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『あくまでそれを続けなさい

2013.2.24 (日)
新城教会副牧師 四元雅也
テモテへの手紙第Ⅰ 4章13~16節

『私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。』


 ハレルヤ!感謝します。今日こうして、礼拝でメッセージのご用をさせていただきますことを感謝いたします。先ほど賛美リードをさせていただきまして、またでてきたかと思われる方もあるかもしませんが、今日は順牧師が外で奉仕をされていまして、そういうときは、他の牧師たちで回り順でメッセージすることになっています。順番ですと僕の当番の日でありました。また、今日は開先生もざわめきで東北で奉仕が入っておりましたので、賛美リードを前々から上條先生にお願いしておりました。ところが、上條先生が先々週の水曜日に、自転車同士でぶつかる交通事故に遭ってしまいました。そして、倒れた拍子に鎖骨が折れてしまいました。という事情で賛美リードができなくなってしまいました。僕もどうしようか少し困って、メッセージを明先生にお願いしようかとも考えました。でも司会を岡本先生がしてくださることですので頑張ってみようと、今日は両方することに決めました。まぁいつも開先生は賛美リードとメッセージを両方されますし、リバイバルミッションの大会があるときは、上條先生は司会から賛美リード、メッセージに至るまでひとりでこなされる時もありますので、自分にとっても、この機会が主によって与えられたのではないかと思っています。
先週の金曜日の中日新聞に、社説でこんな記事が書いてありました。「悪質自転車運転」というものです。悪質自転車運転が増えているのは、最近テレビなどでも報道されています。自転車事故も増えているそうです。この中にも自転車に乗られる方がいると思いますけども、ぜひ注意していただきたいと思います。今回、上條先生が遭われた事故も、先生は広い道を気持ちよく走っておられたそうですけども、細い道から突然出てきた自転車と避ける間もなくぶつかってしまったそうです。狭い道から広いところに出るときには、いったん停止をして、安全確認をするという事は、常識であり鉄則でもあると思います。ですが、新城は田舎ですので、道を行く人も自転車も少ないので、走っていても前を妨害されたりすることも滅多にありません。まるで自分の道でもあるかのように錯覚してしまって、他の通行人がいないかのように考えてしまうのではないかと思います。私も上條先生から報告を受けて、我が家の夕食どきに家族でお互いに注意するように促しました。ぜひ皆さんも、お互いに気をつけて、車もそうですし自転車もそうですけども、安全運転したいと思います。昨年は、1年間で車両事故が14万件あったそうですが、そのうちの2割が自転車による事故だったそうです。そして、これは増加傾向にあると言われています。特に自転車対歩行者の事故は前年比5割増だそうです。どんどん自転車の事故が増えている昨今ということです。そして警察の方も本腰を入れて、違反者の摘発に乗り出しているようです。今までは、自転車に乗っていて交通違反しても、警察は捕まえないという意識がありましたが、これからはそうはいかないようです。また、違反者への罰則を作った方が良いと言う意見も出ているようです。ですから、お互いに気をつけていきたいと思います。

それから、今は受験シーズンでありますけれども、明日も国公立大学の入試が控えています。新城教会の兄姉の中でも受験される人もいるようです。また、高校入試など控えている方も大勢おられますので、祈って参りましょう。それから、風邪とかインフルエンザにかかったりしないように、また最近花粉も飛び交うようになってきているみたいですので、健康にも気をつけながら主に仕えていきたいと思います。

前置きが長くなりましたが、みことばを学んでいきたいと思います。先ほどお読みしたテモテへの手紙第一の四章十三節から十六節までから、特に十六節に書かれている「あくまでそれを続けなさい」という言葉をテーマに、この時間お話ししていきたいと思います。この箇所は、有名な使徒パウロが、彼の一番弟子とも言われているテモテに対し、このテモテは当時は、パウロが開拓したエペソの教会を任されて、牧会をしていたわけですが、彼に対していろいろな勧めの言葉を持って激励するために書いた手紙が、このテモテへの手紙です。
十三節には「あなたは聖書の朗読、勧めと教えに専念しなさい」と、教会を建てあげていくために、聖書を読んでいくこと、また勧めと教えとは、このような集会において説教したり、具体的に個人的な問題についてアドバイスしたりすることが大切であること、そして、それらに一心に取り組んでいくことを勧めています。そして、十五節には「これらのことに心を砕きしっかりやりなさい」また十六節には「あくまでそれを続けなさい」と十三節のみことばにかけて、もう一押しふた押しと、念には念を入れるように自分が言い送ることが大切なことなのだよと、書き送っているわけです。

