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『実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます

2013.4.28 (日)
新城教会牧師 上條実
ルカの福音書 10章25節〜28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』


 ハレルヤ!今日ここに立つことができますことを心から感謝をします。みなさんのお祈りを感謝します。二月に鎖骨を折ってしまい、痛くて辛い思いをして来ましたが、ここまで回復しましたことを感謝します。

先週はI姉の実家である岐阜県の加子母村(現在は中津川市)で滝元明ミニストリーが行われました。I姉もお友達を大勢誘い、親族の方々も出席され、八十名ほどの方が集い、ロンブラウンさんとティムケプラーさんのコンサートと滝元明牧師よりみことばを聞きました。皆さんがお祈り下さいましたので、写真をお見せしたいと思います。

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 加子母村のホールに八十名が集まり、福音を聞かせることができた事は本当にすばらしいことです。

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 またその集会の前には、I姉のご実家にて親族やご近所の方のために特別な、ミニコンサートも開かれ、大変すばらしい時を持つ事ができたそうです。感謝します。必ず今回蒔かれた福音の種が実を結び収穫できる事を信じ、引き続きお祈りしていきましょう。

また週報に掲載されていますように、先週の二十四日、W姉が天に召され、二十六日葬儀が行われました。この四月には、四月十日にR姉が亡くなり、そして一週間後H姉が亡くなられました。そして二十四日W姉が亡くなられ、三週間連続で葬儀がありました。W姉はS兄の叔母さんに当たります。彼女はご自分の意志ではっきりとイエスキリストを信じて、今年の三月十一日にバプテスマを受けられ、先週お亡くなりになりました。S兄の奥さんのS姉が、今から十二年前、息子さんを出産された時W姉も同じ病院に入院されました。それは肺に悪い腫瘍が見つかり手術されるためでした。S姉はW姉の所へお見舞いに行き、詩篇九十一篇十五節〜十六節を開いて読んで祈って差し上げたそうです。

『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』

 W姉は手術の前の日だったそうですが、お医者さんから手術の説明を受け、とても不安を感じていらっしゃった時でした。その為『呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう』と言うみことばと『わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ』と言うみことばで、励まされ手術を受けられました。手術後病室で背中などが痛み苦しんでおられる時、彼女は主の力によって不思議な体験をされたそうです。それは背中の痛みがひどい時、イエス様の手が背中の下におかれ、そして抱き上げて下さったそうです。すると不思議とその痛みが無くなり、その事でイエス様が生きているということを彼女は知ったのです。退院後何度か水曜礼拝などに来られました。また彼女の弟さんが去年の三月になくなられ、そのお葬式も教会でさせて頂きましたが、弟さんが病室で苦しんでおられた時、「イエス様は助けて下さる」と伝えておられていたそうです。今回再発されてお亡くなりになりました。ご家族やご親族の上に慰めがあるようお祈り下さい。私たちは永遠の別れではなく、また再会できるという望みがあります。

 新城教会では葬儀を行う時、全て教会で準備させて頂いています。三十年ほど前から、お葬式に大変お金がかかるので、全て教会で準備などできないだろうか?ということになり、それ以来全て教会でさせて頂くようになっています。しかし、死亡届の提出の仕方くらいしかわからず、あとは実際に体験するしかありませんでしたので、最初は大変でした。しかし、今では感謝なことに、病院から遺体を搬送したり、お棺の手配やお花の手配など葬儀屋さんを入れずに、全てを行うことができるようになっています。教会が遺族の方々と祈りながら葬儀を行うことができることは、すばらしい祝福だと思います。
 今回三つの葬儀の準備をさせて頂きながら、私の心の中に響いてきたみことばがあります。それは先ほど読んでいただきました、ルカの福音書十章二十五節〜二十八節です。ここはイエス・キリストを、また隣人を愛しなさいと教えています。もう一度愛について確認しなくてはいけないと教えられました。そのことを今日皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。ルカの福音書十章二十五節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか』

律法学者がイエスを試そうとして「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問しました。するとイエス様は律法学者に「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と逆に質問されました。律法学者は「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」と答えました。するとイエス様が言われたのが「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と言われました。愛を実行しなさいと言っています。
まず始めに『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。』と言っています。今回特に私が目にとまったのが、「尽くす」ということばです。尽くすと言うことばを国語辞典で調べて見ると

