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『2014 カウントダウン・ワーシップ』

2013.12.31 (火)
岡本信弘 牧師
公畑フェルナンド 副牧師
上條実 牧師
滝元明 牧師
四元雅也 副牧師
滝元開 副牧師

P1050448.JPG<岡本信弘 牧師>

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美をします。こうして皆さんのお祈りに支えられて、二〇一三年の最後の日、この場所に健康で立つことができ、共に賛美し、新しい年を迎えられることを心から感謝します。

 来年に向けて私に与えられたみ言葉は、テモテ人への手紙第一の六章十九節です。

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

 年をとると一年が早く過ぎると言われますが、この一年は、私にとって本当に早く過ぎたような気がします。それだけ年を取ったのかなと思います。
 先日、高校時代の何人かの友人と一緒に食事をしました。その時にいろんな話をしましたが、「あと何年で定年になる」とか、女性の人は「子育ても終わって、何もやる気が起こらない」といった話題が多く、そんなことが話の中心になってしまうような年齢になってしまったのかと、びっくりしました。

 皆さんには、夢がありますか? 現代の若者の多くは、大きなビジョンを持つ、野望を持つといった夢を追うことからはかけ離れ、いかに安定した生活を送ることができるか、というのがいちばんの望みだと言われているそうです。さみしい気がしますね。しかし、私たちクリスチャンは違うと思います。エレミヤ書 二十九章十一節には、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

とあります。このみ言葉のように、私たちクリスチャンには、将来に希望があり、祝福があることを信じています。ここにいる皆さんにも、これからこの地上での生活が何年あるか分かりませんが、大きなビジョンをいだき、夢を見て、主に期待していただきたいと思います。

 今の日本の状況を見ますと、本当に大丈夫かなと思います。アベノミクスといわれ、経済成長してボーナスが増えたと喜んでいる人も多くいます。しかし、私たちクリスチャンにとって、これから、どんな時代に進んでいくかと考えると、すごく不安になります。「強い日本を取り戻す」といわれますが、それはある意味、霊的には後退を意味し、もっと戦いが激しくなるのではないかと心配があります。

 そのような状況で、新しい年に向けて、神様が私に語られた言葉は、「未来に備えよ」という言葉でした。
皆さんは、未来という言葉を聞いて、どのくらい先のことを考えますか? 明日から始まる二〇一四年も未来ですが、私たちクリスチャンにとって未来は、これから永遠に続きます。

 皆さんは、来年の目標を決めましたか? そして再来年はどうしますか? もちろん、来年、イエス様が帰って来たら再来年はありません。たとえ来年が祝福された年であっても、それで完結するわけでもありません。一年一年、ずっとこれからも続いていくわけです。
 私たち一人ひとりは、すでに永遠のいのちを手にしているわけです。しかし、このまま無駄に人生を終わらせてもよい、というわけではありません。そのことは、皆さんがいちばんよく知っているかと思います。
今年、多くの方々が天に召されていきましたが、その方々は、この地上での役目を終えて、天に凱旋していったわけです。私たちがこの地上に残されているということは、一人ひとりに神様の使命が残されているのです。
 二〇一三年が過ぎようとしています。もうすぐ新しい年を迎えるのですが、単に二〇一四の一年間だけでなく、もっと先の未来を見据え、どのように働かせていただくかがすごく重要であると思わされています。誰も時間を巻き戻すことはできませんから、後悔のないようにしなければと思います。

 私は野球やサッカーが好きで、テレビで試合を見たりします。活躍している選手たちの姿を見て、すごいなぁと思います。最近では、「楽天の田中マーくんが、二十四連勝して大リーグに行く。最低でも、一年で十八億円以上の年俸をもらえる。いや〜、十八億円って…」などと思ったりするわけです。多くのプロ野球選手がいても、檜舞台に出られるというのは、ほんの一握りの人たちです。彼らはその舞台に上るまでに、毎日、繰り返し基礎練習を積み、気の遠くなるような血のにじむ努力をしています。その基礎練習で身につけたことを、本番でいかに発揮できるかが重要です。そして、私たちはその結果を見ているわけですけれども、私たちクリスチャン人生も、ある意味では同じだと思います。
 今、日本で礼拝に集っている人数は、二、三十万人といわれていますが、それは、日本においては一握りといえます。しかしそれは、私たちの努力ではなく、神様の選びであり、恵みです。まず、そのことを自覚していただきたいのです。ピリピ人への手紙三章十六節には、

『それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』

というみ言葉があります。選ばれたことは、一方的な神様からの恵みですが、そのあとは、私たち自身に責任があります。誰かと比較して優劣をつけたりすることは、むなしいことです。クリスチャンは、自分自身がしっかりとした基礎の上に、与えられている賜物を磨き、信仰を積み上げ、主の戦いのために備える必要があります。
 幼い子どもたちから年配の方々に至るまで、今生かされている皆さん一人ひとりは、神様から必要とされ、使命があるのです。皆さんは、イエス様のために何かをしたいと願っておられると思います。しかし、考えているだけで何もしなければ、神様の役に立つことはできません。

 旧約聖書を読むと、多くの信仰者の姿が描かれています。そして、その歩みは決して平坦な道ではなく、壮絶な人生であったことがわかります。創世記では、アブラハムから始まり、イサク、ヤコブ、ヨセフといった偉大な信仰者たちの人生を見ることができます。
アブラハムは、七十五歳で父から離れ、九十九歳でイサクを授かり、神様の命令に従って、最愛の息子を主に献げようとしたことから、のちに「信仰の父」と呼ばれました。彼は、天幕生活をしながら、数々の試練の中でも神様の召しに忠実に従い、遠い未来にある素晴らしい神の計画を実現させるために、信仰を持って進んでいったのです。

 もう一人、ヨセフことを見てみましょう。彼の人生は、波瀾万丈でした。十二人兄弟の十一番目に生まれ、お兄さんからのけ者にされ、エジプトに奴隷として売られました。とても、幸せとは言えない状況でした。その後も、いろいろな試練に会いましたが、彼はどんな時にも神様を見上げ、神様に従っていました。その結果、ついにはエジプトの総理大臣になり、お父さんや兄弟を含む自分の民族を救い出すために用いられたことが描かれています。誰がこんなストーリーを考えたのでしょう。もちろん、神のご計画です。皆さん一人ひとりにも神の計画があるのです。
 また、聖書には『肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。』(テモテ人への手紙第一 四章八節)と書かれています。
健康維持のために、食事に気をつけたり運動して、体調管理をしていくことはもちろん必要です。しかし、ヨセフのように、主を恐れ、どこまでもへりくだってイエス様に従う敬虔さを持つこと、これがクリスチャンにとってはもっと大切なことであると教えています。

