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『あなたのみことばは、私の足のともしび、
私の道の光です。

2013.10.27 (日)
リバイバル聖書神学校 校長 山崎ランサム和彦
詩篇119篇105節

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日、こうして、この新城教会の日曜日の礼拝でご一緒に、神様の御言葉から学んでいく機会を与えていただいたことを本当に感謝しています。

私は十五年ほど前、アメリカのコロラド州に仕事で一人旅をしたことがありました。その時デンバーという大きな町まで飛行機で行って、そこからレンタカーで一四〇㎞くらい離れたコロラド・スプリングスという町まで一人で行かなければならないことになったのです。デンバーの飛行場に着いた時にすでに夕方で、レンタカーを借りて出発した時にはもう辺りはすっかり暗くなっていました。アメリカは何でも大きいです。レンタカーのカウンターで車のサイズは大・中・小どれにしますかと訊かれたので、「中」と答えて、出てきた車を見たら、日本の感覚では「大」くらいの大きさのスポーツカーでした。道路も巨大で、空間の感覚が日本とは全く違います。出口などの標識が出ても、日本と同じくらいの感覚で出口が見えてくるのを期待していてもなかなか出てこなくて、道を間違えたかと思っているとようやく出口が見えてきたりしました。
一番困ったのは、町と町を結ぶハイウェイは日本の高速道路のような街灯はなく、周りは全くの砂漠地帯で人家もないので、真っ暗闇の中を走らなければならなかったことです。光と言えば車のヘッドライトしか頼りにならないのですが、他の車もそれほど走ってはいません。見えるのは自分の車のライトで照らし出される、すぐ前方の道路だけで、後は全く暗闇の中を走っていかなければなりませんでした。カーナビもなく、アメリカの道路を一人で運転するのは初めてでしたし、コロラドに行ったのも全く初めてでしたので、大変心細い中で、ひたすら主に祈りながら運転していったことを覚えています。その時に思い出したのがこの聖句でした。『あなたのみことばは、私の足のともしび、 私の道の光です。』

詩篇一一九篇は詩篇の中、そして全聖書中でも最も長い章で、一七六節もあります。この詩篇のテーマは「みことば」です。この詩篇のオープニングはこうなっています。

(詩篇一一九篇一-二節)『幸いなことよ。 全き道を行く人々、 主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。 主のさとしを守り、 心を尽くして主を尋ね求める人々。』

ここで「みおしえ」と訳されているのはトーラーというヘブル語です。これは普通「律法」と訳されますが、単なる法律や規則ではなくて、神様がご自分の民イスラエルに与えられた「教え」、ご自分に仕える人々がこのように生きていって欲しいという神様の「御心」を表しています。詩篇一一九篇の中では、主の「教え」「ことば」「戒め」「さとし」「おきて」と言った言葉が何度も繰り返し出てきますが、それは皆互いに関連した内容を表していて、主の教え、みことばに従って歩む人生がいかに幸いなものであるかを歌っています。その中でも、今日お読みした一〇五節はもっとも有名なものの一つではないでしょうか。ここで詩人は神様のみことばを、夜道を歩く時のともしび、ランプに喩えています。
人生は暗い夜道を歩くようなものだ、というイメージは、時代を超えて共感することができるものではないかと思います。「人生一寸先は闇」という表現がありますが、まさに私たちは明日何が起こるか分からない人生を生きています。暗闇では道に迷うこともありますし、思わぬ障害物につまずくこともあります。
この夏インドネシアのジャカルタで開かれた会議に出席してきたのですが、一日の会議が終わって会場から宿泊先のホテルまで歩く夜道の途中に、人が立っていて何か指示を出していました。何かと思って近づいていくと、なんと歩道の真ん中に幅二mくらいの大きな穴が空いて、そこに歩行者が落ちないように注意してくれていたのでした。そこは薄暗いところで、知らずに歩いていたら穴に落ちて大けがをしたかも知れません。夜道にはどんな危険が潜んでいるか分かりません。そんな恐れと不安を抱きながら人生を歩んでいる人も多いのではないでしょうか。
しかし、聖書はそのような人生の夜道を照らしてくれる光がある、と言います。私たちの人生に行くべき方向を示してくださるものがある。それが神様のみことばです。これは神様の御心と言い換えても良いでしょう。神様の御心に従って歩んでいけば、かならず祝福された人生を歩むことができる。これは私たちクリスチャンが皆同意することができることではないかと思います。
もちろんこれは、神様の御心に従っていれば何の問題も起きない、ということではありません。この詩篇の中でも、一〇五節の少し後を読んでいくと、一〇七節には「私はひどく悩んでいます」とあり、一〇九節では「私は、いつもいのちがけでいなければなりません。」、一一〇節では「悪者は私に対してわなを設けました。」とあります。神様を信じる者に悩みやトラブルはつきものです。けれども、みことばに従って歩むなら、そのような困難も乗り越えていくことができるのです。
では、そんな時に私たちの足下を照らしてくれる「みことば」とは、具体的に何を表しているのでしょうか?さらに詳しく見ていきましょう。
まず第一には、これは書かれた聖書の言葉を表しています。日々聖書をよく学ぶこと、そこに書かれている内容を心に蓄えていくこと、そしてそれを実行することは、神様の御心に従って歩む一番の基本です。ただし、「聖書のみことばに導かれて歩む」というのは、誤解される危険があります。
こんな人たちがいます。一日の始めに「主よ、今日のみことばを与えてください」と祈って、でたらめに聖書を開き、最初に目にとまった箇所を読んで、それが自分に対する今日のみ言葉だ、というふうに、まるでおみくじを引くような感覚で聖書を読む人たちです。これを「聖書占い」といいます。しかし「みことばによって歩む」というのはこういうことではありません。たとえば、そのようにして「示された」のが次のような箇所だったらどうでしょうか。