「尽くす」
①そのことのために全部を使ってしまう。ある限りを出しきる。
②その事柄の極にまで達する。成しうるまでする。きわめる。
③果たす。全うする。
④他の者のために精一杯働いたり努力したりする。尽力する。

 このように書いてありました。私たちはイエス様に対して心・思い・力・知性をイエス様のために、全部を使い、ある限りを出しきり、事柄の極にまで達し、成しうるまでし、きわめる。果たす。全うする。他の者のために精一杯働いたり努力したりする。尽力する事をしているだろうかと問われた時、イエス様を愛する事に対して、私は相当いい加減な態度で仕えているなぁと思わされます。イエスキリストは私たちを救うために、神の子が私たちの為に命を捨てて下さいました。そして自分で生きているようであってもイエス様によって生かされています。しかし悪魔の策略で、毎日の生活が忙しく、様々な問題や仕事に追われて、必死にさせられています。そして自分で生きているように錯覚してしまい、イエス様の十字架と犠牲を軽く考えてしまいます。今回三人の方の葬式を行ないましたが、いつか私も同じように講壇の所に棺桶に入れられて、私の葬儀の時が来ます。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』

永遠の命を頂くために、これを実行しましょう。心から賛美し、心から奉仕し、心から愛しましょう。私たちは全身全霊を持って主を愛さなくてはいけません。ヨハネの福音書十四章一節〜三節、これは有名なみことばです。

『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりであり、もう一つ、私たちのために場所を備える為でした。場所を備えたら、もう一度戻って来て、私たちをその場所に迎えてくださるというのです。『わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と語られました。やがて私たちは地上から出て行く日が来ます。しかし行くべき場所が備えられているのです。場所の用意ができたら、主が私たちを迎えて下さいます。しかし明日の仕事の事を考えさせ、「これをやらなければいけない」「あれをやらなければいけない」と準備しなければと目を反らせてきます。私たちはもう一度、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛していく。「それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます。」と言われています。あなたは永遠の命をいただきたいですか?だれもが頂きたいと思います。ローマ人への手紙十章十三節には、

『「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。』

とあります。今日みなさんが永遠のいのちを持つためには、主の御名を呼び求めることです。イエス様があなたのために十字架にかかり、身代わりになってくださり、三日目に死の力を打ち砕き、よみがえってくださいました。その主の御名を呼び求めたら救われるのです。またマルコ十六章十六節には、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』

とあります。信じてバプテスマを受けたら救われるのです。まだバプテスマを受けておられない方、ぜひ一日も早く受けられることをおすすめします。また第一ペテロ三章十八節、

『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』

イエス様が十字架によって生かして下さる。永遠に生かして下さる。永遠の命を得ることができると教えています。そのイエスキリストを信じて、私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、それを実行して行かなくてはなりません。

 そしてもう一つは、さきほど読みましたように『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』ということです。自分を愛することは、よくできていると思います。自分を愛することは悪いことではありませんが、あなたの隣人をあなた自身のように愛して行く。あなたの隣人を愛しなさいと主は言われています。先ほども私が鎖骨を骨折したお話をしましたが、二月の中旬、教会での仕事を終えて自転車で帰る途中、あと百メートルほどで我が家に着くという場所で、自転車が飛び出してきて私の自転車とぶつかってしまいました。事故現場を写真で撮ってきましたので見て頂きたいのですが、

