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『ニューイヤーカウントダウン
ワーシップ

2012.12.31 (MON)
新城教会 上條実
滝元明
四元雅也
滝元開
公畑フェルナンド
岡本信弘

上條実牧師

 ハレルヤ!いつもお祈りを感謝します。皆さまのお祈りに支えられて、祝福と感謝に満ちあふれた一年を過ごす事ができました。また私の家族のためにもお祈り下さり感謝します。皆健康が支えられました。特に七月には次男のところに子どもが産まれ孫が三人になりました。

 二〇一二年を振り返りますとまず、たくさんの家庭集会で奉仕をさせて頂きました。ほぼ毎日のように家庭集会があり、多くの兄姉と共に賛美し、祈り、みことばを学ばせて頂き、楽しい神の家族の交わりをさせて頂きました。
 また十二月十五日には、お祈り頂きました子どもクリスマスが行われました。そのために子どもたちと共に真剣に祈りました。大勢の子どもたちが集まるように祈り、もう十三年も続いています「みことばの剣」に、今回の子どもクリスマスの動員目標をみんなに祈って書いてもらいました。ある子は「一万人」と書いた子もおりましたのでそれは省き、合計し平均をだして目標人数にしました。それが聖書的にはあまり良い数字ではありませんが六百六十六人という数字でしたが、とにかく大勢祝福されるように、真剣に叫んで祈りました。一週間前にはみんなで山の上に登り、町々を眺めながら祈りました。感謝なことに神はその祈りに答えてくださいました。人数的には四百七名の子どもたちが集まって下さり、真剣に大きな声で賛美し、「イエス様を信じます」と大声で祈ることができました。現在スタッフをしています滝川充彦兄も、子どもの頃「子どもクリスマス」に来ていたそうです。あの時はファミコンのカセットが当たるという宣伝で、人を集めた事を覚えています。その種が素晴らしい実となっています。今回も多くの実を結ぶ事ができると信じております。その中で一つの事を子どもたちと真剣に祈りました。それは当日の天気予報が雨となっていました。最後の一週間、祈とう会をしましたが、天気予報を確認すると毎回雨でした。雨だと子どもたちが来にくいし、傘を持ってきても収容できませんし、自分のがわからなくなって混乱するので、子どもたちとイエス様に訴えて祈りました。「イエス様訴えます!雨を留めて下さい」と祈りました。しかし前日になっても雨の予報で、子どもクリスマスが始まる午後二時頃は強く降るという予報でした。そのため金曜日の祈とう会では、とにかく雨であっても十二時頃にやむようにと祈りました。皆さんどうなったと思います?見事に神様は働いてくださり、お昼には雨がやんだのです。そのため午前中習い事をしている子どもたちも、習い事が中止になり、来れないと思っていた人たちも来る事ができました。自分は不信仰で子どもたちには「絶対に祈りは聞かれる!」とは言うけれども、不安でした。しかし天候で奇跡を見せて下さいました。主が子どもたちの祈りに答えて下さった事を感謝します。

 またもう一つ皆さんに祈っていただきました「台湾リバイバルミッション」も祝福されました。七月の二、三、四日と私と岡本先生で台湾に行かせていただきました。その時は開催が暗礁に乗り上げていました。今回開催して頂いた中山長老基督教会は、開催する事は難しいと断られた教会でした。どこかできる会場を見つけてこいといわれたものの、何の当てもなく、断られましたが会堂だけでも見てみようと言う事で、出かけていきましたが、その時押しかけでしたが中山教会に立ち寄ると、牧師先生が在宅でお会いする事ができ、再度お話しする事ができました。そして、翌日には教会の長老さんたちを集めてくださり、「どういう集会をしたいのか」とかいろいろお話しをすることができました。その結果一度は断られましたが、奇跡的に引き受けて下さり、九月二十一日~二十三日の三日間開催する事ができました。この教会からも多くの方々が行ってくださり、台湾の教会の人々も素晴らしい集会だったと感動する大会を持つ事ができました。

 しかし、祝福された中にも悲しいこともありました。私は葬儀の担当をさせて頂いていますが、二〇一二年は五人の方々の葬儀を行いました。私が初めて出会う兄姉のご家族の葬儀や東京まで出かけて葬儀をさせてもらいました。そんな中グスタボ君というブラジル人の五才の子どもさんのお葬式もさせて頂きました。インターナショナル部会では初めてのお葬式でした。五才男の子が亡くなり大変つらい葬儀でした。素直に感情を現すインターナショナルの人たちですので、大勢の方々が集い、涙、涙の葬儀でした。今まで何度も葬儀を準備させていただきましたが、今までにあんなにつらい葬儀は、あまりなかったというくらい悲しみの時でした。そんな中でグスタボ君のご両親やご親族の方々が天国で再会できるというという望みを持って、今信仰を持っておられる事に慰めを頂きました。イエスキリストを信じる時天国で再会できることは最高の祝福です。

 さて来年二〇一三年に向けてのみ言葉をご紹介したいと思います。旧約聖書の第一サムエル記三章一節~十節です。

『少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分の所で寝ていた。‐‐彼の目はかすんできて、見えなくなっていた‐‐神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ」と言った。サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。』

 これはすごく有名な聖書の箇所です。「サムエルの祈り」というサムエルが手を合わせて祈っている姿の絵もすごく有名です。この時サムエルは少年でした。その少年が神の箱の安置されている主の宮で寝ていた時に、主はサムエルを呼ばれました。しかしサムエルは神様の言葉を聞いたこともありませんでした。そして祭司エリの所に「はい。ここにおります」と言って、走って行ったとあります。そんな事が三度あった時祭司エリは、「これは神様からの声だ」と気がつきました。そして「今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」と言ったと書いてあります。四度目に主が「サムエル。サムエル」と呼ばれました。サムエルはエリに言われた通り『お話しください。しもべは聞いております』と言って神の声を聞いたのでです。今回、私はこの二〇一三年のみことばのために「主よ、何を語ったらいいんですか」とずっと祈って来ました。クリスマスの前から「主よ、何が二〇一三年の御言葉ですか」と十二月に入ってからずっと聞いていたんですが、「主の声を聞きなさい。主の声を聞きなさい」と祈っていました。そんなときこのみことばが与えられました。私はサムエルのように神の声を聞きたいです。みことばを下さい。と祈り続けていました。すると「もう一度このサムエル記の三章を読むように」との促しを頂き、ゆっくりと読み直してみました。すると特別第一サムエル記三章十節

