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『霊的維新2013
 〜誰ひとり滅びることのないために〜』

2013.1.27 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 10章19節~25節

『「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』


 ハレルヤ!おはようございます。今日も礼拝でメッセージを語らせていただけます特権を、心から感謝します。だいぶ寒いですが、みなさん大丈夫でしょうか?
 先週私は、カンボジアに行っておりまして、気温は三十度以上ありました。日本の冬の寒さを忘れてしまったのですが、暑くて暑くて、クーラーがないと寝むれないくらいでした。しかし、日本は大変寒いですね。しかし、これだけ冷房を効かせようとしたら、たいへんお金がかかります。神様は巨大なクーラーを持っておられるみたいで、国中を冷やしておられます。しかし一方、カンボジア方面に行きますと、大きなヒーターで暑くしています。神様の働きはすごいなと思います。

 みなさんに祈っていただきまして、カンボジアでの奉仕も守られ、終えることができました。本当に感謝しています。祈りを感じながら歩むことができ、心から感謝します。
 午後から「霊的戦いセミナー」があります。これは重要なセミナーです。前半は、私がカンボジアで撮ってきた写真などをみなさんにお見せして、カンボジアの実情などをお話しさせていただきます。
 もう一つは、「日本の背後に働く、敵の策略を見抜く」と題して、日本の将来のために祈るセミナーを開きます。是非とも、二時からのセミナーにも出席していただきたいと思います。

 二〇一三年、私に与えられた御言葉は、一月の礼拝において毎回紹介させていただいていますが、ルカの福音書十章十九節です。この御言葉を自分に語られた言葉として受け取ったら、絶対に勝利できると確信しています。なぜなら、これは神の権威を受け取る御言葉であるからです。みなさんで、この御言葉を暗唱したいと思います。
 三歳の孫がこの間、私の家に来て「ちょっと聞いて」と言うのです。すると「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」と、かわいい声で暗唱してくれました。
 「どこで覚えたの?」と聞くと、ホサナクラブとか子ども礼拝で覚えたみたいです。私はじじ馬鹿で、「かたちゃん、今日の礼拝でみんなの前で言ってよ」と頼んだら、「ママの前しか駄目」と言われ、残念でした。三歳でも覚えられる言葉ですから、三歳以上の方は絶対に覚えてくださいね。
 では、みなさん御言葉の剣として暗唱しましょうか。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 すばらしいですね。もう一度読みましょう。『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 『だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』、こんな人生を送りたいですよね。イエス・キリストを信じたら、『確かに、わたしは、』とありますから、嘘ではないのです。「確かに」権威を授けて下さるのです。
 聖書は、小説のように読んでいても何もなりません。自分への言葉として、七十人の弟子たちが直接この言葉を受け取ったように、受け取るのです。

 先週もお話しさせていただきましたが、イエス様には十二人の弟子と、七十人の弟子がいました。七十人の弟子たちの名前が記録されていないとお話しました。
 ならば、私たちはこの七十人の弟子の中に入ることができるとお話しさせていただきました。まさにこの御言葉は、私たちに語られた言葉です。そして二〇一三年は、霊的世界で大きな維新を体験するはずです。
 ですからこの御言葉を毎朝、会社に行く前、一日を始める前に宣言していただきたいと思います。近頃、私もそのようにしています。朝起きたら、「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、「わたしに」、害を加えるものは何一つありません。」と宣言して一日を始めるようにしています。

 ルカ十章は、イエス様と七十人の弟子との会話が記されています。七十人の弟子たちは、二人組でびくびくしながら宣教に出て行ったのですが、大勝利で帰って来ました。その時、イエス様がこの言葉を語られました。そして続いて語られたのが、

