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『主にあって喜びなさい

2014年11月30日 (日)
新城教会牧師 滝元明
ピリピ人への手紙 4章4節〜5節

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』 


ハレルヤ!おはようございます。今日もこうして御言葉を取り次ぐ時間が与えられていることを感謝します。
 十一月に入り、私もここまで健康で来られ、みなさんのお祈りを感謝します。

 この前、礼拝でメッセージさせていただいたのですが、そのメッセージの題は「左か右か」というメッセージでした。あとから何人かの方から質問を受けました。「右か左かじゃないのですか」と。右か左か、ではなくて、私のタイトルは、「左か右か」というタイトルでした。なぜなら、アブラハムがロトに語った言葉が、「左か右か」でしたからそのようにしました。聖書からは間違って話したわけじゃないのですが、なぜ、アブラハムがロトに向かってそう言ったかというと、ロトの心は、ソドムのほうに惹かれていたことを知っていたからです。だから初めに、「左か・・。おまえの思っている所に行きなさい。」こういう事だと思います。
 今日は、別の所からみなさんと一緒に学んでいきたいと思います。

 先週は北海道に、二十日から二十四日まで、滝元開夫妻と一緒に行きました。私は北海道に五十何年も前から、毎年のように行っているので、いつも話しているように、手帳に何回行ったかを記しています。今回で百二十回目でした。随分行ったと思います。聖会も、三十六回続けています。毎年、元気に行くことができて感謝します。
 阿寒湖で聖会をし、土曜日は、釧路のキリスト福音館で伝道集会をしました。開夫妻が賛美をして、私がメッセージをしました。

 日曜日は、私は福音館でメッセージをして、開夫妻は他で奉仕をしたのですが、奉仕した教会の先生が私に電話をしました。「滝元先生、お元気ですか。」『元気ですよ。』「何歳ですか?」『八十五歳ですよ。』「あぁ、そうですか。大丈夫ですか。」『大丈夫ですよ。』「では、お願いします。午前中、二回メッセージをしてください。午後、またメッセージをしてください。その後、交わり会で話してください。」と、元気だと聞いて、集会をいっぱい計画しました。
 ですから日曜日の朝、迎えに来て、九時から十時まで、それから三十分休んで、今度は十時半から十二時まで、それが終わったら、みんなで一緒に会食があり、一時頃終わって、一時半からまた集会で話し、それが終わったら、今度は初めて来た親父さんがいて、キリスト教に頑固な八十八歳の方で、その方の誕生日祝いに一緒に行ってくださいということで、お祝いの席に出て、終わったら、癌で入院している女性を訪問してくださいと言いました。夜までずっと続きました。
 しかし感謝なことに、終わってから、充実感がありました。昼寝もすることなしに、元気に働けたことは、新城の兄弟姉妹や、多くの方が祈っていてくださるからだと、心から感謝をしています。

 今日はこれから、みなさんと一緒に御言葉を学んでいきたいと思いますが、今読んだピリピ人への手紙四章四節から五節を、もう一度一緒に読んでみましょう。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』

 ピリピの手紙には、「喜び」ということが多く書いてあります。この書は、使徒パウロが牢屋の中で書いたとも言われていますが、喜びの書とも言われます。どんなに苦しみの中にあっても、クリスチャンはいつでも喜んで生活しなさいと教えています。

 またよく知っている言葉で、第一テサロニケ五章十六節〜十八節も読んでみたいと思います。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 クリスチャン生活は、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』また、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。』
 私たちクリスチャンは、毎日の生活、いろんな問題があっても、喜んでいくことが大切ですね。

 一般の喜びについては、マタイの福音書六章二十五節に、こう書いてあります。

『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。』

 一般の喜びとは、やはり、飲み、食い、着る、生活のことだけを喜びます。金が入った!株が上がった!下がった!とか、いろいろな事があります。美味しい物を食べた!とか、そういうものがあります。しかしクリスチャンの喜びは、それとは違ったものです。神様からいただく喜びを、喜びなさいと教えています。
 一般では調子がいい時、平和な時、金がある時、そういう時は喜びがあるけれど、落ち込んだりして、何もなくなると喜ぶことができない。そうではなく、クリスチャンは、どんな逆境の中にあっても、イエス様にあって、違った喜びで喜びなさい、こういう意味があります。

