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『町の祝福の為に働こう!

2014年10月26日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書33章6節〜9節

『見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。共に主を礼拝できますことを、心から感謝しています。
 今も、菊池陽子さんの、励ましに満ちた賛美を聴きました。私たちには強い味方がいると歌ってくれました。それは三位一体の神、すなわち、父なる神であり、イエス様であり、聖霊様です。このような偉大な方に仕えることができる事を、心から感謝します。

 今日のメッセージの題を、「町の祝福の為に働こう!」と、つけさせていただきました。今読んでいただきました、エレミヤ書三十三章九節の言葉は、大好きな言葉です。私たちが住んでいる町が、こんなふうになったら、すばらしいです。みなさんで、三十三章九節を読んでみましょう。

『この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。』

 「この町」という所に、みなさんが住んでいる町の名を入れて、自分の町に帰ってから、どこか高い所にでも登って、町に対して宣言していただきたいと思います。

 私たちクリスチャンは、町の霊的管理者です。さらには国の管理者でもあります。そして、地球の管理人です。ですから、町のために、国のために、また世界のために祈り、ゆだねられた管理権を行使するなら、地域は変わるはずです。
 二週間前、私はこの場所でメッセージを語らせていただきました。その時、みなさんで台風十九号によって被害がないように祈りました。祈るか祈らないかは、メッセンジャーとしては、一つのカケみたいな祈りでした。台風の為に祈っても、台風が直撃し、最悪のことが起こったら、「あいつが語っていることは、全て嘘だ!」となりますから、私でも、ちょっと躊躇がありました。「どうしようかな…。主よ、どうしましょう」と尋ねながら祈りました。報道によると、台風十九号は、過去最大の台風だったそうです。

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 宇宙飛行士が、宇宙ステーションから見て、「こんな大きな台風、見た事がない!」とレポートしたそうです。
 しかし、皆で深刻な被害がないように祈ったじゃないですか。主は一番良くして下さいました。今回、最大の台風と言われましたが、全国で亡くなった方は一人だと報道されていました。九十歳のおじいちゃんが、台風の最中に畑を見に行って亡くなられたそうです。それはお気の毒なことですが、深刻な被害は比較的少なかったです。
 月曜日に、台風が直撃ということでしたが、この教会では「マミータイム・スペシャル」という、遠足がありました。私は絶対に中止だと思っていました。マミータイムは、小さなお子さんやお母さんが来られますから、遠足は無理だろうと思っていました。マミータイムを担当しておられるスタッフは、毎回、慎重にやっています。私はいつも、「そのくらい大丈夫だよ。行けよ。」と言うほうですが、スタッフたちは責任がありますから、慎重なんですね。ですから当然、遠足はないものだと思っていたら、なんと月曜の朝、メールが来ました。「今日は遠足をやります。」おいっ!どういうこった!と思いました。
 しかし、すごいです。台風の最中に行って、彼らが行った場所はこんな感じだったそうです。晴れていたそうです。信じられますか。

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 すべて守られたのです。私たちは地球の管理人だと、いつも語っていますが、先々週は勇気を出して、みんなで祈ってみました。祈りを主が聞いてくださいましたというか、委ねられた権威は使えるじゃないか!と、証明してくださったようです。
 これから、もっと勇気を出して、与えられている管理権を使わなくてはいけないと思わされました。
 特に、住んでいる町に関しては、管理人としての責任があるのです。住んでいる町の祝福を祈らなければいけないのです。さらに町だけでなく、国のため、世界のためにも、地球の管理人として働かなければいけないのです。