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』

 この意味についても、お話しさせていただいています。「悪霊どもが服従するからと言って喜んでいるな。それは横に置いておいて、あなたの名が天に書き記されていることを喜べ」と理解する事が多いのですが、そうではないとお話ししました。
 なぜ、悪霊どもが服従するのか、なぜ、敵が手出しできないのか。それは私たちの実態が天にあり、天に名が書き記されているゆえに、起きるのです。
 「私たちの実態は天にある」という意味であるとお話しさせていただきました。また、「書き記されている」とは、ただ単に手で書くとか、黒板に書いて雑巾で拭いたら消えてしまうような名前ではなく、「刻まれている」という意味だと話しました。
 イエス様の時代、一番重要な文書は石に彫り込んだのです。石碑というやつです。当時、文字を一番長く保つ方法は、石碑に書き込む方法でした。その手法を使って『あなたの名が天に彫り込まれている』とイエス様は語られたのです。

 私なら「滝元順」と刻まれているわけです。ゆえに私の肉体は、地上にあるですが、実態は天にあって、権威的には、この地上の権威に左右されるのではなく、イエス様が持っておられる天の権威と共に、地を歩むことができるのです。「ゆえにあなた方が出ていく時、悪霊どもは服従し、サタンが天から稲妻のように落ちた」と語られたのです。

 そんな会話がイエス様と七十人の弟子との間に交わされていました。その会話の中に、一人の男が割り込んできます。ルカの福音書十章二十五節です。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』

 聖書ってビジュアルに想像しながら読むと、結構楽しいです。イエス様と七十人の弟子たちが、勝利のレポートで沸き返っていました。わいわい、がやがや話をしていたと思います。
 しかしその周りには群衆がいたわけです。会話は多分、野外でなされていたと思われます。周りの人たちは、耳をダンボのようにして、イエス様と弟子たちが何を話しているのか聞いていたのだと思います。悪霊が服従したとか、天に名が記されているとかいう話を聞いて、「これは一体、何の事だろう?」と思ったわけです。

 「天に名が記される」とは、ユダヤ人の理解においては、「永遠のいのち」に他ならなかったのです。
 ですから、律法の専門家がイエス様に、『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』と質問したのです。
 七十人の弟子たちは、天に名が記されている、すなわち、永遠のいのちを持っていることになります。ゆえに、このような華々しい勝利を体験できたわけです。
 今日ここにおられる方々は、天に名が記されています。ということは、永遠のいのちの中に生きているのです。すごいですよね。

 人間は寂しいことに、この地上においては限りがあります。けれども、それで終わりではありません。永遠に生きる存在です。永遠のいのちとは、天地宇宙を創造された神と共に、永遠に過ごすことを意味し、私たちは永遠を共に生きる仲間です。
 今日、ここに集められたお一人お一人、イエス・キリストがお生まれにならなかったら、誰一人として知り合いじゃないのかもしれません。イエス様がお生まれになったのは、すごい影響力です。なぜなら、あなたとあなたの隣の人が知り合いになったからです。そしてその関係は、永遠に続くわけです。嬉しいですね。
 「この人と永遠に過ごすのか・・・」と隣の人の顔をよく見ておいてください。「この人と永遠か。たまらんな。永遠の世界くらい、別れさせて欲しい・・・」と言う人もいるのかもしれません。しかしそんな事言ってはいけません。

 では永遠のいのちを、どうしたら受け取ることができるのか。どうしたら名が天に記されるのかと、律法の専門家は旧約聖書に基づいて、イエス様を試したかったのです、。しかし同時に、それは彼のこころの最も深い叫びであったと思われます。
 その事に対してイエス様は続けて話されます。

 「永遠のいのち」というキーワードで聖書を勉強しますと、それがイエス・キリストによって与えられる事がわかります。特に有名な永遠のいのちに関する箇所は、みなさんもご存じの、ヨハネの福音書三章十六節〜十七節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』

 ヨハネ三章十六節は、「聖書の中の聖書」と呼ばれるくらい、世界中で有名な箇所です。この一節も暗唱しておくといいと思います。みなさんで読んでみましょうか。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 神様がどういうお方か、それは「愛なる方」です。いつもお話していますが、日本人は「神が愛」という言葉に慣れてないです。日本人が見つめている神様は「愛の神」には、およそほど遠い存在です。それらは良く拝めば神になるけれど、放っておけば鬼になる存在ばかりで、怖い神様ばかりです。ですから、神様から愛してもらえるなんて、考えもしないのです。

