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2015 ニューイヤー・カウントダウン・ワーシップ

2014年12月31日 (木)
公畑フェルナンド 副牧師
滝元明 牧師
岡本信弘 牧師
四元雅也 副牧師
上條実 牧師
滝元開 副牧師

DSC_6045.JPG<公畑フェルナンド 副牧師>

「希望を失わずに行こう!」

ハレルヤ!感謝します。一番最初にメッセージするのは、本当に緊張です。
みなさんのインターナショナル部会、また私たちに対するお祈りをいつも感謝しております。神様は良くしてくださいまして、今年もインターナショナル部会の中で、大きな恵み、奇跡、すばらしいことを見ることができました。
個人的にも、主が私たちが家を建てることを赦してくださいました。人間的には不可能でしたが、私と妻で十年以上、家のために祈って来ました。そして、今年、神様がそれを実現してくださいました。
そして、神様に感謝したいことは、神様が必ず私たちに何かをしてくださるという希望を失わずにここまで来られたことです。そして、これが、二〇一五年に対する私のメッセージです。「希望を失わずに行こう!」というメッセージです。詩篇九十一編三節〜十節までお読みします。

『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

スペイン語の聖書ですと、九節の「わたしの避け所である」という所が、「わたしの希望」となっています。

希望とは、夢がある時に、いつもあきらめず、しかしどのようにかも、いつ実現するか、どのように起こるのかもわからないのですが、神様が何かしてくださるという確信です。それが希望というものです。

聖書の中には、多くの希望を失わなかった人たちが出てきます。彼らには信仰は無かったのです。なぜなら信仰とは、すでに勝利した、という確信だからです。しかし彼らは、信仰はなかったけれど、「希望」は失いませんでした。
例えば、ヨブは神の偉大なる人でした。裕福な人で、牛、ラクダ、羊、しもべ等の多くの財産を持っていました。そこにサタンが破壊を持ってきました。すべての家畜を失い、すべての子どもたちを失いました。たった一日で彼はすべてを失ったのです。
そして二日目に彼は頭から足の先まで、悪性の種物に覆われました。それを彼の妻が見て、「神をのろって死になさい。」と言いました。しかしヨブの答えは、ヨブ記十三章十五節、『神が私を殺しても、私は神を待ち望む。』でした。『神が私を殺しても、私は神を待ち望む。』そのような美徳を持つ必要があります。

バビロン、メディヤ、ペルシヤの王の時代に、ユダヤ人で王妃となったエステルという人がいました。その叔父であり、育ての親であるモルデカイがいました。また、ハマンという王に次ぐ地位にいた人がおり、彼はユダヤ人を嫌い、モルデカイを嫌っていました。そして取り消すことができない王の勅令を出すことに成功しました。それはすべてのユダヤ人を殺し、その所有物を奪ってもよいというものでした。
それで、モルデカイは伝言を姪のエステルに告げ、王の前に行って「自分の民族のためにあわれみを求めなさい」と言いましたが、彼女は「できません」と答えました。なぜなら一つの法令があり、王が召す他は、誰も内庭に入り、王の前に出てはならないということでした。そして、王の許しがなければ、必ず殺されるということでした。エステルは「私はこの三十日間王のところに召されていない」と言いました。そこでモルデカイは答えて言いました。エステル記四章十四節、

『もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。』

これが「希望」なのです!
取り消し不可能な勅令があっても問題ではありません。モルデカイは希望を告白しました。「神はどんな場所からでも助けと救いをあたえてくださる」と。

しかしこの御霊の実である、霊的美徳である、「希望」を失う時に、人はもっと深みに陥ります。絶望や嘆きという井戸に落ち込むのです。

一つの例を示したいと思います。第一サムエル記十一章です。そこにはアモン人がヤベシュの町を攻めようと上って来た記事があります。この時、ヤベシュの人々は非常に恐れて、アモン人ナハシュに契約を結んで下さいとお願いしました。彼らはとても恐れていました。なぜならその敵はとても大きな軍隊であったからです。「何でも言ってください。私たちはあなたの奴隷になります。」とまで言いました。
しかしこのアモン人は、非常に悪い態度で答えました。「お前たちみなの者が右目をえぐり出すなら、契約を結ぼう。」と。彼は、神の民にそしりを負わせようと、ヤベシュ・ギルアデの民の右目をえぐり取ろう、と言いました。ヤベシュの人々は「七日の猶予を与えてください。」と言いました。七日間とは、何かが起こる希望がある、という意味でした。そうして七日の間にサウル王に使者を遣わしました。
使者たちが来てイスラエルの民にそのことを告げると、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。なぜならそのイスラエルに対しての侮辱に、どうすることもできないと思ったからです。人がこのように泣く時、希望を失ったと言えるでしょう。ここでは、イスラエルの民は希望を失っていたのです。
しかし主は私たちにこう言っています。「希望を失うな」と。神様が何かをしてくださいます。神様は私たちと共におられます。そのような時でも、ヨブのように、「たとえ神が私を殺しても、私は神を待ち望む。」と言いましょう。

