。

5.JPG 6.JPG

また昨日は「ザ・コール」といって、青年主催のクリスマス会が開催されましたが、これまた祝福されました。

2.JPG 3.JPG

 昨晩は井草聖二さんというギタリストが来てくださり、たいへんすばらしい演奏を聞かせて下さいました。様々な形で福音が伝えられていることを感謝します。

 クリスマスというと、多くの人がサンタクロースの誕生日のように勘違いしているのですが、そうではなく、イエス様の誕生日ですよね。クリスマスは日本も含めて、冬の季節にありますから、「クリスマス=冬」のようなイメージがあります。しかし南半球に行きますと、季節は真夏です。ブラジル、ペルー、オーストラリアに行ったら、雪だるまのイメージは全くなく、南国ムード溢れるクリスマスです。
 子どもたちにいつも「おもしろい写真ない?」と聞かれるので、こんな写真を用意しました。

7.jpg 8.jpg

 「だからタバコ吸うなって言っただろ。」とあります。クリスマスには冷たい、寒いイメージがあります。明日からは、寒波が来てホワイト・クリスマスになると言われています。雪が降るとなんだか清らかなイメージがあります。冬場にクリスマスを迎えることができるのは嬉しいです。

 今週もクリスマス会があります。今晩はインターナショナルのクリスマス会があります。これはラテン系のクリスマス会です。これもぜひ味わってみてください。すばらしいクリスマスになると思います。
 また明日は「レッツ・プレイズ・クリスマス」という私の年間の仕事の中で、最も大変な日です。是非とも祈っていただきたいと思います。なぜなら、中高生たちが二百人以上来るからです。毎回、そのくらい必ず来るのです。私のメッセージを聞きに来るのではなく、食べ物目当てに来ます。「神を求める」ことからほど遠い人種が二百人近く来ます。明日は何を話したらいいのだろうか・・・と、少々緊張しております。
 また二十五日はクリスマス本番です。この日はロサンゼルスからAsiahさんが来て賛美してくださいます。ぜひとも、多くの方をお連れしていただきたいと思います。

 クリスマスは世界中でお祝いされています。これほどまで毎年、毎年、世界中で誕生日を祝ってもらえるイエス・キリストという方は、ただ者ではありません。絶対にクリスチャンじゃなくても、この人はどういう人物なのだろうか?と関心を持つべきです。歴史上、現れた人物の中で、二千年間、毎年毎年この規模での誕生会ですから。ただ者ではありません。それは、神が人となって誕生してくださった日、それがクリスマスです。

 昨日もザ・コールで少しお話ししたのですが、日本人は目に見えない霊的な存在は敏感に感じ取ります。ですから、八百万の神々というのが存在するわけです。
 しかし天地宇宙を造り、人間を造った「創造主」となると、とんと首をかしげてしまうわけです。それはちょっと不思議です。みなさんが座っている椅子も、誰かが作ったから存在するわけです。この教会堂だって、建築屋さんがいたからできたわけです。火山の爆発で自然にできたのではありません。
 それは同じです。人も誰かが設計し、創った方がおられるのです。また大宇宙をも設計し、創られた創造主がおられるのです。
 しかし、日本では、進化論が真理かのように教えられていますから、創造主となると、「そんなのいない。自然にできたんじゃない?偶然だよ」と言います。

 この頃は科学が発達して、人には遺伝子という設計図が用意されていて、それを元にして体が作られることが分かっています。設計図は紙っぺらですけれど、設計図を具体化する存在がいるのです。設計図を見て、組み立てた存在がいるわけです。
 私も昔、建設業に携わっていました。私の専門は土木工学でありまして、道路や橋などを設計したり、作る仕事をしていました。私は豊橋市役所に一年間だけ在籍したことがあります。そして下水道を作る仕事をしていました。豊橋から大勢の方が教会に来ておられますが、私に少しは感謝してくださいね。みなさんの下の世話を少しはさせていただきました。下水道工事の現場監督なんかやっておりました。
 人間の遺伝子は設計図です。でも体ができていくのには、設計図の情報を読み取って「これを作れ。あれを作れ」と、情報発信し、指図する存在がいるからです。だから体ができるわけです。知的存在が介在していなければ、決して情報発信はなされません。
 例えば、石ころはただの無機質な物質ですから、置いておけば百年でも、二百年でも、千年でも、万年でも、同じ場所にあるのです。自ら「俺は石だ!石だ!」と意思を伝達することはないのです。置かれたらそのままです。
 人間だってそうです。人間の体の臓器ができる為には、誰かから指示されて情報発信がなされできるわけです。この頃はiPS細胞が開発され、たった三つ、四つの遺伝子だけで、複雑な体の全てを作り上げてしまうというのですから驚きです。誰がiPS設計図を使って、情報発信するのでしょうか。それは人ではありません。情報を発信できるのは、神以外の何者でもないのです。神はおられます。その神と出会ったら、人間は相当幸せだと思います。しかし、創造主なる神様に出会えなかったら、本当に不幸です。