『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。』

とあります。あなたは、いつも主と共に歩んでいると思いますが、十節に、『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。』とあります。私たちの神はインマヌエル「いつも共にいる」と聞いています。主が私たちと共にいつも行動してくださっています。しかし私たちはこの世の煩い、忙しい世界の中で、仕事や家事、また学校などの中で主が共にいて下さる事を忘れてしまいます。またいつも主と交わり、主が声を出して下さっています。その声も忙しいあまりに、主の声が聞こえなくなってしまっています。
 しかし今回私が与えられたのは、『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように・・・・・・・』とあります。いつもインマヌエル、主が共にいて下さって、いつも「サムエル、サムエル」と読んでいるようにあなたの名前をこれまでと同じように呼んでいて下さいます。あなたの名前を主が呼び、主が語っているにもかかわらず、私たちは聞くことが出来ていませんでした。今年は主の声を聞ける器、声を聞いて受け取り、その命令を実行できるようになっていくと、素晴らしい祝福が私たちに与えられると信じます。
 今日は我が家をいろいろ掃除したのですが、うちの子どもに「掃除して」と言っても子どもは全然耳を傾けてくれません。掃除とか嫌な事には、耳を傾むけもしないものです。しかし、休憩してアイスクリームでも食べようか言うと、すっと聞こえるのです。勉強しなさいと言ってもテレビなどを見ていて聞こえないのです。しかし同じようにテレビ見ていてもディズニーランドへ行こうかと話していると、その時は聞こえるのです。気になることを言うと耳を傾けます。
 私たちは知らない間に、世の中の方に目をむいてしまっています。みことばから

『神の国と神の義をまず第一に求めなさい』

と言うことは聞いているし、知っているし、大切だと思っています。しかし忙しさや、世の楽しみのほうに五感を集中し、神さまが常にこれまでと同じように、常に語っているのに気づかない。聞こえない。聞こえても聞き従わないのです。
 特に今は携帯の時代です。携帯がなれば、すぐ反応します。バイブレイターにしていたとしても、気づくのです。私たちは仕事をしていても、人と話をしていても、テレビや映画を見ていても、電話が鳴るとすぐ気づきます。電話優先なのです。
 しかし、先ほどの第一サムエル記の三章十節には『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。』とありますが、今までも語っていたし、これまでと同じように「上條実よ。上條実よ。こうしなさい」と名前を呼んで、このようにしなさいと話してきます。自分の関心事、また携帯などにはすぐ、反応します。楽しいこと、好きなこと、都合のいい事に関しては私たちはすぐに気づき、反応します。
 私も二〇一二年を振り返ってみると、「おまえに色々託したのに、おまえは聞いたか?」と問われます。後ろを振り向いたら、イエス様から託された私の仕事が、山積みに積まれて、仕事をしていないと責任を問われます。もし会社などで任された仕事をしなかったら、大変なことになります。上司から強く叱責され、あるときは解雇されてしまうかも知れません。あなたは神の声を聞いていますか?いつも共にいて下さる神の声を常に聞いて生活しましょう。いつも主を意識し、「サムエル。サムエル」と呼ばれたように、今も私たちに語り、テレビを見ている時でも、自分の時間でもすぐに応答できるように「主よお語りください」と祈り心を持て生活していきましょう。私たちの心の耳が開かれるように、罪の中にいたならば神の声は聞こえません。十字架の血潮をいつも仰ぎながら生活しましょう。十一月に私が与えられたみことばでこういうことばがありました。詩篇九十八篇八節、

『気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。』

 私は気づいていなかった。主がいつも共にいることと、主が声を出していることを気づいていませんでした。イエスキリストが頭で、みなさんが各器官だとあります。私も一つの器官。あなたも一つの器官です。その器官をしっかり働かせるためにも、神の声を聞きましょう。そうすれば、体である。教会が動いて収穫できます。
あなたが使わされている所が教会です。あなたのいるところが主の畑です。主の声を聞いて、祈り、戦い、働いて行きましょう。大きな収穫があります。最後にお祈りします。

 愛する天のお父様。今私に、この教会の各器官に、耳を開いてください。主の声を聞くことができますように。いつもあなたが共にいてくださることを意識して、いつもあなたが語ってくださっていることを聞き、実行することができる者となりますように。私たちの耳を開いてください。すべての兄姉の耳を開いてください。主の御名によってお祈りします。アーメン。


滝元明牧師

 ハレルヤ!来年に対する幻ということで、いろいろと考えるのですけれど、実は昨日までよく分からなくて、祈っていました。しかし、夜眠っている時に夢をみました。これが主から来たかどうかはわかりませんが、二つの夢を見ました。

 一つはどういう夢かというと、私と開と一緒に、山の中に入りました。何のためかというと、蛇を捕まえるために入ったのです。そうしたら開が「蛇がおった!」と長い蛇を捕まえました。捕まえたのですが、それをよく殺すことができないので、「私によこせ!」ということで、私が捕まえて蛇を殺しました。そして皮をむいて料理して、みんなにご馳走しました。みんなに蛇の肉だと言わずに食べさせたら「おいしい」と言って食べた、という夢でした。
 それを考えながら、来年はいわゆる干支でいうと、蛇の年と言われています。だから来年は、イエス様の御名によって蛇の力を打ち砕いて、勝利する年になることを願っています。

 それからもう一つ、その後にまた夢を見ました。それは私の家のすぐ側にフェンスがありますが、そこで私は一生懸命、悪い草の根を取りました。普通、山芋なんかの芽が出るのですが、時々悪い植物が芽を出します。名前は分かりませんが、しょっちゅう伸びるツルがあるのです。引っ張ってもだめです。そこで、私も深く掘って、全て根っこを取ろうと思って仕事をしている夢でした。

 私は考えました。あっ、そうだ。これから来年に向けて、聖書の中に苦い胆汁、苦い根があってはいけない、と書いてありますが、苦い根を取らなければいけないと思いました。。
 今の時代は非常に恐ろしい時代ですね。なぜかというと、こういう集会も、インターネットで中継され、全てメッセージを聞かれるでしょ。昨日の礼拝の時も話したのですが、十二月二十三日、二十四日と天野先生の教会に行きました。帰って来たら、うちの娘の道子が「お父さん、とんかつ食べたでしょ。その後に酢豚食べたでしょ。その次に焼き肉食べたでしょ」と言うのです。「どうしてわかった?」と聞くと、向こうの人が私の食べた物をインターネットで「滝元先生はとんかつを食べて、酢豚を食べて、焼き肉を食べて、そして飲んだのはコカコーラでした」と出していたからです。今の時代は秘密ができないですね。
 ですからみなさん、神の前に、とにかく来年は誰が見ても恥ずかしくないような、生活をしなければならないと考えています。