 ルカの福音書を見ていくと、この中に、一番大きな喜びについて書いてあります。ルカの福音書十五章十節、

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」』

 最高の喜びとは、ひとりの人が悔い改めたら、天の使いたちに喜びがわき上がります!天の使いを見たことある人もいますが、私は見たことはないけど、クリスチャンの持っている喜びの中で最高の喜びは、罪人が悔い改めて救われた、これが一番の喜びだと思います。
 みなさんも考えてみたら、あの時に、イエス様にお会いして、自分の罪がわかって、悔い改めて、罪が赦されました。みなさん、赦された!という喜びは、格別なものですよね。

 聖書を見ると、イエス様ご自身がおっしゃったことは、罪人が悔い改める、これが神の前にも人の前にも、大きな喜びだと書いてあります。
 聖書を見ると、ある人が百匹の羊を持っていた。そのうちの一匹が迷い出て、そして迷い出た羊を探して、ついに見つけた。「おい!喜んでくれ!失われた羊が見つかった!」と、すごく喜んでいると書いています。だから悔い改めを必要としない九十九人よりも、一人が悔い改めたら、天において大きな喜びがあると、書いてありますね。
 日本の場合を見ると、百人のうち、一人だけが迷い出たのではなく、クリスチャンがたった一人で、あと九十九人が迷っているということで、だから日本では伝道のしがいがあります。よく伝道しなければなりませんね。
 また銀貨一枚持った乙女が一枚なくしたら、一生懸命探して見つかったから喜んでくれ!と言って、喜んだ。これはいわゆる、罪人が悔い改めて変わったことを喜んでくださいということです。
 ですから、教会の喜びは、誰かがイエス様の所に来て救われた。これが喜びですね。だれかが救われた。あの人が救われた。こういう事が大きな喜びでなければいけないわけです。

 聖書に放蕩息子のことが書いてありますが、放蕩息子を見ると、ある人に二人の息子がいて、一人の息子が、「お父さん、私のもらうべき財産をちょうだい。」それで財産をもらった。もらって、どうしたかというと、彼は遠い国に行って、その財産を全部使い果たした。放蕩三昧な生活をしたわけですね。
 そして、使い果たした後に何をしたかというと、その地方に飢饉があり、食べることに困ってしまった。それで彼は本当に困ったので、ある人の所に行って、豚飼いになった。そして豚が食べるいなご豆で飢えをしのいでいた、と書いてあります。続いて読んでみると、こう書いてあります。
 ルカの福音書十五章十四節〜二十四節、

『何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

 先ほど「父なる神様」と賛美をしましたが、天のお父様、神様はどんなに私たちを愛してくださっているか。子どもが堕落しきって、財産を使い果たして、それで彼は死にかかって、目が覚めたわけです。本心に返って、我に返って、「あぁ、俺は死にそうだ。だけど、お父さんの家には雇い人たちが腹一杯食べて、パンを余している人たちも大勢いる。」
 そこで彼が考えたことは、もう子どもと呼ばれる資格はないけれど、お父さんの所に行って、お願いしよう。天に対して罪を犯し、あなたに対しても罪を犯しました。どうか私を雇い人の一人のように使ってください。そこで彼は決心して帰って行くわけです。
 ところが、お父さんというのは、遠くから彼が帰って来るのを見た。こう書いていますね。お父さんという方は、息子が堕落したその日から、出て行った日から、ずっとおそらく毎晩のように、「息子が帰って来るか・・・」と、見ておったと思います。財産を使い果たしてしまって、飢饉が来たとか、よほどの時間がかかったと思いますが、彼がそういった中で、お父さんの所に帰った時、遠くから彼を見て、走り寄って行って、抱きついて口づけした。お父さんの愛というのはすごいですね。

 みなさん、私たちの信じている神様は、どんなに罪を犯しても、望んでいることは、悔い改めて帰ること。死ぬことではありません。本心に立ち返る。帰って来たら、神様のほうから抱きしめて、愛してくださる。すばらしいですね。

