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『究極の勝利を目指して 〜パート2〜

2013.3.31 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
コリント人への手紙第一15章20節〜26節

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日は「復活祭」の特別礼拝です。共に、復活され、今も生きておられる主を礼拝できることを、心から感謝します。
 今の演奏、本当にすばらしかったですね。生きておられる主を、ピアノ演奏と映像で讃え、心温まる主の臨在を感じながら聴くことができて感謝します。 

 私たちは頼りになる神様に従って生きています。全然頼りにならない神ではなく、頼りになる神様です。今日は映像が多いですが、私も映像を用意してきましたので、見ていただきたいと思います。これも、ジョー先生からもらったのですが、私たちは案外、頼りにならない物に日々頼っているのではないかと思うのです。



 これはトイレットペーパーの宣伝です。絶対に必要な時は、架空なものではだめです。

 今日私たちは、イエスさまの復活を祝っています。聖書にこんな言葉があります。使徒の働き四章三十二節〜三十三節、

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 イエス様の復活を目撃した人たちは、復活を「非常に力強く」あかししたというのです。
 キリスト教は不思議な宗教だと言われます。教祖が天に帰った後も、残された弟子たちは、命がけで福音を伝えたからです。これはどうにも理解できない行動だというのです。教祖さんが生きているのなら、話は分かるけれど、迫害のただ中で、命がけで福音を伝えたのです。そのために命を落とした人も多くいるのです。
 これはなぜかと言えば、イエス様の復活を彼らがつぶさに目撃し、体験したからに他なりません。ゆえに、その感動に押し出され、命がけで福音を宣べ伝えたのです。

 礼拝が始まる前に、今年も「召天者記念会」がありました。新城教会では、毎年復活祭に合わせて、かつて一緒に礼拝を守り、今では天に帰った方々の記念集会を行うことにしています。そこでは、お元気だった頃の写真が映像で映し出されます。とても寂しいのですが、教会の記念会には、一つのキーワードがあります。それは「希望」という二文字です。
 普通はどうでしょうか。法事には「希望」はありません。誰かが亡くなった当初は寂しさや懐かしさなど、複雑な感情もあって行われるのでしょうが、段々と時間が経つにつれて「拝まないと祟られるかもしれない…」という、恐れで法事が行なわれます。
 しかし教会は全く違います。今日の記念会でも、この教会ができた頃、天に帰られた方々も含まれていました。それは一九五〇年代の出来事です。その頃に亡くなった方々はすでに六十年近く経っています。それでも、私たちは「希望」という二文字で記念会を行っています。
 毎年毎年、記念会を重ねる度に、何が起こっているのかというと、「彼らと再会する日が近づいている」ということです。
 私たちは、やがて先に天に帰った方々と、天国で会うことができるのです。

 なぜそんなことが言えるのかというと、「イエスさまがよみがえられた」からです。それが事実だからです。イエス様はよみがえられ、今も生きておられます。イエス様と同時代に生きたパウロが、こんな言葉を語っています。コリント人への手紙第一十五章十三節〜十四節、

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』
 そしてまた十九節に、
『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

 イエスさまが復活されたことが偽りなら、クリスチャンほど哀れな者はいないと語っています。しかし逆を言えば、イエス様が復活されたことが事実ならば、「クリスチャンほど幸せな者はいない」ということです。キリスト教信仰は「イエス・キリストはよみがえられた!」という、「事実」に支えられているのです。私たちはよみがえられた事実を土台として、信仰に励んでいます。
 私たちの人生もやがて終わりを告げる日が来ます。しかし人生はそれで終わりではありません。私たちは、永遠のいのちの中に生きていますから、肉体の死後、すぐに天国に入り、別れた家族や友人たちと再会を果たすのです。なんとその日が、日々、近づいているのです。

 しかしそれだけではないのです!やがてイエスさまはこの地上に戻って来られます。それを「再び臨まれる」と書き「再臨」と呼びます。イエス様が再び、地上に戻って来られる日が近づいているのです。
 そしてその日、何が起こるのか。その日、先に天に帰った人たちがイエス様と一緒に来て、地上に遺した体を元にして、栄光のからだへとよみがえるのです。

 そのことを聞いてどう感じますか?キリスト教はここまで告げているのです。死で終わりではない、天国がある、それだけでなく、イエスが再び地上に戻ってきて、その日、天に帰った死者たちもよみがえるというのです。それも二度と朽ち果てない、栄光のからだに復活するというのです。それを示す為に、イエス様は死より復活されたと告げています。