第一サムエル記で起こったことを見てください。ヤベシュの人々は右目を失うところでしたが、使者を送りました。それは神様が何かしてくださると待ち望んでいたからです。「七日間ある。神は何かしてくださるだろう。きっと誰か私たちのために戦ってくれるだろう。」彼らは希望を失いませんでした。イスラエルの民は泣きましたが、ヤベシュの人々は泣きませんでした。サウルの上に聖霊が下った時、神の答えはどうでしたか?なぜなら神様はあなたを解放する方だからです!第一サムエル記十一章九節、これが答えです。

『彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言わなければならない。あすの真昼ごろ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って来て、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。』

神様はその彼らの希望に対して答えを与えたのです。
続いて、ゼカリヤ書九章十二節、

『望みを持つとらわれ人よ。神は言われます。あなたに二倍の物を与えると。』

「望みを持つとらわれ人よ。」と神様は言われます。あなたに二倍のものを与えると。あなたは自分の人生や家族や国について、悲しいニュースなどを見るときに、希望はないと思っているかもしれません。しかし、今日、あなたに言います。望みを持つ捕らわれ人になってください。なぜなら、今まで見たものの二倍を受けるからです。つまり二倍の祝福を見るようになるのです。

ヨブ記をすべて読んでみてください。ほとんどの方は最初の二章で止まってしまうかもしれません。涙の章と言われるところです。しかし、四十二章では神は彼に二倍のものを返していることがわかります。

モルデカイを見てください。エステルは恐れていましたが、結果、モルデカイは王国で二番目の地位にまでのぼりつめました。二倍です。神様はあなたに二倍のものを与えます。神様にその希望を置くなら、神様は必ず二倍のものを与えてくださいます。

もしもあなたが今困難に直面しているなら、もしもまだあなたの家族が救われていないなら、もしも私たちにまだ日本のリバイバルが見えていないなら、主によってあなたに言います。希望を失ってはいけません!神が何かしてくださると、あなたが信じることができますように!あなたが望みを持つとらわれ人となることができますように!なぜなら、そのような人々に神様は二倍のものを与えてくださるからです!
私は希望があります。それは、ただのリバイバルが日本に起こされるのではないということです。神様は二倍のものを与えてくださいます。とても大きな、とてつもなく大きなリバイバルが日本に来て、全世界に衝撃を与えます。信じてください。希望を失わないでください。
そして個人的には、主があなたと共にいることを忘れないでください。今まで神様はあなたを見捨てませんでした。そして神様はあなたに何かを与えようとしておられます。そして、二〇一五年、あなたはその経過を見ることができるでしょう。希望をなくし、泣いて嘆く者は、何も見ることができないでしょう。しかし希望の中に生きる者には、神の大きなことを見ます。
また、希望の中に生きている人は、周りにいる失われた人たちの所に、その希望を持ち運ぶために用いていただけるようになりましょう。この二〇一五年、日本の戦後七十年という記念の年に、聖書的にも七十というのは大きな意味のある数字ですが、イスラエルの民が七十年後に解放されたということからも、私はこの年が、大きな年になると信じています。そしてあなたも神の働きを担う一人となることでしょう!ですから、希望を失わないで行きましょう!!

DSC_6053.JPG<滝元明 牧師>

「2015年への願い」

ハレルヤ!私も滝元明ミニストリーで、一年の間、ロンさんと一緒に全国を元気に回ることが出来ました。アメリカにも行ったし、四月には韓国でも十日間のミニストリーができ、今日まで健康が支えられたことを、心から感謝します。
 この度、越年のメッセージということですが、やはりプレッシャーがあります。昨日は休みの日でしたが、私も午後の時間に、自分の思い込みではなく、上からのみ言葉をいただかなければと思って、午後に祈りに来ました。教会には鍵がかっていましたから、開けたら、一人の人が中で祈っていました。誰かというと、四元雅也先生が、鍵をかけて祈っていました。「先生も祈っとるな…」と思いました。私も自分の牧師室に入り、一生懸命祈りました。
祈っている時、与えられたみ言葉は、第一列王記三章五節でした。

『その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」』

祈りの中で、この事を主が私に語りかけてくださいました。ソロモンに神がギブオンで現れ、「わたしに何を願うか」と問われた時、ソロモンは、「私は年が若いです。どうぞ善悪を知る知恵と力で人々を裁くことができるように」と願った時、神様は喜ばれて、知恵も与え、それだけでなく、求めなかった富も与えてあげると約束されました。私も、「あなたは何を求めるか」ということで、まず私が神様に求めたことは、やはり、日本の救いです。日本に救いが来るようにと、切に願いました。