 私は来週の水曜日から、ナガランドという場所に行きます。それはどこかというと、インドです。

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 右のほうに赤い箇所がありますが、インドでも飛び地のような場所です。来年、そこでリバイバルミッションを計画しています。お年よりの方ならば、インパール作戦について知っていると思います。戦時中を通過された人で、インパールを知らない人は、まずいないと思います。あれは、日本軍にとって一番愚かな戦いだったのです。なんの補給もないのに、日本軍がインパールに攻めて行き、五万人、六万人という兵隊たちが飢え死にしたのです。太平洋戦争の中で、最も愚かな作戦がインパール作戦だと言われます。
 リバイバルミッションを、マニプール州インパールと、ナガランド州のコヒマで開催したいと祈っています。是非とも、共に祈っていただきたいと思います。今回、この働きがインパール作戦にならないよう、祈っていただきたいです。「リバイバルミッションの働きの中で、最も愚かな作戦だった」とならないよう、霊的に勝ち取るために行きますから、祈って下さい。
 私はちょっと気が重いです。リバイバルミッションの先生方に、「順先生!行って、話をつけて来てください!」と言われ、全権大使みたいなものです。来年の事を決めに、向こうの先生方と話をするのです。でもすでに山崎先生が行って、ちゃんと下準備をしてくださっていますから、大丈夫ですが、私ではちょっと役不足かなと思います。しかし不思議です。主はこういう時のために、助け人を用意して下さいました。
 実は、私はナガランド人の牧師と友達だったのです。ナガランド人の友達と長〜い友達だったのです。二十数年来の友達です。その方は不思議なことに、今年、タイでリバイバルミッションの責任を持ってくださった、ナロン先生の奥さんの従兄弟でした。不思議ですね。それも、日本に帰る間際に分かりました。

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 この方と一緒に行くのですが、祈ってください。この先生が私を連れて行ってくださいます。カメイ先生と言います。かめい?日本人じゃないかな?と思うかもしれませんが、それは向こうの名前です。日本語の名前によく似た人たちが多いというのです。この方と二人旅です。これなら、すばらしい働きができるのではないかと、すこし楽しみにしています。
 ナガランドまでは長い旅です。三十数時間かかります。大変ですが、がんばって行って来ます。良い報告ができると信じています。
 かつて日本が大きな苦しみを、アジア諸国に与えたわけです。それを悔い改め、回復するのは、教会の役割だと思います。ナガランドは現在、クリスチャン人口が九十パーセント以上です。でも、そこに来る日本人は、仏教徒や神道の人たちらしいのです。彼らは慰霊祭をやるそうです。そして、謝罪もするとそうです。「日本がかつて犯した罪を許してください。」と謝罪するそうです。でも、現地のほとんどの人はクリスチャンです。「日本の教会はどうして来ないの?」と言うそうです。そのような中、私たちには大きな使命があると思います。

 今日のメッセージの主題のように、『この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」』と言うように、世界の町々が変えられたら、すばらしいと思います。

 エレミヤは、ユダが滅びる寸前に、この預言を語りました。ユダの滅びを目前にして、彼はこんな預言を語りました。一度は滅びるかもしれないけれど、もう一度、主は国を回復し建て直します!という希望の預言だったわけです。
 この預言は究極的には、やがて主が帰られた時、実現する千年王国の預言であると思われます。エルサレムが世界の首都となり、世界中がイエス様の名のもとに、栄ある町となり、世界となるという預言です。
 私たちは何を目標として、信仰生活を歩むのでしょうか。それは主が帰って来られ、世界を治められる日に目標を定め、希望を持って進んで行きたいです。また主は、その日に向い、教会を通して準備をなさるのです。

 時々私は、いろいろなご家庭に、家庭集会の為におじゃまさせていただきます。するとたいへん感動するのですが、どのお宅に行っても、部屋が綺麗に掃除されているからです。私の家と比べると、本当に綺麗になっているからです。「よく片付いていますね!」と言うと、「いや、先生が来られるというものだから、一日かけて掃除したんですよ!」なんて言われる時があります。そのまま、自然体で迎えて下さればいいのにと思うのですが、私がお邪魔するだけでも、部屋をきれいに掃除してくださるなんて光栄です。

 イエス様が帰って来られる為に、私たちは町を掃除しなければいけません。掃除されていない町に、イエス様をお迎えするのは心苦しいです。クリスチャンは、町の霊的掃除人です。イエス様が喜んで帰って来てくださるように、町を掃除し、主を待ち望むのです。
 町が掃除され、変えられた記事を、新約聖書中に見いだすことができます。それは私が大好きな箇所の一つです。使徒の働き八章四節から八節に、こんな記事があります。使徒の働き八章四節〜八節、