 どうでしょうか。誰かが宗教をでっちあげるとしたら、たとえば、私が新興宗教を起こそうとしたら、私はここまでは絶対に言わないと思います。「死んで天国に行き、死に別れた人たちと会うことができます。」というところで、止めておきます。やがて教祖が帰って来て、それと共に死者が復活を果たすなんていう教えを入れたら、きって「おいおい、ちょっと待ってくれよ。この宗教の教祖は、絶対に頭がおかしいよ。」と言われてしまいます。ですから、そこまでは、言わないと思います。
 しかし聖書は、なんと、そこまで言っています。けれども、よく考えれば、本来そこまで出来なければ、本当の救いとは言えないのです。

 イエス様がよみがえられたという事実は何を意味するのか。それは、死んでも永遠のいのちがあります、天国で楽しく過ごすことができますよ。というだけじゃないのです。なんと、イエス様が復活されたのと同じように、「私たちもやがて復活する」ということを意味します。信じられないけれど、聖書はそこまで述べているのです。
 ということは、キリスト教は、究極の救いを提供しているのです。それはイエス・キリストが「復活された」ということが事実でなければ、決して語ることは出来ないのです。

 最初に読んだ箇所、コリント人への手紙第一十五章二十節は、『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』と告げています。イエス様は、「眠った者の初穂」としてよみがえったというのです。
 今までに新城教会から、百人近くの方々がすでに天に帰られました。もしかしたら、天国には「新城村」があるのかもしれないな、と思うことがあります。新城教会から天に帰った人たちは、お互い、近くに住んでいるのかどうか知りませんが、天国で幸せに過ごしていると思います。

 しかし、イエス様の復活は「眠った者の初穂」であるというのです。それは天で生きているという概念を越えて、「死んでもイエス様と同じように復活する」事を示しているのです。コリント人への手紙第一十五章二十一節。

『というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。』

とあります。アダムが罪を犯したことによって、人類に死が入りました。けれども、第二のアダムであるイエス様によって、イエスを信じる者は全員、「復活することができる」というのです。このような深遠な、なかなか理解できない大きな概念を、聖書は示しているのです。今日ここにおられる、お一人一人、イエス・キリストを信じるなら、すでに永遠のいのちと復活が保証されているのです。

 人の救いは不思議です。一般の宗教では「救われた!」という実感は、なかなか伴いません。いくら修行を重ねても、救いの確信には至らないのです。
 しかしイエス・キリストへの信仰は、天地宇宙を造り、私たちを創造された神との出会いですから、信じた瞬間に「私は救われた!」という確信を伴うことが多いのです。
 たとえ、瞬間的な確信が伴わないにしても、知らないうちに「救われている!」という確信が心に満ちています。私は牧師の息子として生まれ、いつ救われたのか分からないところがありますが、牧師にまでなったのは、救いの確信があるからです。

 先ほども、Sさんが証しをしてくださいました。彼女が大学生時代、友達と女子会をやっていて、その中でタロット占いをやったらしいのです。その最中に、二人の女の子が急に変になったのです。「すぐに神社に連れて行け!」とか叫んで、女子会は大混乱したそうです。ついに困ってしまって、救急車を呼んだそうです。
 占いを絶対にやってはいけません。何が降りてくるのかというと、悪霊が降りて来ます。将来を示してくれる神を呼んでいると思ってやっていますが、そうではありません。占いは「悪霊を呼ぶ儀式」です。タロット、こっくり、キューピット、その他、全ての占いは悪霊を呼んでいるのです。だから、時には説明できないような変な事が起こるわけです。

 彼女たちは困ってしまって、霊能者の所に、お祓いに行ったそうです。それでも、どうにもならなかったのです。特に、一人の友達の女性の状態がひどかったのです。しかし不思議な事に、その友達の女性は巡り巡って、新城教会に来たのです。
 当時、近くの街に、占い師の集団がいました。彼女は教会に来るまでは、そこに通って祈祷を受けていました。百人くらいの占いグループがあって、護摩を焚いて、不動明王や仏像に、霊が出て行くように祈祷していたらしいのです。
 しかし、彼女は教会に来て、イエス様を信じたら、悪霊から解放されたのです。

