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『人とは何者なのでしょう

2013.7.28 (日)
新城教会 牧師 上條実
詩篇8篇3節~4節

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。』


 ハレルヤ!今日みなさんの前でお話ができますことを心から感謝します。お祈りいただき鎖骨を骨折して五ヶ月が過ぎました。だいぶ癒やされ、スムーズに右手が動くようになりました。お祈り下さり感謝いたします。
 本日皆さんにお渡ししました週報にありますように、今週の土曜日にゴスペルクワイヤーのコンサートが豊橋市にてあります。是非みなさんお祈り下さい。礼拝の報告時には具体的なお話しがあると思いますが、チケットを買って下さった方が多くいらっしゃり、当日会場に入りきれるかどうかというほどチケットが出ている状況です。神さまの守りの中で導かれるように祈っていただければと思います。
 感謝なことに、今回のコンサートのためにアメリカより三十五名の方々が何と全員自費で来てくださり、今回のコンサートを助けるためにかけつけて来て下さいます。そして今度の礼拝の時でも特別賛美をしてくださいます。ご期待下さい。

 それでは、みことばを学んでいきましょう。先ほど読んでいただきました詩篇八篇三節と四節から「人とは何者なのでしょう」というタイトルでみ言葉を学んでいきます。ここをリビングバイブルで読むともっと分かりやすい表現がされています。

『夜空を仰いで、神様がお造りになった月や星を眺めると、なぜ、ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にし、目をかけてくださるのか、わからなくなります。』

 特に、『なぜ、ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にしてくださる』とあります。教会のある新城市は夜になるととっても綺麗な星々を見ることができます。この宇宙に星がいくつあるのだろうかと調べてみました。するとあるホームぺージに宇宙には数千億個の銀河があることがあり1つの銀河には数千億個の星があるとされ、宇宙全体の星の数が、「数千億個×数千億個」とありました。自分にはとても理解できないとてつもない数の星々です。よく分かりませんが数千億個×数千億個もの星を作って下さった神が、私という小さな一人に目を留めていてくださるとあります。なんとすごいことでしょう。息が詰まるほどの大きな神の愛を知り、嬉しくなり感動しました。

 二月中旬鎖骨を骨折しましたが、とてもつらい時期を通りました。利き手である右手を固定しましたので、生活に大きな支障がありました。食べること、服を着替えること、車も運転できないなど、また仕事も制限されてしまいました。ある日、ある牧師先生から電話がありました。「すいません電話番号控えてください」と言われても、左手で電話を取っていれば、メモをとる事もできません。そんな中で神様に「なぜこんな状況になってしまったんですか?」と神さまに問い、祈りました。事故というのはそういうものですが、あの時自転車で走るのが、あと一秒遅れていたらたら、ぶつからないので済んだのに、なぜぶつかったんだろうと考えたりしました。私も自転車、相手も自転車でした。相手は中学生の男の子で元気の良い子でした。彼はものすごいスピードで、見えない路地から飛び出して来て、すごい勢いでぶつかられました。私は自転車の前のかごに鞄を入れていたのですが、その鞄が前に吹っ飛んで行きました。そして私も、どのように転んだか分かりませんが、道路に転がってしまいました。相手の中学生の男の子は無傷でした。しかし私は肩が痛くて調べてみたら、鎖骨骨折でした。なぜ自分がこんな事になるんだろうと苦しみました。いつも聖書を読んだり、メッセージを頂く時、主はすばらしい祝福をいただけるとか、いつも主は私たちを守って下さる、と聞いています。また私も家庭集会など様々な集会で語り、守りと祝福を皆様に祈る立場にある者にも関わらず、その自分が大きな怪我をしてしまい、正直落ち込み、苦しみ、悩みました。そんなとき皆様からも励ましの言葉を頂き、特に神さまから慰めと励ましのみことばを頂き、今日まで来ました。
そんな中、詩篇八篇三節~四節を読み、大きな祝福と慰めを頂き、このことばを私のみことばの剣として受け取りました。天地を創造された主が、

『夜空を仰いで、神様がお造りになった月や星を眺めると、なぜ、ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にし、目をかけてくださるのか、わからなくなります。』