 あの甲子園ミッションの集会から、すでに二十年以上が経ちました。「もう二十何年も過ぎのだなぁ」と思います。私もこの働きにかかわってきたわけですが、「あの頃は若かったから、無茶もできたなぁ」と懐かしく思うと同時に、だんだんと無理が利かなくなって年を取ったなあとも思います。
 しかし一方で、あの時にはできなかったけれど、今になってできるようになったことも沢山あります。また、当時まだ生まれてなかった子どもたちが、幼かった子どもたちが、今は立派な大人になっていることを思うとき、時代は移り変わっていることを痛感させられます。そして、これからは、若者たちが新城教会を、これからのリバイバルを担う者となっていくのだなぁと思わされます。
そんな世代交代が進んでいく中でも、神様が私に託してくださっていると信じている一つのことがあります。それは、数年前から思わされていたことですが、近い将来、主のために、この新城教会の未来のために、老人ホーム、デイサービス、レストランを作ることです。そのために祈ってきましたが、二〇一四年、プレイズ出版の新事業として、具体的に進んでいこうとしています。近いうちに皆さんにもご報告したいと思っていますが、一昨日の礼拝メッセージで順先生が、この世の富を神様のために勝ち取ることは、大きな霊的戦いだと語られたことを受け、確かにそうだなと思わされ、あらためて祈らされています。

 プレイズ出版の働きをさせていただいて、二十二年が経ちました。事業をしていると、世の中に不正があること、また、いろいろな人が金に振り回されて失敗した例を見ることも少なくありません。そんな世にあっても、クリスチャン企業としてどこまでもへりくだり、この世と調子を合わせることなく主に従い、主のために経済を勝ち取る企業になりたいと願っています。

 皆さんにも、主の栄光を現すために、一人ひとりに与えられている賜物を使って、恐れないで新しいビジョンに挑戦していただきたいと思っています。
コリント人への手紙第一 一章十節にはこんなみ言葉があります。

『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 確かに新しいことをする時には、不安もあり、成功するという保証はどこにもありません。そして、明日のことは誰にも分かりません。しかし、どんな絶体絶命のような状況にあっても、何度も死線を越えたパウロがコリントの人々に語っているように、あなたを必ず助け出し祝福してくださるまことの神様がおられるということを忘れてはなりません。明日を知っておられる神様により頼んでいきましょう。

 今私は、私自身の人生をどのように祝福されたものにするかではなく、二〇一四年を通して、さらに未来において、この教会に、また一人ひとりに、どうやったら主からのすばらしい恵みと祝福が現されるのか、そして、そのためには何をすべきか、ということを祈っています。
 皆さんも、未来のためにこの一年をどのように過ごしていくか考えてみていただきたいと思います。「私にはそんなに大きな夢もビジョンもない」と思われているかもしれません。しかし、先ほど言ったように、私たちが今生かされているということは、神様からの使命が必ずあるのです。ですから、私たちが喜んで主に従い、どんな小さなことでも神様のために行動していくなら、主が導き、助けを与えてくださいます。
例えば、今まで家族のために祈ってきたけれど何も変わらないと思っておられる方は、祈り求めていくと同時に、もっと家族とコミュニケーションを取ったり、家庭で賛美をしてみたりと、一歩を踏み出してみてください。きっと、新しい展開が現されていくことでしょう。
 また、み言葉を蓄えること、できる奉仕をしていくことなども、クリスチャンの基礎を積み上げていくためには重要です。その先に、結果として、主の大いなる業が現されると信じています。

 二〇一四年だけでなく、五年後、十年後、二十年後を見据えた祝福のために、共に祈り合い、よき備えをしていきたいと願います。
ハレルヤ!

P1050474.JPG<公畑フェルナンド 副牧師>

 ハレルヤ!この二〇一三年、みなさんの祈りのおかげで、自分のため、夫婦のため、インターナショナルミニストリーのため、いろんな面のため、本当に大きな祝福をいただき、心から感謝します。

 この二〇一四年に対して私が与えられたみ言葉は、ヨハネの福音書一章四十七節~五十一節です。

『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

 兄弟姉妹、よくこの御言葉を聞いてください。さらに大きなことをあなた方は見ます。五十一節、『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。』
 天が開くとはどういう意味でしょう?ナタナエルは、イエス様の言葉によると、本当のイスラエル人でした。本当のイスラエル人ならば、「天が開く」という意味を知っていました。
そのイスラエル人の起源である、アブラハム、イサク、ヤコブは天が開かれ恩恵に預かりました。

 例えば、イスラエル、別名ヤコブは天を開いていただきました。ご存知かもしれませんが、彼の人生には多くの戦いがあり、それは母親のおなかにいた時からはじまりました。長子の権利をめぐって自分の兄と争ったのです。言い換えれば、どちらが早く生まれるかでしたが、彼はその戦いに敗れました。また青年になった時、兄エサウの長子の権利を買いました。そして最後に父親が年老いた時、目が不自由な父親が、エサウに家長の祝福をしようとしていたとき、その祝福を欲しがり、エサウに変装しました。
 その結果、彼は離れた土地に行くことになり、自分の親族の中で不名誉とされました。お金もなく逃げました。そして、親戚である、会ったことのない叔父であるアラムにいたラバンを探しに行きました。
 しかしその日の夜、眠っている間に夢を見ました。天が開いて、神の使いたちがはしごを上ったり下ったりしているのを見ました。そして上から神の声を聞きました。神の彼に対する約束を語るのを聞いたのです。
 彼は目覚めたとき驚いてこう言いました。「これこそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」と。そして神に誓願を立てて言いました。「私の行くこの旅路で私を守ってくださり、私が無事に父の家に帰ることができれば、主が私の神となってくださるので、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を私は必ずあなたにささげます」と。その時からヤコブに天が開かれ、彼はその中に歩みました。
 ヤコブにとって天が開かれているとは、「新しい機会」という意味でした。アラムにつくと通りの家畜を連れた群衆の中で人に、ナホルの子ラバンについて尋ねると、その人は、「もちろん知っているよ。その人の娘が来ているよ」と答えました。それは神の導きを意味しました。知らない町に来て出会った最初の人に、自分の叔父の事を聞き、知っていると言われ、娘まで来ているとはまさに神の導きであり、そこに神の導きを見ることができます。
 ラケルは彼が親族であることが分かると、父ラバンのところに走って行き、ヤコブの事を告げました。ラバンは彼を迎え入れ、彼を抱き、祝宴をもうけ、ラバンは一ヶ月の間、ヤコブをかわいい我が子のように受け入れました。それは「愛顧」というものです。ヤコブは自分の家では父の愛顧は受けませんでしたし、父のお気に入りでもありませんでした。しかしラバンの家では愛顧と好意を受けました。それから一ヶ月後にラバンは「ただで働かなくていいから報酬を言いなさい」とヤコブに尋ねました。それは仕事を意味しました。よい就職先が与えられたのです。逃げてやってきた男が、叔父の家で歓迎され、また仕事も与えられたのです。
 また、神は彼に妻を与え、子どもも与えました。十二人の子をヤコブに与えたのです。その後、神は六年の間、彼の家を繁栄させ、彼は東方で一番裕福な人になりました。
 ラバンの家を出た時、ラバンはヤコブを殺そうとしたのですが、神がラバンの夢に現れて「あなたはヤコブと事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われました。これは神の守りです。
 そして創世記三十二章では神の使いたちが旅を続けるヤコブに現れたと書いてあります。ヤコブは御使いたちに驚いて「ここは神の陣営だ」と言いました。また彼は神と顔と顔とを合わせて格闘したとあります。彼はそこをペヌエルと呼びました。また彼の兄が、その後、四百人のものを引き連れて彼を殺しに来た時もまた、神は彼を守りました。
 ヤコブにとって、天が開くとは、どう意味だったでしょうか。それは、神の導き、供給、雇用、家族、子供、富、神の守り、行く手を導く御使い、すべてにある神の祝福を意味しました。