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 私は側溝の上を左側通行していました。この交差点で突然、写真の左側から、右側通行で右に曲がってきました。写真は自転車の高さと同じくらいで撮ったので、おわかり下さると思いますが垣根で全く見えません。みなさんの家の周りでも、こうした場所があると思いますので気をつけて走行していただきたいと思いますが、全く見えない状態で突然中学生の男の子が突っ込んできました。私はブレーキかける事もできずに、ぶつかって転倒し、思い切り転んでいまいました。私はどのように転んだか分かりませんが、ある方が言うには、肩から落ち、ハンドルか前のかごに、肩を強打し鎖骨を骨折したのではないかと言っていました。幸い頭は打つことがなく良かったのですが、今まで経験した事のないような痛みがありました。でも自分で右手を上げてみると上がりました。激痛でしたが右手が上がるので打ち身かもと思っていました。しかし肩が痛いのですぐに病院に行った方がいいと思い、調べたのですがその日が水曜日の夕方でしたので、新城市内の病院は、午後休診でした。豊川市の病院にとも思いましたが、遠くて通院するのに大変と思い、小一時間ベッドで休みました。そして起き上がろうと思ったら、もう激痛でした。肩は落ちてしまうし、痛みがすごくてたまらず、苦しんでいました。その姿を息子が見て「これは絶対にすぐに病院に行った方がいい」言い、三男の息子が就職する前に、M兄の経営している接骨院でバイトをさせていただいたことがありましたので、接骨院さんの所に電話をしてくれました。そこも休診だったんですが、ご無理を言って治療して下さいました。そして肩を触っただけで「あ、鎖骨骨折」と言われました。私は頭が真っ白になりました。一度市内の医院でレントゲンは撮って頂きましたが、その後整形外科に行っても、診療まで長い間待たされるし、レントゲンを撮って「まだくっついていませんね。じゃぁまた何週間後」と言われるだけなので、このまま接骨院で治療して頂こうと思い、今まで、手厚い治療をして頂いています。約一ヶ月半くらい手を吊って固定していました。それは本当に忍耐でした。「鎖骨の一番細いところがきれいに折れている」と先生は言うんですが、何がきれいなのか分からなかったのですが、説明をしていただきました。骨が斜めに折れていれば、接着面が細いながらも大きいのですが、私はきれいにまっすぐに折れているようなのです。ですから接着面が小さく、骨も細い部分なので、慎重に固定していかないとまた折れてしまったりすると「今度は手術だよ」と言われ、慎重に治療して下さっています。一ヶ月半は右手を吊っていましたので、お風呂に入れませんでした。また右手を使えないというのは本当に大変です。私は右利きですので、食事するのにも苦労しました。左手で食べるのですが時間がかかりました。また着替えもできませんでした。全部着替えさせてもらいました。ボタンもなかなか留められなかったり、靴下も履く事ができず、履かせてもらいました。車も運転できません。だから毎日教会に来るとき、帰るとき、送迎してもらいました。また教会からある方の所へ訪問に行こうとか、ある場所に祈りに行こうという時でも助手席に乗ったら、シートベルトをかけることもできませんでした。運転手の方にシートベルトを固定してもらいました。とにかく私は何もできませんでした。また固定していますので、寝返りもできません。寝ているとき動けないため、背中が痛かったりして、あまり眠れませんでした。また全日本リバイバルミッションの働きで和歌山県の教会やタイのチェンマイなどにメールしたり、電話をしたのですが、電話で「○○先生の携帯に電話して下さい。電話番号を言います。」と言われたこともありました。右手が使えず、左で電話を持っていたらメモを取ることさえできませんでした。「ちょっと待ってください」と言ってスピーカーフォンにして、左手にペンを持ち、みみずの這ったような文字で書きました。できないことだらけなのです。今は右手を吊らなくても良いので、シャツに手を通すことができますが、今まだ固定をしています。皆さんにも写真をお見せしたいと思います。今はまず始めに

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 ぱちぱちのサポーターをしております。その上にこれです。

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 こういう鎖骨帯をしています。だから今日は背広にネクタイ姿ですが、分かりやすく言えばランドセルを背負ったままネクタイしているみたいで、首が締め付けられてくるしいです。だからできるだけ首のサイズの大きいワイシャツを着てネクタイをしています。しかし、今まだ無理はできませんが右手を使えるようになったことは、すばらしい事です。今まで家内に助けてもらって、ここまで来ました。明日(四月二九日)は私たち夫婦の三十二年目の結婚記念日ですが、家内には感謝してもし尽くせないほど手伝ってもらいました。感謝しています。鎖骨帯は背中でマジックテープを止めるのですが、自分にはできません。だから家内や息子たちにいつも助けてもらっています。今回自分にはできないので、皆さんの愛が嬉しく、愛のすばらしさを体験しています。しかし少し右手が使えるようになり、苦労していた食事も、着替えも自分でできるようになると、今まで愛を感じ、感謝していたことが、不平不満に変わってしまうのです。「隣人をじぶん自身のように愛しなさい。」と言うみことばは、実行することが難しいと感じています。教会には両足が不自由で松葉杖を使っているT兄がいます。私はよく「松葉杖を捨てておくよ」なんて言うことがあります。もちろんふざけあいながらですが、自分が骨折してみて、ひどいことを言っていたなと思わされました。自分がその身になると分かるんですね。だから、もっと「隣人を自分自身のように愛する」を実行していく事を、しっかり学んで行きたいと思います。