 クリスマスは神が人となって地上に生まれた日です。先週もお話ししましたが、人間同士なら、私たちはコミュニケーションが可能です。神様がそのまま人に現れたならどうでしょうか?体があったら相当でかく、人間の知能では全く推し量ることは出来ない存在です。そんな存在とは、コミュニケーションは不可能です。しかしその神が、人となって来てくださるなら、人類は神の意思を知ることができるのです。

 「メリークリスマス!」と今日も何度も叫びましたけれど、それは、どういう意味かと言いますと、「クリスマスおめでとうございます!」という挨拶です。でも、「メリー」というのはどういう意味なのか?「イエス様を生んだのはマリアだからメリーというのか?メリーさんの羊かな?」と、いろいろ考えるのですが、この「メリー」とは「楽しい、陽気な、愉快な」という意味です。「陽気なクリスマス」というのが、「クリスマスおめでとう」という意味になるわけです。
 クリスマスには、楽しいイメージがあります。なぜ喜ばしいのか?それは神が人となって生まれてくださったからです。

 キリスト教を世界宗教の一つだと考えるのですが、これは宗教ではありません。神が現実に人類の歴史に介入してくださった瞬間です。歴史そのものなのです。
 世界中の宗教を調べていただきますとわかりますが、ほとんどの宗教、すべての宗教といってもいいのですが、そこには「神話」があります。日本も「日本神話」という人が作った物語があるのです。神代の時代は、はっきり言って手が出せません。
 仏教もそうです。仏陀は一冊も本は書きませんでしたから、五百年も経ってから、ヒンズーの僧侶達が仏陀に関する神話を記しました。イスラム教も同様です。世界の宗教は、必ず、神話によってサポートされているのです。
 しかし唯一、キリスト教、私は「キリスト教」と「教」は付けたくないのですが、根底にあるのは神話ではなく、「歴史」です。そもそも偽りの神話が根底にあるのなら、信じない方がいいのです。偽りのストーリーが根源にあって、手を伸ばすと霊感を感じるのは一番危ないのです。それは振り込め詐欺や、オレオレ詐欺と同じです。オレオレ詐欺はどうでしょうか?偽りのストーリーがあって、電話の向こうに息子とか孫のような雰囲気を感じさせる、手応えがあるわけです。それで引っかかって、お金を取られるからです。
 宗教も同じで、根源に神話があって、偽りがあって、手を出すと「何かがいるぞ!」と感じるもの、それが一番危ないわけです。
 でもキリスト教は違います。根源にあるのは人類の歴史そのものです。歴史のただ中に、神が人となって生まれてくださった日、それがクリスマスです。

 今日読んだ箇所は、羊飼いたちに救い主が生まれたという第一報が伝えられた箇所です。ルカ二章十節、

『御使いは「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』

 「すばらしい喜び」を、民全体に知らせる為と告げられましたが、まさしく「メリー・クリスマス!」です。
 この言葉が伝えられたのが、歴史的事実と共に述べられています。ルカの福音書二章一節~三節を読みますと、

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。』

 イエス・キリストが生まれた時代的背景は、「神代の時代に生まれた」のではないのです。皇帝アウグストから全世界の人たちに「住民登録をせよ」という指示が出た時だったというのです。またシリアにおいては、クレニオという人物が総督をやっていたと記されています。これは歴史的事実です。ごまかしようがありません。
 イエス様がお生まれになった時代的背景は、皇帝アウグストがローマを、長い内乱から武力統一し、力の平和が打ち立てられた歴史的事実に基づいています。それは「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、ローマの初代の皇帝アウグスト、本名はオクタビアヌスというのですが、彼が武力によって平和を成し遂げたという時代的背景と共にイエスさまは誕生したのです。

 私の生まれは八月ですが、八月のことを英語でオーガストと言いますよね。これは「アウグスト」から出ています。アウグストの誕生日が八月で、彼はそれを新年にしたのです。「八月が新年か。俺が生まれた月だな・・・」と思ったわけですが、何も関係ありません。しかしアウグストは、それほど権威ある男だったわけです。
 皇帝アウグストが全世界を武力で統一した時代を背景に、神が人となって生まれてくださったのです。