『他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』

 特に、八節の記録が大好きです。『それでその町に大きな喜びが起こった。』
 ちょっと自分が住んでいる町の名を代入して、読んでみましょう。さんはい!「それで新城に大きな喜びが起こった。」いや〜、すばらしいですね。
 町に喜びが溢れたのは、どういうことでしょう。町とは、人の集合体ですから、人々がみな、幸せになった事を意味します。
 町を眺め、喜びと悲しみを天秤にかけたら、悲しみのほうがかなり重いと思うのです。喜びがちょっとで、悲しみがいっぱいというのが、日本の町、世界の町々の現状です。
 しかし、その町に喜びが起こったというレポートは、町の比重が変わった事を意味します。悲しみがちょっとで、喜びがいっぱい、幸せいっぱいになったということです。そんなことが人類史上に起こったのです。それはイエス様が帰って来られるために、準備した結果として起こったのです。この働きを、私たちは継続しなければいけないのです。私たちクリスチャンは、町の掃除人として、町の悲しみを一掃し、町を喜びで満たす働き手です。

 しかし、町が喜びに変えられる為には、いくつかの条件がありました。八章八節に、『それでその町に大きな喜びが起こった。』とありますが、『それで』とは、それってなに?ということです。町になんらかの条件が整ったことにより、大きな喜びが起こったのです。私たちは、その条件を満たす為に働くのです。

 まず、第一の条件はなんでしょうか。それは八章五節に、

『ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。』

と記録されています。教会は、エルサレムから始まりました。ユダヤ地方から始まりました。エルサレムにリバイバルが起こると迫害が起こり、人々は散らされたというのです。
 ピリポという人物も、迫害によって、サマリヤ地方に散らされたみたいです。当時の地図を見ると、分かりやすいです。ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤと、当時の地図を見るとわかりやすいです。イエス様がおられた時代、イスラエルはこんな地域に分かれていました。

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 イエス様が初期に伝道の拠点としたのが、「ガリラヤ地方」でした。その下のサマリヤ地方は、ユダヤ人と違った民族が住んでいました。サマリヤにおけるイエスさまの伝道活動も、いくつかは報告されていますが、あまり多くはありません。イエスさまの宣教は、主に、ガリラヤとユダヤ地方でした。ユダヤ人たちは、サマリヤ人たちを見下げていました。サマリヤ人たちもサマリヤの人たちで、ユダヤ人と対立していたわけです。イエスさまが「良きサマリヤ人」の例えを話された背景に、民族紛争的様相があるわけです。

 ピリポはエルサレムで迫害され、サマリヤに下って行ったとのです。なぜかというと、分かりますよね。敵の地域に逃げ込んだわけですから、追っ手が来ないということです。相当、エルサレムでの迫害は激しかっただろう、と推測されます。予期せぬことが起こったわけです。
 そんな予期せぬことが起こったのですが、それでもピリポは、福音を伝えたのです。逃げて隠れていたのではないのです。自分の使命は、しっかりと果たしていたのです。

 私たちが町を変えるために、最も大事な条件は、「人々にキリストを宣べ伝える」ということです。私たちも、誰かがイエスさまについて教えてくれなかったら、教会には来なかったわけです。私なんかクリスチャンホームに生まれなかったら、きっと、クリスチャンにはならなかったと思います。クリスチャンホームに生まれて、「変な家に生まれちまったな」と、ちょっぴり思いましたが、今は感謝しています。良かったな!と。
 家内が、「あなたは、クリスチャンホームに生まれなかったら、多分、救われなかったね。」と言います。「そうだろう。」と思います。もしかしたら、大変な人生になっていたのかもしれません。私たちは、どんな状況においても、キリストを宣べ伝えることが大切です。

