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「主よ、来てください」

2014年5月25日 (日)
新城教会副牧師 四元雅也

へブル人への手紙3章13節

『「今日」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。』

ハレルヤ。今朝こうして皆さんの前に立ってお話しできますことを、感謝します。一月十九日以来のメッセージの奉仕です。

最近は、環・関西ミッション関係の集会が増えてきました。順先生、明先生ともに、奉仕に出られる機会が増えています。ざわめきも毎週のように外で奉仕をされていますので、先生方には、大変忙しい日々が続いています。
今月は十一日、十八日、そして今日と、三回連続で順先生が奉仕に出ておられますので、毎週違った先生方がメッセージされています。これも、私たちの教会に神様が与えられた賜物、恵みだと思います。新城教会では、他の先生方も控えていますので、順先生、明先生、開先生も安心して外で奉仕できます。これも感謝です。

最近、賛美の中でも環・関西リバイバルミッションテーマソングである「やっぱ祈りやねん」「主イエスの愛がここに」が毎週歌われていまして、あの「やっぱ~♪祈りやね~ん♪」のフレーズが、頭から離れないと感じている方もおられると思います。本当に集会のたびに歌われています。
四月から八月まで、毎月一回「やっぱ祈りやねん・関西」という名前の、勇士祈祷会が開催されるようになりました。先々週は、新城からも、スタッフを入れて三〇人ほど、日曜日の礼拝後にバスを出して大阪まで出向いて、集会に参加しました。私も参加することができました。
会場は、一〇〇名くらいの小さなところだったんですが、その場いっぱいに、ぎゅうぎゅうになるほど集まりました。大変熱気のある集会で、皆さんがすごく熱く賛美し、祈り、リバイバルを信じている姿を見ました。私もすごく恵まれました。また、ある意味、懐かしい感じがしました。
二一年前に甲子園ミッションが行われましたが、その当時に関西地区でリバイバルのために献身し、一生懸命になって働いていた方たちがいました。その内の何人かは、甲子園ミッションの後で、新城の兄姉と結婚したりして、今は新城に在住しておられます。先ほどすばらしい特別賛美をしてくださった石塚兄も、その中の一人です。
当時、PPHという賛美と祈りの集会が、関西地区で毎月もたれていましたが、それは、朝早くに新城を発ち、午前中から集会を持ち、ひたすら賛美と祈りと、み言葉のメッセージに明け暮れるような熱い集会でした。夜に集会が終わってから大阪を出て、夜中に新城に帰ってくるといったものでした。
「やっぱ祈りやねん・関西」も、そんな空気を感じさせる集会でした。今回、参加者の中で、二一年前、そういった時をともに過ごした方たちが、何人か駆けつけておられるのを見かけました。「ああ、この方たちも二一年間、それぞれの場所でリバイバルのために継続して祈り、働いておられたのだな。甲子園で起こったリバイバルの火は、燃え続けているんだな」と、古い戦友に再会したような気持ちで大変励まされました。そのように、新城だけではなく、知らないところで、日本中で、リバイバルの炎が燃えていると思います。そして、また、関西で新たに燃え上がることを期待します。
「やっぱ祈りやねん・関西」は、来月も八日の日曜日に出かけていく予定だそうなので、みんなで応援に駆けつけていただきたいと思います。

話は変わるんですが、私は最近よく見るテレビがあります。NHKの、「スーパー・プレゼンテーション」という番組です。
アメリカで制作されている番組なのですが、三〇分くらいの番組中、毎回、各分野で活躍している人が、スピーチをします。スポーツ人、建築家、心理学者、芸術家、科学者など、様々な分野のユニークなスピーチが聞けて、おもしろいです。
今月は、カリブ海のキューバからアメリカのフロリダまで、一六〇キロの距離を、世界で初めて、不眠不休で五三時間かけて、泳いで渡りきった人(しかも六四歳の女性)とか、ある日は、全米で活躍している、天才スリ師が登場して、客席から人を上げて、その人の身につけているものをスッたり、スリのテクニックを実演して見せるなど、とても興味深いスピーチです。