 彼女が祈祷師の所に通っていた頃、「願文」と呼ばれる祈祷課題を、護摩壇の上に置いていました。彼女が占い寺に行かなくても、毎日の祈祷を頼んでおいたのです。それは悪霊に対する、とりなしの祈りです。彼女は主を信じて、それらがよくないと分かったのです。それで、寺に残した願文を取り返しに行きました。

 私と、もう一人の青年と、彼女と一緒に寺に願文を取り返しに行きました。私たちが行ったのが夕方で、すでにその寺は閉まっていました。どうしても願文を取り戻したかったので、寺の関係者に電話したら「自由に堂の中に入って、願文を持ち出してください」と言われました。
 だから懐中電灯を持って、真っ暗な寺の中に入って行きました。中は線香くさいやら、焚き火くさいやら、真っ黒に煤けた恐ろしい顔をした不動明王や、大きな仏像が何体も立っていました。ある仏像の手の上に、願文ノートが何冊も乗っていました。その頃は、まだ霊的戦いについてよく分かっていない時期で、それらをただ取り戻して処分すれば良いと思っていました。彼女の残した願文を探したのですが、見つけることが出来ませんでした。
 それで、彼女の友達で、その占い寺を紹介した、Sさんに電話しました。
 「どこにあるの?」と聞くとSさんは、「何処にあるか知っているから、私が行って見つけてあげる」と言いました。本当に親切ですよね。なんと、Sさんは一時間以上かかる街にまで、わざわざ来てくれました。
 私と、もう一人の青年と、タロットで悪霊に支配されていた女の子の三人で、一時間以上、寺の門前で彼女が来るのを待っていました。すでにあたりは真っ暗になりました。「早く来ないかな~」と思っていたら、やがてSさんの車が来ました。「やっと来た。すぐに寺の中に入って、願文を見つけて帰ろう」とした時、聖霊様が私に「寺の中に入って願文を持ち出すよりも、この人に福音を伝えなさい」と語られました。
 それで私は、寺の門前でSさんに「あなたの友達、良くなったでしょ。元気になったでしょ。」と言いました。すると、『あ〜。ほんとに元気になったね~。良かったね~』と、感動していました。
 「なんで良くなったのか知ってる?彼女はイエス様を信じて、良くなったのだよ」と告げました。そして「あなたもイエス様を信じましょう!」と、短い話をしたのです。場所は寺の前ですし、真っ暗で、早く帰りたいですから短い話をしました。

 しかし瞬間的に、彼女の心に光が射したのです。彼女は聖霊様に触れられたのです。突然、涙を流して「私もイエス様を信じたいです。イエス様のことを知りたいです!」と言われ、はじめ私は何が起こったのか分かりませんでした。彼女は寺の前で、初めて福音を聞いたのにも関わらず、イエス・キリストを信じたのです。私も感動しました。伝道は長い時間かかるものだと思っていたら、瞬間的に主を信じ受け入れたのです。
 私は言いました。「今からもう少し詳しく、イエス様の事を話してあげるから、教会まで一緒に来ませんか?」と言って、教会まで彼女を連れて来ました。そして福音をしっかりと語りました。
 すると彼女はこう言うのです。「私、今晩、バプテスマを受けていいですか?」私は「ちょっと待ってよ」と思いましたが、なんと、新城教会の歴史の中で、そんなに早くバプテスマを受けたのはSさん以外にはいません。
 翌朝、彼女は洗礼を受けました。『信じてバプテスマを受ける者は救われる』とありますけれど、主を信じた翌日、バプテスマを受けました(このケースは特別です。普通は受洗クラスがあります)。しかし、彼女にとっては、それが正解でした。

 その後、彼女たちがクリスチャンになったことを占い師の親分が知って、「なんで教会になんか行ったんだ。新城教会には悪霊がいるから、みんな行くな!」と言って、占い師集団と家族を巻き込んで、大きな迫害となって、彼女は教会に来られなくなりました。
 しかし、彼女は洗礼を受けた事が支えとなって、激しい迫害の中でも信仰が保たれたのです。今ではSさんはクリスチャンと結婚し、すばらしいクリスチャンホームが出来ました。そして今朝、素晴らしい演奏を聞かせて下さいました。すごいですね。
 イエス・キリストの救いは、ただの概念的なものではないのです。実体験が伴います。

