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『最も大切な事 パート2』

2014年3月30日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 22章34節〜40節

『しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 ハレルヤ!おはようございます。エイジェントの賛美素晴らしかったですね。でも、若くても、だいぶお疲れなんですね。若くても歳を取っても、人生ってなかなか大変です。「十代でもああいう歌詞が出て来るのか・・・」と、現代社会は怖いです。私たちの若い頃は、結構脳天気でした。「がんばれ、もう少しだ・・・」と歌われていました。しかし「イエスさまがいれば大丈夫!」と結ばれておりました。「イエスさまがおられなかったら、どうなっちゃうのだろう・・・」と思いましたが、若い時から主と共に歩むのは、すばらしいです。

 今日は足下の悪い中、みなさん、がんばって、教会まで来てくださったと思います。今日は、晴れた日よりもずっと祝福があると信じます。主を礼拝するために、犠牲を払ってこの場所に来たことは、主からの大きな祝福があると信じます。

 昨晩は、青年たちのザ・コールという集会がありました。たいへん祝福されました。百名以上の方々が集まり、六割、七割がクリスチャンでない方々でした。

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 かねりちゃんのすごいダンスがありました。

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 それから昨晩は、「Back 2 Eden」のCDが発売されました。かっこいいね。なかなか良かったですよ。私もメッセージを語らせていただきましたが、若者たちが喜んで奉仕している姿を見て、本当に励まされました。

 新城教会には、若者たちがバンドを作って賛美する伝統があります。それは誰から始まったかといったら、何を隠そう、私たちから始まりました。ちょっと自慢しておりますが、良い伝統ができると、良いものが受け継がれます。悪い伝統ができると、良いものさえ崩れていきます。
 私が若かった時代に、グループ・サウンズのブームがありました。私の中学時代は、エレキギター最盛期だったのです。ベンチャーズとかビートルズとか、知ってますか?私はそれらにはまっていました。私の父母は、それらが大嫌いで、喧嘩が絶えませんでした。家に帰ったらベンチャーズばかりやっていて、私は新城市に初めてエレキギターを持ち込んだ男です。初めはそんなことばっかりやっていました。

 いつも話すのですが、昔はこんなすばらしい楽器はありませんでした。ギターも組み立てだったのです。アンプもないので、くず鉄屋さんに行って部品を集め、はんだ付けして自力でアンプを作りました。
 でもスピーカーがなかったのです。あったのは、各家にあった有線放送のスピーカーだけでした。有線放送を知っている方はスイッチオン。知ってますか?
 私の家の番号は七百九十二番、これを「ななひゃくきゅうじゅうふたばん」と呼ぶのです。「ふたばん」と呼ぶところが懐かしいです。交換手が各家の番号を呼んでくれるのです。「ななひゃくきゅうじゅうふたばん。滝元さん、滝元さん、出てください」と呼ばれました。そうしたら受話器を取って話すのです。受話器を取って、誰かが話していたら話中です。それが有線放送です。長話の時は「早くやめろ!」とか言うと、話をやめたりしました。
 私はアンプを作ったけれど、スピーカーがなかったのです。困ってしまい、「有線放送のスピーカーがあるじゃないか!」と、それに直接つなぎました。鰐口グリップでつないだら、火花が出ました。ギターを弾いたら音が出ました。夢中になってギターを弾いておりました。
 しばらくしたらヘルメットをかぶり、作業着を着たおじさんたちが数名、「ここだー!」と言って、我が家に入ってまいりました。私はすぐさま、裏口から逃げました。しかし、それでもおとがめがなかったのですから、昔はいい時代でした。
 多くの愛に育まれ、あっと言う間に六十三歳になってしまいました。賛美があったから、今まで信仰を保つことができたと思います。

 私はグロリア・シンガースというバンドを作り、結構長いことそのバンドで演奏をしました。今日はAgentの方々が賛美をしてくれました。昨晩は、Back 2 Edeのライブでした。いろいろバンドが出ていますが、我々がルーツかもしれません。こうなると、私も一曲、皆さんに聴かせたいと思うのです。
 今日は「愛」をテーマにお話をさせていただきたいと思います。神を愛する、隣人を愛するというテーマです。「愛」は重要なテーマですね。
 今から三十数年前、私たちは、「愛されてるから」という歌を作りました。誰が作ったかと言うと、滝元開が作りました。今から「愛されてるから」をお聴かせしたいと思います。愛されていたら、大変な場面の中でも、がんばって前に進むことができます。
 では、聴いていただきたいと思います。三十数年前の歌です。新城教会のグループは、我々を越えていないかもしれませんよ。ちょっと偉そう言っていますが、ではいってみましょう!