 聖書を見ると、お兄さんは畑の方に行っていて、帰って来てみたら、お祝いしていて、「何だ、これは?」と聞きました。「はい。弟息子が帰って来ました。お父さんが喜んで宴会をしています。」
 彼は怒りました。「俺は入らん!」そうしたら、お父さんが来て、『入りなさい。』「遊女と一緒に遊んで財産を使い果たしたやつが、今頃帰って来て、何をやっているんだ!私は絶対入らん!」と怒っているわけですね。
 お父さんに言いました。『しかし、彼は死んでいたけど、今生き返ったんだ。喜び祝おうじゃないか。』と、宴会を始めたと書いてあります。

 ちょっと話は違いますが、私がスウェーデンに一九七二年に初めて行った時、スウェーデンの教会でこんな話を聞きました。「放蕩息子が帰って来た。一番悲しんだのは誰か。」こういう話を日曜学校でしました。お兄さんでしょう。しかし、子どもが「はい!」と言って、こう答えました。「仔牛です。牛が殺されるから、一番悲しんだのは仔牛です。」と言ったそうです。
 この間も新聞に出ていました。神の前に罪を犯した時、お詫びしなければならない。どのようにして、お詫びしたらいいか…。罪を犯して帰って来たら、どうしたらいいか。こういう質問をしたら、「はい。まずは罪を犯すことです。」と、子どもが言ったそうです。罪を犯さなければ悔い改めることはないからです。「はい!罪を犯すことです。」と言ったそうですが、神様の愛というのは、どんな人が罪を犯して立ち返って来ても、立ち返った人を、喜んで迎えなければいけないのです。

 今、リバイバルを求めていますが、新城にも大勢の人が教会に来ると思います。この教会でバプテスマを受けたけど、離れた人もたくさんいますが、そういう人たちが帰って来たら、喜んで迎えなければいけない。迎えるということは、非常にすばらしいことですね。
 前に順牧師が話していましたが、ある教会に行った時に、その教会で、「どうしても順牧師に会いたい人がおります。」と言われて会ってみたら、よく知っている青年でした。彼がこんな事を言いました。彼は新城教会の悪口を言っている間に、信仰がなくなってしまった。教会の若い人たちで悪口を言っていた人たちは、ほとんど教会を離れた、と言いました。病気になってどん底に落ち込んで、道を歩いている時、教会があったから見ていたら、「何か悩みありますか。お入りなさい。」そこで彼は立ち返った。「今まで人の悪口ばっかり言って悪かった。」そして、新城にもやって来ました。嬉しいですね!
 過去に悪口を言おうとも、反対しようとも、心から喜んで迎える。悔い改めて帰って来た!という喜び、誰かが救われた!それを喜びとして持たなきゃいけないですね。

 みなさん、伝道していますか?誰かに伝える。やはり福音を伝える、誰かが救われるということは、一番大きなことですね。
 前にも少し書いたことがあるのですが、私はイエス様を信じてどれくらい経ったか分かりませんが、救われて心が燃えて、路傍伝道をやったりしました。東京におって、山手線に乗りました。ぎゅうぎゅうの電車の中に乗ったら、一人の人が、「みなさん、ちょっとお聞きください。」と、何か書いた物を上にかかげました。そこには「イエス・キリストは救い主」と書いてあり、「みなさん!私はクリスチャンです。私は結核でしたが、イエス様を信じたら、病気が全部治りました。」
 今ではこんなこと、やっちゃいけないけれど、山手線の電車の中で伝道を始めたのです。私も燃えました。「わぁ!すごい!」「ちょっとどいてください。どいてください。」と駆け寄って行って、「僕もクリスチャンだ!ちょっと僕が話す!」と一生懸命になって話をして、「私もクリスチャンです。救われました!みなさんも信じてください。」電車の人たちがびっくりして、そうしたら下りるべき日暮里駅が来たから、「さよなら!」と言ったら、名刺を出して、「一度遊びに来い。」と言われました。