 それから今朝、起きると私の家内と賛美歌を歌います。五つくらい賛美して、それから三章くらい旧約聖書から毎日読んでいるのですが、今日はヨナ書を読みました。今日のヨナ書は恵まれました。ヨナ書三章はこういう言葉でした。ヨナ書三章一節〜十節、

『再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。』

 「こういうリバイバルが、日本に来るように祈らなければならない」と思いました。聖書を見ると、聖霊が下ったペンテコステの日に、一日三千人の人たちがバプテスマを受けたと書いてあります。その次に信徒が五千人になったとあり、すばらしいリバイバルです。しかし、旧約聖書に記録されているニネベの街のリバイバルは「十二万人」がヨナの宣教で救われたとあります。。
 日本にも、こういうリバイバルが来るように、願わなければいけないと思います。考えてみたら、東京でも四年以内に地震があるとかいろんな予告があります。罪が満ちると神の裁きが来るので、私たちは日本のために、祈らなければならないのです。
 神様が日本に願っていることは何でしょうか?ニネベの街にヨナを遣わして、「四十日経ったら滅びる」という言葉を伝えました。すると、街の人たちはそれをまともに受け取って、悔い改めたのです。「荒布を着て」ということは、悔い改めて神様の前に「赦してください」と祈ったのです。王様も王服を脱いで、悔い改めて街が救われたのです。みなさん、日本に、こういう時が来たらすばらしいと思います。みなさん一つ祈っていきましょう。

 去年からもらっている御言葉の中に「あとの者が先になる」という御言葉が来ているのですが、これはある意味においては、日本の教会かもしれません。王様から大臣から指導者から悔い改めるリバイバルが、日本に来るようにみなさんお祈りしましょう。
 今の時代を考えると、今度の安倍内閣に入って、憲法改正だとか、いろんな悪い事が出て、日本は昔に帰る可能性があると思うけれど、もっと可能性があるのは、この教会に霊的戦いが始まって二十年くらい祈り続けて来たのです。いわゆる霊的世界では、リバイバルの準備ができていると思います。ですからみなさん、リバイバルが来るように祈りましょう。阿倍さんも救われるように。

 ニネベの街が神の怒りから救われて、すべての人が救われたわけです。家畜も救われたとあります。神様の御心というのは、滅ぼすことではないのです。
 ヨナは、四十日経っても滅びないから、癪にさわったわけです。「だから私は言ったでしょう。あなたは憐れみ深い神様ですから、きっと赦すに違いないと思っていました。それで私はタルシシに逃げたんですよ。」と言うと、神様が何をされたのでしょうか。
 ヨナは今にニネベが滅びるかどうか、山の上から見ている時に、暑くてたまりませんでした。すると神様はとうごまを生えさせたのです。ひょうたんの木です。「暑いのがなくなった!」
 しかし、その次の朝、神様は虫を出して、とうごまの木を食い荒らさせたのです。それでヨナは暑くてたまらなくて叫んだのです。「もう殺してください!」

 ヨナが怒った時、神様は、ヨナに向かって「あなたが自分で労しもしない、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、ニネベの街のわきまえない十二万人をどうして惜しまないでいられようか」と言われています。

 みなさん、神様の御心は日本が滅びることではないです。日本が救われることが御心です。ですからみなさん、日本にリバイバルが起こることを信じましょう。とにかく、来年は日本に大きな業が来ることを、信じるように、みなさんと一緒に祈って前進していきたいと思います。以上です。ハレルヤ!


四元雅也副牧師

ハレルヤ。今年もこうしてカウントダウン集会に家族そろって参加し、素晴らしいみことばと賛美の時が与えられて感謝します。それでは早速聖書を開いていきたいと思います。

マタイの福音書十一章二八節~三十節
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

昨年私がこの場所でお話ししましたメッセージは、ルカの福音書十二章四十九節のみことばからでした。

ルカの福音書十二章四九節
『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

初めにお読みしたマタイの福音書十一章の前、十章にもこれと同じみことばが書かれていますので、昨年に続くようなみことばが今年与えられたことになります。昨年は、「地に火を投げ込むために来た。だから、その火が燃えていたらとどんなに願っていることでしょう」とイエス様が言われましたから、私たちひとりひとりが聖霊の火に燃やされ、また、私たちの働きも、日常の継続の連続ではなく、火が燃えるような激しい変化を伴う働きとなるようにとお話ししました。

一九九二年にこの教会に聖霊の火が注がれ、今年は二〇年が満ち、二十一年目がスタートしていきます。この時に、もう一度一人一人が燃やされることができるように、二〇年間この教会を揺り動かし続けている聖霊の油注ぎと霊的戦いの火を、さらに熱く燃やし続けて神様の前で仕えて行こうとお話しさせていただきました。

今日のメッセージを祈りつつ準備しているときも、このみことばを振り返って、もう一度「僕も聖霊の火で燃えていたい。」と、胸が熱くなるような思いでした。同時に、一年を通じて「燃えていた」とは言い難いと、反省する面も多くあります。あなたはこの一年を振り返ってどうでしたか。

この集会では六名の先生方がメッセージされます。明日はそれをまとめて順牧師がメッセージされます。すでに上條先生と滝元明先生が素晴らしいみことばをお話ししてくださいまして、僕も感激しているのですが、みことばをどう受け取るかということが大切です。聖書にはみことばを聞く態度には四種類あると書かれています。種まきのたとえです。種が道端か岩地かいばらの中か、良く耕された地のいずれに落ちるかで、実が結ばれるかどうかが左右されるように、今日先生方から語られている素晴らしいメッセージも、受け取り方によって実を結ぶかどうか大きく変わる可能性があります。今日与えられたみことばをしっかりと心にとどめて、この一年を過ごしていきたいです。

さて、イエス様は、「疲れているもの、重荷を負っているものはわたしの所へ来なさい。休ませてあげます。」とおっしゃったのですが、招きを受けてみ前に来た者には、今度は「私のくびきを負いなさい。」とおっしゃいました。「くびき」といわれても最近はご存じでない方がいらっしゃるかと思います。私もそうでしたので、インターネットで調べてみると、こんなものでした。

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どういう風に用いられるかといいますと、写真のように牛が横並びに並んでいるところに、二頭の首に横木をかけ首輪で固定し、横木に農耕器具や荷車などを繋いで牛たちに引かせて作業させるわけです。このように「くびき」とは、家畜を制御して作業を効率よくするための道具です。