そんなひとつの話しなんですが、先日「肥満を防げ!ジェイミーの食育のススメ」というスピーチがありました。スピーチしたのは、こんな人です。

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ジェイミー・オリヴァーは、イギリスの料理人です。イギリスの公立学校の、学校給食改善運動に取り組んでいました。その後、アメリカ合衆国各地をめぐり、いわゆる「食育改革」に取り組んでいる人です。
彼は、アメリカ人の食生活の問題を取り上げ、こう話し始めました。

「残念ながらここで十八分お話している間に、四人のアメリカ人が死ぬのです。過去四世代の大人達が子ども達に与えたもの、それは、親よりも短い「寿命」です。皆さんの子どもの寿命は、皆さんより十年も短いのです。」

その原因は、アメリカ人が子どもに与えている食べ物にあります。アメリカ人の三分の二は、統計上、太り気味か肥満だそうです。アメリカ人の、不健康を示すデータは明確です。アメリカでは銃社会の中で、殺人事件が後を絶たず、社会的な問題となっています。マスコミでも殺人事件が毎日報道されています。
しかし、アメリカ人の死亡原因は、この表を見ると、殺人で死ぬ人は一番下です。

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この赤の部分は、「食習慣」が起因した病気で死ぬ人です。食に関する病気が、今日のアメリカの一番大きな死因、これは世界的な問題です。アメリカでは、医療費の一〇パーセントが、肥満に起因する諸問題のために費やされているのです。
アメリカの子どもたちは、野菜の原型を知りません。教室の中で、トマトを見て子どもたちは、ジャガイモと答えました。野菜の名前が出てこない子どもたちが大勢います。

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この娘は、十六歳ですが、余命六年を告げられています。食べ過ぎで肝臓が駄目になっているからです。

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ある肥満一家が、一週間に食べたピザやホットドッグ、フライドポテト、インスタント食品が、山のように積まれています。野菜はどこにもありません。この家庭の母親は、自分の願いとは裏腹に、子どもの命を縮めてしまったと、泣いて悔やんでいました。
学校給食も、ひどいものです。学校給食は、一日に三千百万人もの子どもが、一日二食、朝食と昼食を、年間一八〇日食べます。その現実は、予算削減の結果、野菜がなくなり、ファーストフードと化しているのです。

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このような給食を朝と昼、一日二食、食べさせているのです。飲み物は子どもたちが好むという理由で、炭酸ジュース並み、一パックに角砂糖四個分の砂糖が入った牛乳が、毎食提供されています。一日に牛乳だけで、角砂糖八個分を摂取しています。
こういったことから、アメリカ人の不健康が起きているのです。大変深刻です。

日本も要注意です。日本人の食習慣も、こういった欧米的な習慣を後追いしています。豊かな食生活、飽食の時代の第二・第三世代である今の若者たちは、スーパーやコンビニで、添加物の入った惣菜やインスタント食品を買い、ファーストフードで食生活しています。効率優先・経済優先の社会構造が、食文化をむしばみ、その中で健全な食生活はなりを潜め、「早い」「安い」食べものに比重が偏っています。これが一〇年、十五年と続くことにより、健康に与える影響は大きなものです。
ジェイミーは、「みんなで取り組まなければならない、口で言う程簡単ではないが、子どもたちの未来のために、今すぐに取り組まなければならない問題です」と言いました。

このスピーチを見て、にわかに信じがたい思いでしたが、その番組の解説者が言っていました。「これは、アメリカでは普通に、どこでも見られる状態であり、大きな社会問題です」と。

聖書の今日の箇所にも、「今日といわれている間に・・」と書かれていました。後になって、「あのときああしていれば・・」と後悔しないように、ということです。去年の流行語でいうなら「いつやるの?今でしょ!」ということですね。

なぜ、彼らは不健康な食生活を変えられないのでしょうか?いろいろな要因もありますが、人間の本質的な弱さもあると思います。それは、「わかっていても、止められない。」ということです。大きな問題であっても、自分の問題として考えることが、なかなかできない、問題を認識することを恐れ、見て見ぬふりをする、ということが良くあると思います。