 兄弟たち、今日神様が私たちに命じていることを知っていただきたいと思います。神様は今私たちに、二〇一四年は教会の全ての人に天が開かれる時が来ると語っておられます。

 では私たちにとって天が開かれるとは、どういうことなのでしょうか?それは聖霊がこの場所にもっと力強く下ってくるということです。福音書はイエス様が洗礼をお受けになった時、天が開けて聖霊が下られたと語っています。
 そして、神様は、私たちすべてにも聖霊を下すと言われています。それはヨエル書で預言されていることです。これは福音です。あなたの家族の心が変えられます。以前はイエス様のことを否定していたとしても、今からはイエス様に熱心になります!

 天が開かれるとは、天に破れ目ができるということです。ヤコブは立ちあがって言いました。「この場所は何と恐れ多いことだろう。ここは天の門だ」と。
 教会に来る人々はこう言うでしょう。「ここに神様がいる、ここで神様を感じる」と。あなたの家に行く人々はこう言うでしょう。「あなたの家は違う。平安がある。ここから帰りたくない」と。ここに神の臨在を感じます。自由を感じます。そして、神の祝福を感じるのです。

 私たちの多くは今いる場所がどういった場所なのかよく分かっていません。外国から来る多くの、ここを訪れる牧師たちは、いつも口をそろえてこう言います。「ここ新城は霊的な雰囲気が平和だ。とても大きな自由がある。日本の他の町とは大きく異なっている」と言います。なぜでしょう?それは天に破れ目があるからです!新城は神のものであり、神の町です。神はご自分の目をここに注いでおられます。そして、偉大な事を行おうとしておられます。しかしそのためには、あなたが忠実でなければなりません。神を信じ、神に絶対的に誠実でなくてはなりません。そして、神様をあなたの人生の基礎に据えなくてはなりません。

 今日、私たちは天が開くときに入ります。おそらく多くの方は天が閉じた状態で生きてこられたかもしれません。神は私の祈りを聞かれないとか、私は夢に挫折したとか、目標にはいつも届かないとか、計画していたように物事が行かないとか、そのように言っていたかもしれません。天が閉じているとは、空腹、崩壊、閉じた扉、欠乏、神の沈黙を意味します。

 しかし2014年からは祝福の雨になります!神は天を開き、あなたのために天の破れ目を作ってくれます。そして、豊かさ、恩恵、神の導き、愛顧、供給、守りが与えられ、そして神を見ます。そして、御使いたちがあなたのために働くのを見ることができます。

 最後に、私がこのメッセージを作って祈っていた時、神は私にこう言われました。あなたがたの中の幾人かは、今晩からその人生に天が開かれると。ですからで、イエス様の名前によって、このみ言葉を受け取ってください。以上です。

P1050503.JPG<上條実 牧師>

 ハレルヤ!いつも私と家族のためにお祈り頂きまして感謝いたします。二〇一三年を振り返りますと、色々な事がありましたが、すべてを感謝し、すべての栄光を私たちの救い主、イエスキリストにお返しいたします。

 私は召天式の担当をさせて頂いております。二〇一二年は、五名の方々が亡くなられました。しかし今年はなんと十二名の方々の召天式をさせて頂きました。

また、二月中旬には、自転車に乗っていて、自転車と衝突し、鎖骨の一番細いところを骨折してしまいました。二ヶ月ほど右手を固定をしました。とても忍耐の時でした。しかし皆さんにお祈り頂き今は癒されたことを感謝いたします。

 八月には和歌山市において、和歌山リバイバルミッションがありました。色々なところで決起大会やトラクト配布などをしましたが、はたしてどれぐらいの方々が集うか心配でした。しかし主が多くの方を集めてくださり、大変祝福された集会を持つことができました。先日平岡修治先生から電話がかかって来ました。「明日、和歌山県の牧師会があり、そこで和歌山リバイバルミッションの感謝会をする事になっている」と聞きました。感謝な事に和歌山リバイバルミッションで救われた方々が何名かいると伺いました。本当に感謝いたします。

 また、今月の十四日(土)に子どもクリスマス会を行いました。一週間前の時点で、十名くらいの子どもたちに、どれだけのお友達を誘ったかと聞くと、あわせて三十名弱でした。大丈夫かなと少し不安でしたが、子どもたちの真剣な祈りに答えて下さり、三百名以上の子どもたちが来て下さり、楽しい時と同時に、大きな声で真剣に主を求めて、イエスキリストを救い主として信じますと、告白して祈ることができました。その他、様々な出来事がありましたが、主は勝利と祝福を表して下さいました。

 二〇一三年、私が与えられたみことばが、サムエルの箇所でした。主が三度「サムエル」と呼ばれたにも関わらず、サムエルは誰から呼ばれたのか分からず、隣の部屋にいた主人エリの所に出かけて「お呼びになりましたか?」問いました。しかしそれが神からの言葉だとわかり「主よ、お語りください。私はここにおります」と答え、主の声を聞いたというところが与えられ、いつも神の声を聞くことができるようにと祈ってきました。今回も、特に二〇一四年を迎えるにあたって、私とこの新城教会に語って下さるみことばは何でしょうかと祈りました。するとイザヤ書四十四章二十四節~二十八節が与えられました。

『あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。』

 特に二十六節のみ言葉、
『わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。』

 このみことばが与えられました。そのみことばから「成就」ということばを下さいました。「成就」とは、「物事を成し遂げることと、また願いが叶うこと」という意味です。私は「成就」ということばを頂きとても感謝しました。二〇一四年は成就の年です。イザヤ書四十四章二十八節に、

『わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。』

とあります。成就とともに「わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げてくださる」そして「神殿の基が据えられ、再建される」と書かれてありました。砕かれた日本、暗闇の日本を「再建してくださる」という約束のことばを頂きました。

 私たちが今まで祈った祈りは、どこかに消えてしまったのではありません。家族の救い、日本のリバイバル、病の癒やし、問題解決など毎日祈って来ました。賛美したり、霊的戦いの祈りを様々なところでささげました。しかしこれら全ては答えられず、未だに忍耐を持って祈り続けている状態です。しかし絶対に無駄ではなく、今年は、時が満ち「成就」してくださるのだというみ言葉を頂きました。

 また十一月の中旬頃に、ルカの福音書二十二章八節~十三節のみ言葉が与えられました。

『イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。』

ここにイエスキリストは、ペテロとヨハネに「過ぎ越しの祭りを準備しなさい」と言いました。準備しなければ、「物事を成し遂げることと、また願いが叶うこと」というみ言葉が成就しない。あなたは祈っている事柄に対して、「準備しなさい」と言われた気がしました。今まで祈ってきたことは「準備する時」「成就」する。答えられると言うのです。

 何を準備しなければいけないでしょうか?それはまず「聖さ」を身に付けなくてはいけないと言うことです。聖さがなければ「成就」しません。

 そして霊的戦いのために準備しなくては行けません。武具と武器、そして何のサタンの策略のために祈るべきかを準備しなくてはいけません。

 また、信仰がなければ受け取ることができません。また霊肉魂が健康でなければ「成就」する事はありません。準備をする時、この年は成就してくださり、再建して下さるのです。

 マタイの福音書二十五章の中に、花婿を出迎える十人の娘の例えが書かれています。十人の娘の中で、五人は賢い娘で油を用意していました。しかし後の五人は油を用意していませんでした。花婿がなかなか来ませんでした。彼女らはうとうとしていた時「花婿が来た!」という声を聞いたのです。その時油を準備していた娘は花婿を迎えることができました。しかし準備していなかった五人の娘は「分けて欲しい」と準備していた娘たちに頼んだのですが、分けてもらえず買いに行き、帰って来た時には、

『しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』(マタイの福音書二十五章十二節)

 と言われてしまったのです。私たちも、準備を怠り、その結果「私はあなたがたを知りません」と言われないように、しっかり準備する者とならなくてはいけません。準備しましょう!

 今リバイバルが起きたら、私たちはそのリバイバルを受け取ることができるでしょうか?今礼拝は三百名以上の方が集っています。もし千人くらいの人が一度に来会されたらどうでしょうか?対応できるでしょうか?

 また、病気の人が大勢来られ、祈って欲しいと言われた時に、対応できでしょうか?祈りの力、油そそぎがありません。「準備しなさい」と言われるように、更に祈り、油そそぎを求め、主からの力を頂きましょう。先ほどフェルナンド先生がすばらしいみ言葉を語って下さいましたが、「天を開いてください。」「聖霊様の力によってしるしや奇跡を起こして下さい。」と祈り、求め、期待しましょう。地境を大きく広げ、私たちが祈って来たこと、愛して行動してきたことは絶対に無駄ではありません。

『見たことも聞いたことも思い浮かんだことのないもの、今、主が備えてくださるものは皆そうである』

すばらしい業が「成就」する年であることを期待しましょう。「再建される」年であることを信じましょう。そして神殿、教会の基が据えられる年であることを信じましょう。期待しましょう。その為に今準備しましょう。準備しましょう。
 この新城教会は今まで分裂が起き、苦しみ、痛んできました。しかし再建してくださいます。主に期待し、準備していきましょう。

P1050531.JPG<滝元明 牧師>

 ハレルヤ!私は今年で八十五歳になりますが、まだくたばらないで生きていることを感謝しております。新しい年も、くたばらないように祈っていてください。
 今日まで来れたことは、皆さんの祈り、イエス様の恵みしかないと思います。いつもクリスマスになると、クリスマスカードを出すのですが、全日本リバイバルミッションに献金してくださる方とか、私のために祈ってくださったり、年賀状をくださった方に出すわけですが、今年は千百枚出しました。ですから、五十円切手だけでもかなりかかりますが、祈ってくださって、今日まであることを思い、とても感謝しています。これからも、みなさん覚えて祈ってください。
 私の父親は、七十五歳で亡くなりました。それから、一番上の兄は八十四歳で亡くなりました。私は八十五歳になるまで、こうして働くことができるのは、神様の恵みしかないと思います。

 私たちの願いは、日本が救われることです。聖霊様が働いてくださって、皇室にも救いが入り、救われるように覚えて祈ってください。
 今年は、ロンさんと一緒に、五十五日くらい日本中を回りました。感謝なことに、この間も、仙台で十月に集会をしたのですが、内藤先生という、この教会から出た方から手紙をもらいました。「あの集会の後、夫婦が来て、今信仰を持って、バプテスマの用意をしています。」聞くとうれしいですね。ですから、みなさん、これは私に与えられた一つの使命だと思います。ですから覚えて祈ってください。

 私は残念に思うことですが、先ほども上條牧師から話されましたが、今年十一名の葬式があったと言います。天国に行ったことはうれしいけれど、実際はやはり寂しいですね。シオンタイムに来ていた、白井兄弟姉妹が天国に行っちゃったとか、服部姉妹が天国に行ったとか、やはり寂しい思いがします。
 でも、考えてみると、岡本姉妹で、召される前に「私、もう天国に行きたいよ」と言いました。服部和子さんも、五月にこの前に出て、「みなさん、お世話になりました。私はもうイエス様の所に行きたいですわ」と挨拶していました。
 しかし、私と家内は、天国に行きたいという気持ちはありません。願いは、なんとしても日本のリバイバルを見て、栄光を見せていただいてから、天国に行きたいと考えています。リバイバルを見るまでは、もちろん、それは神の主権の中にあるけれど、死にたくはないという考えを持っています。みなさん覚えて祈ってください。

