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「あなたは地球の管理人!
〜パート3〜」

2014年4月27日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書8章23節〜27節

『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』

ハレルヤ!おはようございます。すばらしいリソスの賛美を聴くことができて感謝します。明日を造られる主が共にいてくださることは、私たちにとって何よりも心強く、感謝なことです。『明日のことを心配するな』とあります。与えられた時間を、主のために力一杯生きていきたいです。
 すでにゴールデンウィークが始まったみたいですよね。昨日も、ある方とお話ししたら、会社が休みになったと言われました。何日間休みかと聞いたら、十日間休みだと言われました。いいですね。ゆっくり休んでいただき、明日のことを心配せず、リラックスしていただきたいと思います。

 花粉も少しおさまってきたみたいですね。まだまだ、辛い方もおられるみたいです。花粉症の方に、こんなグッズがあるみたいです。

 これをお使いただければ、鼻水も常時大丈夫です。

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この頃、「あなたは地球の管理人!」というタイトルで、メッセージを語らせていただいているのですが、私たち人類が地上に造られた目的は、地球を管理するためです。ヘブル書二章六節〜十節のみ言葉を、何回かご紹介させていただきました。
そこに重要なメッセージが隠されているのですが、気づかないというのです。教会には、長い伝統や歴史があり、一度枠組みができてしまうと、なかなか外に出られないものです。
 私たちの生活でもそうです。一つの枠ができると、人はなかなか外に出ることができません。
 特に、この箇所は重要なテーマであるにも関わらず、理解できなかったメッセージです。ヘブル書二章六節〜十節は、何度も読みましたが、もう一度読んでみたいと思います。

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。』

この箇所は、人が何のために創造されたのかを教えています。
『あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。』
『彼』とは、人のことです。しかしなぜか、『彼』を、イエス様お一人に限定する理解が、伝統の中で続いているみたいです。しかしこの箇所を偏見を捨てて読むなら、『彼』とは、人であることが分かります。
続いて、『それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』とありますから、『彼』とは、人を指しています。
人とは、万物を管理する、管理人のような役割として、造られたのです。しかし、人は役割を果たしていないじゃないか!と、ヘブル書の記者は嘆いています。
けれども、「イエス様だけは別だ」と語っているわけです。イエス様は人として、この地上に来てくださったのですが、人として何をされたのかというと、被造物を管理される働きです。

先週は復活祭でしたが、イエス様が十字架にかかって、私たちの罪のみがわりとなってくださり、よみがえってくださった記念日でした。それは何のためであったのかというと、私たちに永遠のいのちを与えるためであったわけです。しかし、それだけではないのです。
十字架にかかって、死んで、復活されたもう一つの大きな意味は、人類が造られた真の意味を果たすため、本来のポジションを回復するためでした。
イエス様の人生は、まさしく、本来、人間がしなければならない仕事の、手本でした。見本を見せてくれたのです。
私たちもイエス様が行われたように、神が造られた被造物を管理する働きに、続かなければならないのです。
この使命をしっかり受け取るなら、私たちの人生は変わるはずです。そして、私たちが地上に生まれた目的も、はっきりしてくるはずです。

 今日、読んでいただきましたのは、マタイの福音書八章二十三節〜二十七節の箇所でした。マタイの福音書八章・九章を、家に帰ってから、じっくりと読んでいただきたいです。ここには、イエス様が起こされた十の奇跡がリストアップされています。
 イエス様は数限りない奇跡を行われたのですが、マタイは、その中から十の奇跡を選び出し、八章・九章で紹介しています。
 聖書を読む時、イエス様が行われた奇跡を、一つずつ数えながら読んでみるのも結構楽しいです。
 なんのために、マタイは十の奇跡をピックアップしたのかというと、マタイの福音書は、一義的には、ユダヤ人のために書かれました。私たちは聖書を読む時に、今を生きる自分に、すぐにリンクを張ってしまう傾向があるのですが、それは時に、危険もあるのです。
なぜなら、聖書は、書かれた時代的対象があるからです。マタイの福音書は、ユダヤ人に対して書かれました。同時に、今を生きる私たちに対してもメッセージを含んでいるわけです。しかし最初に「誰に対してこの書は書かれたのか?」を考えなければなりません。マタイの福音書は、当時のユダヤ人に向けて書かれたわけです。