ですから、イエス様が「休ませてあげる」と言われたすぐ後に「くびきを負いなさい」とおっしゃったことは、一見すると全く矛盾することのように聞こえます。

なぜこんなことをおっしゃられたのかは、後からお話しますが、「くびき」には別の使用法があります。それは、自由を奪って拘束するという用途です。これは、奴隷を繋ぎ止めておくためです。

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この写真は、おそらくアフリカの人をさらって、奴隷として売りさばくために鉄のくびきにつないで、逃げられないように互いに鎖でつないで拘束していた様子だと思います。これが「くびき」です。

このように、くびきを負うということは、言い方を変えれば、何かの支配を受けているとも言えます。

我々は誰と何とくびきを共にするのかということで、生き方が変わってくるのです。

申命記 二八章四八節
『あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、【主】があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。』

私たちはみな、何かの「くびき」に縛られて、奴隷となって生きているのではないかと思います。

ローマ人への手紙六章十六~十九節
『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。』

ここで、私たちは二種類の人生のどちらかを選択していると教えています。ひとつは、罪の奴隷であり、もうひとつは従順の奴隷です。ひとつは死に至る奴隷であり、もう一つは義に至る奴隷であるといい、そのどちらかに生きているというのです。私たちは、義の奴隷、いのちに至る従順の奴隷にならなければいけないと、聖書は勧めています。
ガラテヤ人への手紙五章一節
『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』

とあります。

今まで、二種類のくびきについて学びました。奴隷用の鉄のくびきと、家畜用のくびきです。それは、悪魔による「罪のくびき」か、イエス様による「義(従順)のくびき」かです。そして、イエス様が言われたのは、「わたしのくびきは負うのに優しく、また荷は軽い」ということです。なぜなら、心優しく、へりくだっている方が、一緒にくびきを負ってくださるからです。イエス様が話された「くびき」は原語で見ると、一頭用のくびきではなく、二頭用のくびきです。イエスさまから学び、従順することは、イエス様と一緒にくびきを引くことなのです。そうすると荷は軽くなり、魂には安らぎが来、人生には義の実が結ばれるのです。

逆に、悪魔のくびきは、私たちに無理やり結わえつけられ、私たちが行きたくない闇に、私たちを無理やりに連れて行き、最期には滅びに引いていくための鉄のくびきです。

ですから、私たちは、イエス様のくびきを自ら背負わなければなりません。家畜も慣れてくると、飼い主の意図を汲んで自らくびきに頭を突っ込んでくれるようになります。くびきを負って仕事をすることを嫌がらなくなるわけです。そこには家畜と、家畜を養い世話する飼い主との信頼関係があります。私たちも、飼い主である父なる神様を信頼し、自ら進んでくびきを背負わなければなりません。くびきがかかると家畜のやる気のスイッチが入って、もくもくと仕事をするように、私たちも神様の仕事を進んで行えるようにしなければなりません。

このみことばは、クリスマスの前に教えられたのですが、今年のクリスマスは例年よりも忙しいときでした。なぜなら、今年はいつもよりも伝道集会が二つ多かったのです。一つは「豊根村クリスマスコンサート」、もう一つは青年会が主催した「The Call Christmas」です。青年会は例年クリスマス会を企画しなかったのですが、今年は導きがあって計画しました。特に僕は青年会を担当していますので、そのための準備集会も毎週いくつも入っていましたし、「100時間祈祷」という祈祷プログラムも青年会のみんなで挑戦しました。今年のクリスマスはどの伝道集会も大変祝福され感謝だったのですが、とても忙しいときでした。しかし、私は事前にこのみことばをいただいていましたので、自ら喜んでくびきを負っていこうと気持ちを切り替えて「神様、今年のクリスマスは休まなくてもいいです。どうか、休ませないでください」と祈りました。でも、やっぱり弱いところがあって、二二日に青年会のクリスマスが終わったときに、だいぶホッとして気が抜けてしまったのですが、神様から「それじゃあいかん」とみことばを通して激励を受けて、もう一度悔い改めて最後まで走り通しました。

新城教会の働きも、今までもそうでしたし、来年もきっとそうだと思うのですが、相変わらず忙しいと思います。そして、教会はクリスマスだけではなく、これからもずっと休むことなく働き続けていくことだろうと思います。そんな中、牧師やスタッフだけでくびきを負って働いていくというのではなく、やはり、一人ひとりがそれぞれのくびきを負って喜んで仕えていくことがどうしても必要です。

悪魔によって無理やり結わえつけられる「鉄のくびき」がいいか、神様によって自ら進んで入っていく「家畜用のくびき」がいいか。

今日私たちは神様の側に就くものとして「神様のくびき」を負って、人生に安らぎ持ち、義の実を結ばせていただくときに、教会にも、この国にも、大きなリバイバルが進むことを信じています。


滝元開副牧師

 最初にまず今日の御言葉をお読みします。第一テサロニケ五章十六節~十八節、

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 このみことばが二〇一三年のために主が備えてくださったみことばであると信じています。リバイバルという大きな戦い、主の大きな働きがさらにさらにこれから進んでいくと思いますが、そのような中で、いつも喜んで、絶えず祈り、すべての事を感謝していけたらどんなに素晴らしいことかと思います。「これがキリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることだということ」なので、二〇一三年、主が望んでおられるように、生き続けていきたいと思っています。
 まず最初に、最近、主から与えられた賛美をご紹介させていただきたいと思います。「いつも喜び絶えず祈り」という歌です。

♪いつも喜び絶えず祈り
いつも喜び絶えず祈り すべての事に感謝しよう
いつも喜び絶えず祈り すべての事に感謝しよう
イエスの愛に喜び イエスに祈り
イエスの愛に歌う 感謝の歌を
いつも喜び絶えず祈り すべての事に感謝しよう

 最近、リバイバルには体力が必要であると感じて走ったりしています。つい先日も、中高生の集会の前に祈りながら走っていました。そうした最中にこの歌が与えられました。いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝して進みなさいと、二〇一三年の御言葉として与えられて本当に感謝しています。

 みなさんのお祈りに支えられて、日々の歩みが守られていること心から感謝しています。二〇一二年はザワメキの働きで、特にこの日本の色々な所を巡らせていただきました。今年ほど北に南に東に西にたくさん車を走らせたことはなかったというくらいに、いろんな所に行かせていただいたんですが、その中で行く先々に神様がご臨在くださって、あのように多くの教会を巡ることも、これは本当に主の時だったんだなと思いました。

