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『Go!さあ、行きなさい!

2014年7月27日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順 
ルカの福音書10章1節〜3節

『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』

 ハレルヤ!おはようございます。大変暑い日が続いていますが、お元気にお過ごしでしょうか。熱中症が流行っているようです。昔はそんなのあったのかなと思いますが、イエス様に熱中するのはいいですが、熱中症で倒れたりしないように祈っていきたいと思います。みなさんのお祈りに支えられ、いつも守られていることを、心から感謝しています。
昨日は、大阪で、「環・関西リバイバルミッション」のための決起大会が開かれました。

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「やっぱ、祈りやねん、サマースペシャル」といって、バーベキュー大会があって、みんなで「環・関西リバイバルミッション」のために、祈る集いがありました。新城教会からも多く、参加して下さいました。関西のリバイバルのために、一緒に祈ることができて感謝でした。
また先週私は、大阪西成区・あいりん地区という、ちょっと特殊な地域で集会をもたせていただきました。先週も、その様子がレポートされていましたが、西成区のあいりん地区は、このような家が多く並んでいます。

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このような場所に住んでおられる方々のための教会があります。

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集会案内も、「悪霊からの解放」と書かれていました。いろいろな方法で福音が伝えられています。しかし集会では「みんな顔をあげて!」と叫びたくなるくらい、皆、うつむいています。顔が上がらない事情があるわけです。しかし、徐々に徐々に顔をあげてもらえるようにがんばっているうちに、集会が終わってしまったところもありますが、みんな真理を求めています。
昨日の「やっぱ祈りやねんスペシャル」には、その教会から何人も来てくださいました。良かったなと思いました。日本にも、様々な領域があります。しかし、イエス様だけが希望です。

究極的な希望は何かといったら、イエス様が地上に戻って来られ、全地の王となってくださること、それが、究極的希望です。いくらリバイバルが起こって多くの人たちが救われても、依然として街は変わりません。ましてや国は変わりません。なぜなら、リバイバルにおいては、国の支配権は別に変わらないからです。
 しかし、イエス様が帰って来られ、全地の王となられたら、すべてが変わります。私たちは、その日を目指して、宣教に励んで行かなければならないのです。

 今、読んでいただきました聖書箇所は、イエス様が七十人の弟子たちを宣教に遣わされた場面です。十章を全体的に読んでいただきますとよく分かりますが、イエス様は「神の国の訪れを告げ知らせる」という目的で、七十人を送られました。
 神の国とは、ただ単に、霊的世界の変革だけではないのです。主が地球の王となり、治めてくださる事を意味します。究極的な勝利が、イエス様の宣教の中心でした。

 先ほどもご一緒に祈りましたが、今週は新城教会から二十四名の若者たちがネパールに遣わされます。七十人まではいきませんが、二十四名が、ネパール宣教に遣わされます。これは新城教会の歴史の中で、初めてのことです。
 私個人や、リバイバルミッションという形では、世界宣教はなされて来ましたが、今回は新城教会の若者たちが中心となり、宣教に遣わされるわけです。教会全体の働きですから、ぜひ、祈って支えていただきたいと思います。
 今日、お手元に、「ネパール宣教ツアー」というしおりが入っています。これをよく読んで祈っていただきたいと思います。
 今日は、後から「派遣式」を行いたいと思います。先ほどもネパール語で賛美がなされましたが、向こうでは様々な活動があるようです。ネパール語で賛美したり、メッセージは何語でするのか知りませんが、ダンスを披露したりするそうです。後から、ネパール宣教のための献金もしたいと思います。
 豊かな人とはどういう人か。以前にも話しましたが、ドイツの社会心理学者エイリッヒ・フロムが「愛するということ」という著書の中で、「豊かな人とは、自分の持っているものを他の人に施すことができる人」と言いました。彼によると、いくら金持ちでも、ブラックホールのように、自分のために貯め込む人は、貧しい人だというのです。「自分の持っているものを、誰かのために施すことができる人こそ、豊かな人だ」と著書の中で宣べています。その本が世界的ベストセラーになりました。聖書も同じように告げています。
 私たちは、「不正の富」と呼ばれる経済界に生きていますが、そこから勝ち取ったものを、どれだけ主の働きの為に使うことができるかで、豊かな人になるのか、貧しくなるかが決まるわけです。今日は、ネパール宣教のために、捧げたいと思います。
 今から、ネパール宣教チームの賛美を聴きたいと思います。Tシャツもまだ、余っているらしいですから買ってくださいね。私も下に着ていますよ。下着にしてては駄目じゃん!と言われるかもしれませんが、派遣式の時はTシャツになります。大きな拍手で、二十四名を迎えたいと思います。よろしくお願い致します!