 ユダヤ人は、救い主、「メシア」が来るのを待ち望んでいました。それでマタイは「このイエスこそ、あなた方が待ち望んでいた救い主、メシアである」と言う事を、旧約聖書に預言され、描かれているメシア像を意識しながら十の奇跡をピックアップしたのです。

 そんな中、五番、六番、七番目の奇跡は、イエス様が、被造物の管理者であることを示す奇跡だというのです。
 それがマタイ八章二十三節から九章十七節までに記されています。そこには三つの奇跡が紹介されています。それらはイエス様ご自身が、被造物の管理者としての働きをされたことを表しています。
 ということは、五番目から七番目までの三つの奇跡は、私たち人類にリンクする、重要な奇跡であると言えます。
その最初の奇跡が、マタイ八章二十三節から記されています。それはイエス様がガリラヤ湖を渡り、ゲラサという街に行こうされている途中に起こった事柄です。突然、大きな暴風雨が起こり、舟は沈没しそうになりました。
その時に、イエス様は起き上がり、風と波に向かって、「黙れ!静まれ!」と一喝されました。すると、なんと一瞬にして波と風がおさまったのです。

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その時の様子は、こんな感じでしょうか。もう少し波が高かったのではないかと思いますが。
 マタイは巧みな文学的手法を使い、読者が印象的に理解できる工夫をしています。
 二十三節前の、マタイの福音書八章十八節〜二十節を読みますと、このようになっています。

『さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」』
イエス様がこの地上に来てくださった目的は、仕えられるためではなく、人に仕えるためでした。
私たちは、偉くなったら、多くの人から仕えてもらえるという考えの世界に生きています。しかしイエス様は、世界で一番偉い方なのに、人に仕えるために来てくださったのです。

先週は、アメリカのオバマ大統領が日本に来たみたいです。それで、日本は真剣に彼をもてなしました。高級な寿司を出してもてなしたようです。なんと一食三万円の寿司だったそうです。そんな寿司、一生に一度くらい喰ってみたいな・・・と思います。しかし現実は、スシローの寿司ぐらいです。庶民にとって、三万円の寿司なんて、聞いたこともありません。やはり偉くなると、仕えてもらえるわけです。

しかしイエス様は違いました。人に仕えるために来てくださったのです。イエス様は、『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』と言われました。眠る場所もないくらい、様々な場所を行き巡り、多くの人の問題を解決されました。
イエス様には「枕する所がなかった」とマタイは記しているのですが、その後、なんと書かれているのかというと、マタイの八章二十三節から読むと、

『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」』

イエス様には「枕する所がない」と言っておいて、実は、枕する所があったのです。なぜなら、イエス様は、舟の中で眠っておられたからです。
 どこに枕があったのでしょうか。それは「暴風雨のただ中」にありました。私たちが被造物の管理人になると、どこが枕となるのでしょう。それは、暴風雨のただ中が、枕する所となるのです。こんな風になれたら最高です。素晴らしいじゃないですか。普通、問題が起こったら、おちおち眠ることはできません。
 しかし、管理人は、大暴風の中で、枕して寝っておられたのです。私たちが神様からの使命をいただき、管理人として働き始めると、問題のただ中が、安らかに眠れる、枕する所に変わるとマタイは強調しているのです。

 暴風の中、弟子たちは眠っている場合じゃありませんでした。しかしイエス様は寝ていました。弟子たちは「この人は異常だ」と思って、「起きてください!起きてください!私たちは死にそうです!」と言いました。すると、イエス様は起きて、風と波に向かい「黙れ!静まれ!」と一喝されたのです。すると、暴風雨がぴたっと静まってしまったわけです。
 人々は驚いて、『風や湖まで言うことを聞くとは、一体この方はどういう方なのだろう』と、怪しんだわけです。