 クリスチャンには「偶然はない」のです。時には、「なんで、こんな所に来てしまったんだ!」というような、予期せぬ力に押し出され、あるグループに入ってしまったとか、ある町に住むようになったりと、予期せぬ出来ごとがありますが、そこにも神の偉大な計画があるのです。そこでキリストについて宣べ伝えると、「町が変わって来ますよ!」ということです。
 それぞれの町に、様々な理由で住むようになったかもしれません。しかしそれは、遣わされたのです。そこでキリストについて宣べ伝えることが重要です。
 先週も、「さぁ、仕事に取りかかろう!」と語られていましたが、その仕事は、イエスさまのことを、みんなに伝える仕事です。

 その条件が満たされる時、次に何が起こったのかも、記録されています。八章六節、

『群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。』

どうして話を聞いてくれたのか、その理由が、七節に記されています。

『汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。』

 実は、ピリポが町に入って、福音を伝えた時に、何が起こったのかというと、「汚れた霊が出て行ったというのです。悪霊どもが「おぇーーーっ!」と、叫んで出て行くような事が起こったのです。悪霊が追い出されたのです。すると、その結果として、病気が治ったというのです。
 この町には、中風の人が多かったようです。現代の病名では、脳梗塞とか、脳溢血とか、クモ膜下出血とか、そういう脳関係の病気でしょうか。そういう人たちが多くいたようです。そのような病気になると、車いすになる人も多いです。それが治ったわけです。脳の病が癒やされ、現代なら、車いすを捨てて歩き始めたという、奇蹟が起こったのです。

 聖書は、どの時代の人が読んでも分かるように、記されています。イエス様の時代にも、医者もいましたし、薬もありました。今の時代もそうです。医学があるので、病院に行って治る病気も多くあります。熱が出た時なんか、祈るよりも、熱冷ましの薬のほうがずっとききます。「熱が出た!主よー!」と祈っていて、熱はどんどん上がって行きますが、薬を飲んだら「治った!」という感じです。感動的だな!と思うのですが、いつの時代でも、薬はあったのです。ですから聖書は、医学を否定しているわけではないのです。いつの時代でも、医学はあるのです。
 しかし、医学は、百年も経てば、「あの時の医学は、今とは全く違う。」と、百年も経てば、かなり否定されるかもしれません。この中にはお医者さんもいますから、慎重にやっていただきたいと思いますが、百年も経ったら、「ありゃー!これは間違っていた!」ということも、ありえると思うのです。
 ですから、聖書は医学的な領域はさておき、病気の根源について強調し、語っているのです。そこには、霊的理由が関わっていることを、教えているわけです。教会は、病院ではありませんから、霊的な領域を受け持つのです。何をするかというと、病気をもたらす悪霊を追い出すことです。それと、時代の医学と一緒になれば、さらに病の癒やしは拡大するはずです。
 この町においては、悪霊が追い出される事が、病の癒やしに直接つながったのです。やはり病気が癒やされるのは、心配から喜びに変えられる一番大きな要素です。
 どの町でも、病院は満員御礼です。新城教会に来るまでの一五一号線バイパスは、病院ストリートになってしまいました。教会ストリートではなく、病院ストリートとは何事だと、天野先生にしかられてしまいましたが、本当に残念だと思います。みんな教会に来て癒やされるようになったら、もっと幸せになるのにと思います。私たち、教会は、人々の病の癒やしの為にも、熱心に霊的掃除をしなければいけないわけです。そうしたら、町の治癒率はもっと上がるはずです。
 悪霊が追い出され、病が癒やされた結果として、八章八節。『それでその町に大きな喜びが起こった。』のです。

 実は、先ほども地図を見ましたが、イエス様の活動の中心は、ガリラヤとユダヤでした。サマリヤは中間に挟まれた地域です。当時、サマリヤでも、イエス様の活躍について、いくらでも耳にすることができたと思われます。しかしこの町の人たちは、イエス様が近くで華々しい働きをしても、全く関心がありませんでした。こんなに近くに住んでいながら、気づきませんでした。その理由が、八章九節から記されています。使徒の働き八章九節〜十一節、

『ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。』

 実は、サマリヤの町の人たちが、イエス様に関心を持っていなかったのは、他に強い関心があったからです。それは「なんちゃってイエス」みたいな存在が、この町にはいたからです。それが、魔術師シモンでした。そいつが、イエス様が行っている奇跡に、よく似た奇蹟を行っていたからです。だから、この町の人たちは、小さな者から大きな者に至るまで、子どもから年寄りまで、身分の低い人から高い人まで、全ての人が、魔術師シモンに関心を持っていたのです。それで、目と耳がふさがれていたわけです。
 けれども、そこにピリポが入って、町から悪霊を追い出した訳です。追い出された悪霊とは、どのような種類の悪霊なのでしょうか。それは明らかです。それらは、「魔術師シモンによって、呼ばれた」悪霊です。なぜなら、シモンには霊を呼ぶ権限が、町の人たちから委ねられていたからです。
 「シモンさん、私たちのために、あなたの霊能力を使って、霊を呼んでください!」と、町の人たちがシモンに、委託したからです。多分、シモンという男は、生まれつき、霊感が強かったのでしょう。だから、町の人たちがシモンに悪霊を呼んでくれるように頼んだのです。シモンが魔術を行い、町の人たちが全員関心を持っていた事からも、それが分かります。
 しかしその結果、町は喜びよりも、悲しみで満ちていたのです。脳の病が多く、歩けない人たちも多かったのです。
 悪霊も、時には癒しを起こします。しかし病気と関わった霊が一方では癒すわけです。敵と味方がグルですから、どうしようもないわけです。同じ悪霊が人を病気にし、時には癒すという、悪循環がこの町にはあったのでしょう。
 しかし、ピリポがこの町に入って行った時、シモンによって呼ばれた悪霊の軍団が打ち破られたはずです。

 このレポートは二千年前の話です。日本の時代区分ならば、縄文時代の話です。その当時の町の形態は、「部族社会」です。部族社会では、一人のシャーマンを中心に、悪霊を呼ぶ行為がなされていました。サマリヤの町も、今の町とはちがう、部族社会でした。そんな構図のただ中に、ピリポは入って行き、奇蹟を起こしたのです。
 しかし今の時代、社会は複雑になっています。しかし、中心的な霊的構図は全く変わっていません。なぜ町に悲惨な事や、悲しい事があるのか。それは、魔術師たちにより、町に悪霊が呼ばれているからです。ゆえに人々は、イエス様のことに関心はないし、町に悲しみが満ちているのです。この原則は、昔も今も、全く変わっていないのです。私たちはこの事を理解し、背後に働いている魔術の力を打ち砕く祈りが必要です。

 特に今週は、魔術の霊に立ち向かう祈りが必要です。今週は、日本にも、世界にも、魔術がかかるような週です。近頃、日本でもこれが流行り始めました。

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 「ハロウィン」です。人々はハロウィンを、ただのパーティーみたいに思っていますが魔術です。起源はヨーロッパのケルト人たちの「盆」です。かぼちゃの中に火を灯すのですが、これを英語では「ボン・ファイヤー」と言います。ボーン、骨ではありません。日本の盆と同じ、「盆ファイヤー」なのです。ハロウィンは、死者のふりをした、死の霊を町に招く行事です。クリスチャンは参加しちゃいけません。悪魔に対抗し、祈らなければいけません。

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 今、全世界的に、ハロウィンがフェスティバルになっています。この写真はブッシュがかぼちゃを買いに来た様子らしいですが、アメリカでは、国を挙げてやっています。

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 みんな「楽しそうだな。仮装パーティーに行こう!」と出かけます。でもそれは、楽しそうに見えても魔術のパーティです。死の霊が関わってきます。十月三十一日の夜、死の霊が来るから、寝ずの番をしようというものです。十月三十一日と、十一月一日は、生きる者と死者とが接する境界線だというのです。
 現代はかぼちゃを使いますが、ケルト人たちは、かぼちゃではなく、大きなかぶを使っていました。こんな感じでした。

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 気持ち悪いでしょう。これがハロウィンの原型です。今は文化だ、習慣だとして、楽しそうにしていますが、その本質は変わりません。ハロウィンへの参加は自ら魔術に参加する事です。かぼちゃを置くこと自体、「霊よ。家に入って来てください。」というサインです。