♪愛されてるから♪

降り注ぐ星空の下で
僕は今 歌をくちずさむ
寂しさはどこかへ消えたよ
ひとりじゃないから
愛されてるから いつまでも
愛されてるから 変わらない
愛されてるから 喜びが あふれてる

さわやかな夜明けのそよ風
通り抜け 町が目を覚ます
わき上がる 生きる喜びは
どこから来るのか 
愛されてるから いつまでも
愛されてるから 変わらない
愛されてるから 喜びが あふれてる

果てしなく広がる世界へ
力受け 僕は歩き出す
変わらない イエス・キリストの
愛の中 導かれ
愛されてるから いつまでも
愛されてるから 変わらない
愛されてるから 喜びを 伝えたい

 という歌でございます。拍手までいただき、ありがとうございます。三十数年前にしては、なかなかいいでしょう。バンドのみなさんも、がんばって下さいね。

 愛されるとは、何よりも幸せです。私たちクリスチャンは、神様から愛されています。
 いつも話すのですが、日本人は神様から愛されるという概念がありません。だから「あなたは神様に愛されています」というメッセージを、教会は良かれと思って社会に発信するのですが、人々は引くのです。なぜなら、日本の神々は怖い神々ばかりですから。千手観音に抱きしめられたくはないのです。不動明王に好かれたくはないのです。みんな怖がっています。神様から愛されているなんて、冗談じゃないと思うのです。
 しかし聖書を読みますと、神様は良い方で、人間を造り「愛している」と教えています。

 「愛」とは、双方向にあって初めて成り立つものです。結婚された方も多くおられますが、結婚は、愛がなかったら出来ません。相手に愛を投げかけて、相手が受け止めてくれて、また投げ返してくれる時、成立するわけです。
 神様は人に愛を投げかけてくれますが、それを受け止め、投げ返さないといけないわけです。私たちは神に愛されますが、同時に、「神を愛する」者たちです。これが大切です。

 私は前々回のメッセージで、「最も大切な事」について語らせていただきました。最も大事なことは何か。それは、「神を愛する」ことが一番だと話しました。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。』と、イエスさまは旧約聖書を引用して話されました。
 私たちの心の底から、神への愛がわき上がってくる、これは大事です。

 同時に、もう一つ大切な事があることも学びました。それが、隣人を愛することだと学びました。神を愛することと、隣人を愛することは、表裏一体で、ちょうどコインのようだと話しました。
 表面に「神様を愛する」とあったら、裏を返せば「隣人を愛する」と記されています。隣人を愛するとは、神を愛することに匹敵するのです。
 先日、ある教会でこの話をしたら、感動して、コインの裏表のデザインで「神を愛する」「隣人を愛する」Tシャツを作るそうです。でもTシャツを、どう造るのかなと考えました。表面に「神を愛する」と印刷して、背中に「隣人を愛する」と印刷すればいいかなと思いましたが。
 神様を愛することと、隣人を愛することが、律法全体と預言者がかかっているとイエスさまは言われました。相当大事なことだと思われます。

 聖書はこんなに分厚い本です。登場人物も多数、数え切れないくらい出て来ます。そして、聖書を書いた有名な筆者たちも大勢います。それらすべてを総合して、最も大事なことが、神様を愛することと、隣人を愛する中に集約されるのです。ゆえに、この概念をしっかりと受け止めるのは、重要なテーマです。