私たちは、こうしてクリスチャンになってから、礼拝を守り続けています。週に一度この時間を聖別し、他の用事を入れないようにして毎週毎週集っています。僕も神様の恵みによって、一九八三年の七月三日にバプテスマを受けたのですが、気がつけば今年で信仰歴三〇年になります。まだまだひよっこですが、信仰年数だけは人生の大部分を占めるようになりました。また振り返ると、この三〇年間は恵みによって、たぶん一回も礼拝を休むことがなく参加し続けることができました。本当に祝福だと思います。高校一年の時にバプテスマを受け、高校を出て大学には行かずに就職し、六年間働きまして、その後で感謝な事に献身して、今日までこの教会で仕えさせていただいております。高校、社会人時代には幾度か礼拝に出られないかなと危ういときがありましたが、何とか守られてここまで来ました。
皆さんも信仰の長い方も短い方もおられます。礼拝は、何十年も毎週同じプログラムで行われており、賛美と祈り、メッセージ、聖さん、そして献金と、ずっと同じことを続けています。話されるメッセージも時には同じみことばから語られたり、同じ話を聞くこともあります。繰り返しのような感じです。「あくまでそれを続けなさい」というのを実践しているわけです。また、私たちは聖書を読むわけですが、僕も信仰生活の中で今まで何回か聖書を読み通して、同じところを何回も読みます。そういう繰り返しの中で主の恵みがあることも確かなことです。「あくまで続ける」ことで、「そうすればあなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう」また、「そうすれば、自分自身をも、また、あなたの教えを聞く人も救うことになります」とか、自分が進歩し救いが確かなものとなる、それだけではなく、あなたと関係する人が救われていく、というのです。私たちが繰り返し礼拝を守り、聖書を読み続けることは大きな意味を持っていることですので、私たちは礼拝を愛し、この時間を主に捧げていくことを心に刻み込んでいきたいと思います。

二〇一三年が始まりまして、この教会では滝元順牧師がメッセージに「霊的維新二〇一三」という同じタイトルをつけて、一月から今月の一〇日の礼拝でお話しされていました。そこでは毎週同じみことばが紹介され、みんなで覚える時を持っていました。それはルカの福音書の一〇章一九節です。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

このみことばを、今年、新城教会に神様から与えられたみことばとして受け取るようにメッセージされていました。先週の礼拝と今週は、違うみことばからメッセージされていますので、忘れてしまわないように、今日も皆さんで読んでみましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

順先生の三歳になるお孫さんも覚えていますし、子ども礼拝でも、小学校に上がる前の子たちが覚えるようにしているそうです。私たちも負けないように覚えたいと思います。それでは、今度はそらで言ってみましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