 今年、与えられているみ言葉というか、私なりのことですが、詩篇二十三篇六節、

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 ここに、「いのちの日の限り」とあります。「いのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」やはり、このみ言葉は老人にとっては励ましになります。いのちの日の限り、いつくたばるか分からないけれど、とにかく生きている間、聖書を見ると、『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。』
 八十五歳まで生きることができた。私の家内は九十歳ですが、ここまで恵みをくださったことは、すばらしいです。イエス様に心を込めて従ったことによって、今日まで生かしていただき、しかも、私のいのちの日の限りというから、「生きている限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」という約束です。すばらしいことですね。
 今週の礼拝でも話されましたが、まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、すべてのものは与えられるということは結局、神の国と神の義を認め、イエス様を信じたら、恵みが後から追って来る。ついて来るということですから、私も、この地上にある限り、このみ言葉を心から信じています。みなさんも信じてください。新しい年も、必ず、いつくしみと恵みが、みなさんを追って来ます。

 そこで私もいろいろと聖書を調べてみました。文語体の聖書の訳し方は『わが世よにあらん限かぎりは、かならず恩惠(めぐみ)と憐憫(あはれみ)とわれにそひきたらん』
 こういう訳し方になっています。『わが世にあらん限りは』とあります。今、みなさん、死なないでこの世にあります。『わが世にあらん限り』というのは、生きている間ということです。『かならず恩惠(めぐみ)と憐憫(あはれみ)とわれにそひきたらん。』
 イエス様を本当に心を込めて、幼子のように信じ従ったら、最後まで恵みがあなたと一緒にそいきたる。一緒についてきますよという訳し方をしています。

 現代訳にはこういう風に訳されています。『生きている限り、主の恵みと慈しみは、私の上にあり続けます。』
 現代訳は、尾山令仁先生が訳した聖書です。「生きている限り。」死んだのではありません。『生きている限り、主の恵みと慈しみは、私の上にあり続けます。』
 私は集会中によく冗談めいてこう言うことがあります。「もう私も召されると思います。私の考えではあと三十年くらいかと思います」と。こんな風に冗談を言うのですが、尾山先生から私の所に手紙が来ました。あの方は私よりも年上ですが、「今度、自分の子どもに主任牧師を任せて、今、厚木という所に開拓伝道に出た。これから二、三十年はがんばろうと思う。」と書いてありました。まるっきり同じことを言っている!やはり、希望があるじゃないですか。あの方も、毎日水泳をしているそうです。私も朝起きたら、ストレッチとか、ラジオ体操とかやっていますが、「二、三十年は開拓伝道でがんばろうと思います。」
 みなさんもね、年取ったからもうだめだではなく、年寄りには年寄りの使命がありますね。

 それから、新共同訳の訳し方はこう書いてあります。『命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。』命のある限り、死ぬ日まで、天に行くまで、恵みと慈しみは私を追ってくる。すばらしいことですね。ですから、みなさん、信仰ということは、やはり、神の言葉をつかむことで、イエス様を信じたらいつくしみが私を追ってきます。来年もそんな年になるということを考えたら、すばらしいことですね。

 それから、このみ言葉を見ると、口語訳聖書ではこう書いてあります。『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。』
 来年という年は、とにかく真実で、本気でまじめに信じたら、生きているかぎり、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう、と書いてあります。

 それから、イザヤ書のみ言葉を読みました。このみ言葉が私は好きです。イザヤ書四十六章四節、

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

 私も白髪になりましたが、『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。』若い時と同じようにする。『あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。』
 なんとすばらしい言葉じゃないでしょうか。『わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』こういうことが書いてあります。

 とにかく、日本のリバイバルのために働きたいと思っていますし、また、私もロンさんと一緒に働きたいと思っていますが、また覚えてみなさん祈ってください。私にも夢があります。
 今年も、今、計画していることで、祈ってもらいたいことは、四月十日から二十日まで、韓国で十日間のミニストリーをやってくださいということになっていますから、ロンさんとティム・ケプラーさんと一緒に、韓国で集会をすることになっています。

 私はよく夢をみます。頭の中の夢ですが、「どうしてもしたい」ということは、この近辺の街々が救われるように願っています。ですから私は、私の願いですよ。成就するかは分かりませんが。イエス様が開いてくださることを願っていますが、もう一回、生まれ故郷、津具で、ロンさんを連れて行って集会をしたいなと思います。そしてまた、豊根でもやってみたい、作手でもやってみたいという考えを持っています。
 ということは、私たちの責任とは、とにかく、『み言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても』とありますが、死ぬ日までなんとしてでも福音を伝えることが、クリスチャンの使命ですから、新城の周辺の人たちが救われるように、こういうことが成就するように、みなさん、祈っておいてください。

 先日葬式があり、会場がこの教会ではなく、ここから出た教会、桜淵にある教会でした。今その教会の名前は、「新城福音教会」と言います。そこからまた分かれた、「第一教会」も作っています。すでに二十年くらいになりますが、その教会には一度も行ったことはありません。出て行った人たちを許し、祝福してはいるけれど、あまり彼らと会ったことはないです。だけど葬式だから行かなきゃいかんので、上條牧師と奥さんと、望の奥さんも、「私も行く」ということで、一緒に行きました。

 だいたい五十人くらいが集まっていました。私も心配して行きました。どんな顔をしているか…。しかし行ってみたら、びっくりしました。「案外きれいな会堂だ。神様が準備してくださったな。愛していてくださるな」と思いました。
 私が行くと、出て行った人たちが、すごく喜んでくれました。心の中は分かりませんが、すごく喜んでくれました。一人一人とよく話をしました。
 一人の兄弟は、二十年ぶりに会いましたが、「僕ね、先生のこと忘れたことないだよ。」『僕も忘れたことないよ。』やっぱりここで生まれた子どもたちですから、いろんな人たち、ここにおった人たちです。
 「あの兄弟どこに行ったかな。いないな」と見たら、ずいぶん年を取って分からなかったりしました。すごく喜んで迎えてくれました。それでいろいろとゆっくり話して来ました。
 その時、私は思いました。「あぁ、良かった。」本当に顔と顔を合わせて、許してはいるけど、もう一度和解ができた。非常に心の中に平安が来ました。その時、この新城に対して、ある意味において、祈ってきたけれども、実際的に私が二十年ぶりにそこに初めて行って、和解ができたことで、神様が新城に大きな天の窓を開いてくださるだろうと、そう確信しました。
 そうして聖書を読んだ時に、一つのみ言葉を読みました。イザヤ書四十九章十八節〜二十節、