新しい年に対する一つの願いは、何かというと、なんとかして天皇家が救われること、それが私の願いです。
考えて見ると、歴史の中に神が、ネブカデネザル王に介入しました。火の中に、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを投げ込まれた時も、ネブカデネザル王も「その中に第四の人、神の子のような方が一緒に歩いている。」と言い、神が現れたわけです。そして、ベルシャツァルにも現れたし、ダリヨス王様にも現れたし、クロス王様にも現れ、ダビデにも現れ、ソロモンにも神ご自身が直接現れています。
インドにヒンズー教に熱心なサンダー・シングという人がいました。この人は、「ヒンズーの神様。本当にあなたが神ですか。」と、叫んでいる時、そこに現れたのは誰かというと、イエス様だったそうです。「わたしが本物の神だ。」
そこで彼は、命をかけて伝道した。お父さんとお母さんは彼に弁当を持たせ、追い出したのですが、お母さんは中に毒薬を入れました。しかしサンダー・シングという人は、本当にすばらしい働きをしました。日本にも来たことがあります。
ですからみなさん、こういう奇跡が、日本にも起こるようにということが、私の今年の願いです。

もう一つ、私の願いは何かというと、個人的な問題ですが、今日家内も一緒に来ていますが、いつも祈ってもらっていますが、だいぶ家内も年を取りまして、九十二歳になります。九十二歳になって、だいぶしぼんで来ました。今年もクリスマスカード用の写真を、写真屋に行って撮ったけれど、ふっと「これが家内とクリスマスカードを撮る最後かな…。」と、そんな寂しい気持ちになりました。人間ですから、いつかは別れなければいけないわけです。
しかし、私の家内は、こういう祈りをしました。「イエス様、日本のリバイバルを見るまで、私を生かしてください。」すごい祈りだと思いました。
ローマ人への手紙四章十八節に、

『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。』

とあります。彼は望みえないときに、なお望みを抱いて信じた。うちの家内は、何年か前に、筋肉無力症という病気になりました。私の長男も「母が死ぬ時、日本におりますように。」と祈っていたといいますが、今日まで生きて来ました。リバイバルが起きるように祈ってください。
そして、私たちが祈っていることは、先ほどもヨブのことが話されましたが、ヨブ記四十二章十節、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。』

と書いてありますが、私は家内に「ヨブのような奇跡をみせてください。」と、こう祈っています。
聖書を見ると、ヨブが癒されてから、「前の半生よりも後の半生のほうが良かった」とありますから、個人的にそうなるように祈っています。

昨日は私に嬉しいことがありました。何が嬉しかったかというと、長男の息子と奥さん、そして二人の子どもたちが東京から私たちに会いに来たからです。いつも嬉しいことは、必ず、おばあちゃんのために祈るのです。おばあちゃんに手を置いて、「おばあちゃんが長く生きるように」と祈ってくれるのです。子どもたちは祈りがすごく好きだというのです。特に下の子は、すごく良い祈りをするというのです。「じゃぁ、祈ってよ。」と言ったら、家内の上に手を置いて、真剣に祈ってくれました。
その後、奥さんが祈りました。彼女はとりなしの賜物を持っている人ですから、良い祈りをしてくれました。何と祈ったかというと、この祈りがきかれたらすばらしいと思いますが、信じられるような、信じられないような祈りでした。「おばあちゃんを十年、若くしてあげてください」と祈りました。「えー!」と思いました。信仰をもって祈ってくださったから、私の個人的な問題ですが、家内が生きながらえて、リバイバルを一緒に見ることができるようにということが、個人的な願いです。

もう一つの願いは何かというと、教会の問題ですが、一九九二年に新城教会では県民の森で大きな聖霊の注ぎがあり、それから霊的戦いが始まって、すばらしい働きをしたわけですが、嬉しい反面、私たちは元いた教団から追い出され、多くの人たちが出て行きました。霊的戦いが始まったことは素晴らしいですが、考えてみると、出て行った人たちは、皆、良い人たちでした。私が愛していた人たちです。ある意味において、サタンによって盗まれたと思っています。
聖書にはこう書いてあります。出エジプト記二十二章七節、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

フェルナンド先生も、二倍、二倍と言いましたが、私の願いは、「盗まれた人たちが、二倍になって帰って来るように。」これが私の願いです。それは、教会が大きくなるとかではなく、新城の街が福音化されるためには、どうしても霊的一致が必要だからです。あの人たちが幸せになるように、また、盗まれた人たちが帰ってくるように、これが私の願いです。

もう一つの願い。何を願っているか。それはヨシュア記に出て来る、ヨシュアとカレブのように、最後まで、私もイエス様に従い通したい。あと何年生きることができるかは分からないけれど、最後まで神に従い通したい。これが私の願いです。
ヨシュア記の中に、カレブに言った言葉ですが、こう書いてあります。ヨシュア記十四章十節~十一節、