 開先生:今回、二十四名が行きます。今日来られない兄弟姉妹も幾人かおられます。名簿を見て、お祈りいただきたいと思います。火曜日は朝五時十分に教会に集合し、朝九時半にセントレアから行きます。向こうに夜の十時半くらいに到着します。日本時間ですと、だいたい夜中の一時過ぎになります。そんな中で奉仕をしますので、是非、覚えて祈っていただきたいと思います。
 ネパールのとりなしと、以前、順先生たちも行かれた、山の人たちに宣教します。今回は、ひとつ、大きなミッションがありまして、「どうせ行くなら、記憶に残る働きをさせていただきたい」ということで、山の上でカレーを作ります。そして、村人にカレーを食べていただこうと、野菜は向こうで買いますが、いろんな食材や食器を、日本から持って行きます。そして山に上がります。だいたい百人くらいじゃないかということでしたが、つい先日、連絡が来て、「百五十人分は準備してください」ということでした。お米も日本から、わざわざ持って行きますので、是非覚えてお祈りいただければと思います。
 向こうでは、ギター一本で、歌うことになるので、いまから、シンギングダンシングを歌いますが、イントロは口で言ってくださいね。

―シンキングダンシングー

はい!ありがとうございました!ネパールは、インドの北、ヒマラヤ山脈のふもとです。

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 中国で二回くらい乗り換え、カトマンズまで行きます。カトマンズが首都ですが、そこから五時間〜七時間かかるとありますが、そんな時間で行けるのかな?と思います。十時間くらいかかるのではと思うのですが、「鳩の村」という村に行きます。鳩の村は、縄文時代か、弥生時代?と思うような光景です。電気もないし、トイレもありません。NPOが作った学校が一応あります。

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 この人たちはインド系の人たちです。そこでカレーを食わせるというのですから、勇気あると思います。インドといえばカレーの本場です。そこで日本のカレーが、どこまで通じるかです。「なんじゃ、これ」と言われるのか、「うまい!」と言われるのか、本当に楽しみです。
 その村の人たちはたいへん貧しいです。私が行った時も、宣教師が卵を持って行きました。ゆで卵をみんなに配りました。ゆで卵は一年に一度くらいしか食べられないというのです。その山で食べたゆで卵は、私の人生の中で一番うまかったです。
 彼らはヒンズー教徒です。村には占い師がいて、ヒンズー寺院があって、みんな霊能者に騙され、脅されています。何故、山から降りないのかというと、「山から降りたら死ぬ」と言われているからだそうです。下に村が見えるのに、下山しないのです。
 でも、徐々に、クリスチャンになって、山から下りる人もいます。そんな宣教が韓国の宣教師たちによって、なされています。今回は、日本チームが宣教します。
 若い時に、異文化を体験し、貧しい中で生活されている方々、シンプルな生活をされている人たちに出会うことは、大変貴重な体験だと思います。
 今回、新城教会からは万全の体制で行きます。看護師も二人付いていますから大丈夫です。しかし看護師さんたちが、途中でダウンしないよう祈って下さい。
 前回は、私が一番元気でした。他の人たちはみんな下痢をしました。開先生はカンボジアで下痢をして、細菌のデータベースを更新したみたいで、たぶん大丈夫だと思います。健康の為にも祈ってあげてください。
 また、この頃よく飛行機が落ちますね。一度落ち出すと、次々に落ちる傾向がありまして、本当に祈らなければいけないと思います。しかし今回は、すばらしい旅になると私は確信します。