 今回カンボジアに行って、カンボジアの方々といろいろとお話しさせていただいて分かったのですが、カンボジアの人たちには、神が愛という考え方はありません。彼らにとっては「神=悪魔、悪霊ども」です。彼らにははっきりと、そのような概念を持っています。自分たちにとっての神は、悪魔・悪霊どもだと信じているのです。
 「なぜ、そんな恐ろしい存在を神としているの?」と聞くと、「悪魔・悪霊どもでも、交渉次第では利益を与えてくれる」というのです。だから「悪魔や悪霊でも、うまくつきあえばいい」と考えているわけです。
 日本人の考えも突き詰めていけば、同じです。カンボジア人のように、はっきりとは言葉にしないかもしれませんが、基本的には同じ考えです。

 けれども、悪魔・悪霊どもは心底悪いやつらなのです。「交渉できるような相手ではない」ことを知らなければなりません。
 先日、アルジェリアで大きな事件が発生しました。日本人が十人ほど殺害され、他にも多くの方々が殺されました。テロリストによって殺害されたわけです。「テロリストとは交渉はできない!」というのが、国際社会の共通した理解です。交渉して、利益を与えてみても、結局やることはテロしかないのです。たくさんのお金を払って人質を解放してもらったとしても、その資金をベースとして、さらなるテロを行うわけです。彼らとは、一切、交渉できないのです。だからこのような問題は、解決が難しいわけです。
 悪魔・悪霊どもも、絶対に交渉の相手じゃないのです。日本の神々は良さそうに見えても、突き詰めれば鬼です。それらは、交渉で利益を得られるような相手では決してないのです。

 しかし私たちの信じている聖書の神様は、愛の神であり、天地宇宙を造り、私たちをも創られた神様です。私たちはイエス様と交渉して、何か利益を引き出すのではなく、愛してくださっているのです。
 「では、神様の愛ってどうしたら知る事が出来るの?」と時々聞かれますが、そもそも、今日、私たちが教会にいること自体、神の愛がなかったらいないはずです。この日本において、イエス様と出会うのはなかなか難しいです。クリスチャンが少ないこの日本で、イエス様と出会った、教会に来た、そして、新城教会の座席に座っていること自体、神様の一方的な愛の手が差し伸ばされている証拠です。神様が私たちを知っていて、ここまで連れて来て下さったのです。

 先日もこの教会に属している一人の女性とお話ししたのですが、彼女の幼少時代はあまり幸せではなかったというのです。大変苦しい中にいたというのです。しかしある日、クリスチャンと出会ったのです。そして教会に少し通った時期があったそうです。賛美をしたり、祈ったりすることを少し味わったそうです。
 しかしそれもしばらくで、完全に忘れてしまい、キリスト教の「キ」の字も忘れてしまったそうです。

 けれども、やがて高校生になった時、自分の席の隣に来た子がクリスチャンだったそうです。それで「教会に行きませんか?」と誘ってくれたそうです。なぜ、そのクリスチャンの子が同じ高校に来たのかというと、その子は他の高校を受験したのですが、すべってその高校に来たというのです。その子が「教会に行きませんか?」と誘ってくれた教会が、新城教会だったそうです。

 しかし彼女は二年程教会に通っていましたが、高校を卒業するとどこかに消えてしまい、居場所も分からなくなってしまいました。
 それから二十年あまり、教会から離れ、聖書もなくしてしまい、生活をしていたのです。
 人生は親の世代に起こった悪い事が、また、自分の世代にも起こって来るのが多いのです。彼女は小さな頃、親子関係で苦しんだそうですが、自分が家庭を持ったら、また同じような問題が起こって来たそうです。それで、どん底になってしまい、「これからどのように生きていこうか」と考えていたそうです。
 かつて教会に行ったことはあったものの、教会の事は全く忘れていたそうです。