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。』

神様がヨシュアとカレブを遣わして、約束の地、カナンの地に入らせたわけですが、ちょうどその時、カレブは『今や私は、きょうでもう八十五歳になります。』と言いました。私、滝元明、今もう「八十五歳」になります。
いろんな人からクリスマスカードをもらっていますが、「私の母が亡くなりました。」「だれが亡くなりました。」と、大勢の人が亡くなっています。でも私は、自分で八十五歳と言うけど、今のところ、八十五歳という自覚がないんです。今のところ、まだ若い気がしてるし、年を取っている気はするけれど、福音を伝えることに対しては、情熱は冷めていないです。日本にリバイバルが来るまで、とにかく働かせていただきたい。これが私の願いです。
ですからみなさん、私のためにもひとつ祈ってください。神様はカレブを用いてカナンを解放したように、私の生きている間に、日本に大きなリバイバルが来るように。

特に来年のことを考えている時に、私の心に来た御言葉はイザヤ書五十九章十九節、

『主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。』

これが来ました。これが心に来たのです。今、やはりリバイバルに必要なことは、主の霊が激しくくだって、主の霊がすばらしく働いてくださる、このことが日本のリバイバルにつながると思っています。ハレルヤ!アーメン!

DSC_6058.JPG<岡本信弘 牧師>

「御霊のために蒔く者となる」

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』

私が昨年末この場所で語らせていただいたみ言葉は、第一テモテへの手紙六章十九節から、『まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築きあげるように』でした。
このみ言葉は、この一年間、私の心にいつも響いていました。しかし、どこまで未来に備えて基礎を固めることができたかと振り返る時に、まだまだだなぁと痛感させられています。
そんな中、新しい年に向けて神様は、ガラテヤ六章からいくつかのことを私に教えてくださいました。
一つは、「蒔いた種は、蒔いた分だけ刈り取ることができる」ということです。

『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』(第二コリント九章六〜七節)

ここにあるように、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに(多く)蒔く者は、豊かに刈り取る」のです。これは、誰もが分かる自然界の法則です。
しかしふと「少しだけとは、どのくらいだろうか。多く蒔くとは、どのくらい蒔いたら多いと言えるのだろうか」と疑問が湧いてきました。
私は、料理が得意というわけではありませんが、作るのは好きなので、わが家でも時々食事を作ります。今は便利な時代で、作り方を知らなくてもスマホで検索したら、どんな料理のレシピも瞬時に出てきます。しかし、あまり料理を知らない私にとって、不満に思うことがあります。調味料の分量の表示に、「少し」とか「適量」とあるのを見ると、「少しってどれくらいのこと? 適量って?」と思うのです。適量とは、「適当」ではなく、「適切な量」ということなのです。適量がわかっていれば調べたりしないわけですから、私はスマホに向かって「これじゃあ分からないよ~!」とつぶやいたり(笑)、こんないい加減なレシピは役に立たない、と思ったりするわけです。
ちなみに私は、最近、毎週のように餃子を作っています。昨日も五百個くらい作りました。私の持っている秤は、〇・一グラムまで軽量できますが、餃子の調味料を合わせて同じように作っているようでも、いつも味が微妙に違います。調味料の量が同じでも野菜の水分などで変わってきますから、違うのも当然です。ですから、毎回、試行錯誤しながら作っています。今回作ったものは、二十四時間PPHで食べられますので、是非、お出かけください。

料理の話はともかく、みなさんが「多く蒔いた」と思っても、神様から見たらまだまだ少しかもしれません。誰でも種を蒔いたら、早く多くの収穫をしたいと期待するでしょう。しかし、最近教えられたことは、「自分は蒔いたつもりであっても、まだ手の中には蒔くべき種が多く残っているのではないか」ということです。
聖書の中にはタラントの話が出てきます。ある人は、五タラント、ある人は二タラント、ある人は一タラントを主人から預かり、五タラントの人は五タラントを儲け、そして二タラントの人は二タラントを儲けました。しかし、一タラント預かった人は、「土の中に隠しておいた」とあります。せっかく自由に使っていいと言ったのだから、土の中に隠しておく必要はないではないかと思います。でも考えてみますと、私たちがもし神様から種を預かったのにもかかわらず、それをしまったまま蒔かなかったならば、一タラントを隠しておいた人と同じではないでしょうか。来年、私たちに与えられている種を、来年中に、確実に蒔ききるように働いていきたいと願います。