 彼らのために祈っていた時、主が御言葉を与えてくださいました。その御言葉が、今読んでいただいた箇所です。ルカ十章の、特に、三節です。

『さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』

 『さあ、行きなさい。』というのは、英語では、「Go!」と命令形です。すごい勢いで、イエス様は、七十人の弟子たちを宣教に送り出されたのです。しかし次の言葉は怖いじゃないですか。

『わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』

 日本風に言えば、「鴨が葱を背負ってやって来た」という光景でしょうか。敵は、「やったぜ!」という感じでしょう。しかし、昨年も、みなさんとこの箇所から学びました。脅されるように出て行った弟子たちが、なんと大勝利で帰って来たのです。
 ルカ十章十七節から読んでみますと、結論が出ています。ルカ十章十七節〜二十節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 七十人は、他の訳を見ますと、「七十二人」となっています。新改訳聖書には、※印がついていて、欄外を見ると「七十二人」という別訳も記されています。七十人なの?七十二人が本当なの?と、どっちかなと思います。
 イエス様に近い弟子たちは、十二人の弟子たちでした。いつもイエス様の側にはべって、イエス様から直接教えを受け、指導された人たちでした。ですから、十二弟子の名前は有名です。
 イエス様には十二人弟子だけではなく、外回りに二軍、三軍、四軍といいましょうか、弟子たちがいたようです。
 しかし「七十人だったかな?あれ?勘定したら増えてるぞ?減ってるぞ?」というような名前も分からない弟子たちの群れの中に、最も偉大な勝利が現されたのです。今回も、そのような事がきっと起こると信じています。
 七十人の弟子たちに、イエス様は何を指示されたのかと言うと、ルカ十章四節〜九節に記されています。

『財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。』

 どうでしょうか。今回のネパールに行く二十四人の方々。これを完全に実行したら、どうなりますか。普通じゃ、ありえないですよね。『財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。』というのです。ほとんど変人たちの群れでしょう。
 『だれにも、道であいさつしてはいけません。』というのです。宣教は、愛嬌が大切です。誰にも挨拶をしなかったら、「何者だ?」となります。
 しかし、こんな変人の集団のような中に、神の勝利が現れたのです。
 『どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。』と言うのです。『もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。』とあります。イエス様は不思議なことを言われました。

 実は今回、彼らが行く村は、「鳩の村」という村です。鳩とは、平和のシンボルです。「平和な村になりますように」という気持ちで、「鳩の村」と名付けたのだろうと思われます。
 この村の一番高い場所に、ヒンズー寺院があるのですが、私はそこに上がってみました。教会の上に、ヒンズー寺院があるのです。寺院の屋根には、木の彫りのものがついていました。どんなものかというと、鳩がコブラに食われる彫刻でした。まさしくその村の、霊的環境を現しているかようでした。平和を壊す犯人は誰か、それは蛇である悪霊どもです。
 その村の人々は、霊能者によって支配され、「山から下りたら死ぬ」と言われ、人々はいつ頃からその場所に住み着いているのか知りませんが、山に閉じ込められ、全く文明から離れた、貧しい生活のただ中にいるのです。
 山の下を見たら電気が来ているのです。でも彼らはそれを星と呼んでいます。「下に見える明かりは星だ。上に見るのも星だ。」と教えられているわけです。