 聖書を見ますと、様々な政治的変化とか、時代の変化に対応して、神が民に語られたり、ご自分の存在を現されたりしています。それは目に見えない世界と、神の世界がつながっているということです。なんと、地においては武力による平和が成し遂げられたというのですが、それは本物の平和ではありません。
 かつて日本も武力によって、ある意味、平和が確立していた時代がありました。徳川時代はそうでした。三百年くらい、戦争も内乱もなかったと言われます。それは平和な時代だったというのですが、裏を返せば、幕府の民衆への圧迫がたいへん強い時代であったということです。それは本物の平和ではないのです。民衆が上からの圧力で、苦しんでいたのです。
 イエス様の時代的背景も同じでした。見かけは平和に見えましたが、民衆は、ローマの圧迫に苦しめられている、そんなただ中に、「神の平和」が訪れたのです。これは神が人類を哀れんでくださった証拠を物語っているわけです。

 前回もお話しさせていただきましたが、最初に救い主がお生まれになった知らせは、長い間メシヤの到来を待ち望んでいたユダヤ人でもなく、イスラエルの住民たちにでもなく、「羊飼いたち」に第一報が入ったのです。
 それからも、神の目がどこに向けられているのかが分かります。羊飼いたちというのは、ユダヤ人ではなく、異邦人でした。彼らは遊牧民たちでした。
 今もイスラエルに行くと遊牧民たちがいます。ベドウィンというのですが、彼らは家を持っていないのです。季節と共に、羊や山羊を連れて、広大な砂漠を旅をする民です。
 みなさんもお金と暇があったら、聖地旅行、イスラエルに行って下さい。特に荒野ツアーに行きますと、本当に興味深くおもしろいです。そこでは遊牧民たちを多く見ることができます。荒野の真ん中に木が生えていたりするのです。そこに大きな風呂敷包みみたいな物がぶら下がっています。クリスマスツリーにしては包みが大きいなと思うのですが、「あれは、なんですか?」とガイドさんに聞いたら、それは遊牧民たちの荷物だというのです。彼らは巡り巡って、またその場所に帰って来るもんだから、多少の家財道具を木に吊しておくというのです。
 そんな国籍も持たない人たちの所に、救い主のお生まれが告げられたのです。彼らは異邦人でしたから、救い主という存在を自から求めるような人たちではありませんでした。遊牧民たちは、周辺諸国の政治的動向によって居場所も変わるし、立場も変わっていく、立場どころか立場もない国際的にも底辺の人たちでした。なんと、そこに喜びの知らせが、天の軍勢によって伝えられたのです。
 元々、イザヤ書六十五章一節にこんな預言があったことを、先週もお話しをさせていただきました。

『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。』

 救い主が生まれたという第一報が告げられたのが、長いこと救い主を求め「私たちを救ってください」と真剣に祈っていたユダヤ人たちにではなく、救い主の到来なんて一向に関心がなかった異邦人たちに、第一報が届けられたのです。
 ここから、私たちが信じている神様がどういうお方であるのかが、よくわかります。それは見捨てられたような、人生をあきらめてしまっているような、呼び求めることがない人の所に、目を向けておられるということです。
 何か一生懸命修行したり、努力したり、王宮に生まれたりと、有名人に神は目を向けるのではないです。社会の中で、誰も目を向けないような、関心を持たないような、自らも人生をあきらめてしまっている、そんな人に目を留めておられ、救いを届けてくださるのです。この事を知る時に、本当に励まされます。

 『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。』とありますが、救い主を見つけようと努力もしなかった人たちに現れてくださる、それはある意味で、日本のことかもしれません。
 日本では九十九パーセント以上の人たちが主を知りません。「救い主」について、とんと関心がなく、ただ目の先のことしか考えていないのではないかと思います。
 今回の衆議院選挙で自民党が圧勝しましたが、つい最近までは「民主党!」と叫んでいました。でも経済がよくないので、これじゃぁ生活が苦しい。「経済の活性化がんばります!」と自民党が言ったら、一斉に変わったわけです。本当に目の先だけで、日本の国民は動いているように思われます。永遠のことなんか、全く考えてはいないし、救い主のことなんて、これっぽっちも考えていません。そんな、普通からいったら神様から「おまえらなんか見捨ててやる」と言われそうですけれど、そんな人たちの所に、「神は目を向けてくださっている」ということになります。
 イスラエルから見たら、東の果てにある日本の民のために、目を留めてくださっていることを信じようではありませんか。私たちに主が目を向けてくださっていることを知る時、勇気が湧いてきます。
 それも、ある意味「私は人生、あきらめています・・・」というような人の所に、主は目を向け、その人を助けるために御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

 イエス様のお生まれになった時代背景について、先ほど少しお話しさせていただきましたけれど、イエス様がこの地上に生まれ、民衆の前に姿を現したのはたったの三年半でした。こんなに短い活動期間で、今や「宗教」というカテゴリーにキリスト教を入れるならば「世界宗教」です。それも「世界最大の宗教」です。日本人は「キリスト教?マイノリティーじゃないの?」と思っていますが、それは大きな間違いです。世界で最も多くの人たちが信じている宗教、それがキリスト教です。世界宗教にまで拡大したのは、相当な理由があるはずです。