そして、二つ目は「どんな種を蒔くのか」ということです。
皆さんに祈っていただいて、プレイズ出版の新規事業の「トラットリア雲の柱」と「餃子店ノブズ」は基礎工事が進み、三月下旬か四月初めにオープンする予定になっています。
また、老人ホームの「アークホーム」と「デイサービスしおん」においては、申請の関係で少し遅れていましたが、すべての書類審査も通り、一月中旬から着工して六月末ごろの完成予定です。本当にお祈りを心から感謝します。
この事業においては、さまざまな申請が必要で、何度も県庁や事業所に足を運ばなければなりませんでしたし、そのほかにも考えもしていなかったようなことで問題が起こり、本当に進めていけるのか、大丈夫なのかと思う時が何度もありました。しかし、多くの方の祈りとスタッフの協力、そして、良い業者に巡り合えたことにより、ここまで進めることができたことを、心から主に感謝しています。
クリスチャンではない設計士さんや業者の方は、問題を乗り越えるたびに、「いや〜、社長は運がいいですね」と言います。そんな時、すかざす私は、「運がいいのではなく、私たちには生ける神様がついているからね」と答えています。ノンクリスチャンの方々が、主の御力を知ってくださるといいなぁと思います。
この事業は、私の与えられた今年のみ言葉のごとく、私にとっては、文字通り、未来に備えた働きであり、プレイズ出版や新城教会にとっても大きな基礎となると信じて祈り続けています。
先日同級会があり、新規事業の話をしました。すると、「この歳になって(明先生から見ればまだまだ若造ですが、どうやって着地するか考えている同級生からすると)、今さら何をしようというわけ? どうして新しい事業をしようと思ったの?」と不思議がられ、何人もの同級生に聞かれました。
元来、私はいろんなことを考える時に、「自分の考えるようなことは、誰もが考えることだ」と思ってきました。また、「私ができることは、誰でもできる」と思っています。ですから、みなさんから「魚をこんなに上手にさばけるなんて、すごいですね」と言われても、「そんなの切れる包丁があれば誰でも切れるよ。誰でもできるよ」と思うのです。

プレイズ出版の印刷・出版の働きもそうですし、また新規事業のことも、私にとっては特別なことをしているという意識はありませんでした。しかし、この事業が始まり、いろいろな人と話をするようになり、「私が考えることは誰でもが考えること」というわけではないことに、やっと気づきました(笑)。そこで、この事業は、まさしく私に預けられた種であり、私が蒔くべき種かもしれないと思って、蒔ききるために、真剣に祈り、働かせていただいています。
みなさんの中にも私と同じように、「自分はたいしたことはない」と思っている方がいるかもしれませんが、みなさんに預けられた種があり、みなさんにしか収穫できない作物がある、ということを是非覚えていただきたいのです。そのように、主は私たちに語っておられるのではないでしょうか。

同時に、八節の御言葉にあるように、『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです』とあります。どんなにこの地上でお金を儲けても、死ぬ時に持っていけるものではありませんし、人に褒められて有名になっても、地位を得ても、たいしたことではないですね。それでは、重要なことは何でしょうか。
ガラテヤ人への手紙一章十節でパウロは次のように語っています。

『いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。』

人の歓心を買うのではなく、どれだけ主に喜ばれるか、どれだけ神様のために蒔けるかが問われるところであり、永遠の命を刈り取ることができるかどうかが重要である、ということを忘れてはなりません。

そして三つ目に、それらのものが「いつ収穫できるか」です。聖書には、どれだけのものを、いつ収穫できるか明確には記されていません。
最近私は、インターナショナルのある姉妹からパパイヤの苗をいただきました。軽く、「先生、パパイヤの苗がありますけど、いりますか?」と聞かれたので、私も軽く、「ありがとう!」と言ってもらいました。しかしすぐ、「しまった!」と思いました。こんなに忙しいのに、育てられず枯らしたらどうしようと思ったからです。少し後悔しながら家に持って帰ると、意外にも家族が、「わぁ、パパイヤなるかなぁ」と喜んだので、頑張って育ててみる気になりました。
早速、庭に植えたのですが、植えた後に育て方を見てみたら、「気温が五度以下になったら枯れてしまう」ということが分かり、慌てて鉢に植え替え家に入れました。そして昼間は日の当たる暖かいベランダに置き、夜は私の寝室に移して世話をしています。冬の間はほとんど成長しないそうですが、五月くらいから急に成長するとあったので、「それじゃあ、来年には、パパイヤが食べられるかも?」と期待したのですが、よくよく調べてみたら、実際に実ができるまでには最低二、三年はかかるようで、「いや〜、どうなるかなぁ、それまで育てきれるかなぁ」とちょっと心配ですが、実がなったらみなさんに報告したいと思います。ずっと先の話ですが・・・(笑)。

話がそれましたが、霊的な部分においても、蒔いた種の収穫はまだか、祈りの答えはいつ来るのかと待ちわび、忍耐が必要なことがあります。答えがなかなか来ないと、「なぜ私が祈り続けたことが聞かれないのですか?」と、神様に文句を言う時があるかもしれません。
今までみなさんは多くの種を蒔いてきたと思いますし、これからも蒔いていくと思います。でも、収穫できないものも沢山あることでしょう。また、家族の救いや病気の癒し、経済的な問題や霊的解放のことに関して、みなさんはいつも祈っておられるでしょう。すぐに応えられるとはかぎりません。困難もあります。
しかし、蒔いた種は必ず収穫する時が来ます。六章九節に、『失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります』と、神様は、はっきりと約束してくださっているからです。
私たちは、来る二〇一五年も多くの種を蒔き、多くの収穫を期待して蒔き続けようではありませんか。
また、「どんな種を蒔くべきか」ということもよく祈り、そしてあなたに託された種を無駄にしないように、一年の間に蒔ききっていただきたいのです。そうすれば、ちょうどよい時に、神様は多くのすばらしい収穫物を、私たちに、この教会に与えてくださると信じています。
来年も全力で、主のために祈り、備え、働いてまいりましょう。