 以前にもお話ししたことがあるのですが、私は数年前に、カリブ海に浮かぶ「プエルトリコ」という島に行ったことがあります。なぜ行ったのかというと、プエルトリコのある教会から奉仕を依頼されたからです。一週間くらい聖会のために行きました。
 私はプエルトリコから招かれるくらい、有名になったのかなと思ったら、そうではないのです。人生って本当に不思議です。
 今、私の息子は東京でベーシストをやっているのですが、みなさんのお祈りに支えられ、本当に忙しそうで、今夜はNHKホールでのコンサートだそうです。紅白をやるところです。なぜ、彼がプロになれたのかといったら、やっぱりロン・ブラウンさんのおかげです。
 彼はロンさんの推薦で、今から十年くらい前、アメリカ、ロサンジェルスの音楽学校に入学させてもらいました。入学しても英語ができないから、どうしようかと思っていたら、一人の青年が来て、「おまえ日本人?」と、流ちょうな日本語で息子に話しかけたというのです。「日本人です」と答えると、「俺は日本人でただ一人、名前を知っている男がいる。おまえ知ってるか?」と言ったそうです。日本人って一億数千万人もいますから、知るわけないです。
するとその男性は息子に「滝元順っていう名前を、俺は知ってる。おまえは知ってるか?」と聞いたというのです。
 「滝元順?どっかで聞いたことのある名前だな?」と。「あっ、俺の親父だ」と。
 本当に不思議じゃないですか。世界には七十億人くらい住んでいますが、私の名前を知っている、日本語ができるプエルトリコ人が、アメリカの一般の音楽学校に入学し、私の息子と出会ったのですから。
 それも彼は牧師の息子でした。そんなきっかけで、私はプエルトリコへ奉仕に行く事になったわけです。

 なぜ、彼は私の名前を知っていたのかというと、彼はかつて「郡上八幡」という街に日本語留学していたらしいのです。ホームステイの家が、古い家で、大きな仏壇があったそうです。
 ある夜、嫌な夢を見て目を覚ましたら、変なおじいさんが目の前に立っていて、首を絞められたそうです。彼はクリスチャンだから、「イエス様!助けて!!」と叫んだそうです。一晩、眠れなかったそうです。
 次の朝、仏間に降りて行ったら、なんと、昨晩出たじいさんの写真がそこにあったそうです。しかし、それは、おじいさんではないです。悪霊が化けて出たわけです。
 彼は日本に来て、霊的な戦いを経験したのです。それで、日本で霊的戦いをやっている人物はいないかと調べて、私を知ったみたいです。
しかし彼は日本が嫌いになって国に帰ったらしいのですが、不思議な巡りあわせで、私の息子と、ロスで出会いました。
 それで、私はフェルナンド先生夫妻と一緒に、プエルトリコで奉仕をしました。

 プエルトリコの教会でメッセージが終わった時、一人の黒人系の牧師が私の所に来て、「午後から、私の教会に来てくれませんか?」と言うのです。なぜかと聞くと、「私は田舎で伝道をしているのですが、今まで三回ほど天幕集会をやろうとテントを立てたのですが、集会を始める直前、大風が吹いて、大雨が降って、テントがつぶれ、できなくなったんです。そして怖い声を聞いたのです。」と言いました。
 「どんな声を聞いたのですか?」と聞くと、「この村から出て行け!さもないと、おまえの命を取る!」と脅かされたというのです。
 「村にはすごく強い悪霊がいるので、このままじゃ、私は殺されてしまいそうです。来て祈ってください」と言うのです。私は、「すいません。今日はちょっと時間がないんで・・・」と言おうかと思いましたが、聞いたら、「午後は時間があるよ」と言われ、その村に行きました。しょうがないから行ったのではなく、私は、喜んで行きました。それがこの村です。