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 「Trick or Treat!」とはまさに、悪魔の働きを象徴しています。 トリックとは、いたずらです。「俺を歓迎し、もてなしてくれなかったら、いたずらしちゃうぞ!」と、まさに悪魔の意思そのものです。「俺を拝んだら助けてやる。俺を拝まなかったら、祭らなかったら、病気にするぞ。悲しみを与えるぞ。」ということです。
 決して騙されてはいけません。このような時に、私たちは生ける神の御言葉を、宣べ伝えなければいけません。危険性を知ったら、参加してはいけないのです。また、クリスチャンはとりなして、祈らなければいけません。
 ハロウィンの悪霊は、盆の祖先礼拝と密接なつながりがあります。町に悪霊どもが侵入しないように、管理者はしっかりと祈らなければいけないのです。祈るなら、守られるのです。

 ある場所に有名な占い師が住んでいます。日本には魔術師が多くいますが、彼は、彼らの長です。私はそのことを聞いて、苦々しく思いました。「そういうやつがいるから、町が悪くなるんだ!」と思いました。どこにも魔術師シモンのような人物がいるわけです。私は、その場所を調べて、「主よ、どうか!占いができなくなりますように!」と何回も行って祈りました。愛の心を持って祈ったとは言えません。その為に祈っていました。
 そうしたら、ある日突然、教会に一人の奥さんがやって来ました。見るからに問題を持っているような方でした。たいへん痩せた方で、成人女子なのに、三十五キロだと言いました。拒食症かなと思いました。その方には三人の子どもがいて、気持ちもどんどん落ち込んで、子育てもできなくなり、実家に帰っているそうです。
 しかし、その人に友達がいて、「あんたが救われる場所を知っている!」と言って、「何日の何時何分に、この場所に来て!」と、ある店の駐車場に呼び出されたそうです。すると友人は何も告げずに、「黙って車乗って!」と言って彼女を乗せて、気がついたら新城教会に連れて来られたというのです。友達もすごいですね。

 その女性はよろめきながら、教会に入って来ました。しかし、その女性がどこから来たのか聞いて、びっくりしました。なんと、その奥さんは、有名な占い師の息子の嫁さんでした。私はたいへんビックリしました。私は、ずっととりなして祈って来ましたから、嬉しかったです。その女性も占いに関わっていた人で、その家に嫁に来たら、「我が家に来るべくして来た女だ。」と言われたそうです。
 その奥さんは、教会に来たその日に、悪霊から解放されたのです。初めて教会に来たのですが、イエス様を救い主として信じ、悪霊から解放されたのです。

 その日から食事ができるようになり、一ヶ月で十キロほど太ったそうです。以前よりもずっと元気になり、子ども三人を連れて教会に来るようになり、早、数年がたちました。住んでいる場所が場所ですから、日曜日はなかなか教会に来れないのですが、水曜日の礼拝にはよく来られます。
 私たちの神は、愛の神だと実感し、感動しました。私はただ、その家で占いができなくなるようにくらいの気持ちで祈っていたのですが、主は、その奥さんからはじめ、子どもたち、やがては、占い師まで、救おうとされていると感動しました。
 その家の嫁さんから悪霊が追い出されたのは、占い師のじいさんによって呼ばれた悪霊どもが力を失ったのに、他ならないのです。
 サマリヤの町で起こった奇跡と同じ奇跡が、小規模ではありますが、この町でも起こったということです。
 気になる場所があったら、出向いて、とりなしの祈りをすると、私たちの思いはどうであれ、神の御心が優先され、愛の神の業が現されます。今週は是非、町の気になる場所に行き、とりなしの祈りをしてください。また、「あの人がいるから、この町は悪くなっている!」というような人がいるかどうか分かりませんが、祈ってみるべきです。背後の悪霊が打ち砕かれると、中心人物さえ救われるのです。そういう人たちは、元来、霊的には敏感な人たちで、神様の手に陥ったら、すばらしい働きをするのです。そのお嫁さんも霊的に敏感な方で、今では、よくとりなしてくださっています。こういうことが、日本中で起こって行ったらいいなと、思います。
 そのために神から派遣されたものたちが、悪霊の力を打ち破る時、町は変化するのです。