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。ここで、隣人を愛する前に、「あなた自身のように」とありますから、まずは自分を愛することが重要です。
 みなさんどうでしょうか?「自分は駄目だ。私は非力だ」と。若者たちは「ひりき」と歌っていました。「他人」と書いて「ひと」と読んでいました。若者たちの言葉は分かりませんが、「自分は駄目だ、自分は駄目だ」と思っている人が多くいます。
 しかし聖書は、『あなたの隣人を「あなた自身のように」愛せよ』とありますから、前提となるのは、自分自身を神様の作品として、喜んで受け止めることです。
 私たちはすぐに誰かと比較してしまいます。しかし比べないで、自分自身を神の作品として、喜んで受け入れることは大切です。
 今日、一人一人、自分自身を受け入れるところから始めなければならないと思います。自分を受け入れた中で、隣人を愛し、神を愛することにつながるのです。

 先日、タイ・リバイバルミッションがあり、いろいろ奉仕をさせていただきました。そこで隣人を愛することも教えられ、前々回のメッセージでお分かちさせていただました。ミッションが終わり、帰国のフライトは夜中でした。それで、昼間が開いていました。ホテルは十二時にチェック・アウトだと言われ、どうしようかと思っていました。ぎりぎりまでホテルにいようと思って、私は部屋のテレビを付けました。そうしたら、日本語放送をやっていました。近頃では、海外でも日本語放送が見られます。するとちょうど、NHK教育テレビなのかな、「100分de名著」という番組をやっていました。

 二月は「エーリッヒ・フロム」という、愛について書いて有名になった、ドイツの社会心理学者の特集でした。彼は『愛するということ』という本を書いて、世界的に有名になりました。私はそれを少し見ていたのですが、結構おもしろかったです。
 彼はユダヤ人で、クリスチャンではないのですが、聖書から大きな影響を受けて愛について分析しました。「愛」とは、誰もが簡単に使っている言葉です。しかし、その意味について、深く考察している人は少ないというのです。

 みなさんはどうでしょうか?愛という言葉を、一日に何回使いますか。しかし、「愛とは何か?」とは、あまり深く考えないですよね。結構、みんな簡単に考えているというのです。ほとんどの人が愛とは、「誰でも感じることのできる感覚」と考えているというのです。
 どうでしょうか。若い男ならば、かわいい女の子を見たら「かわいい!」と感じるはずです。私の弟は、奥さんを中学生の時に「かわいい!世界で一番かわいい!」と思ったらしいです。みなさんもあこがれの人に出会って、恋に落ちた体験があるのか、ないのか知りませんが、愛とは、自然にわきあがってくる感情だと考えます。
 しかし、その番組を見ていたら、フロムは、愛とは感情ではなく、「技術だ」というのです。
 例えば音楽ならば、音楽家は技術を磨かないと上達しないのと同じように、愛についても、その中身を知らないと、本当の愛に到達できないというのです。

 先日、人がある人を好きになるメカニズムについてテレビでやっていました。誰かを好きになる感情は、脳内物質の作用だそうです。誰かを真剣に好きになるのは、脳のある物質が、異常に放出されている状態だそうです。誰かを好きになると、ある物質が出て、好きという状態が継続するというのです。これは、ある意味、脳がバランスを崩し、異常をきたしている状態だそうです。
 そういう脳の状態になると、脳は特定の脳内物質を抑えるように働くそうです。だから、誰かをいくら好きになっても、三年で脳は元に戻るそうです。ものすごい恋愛だと思っても、それは脳内物質の作用だそうです。脳は三年で元に戻るそうです。だから今、燃えている方、今まで何年経ちました?えっ、二年?それではあと一年です。感情は、そんなもんです。だから、愛をただ感情の問題として捉えると、失敗するというのです。
 ということは、「愛は技術」であり、中身をよく知らないといけないというのです。愛とは何かについて、勉強しなければいけないというのです

 私もフロムの本を読んでみたのですが、今日はなんか、聖書の話をしていないようですが、最後にはちゃんとつなげますから、聞いていてくださいね。
 彼が言うのには、愛を完成する、達成する基本条件は、「ナルシシズムの克服」だと語っています。ナルシシズムから解放されないと、愛は達成できないと主張しています。
 ナルシシズムって、どういう意味かご存じですか?それは「自己愛」です。先ほど、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と学びましたが、それは「自己愛」です。しかしフロムが主張する自己愛とは、「自己中心的自己愛」として区別しています。それはすべてが自分中心でないと気が済まないという、異常な自己愛です。