おお、皆さんすごい優秀ですね!ぜひ、これは今年のテーマのみことばですので、忘れないようにしましょう。あくまで続けていきましょう。

新城教会の歴史の中でも「あくまで続けている」ということで祝福されていることがあると思います。先々週、二月十三日は新城教会にとっては特別な日です。「主が立ち上がられた日」というタイトルの本にまでなっていますが、愛知県民の森で五日間の祈祷会が持たれ、最終日、初めは疲れて弱々しい祈りだったんですけども、突然聖霊様が働かれて、その後の新城教会の歴史ががらっと変わるという出来事が起こったわけです。それが一九九二年の二月十三日であります。先々週の十三日であれから二一年が満ちたということです。
先々週の水曜日には記念の祈祷会が行われました。先週岡本先生がそのことを話しておられましたけれども、二一年前には、まだ生まれてもいなかった若者たちが十人以上来て一緒になって大声で賛美し、祈りの時を持つことができて本当に恵みいっぱいのすばらしい祈祷会を持ちました。
僕は二一年前にはスタッフではありませんでした。しかし、その四月からは献身しようと準備していた時でありました。ちょうど県民の森では役員ゼミナールが行われていましたが、スタッフの皆さんは、夜の聖会が終わってから支度をして、森の中へ入っていきました。でも、僕はあまり気乗りがしなくて、仕事があるからとか理由をつけてサボっていました。でも、聖会をしていた県民の森の会場で、メッセージテープのダビング作業を、伊藤義也先生と一緒にやっていました。
しばらくして窓をドンドン叩く人がいるので、何かと思って開けると、開先生が顔面蒼白になって立っていました。そして、開口一番なんと言ったかというと「リバイバルが始まった!」と言ったんです。そして、戸惑う僕たちに、とにかくついてくるようにと促され、何がどうしたのかもわからずについて行くと、これまでには見たことのなかったような聖霊様の臨在の中で圧倒される状態でした。体験したことのないものでした。それが、まさしく突然始まったものでしたから、本当に驚きました。
その後新城教会に戻ってみんなで祈ったのですが、僕もその中に一緒にいてその激しい聖霊様の働きに戸惑いと恐れの中、ただ神様の前にぬかずくようにして、罪を悔い改め続けました。その祈祷会は朝まで続き、とうとう僕が聖霊様にとらえられたと言う感覚はハッキリとはなかったのですが、それ以来、新城教会の働きも変えられて、その中で僕もどっぷりとつけられて来ましたので、今思うことは、神様がそのとき僕にも触れていてくださっていたんだと思います。
そういう油注ぎが二一年前にあって、それ以来、神様ご自身がその主権の中で一人一人に触れてくださるという、神様の時と恵みによって、奇跡的なみ業を持って癒やされたり悪しき力から解放されたり、新しいことが以前より顕著に起きるようになってきました。
そういう中で私たちも救われ、また信仰をはぐくまれてきています。今も神様が、私たちが祈るときに答えてくださる事を私たちは信じています。神様は生きておられる。神様は働いておられる事を信じ続けています。よく順牧師が「新城教会の一番の奇跡は私が変えられたことだ」と周りから言われたとおっしゃっていますが、僕自身もそれ以前の信仰生活と、そのときからとでは大きく変わった、そんな感じを持っています。
先日、そんなことを水曜礼拝でお話ししたところ、明先生がこんな事をおっしゃいました。「一九四九年二月一三日は、何の日でしょう?それは、私が初めて教会に行った記念の日です」
一九九二年二月一三日に聖霊が注がれ、ずっと前の一九四九年二月一三日には、明先生が初めて教会に行き、イエス様の話を聞いたというのです。まあ新城教会にとって二月一三日はすごく意味のある記念日ですね。
とにかくあの油注ぎは現在まで継続しています。すばらしいことです。このことも「あくまで続けていく」と決意をしていきましょう。

また、もう一つは、一九九二年七月九日には霊的戦いが突然始まって、今日まで続けられてきています。これも本当に素晴らしいことです。
何年か前から、霊的戦いを説明する聖書中の一つの物語について、新城教会の中でとりただされるようになりました。それは旧約聖書のダニエル書二章の記事です。
バビロニアのネブカデネザル王がある日夢を見て、その夢の解き明かしをするものを国中に探し求めました。しかし、解き明かすことができるものが誰もいませんでした。しかし、ただ一人ダニエルだけが神様の前に出て祈ったときに、神様がその夢の解き明かしを彼に示されました。その記事の中から、私たちが日本の救いのために、この日本を暗闇の力によって縛っている悪魔の力に対して、いかに取り組んで祈っていくか、その戦略を知ることができるというものです。悪魔がどうやってこの世界を縛り、人々を福音の光から遠ざけているかを、この解き明かしのみことばから説明しています。ダニエル書の二章三一~三六節まで読んでみましょう。