見捨てられたのではない。いつも私の相手をしてくださり、目をとめていて下さる。必ず良きに変えて下さる。祝福を頂くことができるとこのみことばで語って下さいました。本当に慰めと力を与えて下さったみことばを与えて下さいました。

 今は、少しずつ肩が直ってきています。すると今度は、忙しく働き、いろんな事をやらなければいけないというプレッシャーというかストレスを感じます。また心を騒がしてしまいます。私たちの心の中は、不安、悲しみ、問題で、しばしば心を騒がしています。
 みなさんの中に、今日全く不安などなく「今日は最高日。何の心配もない。病気もない。全てが満たされて祝福されている。もう何も言うことない」と言うことのできる方いらっしゃいますか?大勢の方がそのような祝福を頂いているかも知れませんが、現実はなかなかそううまく行きません。心配だらけ、苦しみ、プレッシャーなどに満たされてみことばとは、ほど遠い状態かも知れません。またある時は、落ち込んでしまい、苦しくてクリスチャンになったことを悔やむことがあるかも知れません。
 またある方が「教会に来ていらっしゃる方々はみんな元気そうに見える。何も問題なさそうに見えるし、健康そうだし・・・・」と言われました。しかし、礼拝の後皆さんのために、ともにお祈りさせていただくと、みんな必死で生きています。みんなが病気と戦っていたり、問題を抱えて苦しみながらがんばっています。なぜ天地を造って下さった神、全能の神がいるにも関わらず、またその神が私のような一人に目を留めてくださる、手をかけてくださるとありながら、なぜ自分を含めみんな苦しみ、様々な問題に出会いながら生活して行くのだろう?なぜみことば通りの生活、祝福を頂くことができないのだろうかと、今回、神の前に祈り、静まりました。
 その時神さまから教えられたみことばがありました。それは

『聖くなければ神を見ることはできない』

ということみことばでした。私たちは、イエス様からのすばらしい祝福をいただくためには、聖くなければいけません。みなさん何のために今日礼拝に集っていますか?それはイエス・キリストが私たち一人ひとりのために十字架にかかり、葬られ、罪の身代わりとなって、裁きを受けて下さり、三日目に死の力を打ち砕いて甦って下さいました。それが福音です。その福音を信じたからこそ今日礼拝に集まっています。神の様々な奇跡の中で、もっともすばらしい奇跡と言える「罪のゆるし」を私たちは経験したのです。バプテスマを受けられた方が「罪が赦された」喜び、私たちの罪の為に、身代わりとなって、赦された事により溢れるばかりの喜びで満ちあふれて、自然までもがキラキラと輝いて見えると言われる方もいるほどです。神の救いは罪の赦しから始まります。だから罪から聖められること、聖さを持ち続けていくことが祝福を頂くための絶対条件です。しかし私たちは、罪に対して妥協してしまっています。悪魔の誘惑、悪魔に騙されて、罪のハードルをどんどんどんどん低くしてしまい、聖さを軽んじてしまいます。クリスチャンであっても姦淫したり、汚い映像、画像などを見て欲求を満たしたり、酒も「酔ってはならない」と書いてあるから酔わなければいいではないか、と聖書を都合のいいように解釈し、汚れた生活に逆戻りしているクリスチャンが多くいます。私たちの教会は感謝な事に、ほぼ毎週聖餐式を行なっています。この聖餐式はただ儀式ではありません。私たちは罪を持ち続け、イエスキリストを信じることをしなかったならば、裁きの場所に行かなければなりませんでした。しかし、イエス・キリストが罪のために、私が犯してしまった罪、取り返しの付かない罪のために、身代わりに滅びの場所に行ってくださり苦しみを受けてくださいました。そして死の力を破り三日目によみがえってくださったのです。ですから今日ハッキリと罪から離れ、犯してしまった罪は悔い改めになりません。「悔い、改める」です。「もうやりたくない。」と思うことは「悔いる」ことです。ただ悔いるだけでなく「改める」ことをしなくてはいけません。もう一度聖書が最も大切な事として語っている聖書箇所をお読みします。第一コリント人への手紙十五章三節~四節