 実は今の社会の大きな問題は、ほとんどの人が「ナルシスト」だというのです。みんな自己中心的な自己愛で生きているから、なかなかうまくいかないというのです。それを克服しないと、社会は正しい方向に向かっていかないという主張です。

 フロムによりますと、ほとんどの人が、愛を「愛する」という問題としてではなく、「愛される」という問題として捉えているというのです。人は常に「どのようにしたら、愛される人間になれるのか」というテーマで生きているというのです。
 男性は、「どうしたら女性に愛される男になれるのか」をいつも考え、そのために知力を磨き、体力をつけ、経済力をつけ、権力を身につけるというのです。
 また女性は女性で、「どうしたら、男たちに愛される魅力的な女性になれるだろうか」を考えて、女子力を磨くというのです。愛を「愛される」という概念で捉えているのです。
 「愛」は動詞だと言われますが、「I love you」と告げます。しかし「愛」を「愛する」という能動的観念ではなく、「愛される」という受け身で捉えています。そこに問題があるというのです。
 そう考えてみれば、私自身も愛されることしか考えていなかったな・・・と、反省させられました。先ほども「愛されてるから」という歌をみなさんに披露させていただきましたが、「ナルシスト的な歌を作っちまったな・・・」という感じです。神様から愛されるためには、どうしたらいいのかばかりを考えます。

 フロムはまた、「現代人の結婚は、あたかもバーゲンの掘り出し物市のようだ」とも述べています。「互いに自分の要求を満たしてくれる相手を求め、市場で最良の商品と出会った時、恋に落ちる」というのです。
 「どんな人と結婚したいですか?」と聞くと、誰でも「こんな人です」と、理想を並べたてます。女性に「どんな男性と結婚したいですか?」と聞くと、背の高さは百八十以上とか、体重はどのくらいで、年収がいくらでとか、いろんな条件があるわけです。
 また、男性は男性で、「こんな子がいい・・・」って、自分の基準があるわけです。その基準を持って市場に出て行くというのです。それで市場を見渡すわけです。条件に合っている子はいないかな?と。「あった!」と、ちょうど、バーゲンの掘り出し物に出会った時のように、お互いに決めるというのです。商品はやがて価値がなくなりますから、互いに価値が少なくなったら、不協和音が生まれるのです。しかしその時、イエスさまが一緒におられるなら大丈夫です。

 現代において、恋愛結婚は普通の概念です。でも、昔はそうじゃなかったのです。お見合い結婚が普通でした。結婚は、恋愛結婚が当たり前だと現代人は考えていますが、実は、自由恋愛が始まったのは、二十世紀初頭くらいからだというのです。
 イギリスを調べてみますと、ビクトリア王朝が二十世紀初頭まで続きましたが、それまで結婚は、誰かが決めるものだったそうです。結婚は本人ではなく、第三者が決めていたというのです。この家とこの家を結び合わせたら、良い家ができるんじゃないか・・・、社会的にも安定するんじゃないか・・・と、全体のバランスを見ながら、結婚を決めたというのです。結婚における愛は、先に生まれるものではなく、結婚した後に生まれると考えられていたそうです。

 しかしその後、アメリカなどを中心に「自由恋愛」という気運が広がり、現在に至っているというのです。全員に基準があって、自己中心的自己愛が中心となって相手を選択するから、その後、問題が起きるというのです。
 もちろんいろんな視点がありますから、なんとも言えないのですが、案外、的をついていると思いました。

 愛とは、「ナルシシズムの克服」と言いましたが、まさにそれは聖書の概念です。フロムは、聖書を読んで、そこから影響を受けて本を書いたと思われます。それが『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』です。
 ここで言われている「自分自身のように」は、神からもらった命である事を受け入れた上で、隣人を愛するのです。それも、自分にとって利益のないような、見返りがないような人を愛しなさいというのが、良きサマリヤ人などで述べられている愛の概念です。