(エレミヤ書九章四節)『おのおの互いに警戒せよ。 どの兄弟も信用するな。 どの兄弟も人を押しのけ、 どの友も中傷して歩き回るからだ。』

もしこんな聖句が日曜日の朝に目に飛び込んできたら、皆さんはどうしますか?「これが今日のみ言葉だから、今日は教会でどんな兄弟姉妹も信用しないようにしよう」という人がいたとしたら、これは愚かなことですよね。聖書の言葉はすべて、前後の文脈の中で初めて正しい意味を理解することができるのです。私たちは断片的な聖句を自分勝手に用いるのではなく、聖書全体から私たちの信仰生活の進むべき方向性を知っていくことが大切です。
神様は、人生の分かれ道で右に行くか左に行くか、そのつどカーナビのように「前方二〇〇m、信号を右方向です。」と教えてくださるとは限りません。カーナビが普及する前、知らない場所へ運転していくのは一苦労でした。私たちは地図を頼りに、また自分の方向感覚や交通ルールの知識に基づいて「目的地はこの方角だから、この道が正しいのではないか。でもあそこは一方通行だから入っていってはいけない。一本先の道を曲がろう」と自分の頭で判断して運転をしていました。けれども、最近は何でも機械がやってくれるので、自分で考えて運転するということが少なくなってきているような気がします。神様の導きを求める時も、カーナビ感覚でいてはいけないと思います。神様は私たちが具体的な状況でどちらの道を選ぶ方が正しく、また神様の栄光を表すことになるのかを自分で判断できるような原則を与えてくださるのです。
このような聖書的生き方の原則を聖書では「知恵」と呼んでいます。箴言などはそのような知恵を集めた書ですし、詩篇でも一篇や今日の一一九篇などは知恵を扱った詩篇です。この知恵によって、私たちは進むべき方向を知ることができます。では、具体的にはどのようにしてそのことができるのでしょうか?大きく二つのポイントがあります。
一つは、何が良いことで何が悪いことなのか、善悪の道徳的な判断基準を聖書から学ぶことです。

(ローマ人への手紙一二章二節)『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

ここでパウロは「神のみこころ」とはすなわち「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」ということだと言っています。神様の御心を知るとは、今具体的にどういう選択をすべきかを知るというよりは、何が神様に喜ばれる正しい生き方なのかをわきまえ、その原則(知恵)に基づいて賢明な判断を下せるようになる、ということです。
信仰生活の進むべき「方向性」を知るもう一つの方法は、歴史の中で表されている神様の救いのご計画の中で、自分たちが今どのような位置にあるのかを知ることです。私たちが聖書から知恵を学ぶというのは、「これをせよ、あれをするな」という善悪の規則を学ぶというだけではありません。聖書は単なる道徳の教科書ではなく、神様の物語です。神様が天地を造られ人類を創造されましたが、人類は罪を犯して神様から離れてしまいました。その人類を救うために、神様はまずイスラエル民族を起こし、その後救い主イエス・キリストを送ってくださいました。イエス様の十字架と復活、その後の聖霊の注ぎを通して、教会が生まれ、私たちは今、世の終わりにイエス様が再び来られて神の国を完成する時が来ることを待ち望みつつ、この世界で福音を宣べ伝え、神の国を拡大する務めが与えられています。これが聖書の基本的なストーリーラインです。このような神様の壮大な救いの物語の中に私たちも参加させていただいていることを知り、ではそのような存在として私たちはどう歩むべきか?を聖書から学び実行していくことも、「聖書に従って歩む」ということなのです。少しわかりにくいかもしれませんので、一つの例を挙げてみます。