 普通、宗教が拡大するのには、政治力とか、軍事力が必要です。日本の宗教は何ですか?「日本は仏教です」と答えますが、日本になぜ、こんなに仏教が定着したのかと言えば、「仏教はすばらしい。感動した。仏教徒になろう」と言って仏教になったわけではありません。仏教は六世紀に百済から入ってきました。百済から、くだらない贈り物が届いた感じです。開けてみたら、仏教が入っていたわけです。
 日本に仏教が入ろうとした時、日本で戦争がありました。蘇我氏と物部氏が戦争をしました。物部氏は古来からの縄文系の民族でした。「仏教という外来の宗教を入れたら、国神の怒りを買う」といって反対し、戦争になったのですが、物部氏が負けて蘇我氏が勝ったもんだから、日本に仏教が入り、その後国分寺による全国支配につながり、仏教が定着したのです。
 神道も同様です。現代の神道が定着したのは明治以降です。明治政府によって新宗教が作られたのです。それが「国家神道」です。これも、政府によって作られ、人々に国家宗教を押しつけたのです。この辺にある神社を見てみてください。だいたい駅前の一等地に建っています。神社の入り口には、「この神社は千何百年も前に、この場所に鎮座しました」なんて書いてありますが、それは全て嘘です。だいたい、よりによって、なぜ駅前に神社が千年以上前から出来るのですか?そんな時代に駅なんてありません。なぜなら、明治政府がそういう場所を選んで、神社は作られたのです。古来からの神社を「神社整理」といって壊して、日本に新しい国家体制を維持する為の神社を創設したわけです。日本においても政治的、軍事的力によって宗教は広がったのです。

 しかしキリスト教は『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と聖書に記されていますが、三年半だけ人々の前に現れたイエス様によって、激しい迫害の中でも拡大したのです。イエス様は衆議院選挙に立候補したわけでもなく、ユダヤの議会、サンヘドリンに立候補したこともないのです。なんの政治活動もしない、街宣車一台持っていなかったのにもかかわらず、世界宗教にまで成長したということは、すごい事が当時、起こったはずです。

 イスラエルは当時、皇帝アウグストの支配下にありました。ローマはどのような宗教を持っていたかというと、ローマ皇帝自身が神でした。そのような権力によって押しつけられた宗教と共に、もう一つは民間宗教みたいなものがありました。ローマの前の時代はギリシャですけれど、ギリシャ、ローマと続いて拝まれたのは、ギリシャ神話の神々でした。
 特にイスラエルを含めて、当時人気があった神がいました。それは癒やしをもたらす神として、民衆の信仰を集めていた「アスクレピオス」でした。これは民間では絶大な信奉対象となっていました。

 この頃、救急車のマークが変わって来ました。昔は十字架のマークだったのが、なんか変なマークに変わって来たことを気づいておられますか?
 私は以前、救急車が十字架マークをつけているのを見て、「日本は仏教の国だから、卍マークとか、鳥居マークで救急車を走らせればいい」と思った事があります。でもそんなマークのついた救急車が来たら「来ないで。来ないで。病気がよけいに悪くなる」と言います。でも十字架マークが来たら「あっ、救われた!」と感じます。
 しかし近頃、十字架にもう一個十字架を重ねて、真ん中に杖があって蛇が巻き付いているマークに変わってきました。あれが「アスクレピオスの杖」と言って、これ、イエス様の時代の民間のいやしの神でした。みんな癒やしを求めて、アスクレピオスを拝んでいたのです。

 しかし、イエス様が現れて何が起こったのかというと、人々の求めていたアスクレピオスの癒やしなんか、瞬間的に吹っ飛ぶくらいの、すごい癒やしが起こったのです。信じられないくらいの奇跡が、イエスという人物を中心に起こったのです。
 その事が福音書に述べられていますが、マタイ、マルコ、ルカは三福音書、共観福音書と呼ばれますが、その中でイエス様が行われた癒やしの奇跡を数えてみますと、並行記事を合わせ、弟子たちが行った奇跡なんかも含めると一〇五話に登るというのです。実数にして、五十例くらいの癒やしの奇跡がリポートされていると言われます。
 福音書の中に、それほどまで奇跡がリストアップされているということは、当時、イエス様を通して、どれほど多くの奇跡が起こったのかということです。地中海沿岸、アスクレピオスという治癒神の地図を、一瞬にして塗り替えるほどの、革命的ないやしと救いが、人々にもたらされたことを物語っているのです。