私は毎月一回、第三木曜日に蒲郡市の方で家庭集会を、二十年以上させて頂いています。先日お亡くなりになったS姉のお宅で家庭集会をさせて頂いていますので、とても寂しい思いがあります。S姉は、いつもこんな私のために祈ってくださいました。しかし、今年に入ってあまり調子が良くなく、教会に来ることができず、インターネットで礼拝を守っておられました。家庭集会でも昨年末には座っているのも辛そうにされていました。私はメッセージの途中「お休み頂いてもいいんですよ」と言うと「申し訳ないから」と苦しみながら最後までメッセージを聞かれていました。私が骨折して少し経った三月初め頃、S姉から私の所に電話が有りました。その時は痛みがあり、ほとんど一日中床に伏せておられるような状態だと、お孫さんから聞いていましたので、ビックリしました。そんな状態の中で、私に「鎖骨折られたと聞きましたが大丈夫ですか?」とお見舞いの電話を下さったのです。私は「S姉こそ大丈夫?」と聞き直した程でした。すると姉は「はい。私はいつもイエス様が守って下さっていますから大丈夫です。」と病気の中で苦しんでいる姉妹から励ましの電話をいただきました。辛い状況だったことを知っておりましたので、普通は自分のことで精一杯ではないかと思わされました。そんなとき『隣人を自分自身のように愛せよ』というみことばのごとく、こんな私の骨折のために祈って下さり、お見舞いの電話まで下さり、感謝しかありませんでしたし、私も愛を実行しなくてはいけないと教えられました。今日、私たちは隣人を自分自身のように愛する愛を頂きましょう。有名なみことばですが、使徒の働き二十章三十五節、

『受けるよりも与えるほうが幸いである』

とあります。私たちは受けることばかり願っています。しかしこれからは周りの人に対して愛のことば、愛の実践をしていきたいと思います。与える者にさせて頂きましょう。今まで愛をしなければ行けない時に、気づかずにいたら、気がつくことができるように、実行できるように祈らなくてはいけません。今日は時間がありませんので学ぶことができませんが、第一コリント人への手紙十三章二節~七節

『また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』

またⅠヨハネの手紙四章七節~十二節

『 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』

この二ヶ所は愛について書かれています。このみことばをしっかり受け止め愛を実行するものとなりましょう。教会はイエス様が頭で、各器官が私たち一人一人です。毎週礼拝を行いますが、だいたいお見受けするところ、同じ座席に座って礼拝を受けておられます。今日周りの方々を見渡してみてください。いつも来られている方が来られていない方もおられるかも知れません。今週はその方々のために祈り、愛を実行して下さい。私たちは健康にはすごく気を遣って、健康診断をし、どこかが悪いとか痛みがあるとなったらすぐに薬を飲んだり、病院で診察をしてもらいます。教会もからだです。愛する私たち教会員がご病気であったり、問題を抱えていたり、寂しさを覚えていたりしていたら、本当は気づかなくてはいけません。しかし、私たちは自分だけで精一杯。与えるのではなく受けることばかりなのです。各器官としていたわり合い、他の方が苦しんでいたら愛を持って接しましょう。私たちの体は手の指をちょっと切っただけでも体全体で痛みを担います。キリストのからだですから、痛みを感じることができ、補うことができるように愛を頂きましょう。無関心ではいけません。最後にもう一度ルカの福音書十章二十八節だけをお読みします。

『イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 その通り実行しましょう。実行していのちを得る者となりましょう。愛を持つことで霊的戦いの中で戦う時に勇士になっていくことができます。まず今からこの愛をしっかりと受け取って聖餐をいただきたいと思います。毎週聖餐を行っていますが、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、知性を尽くして、聖餐を頂きましょう。隣人を愛する愛を頂けるように祈りつつ聖餐を頂きましょう。最後にお祈りします。

 愛する天のお父様。私たちはあなたの十字架と復活を体験させて頂きながら、愛を実行することのできない者です。今日心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛して聖餐を頂くことができますように。また隣人を自分自身のように愛する愛を与えて下さい。この聖餐式を祝福してください。御霊によってパンとジュースはイエス様の十字架の血潮とイエス様の打たれた傷であることを宣言します。今日の聖餐式は特別な愛で満たされるときとなりますように。感謝してお祈りします。
アーメン。