 いろんなところで牧師先生がこうおっしゃるのです。「ひさしぶりに歌った」と。普段力一杯歌うことの少なかった先生方が、力の限り主のみ前に歌っておられました。さらに多くの先生方が涙して神様の前に出ておられるのです。甲子園ミッションからちょうど二十年が経ちましたが、神様はもう一度のこの日本の教会に“賛美の祝福”を持ち運びなさいと言われていたようでした。主は確かにもう一度、日本の教会一つ一つに訪れておられるということを見させていただき本当に感謝な年でした。

 また被災地にも何度か行かせていただき、被災地の教会や仮設住宅のコンサートでも巡る機会が与えられました。ノンクリスチャンの中でささげる賛美の中にもイエス様は確かにそこにいてくださり、今まで以上に神様のご臨在を深く感じ、そして、神様が賛美の中でノンクリスチャンのお一人お一人に触れてくださっていることを感じた一年であったことを心から感謝をしています。

 教会では中高生を担当させていただいていて、これは私にとってすごく大きな恵みなんだなと思っています。中高生の兄弟姉妹と一緒にいると自分もやはり同じくらいの精神年齢になってしまうのです。一緒にやっているうちに自分も若い気持ちになるんですね。この間、サッカー選手のゴン中山が引退しましたが彼は四十五歳で、彼がこんな事を言っていました。「私はまだ人生の三分の一しか来ていない」と言っていました。いい事言うなと思いました。人生百二十年じゃなくて、彼は四十五歳にして三分の一しか来ていないと言っていたんですが、私も中高生と一緒に居るとつい「百六十歳くらいまで行っちゃうかな」とそんな気持ちにならないでもないのです。彼らと一緒にいさせていただいている恵みのゆえに、支えられているなと本当に心から感謝をしています。

 そんな彼らと今年の九月からCKワーシップという集会を始めさせていただきました。「中高生のための中高生による礼拝」というもので、伝道礼拝が毎月持たれるようになったんですが、神様が新しい事をしてくださったことを見させていただきました。
 特につい先日のレッツプレイズの中には多くの中高生のノンクリスチャンの子が来てくれて福音に接する機会が与えられました。クリスチャンの中高生の彼らは、休みだったもんですから、朝から教会に来て会場の準備から食事の準備、そして、集会本番では、食事のサーバーから始まり、コンサートの中では賛美して、そして今回は賛美に合わせて踊りもしてくれました。主が新しい事を始めてくださったことを見ることができて本当に感謝でした。神様はそのような働きの中にご臨在くださると共に、新しい扉を一つ一つ開いておられるということを見させていただいて本当に感謝な一年だったと思っています。

 レッツプレイズの前に与えられたみことばがあります。そのみことばは、詩篇一一〇篇三節、

『あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。』

 若い彼らが、地を潤す朝露のような存在となるというみことばです。これからのリバイバルのために、この教会の若い世代の中に主は新たなる事を始めておられるなということを見せていただいた年で本当に感謝しました。
 二〇一三年、神様が何をしてくださるのかということをとても期待をして進んでいかなかったらいけないと思いますが、やはりリバイバルというのは戦いなので、人間的には休みもなく戦い続け、時には、重いくびきを負って戦い続けなければいけないのがリバイバルなのかもしれませんが、でもどのような中でも神様はいつも喜び絶えず祈りすべての事を感謝する。それができたらそんなに素敵な事はないなと本当に思います。
 ですから、二〇一三年は自分自身も本当にいつも喜んで絶えず祈ってすべての事を感謝できる、そんな二〇一三年にしたいなと心から願っています。
 神様は必ず、大いなるリバイバルの御業を見せてくださいますが、それと同時にリバイバルはサタンの手からの魂の奪回なので日々大きな戦いがあると思うんですけれども、そのような中でも主は決して喜びを失うことなく、元気を失うことなく戦い続けて欲しいと、私たちに願っておられるのではないかと思っています。

 このクリスマスの時にザワメキで一つの教会に行きました。新城ではクリスマス礼拝がされているとても大切な時間だったんですが、主がその日は「そちらに行きなさい」とおっしゃっていたので行かせていただきました。その教会は毎年クリスマスの季節になるとザワメキを呼んでくださる教会なんですけれども、その中で今まで蒔いて来たものの一つの実を見させていただいたような、そんな時となりました。
 昨年も、ちょうどクリスマスの時に行ったんですけれども、その時はノンクリスチャンの方がたくさん来てくださいました。そして、その中に一人のご婦人がおられて、二十年間共産党員をしてきたというご婦人でした。その方は初めて教会に来て賛美を聴いて帰って行かれたんですが、その方が最後に「二十年間共産党をして何一ついい事がなかった」と言って帰って行かれました。そして、今年行ったらなんとその方がクリスチャンになっていました。本当に感謝で、神様が働いてくださったなということを感謝しました。

 それからもう一つ、その日は朝早く新城を発って、その教会に行って、セッティングして、それからリハーサルをしました。小さな教会で、信徒の数は一桁という、そういった教会なんですが、リハーサルを始めたら二人のおばあさんが目の前に座っておられました。牧師先生のお母様と、牧師先生の奥様のお母様、それぞれのお母様がおられました。それぞれきっとクリスチャンではないと思うのですが、リハーサル中ずっと賛美を聞いてくださるのです。
 リハーサルなので少しずつ歌うのですが、一曲歌う度に「あ〜!いい歌だね」と一曲一曲に拍手してくださるのです。時間もなかったのでちょっとずつ歌って、でも全部歌いました。そうしたら「いい歌だね。いい声だね」と言ってくださって私たちも嬉しく賛美していたのですが、歌い終わって、「あぁ良かったね。本当に良かったね」と牧師先生のお母様がそうおっしゃって、そうしたらそのおばあさんが突然、「あぁ!」と言い出したのです。
 実は、そのおばあさんは目の見えない方で、ぼやーっとはしているんですが何も見えないそうなんです。だから自分の手も見えない。何も見えないのだそうです。目の前が海だったんですが「今日は海が綺麗ですね」と言うと「どんな色をしているんだい?」と言うのです。「今日はとても青くて綺麗ですよ」という話をしていたんですけれども、そのリハーサルが終わった後にそのおばあさんが「あぁ!あぁ!」と言って、何を言い出すかと思ったら「親指が見える!親指が見える!」と言い出したのです。
 神様は本当に不思議なことをされて、リハーサルの中で「賛美を聴いていただけなのに目が見えるようになった!」とおっしゃって、神様の御名をあがめる時を持たせていただきました。
 リハーサルの中での出来事で、これは預言的に二〇一二年がリハーサルのようで、二〇一三年に本番に入るのかなと思いました。集会の後におばあちゃんが親指だけじゃなくて完全に見えたらいいなと思って「こっちはどう?」と言ったら「そっちは見えないよ。でもここは今でも見えてる」と、そうやって言っていましたけれども、二〇一三年の中に神様が新しいことをしてくださるんじゃないかということを感じた次第であります。