 しかし、ある日のこと、朝、家の掃除をしていたそうです。すると、目の前に電光掲示板のようなものが現れ、0536234800という番号が空中に出て来たそうです。向きを変えても、同じ番号が目の前に出てきたそうです。
 「なんだろう?電話番号みたいだな。ちょっとかけてみよう・・・」と、実際に電話をかけてみたら、新城教会のテレフォンサービス「御言葉の剣」でした。今はそのサービスはなくなりましたが、新城教会のテレフォンサービスにつながったのです。二十年以上も前に、自分が通っていた教会につながり、びっくりしたそうです。

 それがきっかけで、また教会に来られるようになり、今は家族も救われ、救いが親族にまで拡がっています。「不思議だね」という話をしたのですが、これは私たちの神様が「愛の神」である証拠です。
 その方には、そのような特殊な方法を通して、もう一度教会にカムバックさせたのですが、それぞれに神様はプランを持っておられ、さまざまな出来事を通して教会に導いてくださり、ご自身を紹介されるのです。

 私たちが忘れても忘れても、繰り返し近づいて下さり、救い出そうとされるお方、それがイエス様です。それは神が愛である証拠です。
 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
 神がひとり子イエス様を、この地上に遣わしたのは、人類を愛しているゆえです。

 神が人間を創造した時、人間だけに特別な権限を与えました。それは何かというと「自由意志」という権限でした。誰かに束縛されるのではなく、自由に選択して生きることができるのです。
 しかし、自由は良い方にも使えるし、悪い方にも使えるわけです。みなさんも自由意思の中で生きておられます。選択の自由があります。今日も教会に来るか来まいか、自由意思で決定されたと思います。「今日は寒いな・・・。教会に行くのは止めておこう」と止めることだってできたと思います。「寒いけど行こう!」と自分で決断したから来たのです。
 けれども、人類は自由意思を良く使って来たかというと、良い方には使わなかったのです。今の世界はどうでしょうか。「このまま人類はやっていけるのだろうか・・・」と不安になります。様々な領域で行き詰まっています。日本もこれからどうなってしまうのだろうか心配です。私が中高生の頃には考えもしなかった不安があります。
 現在、就職の事を考えても、正社員になれる保証はどこにもありません。しかし私が高校生の頃は、学校に行くと求人票が毎朝、数枚渡され、私は土木科だったのですが「○○建設、○○設計事務所」と、給料や待遇が細かく記されていて、よりどりみどりというか、そこら中から引き合いがあったものです。

 しかし今はどうでしょうか。一社に大勢が群がって、正社員になることも不可能です。「食っていけないんじゃないか…」という不安があります。
 人類の未来って、科学技術が発達して、明るいようなことも時々聞きますけれど、決して明るくないです。私たちの未来は、最終的にどこに行き着くのかというと、「滅び」です。それが聖書が教える所です。

 先ほども読みましたけれども、「一人として滅びることなく」永遠のいのちを持つためと書かれていました。「人類が滅びることがないように」神が人となって、この地上に来てくださったというのです。
 ということは、放っておけば人類は滅んでいくのです。それが聖書の教えているところです。

 では、なぜ滅びるようになったのかといったら、「人の罪」のゆえです。罪のゆえに、人類は滅びるのです。ローマ人への手紙六章二十三節にこんな言葉かあります。

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

 『罪から来る報酬は死』というのです。人類が罪を犯して、最終的にどこに行き着くのかと言えば、死に行き着くのです。死はただ単に、肉体的生命力の終わりではなく、世界の終わりです。世界は滅びに向かって、滝壺に吸い込まれているのです。
 そして私たち個人も、イエス・キリストを信じないで、永遠のいのちを持たないで生きていたら、やがて永遠の滅びに行くことが決まっているのです。しかし、イエス・キリストを信じることによって、永遠のいのちが与えられ、死からいのちに移されるのです。永遠のいのちをいただいて、天国に行くことができるのです。滅びて地獄に行くことはないのです。私たちは永遠のいのちが与えられたことを、心から感謝すると共に、そのために働かなければならないのです。