 イエス様も、村の平和を壊す蛇をご存じでした。戦いを意識しながら、七十人の弟子たちは、町々、村々に入って行ったはずです。緊張感溢れる様子が、十章には記録されています。
 今回、チームが一番心配しているのは、やはり、お腹を壊さないかということです。海外で下痢をするほど辛いことはありません。
 20年以上前になりますが、アルゼンチンに初めて行きました。なんだか訳分からずに行きました。ブエノスアイレスに行ったのですが、滞在していると、ある人から電話がかかって来て、「あなたは滝元と言うでしょ。滝の元を見に行きませんか?」と言いました。どこに行くのかと聞いたら、「イグアスの滝」に連れて行くというのです。滝はブエノスアイレスの街中にあるのかと思ったら、飛行機に何時間も乗っていく遠いところでした。
 私は飛行機のチケットを予約していなかったので、帰りに空港で「チケットをください」と言ったら、突然、電気が消えて、コンピューターがダウンして、カーテンを閉められました。「どうしたの?」と聞くと、『もうチケットがない』というのです。「どういうこと?」と聞くと、『明日まで飛行機はない』と言うのです。明日までないって言われても、イグアスのジャングルの中の飛行場でした。どうしようかと思いました。
 そうしたら、近くに難民部落があり、日系ブラジル人が教会をやっているというのです。日本語がカタコトでできるから、そこに連れて行ってやると言われ、そこに連れて行ってもらいました。

 そうしたら喜んで迎えてくれました。その部落は経済難民の村でした。その地域は、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンと国境を接しており、各国の経済の事情で、あっちに行ったり、こっちに行ったり、どうにもならない人たちが住んでいるのです。
 私が村に行ったら歓迎してくれて、アルゼンチンではマテ茶を飲みます。素掘りの井戸から水を汲んで、マテ茶を作ってくれました。コップを覗いたら、動いているやつらがいるのです。それはボウフラでした。「どうやって飲むの?」と聞くと、『叩くとボウフラが驚いて下に沈むから、その隙に飲め』と言うのです。冗談じゃないと思って、飲みませんでした。マテ茶とは、全部飲み干して次に回すのです。待ってちゃいけない、だからマテ茶というのか知りませんが、『早く飲んで回せ!』というのです。飲むふりをして渡しました。素掘りの井戸に、この前も、豚が落ちて助けたとか言っていました。
 その晩、「集会をやりましょう」と言いました。翌朝はすぐに帰りたかったです。そうしたら朝、朝食を用意してくれました。朝ご飯に何をくれるのかなと思ったら、ベッドの下から、砂糖がいっぱい付いたパンを出してくれました。砂糖パンを受け取った途端、パンは黒くなってしまいました。何かと思ったら、ハエがたかっていたのです。私はハエを追ったのですが、「追っちゃ駄目だ」というのです。「追う代わりに早く食え」というのです。ハエは大量にいるから、追ったって無駄だというのです。
 私はやっとの思いで、空港までたどり着きました。その時は、本当に「主よ!感謝します!」と叫びました。
 すると突然、お腹がなって、痛くなって、トイレに駆け込んだら、本当に申し訳ない、汚い話しですが、大変でした。やっと飛行機に乗りました。すると機内で、黄色い用紙が配られました。スペイン語で書いてあったので、分からなかったのですが、後ろを見たら、英語で書いてありました。分からない単語を訳しながら読むと、「この地域はコレラの危険地帯です。次のような症状のある人は申し出てください。①水のような下痢。」と書いてありました。
 「あぁーーー!俺はついにコレラになってしまった!」と、飛行機の上で血の気が引くような体験でした。しかし感謝な事に、何とかなりました。でも、あのような下痢があって、今はどんな国に行っても、対応できるようになりました。