 私たちは、自己愛が満ちている世界に住んでいます。しかしそれに、毒されちゃいけないのです。
 この頃、ストーカーというのが現れて、被害を受ける女性が多くいます。ストーカーは、ナルシシズムの最も顕著に現れた例です。相手がどう考えていようと、いやがっていようと関係ない、「俺の自己愛を実現するためには、おまえが絶対に必要だ。俺の所に来い!」と、誰かの家に張り付いたりして、異常な世界です。それはどこから始まっているのかというと、ナルシシズム的な社会が生み出したというのです。

 聖書は決して、自己中心的な自己愛ではないのです。自分を愛するのも、自分がかわいい、いちばん大切だから愛するのではなく、神から委ねられた使命があるからです。神からの使命に生きるためには、自分を否定したら生きることは出来ません。人が造られたのは、目的と重大な使命があるのです。

 先週も話したように、人が造られたのは使命があるのです。それは、神が創造したものを治める、管理するという、重大な使命です。
 今日は午後から「霊的戦いセミナー」を行います。そのことを、午後はみなさんと学んでいきたいと思います。今日は三月三十日ですが、先週も述べましたが、三月は日本にとって、忘れることのできない月となってしまいました。東北で大地震が起こり、多くの人が傷つき、倒れ、命を落としました。今後も日本には地震が起こる確率が高いのです。地球は、常に躍動していますから、地震が起こるのは自然のことです。
 そんな地球を神が造られたのですが、そこに管理人を置き、それらを管理するよう命じられているのです。私たちクリスチャンは、神様から、管理人としての使命を受け取った者たちです。自分を愛するという考えも、神から使命をもらった立場に立たなければならないのです。
 私は、クリスチャンに、すべての領域に対する管理権が委ねられている、と信じる者です。ゆえに、自然界に対しても管理権を使ったら、将来、もしかしたら大きな地震を体験しないで済むかもしれません。プレートが沈み込む時、跳ね上がって地震が起こるそうですが、主を信じる者たちがプレートに対して「静かに沈め!はねるんじゃない!」と宣言したら、うまくいくかもしれません。
 今日は特に、地震に対して管理権を使うというテーマで、雅也先生が前半話してくれます。先週も話しましたが、新城は、本当に不思議な場所です。中央構造線が通っていて、中央構造線は、かつて日本に超巨大地震があった爪痕です。

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 それは地下にあるのですが、地上にむき出しになっている場所があります。それは日本広しといえども、数カ所しかないのです。けれども、その一カ所が新城市にあるのです。

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 日本列島は大きく南北の二つの島がぶつかって、地震でできた島です。先週は霊的戦い専門課程で、この場所にとりなしに行きました。私が撮った写真ですが、これは二つの島がぶつかった証拠です。

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 最大の地震があった場所で、管理権を行使するなら、地震は起こらないで済むかもしれませんし、起こったとしても、被害は最小限にくい止められるのではないでしょうか。
 自分自身を受け入れるとは、神から委ねられた使命を受け取る事です。

 そして次に隣人を愛するのです。それは利害関係ではなく、「この人を愛したら得だな・・・」ではなく、なんの得もないような、ユダヤ人とサマリヤ人の間でイエスさまは隣人愛を語られました。対立する二つの民族の中で、隣人愛は説かれたのです。敵のような存在に対し、無条件の愛が、裏を返せば神を愛することにつながるのです。
 そのためには、私たちはナルシストではいけないのです。ナルシシズムにどっぷり浸かっていちゃいけないのです。

 先ほども語りましたが、結婚も、バーゲンに行って掘り出し物に出会うようになってしまっていると言われます。
 では、なぜそのようになっているのか。フロムは、なかなか鋭い視点を持っていまして、なぜこのような社会になったのか。「それは経済の発展と共に、何もかもが商品化され、物質的成功が最も価値あるとされたことにより、愛情関係さえも、市場経済と同じ思考に従っている」と指摘しています。経済が、愛情の世界にまで侵入しているというのです。
 みなさんが会社で作っている製品は、少しでも商品価値が高い物、高く売れる物、良い商品を作ろうとして頑張っています。良い商品が高く売れるのです。経済の世界にどっぷり浸かって、私たちは生活していますから、結局、知らないうちにマインドがコントロールされるのです。自分自身も価値が高くなければならない。そして、価値が高く見える人と比べ、落ち込むのです。これじゃいけません。