 それから十二月二十五日には、毎年行っているザワメキ同刻プレイズという働きがあるんですが、私たちはその日は日比谷の小音楽堂という所で賛美をしました。その時は火曜日午後二時ということだったので、きっと人は誰も来ないだろうと思っていました。でも、その日比谷は皇居の前なので、そこで歌うことに意味があると思って歌おうと思って行きました。フルバンドでPAの方も来てくださって用意をしました。
 そして、賛美が始まったらたくさんのクリスチャンの方々が来てくださいました。来てくださった皆さんが、「歌うぞ」と心を決めて来てくださって、しかも来られる方々がすごく嬉しそうなのです。内側が燃えているというか、歌うために来た、歌うことが嬉しいという方々が来てくださって青空の下、一緒に賛美してくださったのです。最近もう一つ与えられていたみことばが、第一歴代誌十二章三十二節の御言葉で、

『イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。』

と書かれています。『時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。』と書かれていますが、「リバイバル」という主の時を悟って、その時に集うべく人たちは、今主にあってこの日本の中に備えられ始めているんじゃないかなと感じ、神様がこれからのリバイバルの中に新しいことを一人一人のクリスチャンを通して始めようとされているんだなということを強く感じさせられたこの年末でありました。

 特に、私自身に与えられた今年のみことばは「いつも喜び絶えず祈りすべての事に感謝を持って進む」ということが今年の御言葉ですので、リバイバルの戦いのただ中で、私たち一人一人、この教会が、そしてこの日本が、いつも喜んで、絶えず祈り、すべての事を感謝できる、そんな一年でありたいと心から願うものです。以上です。


公畑フェルナンド副牧師

『約束の実現の時です』
ハレルヤ!感謝します。本当に今年、二〇一二年も神様の大きな祝福がありました。インターナショナル部会で神様はいろいろな事を与えてくださいました。悲しいこともありました。先に実先生も話されたグスタボのお葬式もありましたが、その中でイエス様がよく語られて本当に感謝しました。今まで先生方からすばらしい御言葉をいただきましたが、僕は通訳を入れるので時間が半分ですから、早速与えられたみことばを学びたいと思います。

ヨシュア記二一章四四~四五節
『主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。』

私たちが約束してもらうことは嬉しいことです。そして、それが実現される時はもっと嬉しいことです。約束そのものは良いものですが、それが実現される時は、私たちの生活に大きな祝福をもたらします。

神様は私たちに実に多くの、そして、とても大きな約束を与えてくださいました。しかし、この二〇一三年は、神様がその約束を実現させてくださる時だと私は言いたいのです。神の約束が実現していくのを見る時になります。
これまで私たちが霊の目でしか見ることができなかったことを、肉の目でも見る時が来ているのです。

神はアブラハムに子供を与えると約束されましたが、それが実現するまでに二五年の歳月が過ぎました。それでは、私たちは神の約束が与えられた時から、その約束の実現までの間、私たちはどうするべきなのでしょうか?それは、しっかりと立ち続け、動かされず、感謝し続けることです。
動揺し、後ろを見るなら、あなたはその約束を見失うでしょう。しかし、アブラハムのように、自分の肉体の限界や状況を見るのではなく、へブル人への手紙十一章二七節にあるように、信仰に堅く立ち、目に見えないものを見続け、神に栄光を返し、約束して下さった方が誠実な方であると確信するべきです。

しかし、アブラハムが約束の実現を見るために、彼は四つの事をしなければなりませんでした。その四つの事について今日はお話ししたいと思います。あなたも神様があなたにされた約束の実現を受け取るためです。

① 一つ目にアブラハムがしなければならなかったことは、「カランを出る」ということでした。

創世記一二章四節~五節
『アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。』

カランとはどういう意味でしょうか?カランとは「優柔不断の谷」という意味です。カランには「霊的な停滞」という意味があります。カランは多くの死んだ人たちで満ちていました。その霊的に死んだ人たちは、あなたが彼らと一緒にいることを望んでいます。
カランは停滞の場所です。人々は霊的に停滞していて、生ぬるい人たちでした。生ぬるい人について主は、「わたしの口から吐き出す」と言われています。ですから今が決断の時です。あなたがカランを出るとき、約束の実現が始まるのです。

② 二番目にしなければならないことは「天幕を出る」ということでした。

創世記十五章五節
『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

神がアブラハムを天幕から出された理由は何でしょうか?星を見させたのはなぜでしょうか?上を見上げさせた理由は何でしょうか?天幕から出るというのは、「人間の知識の限界から出る」という意味があります。
人間は頭の中で心配していることほど悪いことはありません。知識の限界から脱出できる唯一の方法は、神のみことばと聖霊の油注ぎ以外にはありません。感謝なことに新城教会にはこの二つがあります。神のみことばに出会うこと、そして聖霊の油注ぎです。

イザヤ書五四章一~三節
『「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」と主は仰せられる。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。」』

それは天幕を固定するために手に杭を持っている時に、主が、「もう少し向こうへ進みなさい、もう少し、もう少し」と言って天幕を広げるように言われているのだと理解することができます。それはあなたの考え方を広げるようにと言われているのです。小さく考えてはいけません。神はあなたに夢を見るようにさせます。神があなたを天幕から出し、空を見て、星を数えなさいと言われる時、神はあなたが夢を見るようにさせているのです。ですから大きく夢を描きましょう!
あなたがそれを自分の目で見たいと思うなら、まず霊の目でそれを見る必要があります。物乞いのように祈ってはいけません。物乞いのように求めてはいけません。王様の子どものように祈ってください。
だれがあなたたにはできないと言いましたか?あなたはすべてのことができます。あなたは達成することができます。勝ち取ることができます。獲得することができます。なぜなら、キリストがあなたのために代価を払われたからです。