 それから私はその人の所に遊びに行きました。その方は、私よりも随分年配の方で、高校の化学の先生でしたが、秋本三郎さん。今でも忘れることができませんね。彼はこう言いました。「兄弟。自転車を走らせている時、急にブレーキをかけたら倒れてしまう。それと同じように、クリスチャン生活って、すばらしい生活をしていくには、やはりこぎ続けていく。伝道することだよ。そうしたら信仰が守られる。」
 その時にいいことを教えられました。伝道をし続けることが、信仰が守られることだ。
 みなさん、それから私も、毎日のように祈っていることは、イエス様のことを誰かに伝えたい。一番大きな喜びは、誰かが悔い改めて救われること。これが一番大きな喜びですから、伝道していかなければいけないですね。

 もうひとつ見たいと思いますが、詩篇一二二篇一節〜九節、

『人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。』

 これはどういうことでしょう。都上りということは、エルサレムです。エルサレム、そこに「さあ、主の家に行こう。都に行こう」と言ったときに、私は喜んだ。
 今の時代は、エルサレムに行く事はないですが、分かりやすくいうと、エルサレムは教会ですよ。教会に行こう!
 今日、みなさん礼拝に来て、嬉しいですか?「今日、教会に行こう!うわっ!嬉しい!」「またか…。」それではいけないですね。人々が、『「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。』ということは、喜びは、日曜日に来て、神の前に来て礼拝することが喜びです。
 日曜日というのは、この前にも話したけど、神様が六日間働いて、七日目は休まれた安息の日。だから七日目は、わたしの日だ。だから日曜日は、主の日です。これは、神様の日なのです。

 地球は神様が造られましたね。すごいですね。私はこの間、雅也先生がメッセージなさった、ちょっと難しい話をなさったけど、いや〜、恵まれましたね。星の数がどのくらいだとか、何兆だとか、宇宙がどれだけだとか、話されたけど、私も何回もメッセージを読み返しました。信仰が来ました。私の信じている神様はすごい!と思いましたね。ある人は、星の数がいくらぐらいあるかというと、千億×十億×一億くらいある。これは世界中の海辺の砂の数ぐらいある、と言った人がいます。大宇宙です。大宇宙を造った背後に、造り主なる神がいらっしゃるという話をしたけど、難しかったけど、私には信仰が来た。いや〜、すごいな。

 『はじめに神が天と地を創造した。』という神が神です。きつねを神にしたとか、蛇が神様になったとか、徳川家康が神だとか、そんなもんじゃないですよ。大宇宙を造った神様が、その神様が私たちを造ってくださった。この地球は誰が造りましたか?神様です。
 ある方は、「これは俺の土地だ。俺の土地だ。」と言うけれど、俺の土地ではありません。借りている土地です。みなさん、「新城市は俺の土地だ。」と言ったって、最後に死ぬときには置いていくでしょう。神様から委ねられているのです。
 だからみなさん、時間も、「俺の時間だ。俺は今年八十五歳だよ。八十五歳まで俺は生きたんだ。」ではないのです。生かされたのです。日曜日、働いているけど、終わりが来ます。主の日です。主の日、神様に感謝するために礼拝する。私を造られた神様の所に行って、礼拝するんだ。最高です。「俺の時間だ。」じゃないのです。みなさん、大切にしなければなりません。

 その次、二節から読むとこうなっています。詩篇一二二篇二節〜三節、

『エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。』

 エルサレムという言葉を使うと難しいけど、これを教会としてみたら、新城教会としてみたら、「新城教会、それは、よくまとめられた教会として建てられている。」

 この教会堂が造られたのが、一九八〇年ですね。ここにいらっしゃる佐野兄弟とか、岡本正広さんとか、いろんな人たちが一生懸命がんばってくれて、今の教会堂を造りました。
 最初に、百人の教会を造りました。それから七年経って、今度は増築して、三百人くらいの教会を安く造りました。私はみんなに、「この教会、安くできたんですよ。安くできたんです。」言っているうちに、心が攻められました。みんな良い家に住むようになっているのに、神の家が安くできたということは、粗末にできている。申し訳ないと思った。
 ダビデという人は、こう言いました。彼は、ダビデ王様は、私は高価な家に住んでいるのに、主の家がテントの中にある。「そうだ。神の家を建てよう!」こう思ったわけです。しかし神様はストップしました。「あなたは多くの人の血を流したから、あなたは建ててはいけない。ソロモンが建てる。」そこで、あのエルサレムの神殿、最高のものを造りました。それで、ダビデは祝されたのです。