 みなさんに祈っていただき、先週はカンボジアに行かせていただきました。今日も礼拝に来られていますが、カンボジアで九年に渡って宣教活動をされていた服部宣教師夫妻が、私を案内してくださいました。現在、宣教師夫妻は、日本に滞在されていますけれど、将来はカンボジアに戻って、宣教を再開したいというビジョンを持っておられます。
 「全日本リバイバルミッション」では、アジア・環太平洋ミッションのビジョンがあります。それで今年はタイでミッションを開きたいと願っています。
 みなさんに、リバイバルミッションニュースを差し上げたのですが、タイのチェンマイでミッションを計画しています。是非とも祈っていただきたいと思います。
 先週もお見せしたのですが、アジア地図を見せたいと思います。

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 タイ、ラオス、ベトナムに囲まれています。台湾、中国、インドシナ半島、そして、カンボジアはここです。拡大するとこんな位置関係になります。

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 カンボジアが辿ってきた歴史をただ学ぶだけではなく、現地でつぶさに見て、「本当に人間って愚かだ」と思いました。
 また罪の結果は、本当に恐ろしいと思いました。カンボジアが体験した悲劇は、他に類を見ないものです。カンボジアは悲惨な歴史を近年辿って来ました。
 特に一九七五年から一九七九年まで、カンボジアに大きな悲劇が襲いました。ポル・ポトという男が政権を握った為に、なんと国民の約三分の一、一説によれば約三百万人が殺されたというのです。
 これはいろんな説があるので、実際の数はわかりませんが、カンボジア政府が発表しているのは三百万人です。三百万人がほんの三年数ヶ月で、虐殺されました。それも自国民によって、殺されたのです。同じ国民の中で、そのような虐殺が行われたというのです。
 一九七五年は、私がすでに生きている最中に起こった事件です。日本は高度成長時代で、お金儲けに勤しんでいた最中、同じアジアでそんな事件が起こっていたのです。それは想像もつかない悲惨な事件でした。

 折しもベトナム戦争が終結し、アメリカが敗北し撤退した後に起こったことです。背後に様々な勢力、様々な歴史が関わっていますから、一概に評価できない所もあるとは思いますが、起こった結果はあまりにも悲惨です。
 三年数ヶ月の間に、三百万人の人たちが、それも自国民によってお互い殺し合わなければならない事態になったのです。まさしく滅び以外の何ものでもないのです。
 考えてみれば、日本も太平洋戦争の時代、八紘一宇の思想を掲げて世界に出て行き、自国民だけで三百万人以上が死に、またアジアの諸国では二千五百万人も殺されたのです。
 また第二次世界大戦中、ヨーロッパでは、ナチス・ドイツによって六百万人のユダヤ人たちが虐殺されました。
 歴史の始まりから今に至るまで、人が常に行ってきた行為は殺人です。それは滅び以外の何ものでもありません。血で血を洗うような、悲惨な歴史の中に、私たちは生きているのです。
 それも、日本からさほど遠くない、カンボジアにおいて、三十数年前にそんな事が起こっていたと、どのくらいの人たちが認識しているでしょうか。

 日本はどうしてできたかというと、ルーツはインドシナ半島にあるのです。縄文人は、この近所から来ました。かつてこの付近はスンダランドと呼ばれ、温暖で住みやすかったのです。バベルの塔から移動した人類は、この近所に最も多く住み着いたようです。しかしさらに海路で北上したのが、縄文人です。また大陸方面から移動してきたのが、弥生人たちです。だいたい、日本人のルーツはこの辺にあるのです。
 私たちの原点でもある場所で、そんな悲惨な事件が起こったわけです。