 イエス・キリストは架空の人物ではなく、生ける神ですから、救いは一生にわたって、人生に大きな影響を与えます。先ほど彼女が証ししていましたが、「救われて、死後、永遠のいのちに入るだけでなく、人生は瞬間、瞬間、イエス様に助けていただくことができる」と言いました。
 クリスチャンのすばらしさは、何があっても、神に祈ることができるということです。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい』とありますけれど、常に呼吸のように、祈りながら一歩一歩、人生を歩むことができるのです。

 しかしそれだけでなく、永遠の世界も関わっており、さらには、よみがえりまで含んでいるというのです。
 キリスト教の完璧さは、比較宗教においても他を寄せ付けない、完璧な教えです。どうせ人生で神を信じるならば、教えの中身においても完璧なものを選ばなければなりません。
 「どうせ頼るなら、世界で一番強い神様に頼ってください」と私はよく話します。戦争とは、いつの時代においても神々の戦いです。ですから、一度戦争に負けたような神を信じても駄目です。日本の神々は、戦争に敗北した神々です。近頃、日本は「昔のように強くなりたい」と、右傾化していると言われます。しかしいくら再び、国家神道を掲げて国を作ったとしても、すでに一度戦争に負けた神々ですから、そんな存在を掲げても、強くはなれないのです。
 今までの歴史の中、一番強い神といったら、残るのは「イエス・キリスト」か「イスラム」のどちらかです。現在世界は、キリスト教圏かイスラム圏かの二大勢力です。
 しかし強くても、悪い神に頼ってはいけません。良い神に頼らなければなりません。イスラムの神は強そうかもしれませんが、教典のコーランを焼いただけで死刑にします。イスラム教徒が宗教を変えただけで、死刑にされてしまいます。そんな、悪い神に頼っても良いことはないのです。
 しかし聖書の神様は違います。愛の神様ですから、日々の生活を支えて下さるのです。

 歴史は際限なく続くのではなく、やがて終わりの日が来ます。
 先ほど読んだ箇所にも『終わりの時が来る』とありましたが、人類の歴史は、際限なく続くのではないのです。やがて終わりの日が来るのです。そして私たちが過ごしている時代はどういう時代かというと、「終わりの時代」です。
 今から二千年前、イエス様が世の終わりに関して、「終わりの日は隠されているけれど、時代のサインはある」と語られました。
 私は何週間か前に、少しそのことを話しましたが、マタイの福音書二十四章三節〜七節を読みますと、

『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。』

 終わりの時代のサインの一つは「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」すなわち、「戦争がある」と預言されました。そしてもう一つは「ききん」と言われ、またもう一つ、「地震がある」と語られました。
 これらが終わりの日のサインだと言うのです。こういう事が世界に起こって来たら、身を慎み、真の神に頼りなさいと言うのが、聖書のメッセージです。
 「戦争」とは何をイメージして、預言されたのかというと、世界大戦だと思われます。人類は近年、第一次世界大戦、第二次世界大戦という、世界規模の戦争を経験しました。やがて第三次世界大戦が起こったらどうでしょうか?もしかしたら、虫一匹、この地球に生き残れないかもしれません。
 福島の原発が壊れただけで、日本列島に人は住むことができないかもしれない、と言われました。原発は日本に五十以上あって、世界中には何百、何千もあるわけです。おまけに、核爆弾や核兵器は山ほどあります。そんなものが雨あられと世界中に降り注いだらどうなりますか?人類は、絶対に生き残れません。生物は全て死に絶えてしまうでしょう。ということはどうでしょうか?
 神の被造物が、人の手で全て消えてしまうことになります。創造主は、そんなことは絶対にさせたくないはずです。

 ということはどうでしょうか?第三次世界大戦が起こるまでには、神は人類に何らかの直接介入をされることでしょう。第三次世界大戦が始まらないうちに、イエス様が再臨し、地を治めて下さったらいいと思います。
 この頃、隣の朝鮮半島情勢がたいへん緊迫しています。一触即発で核戦争になる危険性があります。日本人は平和ぼけしていますから、あまり緊張していませんが、現在、韓国とアメリカが合同で核兵器を用いる演習をしていて、北朝鮮が強く反発しています。