 それもイエス様はどのような人々に癒やしを与えたのかというと、どん底の、希望のない、神を求めることもしないような人たちに癒やしをなし、救いを宣言されたのです。
 私たちはイエス様の誕生にスポットを当てますが、誕生日だけにスポットを当てていてはいけないのです。イエス様の「公生涯」にスポットを当てなければいけません。地上でイエス様が何をなされたのか、最後には十字架に架かって私たちの罪の身代わりとなって死なれ、三日目によみがえられたのです。死に完全勝利をされたイエス様に、目を留めなければいけないのです。
 ヨハネの福音書五章を見ると、こんな癒やしの奇跡がレポートがなされています。ヨハネ五章一節〜九節、

『その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。』

 イエス様がある日、「ベテスダの池」という所に行かれたのです。そこには五つの回廊があって、多くの病人たちが伏せって居たというのです。ベテスダの池は考古学で特定され、発掘されています。イエス様の時代、ベテスダの池に何があったのかがわかっています。それは先ほど話した「アスクレピオスの神殿」が建っていたというのです。
 当時、そこには伝説があり、時々池の水が動くというのです。その池の水が動くのは天使が下りて来て、水をかき回しているのだと。だからその時に最初に飛び込んだ者は癒やされる、と信じられていました。だから、いつ水が動くのかと、病人たちは毎日期待して、回廊の廻りに伏せっていたのです。
 でも、そこは天使が下りてくる場所ではなかったのです。ベテスダの池には間欠泉、ガイザーがありました。時々、地下からガスと共に温泉が吹き出し、ぶくぶくと泡立つ現象が起きたのです。人々は「あっ!天使が下りて来た!」と言って飛び込んだというのです。でも、本当に癒やされたかどうかは分かりません。伝説があると人々は集まるものです。この辺でもイボがよく治る水神様がいるとかいうと、そこに行って水を取って来るのと同じです。

 なんと、イエス様は、アスクレピオスの神殿に入って来られたのです。そして誰の所に行かれたのかというと、かれこれ三十八年間、ずっと回廊に伏せっていた足の萎えた男の所に来られたのです。そして「よくなりたいか?」と聞かれました。この男が「イエス様!」と呼んだわけではありません。イエス様から、この男の所に来て、「よくなりたいか?」と声をかけられたのです。
 一口に三十八年と言いますが、それは相当な長さです。私は今年六十一歳ですが、三十八年前といったら二十三歳です。髪の毛が長い時代でした。私の青春そのものです。大学を卒業して、さぁこれからだという時です。しかし、その時から今までずっと伏せって居たというのですから、「私の人生って一体なんだったの?」という人の所へ、イエス様はわざわざ来られたのです。それもイエス様を求めていたのではなく、ギリシャ神話のアスクレピオスという神に癒やしを求めていた人の所にわざわざ来られたのです。
 「三十八年間、チャンスはあったけれど、私は飛び込めなかった」と彼は言いました。水が動く時には、ほかの人が我先にと飛び込んだのだと思います。病院の待合室のようにいっぱいの人たちがいたわけですから、その中で飛び込むことができたのは、多分一番元気で健康な人だったと思われます。力がなかったら、一番には飛び込むことはできませんから。
 本当なら、三十八年も苦しんでいる人がその場にいるなら、みんなで協力して、水が動いた時に「せーの」と彼を優先して、投げ込んであげればよかったじゃないですか。しかし、人々はそういうことはしなかったわけです。人間って悲しいものです。
 彼は、ほとんどなおる希望も失い、救い主なんて考えたこともない、三十八年間も床に伏せていた男でした。彼の「床」とは、彼の人生そのものでした。そこにイエス様が来られて、男を癒やされたのです。それは、イエス様が愛の深い方であったことを教えています。
 イエス様の方から彼の所に来て、「よくなりたいか?」と尋ねられたのですから。本来は素直に「はい。よくなりたいです」と答えたらいいのです。しかし、彼はそれも言えなかったのです。完全に希望を失っていましたから、「私には、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。」と文句を言っているわけです。

 しかし、そんな素直でないこの男に対して「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」とイエス様は言われました。『すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。』とレポートされています。すごいですね。

 私たちの信じている神様は、「どれだけお金を積んだら、どれだけ善行を積んだら、努力をしたら、求めたら救ってあげますよ。」という方ではないのです。なんと、神を問わなかった、求めなかった人たちに、神様の方から出向いて、癒やしを与え、救いを与えてくださる方なのです。
 世界では多くの宗教が、また神々がノミネートされておりますけれど、イエス様以外に、このような神様はおられません。比較宗教的立場から選択しても、キリスト教が一番健全です。努力しなくたって、どん底でも、求めなくても、主は私たちの所に来てくださるのですから。すばらしいですね。