 現在、世界中がカンボジアを支援したり、宣教団体が入って国の復興の為に一生懸命働いています。けれども、まだまだ人々の心は荒れています。家庭も崩壊していますし、孤児が多いのです。子どもを産んでも、子どもを育てようとしない親が多いのです。人々はたいへん自分勝手だというのです。
 なぜなら、ポルポトの政権の時、自分一人が生き延びるのに精一杯で、人のことなどかまっていられなかったからです。現在子どもを産んでいる世代は、生き残った人たちを両親とする子どもたちです。彼らが結婚して、子どもたちを産んでいるわけです。彼らもまた、同じように自分のことしか考えないで、子どもを産んでも捨ててしまうような親が多くいるというのです。
 ですから、ストリートには「ストリート・チルドレン」と呼ばれる子どもたちが多く存在します。ストリート・チルドレンって、分かりますか?直訳すれば「道の子どもたち」です。日本で「ストリートチルドレン」と言われても「そりゃ、子どもたちは道で遊んでいるでしょ。この頃道は危ないから、家の中で遊ぶけどね」という感じですが、ストリートチルドレンとは、路上生活をしている子どもたちを意味します。日本から一歩外に出ると、ストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちが、結構多く存在します。キリスト教団体が、そのような子どもたちを集め、孤児院を作って助けています。
 今回私は、孤児院に連れて行っていただいて、集会をしました。それが結構、恵まれました。

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 私はこの子たちが、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を受け取るしか、未来はないと思ったので、その祈りに徹しました。

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 これは日本人が始めた孤児院です。二十数人の子どもたちが共に生活しています。夜、子どもたちを集めて集会をしました。たいへん恵まれました。彼らは真剣に賛美し、共に祈りました。
 彼らは諸事情あってここに来たかもしれないけれど、主がカンボジア中を見渡して「あっ!この子だ!国の未来を変えるためにはこの子だ!」と選んで、ここに連れて来たと話しました。御言葉の剣を受け取り、カンボジアの背後に働いている悪魔・悪霊どもを打ち破るために選ばれたと話しました。
 そして一緒に賛美をしました。どういう賛美をしたかというと、服部宣教師夫妻が、子どもたちに一つの賛美を教えました。ちょっとその様子をビデオに撮って来ましたので、ご覧下さい。



♪イエス様を信じれば天国に行ける
イエス様を信じないと地獄に行っちゃうよ
ハレルヤイエス様救い主
ハレルヤイエス様信じよう♪

 彼らはこの歌を覚えました。ダイレクトな歌ですが、きっと今日も彼らはこの歌を歌っているはずです。
 私たちがイエス・キリストを信じないで、罪の道を歩んでいくと、どれほど悲惨な結果かを知らされます。カンボジアに福音を持ち運んで行かなければいけないと、教えられました。
 午後から詳しくご報告させていただきます。その時、いろんな写真もご覧になっていただきます。一九七五年からポル・ポトによって行われた拷問と虐殺の施設が今でも残っています。

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 トゥールスレン収容所跡地があります。本当に暗い場所です。ここで三十数年前、どれだけ多くの人たちが殺されたのか分かりません。行ったら大きなショックを受けると思います。今日は礼拝なので、あんまり悲惨な写真は見せませんが、午後、見せますから少し心臓を強くして来て下さい。人々はこの施設に収容され、多くの人が飛び降りて自殺したというのです。

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 だからこのような有刺鉄線を張って、出ることができないようにしたそうです。独房に入れられ、何の罪もない人たちが、子どもたち、女性たち、そしてお年寄りに至るまで、三百万人近くが自国民によって殺される悲劇は、狂気以外の何物でもありません。それこそ、罪の結果です。
 人類の歴史は近年に至るまで、戦争ばかりです。互いに殺し合っています。戦争には、どこにも正義はないのです。そんな戦いが世界中で続いているわけです。
 歴史は必ず繰り返しますから、国の未来のために祈らなければいけないのです。

 カンボジアは緑豊かな綺麗な国です。今度はちょっと気分を変えて。

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 市場に行きますと、いろんな果物が並んでいます。活気があっていい所です。魚もいっぱいです。肉が食べたかったら、露店に並んで売っています。おいしそうですね。

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 目の前にはメコン川という、大きな豊かな川が流れていて、舟が浮かんでいて、ある人は泳いでいるし、ある人は魚を捕っているし、ある人は何をしているのかわかりません。みんな思い思いにやっております。こういう場所で生活するのも良いかもしれません。退職した後にカンボジアに移住して、余生を過ごす人が結構多いらしいです。プノンペンを縦断するようにメコン川は流れています。