『王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。』

この後ダニエルが夢の解き明かしをしていますが、その中から教えられている霊的戦いの戦略を図にして見てみると、こんな感じになります。

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ダニエルは、金の頭はネブカデネザルが治めているバビロニアだと言いました。その後、時代が下っていくと、銀の胸であるメド・ペルシャが興き、その後銅の象徴であるギリシャ、また鉄のように強いローマが来て、それから鉄と粘土が混じり合ったような時代が来ると預言しました。この図のように、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマと言った国名は、当時は知られていませんので後からつけたものですが、歴史の中での預言の成就として当てはめることができます。そして、金の頭はネブカデネザルあなたですよと、その後に起こる国々はあなたに劣る国々ですよと、ダニエルは言いました。そして、時代が一つの体のようにつながって一体となっている模様を見ることができます。その体の最も重要な頭部が一番古い時代のバビロニア国であるのです。
これを霊的戦いの祈りに結びつけて考えるとき、時代の流れと霊的権威の流れが浮かび上がって見ることができます。すなわち、現代に生きる私たちを暗闇の力によって束縛している力は、時代を追って一つの霊的な権威の流れによって作られており、その最も根源かつ重要な位置づけに当たるのが、実は歴史上最も古い時代の霊的権威であると言うことです。
これはある意味、一般的な考えとは逆行した概念ではないかと思います。通常私たちは次の図のように

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時代の流れとともによりバビロニアの国が滅んでメド・ペルシャができ、また次の国ができという具合に、だんだんとピラミッドが積み上げられていくように、現代は過去の権威を足の下に踏むように最も優れたものとして君臨していると考えます。新しい国が先の国を滅ぼして覇権を掴むのであるから、権威というのは新しい時代の国が前の国を支配していくように存在する。であるから霊的な権威も当然新しい国のものがより大きいはずだと考えます。
ですが、聖書は、古い時代の権威が新しい時代よりも上位に位置しているのです。これは私たちの考えとは逆の発想ですが、霊的な権威の法則について教えているのです。

私たちが日本のリバイバルを求めて祈るとき、敵対する悪魔の働きを意識し、これを打ち砕いていく祈りを置くことが「霊的な戦い」なのですが、この法則をどのように当てはめていくのかというと、この国に人が初めて入ってきた時代に、人々が神様から離れ自分勝手に作り上げた偶像礼拝や、悪魔によってもたらされた様々な社会の霊的権威を、時代をさかのぼるようにして見ていき、最も根源的な領域にまで到達してとりなしていくことが必要であると学ばされてきました。

私がこれを日本に当てはめ、時代の流れと霊的な権威の流れを表したものが次の図になります。

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この図の時代区分は私がつけさせていただいたものですので、一つの参考として見ていただければと思います。
このような概念を持って、霊的な戦いの祈りを捧げてきました。この地に人が入ってきたときにはどんな偶像があったのか、そして、その後現在に至るまで、どのような成り立ちから日本の神々が生まれ、拝まれるようになっていったのか。それらが現在までにどういう変化を経て私たちの周りに存在しているのか、そういうものを調べながら、みことばの光に照らしながら、この地に神様の権威が打ち立てられるように祈りながら、今日まで戦いが続けられています。より古い時代に築かれた霊的な権威は、新しい時代の権威よりも上にある。そして、それらの権威の影響を私たちは受けている。そこから解放されていくように祈り続けてきています。

最近、先だって行われた衆議院総選挙のあたりからは特に、先ほどの図で言うと足の部分、鉄と粘土が混ざっているところ、僕が作った図では、明治から現代までの部分について祈ることが多くなってきています。明治維新が起きて明治政府は帝国主義に向かい、天王を中心とした国造りを進めてきました。そのことに焦点を当てて祈るようになりました。