 今日はみなさんに期待していただきたいと思います。「イエス様は、どん底の者たちを救うために、この地に生まれてくださった。この地を歩んでくださった」と知りましょう。

 私も牧師をしていますが、イエス様は今も生きておられる方であり、イエス様の生涯は終わったのではなく、十字架の後、よみがえって今も同じ思いで私たちに関わってくだっているということを、堅く信じる者です。
 私たちの神は、昔も今も変わらないお方です。『キリスト・イエスは昔も今も永久に変わることはない』とありますが、主は今も同じ思いで、私たちに関わってくださるのです。

 私は牧師をしていて、聖書に書かれていることは真実だと感動しています。イエス様に頼る時、どん底でも、ある時には頼る気力さえなくても、イエス様は何も言わずに来てくださり、癒やしを与えてくださるお方であることを体験しています。
 昨日もメッセージを準備しながら、過去に私が語ったメッセージをいろいろと読み返していました。前にも一度、ここでお話しさせていただいたことがあるのですが、この季節になると思い出すことがあるのです。今からもう十年以上も前のことになりますが、ある教会の牧師から電話がありました。「順先生。うちの教会の信徒があんたに祈って欲しいって言ってるんだけど」と言うのです。私は「なんでも協力します!」と明るく答えました。
 「その家にね、いろいろと問題があるんだけど、その人はあなたの書いた本を読んだらしく、それが霊的問題だと言うんだよ。私は霊的戦いを否定しませんよ。私もそういう祈りをしてみた。でも解決しない。だからこれは霊的問題だとは思わない。環境的問題だと思う。多分、その人に問題がある。だから順先生が祈ったって、良くならないと思うけれど、その人があまりにも祈りを頼んでくれというから、一応頼む」と言うのです。
 私はそう言われてむっとしました。「それが人に物を頼む時の言葉かよ~」と、牧師は私を含めて、案外変人が多いです。その言い方に腹が立ちました。しかし、それが案外霊的戦いで、対応を誤ると問題の解決に進むことができません。
 「順先生。あんたに、いやしの力があるとは思えんけれど、一応祈ってくれ」と言うのです。その時私はへりくだって「私には何も力はありません。主に頼って、お祈りさせていただきます」と言って、お祈りをさせていただきました。

 その人の霊的背景をいろいろ調べてみたら、その家には一つの特徴がありました。仏壇の中に過去帳があり、それを見たら、過去に長男が何人も五月に死んでいるのです。「五月になると長男が死ぬ」という特徴があるのです。この二、三年も同じように、親族の中で五月に長男が死んだというのです。今年こそ大丈夫だと思っていたら、なんと従兄弟の子が結婚したばかりで、子どもが一人生まれたのですが、五月に交通事故で死んだというのです。
 私はそれを聞いて、「単なる環境的な問題じゃない」と確信しました。それは霊的な問題だと思いました。だから、霊的視点をもって真剣に祈らせていただきました。

 イエス様と弟子たちが行った癒やしをは、延べにして一〇五話に登ると話しましたが、その内の四十八話が霊的解放、悪霊から解放されたストーリーだというのです。人類の敵は悪魔・悪霊どもです。その勢力に立ち向かう祈りはたいへん重要です。
 特に、その方の家族と親族、そして、家系に関して祈らせていただいた時、そこの家が徐々に変わって来ました。

 そうしたらその噂が、ある会社に伝わりました。ある日、会社の休憩時間に一つのことが話題になったそうです。「知り合いに○○さんという人がいるんだけど、教会に行って祈ってもらったら、問題が解決したという話を聞いたぞ」と。そういう話が出たそうです。
 それを休憩所にいた一人が聞いていたそうです。「ちょっとその話、ちゃんと聞かせてくれる?」と。そして「私にその教会を紹介し、連れて行ってください」と言ったそうです。
 なぜなら、その家の奥さんが長い間、精神的な病で伏せっていたからです。近くの精神病院にずっと入院していて、なかなか良くならない状態だったのです。ご主人がその事を聞いて、ご主人と家族、そして親族も付き添って、年末に、その奥さんを病院から無理矢理、教会まで連れて来たのです。奥さんは見るからに様々な問題があるとお見受けする方でした。
 でもイエス様の名前で、お祈りさせていただきました。暗闇の力が打ち砕かれるようにお祈りさせていただきました。それで帰って行かれました。

 しばらく経って、どうなったかなと心配になりました。その方は入退院を繰り返していて、今は家に帰っているという噂を聞きました。一回、家を訪問して周囲をとりなし、祈ってあげようと思い、スタッフと一緒にその家に行きました。すると、その方は、台所に布団を敷いて希望なく寝ていました。勝手場も荒れていまして、我が家も大きいことは言えませんが、散らかっていました。しかしその方のために、真剣にお祈りさせていただきました。
 私は彼女に「イエス様はあなたを癒やしてくださいますよ」と言いました。すると、「私はあんまり希望を持っていないよ・・・」と言いました。
 帰ろうとすると、床下収納庫から何やら、袋を出して私に渡してくれました。みかんか何か、おみやげをくれたのかと思ったら「これ偶像。」と言って、なんと家中の札とか偶像が袋の中に詰めてあり、それが床下収納庫に入っていたのです。