『目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。‐‐主の御告げ‐‐あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい』と。』

 このみ言葉です。特に『必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになる』
 私にとって、一番悲しいことは何かというと、一九九三年に甲子園で集会をした時に、教団の方針で霊的戦いに反対したり、向こうに教会を作ってみんなを引き出したと思いますが、一番悲しいことは、新城の街に対して信用を失ったことです。
 それまでは、新城の人たちが大勢救われて来たのに、新城の人たちが救われなくなりました。それから今、ぽつぽつ救われてきていますが、教会に分裂があるということは、新城の街において、ある意味において、門が閉じたことだと思います。
 しかし、二十年経って今、許し合ったことで、もう一度新城の町にも廃墟が建て直され、リバイバルが来るのです。

 『いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。』これは誰かと言ったら、サタンの業ですけれども、霊的戦いによって全て追い出し、『あなたが子を失って後に生まれた子らが』ということは、失ったあの人たちではなくて、次の世代を背負っているクリスチャンの子どもたちが、『再びあなたの耳に言おう。「この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい」と。』
 みなさん、この教会が、狭すぎるという時が来ると信じています。この間、韓国の春川の先生が来ました。一人の先生が私を捕まえて、「先生。新城教会、小さすぎます。大きくしなさい」と言って来ました。「私も信じとるよ」と言いましたが、これから新しく建て直されて、この教会が「許した。祝福した」ということが、ある意味において、大きな祝福になると信じています。
 これからもお互いに許し合い、愛し合って、前進してまいりましょう。ということで、私の話は以上です。どうも、ありがとうございました。

P1050557.JPG<四元雅也 副牧師>

ハレルヤ。今年の最後にこの場所にもう一度立つことができて感謝します。二〇一三年とういう年は、僕にとってはクリスチャンになって三〇周年、献身してからは二〇周年という、節目の年でした。救われてからの人生のほうがそれ以前よりも長くなりました。新城で生まれ育って、新城教会で救われ、三〇年間お世話になったことを考えると、新城教会の中しか知らない男になったなあとしみじみ感じます。そんな中、皆さんと一緒に信仰生活が守られてここまで来ることができて感謝しているところです。
私はこうして副牧師をさせていただいておりますが、新城教会の中での私の役目は、皆さんにお仕えして主の恵みを「与える」というより、私のほうから皆さんに教会の運営にかかわる奉仕を「お願いする」ことのほうが多いのかなと思います。この一年もそういう意味で、皆さんに大変お世話になり、高いところからですが感謝いたします。

私が二〇一四の年ために主から受け取ったみことばをお分かちします。第Ⅱ列王記一九章二九~三一節のみことばです。

『あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。』

 これは十二月の初めに心に響いてきて、私が二〇一四年のために受け取ったみことばです。

 旧約聖書時代のイスラエルが南北に分裂していた時、BC七二一年に、北イスラエルが、アッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダが残されました。そこに、再びアッシリアの軍勢が攻め込んできて、南ユダが滅亡の窮地に立たされた、そんな中で、主が語られたことばです。

 アッシリヤは、相手に恐怖を植え付ける戦術をもってユダに侵攻してきました。それは、首都であったエルサレムを残して周りにある街々をまず蹂躙しました。一説によると四六の街々を打ち破ったといわれています。その中の一つの町では、なんと十五万人が虐殺されたのではないかと考えられています。
 ユダの民は散り散りになって山地や、荒野や、ただ一つ残された町であったエルサレムに逃げ込み、アッシリアの大軍はエルサレムを包囲しました。アッシリアの王セナケリブは、戦うことなく国を奪い取らんともくろみ、彼は、使者ラブ・シャケを遣わして、エルサレムの城壁の前に立ち、降伏を呼びかけ、ユダの民全体を恐怖に陥れました。
 その時、ラブ・シャケは、大声を張り上げてイスラエルの神をののしりました。「ユダよ。お前たちが仕えている唯一の神とはいったい何者だ。お前たちの神は、今まで私が倒した国々の神のように、決してお前たちを私の手から救うことなどできない。」と。そして、ユダの民が、天地を作られた神への信頼を捨て、降伏してアッシリアに仕えるようにそそのかしました。
 しかし、ユダの王ヒゼキヤと民は、そのような誘い掛けに応じることなく、主に信頼し、主に救いを叫び続けました。主は、ヒゼキヤの祈りを聞き入れ、預言者イザヤを通して勝利を約束されました。そして、約束の通りに主はユダを救われ、アッシリアの大軍は神様が送られた天の軍勢によって打倒され、アッシリア軍は一晩のうちに十八万五千人打ち殺されてしまいました。アッシリアの王は恥じ入ってエルサレムから立ち去り、撤退していきました。
 その後、王はニネベの町で偶像の宮に入って礼拝していた時に、彼の息子たちによって殺されてしまったと聖書に書かれています。

主が約束通りにユダに大勝利をもたらされたのです。ここで三〇節に「下に根を張り、上に実を結ぶ」と約束されたみ言葉が、二〇一四年のために受け取ったみ言葉です。

 下に根を張ることは、木が生きていくために、最も重要な要素です。根を張ることで初めて「実を結ぶ」ことも可能となります。揺り動かされず、引き抜かれないためにも根が強く張っていることが大切です。また、根を張ることで他の植物との生存競争にも勝つことができますし、地上の枝や幹が折れるようなことがあっても、根が生きていることでまた生える。ほかの植物が枯れてしますような干ばつの中でも生きることができます。養分をより多く吸収してより大きく成長し、時が来ると、より多くの実が結ばれるのです。

 私たちも信仰者としてまず、「下に根を張る」ということを神様が願っておられると思います。
 外敵に対して揺り動かされることのない、外からの要因に対して揺り動くことのない信仰を持つことができる。また、信仰の歩みが生き生きとしてくることができる、ということだと思います。それを、二〇一四年、神様が私たちに約束してくださっているのだと信じます。

 キリストに根を張るのに必要なことは、まず「祈り」が大切だと思います。「下に根を張り、上に実を結ぶ。」ということばは、ヒゼキヤ王の必死の祈りへの答えとして与えられたことばでした。この年の終わりにも、新しい年のはじめにも、「キリストに根を張り、御霊の実を結ばせてください。」と祈り、霊的な成長を求め続けていきたく思います。

 キリストに根を張り、御霊の実を結ぶのに必要な第二のことは、「神のことばに聞くこと」です。
 ヒゼキヤの祈りへの答えが、預言者イザヤを通しての神のことばによってもたらされたように、私たちも、祈りに対する答えを、神のことばである聖書の中に見つけるのです。