先々週のことですが、たまたまテレビで国会中継の衆議院予算委員会を見ました。石原議員が安倍首相に質問をしていました。僕はここで政治について話したいわけではありませんが、その議論を聞いていると、日本の先行きについて心配になりました。昨年の衆議院総選挙の時も、この日本が間違った方向に行かないように、神様の御心が選挙の中にも表されるようにと祈ってきました。あの石原さんの質問を聞くと日本は危ないのではないかと心配が心の中に湧いてきました。僕が印象を受けるのは、太平洋戦争の戦勝国である欧米に対する劣等感、敵意とまでは行かないとまでも、ある意味で見返してやりたいという思いがあることを強く感じました。彼は肌の色にもこだわって「白人」と言う言葉がたくさん出てきました。白人は産業革命を起こしたし、他の人種よりも優れていると言うけれども、日本人は決して白人に負けてはいない。この人あの人色々な日本人が出て世界をリードしてきている。これだけすごいものを日本人は持っているのだと国会の中で言うわけです。具体的に言うと、憲法改正問題についても彼は推進派であるわけですが、そんな話題に触れる通にも、戦勝国のGHQが無理矢理押しつけたような憲法は早く変えてしまった方が良いと、日本の国が良くならない元凶が現行憲法であると言わんばかりです。それから、神道に対しての思い入れも強いという事も思いました。一つ一つの言葉に何かとげとげしいものを感じました。
尖閣問題でもシナ(中国)なんかに遠慮することはないと言ったり、早く灯台を作ってください港を作ってください、日本の防衛力は世界有数でシナに対しても何も恐れることがないのだと、何か戦争も擁護するかのような言葉が出てきます。日本は防衛力は強いんだけども、ちょっと弱いのはミサイル防衛だ。でも日本にはすごい技術がある。あの人工衛星「はやぶさ」の技術を応用すれば、ミサイルを宇宙に飛ばして戻して、ピンポイントに敵国に落とすことができる。その技術を確立すれば怖いものなしだ。だから日本は防衛費をもっと増やさなければならない、などと言ってました。僕は背筋が寒くなるような感じを覚えました。
でも、その中で一番僕が気になった事は、こんなことでした。彼は言いました。「阿部さんあなたは靖国神社を参拝しますか」。安倍首相は答えました。「この場所で私は参拝しますとか参拝しませんとかはっきり申し上げません。しかし国のために命を落とした国民のために参拝することは結構なことだと思います。」そうしましたら石原氏は言いました。「阿部さん、私はあなたが参拝することはしなくてもいいと思ってます。しかしあなたに一つお願いしたいことは、ぜひあなたの力で天皇が靖国神社を参拝できるように働きかけてください。」
僕はこの話を聞いて、天皇に対して長年福音を語り、天皇が神様を信じることができるようにと働きかけている明先生はじめリバイバルの働きに敵対する大きな力であると感じました。また話を聞いていると、日本を戦前の帝国主義の時代の考え方に逆戻りさせようとする力を感じます。そういう帝国主義社会の中で、この日本がどのように歩んできたか、天皇を神とし、またアマテラスを国神とし戦争の道をひた走ってしまったわけで、この歴史を決して繰り返すことのないためにも、私たちはこの国のために祈っていかなければならないことを強く感じました。
そんなことを思いめぐらしている時に、新城教会ではこれらのことについても、昨年から心を込めて祈ることを続けてきたなぁと思いました。大切な事をさせていただいていたなぁと思いました。

先ほどダニエルのみことばを開いて読んできましだけども、その最後に、人手によらずに切り出された岩が落ちてきて、鉄と粘土の混ざり合った足の部分を打った。そうするとその足の上に乗っていた鉄も青銅も銀も金も全部砕け散って、夏の風の前のもみがらのように跡形もなくなった。そしてその岩が全地に満ちたと幻を読みました。
今そのようなことに目を止めている事は、ある意味、この現代において私たちが「岩」であるイエス様にこの地の権威を据え変える働きをさせていただいてるのかなと感じさせられました。霊的戦いを二十一年間続けているわけですけども、私たちは歴史的に昔の方へ昔の方へと遡ってずっと祈ってきたと思います。しかし、ついに近頃は足の部分について祈らせていただける事を思ったときに、これは「リバイバルは近いかもしれない」という期待感が湧いてきました。本当に私たちが、このリバイバルの戦いをあくまでも続けていく中で、主は今日までとりなしの祈りにおいて深め進めさせてくださっています。そういう中で環太平洋ミッションの働きも近いですし、全日本リバイバルミッションの働きにおいても祈りがずっとささげられ、働きがずっと続けられている中で神様が必ずこの日本を造りかえてくださるリバイバルの業を、必ず起こしてくださることを期待していきたいと思っています。信仰を持って私たちが心を一つにして、さらにリバイバルのために戦っていきたいと思います。リバイバルは本当に近いと信じています。
先ほどお見せした像の図のように、歴史を超えて存在しているような巨大な霊的権威であっても、その足は鉄と粘土でもろいものでした。これは、この世の国々の誉れ栄えというものは、いずれ滅んでいくもろいものであることを暗示しています。マタイの福音書の七章の二四節から二七節に