 私は沖縄に時々行きますが、沖縄にはアメリカ軍の基地がいくつかあります。何年か前、ある基地の重要な責任者の方と食事をしたことがあります。その人がこう言いました。「日本人のクリスチャンは、もっと自分の国の守りを祈った方がいいですよ。日本の大きな街にはすべて、ミサイルが向けられ、セットされている」と言うのです。アメリカ軍は情報を持っていますから、事実を知ると本当に怖いと言うのです。「だから本気になって祈ってください」と言われました。私は「はい。祈ります!」と答えました。
 するとその司令官が私に言うのです。「明日から韓国軍との演習があるから、私も韓国に行く」と言うのです。そして「軍艦に乗って行くから祈ってくれ」と私に言うのです。だから、「何を祈ったらいいですか」と聞くと、「船酔いにならないように祈って下さい」と言いました。あまりにもミサイルと船酔いにはギャップがありすぎましたが、祈ってあげました。日本は平和ぼけしていますが、世界には終わりのサインがあります。

 『ききんがあります』とイエス様は言われましたが、ききんで苦しんでいる人たちも多くいます。私たちはたくさんの食べ物がありますけれど、世界の多くの人たち、特にアフリカの人たちは、ききんで苦しんでいます。
 そして、『方々にききんと地震が起こります。』とあります。この「方々」という言葉は、ききんと地震の両方にかかりますから、「方々に地震が起こる」とイエス様は預言されたのです。

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 これを見ていただくと分かるように、世界中、方々で地震が起こっています。しかし、一番多く地震が起こっているのは、日本です。これから日本にどのような事が起こるか分かりません。二〇一一年三月の震災は、記憶に新しいところです。東北の方々は、この地震で本当に苦しめられました。これも世の終わりのサインの一つかもしれません。

 先週、「霊的戦い専門課程」がありました。そこに来られた一人の牧師先生が「順先生にこの事を伝えようか、伝えまいか…。どうしたらいいかな。やっぱり言おう」と言って、一つのことを告げてくれました。
 近頃、一人の信頼できる牧師夫人が祈っていたそうです。そうしたら、神様から一つの幻を見せられたというのです。それは地図だったそうで、その地図は初めは小さかったけれど、急に目の前で大きくなって、蟹の手のような場所が見えたというのです。よく見ると、それが三河湾のようだったというのです。その後、主から愛知県にある街の守りを祈るように語られたと言うのです。
 その方は愛知県について、よく知らない方だったそうです。しかし突然、そのような幻が現れたので、「一応、とりなしの情報という意味でお伝えします」と言われました。蟹の手のような地域は愛知県しかありません。もしかしたら、もしかして、そういうことがあるのかもしれません。十分に起こりえる可能性があります。なぜなら、太平洋戦争が終わる頃、三河大地震が起こり、二千数百人が亡くなり、この地方が大きな被害を受けた歴史があるからです。
 是非とも、守りを祈っていただきたいと思います。このような情報は「地震が起こらないように、先に祈りなさい」という情報です。私たちは、日々、守りを祈らなくてはいけません。
 毎週週報に「日本が新たな天災から守られますように」とあり、祈っていますが、住んでいる地域のためにも、真剣に祈らなければならないのです。
 「終わりが近づくと戦争とか、ききんとか、地震が多発します」と預言されましたが、「そういう時代になったら、しっかりとわたしを見上げて歩んでください」と主は励ましておられます。

 今の時代を見回せば、私たちが終わりの時代に生きていることがわかります。
 また、同時に人生そのものにも、様々な苦しいことがあったり、悲しいことがあったりするわけですが、何があっても「イエス・キリストと共に歩むならば、決して間違いはない。世の終わりに際しても保証される」というのが、聖書の教えです。
 それも、ただ生きている期間だけ保証される保険みたいなものではなく、死後も保証され、そればかりか、イエス様が帰って来られる日には「からだがよみがえる」という、究極的保証まで含まれているのです。

 今日、私たちが復活祭において感謝しなければならないのは、イエス様が復活されたのは、「私たちもやがて復活できる保証」についてです。イエス様は神だから復活するのは当然ですが、イエス様の復活は、「私たちの復活を保証したもの」なのです。
 ということは、死後の世界の保証も当然のことなのです。なぜなら、死者が復活するくらいですから。死んだら命がどこかに行ってしまうのではなく、天に帰った人たちの魂は、しっかりと管理されていて、やがて復活する日を待っているのです。