③ 三番目にアブラハムがしなければいけなかったこと。実際には神様がしてくださったことなのですが、「名前を変えられる」ということでした。

創世記十七章五節
『あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。』 

アブラハムとは「多くの国民の父」という意味です。神は彼の名前を変えました。なぜ神は名前を変えなければいけなかったのでしょうか?それは彼の過去を変えるということでした。なぜなら名前は時に、過去に起こったことを常に思い起こさせるものだからです。それで神はアブラハムの名前を変えられました。
私が言いたいのは、あなたの名前はもう「麻薬中毒」ではなく、「不誠実」ではなく、「アルコール中毒」ではなく、「債務者」でもありません。今、神はあなたに王の名前、王子の名前を付け、今あなたの名前は「忠実」「勝利者」「征服者」「責任」「始めたら最後までやり通す者」「良い夫婦関係を持つ者」「経営者」「アイデアマン」などです。すべての良い名前があなたの名前になります。
神はアブラムを「アブラハム」に変えました。ヤコブを「イスラエル」に変えました。シモンを「ペテロ」に変えました。ベン・オニを「ベニヤミン」と変えました。神はあなたの名前も変えます。「貧しい」を「裕福」に、「病人」を「健康」に、「役に立たない者」を「才能がある者」に、「不誠実な者」を「誠実な者」に変えてくださいます。あなたの名前は力と、勝利と、征服に関連するものになります。

④ 四 番目にアブラハムが約束の実現を受けるためにしなければならなかったことは「ロトと別れる」ことでした。神は一度もアブラムにロトを一緒に連れて行くように言われませんでした。彼がロトを連れて行ったのは彼自身がそうしたかったからです。

よく聖書を調べるならば、ロトはアブラムにとっていろいろな問題の原因になっていたことが分かります。ロト自らが神様の祝福を受けていたわけではなく、祝福を受けている人と一緒にいたから、祝福のおこぼれを受けていたのです。やがて二人の家畜の牧者たちの間に争いが起こりました。そしてロトはアブラハムと別れてソドムのほうへ行くことにしました。そこでは後に、彼の妻が後ろを振り返ったために塩の柱になりました。またロトはソドムの人々に娘たちを差し出そうとしました。結果、その娘たちは彼が酒に酔っている間に性的関係を持つことになりました。人間の持つ問題の一つは、自分を欺くことです。自分の認識とは異なることを現実には見る時があります。

ですから私たちは、霊的な目を開けていただくように祈らなければなりません。神が見ているように私たちも見ることができるよう、霊の目を開けてもらうよう主に祈りましょう。

祝福を受けている人の所にいる時、祝福のおこぼれをもらうことができます。しかしロトがアブラハムと別れてからは、のろいが来るようになりました。ロトは「目隠し」という意味であり、ロトとは「傷害物」という意味です。あなたは前を見えなくさせているものを取り除かなくてはなりません。それは人かもしれませんし、状況かもしれませんし、場所かもしれません。それを取り除く時、あなたは征服することができます。

しかし、「ロト」や「ヨナ」は自分からあなたを離れては行きません。あなたがそれらを自分の所から取り除く必要があるのです。例えばヨナは自分が嵐の原因だとは分かっていましたが、他の人々に「私を海に投げ込みなさい」と言いました。なぜ自分から海に飛び込まなかったのでしょうか?それはヨナやロトはとても臆病だったからです。そして、いつもあなたの利益のおこぼれをもらおうとしているのです。しかし結局はあなたが受けようとする利益の障害となります。ですからあなたの勝利を邪魔している、あなたが達成するのを阻む障害物を排除してください。

この二〇一三年、あなたの約束が実現される時となります。今は神が約束を実現される時です。この四つのことを覚えてください。「①カランからでる。」「②天幕からでる。」「③自分の名前を変える。」「④ロトと別れる。」
それが必要です。


岡本信弘牧師

『あわれみを求め、あわれみ深い者となる』
ハレルヤ! 主の御名を心から賛美いたします。
こうして、二〇一二年の最後の日、この場所に立つことができ、皆さんと共に主を賛美できることを感謝します。また、皆さんにお祈りいただき、一年間守られたことも感謝いたします。

この2012年は、私にとって、初めての体験がいくつもありました。
その一つは、今年の一月のことですが、不覚にも一週間ほど風邪を引いて寝込んでしまったことです。熱が少し下がって起き上がろうするのですが、体がフラフラして頭が重く、どうなってしまったんだと思うほどでした。何をする気力もないという状態で、礼拝メッセージも明先生に代わっていただきました。生涯にこんなに寝込んだことはありませんでしたが、それ以降は守られて、休まずに今日まで過ごせたことを感謝します。
また今年は、ミッションの奉仕で台湾に三回、十二月には、今後のミッションの働きの話し合いのために、タイにも行かせていただきました。どちらも、初めて訪れた国でした。私は英語がまったく話せませんし(もちろんほかの外国語もできませんが)、海外の食事もまったく合わないのですが、そんな私を使ってくださり、主の奉仕をさせていただけたことを心から感謝しています。皆さんのお祈りを感謝します。

さて、昨年末のこの場所で、私は、マタイの福音書二十四章から『終末における忠実な思慮深いしもべ』と題して、「小さなことでも任せられたことを喜んで全うする者、受けるより与える者になりましょう」とお話しさせていただきました。自分自身、この言葉を心に留めて進んできましたが、まだまだ足りないと思っています。
そして、この一年を振り返ると同時に、二〇一三年に向けて、自分は何がいちばん弱く、何が欠けているのかを知り、その部分を強くしていただきたいという願いを持って祈りました。もちろん、足りないところだらけなのですが、祈りの中で与えられたのが「あわれみ」という言葉でした。
あわれみを切に主に求め、あわれみ深い者となるようにと、主から語られたことを、皆さんにお分かちしたいと思います。

「あわれみ」という言葉をコンピューターで検索してみると、聖書全体で百四十回、新約聖書だけでも五十六回出てくることがわかり、意外にたくさん使われているなぁという印象でした。この「あわれみ」という言葉を辞書でひくと、「かわいそうに思うこと」と書いてありました。
聖書を見ると、パウロはいくつかの手紙を書いています。その中の一つ、テモテへの手紙第一では、『信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。』(一章二節)と書き出しています。
ここに出てくる、「恵み」と「あわれみ」の違いは何だろう。聖書に出てくる「あわれみ」は、何かほかの意味合いがあるのではないかと思い、注解書で調べてみると、「恵みとは、神の一方的な好意であり、神の愛」、「あわれみとは、恵みに基づく具体的な神の行動」と書かれていました。これを読んで、「なるほど」と思わされ、神様からの祝福が、恵みとあわれみと平安の中にあると教えられました。
さらに、聖書の中から「あわれみ」に関するいくつかのことを教えられました。

まず、私たちが神にあわれみを切に願い求め、叫び続けて祈るということです。
聖書の中に、癒しのために「主よあわれんでください」と叫んでいる個所がいくつか出てきます。その一つが、ルカの福音書にあります。
『イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。』(十八章三五~三九節)