 私も考えました。安く造った。シロアリが入って、食べている。こんな教会を安くできたなんて誇るなんて申し訳ない。最高のものを造ろう!みなさんにお願いしました。そして、韓国に調べに行ったり、いろんな所に調べに行ったりして、この教会堂ができました。一九八〇年ですよ。今、何年ですか。三十四年前です。私は日本中を回っていますが、誇りではないですが、よく整えられた良い教会で、いつ来ても、満足している。よくやったな。
 みなさん、これを建堂する時、嬉しかったですね。国会議員が三人も来ました。県会議員も来ました。市会議員も来ました。国会議員を招待したら、市会議員が言いました。「来るものか!祝電くらいしか来ない。」しかし当日、本当に来ました。それで、市会議員も全員出たのです。二回、献堂式をやりました。一般の人のためのお披露目の献堂式をやりました。あんまり多くて、警察官も出て、整理するくらいでした。
 最高でしたよ。一人の国会議員はこう言いました。「みなさん、私は毎晩寝る前に、枕元に新約聖書を置いて読んで寝ています。」村田敬二郎さんという方でした。それから市会議員の人たちもマネして、毎晩頭元に聖書を置いて寝るようになったと言いますが、新城で一番いい建物でした。今は文化会館のほうがいいね。いつかもっとすばらしい、最高のものを、信じようじゃないですか。最高のものを!捧げましょう。

 この間、順先生のメッセージ恵まれたでしょ。最近、順先生、油注がれて、すばらしいメッセージをしています。インドのナガランド州のコヒマという所に行ったと言いました。
 その町のクリスチャンはどれくらいかというと、九十パーセント以上がクリスチャンだと言いました。日曜日に歩いている人たちは、みんな聖書を持って歩いている。新城でもこうなったらいいですね。新城でも、「おい、どこ行く?」「わしゃ教会だぞん。あんたは?」みなさん、すばらしいじゃないですか。
 しかしみなさん、神様がリバイバルを起こしたら可能ですから、私たちも信仰を持って、まず土台をしっかりしなければいけない。クリスチャンが礼拝をさぼっちゃいけない。みなさん、クリスチャンがしっかり、礼拝は神の時。神の日を守るんだ!という考えを持たなければいけませんね。そこで、こういうふうに書いてありますね。詩篇一二二篇三節〜四節、

『エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。』

 礼拝に来ることは、「今日、いいメッセージ聴けるかな?」じゃない。みなさん、メッセージは難しいです。祈ってやるけれど、ある人には良かった。ある人には悪いということもあるかもしれませんが、礼拝に来るとは、主の御名に感謝するために礼拝に来ることは、イエス様に感謝するために礼拝に出ます。
 詩篇一二二篇五節〜六節、

『そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。』

 分かりやすくいうと、みなさん、教会を愛する人が栄えるように。教会に平和があるように。みなさん、平和がありますね。教会に来ると、「あなたの口に悪を言わせず。」偽りを言わないように、人の悪口を言わないように、教会に来ると、悪口ないでしょ。食事する時に悪口は聞こえませんね。感謝と喜びです。それから七節、

『おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。』

 新城の教会、みなさんが期待しているこの教会を愛し、教会に平和があるように、繁栄、盛んになるように、これを祈りなさい。それから八節、

『私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」』

 みなさん、教会に来るということは、人々に平和があることです。九節、

『私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。』

 人々の繁栄、教会の繁栄を求めていく。教会がだんだん小さくなっていくことは、御心じゃありません。本当に愛して、教会が伸びていかなければいけない。今、みなさん、新城教会も多くの方が集められていることは感謝なことですが、ますますイエス様を愛していきましょう。

 その次に、もうひとつ読みます。詩篇一一九篇百五節、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 それからもう一箇所。百三十節、