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」』

これもあの像の幻と同じように、見た目は立派そうに見えていても、土台となる部分がもろい家、これは砂の上に立てられているとありますが、そのような家は、雨が降って水かさが増し、洪水となって押し寄せてきたときにひとたまりもなく倒れてします。それは、私のことばを聞いてそれを行わない者だとイエス様はおっしゃいました。そして、岩の上に自分の家を建てたと言うことは、イエス様のことばを聞いて行う者です。あの像の足に岩が打ち当たり、像全体が粉々に砕け散ったとあるように、岩とはイエス様のことを指しており、岩の上に家を建てると言うことは、イエス様のことばに聞いてそれを行うことだと教えられます。コリント人への手紙第一十章四節には

『みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』

聖書を見ますと、岩とはイエスキリストだと見ることができます。岩のように堅い土台、岩のように揺り動かないもの、イエスキリストについてそのように紹介されています。この岩を土台にして家を建てれば、その家は大雨や洪水が来ても壊されることがないのです。私たちは、「みことばの朗読と勧めと教え」あくまでこれを続けなさいと書かれていましたが、繰り返し繰り返し学び続けるときに、それによって成長し、それが私たちを救い、さらに私たちの教えを聞く人たちが救われるようになるのです。
この教会では様々なリバイバルのための働きが続けられ、継続されてきています。今年も和歌山やタイでのリバイバルミッションが計画されていますが、これらの働きを通しても神様はリバイバルを起こしてくださっています。

今年の一月に行われたPPHの中で、平岡先生がメッセージされていたことが、心に残っています。それは、「リバイバルは歴史の中でいろいろな場所で何度となく起こっています。それらをよく調べてみると興味深いことに、すべてのリバイバルは、「突然」起こっているのです。」
もちろんリバイバルを信じて準備している人がいるのですが、彼らもリバイバルのスケジュールを立てることはできない。ただ、待ち望んで準備している中、その日は突然やってくるのです。リバイバルは人間側では計画できず、ただ、神様の計画の中で、人間があくまで準備し続ける中で起こされるのです。
甲子園ミッションが行われて二十二年目に入りました。日本リバイバルクルセード時代からだと四十年以上経っています。この間ずっとリバイバルリバイバルと叫び続けてきたが起きていません。「いくら祈っても起きないじゃないか」と言う人がいるかもしれません。でも、「必ず起きます」と平岡先生は熱く語っておられました。それを聞いて僕も励まされました。この働きの中にもリバイバルか起きます。このことを信じ、私たちの周りにいる家族、友人、この日本、そして世界の国々に対してもリバイバルの熱い思いを持ってあくまで働き続けていきたいと思います。
二十二年目の油注ぎを求めて、先日県民の森で祈りましたけれども、今日も私たちは聖霊様に心を開いて、私たちの人生に入っていただきましょう。そして、神様のために何をしていけば良いか祈り求めていきたいと思います。神様はここにおられる一人一人を用いようとしておられます。最後にお祈りをしましょう。

ハレルヤ主イエス様感謝します。あなたが二〇一三年、これまで導いていてくださっています。一月から今日に至るまであなたを求め、私たち自身を捧げて、この日本の霊的維新を願い祈り求めてくることができ心から感謝します。あなたは一九四九年二月一三日に明先生を教会に導き、また、一九九二年の二月一三日には、激しく訪れてくださいました。先々週は県民の森の祈祷会でそのことを覚え、また新たに前進していくことを告白いたしました。今日はこの場所でも同じようにあなたの前に立っています。ここにおられるお一人お一人に天を開き、油を注いでください。こうして信仰が守られ礼拝に出ることができていることも、あなたの恵みと哀れみの故です。しかし、まだ多くの人々が古い束縛の中でうめきながらあなたを知らずに歩んでいます。この現実を見て、さらにリバイバルを待ち望みます。あくまでそれを続けなさいという励ましのことばに応答し思いを新たに主に従っていくことができますように豊かな祝福を注いでください。あなたが必ずリバイバルを与えてくださる事を信じます。感謝してイエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。