DSC_6062.JPG<四元雅也 副牧師>

「二〇一四年を超える恵みの年」

ハレルヤ!二〇一四年最後の集会で、こうしてみ言葉を取り次ぐ機会を与えられ、感謝いたします。
先ほどは、スライドでもご覧いただきましたが、一二月は大変忙しい時を過ごしました。今年は特に、バラエティーに富んで、クリスマスの伝道集会がありました。赤ちゃんや幼児を対象とした集会、インターナショナル部会の集会、中高生のための集会、少しお年を召した方のための集会など、数多く持たれました。
教会のスタッフもそれぞれ担当があり、助け合って集会を作っていくのですが、スタッフだけでは手が足りずに、皆さんにいろいろと奉仕をお願いして手伝っていただきました。皆さんも年末でいろいろとお忙しい中にありながら、喜んで手を貸してくださり、集会を盛り立ててくださって、いつも感謝しておりますが、今年のクリスマスは特にその思いを強く持ちました。
素晴らしい教会に素晴らしい兄弟姉妹が集っておられ、一緒に神様のために働くことができることを、意気に感じました。スタッフとして、この時期はしばしば力の足りなさを感じるものなのですが、欠けを皆さんが補ってくださって、こうして、お互いの神様への思いが一つになって、神様のみ国が実現していくんだな、と感じました。

前の主日礼拝のメッセージの中で、順先生が冒頭、「今年一年、あなたが一番恵まれたことは何でしたか?お隣の人に聞いてください。」とお話しされました。お隣の方から聞かれて、僕は、なかなかとっさに答えが出なくて頭が真っ白になってしい、考えた挙句、「娘の進路が決まったことかな?」と答えました。
神様の恵みで、高校三年生の娘の進路が決まり、我が家にとっては、それが大変奇跡的な出来事でありました。そういうと、娘に失礼かもしれませんが・・。
家内は泣いて喜びましたし、私もまさに、「ひょうたんから駒」でありました。
最近起きた出来事でもありましたので、そのように答えたのですが、後で「一年の最大の感謝」という問いに対して、それが答えでほんとに良かったのかな?と我ながら疑問に思いました。もちろんすごく感謝なことではありますが、その前の週の礼拝でも、明先生が語っておられたメッセージで、「この世に生きている中に起きるいろいろな出来事、良いことも悪いこともあり、願いが叶ったり、時には叶わなかったりしますが、永遠のいのちに比べたら、大したことではない。」と聞いていましたので、おかしなことですが、ある意味罪悪感のようなものまで感じてしまいました。

これと関連していると思うのですが、先月の中旬くらいに、ひとつみ言葉が与えられたんですが、それが心に響いておりまして、新しい年に向けて与えられたものとして、紹介したいと思います。
エレミヤ書五一章一九節

『ヤコブの分け前はこんなものではない。
主は万物を造る方。
イスラエルは主ご自身の部族。
その御名は万軍の主である。』

「こんなものではない」という一つのフレーズが、ある集会の中で僕の心の中に響いてきました。そこで、聖書を開いてみたらこの箇所でした。素晴らしいみ言葉だなって思いました。
ここで、「こんなものではない」と書かれてあるのは、私たちが神様を信じているがゆえに、与えられる「恵み」、それは、私たちが受け取り、または信じているものではなく、もっと大きい、ということかなと思っています。
このみ言葉が、来る二〇一五年に向けて私個人にも、この教会の上にも、今年を超える恵みが与えられることを、みんなで受け取っていきたいと思います。イエス様を信じていることは、素晴らしいですし、それゆえに受ける恵みもたくさんあると思うのですが、病のいやしも、問題が解決することも、願いがかなえられることも素晴らしいことであります。でも、この世にあるものでも、与えることができるような恵みであったら、それは「こんなものだろう」という恵みかもしれません。この世のものによっては与えられることのない「恵み」をイエス様は私たちに与えられるのではないでしょうか?世にはないもの。他のもので代用できないものが、「こんなものではない」のだと思います。それを、神様は私たちに与えてくださると思います。

さて、昨日神様の前に祈っていた時に心に響いてきたみ言葉はルカの福音書一〇章四二節。これも、二〇一五年に向けて与えられたみ言葉だと受け止めたみ言葉です。

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

これは、ベタニヤの、主が愛された兄弟たち、マルタとマリヤとラザロがいたのですが、そのマリヤがイエス様の足元に座って、み言葉に一心に聞き入っていた、そういう場面がルカの一〇章の最後に出てきます。姉のマルタは、いろいろと気をもんで、接待のために駆け回っていました。それも、イエス様を愛するが故の行動でありましたが、イエス様は、それに勝る姿として、マリヤの態度を褒められたのです。