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、』

 今日このみことばを信じましょう。信じたらあなたは救われるのです。そして今度は詩篇五十一篇七節を読んでみたいと思います。

『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』

 汚れきった私たちが、聖書の示す福音。イエス・キリストの十字架を信じた時、全ての罪が全部赦され雪よりも白い心にしてくださるとあります。またエレミヤ書31章34節の後半には

『・・・・・・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』

と書いてあります。罪をもう思い出すこともないと書かれています。こんなすばらしい祝福を下さり、天のみ国に入れて下さるという最高の祝福を、大きな犠牲の中で与えて下さったにも関わらず、私たちは赦された罪をまた犯してしまうのです。まだ裁かれないから、また悔い改めれば良い。まだイエス様は帰ってこられない。まだ自分は死ぬはずもないと、軽く考えています。今日知って下さい。天と星々を造り、すべて支配してくださっている主が、今、私たち一人ひとりに目を留めてくださっています。
 その主に、今日はもう一度、罪の悔い改めをしっかりして、聖くさせていただきたいと思います。「聖い者は神を見ることができる」とあります。

 また、私がもう一つ教えられたのは、みことばの剣、聖書の言葉を悪魔は疑わせます。権威をなくそうとします。礼拝など集会に出る時はみことばには力がある。と信じることができます。みことばの剣を握るのです。しかし、現実の世界、毎日の生活に戻ると、みことばの剣は権威を失ってしまうのです。今日私たちに語って下さった聖書六十六巻は、神のことばです。その神はどんな方ですか。全地を造られ、救い主であり、勝利者である唯一の神です。聖書はみことばの剣、権威あることばだと言うことは信じています。
 このみことばをクリスチャンが常に握りしめ、みなさんの職場、また家庭、また問題のある場所、苦しい所、悲しい所などで悪魔、悪霊と戦い、信仰もって宣言し始めると大勝利が与えられます。神との交わり時間の時は、信仰のスイッチがオンに入ります。しかし毎日の生活になると信仰がオフになってしまいます。ぜひ今日知って下さい。ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にし、目をかけてくださる神はインマヌエル。いつも共にいて下さいます。あなたを心配し、助け、祝福で満たそうと今もあなたと共にいます。ルカの福音書十章十九節、これはとても有名なみことばです。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 私たちがよく宣言するみことばです。礼拝時だけのみことばではありません。一番大変な状況のなかで大胆に宣言して下さい。必ず神の時が来ます。現状がどうであろうとも、このみことばの剣を絶対に離さないで、宣言して下さい。また、コロサイ人への手紙二章十四節~十五節には、

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 とあります。債務証書を無効にして下さる。また神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられましたと語って下さっています。悪魔は私たちに攻めてきます。「おまえには罪があるじゃないか」などと言ってきます。しかし、もう私たちは神の子であり、ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にし、目をかけてくださるのです。問題や悲しみの現場や、家庭、など、現状はどんな状況でも、神の時に必ず成就するということがあることを信じましょう。私たちは問題を今すぐに解決して欲しい、解放して欲しいと願います。しかし、主は私たち一人一人、ちっぽけで取るに足りない人間に目をかけてくださいます。天地、宇宙、星までもすべて支配された神は、あなたという一人にも目を留めて、一番良い時に勝利して下さいます。そして神は私たちを申命記十四章二節でこのように見てくださっています。

『あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。』

とあります。苦しんでいても、悩んでいても、病気であっても、どんな状況の中にあっても、神はあなたを宝としてくださっています。あなたを一番大切な一人として見ていて下さいます。このみことばをリビングバイブルで読むと、

『あなたがたは特別な国民なのです。 神様が地上のどの国民よりも、あなたがたをご自分のものとしてお選びになったからです。』

 あなたを愛しておられる神様にとって、日本も特別な国、神様にとっての宝物です。すべての人よりも勝るほど、あなたを、日本を愛して、宝物としてくださっています。また、詩篇四篇三節、