 復活祭とは、イエス・キリストの復活を「良かったね。あの方は神様だから特別」という祭りではなく、「私たちの復活」を喜ぶ祭りなのです。
 『今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』
 「初穂」とは最初の穂であり、次の穂が続いて出るのです。イエス様が復活されたのは、後に続く私たちが含まれているのです。弟子たちがイエス様の復活を非常に力強く証ししたのは、ただ、イエス様個人の復活だけではなく、「私たちも復活に預かることができる」という、究極的な勝利を宣べ伝えたのです。
 今日ここにおられるお一人お一人、すでにイエス・キリストを信じて歩んでおられますが、これをただ人生の中の救いだけに留めないで、また、死んでからの世界だけに留めないで、復活さえも含んでいるということを理解すべきです。そしてその日が、刻一刻、近づいているのです。

 ですから、私たちクリスチャンにとって、世の終わりとは、イエス様が完璧に勝利を取られる日、究極の勝利の日です。一日一日、日を重ね、年を重ねるのは、究極の勝利に近づいていることに他ならないのです。嬉しいですね。

 私もこの頃、若い時のネタが多いのですが、以前は親父がそういう昔話メッセージをしているのを聞いて、「なんだ。また昔話をして…」と批判していたのですが、いつしか気が付いたら、自分も昔話がよく出るようになっちゃって、やっぱり年かなと思っています。
 やはり六十二歳にもなると「昔が懐かしいな~」と思うのです。「髪の毛があった頃が懐かしいな~」と思うようになりました。
 私は若い頃、グロリアシンガースというバンドをやっていました。ちょっとしたものでしたよ。近頃、おもしろいオファーが来まして「グロリアシンガースを再結成して、歌ってくれませんか?」と言われて、ちょっと元のメンバーに言ったら笑われましたが、御心だったら、それもありえるかな?死ぬ前に一回くらいやってもいいかな?と思ったのですが、その頃の写真を見せましょうか?

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 かっこいいですね。こんな時代もあったんだなと思います。人生って、あっという間だなという感じです。
 私がその頃に作詞・作曲した曲が残っていました。今から三十年くらい前に作詞・作曲した曲です。二十代にしては、結構、深い詩を作詞をしているのです。どうですか、みなさん聞きたいですか?聞きたくないですか?
 やっぱり物持ちが良いのは伊藤義也さんです。音源があるかと聞くと「ありますとも」と、持って来てくれました。その曲は「僕の人生」というタイトルの曲です。なんと歌詞は四番まであります。どんな時にもイエス様は守ってくれますよ、という歌です。これは人生だけのことを歌っていますけれど、最後に少しお聞きいただいて、その後、イエス様の十字架と復活を記念して聖餐式を行いたいと思います。
 三十年近く前の歌で、へたくそな歌ですけれども、許してくださいね。私が作詞・作曲したというところに、意義があるかなと思います。よろしくお願いしたいと思います。

♪僕の人生♪
人生は移りゆく 季節のように変わる
ある時は真冬の寒さの中
北風に立ち向かい 先に立って歩く
イエス様の後ろには風は来ない

ある時は雨の中 傘も持たず濡れながら
行く当てもないままに ひとり迷う
気がつけばイエス様はそっと傘を差し出す
中には雲もなく青空広がる

イエス様のあと 付いて行くなら
僕の人生に恐れはない
イエス様に導かれ歩む道は楽しい
心には喜びと安らぎがある

やけつく夏の日差し のどをからし歩く
あたりには水もなく 木陰もない
日差しに手をかざし 先に立って歩く
イエス様の後ろには木陰が広がる

どんな季節が来ても 年月が流れても
イエス様の後ろなら 怖くはない
君にも知ってほしい こんな人生がある
この道は続くよ 明日に向かって


 こんな曲です。イエス様と共に歩む人生には、安らぎがあります。イエス様と共に歩むなら、間違いはありません。
 しかし救いとは、それだけでなく、永遠のいのち、そして、よみがえりまで含んだ完全な保証であることを知り、復活祭を喜びたいと思います。最後に一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。イエス様がよみがえられたのは、私たちの復活さえも含んでいる大きな恵みのゆえに、心から感謝します。人生の中には様々な事がありますが、主がいつも守り支えてくださることを心から感謝します。イエス様が流してくださった十字架の血潮は、永遠のいのち、復活まで含まれていることを確認し、感謝し、聖餐を受け取ります。この時を祝福してください。お一人一人に特別な、祝福と永遠への希望と復活の、大きな希望を受け取る時となりますように。感謝を持ってイエス・キリストの名によって、聖餐をいただきます。アーメン。