このエピソードの前に、ルカの福音書一〇章二五~二八節を見ますと、律法学者がイエス様の身元に来て、永遠の命を受けるために大切な戒めはなんでしょうか?と質問しています。そこで、イエス様は、「あなたは、どう読んでいますか?」と逆に質問されます。彼は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」と答えました。すると主は、「その通りです。それを実行しなさい。」と仰せられました。
そのあと、いわゆる「良きサマリヤ人」の例えを、イエス様はお話しされます。これは、イエス様が、隣人を愛することについて説くために話された物語です。傷ついたユダヤ人を、敵対関係であったサマリヤ人が助けたという、普通ありえない対象の人の「隣人になる」ことを、私たちの目標とされました。
そして、この例えの後に出てくるのが、マルタとマリヤのエピソードです。この時、マリヤがとった、みもとに座って一心にみ言葉に聞き入る姿は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして主を愛する」と言われた、最も大切な戒めを説明するためでした。ルカは、「隣人愛」を説いた「良きサマリヤ人」の例えの後に、「主を愛する」ことの象徴として、「マルタとマリヤのエピソード」を置いたのです。

ですから、マリヤがイエス様のみ言葉に聞き入っていた姿が、主を愛するということの最も素晴らしい姿なのです。

今日は、ニューイヤー・カウントダウンの集会で、六人の牧師・副牧師からみ言葉が語られています。皆さんが、このように神様の前に集まってみ言葉に耳を傾けていることは、私たちが神様を愛している最上の姿であります。

感謝なことは、僕の家族、親族はクリスチャンが一六人いるわけですが、その中でも東京から甥の良音も来ていますし、名古屋から姪の真理も来ていますので、今日は全員そろって集会に参加できることを感謝します。
実は、先週は、僕の家内が体調を壊して、一週間ほど寝込んでいました。日曜日の礼拝にも出ることができませんでしたので、今晩出られるかな?と心配していたんですが、大分回復して、まだ病み上がりですが、一緒に参加できました。皆さんに祈っていただいておりますので、心から感謝いたします。ご心配をおかけしましたが、もう良くなっていくと思います。
先ほどから先生方のメッセージを聞きながら、集会に参加できるのは、すごい感謝なことなんだと、改めて思わされました。
主の前に出て、み言葉に耳を傾けることができることの感謝を、今日は皆さんで確認したいと思います。その中にこそ、エレミヤ五一章一九節の「こんなものではない」という恵みが注がれていると思います。

ベタニヤのマリヤは、イエス様の頭に、ナルドの香油を注いだ女性です。イエス様の十字架の、一か月ほど前に、いわゆるラザロの蘇りのエピソードが記されています。ベタニヤのマルタとマリヤの兄弟であったラザロが、死んで四日目であったにもかかわらず、イエス様のみ言葉で生き返ったのです。そして、ヨハネの福音書一二章には、イエス様が十字架に付けられる六日前に、イエス様一行が再びベタニヤに来られた時、このラザロとマルタとマリヤ、そして、生き返ったラザロをひと目見ようとして集まってきた多くの人々が一堂に会し、食事の時が持たれました。
そこでマリヤは、ナルドの香油三〇〇グラムが入った石膏の壺を割り、イエス様の足に注ぎだし、自分の髪の毛でぬぐったと書かれています。マタイ・マルコの福音書を見ると、「頭に注いだ」とも書かれています。三〇〇グラムのナルドの香油、缶ジュース一本分くらいの分量で、今の価格で行ったら三〇〇万円とか、四〇〇万円もする非常に高価なものでした。普通はナルドの香油をそんな使い方をすることはありません。一、二滴使うだけで充分な香りが周りにたちこめるのに、彼女は、真新しい石膏の壺を割って、大切に取っておいた香油を、惜しみなくすべて注ぎ出したのです。
その様を見たイスカリオテのユダ、それに、他の聖書箇所を見ると、何人かの者が憤慨したと書いてあります。「なんと、もったいない。残らず注ぎだすなんて、考えられない。三〇〇デナリで売ったら、貧しい者たちに施すことができたのに。」と。その時、イエス様は、ヨハネの福音書一二章七節、

『イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。…」』

イエス様は、この行為を、自分の埋葬の用意のためだ、といわれました。当時は死んだ人が墓に葬られるときに、没薬や香油を体に塗って、防腐剤や香料とする、そんな埋葬の処理がされていました。
それをまだ生きているうちに、イエス様に注いだ、全部注ぎだして、頭から足まで香油が流れていたと思うのですが、イエス様は、これを埋葬の用意と言われました。貧しい人たちには、あなた方がいつでも施しをするチャンスがあるでしょう、しかし、マリヤが今したことは、今しかできないことなのです。この後、福音が語られるところでは、どこでもマリヤがしたことは記念となって、語り継がれるでしょう、とイエス様はおっしゃったのです。
十字架という苦しみを経て、自ら死への道を進もうとしておられるイエス様に対して、マリヤはそのことを知っていたかどうか、定かではありません、しかし彼女は、イエス様のために的を射たことを実行したのです。
この出来事のちょうど同じ日に、イスカリオテのユダは、ユダヤの指導者たちにイエス様を引き渡す約束をし、六日後にイエス様の十字架の死が現実となりました。ですから、マリヤのしたことは、まさに主の時をつかんだことでした。
彼女のしたことは、イエス様のお言葉通り、福音が語られる世界中で証され、彼女の記念とされています。彼女にとってまさに、「こんなものではない」祝福となったのです。ルカの福音書一〇章四二節