『知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。』

 私たちは特別な存在です。特別とは他との間に、はっきりした区別があること。他と、はっきり区別して扱うこと。特別扱い、他とは違う扱いをする、という意味です。このみことばを常に握りしめ、職場、家庭、問題のある場所、苦しい所、悲しい所で悪魔と戦い、信仰もって宣言し始めると大勝利が与えられます。そして祈った祈りは必ず答えられるとあります。あなたは特別ですよと主は今日も語って下さいます。またヨハネの福音書一章十二節、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 私たちが信じただけで、私たちは神の子どもとなるのです。自分の子どもには責任があります。神はあなたを神の子どもとして下さいます。

 新城教会で今年の四月から六名の方が天に帰られ、葬儀をさせて頂きました。四月十日にS姉が亡くなりました。そして四月十六日にはH姉が亡くなりました。そして、四月二十四日にはW姉。五月二日にI姉。そして五月二十七日にO姉。そして六月十五日にはB姉が亡くなりました。クリスチャンの葬儀はすばらしいと思います。坊さんが袈裟を着て、病室にお見舞いに行ったらどうでしょうか。「いや、まだ来るのは早いよ!」と言われ、縁起でもないと言われます。しかしクリスチャンは病室に出かけて愛を持って見舞い、また励ますことができます。そして祈ってあげることができます。また葬儀では悲しみは当然あります。しかし、また会うことができる。再会できるという信仰を与えられていることは、すばらしいと思います。
 少しお分かちさせていただきたいのですが、この六人の中でO姉妹ですが、この方は豊橋市の方でした。この姉は長い間闘病生活をされていました。心臓が悪かったので、血管のカテーテルやバイパス手術をしたりして、大変苦労された方でした。しかし、そんなO姉でしたが水曜礼拝にはよく来ておられました。ご自分で一生懸命運転し、車を会堂の前に停車して、そこで二、三十分休んで、そして気力が出たところで杖をついて水曜礼拝に出席されていました。心臓のバイパス手術をされた後、お電話でお話しました時に、脇の所に小さなグリグリしたものがあるんだと明るくお話しして下さいました。私は一度医師に相談して下さいとお伝えしましたが、結局それはリンパの癌でした。私は病院に出かけてお祈りに行きましょうか?と何度もお伝えしたのですが、彼女は「自分が病院で苦しんで寝ている姿を見られたくない」と言われ、「見舞いには来なくてもいいです。教会でお祈り下さい」と言われていました。ですから私もずっと祈らせて頂きました。五月二十七日にお亡くなりになったのですが、その前々日の二十五日土曜日に「会いたい」と言っていると、ご家族の方からお電話を頂き、病院に出向きました。病状はほんの少し伺ってはいましたが、意識があまりない、「意識レベル三」という事でした。レベル三というのは、名前や生年月日を聞いても、問いかけに答えることのできない状況で、ある意味昏睡状態でした。そんな中で、私は「尾崎姉分かる?」とお話しすると、その日は一日目をつむっていたのですが、かすかに目を開けてくれ、「分かる?」と言ったら、ニコッと笑いうなずいてくれました。そして聖書を読みお祈りをさせて頂きました。最後にその息子さんに、「お母さんの好きな曲は何かご存じですか?」と聞きました。その方はまだクリスチャンじゃないので知らないと思いましたけど、息子さんがすぐに「元気を出して」と答えたのです。私は「『勇気を出して』と言う歌ですか?」と聞くと、「そうです」と言ってくださいました。ですから『勇気を出して』を耳元で歌ってあげました。すると尾崎姉は本当に喜んで下さいました。息子さんから手術に向かう時、「勇気を出して~♪」と歌ったり、「元気を出して~♪」と替え歌を歌いながら、「主が共にいる」と言い、いつも手術や病に立ち向かっていたそうです。その訪問であまり先が長くないと思いましたので、次の日も訪問させて頂きました。夕方六時くらいに訪問させて頂きました。息子さんは「今日はずっと寝てばっかりなんですよ」と言っていましたが、「尾崎さん」と問いかけましたら、昨日よりもしっかり目を開いてくださいました。「分かる?」と聞くとうなずいて下さり、よく分かってくれました。それだけでもう息子さんは涙して「本当に何も意識がなかったのに・・・」と喜んでくださっていました。私は「聖書を読みますよ」と言ってヨハネの福音書十四章一節~三節。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