『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』

 もう一つ。百六十二節、

『私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。』

 いつも喜んでいなさいという中に、何が喜びかというと、御言葉を喜びます!御言葉を。
 みなさん、聖書をよく読んでいますか?愛してますか?私は朝起きると、必ず家内と一緒に、いつも話しますが、五つくらいざわめきを歌って、それから聖書は三章、四章、必ず読むようにしています。いいですね。御言葉を読む。それから、みなさんのために覚えて祈る。新城教会の人たちのために祈るということは、時間がかかりますね。カードに書いてあるのを見て、それでお祈りしますが、みなさん、御言葉というのは、すごい力があります。
 今日まで私もここまで来れたというのは、御言葉だと思います。伝道に入って、行き詰まって、本当に真っ暗になって、「イエス様!私を見捨てたんですか!」と祈った時に、イエス様がお立ちになって、『我汝を去らじ、汝を捨てじ。』この御言葉で立ち上がりました。『我汝を去らじ、汝を捨てじ。』今私は、決してあなたを見捨てない。見放さない。あの御言葉の時に、親がどんなに反対しようと、みんなが反対しようと、イエス様が見捨てない以上は大丈夫だ!あれで立ち上がって、今日まで来ることができた。御言葉ですね。

 そして、悲しい時は、よく山の中に入りましたね。今日、私の妹が来ているけどね、私は親の前で泣いたことはありません。三ヶ月の間、家で仕事をしていましたが、よく山に入って祈りに行きました。そうしたらうちのおっかさんが、妹に、「おい。明が山に入って行ったで、見て来い。」何を見て来るかといったら、自殺でもするかと思って心配したというのです。
 帰って来て、妹が何と言ったかといったら、「兄さん、やぶの中に入って、わんわん泣いていた。」と。
 悲しい時には、山の中に入って、「イエス様!」と、泣けるだけ泣いて、その時に与えられた御言葉が、ヘブル書第六章の中に、アブラハムに言われた言葉、『それ神はアブラハムに約したもうとき、さして誓うべき己より大いなる者がなきゆえに己をさして誓いて言いたまえり。われ必ず汝を恵み恵みまん。増やし増やさん。』
 この御言葉を読んでいる時に、聖書は、「神の言葉は生きている。力がある。」と書いてある。聖書を読むと、「イエス様!語りかけてください!」必要な時は、パッと、「御言葉が打ち開けると悟りを与える。」とありますが、御言葉が開ける時、パッと、問題が解決するのです。
 みなさん、いろんな問題があると、「すいません。スタッフのみなさん。ちょっと相談させてください。」それもいいけど、ごめんなさいね。スタッフの考えだって、間違うことがあります。しかし、御言葉には間違いがないから、問題があったら、スタッフに話すよりも、祈りなさい。聖書を読みなさい。「どうしたらいいですか。私の家はこんな具合です。」御言葉をパッと開いたら、すごいです。

 この教会が伝道を始めた時分に、田中先生が救われた時、彼がすごく燃えました。毎日路傍伝道をやって、製材所のご主人はクリスチャンじゃなかったので、反対しました。ものすごく反対しました。ある日のこと、お母さんが彼を呼んで、「政男、あれだけおじさんがおまえのことを思って言ってくれているから、日曜日に礼拝に行くの辞めろ。日曜学校辞めろ。」田中先生は、「そうだね。」と一回辞めました。しかし、礼拝に来なくなって、その時に製材所の主人は何をしたかといったら、日曜休みを月曜日に変えた。月曜日休みに。それで、礼拝にも来れない。月曜日休みで教会も来れなくなった時、田中先生は死にそうなほど苦しくなった。それで決心した。「こんな苦しい所にいつまでもおるより、そうだ、俺は出て行って、やっぱり伝道者になろう!」荷物を積んで、家出しました。私はちょうどいなかったけど、伝道者になるために、茶臼山製材をやめて出て来た!」こう言った時に、私の家内は何と言ったかというと、「イエス様が出よと言ったの?」こう言った。普通だったら、伝道者になるために出て来た!と言ったら、良かったね!と言うかもしれないけど、そうではない。私の家内は、「イエス様がそう言ったの?」「イエス様がそう言ったかどうか分からん。」「イエス様の言うことを聞かなければいかんから、祈りなさい!」
 田中先生は、ものすごく祈りました。主人は迫害するし、どうしたらいいか。祈った時に、イエス様がささやかれました。「与えられました!エペソ六章五節!」と言いました。イエス様が、エペソ六章五節を開けと言いました。開きました。何て書いてあったかというと、『肉にある主人に従え。』と書いてありました。御言葉を知らないで、「与えられました!」と言ったら、『肉にある主人に従え。』ということは、迫害している主人に従えということです。
 「分かりました。」家出をしたけど、田中先生は、カバンを持って、「ただいま。帰って来ました。」みなさん、そのおかげで、ご主人も救われました。一家中が救われて、ご主人も伝道に出るようになりました。