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 本当に田舎です。その村の中央にある山頂に、気持ちの悪い、カトリックの拝み場がありました。

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カトリックは偶像礼拝や魔術と一緒になっているのです。ここは魔術の場所になっていたのです。
人々はそこで、オカルトをやっているらしいのです。その村に行って、すぐにそこが目に付いたので、「あの山に登って祈りましょう」と言ったら、その先生は『だめだ。だめだ。あそこには絶対、登ってはだめだ!あそこは危険な場所だ。強い悪霊が住んでいる』と言いました。私は、「だから行きましょうよ!」と言ったのですが、『だめだ!絶対に行かない!』と言うのです。
私とフェルナンド先生、息子の友人のラフィ君と一緒に行きました。右の男性です。ラフィが率先して登って行き、私たちも続いて行きました。

しかし、登ろうとした時です。良い天気だったのですが、足下の木の葉が、くるくると廻り、小さな竜巻が足下にいくつも出来はじめました。そして風がどこからか吹いて来て、雨がザーーー!と降って、あっという間に暴風になりました。本当に、あっという間の出来事でした。ちょっと背筋がぞっとしました。
その牧師が「だから言ったじゃないか。ここは登っちゃいけないんだ。」と言って、彼は消えてしまいました。
 でも、私たちは、勇敢に、その山に登りました。暴風雨の中、どうしようかと思ったけれど、「わたしと同じようにやれ」と心の中に響いた気がしたので、一番高い所に上って、「黙れ!静まれ!」と大きな声で叫びました。
 その瞬間です。風と雨がぴたっと止み、雲が裂け、太陽が出たのです。大勝利でした。みんな、ハレルヤ!と叫びました。
 そうしたら、消えてしまったあの牧師が、どこからか出て来て、「すごい、すごい、すごい。日本人サムライ!」とか言っていました。
 あの時、私たちは、主が奇跡を起こしてくださったと思っていましたが、もちろんそうですが、これは神から与った管理権を使ったわけです。だから、あのような事が起こったと、今から思い返すと理解できます。一つ一つ、無駄なく、主は私たちの人生を導いてくださいます。
 神は人に対して、自然界を管理するよう、命じられています。

 マタイは、ここで、『見よ、湖に大暴風が起こって、』と書いているのですが、「大暴風」という言葉を調べると、たいへん興味深いことがわかります。私はちょっとこの箇所を調べて、「すごい」と感動したのですが、「大暴風」という言葉は、ギリシャ語では「セイスモス・メガス」となっています。
「セイスモス」という言葉は、他でどのように使われているのかと調べると、新約聖書中、節で言うと、十四カ所で使われています。しかしマタイの福音書以外は「暴風雨」という意味ではなく、「地震」と訳されているのです。だからマタイの福音書を素直に訳したら、「すると見よ、湖に大地震が起こって、舟は大波をかぶった」となります。
 だから、新改訳聖書では*印が付いていて、欄外に「振動」と記されています。振動は「地震のことをいう」と辞書には載っています。もしかしたら、湖に大地震が起こり、津波みたいのが来たのかもしれません。
 けれども、イエス様は「黙れ!静まれ!」と一括されたのです。これは、日本人クリスチャンのために下さった情報かもしれません。
 私たちは、地震国に住んでいますが、地震に向かって「黙れ!静まれ!」と命じて静まるなら嬉しいです。「管理人には、そのような権利がありますよ。あなた方もやってみてください」と言われているのではないかと、この箇所を調べて思いました。
 今後、日本に何が起こるのか、ちょっと不安があります。しかし、主を信じる者たちが、この地の管理人として地震に向かい「黙れ!静まれ!」と宣言できるなら、そんな素晴らしいことはありません。