先週は、ミリオンヒットを出した有名な歌手が、覚醒剤使用の疑いで逮捕されました。最初は「やってない。別の薬だと思って使っていた。」とか言っていましたが、家宅捜索や、毛髪からの成分検知で証拠が挙がり、もうシラを切れないと諦めて、罪を認めたと報道されています。報道を見ると、どうも彼の奥さんが、警察に情報提供し、捜査が及んだと言われています。ズルズルと罪の道を進んでいったあげく、身も心もボロボロになっていく夫を見て、これはもう捕まえてもらうしか、夫が救われる方法がない。このままでは死んでしまう、と、奥さんは思ったわけです。
覚醒剤の恐ろしさを、知っていながら手を出す人は、後を絶ちません。酒やたばこの中毒でも同様です。あのような、食べ物の問題でもそうです。罪というものが人を捕らえるとき、ズルズルと堕ちていき、そこから抜け出すことは、自分の力だけでは困難です。不倫など異性に関する問題でもそうです。自分は大丈夫だろうと、問題を見ずに目先の楽しさ、欲に惹かれて罪を犯していると、ある日、足を滑らして崖の下に転落し、取り返しのつかないことになるまで、事の重大さ、深刻さがわからないのです。

そこには、目に見えない悪の力が関わっているのです。よく話されている、「目に覆いが掛けられている」という状態です。Ⅱコリント人への手紙四章四節

『その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

この世の神(悪魔・悪霊)が、思いをくらませ、罪の力で福音の光を覆い隠しているのです。

福音を覆い隠す罪の最たるものはなんでしょうか?それは、ご存じ、偶像礼拝です。この世に溢れている、人間が作った神さま、いや、神さまなんて呼ぶ価値のない、木や石や金属で、形作られた像や、さまざまな形あるものを拝むことです。日本人は一般的に、それが大好きです。しかし、それは、闇の存在を引き連れているのです。

私は新城市大宮という、教会からすぐ近くに住んでいます。二〇〇四年七月三日、土曜日の夜のことです。当時、インターナショナル集会が、土曜日の夜八時三〇分から行われており、私も毎週参加していました。教会で集会に出ていた私の携帯に、家内からメールが届きました。今は中学生ですが、当時三歳になる直前だった次男が、大暴れして寝付かないので祈って欲しいと書いてありました。私はピンと来ました、これは霊的な問題だな、と。なぜなら、翌七月四日は、私の家の建っている地域で、大きな祭りである、設楽が原決戦場祭りの日だったのです。
我が家では、偶像の祭りがある時に、子どもたちが突然夜泣きをしたり、興奮して不安定になったり、変になることがときどきありました。なので、これは翌日の祭りのことを霊的な戦いでとりなし祈ることが促されているのではないか、と思わされました。

ご存じのように、設楽が原決戦場祭りの中心は、戦で戦死した武田と織田・徳川双方の死者一万六千人に対する供養です。そこでは、戦死者が埋められたとされる場所で、死者の霊と称する悪霊が拝まれています。

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これは、まつりに先立って行われるセレモニーで、戦死者の霊を鎮めるという供養祭です。この地域で一番大きな寺の和尚が来て、経を唱え、祭壇に供え物をして、参列者は死者を拝むのです。そして、その後に行われるのが、決戦のデモンストレーションです。地域の中学生が、両軍の武将に扮して模擬戦をし、

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最後に武田側の子どもたちが、柵の手前でドドンと撃たれて、このように死体となって倒れ、折り重なるのです。

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役を演ずることが、戦死者供養の伝統を継承し、歴史に価値ある史跡を守るための、子どもたちへの教育になると、町では毎年中学校や小学校の子どもたちを動員し、このような事をさせているのです。私は、どうしても理解できません。死者を演ずることと教育に、何の関係があるのか、と。
祭りが行われる広場と周辺の集落は、死をもたらす悪霊の力によって支配されてしまっているような、暗い地域なのです。供養をしないと地域に災いが来るというのが祭りの中心意義です。
死者を拝むことは、死の力と呪いに対する恐れに、その動機を見ることができます。拝んで、供養して、何とか鎮まってもらおうということです。しかし、逆に死の霊を拝むと、人々や町が死という暗闇の支配に置かれてしまうのです。
私たちは、イエス様によってこの町が開放されるために、人々がそのような支配から解き放されるために祈らなければならない、と、聖書から教えられています。