 なぜなら教会に連れて来られたときに、偶像を拝んでいると悪霊が働くということを聞いて、家に帰って、全ての偶像を集めたそうです。自分で捨てるのも怖いから、床下収納庫に入れておいたそうです。ちょうどタイミング良く私が来たので、その袋を渡したというのです。「なんだ、みかんじゃないのか・・・」と思ったけれど、それを受け取って帰ろうと、外に出ました。
 すると、家の前に高級車、ベンツが止まっていました。「すごい車ですね」と言ったら、彼女がこう言いました。
 「車はいいけどね、私は十五分と運転できないよ」と言いました。かわいそうだなと思いました。でも私はこう言いました。
 「やがてあなたは癒やされて、十五分どころか、新城教会まで、高速道路を突っ走って来る日が来ますよ」と言ったら「へへへへっ」と笑って、信じられないというような表情の笑いでした。「そんなことがあるもんか」という感じでした。

 でも、その後、その方はどうなったでしょうか。今では本当に、高速道路を突っ走って教会まで来られています。いや〜、良かったと思います。
 それもある牧師が「あんたにゃ、期待しないけれど一応祈ってくれ」と言われた時、「祈らせていただきます。私じゃなくてイエス様が・・・」とへりくだって良かった。あれが霊的戦いだったと、本当に思います。
 十年以上経って、最初の方が教会に来らてから、家族・親族・友人たちを集めると二十人くらいが救われました。何も求めていなかった、問わなかった者たちにさえ、イエス様は近づいて下さったのです。
 このように素晴らしい神様を、私たちは信じているのです。本当に嬉しいですね。牧師をやっていて、本当に良かったと思います。

 最初に来られた方、五月になると長男が死ぬということで、その時「今年も、長男が死んで、嫁さんが、子どもを一人抱えて葬式が終わったら行方不明になった」と言われました。「どこに行ったのかわからない。何年も、連絡が取れていません」と言いました。
 私は行方不明になっちゃったのだから、どうしようもない、その嫁さんに会ったこともないし、あまり行方不明になった人に関しては、関心がありませんでした。きっとどこかでひっそりと、暮らしているだろうと、思っていました。

 この事も、みなさんに以前、話したことがあるのですが、私は数年前、三島のある教会に招かれて奉仕に行きました。私はその教会で、今話した内容を証ししました。「その家では、五月に死人が出て、近頃は若い息子が死んで、赤ちゃんと残された奥さんが、行方不明になった」と話をしました。
 集会が終わって、「もしも何かの問題で苦しんでいる人がいたら、主を信じ、暗闇の力が破られるように祈りましょう」とお勧めしました。そのように会衆を招いたら、大勢の方々が講壇の前に出て来られました。私はその方々のために、祈りました。

 でも私はその日、集会が終わったら、新城まで帰らないといけないスケジュールでした。だから最終の新幹線の時刻をちゃんと押さえていました。でも、もしも万が一、最終の新幹線に乗れなかったら、もう一つのオプションがありました。それは豊橋までは新幹線は来ないのですが、浜松で在来線に乗り変えると豊橋に夜中の一時くらいに着くというスケジュールでした。「でもなるべく、これは使いたくないな・・・」と思っていました。
 私は会衆の人数と時間を調整しながら、一人一人の為に祈りました。やっと祈りが終わったかなと思ったら、まだ別の部屋に大勢残っていました。「打ち切って帰ろうかな・・・」と思ったら、主が私の心に語られました。
 「電車が一本遅れたって、おまえの人生には影響はないよ。しかし、みんなは、その後の人生に大きく関係するかもしれないぞ。だから、一本遅らせて祈ってあげろ」と言われたような気がしました。
 それで、「はい。わかりました!私は夜中の一時、豊橋着で帰ります!」と決断して、全員の為に祈りました。

 全員の為の祈りが終わって、「やれやれ。疲れたな・・・、さぁ、帰れるぞ!」と思ったら、一人の子連れの女性が会堂に入って来られました。まだ一人残っていたのかと思って、「何を祈ったらいいですか?」と聞くと、彼女が自分の人生の問題について話し始めました。
 「実は私は結婚していたのですが、主人が交通事故で亡くなりました。そしてその後、子どもを連れてさまよっていたのですが、近頃、この街に来ました」と言いました。

 私は「あなたたにそっくりな人の話を、さっきの集会で話しましたよ。聞いていましたか?」すると彼女は「子どもが泣いたので、私は外に出ていて聞きませんでした」と答えました。「あなたにそっくりな人が、うちの教会の関係者にいますよ」と。
 でも、聞けば聞くほど、あまりにも話が似ているのです。