 サマリヤの町で悪霊が追い出された結果、シモンが町に呼んだ悪霊の勢力が打ち破られ、シモン自身も主を信じたのです。八章十二節と十三節に、そのことがレポートされています。使徒の働き八章十二節〜十三節、

『しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。』

 シモンが呼びつけた悪霊が、末端で打ち砕かれたことにより、やがてはシモンの頭上も開いて、光が射したのでしょう。町を牛耳っていた男が、イエス様を信じたのです。

『シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。』

と記されています。マルコの福音書十六章十六節に、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』

マルコの十六章十六節の救いの定義と、使徒の働きの八章十三節を比較すると、

『シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。』

とありますから、シモンは「救われた」のです。永遠のいのちをいただいたのです。すごいことが起こりました。町を支配する暗闇の力が一掃される中で起こった出来事です。その結果、町に大きな喜びが起こったのです。

 しかし、ストーリーはそこで終わっていないのです。シモンは救われて、町の人たちと同じように、喜びに満たされたみたいです。それで、彼も一緒に町を変える働きに参加したいと思ったことでしょう。主の働きの中で、特に彼を感動させたのが、弟子たちが人々に手を置くと聖霊が下る光景でした。それで、自分もその働きをしたいと思い、ある時、お金を持ってペテロの所に来た事が書かれています。

 使徒の働き八章十八節〜十九節、

『使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。』

 シモンは、つい最近まで魔術師でしたから、まだまだ、なんというのでしょうか、幼いというか、ベイビー・クリスチャンのはずです。教会の内容もあまりわかりません。でも、彼は感動したのです。お金を持って来たとは、献金みたいなものです。先に献金して、主の恵みを求める教会もありますけれど、似ていると思います。
 しかしその時、ペテロはひどい事をシモンに言いました。使徒の働き八章二十節〜二十三節、

『ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」』

 ペテロの、シモンに対する言葉は、ひどいですね。ベイビー・クリスチャンに、「あんたは滅びてしまえ!」というようなことを言ったわけですから、ひどいと思います。私なら、牧会的配慮をしまして、「シモンさん、ちょっとその働きは早いかもしれないな…。もう少し、祈りつつ待とうか…」とか、いろんな理由をつけ、指導すると思うのです。しかしペテロは「金と共に滅びろ!」なんて、ひどい事を言ったと思います。
 ペテロが現代社会で教会を建てたら、人を散らすくらいかなと思います。
 しかしこれは、今を生きる私たちに対する、情報提供です。ペテロは霊的に鋭い人物でした。シモンは、信じてバプテスマを受けていたから、救われていました。でも一歩前に出て、町のために働きたいと思った時、「ちょっと待て!」と言われたわけです。
 『あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。』と指摘されたのです。
 時々、「イエス様を信じたら、すべての霊的束縛は消えて、チャラになっているから、霊的解放の祈りなんか必要がない!」という意見を聞きます。しかし、それは間違いです。シモンはすでに救われていたわけです。しかし、もう一歩進んで、主に仕えようとした時、『あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる』と、指摘されたからです。「不義の絆を何とかしないと、障害が起きるよ。元に戻っちゃうかもしれないよ。」と言われたわけです。
 ここで、「救い」と「霊的解放」が、分けて語られているのです。これは重要なポイントだと思われます。

 みなさんはイエス様を信じて後、解放の祈りを受けました。それはたいへん重要なことなのです。一歩前に進んで働くためには、私たちの中にある「苦い胆汁と不義のきずなを引き抜け」と言っているわけです。

 新約聖書にあるペテロや弟子たちの意見は、多くの場合、旧約聖書の記事を引用しています。旧約の知識から引用し、語っているのです。この「苦い胆汁と不義のきずな」とは、ペテロは旧約聖書のどの御言葉をイメージしたのかというと、申命記二十九章十六節〜十八節です。