 しかし、イエス様は何と言われましたか。「出してくれるものを、飲み食いしろ」と言うのです。私たちが宣教に出たら、「出してくれるものを飲み食いしろ」と、言うのです。『毒を飲んでも決して害を受けない』とあります。もちろん、注意することは必要ですが、宣教に出て行ったら、基本的には、出してくれるものを自由に飲み食いしても、害を受けないはずです。
 現代は、食品添加物だとか、食の安全性が問われています。先日もマクドナルドのナゲットが問題になりました。しかしキリストを信じた者たちは、基本的には、福音宣教のために立ち上がり戦ったら、「出してくれるものを飲み食いしても決して害を受けない」ということを、告げているのではないでしょうか。
 今回も、誰一人下痢することなく、喜んで、主に仕えることができるよう、是非とも祈っていただきたいと思います。

 そして九節、

『そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。』

 イエス様の宣教の視点は、「神の国が近づいた」と宣言することでした。
 先ほども話しましたが、究極的勝利はどこにあるのか。私たちはリバイバルを願い、多くの人たちが救われることを願っています。これも本当に重要なことですが、いくら新城教会に五千人が来るようになっても、五万人くらいの街ですから、四万五千人は滅びに向かっているのです。ある教会が大きくなったとしても、ある意味、焼け石に水です。まだまだ様々な問題が存在するわけです。
 先週、大阪のあいりん地区に少し早く行って、とりなしに行きました。しかしある場所は、入って行くのがちょっと怖い感じでした。日本にもこんな所があるのかと、びっくりしました。
 私は普段着で集会に行きました。賛美の時、ホームレスのおっちゃんの中に座っていました。あとでメッセージに立ち上がったら、「あれ!西成のおっちゃんかと思った」と言ってくれて、ちょっと嬉しかったです。このような所に行きますと、この場所の根本的な問題解決って、ただ単に人々が救われて天国に行くことや、教会が盛んになることでは、不十分だと思うのです。その地にイエス様が現実的に来られ、王となって支配して下さることです。地球の支配権、支配大系全体が完璧に変わらない限り、いつの時代にも必ず問題はあるのです。
 しかし、イエス様が再び、この地に戻って来られ、全地の王となり、世界を治められたら、すべての問題は解決するのです。
 ということは、私たちの宣教のゴールも、「神の国の実現」になかったらいけないのです。案外、私たちは、神の国の実現という言葉は使いますが、霊的な領域だけの変革のように勘違いしてしまうのです。しかし聖書を見ると、霊的世界の変革は、必ず、現実世界の変化にリンクしているのです。霊的世界の変化が、現実の世界の変化につながらなければなりません。
 神の国とは、イエス様が世界の王となるという、千年王国を意味します。その時代が来ることを理解して、とりなしていかなければならないのです。

 今回、ネパールに行く人たちも、宣教のゴールの視点をしっかりと持っていただきたいと思います。「貧しい国だな。本当に大変だな・・・」ではないのです。イエス様が王となり、帰って来られたら、ネパールは完璧に変わるんだ!と、それを目指して、宣教していただきたいと思います。

 七十人の弟子たちは、ビクつきながら、宣教に出て行きました。しかし、帰って来た時は、喜々として、喜びに満たされて帰って来ました。それを先ほども読みました。

『「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」』

と、報告しました。それを聞いてイエス様は、

『「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」』

と言いました。七十人の弟子たちが、なぜ出て行くことに躊躇したかというと、十二人の弟子たちの場合は、宣教に出向く時、イエス様が一緒に付いて行きました。でも、七十人の弟子たちは、二軍にも関わらず、二人ずつ組にされ、イエス様がやがて行かれる町や村に、前もって遣わされたわけです。
 その命令がくだった時、七十人の弟子たちは、暗くなったと思います。「十二弟子たちの時はイエス様が一緒に行くのに、俺たちは、まるで生け贄みたいじゃん!」と思った事でしょう。『わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。』と言われましたから、最悪だと思ったかもしれません。