 先週も、地震の確率が一つ発表されました。南関東において、三十年以内に、マグニチュード七以上の地震が起きる確率が、七十パーセントだと発表されました。怖いですよね。本当に、おちおち眠ってはいられない今日この頃です。
しかし、管理権を使わなければならないのです。
 東北の大震災から三年くらい経ち、ちょっと忘れかけている今日この頃です。「災いは忘れた頃にやってくる」ということわざもありますが、忘れたかけた頃が危ないのです。主は、「ちゃんと地を管理する祈りをしなさい」と言われているような気がします。

 今日の午後から二つのプログラムがあります。一つはスポーツ大会です。教会の前の駐車場でサッカーかバレーボールをやるみたいです。スポーツを楽しんでいただきたいと思います。また、「スポーツは嫌いだ。祈りが好きだ」という方々のために、「中央構造線」について、この頃話していますが、そこに行って祈りたいと思います。
 日本の歴史の中で、最も大きな地震が起こったのは、やはり、日本列島ができた時です。
 日本列島って一つの島ではないのです。いろんな島々がぶつかって出来たのです。

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南と、北の島がぶつかって日本列島になったわけです。

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その痕跡が中央構造線です。それが露頭している場所が、この近くにあります。

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今日はそこに行って、「黙れ!静まれ!」と祈ります。中央構造線上に、日本における主要な偶像礼拝の拠点があり、悪魔が管理しているかのようです。

イエス様が大暴風に向かって「黙れ!静まれ!」と一括され、その後ゲラサに行き、レギオンという悪霊の軍団を退治した記事につながっています。この大暴風、または地震の背後に、レギオンという悪魔・悪霊どもの力が働いてる可能性があると、注解している聖書学者たちもいます。私もそれに同意しているのですが、ヨブ記を見てみても、サタンが出て行った後、大風が吹いたりしています。クリスチャンが、地震や自然災害の背後に働く、人々を悲惨にさせる敵の力に立ち向かい、「黙れ!静まれ!」と管理するなら、歴史は変わるはずです。それが管理人であると思うのです。

マタイの福音書八章二十八節〜三十二節を見ますと、『それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、』とレポートされています。この「ガダラ」、またの名を「ゲラサ」の出来事については、マタイ、マルコ、ルカは皆取り上げています。

『それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。』

マルコとルカは、墓場から、ふたりの男が出て来たとは記していません。一人にスポットが当たっています。マタイは『ふたり』と記しています。何人、墓場に住んでいたのか、定かではありません。けれども、マタイは二人にフォーカスを当てています。
これはやはり、マタイの福音書がユダヤ人たちに対して書かれた為だと思われます。ユダヤ人は、ふたり以上の証人がいなければ事実として信じない人たちでした。故に二人を強調したと思われますが、そこで男たちが何と言ったかというと、二十九節から、

『すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」』

悪霊どもは神の計画を知っているみたいです。やがて、この世が終わる時、悪魔や悪霊どもは、全て捕まえられ、地獄のどん底に投げ込まれると知っているのです。それまでが、自分たちの活動の期間だと、知っているわけです。だから、「まだ時でもないのに、なんで私たちを苦しめに来たんだ」と文句を言っているのです。
しかし、悪魔・悪霊どもが理解していないことが一つありました。それは、イエス様が来られた時、神の国はすでに始まったという事でした。
神の国の到来は、イエス様がこの地上に来られ、宣教を始められた時であり、完成の時はイエス様が再臨される時なのです。
イエス様がこの地上に生まれた瞬間から、完成までの期間が、教会の時代です。教会に管理権が回復され、悪魔・悪霊どもが考えている「時」以前に、彼らを苦しめ、支配する権威が与えられていることを、ゲラサの悪霊どもは気づいていなかったのです。
イエス様は何をされたのでしょうか。その悪霊の軍団を追い出されたのです。

その時レギオンは何と言ったのかが、マルコの福音書を見るとわかります。彼らは「私たちをこの男から追い出さないでください」とは言いませんでした。『この地方から追い出さないでくれ』と、『町から追い出さないでくれ』と頼んだのです。
悪魔や悪霊どもは町をにぎっています。しかし、イエス様はそれを追い出されたのです。その時に、悪霊どもは、

『もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。』

と頼みました。そこに豚の群れがいたので、豚の群れの中に入れてくれと頼んだわけです。すると、イエス様は、

『イエスは彼らに「行け」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。』

と記録されています。イエス様、すごい事をやるじゃないですか。この豚って、誰の持ち物だったのでしょう。イエス様は誰かの所有物である豚の中に、悪霊どもが入る事を許可したのです。その結果、豚たちは全て死んだわけです。

現在のTPP交渉で、アメリカと決着が付かないのが、豚肉だそうですが、豚は、昔からちょっと問題です。なぜ、こんな事になったのか、当時のガダラ、ゲラサの地域のことを調べると分かります。

豚は今のように、食べ物ではなかったのです。当時の豚は、神の使いと信じられていて、人々は豚を神として拝んでいたのです。ゆえに、ゲラサの豚たちは、人々を墓場に追いやり、精神を狂わせる霊的媒体だったのです。だから、その場の豚たちを、滅ぼさなければならなかったのです。
韓国に行きますと、ムダンと呼ばれる霊能者が多くいるのですが、その人たちは霊を呼ぶ時、必ず、豚を使います。豚の鼻の中にお金をつっこんだりして、そこに悪霊を呼びます。それから、豚を切り刻んで人々に喰わせます。豚とは滑稽な動物のように、現代人は思うのですが、そうではなく、当時は神の使いとして礼拝の対象だったのです。偶像のようなものだったのです。だからイエス様は滅ぼされたのです。
イエス様が自然界を管理した後に行われたのは、「霊的世界の管理」でした。これらは、本来、私たち教会に任された使命です。見えない敵がいるのにも関わらず、いくら自然界を管理しても、またやられます。一番重要な管理対象は霊的領域です。目に見えない敵、悪魔・悪霊どもに対するものです。

この夏、ネパールに若い方々が結構、大勢行ってくださるみたいで、楽しみにしています。二十五名くらい行ってくださるそうです。中高生が多いらしいです。
七月のネパールツアーのために、すでにいろんな計画が、現地とも打ち合わせをしながら、立てられています。是非とも祈っていただきたいと思います。来週は、詳しい説明会があるそうです。今日が締め切りですので、行きたい方は、申し込んで下さい。四、五時間、山を登りますから、筋トレを七月に向けて始めるそうです。誰も落後者がいないように、準備するそうです。一番落後しそうなのが、引率するスタッフたちじゃないかと心配しています。若い子たちは大丈夫かと思います。

私は数年前、ネパールに行きました。山岳民族の住んでいる山の登り口近くに教会があるのですが、そこに行きました。すると、教会の人たちがこう言うのです。「この村は悪霊に支配されていて、大変な人がいるので、是非とも行って祈ってください。」と言うのです。
その時も、私は「はい!行かせていただきます!」とすぐに行きました。私が行くと言ったから、みんなも一緒に村の中に入って行きました。

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ある家の前に行くと、 一人のおばちゃんが、あんな悲惨な人はあまり見た事がないのですが、体が全て折りたたまれているような感じで、戸板の上に寝かされ、放っておかれていました。
しかし、私と一団が近づくに連れ、「うわぁ~うわぁ~!」と、大声をあげ、暴れ始めたのです。我々がその家に近づくだけで、大騒ぎでした。なんか、ちょっと嬉しくなりました。「悪霊はちゃんと私たちの事を知っているんだな」と。そうしたら、「何事だ、何事だ」と、村人たちが出て来ました。そして遠巻きに、暴れているおばちゃんを見つめていました。
私は野外で解放を祈るのは、かわいそうだなと思ったので、戸板の上に置かれていたので、「家の中に入れてあげてください。私は中でお祈りしますから」と言って、家の中にその方を運んでもらいました。
しかしネパールの田舎の家って、昔の、縄文時代や弥生時代の家のようで草葺きなのです。中に入って祈ろうとしたら、家のいろんな所に隙間があるのです。隙間を見たら、目!目!目!と、村人の目が取り巻いていました。