 根が地上からは見えない深い土の中にあるように、私たちも、より深い主との交わり、祈りとみことばを求めていきたいと思います。

 三つ目にキリストに根を張り、御霊の実を結ぶために必要なことは、「神の熱心」です。
 神が、エルサレムとユダの国を救ってくださったのは、確かに、ヒゼキヤをはじめとして、ユダの国の信仰深い人々の祈りの結果でした。しかし、それ以上に「主の熱心」が、このような大きな救いのみわざをもたらしたのです。ヒゼキヤの祈りや信仰がユダの国を救ったのではなく、最終的には、神が、神のあわれみや力が、ユダを救ったのです。
 神の民が「下に根を張り、上に実を結ぶ」ようになるのは、彼らの力によってではなく、神の力によってなのです。ですから、「万軍の主の熱心がこれをする。」(三二~三三節)と付け加えられたのです。
 私たちの祈り、努力は、決して空しいものではありません。それは、私たちがキリストに根を張り、御霊の実を結ぶために必要なものです。神はそれを用いてくださいます。しかし、それを成し遂げさせてくださるのは、「神の熱心」です。神の熱心によって、私たちも熱心に主を求めます。

 新城教会のこれまでの歩みの中にも、神様がいろいろな恵みを与えてくださいましたが、それは、神様がこの教会を愛してくださっていることによって成されてきているのだと思います。二〇一四年も神様の熱心によって導かれることを信じて行きたいと思います。

 また、ここⅡ列王記十九章では、「のがれた者」「残りの者」という表現があります。この戦いでは、エルサレム以外のほとんどの町が戦火に遭い、破壊されてしまいました。エルサレムでもユダヤ人たちは城壁の中に隠れ、周りにある畑が踏み荒らされるなどして被害を受け、また、民は命の危険にさらされました。「生き残った」ユダの民は、山の中、荒野、エルサレムの城壁の中に逃げ込んで、難を「逃れた」のです。その民に対して約束されたことばが、今日のテキストです。Ⅱ列王記十九章二九~三一節

『あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。』

 この時、確かにユダはアッシリアによって大打撃を受けました。農地は踏み荒らされ、家畜も追い散らされ略奪されたりしました。しかし、神様は三年のうちに元の状態に戻されると、期間を示して回復を約束されました。
 しっかりとした収穫は今年はできないかもしれない。二年目も同じような状況かもしれない。しかし、三年後には元のように種をまき、実をならせ収穫することができるようになると。生き残った者、逃れたものから神様は回復の恵みを表してくださるというのです。

 今年のはじめ、二〇一三年の新年二四時間連鎖賛美で、平岡修治先生がこんなお話をされていました。
 世界のリバイバルの歴史を見るときに、一つの法則を見ることができます。それは、神様はリバイバルを起こされるときに、決して力のある大きなグループを通してはなさらない。むしろ、小さな力のない者を用いられる。ということです。
 今年の夏にはアメリカから竹内先生が来られてこんな話をされました。先生は謙遜にもご自分のことを「残りかすのような」者だと話されました。こんな「残りかす」みたいな自分をも、神様は用いて下さる、と。
 十二月のはじめに来られた韓国のイ・ビョンチョル先生も、イエス様は天に帰られたときに、私たちのために働きを「残された」。その働きからリバイバルのわざが起こされたとお話しされました。
 聖書を見ますと、この箇所のほかにも、バビロン捕囚後のイスラエル復興を成し遂げた者たち、初代教会のリバイバルを担った者たちなど、「残った者たち」が神様の手によって大きく用いられました。キリスト教の歴史の中でも、リバイバルは必ず小さな群れ、あるいは一人のクリスチャンから始まっているのを見ることができます。

 この教会の中にも、いろいろな意味で「逃れたもの」「残されたもの」そういった方がおられるかもしれません。先ほどメッセージされた滝元明先生も、自分は老いたけれども残された人生の中で私を通して主が働かれ、リバイバルのために用いてくださると、希望をもって信じておられました。お年寄りにも、力のない子どもたち、迫害に耐えながら独り信仰の戦いを戦っておられる方にも、「残された」「逃れた」者たちがいるかもしれませんが、そんな中から、神様が「下に根を張り」「上に実を結ぶ」と、約束してくださっていると、信じます。そのために、さらに深く主に信頼し、信仰をもって前進していきたいと願います。

 「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」「万軍の主の熱心がこれをする。」このみことばに立って、さらに成長を目指していきましょう。

P1050581.JPG<滝元開 副牧師>

 ハレルヤ!感謝します。この二〇一三年、一年間大きな恵みの中を主によって生かされてきたことを心から感謝いたします。その恵みを思い起こす時に、ただただ主の恵みとあわれみ、また多くの方々の祈りに支えられ、そして、大きな犠牲のゆえに、今ここにあることを本当に心から感謝しています。
 この教会における働きと共に、外部における様々な働きをさせていただくことが許されて、いろいろな所に行かせていただきましたが、すべての働きとその行く先々に、主がご臨在くださり、大きな祝福が注がれていたことを心から感謝しています。皆様のお祈りを本当に感謝します。

 この日本の現状をいろんな領域で見せていただく中で、今、神様が日本をすごく愛し、そして、世界に対して大きなご計画を持っておられることを強く感じています。

 ザワメキで富山に行った時のことです。ザワメキは三人のチームで行ったんですが、会衆は四人でした。三対四ということで、これはやるしかないなということ状況でした。本当によくぞここに人が住んでいるなというような場所に教会が建っているわけですが、そんな中での集会でしたが本当に祝福されました。
 そして、また話は変わりまして、福岡の教会の集会に行きました。そこは、牧師先生がお一人で、信徒はお一人でした。三対四どころではなくて、信徒一人なのです。その集会には、周りの教会から応援に駆けつけてくださりとても祝福されたのですが、そんな現状も目の当たりにしました。
 そして、次は北海道に行きました。その北海道の集会も本当に祝福されたのですが、そこでいろんな方々と出会ったら、今度出会った人たちは、「私の教会には牧師がいない。無牧だ」というのです。
 三対四から始まり、信徒一になり、しまいには牧師がいないという現状を目の当たりにしたのです。でも、なぜか、神様の大きな愛をすごく感じました。
 日本全土に、人がぽつぽつと住んでいる所そんな中で、さらにぽつんぽつんとクリスチャンがいて、そして、そこに点けられている信仰の火が消えずにあるということは、「なんか神様の愛ってすごいな」ということを強く感じる二〇一三年でした。神様は必ず、二〇一四年、大きなことをなしてくださると信じて、前進していきたいと思っています。