 そんな丸腰のような、なんのサポートもないような状況で出て行ったと思われるのですが、結果は全く違いました。なんと、「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と、すごいレポートでした。
 イエス様がその時に十九節。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

という、すばらしい言葉をくださいました。イエス様は見放したように見えるのですが、実はそうではなかったのです。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』と言われました。多分弟子たちは、びびりながら、町や村に入ったのでしょうが、イエス様はちゃんとその宣教活動に関心を持っておられたのです。背後からちゃんと見ておられたのです。七十人の弟子たちが宣教に出て行った時、「サタンが、いなずまのように天から落ちるのを見た」というのです。「おぉ!サタンが落ちた!」イエス様はそれを見て心が躍ったのです。
 ルカ十章二十一節〜二十四節を見ますと、こんな言葉があります。

『ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」』

 去年も、ここからメッセージを語らせていただきました。旧約聖書の多くの預言者たちが切望していた光景とは、七十人の弟子たちが、丸腰のような状態で出て行ったけれど、大勝利で帰って来たという光景だったのです。
 七十人の弟子たちは、イエス様からどのように評価されたかというと、

『これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

 七十人の弟子たちは、イエス様から見たら、幼子のように見えたようです。あまりかしこくも見えなかったみたいです。あまり訓練を受けていなかったのかも、しれません。
 しかし、そんな未熟のように見えていた彼らが出て行った時、今までにない大勝利を体験したのです。その光景こそ、旧約時代の預言者たちが一番、見たいと願っていた光景だったのです。
 何が言えるのでしょうか。時々、私たちは訓練され、すべてを知った上でイエス様と一緒に出て行かないと勝利できないと、思っているのですが、実はそうではないという事です。

 聖書の真理は、七十人なのか、七十二人か分からないような、幼子のように見え、あまり賢くもなく、あまり訓練されていない、ただの人じゃん!というような、人たちが出て行くだけで、サタンが落ち、神の国の業が拡大するという真理です。これこそ、聖書の中の大きな真理です。

 今回は、中学生、高校生を中心とする人たちが、ネパール宣教に出かけて行きます。私も行けたらいいなと思いますが、今回は行かないで、背後で祈ることにしました。開先生やスタッフもいますが、若者たちが中心となって行くのは、聖書的な事です。
 ちょうど七十人の弟子たちと同じです。彼らが、「お腹壊さないかな・・・、問題が起きるかもしれない・・・、恐ろしいな・・・」と、ちょっとびびって出て行くのかもしれないけれど、現地に行くったら、「すごい事が起きますよ!」と、預言的に教えているのではないかと思います。
 今回、どんな報告が聞けるのか、楽しみです。七十人の弟子たちが報告したのと同じようなレポートが、ここで聞けたら最高です。それを是非とも祈って下さい。
 十章二十節で、イエス様はこんな事を言われました。

『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』

 この事についても、去年、詳しくお話しさせていただきましたので、思い出していただきたいのですが、この言葉は、「悪霊どもが追い出されるのを見て、喜んでいるなよ。天国に行けることを、喜びなさいよ」という理解が多いのですが、それは間違いです。

 ユダヤ人は、「名前は、その人自身」と考えていました。「名は体を表す」ということです。
 『悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』とは、どういう意味なのでしょうか。
 イエス様は、天における権威を持っておられたお方です。私たちは、キリストを信じる事を、天国行きのウェイティングリストに載るイメージしか持っていないのですが、そうではないのです。キリストを信じるとは、天で権威を持っておられるイエス様と同化して、同じポジションにつくことなのです。
 「名は体を表す」とは、イエス様が持っている権威と同じ権威を、弟子たちは手渡されていたということです。イエス様と同じ権威が七十人にあったのです。だから、『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』と報告できたのです。この箇所を正確に訳すと、「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる」と訳されるそうです。