『事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。』

 十八節に、『毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。』とあります。新改訳聖書だと、『毒草や、苦よもぎ』という所に引用箇所*が付いていて、「使徒八章二十三節」とあります。
 「苦い胆汁と不義のきずな」と、「毒草や、苦よもぎを生ずる根」は、同じ概念です。主のために働こうとするとき引き止める、「苦い根」を抜いておかないと、なんらかの支障が起きますよという情報提供です。
 その原因は何かというと、ここで告げられているように、「偶像礼拝」です。申命記の二十九章を見ると、偶像礼拝が「苦よもぎ」を生じる、根となるというのです。すでに過去の偶像礼拝のつながりを、断ち切る祈りをしましたよね。これは重要な、根を抜く祈りです。ここに、偶像に仕えるような「男と女」と記されていますが、男と女とは、「個人的に行った偶像礼拝」による根を抜く祈りは重要です。

 しかし、今回私が示されている事は、もう一歩進んで、抜かなければならない根があるのではないかと思わされています。それが、『男や女、氏族や部族があってはならない。』とあるように、「氏族、部族」というくくりです。「氏族」とは何かというと、

『氏族(しぞく、clan):共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと』

 日本人は自分の家を、重んじます。血縁集団を特別意識しています。血縁集団がこぞって、偶像礼拝をしている現実があります。それが、町を勝ち取ろうとする時、苦い根とか毒草となり、引き止める力となるから抜いておけ、ということです。
 ということは、氏族という、「血縁」を代表し、根っこを抜く祈りが必要ではないかと思われます。今日は、その祈りをしたいですよね。
 日本の氏族制度は江戸時代、五人組により解体されているので、分かりにくいのですが、先日、ブラジル教会で奉仕をしました。私はブラジル教会で何を話したら良いのかと思いましたが、ここから語るように示されました。ブラジルの人たちは、元々はポルトガルやスペインから来ているのです。今日もブラジル人の方がおられますが、一番多い苗字は、シルバという苗字です。SILVAです。

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 見てください。このマーク。真ん中に悪霊が踊っているみたいです。上の方では悪魔が赤い口を開いているようにも見えます。ここに苦い根の源流が見えます。
 韓国は、氏族がはっきりしています。チェサがあって、氏族が一同に集い、祖先崇拝をしています。

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 では、日本で氏族を表すマークは何かというと、これです。

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 家紋です。「うちの家紋はこれ!」「うちは重要な家系だ。」と、家紋を大切にしています。それが氏族です。男や女、氏族や部族の悪い根を抜けと告げているのです。
 私たちが町を勝ち取るために、血縁という中に、古くから根ざしている悪しき力を断ち切り、町の祝福を祈ったら、町に祝福が訪れるはずです。

 シモンはひどい事を言われたのですが、シモンの態度は本当に立派です。私は感動します。使徒の働き八章二十四節、サマリヤの占い師会会長が言った言葉です。

『シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」』

 すばらしいじゃないですか!私たちもこの態度を学ばなければいけないです。「私の為に、祈って下さい!」
 苦い根、不義のきずな、毒草、苦よもぎ、それらを抜き去るように、祈ってくださいと、謙虚に願っているシモンの態度は素晴らしいです。
 町を勝ち取るために一歩進んで、個人的なものから、氏族、部族とありますが、血縁集団の中にもたらされている、暗闇の力が打ち砕かれ、苦い根が引き抜かれ、自由に主の御名を誉め称えると共に、町を支配する暗闇に立ち向かうことができますように!
 特に今週はハロウィンという魔術に立ち向かい、祈りましょう。大きなテーマに勝利し、守りのためにも、氏族という部分を意識して祈ることが大事だと思います。
 今から聖餐式を行います。「私を町を勝ち取る勇士にさせてください!」と、主の前に祈りたいと思います。それと共に、今日は、血縁集団を意識して悔い改め、聖餐式を行いたいと思います。

『氏族(しぞく、clan):共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと』

 その中にある苦い根を抜いてくださいと祈り、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちは、イエス様が帰られる準備として、町を掃除させて下さい。そのために用いてください。勇士となるために、私たちの中に残っている苦い根があったら、それを取り除いてください。今日は特に、血縁関係の中で結ばれている、すべての苦い根が抜かれますよう祈ります。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。