私は集会後、夜遅く家に帰りました。すぐに次男と家内のいる寝室に行きました。次男の様子を見ると、やはり普通ではありませんでした。彼は、ベッドの上で足をバタバタさせて、ずっと、「あっち行け!」と叫びながら泣いているのです。「あっち行け!」というのは、幼かった彼が、気に入らないことがあって怒ったときに言う口癖でした。気に入らないことがあると、いつも「おばあちゃんあっち行け!」「ママ、あっち行け!」とか言いました。でもやはり、普通ではないなと思い、設楽が原決戦場祭りの背後に働く、暗闇の力が打ち砕かれますように、と祈りました。また家内の実家が、我が家の近くで、まだクリスチャンではなく、祭りに深く関わっていましたので、そのためにも祈りました。
祈ると、しばらく静かになりますが、また暴れ出して、なかなか寝ついてくれませんでした。彼を落ち着かせよう、話をしようといろいろ試みましたが、全く話ができませんでした。抱っこしても駄目、添い寝してみても、直ぐに騒ぎ出して、私を蹴飛ばし続けるのです。どうしたものかと困ってしましました。
そのまま時間が過ぎ、眠れないので本当に疲れてしまいました。しかし、最後に、もしかしたら、この子どもは、単に気に入らなくて怒っているのではなく、子どもなりに悪霊に対して戦っているのかも知れないと思いました。もしかしたら、「あっち行け!」と言って私を蹴っているようですが、私ではない他のものに焦点を当てて、戦っているのではないだろうかと思いました。そこで試しに、次男を抱っこして祈ってみました、「イエス様の御名によって、悪魔、あっち行け!」と‥。
すると、その一言だけで、すーっと泣きやみ、嘘のように、そのまま朝までぐっすり寝ました。
子どもと心を合わせて祈ることができたな、と思いました。地上で二人の者が心を一つにして祈ったら、天の父は答えてくださる、というみ言葉の通りに、主が働いてくださいました。彼なりに霊的な戦いをしていたことに気づかなかったのだと思いました。
幼くて会話も満足にできず、自分の気持ちを筋の通った言葉で表現することのできないような、幼い子どもを通しても、神様が戦いをされているのだと思いました。教会の中でも、小さな子どもこそ、悪魔に対する戦いの勇士として、主が用いられることが語られていますが、その通りです。そして詩篇の一二七篇のみ言葉を確信しました。詩篇一二七篇三~五節

『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』

神様は次男を用いて、そのような祈りに導いてくださったと信じて感謝しました。彼は、幼いときは霊的だったわけです。

皆さん、偶像礼拝は恐ろしいです。恐れに端を発して霊の世界に足を踏み入れると、もう抜け出せなくなるのです。止めようにも止められないのです。そうしているうちに、気がつくと人生の奈落の底に落とされてしまうのです。そうならないように、偶像礼拝に手を出してはならないのです。Ⅱコリント人への手紙六章二節

『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』

聖書は、今がめぐみの時、今が救いの日だと言っています。私たちはめぐみの日に恵みを受け、救いの日に救われることができました。本当に感謝な事です。しかし、「今」がめぐみと救いの日であることは、限定的な言葉です。いつか、それが終わるときが来ることを意味しています。聖書には、この世界がいつまでも続くものではないことが記されています。ですから、今と言われている間に、恵みを受けなければなりません。私たちがこうして何気なく過ごしている中にも、もしかしたら、今日にでも、終わりの時が訪れるかもしれないと記されています。Ⅰテサロニケ五章一~三節

『兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。』

最近ちまたを騒がした大きな事件、セウォル号の沈没事件は、国家を揺るがすような大きな問題となりました。

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死者三〇〇人を越えた惨事の報道がされていくうちに、様々な問題が指摘されていくと同時に、目を覆いたくなるような動画が放映されていました。それは、船の中で動画を撮って、はしゃぐ高校生の姿です。怖さを打ち消そうと必死になって、友達同士で騒ぎ立てていました。亡くなった三〇〇人のうちの多くは、そういった若者たちでした。溺れて死ぬことになるかもしれないと、恐怖におびえながら、一方では、まさか自分がここで死ぬとは信じたくない様子でした。
セウォル号では、どういうわけか船内放送で、「絶対に船内から外に出ず、その場所に止まってください」と、繰り返し的外れな案内がされていました。彼らは、大きく傾いた船の中、確かに動けなかったのかもしれません。しかし、このままでは危ないと実感していれば、何とかして脱出を試みたのかもしれません。しかし、その放送を聞いて、そのまま船室に止まってしまいました。あの光景を穏やかに見れる人はいません。なぜあんな愚かな誘導をしたのか?危険な船室に止まらせたのか?すぐに甲板に移動させれば、せめて外に通じるドアを開けていれば、閉じ込められ沈む船と運命を共にすることもなかったのに、と言われています。

今の世にも、このみ言葉のように、繰り返し、「平和ですよ。安全です。今を楽しみましょう。」と、罪を犯していても「あなたの人生はこのままで大丈夫ですよ」という偽のメッセージが流れている、そんな世ではないかと思います。悪魔が欺きの言葉を吹聴しているのです。しかし、「私は大丈夫だろうか?」と、神さまの視点から考える必要があります。

今年の新年礼拝で、滝元順牧師が語られたみ言葉では、「マラナタ」というキーワードがありました。
「マラナ・タ」とは、アラム語で「私たちの主よ、来てください」という意味です。黙示録二二章二〇節

『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

ここから、二〇一四年、私たちクリスチャンは、「マラナタ、主よ来てください」と、主に叫びましょう、と聞きました。それも、戦いに疲れ、失意の中で、早く苦しみのない天国に入れてもらいたい、という意味での、「哀れなマラナタ」ではなく、積極的な意味で、「み国よ!この地に来たれ!」と、宣言する積極的な意味で「マラナタ!」と宣言しよう、と話されていました。二〇一四年のみ言葉として語られたメッセージです。もう5ヶ月が過ぎようとしています。

マラナタと宣言する責任があります。しかし、素直に「マラナタ、主よ来たれ!」といえないときもあるのかもしれません。宣言して、本当に今日主が来られても、私は大丈夫だろうか?と考えさせられるときもあります。「いや、今日では困ります。」というときも、結構あるのではないでしょうか?
仕事に用事にと忙しく、疲れているし、遠くて大変だから礼拝を一回休みましょう、とか、神さまを求めることを優先できない自分がいる。聖書を読むこと、祈ることを怠ってしまったり。

もし、罪にとらわれていたら、今日と言われている間に罪から離れ、神さまが喜ばれる歩みをすることができるように、身を引き締め、目を覚まさなければなりません。自分自身の問題として、恵みの時にしっかりと恵みの中に止まり、今「マラナタ」と言えるかどうか、確認しましょう。また、家族のため、友人や愛する人のため、救いのために、今日と言われている間に救われるように、真剣にとりなし、福音を語らなくてはなりません。
一日一日を大切に、いつイエス様が帰ってこられても良いようにクリスチャンとしての自覚をもって生活したいものです。

お祈りいたします。

愛するイエス様、感謝します。今日もあなたの前に出て礼拝を捧げることができ感謝いたします。あなたは、「今は恵みの時、今は救いの日だ」とおっしゃってくださいました。この恵みのうちに私たちを救い、今があることを感謝いたします。天地を作られた主よ、罪や、あらゆる悪、問題や痛み、悲しみを、あなたは担ってくださり、そして、私たちの祈りに答えてくださるという、素晴らしい恵みをこの手に握り信じて祈れることを感謝いたします。ここにおられる一人一人が、この恵みの中に止まることができますように、そこからはぐれて迷い出てしまうことがないように、今あなたに捧げた願いに応えてください。自ら反省して悔い改め、あなたから離れていたことを覚え、そこから脱出しようと決心される事を祈った方の祈りに答えて、恵みを注いでください。生涯を通じ堂々と、「マラナタ!主よ来てください!」と叫べるように、私たちを導いてください。主イエスの御名によって祈ります。 
アーメン。