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おばちゃんの解放といやしのために祈ってあげました。このおばちゃんです。このおばちゃんは暴れていましたが、イエス・キリストを信じる告白をして、悪霊の力から解放されるように祈りました。そうしたら、彼女は解放されました。このおばちゃん、今、どうなったかな・・・。

でも、なんでそうなったのか、それは、偶像礼拝の結果です。そのおばちゃんは、イェーー!と叫んで、舌ベロが長く出ました。「人のベロって結構長いなっ!」って、びっくりしました。私は興味深く、その光景を見ていたのですが、すぐに背後に働いている悪霊が何か分かりました。
ネパールに行きますと、舌ベロが長く出た悪霊がいるのです。それは「カリー」という存在です。ネパールの人たちは、カリーという舌ベロの長い、ヒンズー神を真剣に拝んでいるわけです。だから、そういう風になっちゃうわけです。
その家には、ヒンズーの偶像の絵がいっぱい貼ってありました。私は、家の人たちの許可を得て、それらを剥がしました。

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私が偶像の絵をはがす度に、ウェーーー!と叫んで大変でしたが、偶像を全て捨て、その家に平安が来ました。子どもたちも、本当に喜んでくれました。お母さんも暴れることがなくなりました。
村人は隙間から、私たちが行っている事をすべて見ていました。私たちはイエス・キリストの名前で勝利しましたから、祈りが終わったら、私たちの周りに、ヒンズー教の人たちがいっぱい集まって来て、「祈ってください。」と言いました。

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私たちは、なんかイエス様になったような気分でした。

今回、中高生たちが行っても、同じ事が起きるように、私は祈っています。

私たちクリスチャンは管理人ですから、霊的世界を管理できる存在です。それを知っていたら、人々を解くことができるのです。
今日、私たちは霊的領域の管理人であることを、深く心に刻みたいと思います。

さて三つ目の奇跡が、マタイの福音書九章一節〜八節に出ています。

『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。』

イエス様は病人を大勢癒やされたのですが、この時の癒やしは、ちょっと他とは違いました。どのようにこの男を癒やされたのかというと、「病気よ去れ!」とか、「癒やされよ!」ではなかったのです。『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と宣言され、いやされたのです。
イエス様は、地上を歩まれた時、完全な人として歩まれました。ですから、周りの人たちはその言葉を聞いて、怪訝な顔をしたわけです。
「この男は何を言うの?罪を赦すのは、神様しかできないのに、罪を赦すと言ったよ。神を冒涜しているんじゃないか。」と。
このように人々は心の中で思ったわけです。そりゃそうでしょう。罪を赦す権威なんて、神様しか持っていないはずですから。そう思うのは当然だと思います。私たちがそこにいても、同じように思うのかもしれません。
しかし、イエス様は九章六節、『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』と言って、中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言うと、今まで体が麻痺していた人が、飛び上がり起きて、家に帰ってしまったのです。
これは、本当に大きな驚きでした。この出来事をマタイ以外、マルコもルカもレポートしいます。ルカの福音書五章二十六節を見ると、

『人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。』
とあります。イエス様の癒やしの中でも、これは特別扱いです。『きょう、驚くべきことを見た』と、『驚くべきこと』という言葉も、新約聖書中、一回しか使われていない言葉だそうです。
これは英語の「パラドクス」という言葉の語源である、「パラドクソス」という言葉が使われています。それは「度肝を抜かれるような」という表現だそうです。
これは、イエス様が「神と人との関係を正しく結び合わせる権威」を持っていたことを意味します。中風の人と、神との間を隔てていた罪に対して、赦しの宣言をすることができたのです。