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 この川を渡ると舗装されていない道が続き、村へと入って行きます。村は一見、原始的な風景が広がっています。ほんの一時間も行けば、こんな感じになります。
 ここの子どもたちは、たいへんワイルドです。話によると、彼らが喜んで捕まえるのは何かというと蛇だそうです。蛇が大好きだそうです。日本の子どもたちはどうでしょうか。カンボジアの村に住む子どもたちは、蛇がいたら喜んで捕まえて、みんなで皮をむいて、お腹を出して綺麗に切って、空き缶などを使ってスープを作って楽しんで食べるというのです。ありんこもたくさん捕って来て、それを煎ってご飯にふりかけて食べるというのです。なんでも食べるのです。
 日本人の基準から言えば「えぇ?」と思うのですが、向こうから言えばご馳走です。それは当然のことなのです。私たちの価値観が一番幸せだと思っていますが、こっちの人たちは村の生活の方が幸せです。結構おもしろい所です。

 水上生活をしているような人もいて、川の上に家が建っています。ここではすべて水洗です。なんでも流しちゃうんですが、その下で水浴びをしたり、ご飯を炊いたりする人もいます。

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 これは韓国の先生がやっている教会です。神学校も併設してやっていました。
 そこでも挨拶をさせていただきましたが、国の未来のために牧師や伝道者たちを養成し、村に遣わすと言っていました。

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 左側のお二人が韓国から来られた宣教師ご夫妻です。霊的戦いに目覚めて、宣教活動をされている方で、良い方に出会って感謝でした。

 この国は宗教心が厚いです。蛇は食べちゃうんですが、国の主神は何かというと、蛇です。「ナーガ」という、蛇がどこに行っても祀ってあります。

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 蛇は悪魔のシンボルです。こんなのと取り引きしたら、良い事は何もありません。悲惨な歴史の根源に、霊的原因があるのです。その事をよく知って、罪から離れることが大変重要です。マルコの福音書七章二十一節〜二十三節、

『内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』

 人の内側から、このリストのような悪い泉が流れ出ています。放っておけば、悲惨な事態になるわけです。
 しかし、このような人類のために、イエス様が来てくださって、私たちの罪を取り去るために、自ら人の罪の身代わりとなって、十字架に架かって死んでくださったのです。イエス様の十字架が、すべての罪を私たちから取り去り、聖めてくださるのです。ヨハネの福音書一章二十九節にこんな言葉があります。

『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』

 イエス様のみが、世の罪を取り除く神の子羊です。ヨハネの福音書十一章二十五節〜二十六節、

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

 この言葉を聞いた周りの人たちは、「信じる」とは、なかなか言えなかったと思います。しかし、イエス・キリストを信じる者は決して死ぬことのない、永遠のいのちに預かることができるのです。
 使徒の働き二十六章十七節〜十八節は、救われなければならない領域について教えています。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 生まれながらの人間は、悪魔の支配下にあるのです。悪魔が私たちを所有しています。滅びとは何かというと、悪魔の支配に完全に、百パーセント陥いることです。その結果、神から見捨てられるのが滅びです。
 しかし、イエス・キリストを信じるなら、悪魔の支配から神の支配に移されるのです。今日、ここにおられる全員、イエス・キリストを信じるなら、支配は悪魔の支配ではなく、所有権は神に移るのです。
 イエス様は一度悪魔に移ってしまった人類の所有権を、体を張って、命をかけて、取り戻してくださったのです。命を投げ出し、身代わりとなって十字架に架かかり、その血のゆえに救われたのです。
 十字架によって救われたことを、軽く考えてはいけないです。イエス様がご自分の命をかけて、私たちを救い出してくださった事を深く心に刻むことが必要です。
 ヨハネの手紙第Ⅰ一章七節にはこんな言葉があります。

『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』

 イエス様が十字架に架かって血を流してくださったことによって、すべての罪が聖められます。ヨハネの手紙第Ⅰ一章九節、

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

 悪魔の支配から神の支配に移されるのは、難しいことではありません。私たちが口で罪を言い表したら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し、すべての悪から私たちを聖めてくださるのです。
 人類が罪を認識し、「神様赦してください」と告白したら、救ってくださるのです。しかし、悲しい事に、どこの国でも「罪を言い表す」ことが出来ないのです。