(ローマ人への手紙八章一八節)『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』

聖書の物語の筋書きによると、やがて将来イエス様がこの地上に再臨され、神の国を完成し、すべてを支配するようになる時が来ます。その時私たちは新しい復活の肉体をいただいて、主とともに永遠に生きるようになります。このことが分かっていれば、つまり神様の物語の中で次はどういう展開になるかということが分かっているならば、私たちは今直面している苦しみや問題にも心くじけることなく、希望を持って歩んでいくことができるのです。これもみことばの光によって生きることです。
このように「みことば」とは書かれた聖書のことばを表しています。この聖書に従って歩んでいく時、私たちは主に信頼して生きることができるのです。
けれども、わたしたちが「みことばに従って歩む」と言う時、もう一つの意味を考えることができます。私たちが旧約聖書を読む時にはいつも、新約聖書の光の下で、イエス・キリストというレンズを通して読んでいかなければなりません。詩篇一一九篇一〇五節に出てくる「みことば」は旧約聖書のギリシア語訳では「ロゴス」と訳されています。そして新約聖書ではイエス様のことも「ロゴス」と呼ばれるのです。

(ヨハネの福音書一章一節)『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

つまり、新約聖書のレンズを通して詩篇のみことばを読むと、私たちの日々の歩みを照らしてくださる神様の「みことば(ロゴス)」とは、イエス様ご自身を指していると考えることができます。旧約時代には神様の人間に対する御心は旧約聖書すなわち律法によって表されました。でも新約時代には神様の御心はイエス様を通して、そしてイエス様が天に帰られた後は、信じる者に与えられる聖霊を通して表されるのです。もちろん、先ほど申し上げたように、書かれた聖書を学ぶことも重要ですが、それと同時に私たちはイエス様というお方の模範にならい、イエス様の霊である聖霊の導きに従って生きていかなければなりません。
「イエス様にならう」とは、一言で言うと「愛の生き方をする」ということです。

(マルコの福音書一二章二八‐三一節)『律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」』

イエス様ご自身が、神のみことばである律法の中で一番大切な戒めは神と人への愛に生きることだ、と言われました。「みことばの光によって歩む」とは、何よりも愛に生きることです。
これは実際難しいことで、自分の力でしようとすると挫折してしまいます。けれども、私たちに与えられている聖霊の力によって、そのことをしていくことができると聖書は言います。このことは実は旧約聖書で預言されていました。

(エレミヤ書三一章三一‐三三節)見よ。その日が来る。‐主の御告げ‐その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。‐主の御告げ‐ 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。‐主の御告げ‐わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

(エゼキエル書一一章一九‐二〇節)わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

旧約時代のイスラエル民族は神様からのみことばである律法を与えられていたので、何が神様の御心かを知っていました。しかし彼らの問題は、御心を知っているにもかかわらず、それを実行できないことでした。この問題を解決してくださったのがイエス様です。イエス様はその地上でのご生涯において、父なる神様の御心を完全におこなう人生を生きてくださっただけでなく、十字架において新しい契約を与えてくださり、また聖霊という形でご自身の霊を信じる者の心に与えてくださったのです。つまり、クリスチャンは自分の心に神様の御言葉が直接与えられ、これに従って歩んでいくことができるのです。パウロはそれを「キリストの律法を全う」する、と呼んでいます(ガラテヤ人への手紙六章二節)。「キリストの律法」とは、クリスチャンになったら守らなければならない新たな規則の集まりではなく、御霊の導きに従ってその場その場でどのように行動することが神の御心にかなうことなのかを判断していくことを言います。
どうしたらそのような判断ができるのでしょうか?一つの方法は「御霊の実」を実らせることです。