私たちはイエス様の十字架によって、罪が赦されました。かつて私たちは、罪人でしたから、罪が赦されたことはたいへん嬉しいことです。しかし私たちクリスチャンは、ただ罪が赦されただけで終わりではないのです。なんとイエス様と同じように、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と、神と人との間に立って、神から委託された罪の赦しを宣言することができる存在です。そこまでの権威が与えられていると、どのくらいのクリスチャンが意識しているでしょうか。

ヨハネはこのように語っています。ヨハネの福音書二十章二十一節〜二十三節、

『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」』

イエス様は弟子たちを遣わす前に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と宣言されたのと同じ権威を託されているのです。
それはみ言葉と共に保証されていることです。パウロもこの事について言及しています。第二コリント二章十節〜十一節を見ると、

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

『私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。』と、キリストの体の中で、共同体に対し、互いに赦しを宣言する管理権が委ねられていることを表しています。

とりなしの祈りは、赦しの宣言です。かつて日本が罪を犯し、その罪によって今も、人々は苦しめられています。しかし管理者がかつて罪が犯された場所に立ち、「罪は赦されました!」と宣言する時、今まで覆っていた暗闇は去り、その場は変えられるのです。中風の男の癒やしは、罪が赦された結果として起こった癒やしでした。
私たち管理人は、ただ自分の罪が赦されただけでとどまるのではなく、今度は『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました』と、神のことばを宣言する役割まで与えられている者なのです。

有賀先生がよく証しをするのですが、先生が初めて教会に行った時、一人の歳を取った人が個人伝道してくれたというのです。有賀先生は、昔、偶像礼拝をいっぱいしていた人でしたが、「有賀さん、イエス様を信じなさい」と、三日月形の顔をした、下歯が出ていたおじさんが個人伝道してくれたというのです。若き日の有賀先生に、息を吹きかけるのではなく、下歯を出して、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。ぺっ!ぺっ!ぺっ!ぺっ!」と、つばをかけられたと、よく話されます。その時、彼は罪赦され、今や、あのような立派な、年を取ってもテンションの高い先生となられたわけです。
あの時、三日月顔の下歯が出たおじちゃんが「あなたの罪は赦された!」と宣言しなかったら、今の有賀先生はおられません。

私たちも、様々な罪の現場に行き、神の赦しを宣言し、暗闇の力を打ち破る管理者になりたいですね。
特に、過去からの罪が積み重ねられ、呪いとなっている日本において、私たちが罪を取り去る権限が神から委託され、現場に出て行って用いましょう。とりなしの祈りは、実に重要である事が分かります。
ここまで大きな権限を、神から委託されていることを、深く理解し、管理者として遣わされ働くなら、日本も変わると思います。いや、世界も変わると思います。
 自分の罪だけが赦されたと喜んでいるのではなく、出て行って、神が造られた被造物を管理しなさい、罪を取り消す宣言をしなさい!と、主は言われています。

最後にみなさんと一緒にお祈りをしたいと思います。そして聖餐式を行いたいと思います。聖餐式は、罪が赦される宣言でもあります。それだけでなく、今度は罪の赦しを宣言する者として、「私たちを遣わしてください」と祈ろうじゃありませんか。
自然界においても、霊界においても、人と神との間においても、その狭間に立ち、管理権を行使することができるように祈り、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈らせていただきます。

愛する天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。
私たち人類はあなたから、多くを任されていることを学びました。主よ、私たちがただ罪赦された者、天国に行くことができる者だけでなく、地上での役割を果すことができますように。
今日は、私たちの罪が赦されただけでなくて、人々の罪を赦すために、遣わされる者であることを、心から感謝します。
日本にある、多くの罪や汚れを打ち破り、主の元に人々を連れて来るために、私たちを用いてください。一人一人に、自然界に対し、霊的世界に関し、神と人との間においても、その中間に立つ、とりなし手としての役割、管理者としての役割を、意識させてください。
心から感謝し、すべての栄光をお返しし、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。