 経済の領域に、最も強い敵が展開しているから、霊的戦いをしましょう!とおすすめしていますが、経済の世界が、意外な領域に影響を与えています。
 現代の愛情問題に関して、経済が愛情思考を握っているというのです。
 私たちは知らないうちに、ナルシシズムに毒されているのです。そのため、聖書の「愛」という単語を読んだとしても、「愛する」よりも「愛される」という受け身で捉え、世の中の価値観で聖書の愛を推し量るわけです。

 聖書にすばらしい言葉があります。前回も紹介しましたが、魅力的な言葉です。ヨハネの福音書十五章七節、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

 すごいですよね。ここで、『何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』というのですから。今、欲しいものは何ですか?「これも欲しい!あれも欲しい!」いっぱい欲しいものがあります。それがかなえられるというのですから、そんなすばらしい宗教はないです。やった!という感じです。

 でも、この「欲しい」という概念が、ナルシシズムに基づく、自己愛に基づく「欲しいもの」なら、大変なことになるわけです。
 「私はクリスチャンになって、欲しいものは何でもくれると言うから、お祈りしたけれど、神様は何もくれません!」という人がいますが、どうでしょうか。
 もしもナルシシズムの強い人に、欲しいものを次から次へと与えたら、それこそブラックホールでしょう。とどまるところを知りません。究極的な自己愛にまで行き、聖書の世界観から遠く離れてしまいます。欲しいものがあったら、受け皿を変えなきゃいけないのです。

 イエスさまはここで、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』と告げています。この「互いに愛し合うこと」とは、自己中心的自己愛ではないのです。良きサマリヤ人で述べられたような、普通では愛したくない存在に対して愛を表す、利益、見返りを要求しない愛です。
 イエスさまはその愛で、私たち人類を愛して下さったのです。そのような受け皿が私たちに整えられたなら、欲しいものを求めたら与えて下さるでしょう。
 祈りを聞いていただくために必要なことは、自己中心的な自己愛から離れる、ナルシシズムの克服といってもいいと思います。

 私たちはナルシシズムが王のような世界に生きています。しかしどんな時にも、神の愛によって隣人を愛するスタンスから離れてはいけないのです。
 今週、自分自身を、神からの使命の中で受け入れ、自己中心的な自己愛で人を見ることがないよう、夫婦の間でも注意したいです。
 そして、見返りのない領域に、愛の目を向けてとりなしの祈りをすることは、重要な神の国の世界観だと思います。

 前々回も、隣人を愛するとは、日本人にとっては、特に、アジア諸国に対して、目を向けなければならないとお話しさせていただきました。私は新城教会の未来のために、一つ祈っていることがあります。それはこの教会の若者たちが、見返りのない場所に宣教に出て行く者たちになったらいいなと思います。
 私は韓国によく行くのですが、韓国教会では、夏になると若者たちを教会がサポートして、海外に短期宣教に送り出します。それも文化的に高い所ではなく、アジアの大変な諸国に若者たちを多く遣わします。
 そこに行けば、自分たちが住んでいる社会が、どのくらい祝福されているかが分かります。そして無条件で人を愛することを体験するのです。
 私は新城教会でも、それをやりたいなと願っています。先週は、中高生キャンプがありまして、中高生たちが四十名近く二台のバスに乗って、岐阜のほうに行きました。私はできるなら、中高生を、青年たちを、この夏にでも、私が人生の中で、いろいろ世界を回りましたが、ここは大変だ!と感じた所に、送り込みたいと祈っています。どうでしょうか?
 大人はそれを祈ってサポートするのです。若者たちがナルシシズムから解放され、克服したら、新城教会に将来があります。今の時代は、この風潮ですから、放っておくと危ないです。やはり神の国の世界観に、転換しなければいけないと思います。
 どこに送りたいかというと、ネパールに送りたいと思っています。ネパールは今まで行った国の中で最高でした。ナルシシズムから解放されるためには、最高の場所だと思います。そこに行ったら世界観が変わるんじゃないかと思います。私も変わりましたから。