 みなさん、御言葉は解決するのです。だからみなさん、御言葉を大切にすること。祈りを大切にして、「御言葉を与えてください!」御言葉が与えられたら、本当に光が差し込む。やった!獲物を捕まえたようだ!すばらしい快挙をすることができるのです。

 今も忘れることができませんが、甲子園の時にも御言葉が与えられました。『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。』確信持ちました。
 それからその後、一九九六年、私が教会で祈っている時に、朝出ている時に、御言葉を読んでいる時に、『あなたはエルサレムでわたしを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』その時、イエス様が私の前に現れたように、『あなたはエルサレムでわたしを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』
 分かりました。エルサレム、これは私にとっては甲子園。甲子園でもやったように、今度はローマ、東京でもやりなさい。やります!立ち上がりました。一九九八年、東京の武道館で十日間の集会をしました。あれは御言葉をもらったからです。
 ですからみなさん、御言葉を大切にするということは、大切なことですね。ですから、『私は大きな獲物をみつけた者のように、あなたの御言葉を喜びます。』クリスチャンの喜びは、御言葉を喜びます。
 教会に来る時に、最近は、携帯で全部出ますからあんまり聖書を持たんけれど、教会に来る時にはなるべく聖書を抱えて、「はい!クリスチャンです。行きます!」証しをしましょう。そういう喜びを持たなければいけませんね。

 また最後に、使徒の働き八章五節〜八節まで、これはサマリヤのリバイバルが書いてあります。

『ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』

 みなさん、これからリバイバルが来ます。みなさん、奇蹟もあります。みなさん、奇蹟を信じましょう。奇蹟が起きたら、大勢の人たちが喜んだとありますから、これは牧師によって、伝道者によっての奇蹟ではありません。これはこのピリポという人は、特別選ばれた人ですが、十二使徒の中に入っていませんが、彼は散らされた人です。証しをしてください。みなさんの祈りを通して、神様が奇蹟を起こしてくださる。

 私は釧路で「訪問をしてください。クリスチャンではない人です。」と言われました。その方は三十五歳の女性。去年、赤ちゃんが生まれた。そうしたら、まだお腹が痛い。見てもらったら癌でした。それから一年の間に四回手術した。赤ちゃんはご主人が面倒を見ている。寂しそうな顔をして、望みのない顔をしていた。私は、心の底から祈ってあげました。「神様!なんとかしてこの方を癒してあげてください。」真剣に祈りました。祈りは聞かれると思います。まだ見ていませんが。
 悲しんでいる人がたくさんいますから、私たちも福音を伝えて、多くの人たちが癒されたら、この町に大きな喜びが起こります。

 ですからみなさん、今週は神からの喜びで満たされていくことができますように。喜びましょう。もう一度言います。喜びなさい。いつも喜んでいなさい。みなさん、喜んでまいりましょう!一言お祈りして、聖餐にあずかりましょう。

 愛する天のお父様。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」と言われました。「喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」どうか、主よ、人々が救われることで、喜ぶことができるように。失われた人たちが帰って来ることができるように。この新城もいつか、九十パーセント、クリスチャンになるような奇蹟を行ってください。不可能なことはない神様ですから、恵みを与えてください。これから聖餐にあずかります。イエス様の御血、御肉にあずかります。イエス様と一つになって、聖霊に満たされて、福音を伝えることができるように、お願い致します。イエス様の御名によって、この聖餐を祝福してくださるように、お祈りします。アーメン。