 このみことばは天国について書かれています。尾崎姉に心を騒がせなくても良いと言う事をお話しし、主が天の御国で準備ができたら迎えに来て下さると言うことをお話しし、声が出なくて良いので、後についてお祈りして下さいと言ってお祈りさせて頂きました。「イエス様あなたを私の神さまとして受け入れます。」と、ともに祈ることができました。その時も尾崎姉は輝いて、にこにこしてうなずいておられました。その後「今日も勇気を出して歌うよ」と、私が病室で「勇気を出して」を歌いました。歌い出したら、もっと目を大きく広げて、そして細くなった手でしたが、手拍子をし始めました。彼女は声は出ませんでしたが、口では確かに勇気を出してを歌っておられました。その十二時間後の朝の六時頃に、天に召されました。私は、最後一緒に賛美した「勇気を出して」という賛美に手拍子は、「自分が天国に行ける。救われていて良かった。イエス様、救ってくださってありがとうございます」と、神様を誉めたたえる拍手だと感じました。

 あなたはもいつか必ず死を迎えます。あなたが今日、命がなくなったとしても、イエス・キリストを信じる信仰によって天国に行けるという確信がありますか?ローマ人への手紙八章三十五節~三十九節、

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 私たちは患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣などによって悪魔は信仰から離そうとして来ます。しかしすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるとあります。そして私たちは主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないとみことばは語っています。そして申命記三十一章六節、

『強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』

ともあります。ひとりぼっちではありません。主ご自身が、あなたとともに進んで下さる。そして主はあなたを見放さず、あなたを見捨てないと語って下さっています。そして、詩篇五十五篇二十二節、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

とあります。いろんな問題があり、病気があり、苦しみがあり、いろんな患難や、迫害、飢え、裸、危険、剣、などで私たちを攻めて来ます。そんな中でも、今日主は、あなたの重荷を主にゆだねなさいとあります。主はあなたのことを心配してくださり、決して正しい者がゆるがされるようにはなさらないとあります。しかし私たちは、問題に振り回されて、主にゆだねることを忘れてしまいます。私も鎖骨を骨折した時、痛くてたまりませんでした。また何もできなくて落ち込んだりしました。しかし主は助けて下さいました。また主は慰めて下さいました。私を助け、宝物にして下さるのです。今日皆さんにご紹介させて頂いたみことば以外にも、もっとすばらしい励ましを与えて下さっています。
 聖書のみことばをそのまま信じて下さい。イエスキリストを信じてください。あなたを愛して、あなたのために十字架にかかってくださった主があなたの主です。そして今日その主を賛美し、礼拝しているのです。今から聖餐式を行います。この聖餐式を軽く考えないでください。あなたを救うために、あなたのために命を差し出して下さり、身代わりとなって下さったのです。今日しっかりと罪を悔い改め、聖書にあるみことばの剣をしっかり握ぎって、宣言したいと願います。現状がどうあろうと宣言する時、みことばは成就し、驚くばかりの恵みを頂くことができるのです。お祈りしましょう。

 愛する天のお父さま。ありがとうございます。神のひとり子であるイエスさまによって、私を宝物だと言って下さっていることを感謝します。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛すると、語って下さっていることを感謝します。今日、もう一度、イエス・キリストを自分の神様として信じます。受け入れます。私の心の中にお入り下さい。イエスさま、あなたは私の主であることを信じます。私にはいろいろな問題、病い、苦しみがあります。しかし、主よ。あなたはこの問題も、病も、最高の祝福で解決下さる事を信じます。みことばを神のことばとして信じ受け入れます。聖書すべてをみことばの剣として、悪魔悪霊に対して高らかに宣言します。主よ、私はあきらめないで、あなただけに目を留めていきます。あなたが勝利して下さる事を感謝します。今から聖餐をいただきます。あなたの十字架は私のためであることを心から感謝し、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。