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 ここはカトマンズです。カトマンズは徐々に発展しているので、郊外の山の中、少数民族の部落に連れて行きたいのです。こういう所を五時間歩くのです。大変ですよ。

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 私は行きましたから。今度は若者たちの番です。

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 こういう山の上の子どもたちは、数年前まではみんな真っ裸だったそうです。ここに韓国からの宣教チームが行って、古着をあげて、服を着るようになったそうです。みんな裸足ですが、靴なども履くようになりました。

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 私たちのチームの一人がスマホを与えてゲームをやらせたら、みんなびっくりして「こんな物があるのか!」という感じでした。こういう所に若者たち送って、数日間泊まり込ませ、子どもたちに福音を伝え、この村のために奉仕したらいいのではないでしょうか。
 そして、私が行くのではなく、うちの教会の他の牧師たちを遣わし、誰とは言いませんが、遣わしたいです。日本全体がナルシシズムに汚染されている中、リバイバルを求めても、うまくいかないと思います。
 イエスさまと同じように、すべてを捨てて、いままで興味のない所に愛の目を向け、隣人を愛する時、日本にリバイバルを体験できるのではないかと思っています。

 今、リバイバルミッションを通して、アジアの諸国、環太平洋リバイバルミッションを行っています。また、私も毎年ペルーに行ったりしていますが、その働きは、本当に大事だと思います。
 特に日本のような物質中心主義で、価値ある製品を山のように作りだそうと躍起になっている国では、みんな洗脳されますから、なかなか聖書の真理を知ることができないと思います。

 フロムは、「愛は技術だから習得しなければいけないと」主張しているのですが、聖書はそう言っていません。第一ヨハネ四章十六節にこう書かれています。

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』

 神が愛なのです。「神様=愛」なのです。「愛=神」ではありません。「神は愛」なのです。ということはどうでしょう。神が持っている愛は、人が持っているような自己中心的な愛ではありません。私たちが神を知りさえすれば、別に技術的に習得しなくても、愛を達成できるはずです。
 クリスチャンは、愛を技術として学ばなくても、神を知ることによって、愛を達成できる特権があるのです。

 聖書の中で、黄金律、ゴールデンルールとして世界でよく知られている言葉があります。それはイエスさまが語られた言葉で、マタイの福音書七章十一節〜十二節、

『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』

 何事でも「自分にしてほしいことは、他人にもしてやれ」と言うのです。私たちは「自分にして欲しいことを、他人がしてくれ」という社会に住んでいます。しかし聖書は、自分にしてほしいことを「他の人にしてあげなさい」というのです。
 よく「うちの家内の口癖は『なんで私を愛してくれないの!』です」と聞きます。おめでとうございます、奥様。あなたはナルシストでございます、という感じですよね。

 今日からは、自分にして欲しいことは、隣の人にしてあげてください。互いに愛を与えることができるなら、それこそ律法であり預言者です。これは黄金律として、世界で知られている聖書の言葉です。この言葉を私たちは心に刻み、神が愛の原点ですから、その愛を受け取り、歩んでいきたいと願っています。

 今から聖餐式を行います。私たちの中から、自己中心的な自己愛を取り去っていただきましょう。十字架の愛は、自己愛では決してありません。価値のない罪人のために、命を捧げてくださった愛です。
 私たちは神の愛を原動力とし、歩んでいきたいと願っています。一言祈ります。


 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて感謝をいたします。あなたの愛がどんなものであるのかについて、私たちは学びました。自己中心的な社会に生きていますが、それに毒されることがないように、守って下さい。今日は聖餐式の中で、あなたが現してくださった無条件の愛を受け取り、今週も歩んで行きます。夫婦の間で、親子の間で、学校で、会社で、神の愛を表す者にさせてください。今からの聖餐式を祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。