 しかしやがて判明したことが、なんと、私の目の前に立っていた女性が、ご主人が亡くなって、子どもと一緒に行方不明になった本人だったのです!!
 私は鳥肌がたちました。「あなたはなぜ、ここにいるんですか?」と聞いたら、その方はご主人が亡くなってから、いろいろな街を転々としたそうです。ある時、その街に来たそうです。「この街に住もうかな・・・」と駅に降り立ったら、駅前で誰かがギターを弾いて歌っていたそうです。
 耳を澄ませたら賛美歌だったというのです。その方は若い頃、教会に行ったことがあったらしく、賛美歌のメロディーを知っていたというのです。懐かしいな・・・と思って、ギターを弾いていた青年に声をかけたそうです。「あなたはクリスチャンですか?どこの教会ですか?」すると、『駅のすぐ側の教会ですよ』「私も教会に行ってもいいですか?」『どうぞ来てください』ということで、ふらっとその街に来て、駅前でギターを弾いていた青年の賛美に誘われ、教会に行くようになったと言うのです。
 そうしたら、なんと私がその教会に招かれ、全く知らないでその人のことについて話したわけです。
 なんとも不思議なことに、私がその行方不明の人を見つけました。彼女は今でも、しっかりとその教会に定着し、信仰を守っておられます。

 イエス様は三十八年間、ベテスダの池で転がっている人に愛を現してくださいました。今も同じなんだな、ご主人を亡くされ、心傷つき行方不明になってしまった方にも、主は目を留めておられ、他の方々の解放と癒やしと共に、こちらも主は忘れておられなかったのです。
 このような者も、それらの方々の癒やしと解放のために用いられ、本当に光栄です。

 イエス様は、昔も今も常に変わらず、私たちに目を留めてくださっています。そして、どん底の、何の希望もない、主を積極的に求めることのない人たちにも、近づいてくださるのです。
 そのために、神が人となってくださった日、それがクリスマスです。ゆえに「今日あなた方のために、大きな喜びを伝えるために来たんですよ」と。「メリー・クリスマス、喜びのクリスマス」と語られているわけです。

 クリスマスは、別にイエス・キリストの事には興味がなくて、雰囲気で教会に来られる方もおられるかもしれません。しかし、それでいいのです。別に求めなくとも、イエス様の方から近づいて、救い出してくださるからです。
 今日、すべての方が、クリスマスの祝福を受け取って、帰っていただきたいと心から願っています。一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。ひとり子イエス様をこの地上に送って下さって、心から感謝します。それも王宮に生まれるのではなく、馬小屋に生まれ、神を求めてもいない私たちのような、異邦人の所に救いの第一報を入れてくださり、こころから感謝します。
 三十八年間、どうにもならないであきらめていたような人の所にイエス様が自ら行って癒やしを与えてくださいました。そのように、すばらしい主に感謝します。今日も同じように、私たちのどん底に目を向けて、癒やしと解放をしてくださることを心から感謝します。
 今日、お一人お一人の上に、神の豊かな恵みと祝福がありますように。私のどん底、深い所に来て解放を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。

 今、祈りの途中ですが、今日、あきらめている部分に、どん底だと感じている部分に主が来てくださる日になることを信じましょう。今からみなさんと共にお祈りしたいと思いますが、祈りは簡単です。声に出して言えばいいのです。今から私が祈りますから、私の後について祈っていただきたいと思います。一緒に祈りましょう。

 イエス様、今私の最も深い部分に、最も暗い部分に、あきらめている部分に来てください。すでに目を向けてくださっていることを、心から感謝します。今日、私を癒やし、解放してください。イエス様だけが救い主であり、私を癒やしてくださる神であることを心から感謝します。偽りの神々の背後に働く、敵の力を完全に打ち砕いてください。今日、神が人となられて、私の所に来てくださっていることを、心から感謝します。私はイエス様に従っていきます。イエス・キリストの御名によって、祈りを捧げます。アーメン。

 私が最後に、みなさんのために祈ります。
 ハレルヤ。主よ、感謝します。今日、何の希望もない所に、主が来てくださるとお話しさせていただきましたが、人生の中で希望を失っている者たちに、目を向けてくださっていることを心から感謝します。私たちのただ中に、二千年前と同じことが起こっていることを心から感謝します。イエス様、あなたは変わらずに、私たちに目を向け、救いを与えてくださる方ですから感謝します。
 あなたはこの地上を歩み、十字架に架かり、死を打ち破りよみがえって、今も生きておられます。永遠の主に心から賛美をささげ、よみがえりのイエス様をここにお迎えします。今日のこの日を心から喜び、すべての栄光をお返しし、イエス様の御名を通して祈りを父なる神の御前にお捧げいたします。アーメン。