 では私に与えられたみ言葉を語ります。使徒の働き十五章十六節〜十八節、

『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』

 倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。「ダビデの幕屋」というのは、何を意味しているのでしょうか。それは、やはり、「賛美」そして、「礼拝」を意味するのではないかと思います。ダビデ王様というのは、誰よりも多くの賛美を主に捧げていたわけです。特に、この二〇一三年は、「賛美」という領域の中で、神様が何か新しい領域を開いてくださった、そんな年であったようにすごく強く感じています。

 特に、サタンによって奪われた神様の栄光を奪回するために、私たちは賛美をしなければいけない。そのことを、特に、二〇一三年に教えられたのではないかと思います。エゼキエル書二十八章十二節、

『人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。』

 これはサタンのことを言っているのですが、サタンの姿は美の極み、美しさの極みだったのです。彼は何をしていたかといったら、神様に賛美をするという大切な働きをしていたのです。それが、そのサタンがどうなったかというと、イザヤ書十四章十一節〜十二節、

『あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。』

 結局、神様の前で、神様に最も近く、美の極みとされるような賛美を捧げて、神様と親しい仲にあった者が、「私も神のように栄光を受けたい」という、その大きな罪のゆえに、地に投げ落とされたわけです。そのことによって、天使長のひとりであったルシファーが、その手下どもを連れて、天の軍勢の三分の一を引き連れて、地に投げ落とされ、今や、サタン、悪霊どもになっているわけです。その存在に対して、賛美がどんなに大きな力かということを、この二〇一三年に主は教えてくださったような気がします。

 私たちが捧げる賛美は、奪われてしまった神の栄光の三分の一を満たすという大きな働きなのです。私たちが捧げる賛美によって、そのサタンの力が打ち破られて、神様が本来持っておられた栄光を奪回するための大きな働きが賛美の中にあるんだよということを、この年は教えていただいた気がしています。

 そしてこの二〇一四年は、そのために私たちは、本当に心から主を賛美し、賛美によって、土台を勝ち取るような働きをさせていただきたいなということを思っています。

 お読みしたみ言葉に「ダビデの幕屋を立て直す」とありますが、ダビデというのは、本当に心から神様を賛美していったわけですけれども、ダビデの幕屋のクライマックスはどこにあったのかなと、ちょっと旧約聖書を見ていくと、ダビデが幕屋に契約の箱を持ち運んできた時に、喜び踊ったことが書かれています。そこがクライマックスかなと思うと、でもなんかそこだけじゃないような気がするのです。「ダビデの幕屋の回復」というのは、よく語られる言葉の一つだと思うのですが、その真の意味は、今の時代に、あのダビデの時代のように、あの時に捧げられていたような礼拝をするようなことを神様は望んでいるのかなというと、それとも少し違う気がするのです。
 ダビデの時代の礼拝はやっぱり旧約聖書。あくまでも旧約時代というのは、ひな形で、この今の時代に神様が与えようとしておられることを、これから露わにされようとしておられるのではないかと思うのです。ですから、あの時代のものを、いかにして復元させるかが私たちの目標ではなく、今、本当に主にあって何をしなきゃいけないかということを見極めなければならないと思っています。

 ダビデの人生は、絶えず敵と戦っていました。そして、戦いの中で絶えず主を賛美し続けていったのです。ですから、ダビデの幕屋のクライマックスは、「戦いのただ中での賛美」の中にあるのです。私たちもこの二〇一四年、どのような戦いの中でも、神様を賛美していく中で主の勝利を勝ち取り続けることを目指していきたいと願うものです。それも、単なるうわべの勝利ではなくて、土台そのものを勝ち取るような勝利を神様は与えようとしておられるということを信じて、地域、家庭、また個人の土台に対する主の勝利を受け取っていきたいなと思っています。

 ダビデがどんなに戦いの中にあったかということが、彼の賛美の中においても見ることができます。詩篇五十七篇六節〜八節、

『彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

 ダビデが本当に日々戦っている姿がこの六節にあると思います。『彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。』勇ましく戦っているようですけれども、絶えず戦いの中で、いろんな激しい中にあるわけです。そのような中でもダビデは、「私は歌う」と言っているのです。
 そして、八節に、『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』と言っています。
 先ほど読んだサタンの姿というのが、イザヤ十四章十二節に、『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。』と言っています。暁の子、明けの明星が天から落ちた、その領域に対して、ダビデが賛美するというのが、暁を呼び覚ますという、その賛美をしていたということを、この中から見ることができます。

 詩篇にはずっとダビデの賛美が書かれていますが、ダビデは戦いに続く戦いの最中で歌い続けたのですが、詩篇の最後に近い、一四九篇の中で、賛美そのものが剣であるということが書かれています。これは今までも何度も語られている言葉ですが、詩篇一四九篇六節、

『彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。』

 これこそが究極の賛美の姿だということが語られています。私たちも、この二〇一四年、主により与えられている究極の賛美の剣を持って、暁を呼び覚ます働き。サタンによって奪われた神様の栄光を奪回する働きを、さらにしていきたいと思っています。それがこの国の土台、またこの地域の土台を勝ち取るために用意されているものであることを信じ、歌い続けたいと願っています。
 でも、最も大切なのは、私たち自身が、いかに、心から主をあがめ、たたえ、ほめ歌い、主を礼拝するかという所にあります。今の時代、どこが幕屋かというと、それは、この教会が幕屋であり、さらには私たち自身が神の幕屋、神の宮だということが聖書に書かれています。第二コリント人への手紙六章十六節、

『神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。』

と書かれています。私たち自身が神の宮なので、本当に私たち自身の中に神様への礼拝、神様への賛美というのが、完全に回復していく時に、主の大きな勝利が与えられ、あらゆる土台を勝ち取るような大きな勝利が与えられると信じています。

 その結果、何が起こされるかということが、最初のみ言葉、使徒の働き十五章十七節に書かれています。

『それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。』

と書かれています。私たちが本当にその、倒れたダビデの幕屋を建て直し、廃墟と化した幕屋を建て直す時に、異邦人が主を求めるという「リバイバル」につながっていきます。さあ、この二〇一四年は、今まで以上に主への賛美を、私たちの生活のただ中に響かせていきましょう。その時に、私たちの生活の土台そのものが変えられるのです。また、主への賛美を響かせ続ける時、この日本、また全世界の土台を勝ち取るための働きを主が初めてくださる年であると堅く信じています。主の御名を心から賛美します。ハレルヤ!