この人は盲人で、道ばたで物ごいをしていたということからして、人生を諦めていたようなところがあったと思います。そして彼は、人々を癒しているイエス様という、素晴らしい方がいる、といった噂を聞いていたでしょう。しかし、自分は盲目で、イエス様の所へ行くことができないと、何もアクションを起こさないまま時が過ぎていたのかもしれません。
しかし、イエス様が自分の近くにいることを聞いて、彼はイエス様に願えば癒されると期待して、なりふり構わず大声で、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び続けたのです。周りの人がたしなめるのを振り切り、何度も大声であわれみを求めた結果、『彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。』(ルカ十八章四三節)のです。
時に皆さんも、苦難や困難にぶつかり、どうしたらいいだろうと思うことがあるでしょう。祈っても祈っても問題が解決しない、病気が癒されない。イエス様は、本当に私のことを愛しているのだろうかと思ってしまうときがあるかもしれません。しかし、主は生きておられます。

昨日の礼拝では、明先生が新城教会昔ばなしをしてくださり、大変恵まれました。先生が伝道を始められた頃には多くの苦労がありましたが、主にあわれみを叫び求めた結果として、今の祝福があることを教えられ、心から感謝しました。
この教会の初代の、まだ教会員が十人にも満たない頃に私の母が救われ、私も幼いころから家族のように加わらせていただけたことを、光栄に思っています。母からは、当時、クリスチャンがほとんどいない中で、親戚からは反対され、村人からは迫害され村八分のような状態になって、いろいろな苦しいところを通らされたという話をよくきかされました。そんな戦いの中で、どんなに「主よ、あわれんでください」と祈ったことだろうと思います。そういった、初代のクリスチャンたちの祈りがあったからこそ、今ここに主が恵みを与えてくださっていると信じています。
このように、私たちがどんなに大変なとき、苦しいときでも、神は、私たち一人ひとりを忘れてはおられず、愛していることを覚えてください。
そして、今も生きている神様に、「主よ、あわれんでください」と私たちが叫び求めるなら、神はそれに応えてくださり、必ず新しい道を開いてくださることを信じてください。
また、『それを見ていた周りの人々も神を賛美するようになる』(四十三節)と書かれているように、私たちが主にあわれみを叫び求めるとき、神様の業が現され、それを見た多くの人々が神様をあがめるようになることも覚えてください。

そしてもう一つ、恵みとあわれみを受けた私たちが、自分のためではなく、誰かのためにあわれみをかけ、とりなしていくべきことを教えられました。
ルカの福音書十章の「良きサマリヤ人」の例えの中に、『「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』(三六~三七節)とあります。
強盗に襲われ、ひん死の重傷を負っている人に出会ったらあなたはどうしますか? 「当然、助けますよ」と言うかもしれません。しかし、この人を助けていたら、自分も襲われてしまうかもしれない危険な状況がそこにはあったと思います。たまたまそこを通りかかった祭司やレビ人(教会で言うなら牧師やスタッフでしょうか)は、倒れている人を見ても、見ぬふりをして『反対側を通り過ぎて行った』(三一節)のです。
しかし、一人のサマリヤ人がそこを通り、彼を見てかわいそうに思い、宿屋に連れて行き介抱したとあります。
当時、ユダヤとサマリヤは、敵対関係にありました。本来なら、当然助けるべき同胞である祭司やレビ人は彼を見捨てたのに、この敵対している国のサマリヤ人が、この人にあわれみをかけ、隣人になったのです。
あなたの隣人とは誰でしょう。皆さんの身近にも、問題を抱え苦しんでいる人が多くいるはずです。その人に、どれだけあわれみの心を持って接しているでしょうか。
昨年の東日本大震災で、家や家族、職を失い、現在も仮設住宅に住んでいる方がいること、また、精神的な苦しんでおられる方が多くいらっしゃいることを、皆さんもニュースなどで耳にしていることでしょう。私たちはそういったことを、過ぎたことだと忘れてはなりません。そして、覚えているだけでなく、隣人となり、あわれみをかける者となりなさいと、神が私にも語られています。

先程、盲人があわれみを叫び求めてイエス様に癒されたことをお話しました。今、日本を考えると、霊的に盲目のような状態だと思います。この日本のために、「あわれんでください」と祈れるのは、私たちクリスチャンだけです。
先日、順先生が選挙を前に、「日本のために祈って投票しましょう」と語られました。私は政治にはうとい者ですが、今回の選挙のためには、いろいろ情報収集して日本の将来を考え、よく祈りました。
選挙の結果は、自民党の圧勝でした。これが今後、日本にどのような影響を与えていくのかわかりません。霊的には、先の見えないトンネルをさまよっているような日本の現状ですが、この国が正しく導かれていくように、私たちは主に呼び求めて祈らなければなりません。「主よ、この国をあわれんでください」ととりなし祈っていくことが、クリスチャンの使命だと思います。そうしていくなら、盲人の目があけられたように、この日本にも新しい扉を開かれると信じています。

私は、クリスチャンホームに生まれました。恵まれた環境の中で、親は、教会に行っていれば喜んでくれましたし、教会が我が家のように育ってきました。昔は貧乏だったと言われ、実際には貧乏だったかもしれませんが、私は、特別不自由を感じたことがないので、自分が貧乏だと思ったことはありませんでした。そして、健康にも恵まれ、守られて今日まできました。それは、どんなに感謝をしてもしきれないほどの、神様からの一方的な恵みです。
しかし、だんだんと年をとるごとに、感謝するだけでは不十分だということも教えられています。そして、新しい年、もっとあわれみを持って、人々に接していきたいと祈らされています。そのために、私に与えられた賜物を最大限に生かして、主のために、精一杯仕えていきたい、働いていきたいと願っています。
昨年与えられた「任せられたことを喜んで全うする」ことに加えて、ただこなすだけではダメだ、こなすだけでは、主に申し訳ないと教えられ、あわれみの気持ちを持ち、主の働きをさせていただきたいと切に願っています。

皆さんいかがですか。家族のために財を費やし、時間を労することは、クリスチャンでなくてだれでもしていることです。家族だけでなく、近くにいる問題を抱えた隣人、また遠くにいて何の関係もない人であっても、滅びゆく魂のために、祈り、あわれみをかけていく、そのことを、自分自身が主から教えられていますので、主に切にあわれみを求めて祈り、できることをしていきたいと願います。
新しい年、主にあわれみを切に求め、あなたを必要としている誰かのために、あわれみをかける者になれるよう、祈って進んでまいりましょう。