 弟子たち自身の名が、天に記されているとは、弟子たちはイエス様と一体化して、イエス様の中に含まれている、そのようなポジションがあるゆえに、現場に出て行った時、イエス様が悪霊どもを追い出したのと同じ働きが出来たのです。
 一見、幼子のようで、何の知恵も権威もなさそうな七十人の弟子たちが、現場に出て行ったら、彼らの名前が天に書き記されていたゆえに、イエス様の名前のただ中に彼らの名前が含まれていて、イエス様と同じ働きが出来たのです。この光景こそ、旧約の預言者たちが見たいと願っていた光景だったのです。
 それがどこで起こったのか、知恵がある者とか、かしこい者たちの中ではなく、名もないような、おびえながら出て行った人たちの中に起こったのです。
 主は、誰も目を留めないような領域で、最も偉大な勝利と、真理を、明らかにされるのです。今回のネパールの宣教旅行が、そんな旅行になったらすばらしいと心から願っています。

 実は七月のこの週、私にとっては決して、忘れることのできない週です。一九九二年七月三十一日のことでした。名古屋に行って、ちょっと車をとめて休んでいた時、ふっと西の空を眺めた途端でした。真っ白い入道雲のただ中から、光る十字架が出て来ました。私は何回も話しますが、嘘じゃありません。私は霊的な体験ってあまりないのですが、一九九二年七月三十一日に、西の空にはっきりと十字架を見ました。十字架がふっと出て来て、すっと引っ込んで行きました。それを二回見ました。私は呆然として、そこにいたスタッフたちに話すことができませんでした。
 集会が終わって、夜に家に帰る途中、雅也先生が、「順先生、今日、なんか見たら?」と言うのです。なぜかと聞くと、「目が点になっとったもん」と言いました。インターネットにこんな画像がありました。
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ちょっと、これによく似ていました。正面から十字架が見えたのですが、雲の中から十字架が出てきて、引っ込んで行きました。
 私はあれはなんだったのかなと、この頃考えているのですが、もしかしたら、霊的戦いが始まったのは、イエス様の再臨と強い関係があると言うことです。主が帰って来られ、全地を治められる事につながるのではないかと、この頃、感じています。

 私たちの宣教も、霊的戦いもすべて、ただ一点、「主が再びこの地に戻って来られ、全地を支配される」という目標に、集約されなければならないのです。その日を目指し、クリスチャンたちが、「イエス様の名のただ中に含まれ」、各地に出て行って、恐れずに、福音を伝えるのです。

 最後に一つの御言葉を紹介します。詩篇一一〇篇三節の言葉です。このみ言葉は、特に、今回のネパール宣教チームに差し上げたいと思います。
 詩篇一一〇篇三節、

『あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。』

 最後に一緒にお祈りをしたいと思います。今回の宣教旅行は、全員の戦いです。待っている人も、現場に行く人も、同じ枠組みの中で戦いが進展するのです。
 ツアー中での事柄を、メールで配信してくれます。登録すれば、メールがリアルタイムで届きます。しかし、現地にWi−Fiが通じているかは、その辺はどうなるか分かりません。何カ所かは通じる場所もありましたので、きっとレポートを送ってくれると思います。現地と一緒になり、神の国が現されるために、共に戦っていきたいと思います。一言、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝いたします。あなたが今回、二十四名の若者たちを、ネパールに送ってくださいますから、心から感謝します。様々な心配もありますが、ルカ十章の中から、励ましを与えてくださっていることを、心から感謝します。一人一人が、主の勇士として用いられますように。七十人の弟子たちが帰って来た時と同じレポートを聞くことができますように。また、残って祈る者たちにも油を注ぎ、支えることができますようお願いします。
 私たちの目的はただ一つ、イエス様がこの地上に帰って下さることです。この地を治めてくださる一点にあります。主よどうか、あなたが地球を治めてください。その日を早めてください。あなたがこの地に帰って来られる準備のため、勇士として、私たちを用いて下さい。血潮を心から感謝をします。イエス様の御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。