(ガラテヤ人への手紙五章二二‐二三節)『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

ここに書かれているのは新しい規則ではなくて、聖霊を受けたクリスチャンがはぐくんでいく人格、品性、霊性のことを言っています。植物が時間をかけて実を実らせるように、私たちが御霊のいのちを受けてこれらの霊性をはぐくんでいくならば、私たちは日々の信仰の歩みにおいて正しい判断をしていくことが徐々にできるようになっていきます。これが「みことば」であるイエス様の御霊に従って歩むということなのです。
ここまでをまとめてみましょう。私たちクリスチャンが「書かれた聖書の教え」と、「イエス・キリストと聖霊の導き」に従って歩んでいくとき、神様のみことばは人生の夜道においても足許を照らしてくださるのです。

さて、最初にお話ししたアメリカでのドライブを思い出していただきたいと思います。現代日本では「真っ暗な夜道」というのはもうあまり残っていないかも知れないので、「あなたのみことばは、私の足のともしび、 私の道の光です。」という表現を聞いても、私たちは何キロも先まで煌々と照らされている高速道路のイメージしか持てないかも知れません。けれども、詩篇の作者がイメージしているのは、そういう光景ではなく、まさに真っ暗な砂漠を車のヘッドライトだけを頼りに運転しているような情景であると思います。
昔の人々は夜出歩く時、特に旅をしている時には、街灯などに頼ることはできず、基本的には暗闇の中を歩いていかなければなりませんでした。そこでともしびを手に持って歩いていくのですが、それは小さな陶器の壺に油を満たして芯を入れた物で、「足のともしび」とあるように、基本的には自分の足もとを照らす事しかできませんでした。そのようなランプは自分がこれから歩く道を何キロにもわたって照らし出すことはできません。しかし、たとえ小さな明かりでも、ともしびがしっかりと燃え続けていれば、つまずくことなく、落とし穴や障害物をよけながら一歩一歩安全に進んでいくことができるのです。
同じように神様のみことばも、将来の歩みを何年先まで「こう進めばよい」と教えてくれるようなものではありません。神様の導きはいつも一歩一歩与えられるものです。今与えられている状況の中で、次の一歩をどう踏み出せばよいか導いてくださるのです。私たちのすべきことは、これから老後までの人生設計のすべてを主から求めていくことではなく、今この状況の中にあって次に進むための導きを求めていくことです。
みことばの光は、道を照らすだけではありません。それはまた、私達自身を照らしてくれます。これからどう進むかと同時に大切なのは、私たち自身が主にあって聖く、神様に喜ばれる歩みをしているかどうか、聖霊によってチェックしていただく必要があります。私たちはこれからどう生きるかを考えることも大事ですが、今現在神様に喜ばれる生き方をしているか、も考えていかなければなりません。

私のこれまでの歩みを振り返ってみると、人生の各時点において、何年も先の自分の働きが見通せていたことは一度もありませんでした。不思議な導きで大学時代にクリスチャンになり、献身し、結婚に導かれ、家族が与えられ、留学し、帰国して今の神学校で教えるという働きに導かれました。それぞれの過程において、その時には明日のこと、来年のことしか見えていないような状況でしたが、今振り返ってみるとそこには神様の御手があり、ご計画があったことを思わずにいられません。このように、その時その時に神様を愛し神様に従って生きていく時に、ふと振り返ってみると分かるのが神様の「御心」だと思います。これが御言葉の光によって導かれていくということではないでしょうか。
ですから、私たちがみことばに導かれて歩むとは、「細かい宗教的規則や律法に縛られて歩む」ことでも「その日その日になす具体的な直接啓示によって生きる」ということでも、また「今後数十年の人生のための細かい計画書をいただく」ということでもなく、イエス様を模範とし、聖霊様に私たちの人格を作りかえていただいて、聖書的知恵を持って毎日を生きていくことです。
そのようにしていく時に、主は私たちを助けてくださいます。詩篇一一九篇は最後には助けを求める叫びで終わっています。

(詩篇一一九篇一七六節)『私は、滅びる羊のように、迷い出ました。 どうかあなたのしもべを捜し求めてください。 私はあなたの仰せを忘れません。』

私たちがみことばを追い求めていく時、逆に主ご自身が私たちを捜し求めてくださるのです。私たちがみことばを愛し、イエス様を愛して歩んでいく時、たとえ道を間違えるようなことがあっても、恐れることはありません。生きておられる主ご自身が私たちを捜し出し、正しい道に導いてくださいます。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、 私の道の光です。』今週も神様のみことばに導かれて、一歩一歩主とともに歩んでいきましょう。