 日本も太平洋戦争の時、多くの罪を犯し、三百万人の国民を犠牲にし、アジア諸国に大きな罪を犯しました。しかし国としては「罪を犯しました」とは、なかなか告白できません。「そんなことしていません」と、自分を正当化しています。

 罪の赦しは口の告白から始まるのです。個人的にも「赦してください」と口に出して自分の罪を認めたら、救ってくださるのです。
 日本中の人たちが個人的な罪も、歴史の中で犯して来た罪も悔い改めたら、滅びから救われるはずです。
 アジア全体も同じような歴史があります。それぞれが罪を認めて悔い改めたら何が起こるでしょうか。滅びから救われるはずです。滅びからの救いの鍵がイエス・キリストにあるのです。

 ということは、イエス・キリストについて、世界の国々に告げ知らせる必要があるのです。罪を言い表す、さらには、罪を認識させることが大変重要な働きです。これは個人だけではなく、さらに広い概念を持っています。
 第Ⅱ歴代誌七章十四節、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 それぞれの国のクリスチャンが、自国の罪を認めて、神の前で悔い改めをすると、その地が癒やされるのです。
 日本の未来のためにも、クリスチャンが個人の罪だけでなく、日本の罪を悔い改める祈りが必要です。それぞれの国が、神の前に行った罪と悪を悔い改める時、その地が癒やされるという約束です。

 ルカの福音書十章の霊的戦いの勝利は「永遠のいのち」に繋がっていますが、最後にルカの福音書十章二十五節〜二十八節を読んで終わりにしたいと思います。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 「永遠のいのちを得るためにはどうしたらいいですか」という問いに対する答えには、二つの条件があるのです。一つは「神を愛する」ということ。そしてもう一つは「隣人を愛する」ことです。それらを実行したら、滅びから救われます、と告げています。
 まずイエス・キリストを信じて、神を愛するようになりましたけれど、もう一つ必要なことは、コインの裏表のように「隣人を愛する」という条件が付いています。この隣人とは、ただ単に隣に座っている人だけではなくて、このストーリーは良きサマリヤ人のストーリーですから、ユダヤ人とサマリヤ人という、他民族を意味するのです。「あまりうまくいっていない、他民族を愛しなさい」という所に行き着くわけです。その時、いのちを得るのです。

 日本人は、自国民は愛するけれど、他民族を愛することが不得意です。神を愛すると共に、隣人を愛する、すなわち、あまり良く思っていなかった他民族を愛する時、永遠のいのちにつながる、滅びから救われるのです。これは世界宣教につながるわけです。
 私たちはルカの福音書十章の真理を重く受け止め、決して滅びることなく、人々が永遠のいのちを持つために、働いて行かなければならないということを、今回、カンボジアに行き、歴史をつぶさに見て強く受け取りました。今日、こうして、みなさんと共にお分かちできたことを、心から感謝します。

 午後からこの事を、もう少し深く紹介させていただきます。写真等も見ていただきます。
 また日本が近年、罪を犯すようになった根源に、大きな偽りがあるということについても、今日はセミナーがありますから、是非、出席していただきたいと思います。

 今から聖餐式を行います。イエス様が命がけで人類を救うために、十字架に架かり、死んでくださったのを記念します。今からの聖餐式のために、祝福をお祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。あなたは私たちを救い出すために、この地上に来てくださいました。誰ひとりとして滅びることのないために、この地上に来てくださったことを、心から感謝します。主よ、誰ひとり滅びることのないために、あなたの愛を伝えるために、隣人を愛して遣わして下さい。
 心から感謝して聖餐式を受け取ります。私たちが口で罪を言い表し、もう一度神の愛に立ち返り、隣人を愛する者とさせて下さい。心から感謝します。今からの聖餐式を、御言葉と聖霊によって行います。祝福してくださいますように。イエス様の御名を通して、父なる神様に祈ります。アーメン。