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

イエス様の足元に座ってみ言葉に聞き入っていたマリヤ、そのように日ごろからイエス様を愛していたマリヤであったからこそ、主の十字架に際してナルドの香油を注ぐという、素晴らしい恵みに預かることができたのです。これが、「こんなものではない恵み」であるのです。

今日も、私たちは何気なく集会に来て座っているかもしれません。また、毎週の礼拝でも、当たり前のように来ているかもしれませんが、これは本当に主にあって、私たちが受けることができる恵みの中でも最上級の恵みだと思わされます。主に祈れること、賛美をささげることができること、み言葉をいただくことができること、教会の交わりにつながることができること、県民の森祈祷会に生き、思い切って神様に祈れること、その一つ一つが、私たちの人生の中に表わされる神様の時に際してやるべきことを行うために必要な備えとなっている、その扉を開く道筋となっていることを、覚えていきたいと思います。
主の日・主の時は、私たちの教会でもいつも意識させられています。「み国」がこの地上に来るために、教会が働いていますけれども、そのために私たち一人一人がなすべきことを行っていくことができるように、イエス様ご自身が私たちの名前を呼んで称賛してくださる、記念としてくださる、そのような者としていただけるようにと願っています。

DSC_6065.JPG<上條実 牧師>

「ことが起こる前に神の声を聴くものになろう」

ハレルヤ!今年二〇一四年は、異常気象で大型台風が来たり、水害、がけ崩れ、また地震などで、大変な事件が多くあった一年でした。私たちは地球の管理人であると学び、日本を愛して祈ってきましたが、次々と起こる自然災害や事件、事故の為に祈らされた一年でした。
異常気象とか、特別警報とか、頻繁に報道で聞くことがあり、異常気象といいますが、異常が異常ではなくなって来てしまっています。
しかし私たち教会は恵まれてはいますが、それなりの成長であり、主によって新しい事が起こったと言うことは、まだ言えない状況です。今異常気象がこの日本の各地で起きているわけですから、今度は日本の霊的状態が人から見たら異常となるような主のリバイバルを求めなくてはならないと教えられています。

私が二〇一五年に与えられたみことばをお読みしたいと思います。イザヤ四十二章九節です。

『先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』

私たちの教会に、神が霊的戦いを開いて下さり、今まで暗闇の力に対して戦うことができました。今年もますます戦っていかなければいけないと思います。今までの戦いは、何か起こり「大変だ。困ったことが起きた。」と言っては戦いに出かけていくというそんなくり返しだったと思います。しかしそんな中でも、主は祈りを答えて下さって勝利を下さっていますが、今年与えられたみことばは

『新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』

と言うように起こる前に神様から聞かせて頂き、先取りの戦い。預言的な戦いをさせていただきたいと教えられました。今の世界は気象庁が、「今度の台風はめちゃくちゃ大きいですよ。」「今度の台風は最大級ですよ!」と先に今度来る台風を予測できる時代です。そしてそれを聞いた私たちは備えることができるのです。しかし霊的な部分では全く予知ができていません。私たちの神はスーパーナチュラルの神様であり、私たちはその管理人だと言われているのにも関わらず、何もできず「また大変なことが起きた。さあ祈ろう!」というくり返しです。何でもおできになられる神様が何でわからないのでしょう?歯がゆい気持ちがします。しかし『それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」』とありますから、神様の声をしっかり聞かせて頂き、事前に祈り、備える霊的世界になりたいと節に願います。

詩篇三十七篇四節~六節に、このようなみ言葉があります。

『主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』

とあります。『主はあなたの心の願いをかなえてくださる』とあります。私は今までの状況を変えて頂きたいと節に願います。物事が起きてしまってから戦うようなとりなしではなく、あなたの心の願いをかなえてくださると書いてある神に、「物事が起こる前に、私に、教会に教えて下さい。」と願っていきたいと思います。霊的な異常気象を起こして頂きたい。人では考えることのできない、神の力、神の働きで取りなさせて下さいと、切実に願い求めていきたいと思います。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」とありますから、新しい年は主から「出来事が起こる前に、聞かせて頂き、備え、暗闇の力から勝利を頂く年になりたいと願わさせられています。そして、私たちはいつも平安で、神に守られ、祝福を受け、真っ暗なこの時代に、一年間真昼のような輝きをいつも頂けるように、この日本にリバイバルと守りが与えられるようにさせていただきたいと思っております。

ヨハネの福音書十二章二十八節~三十一節には

『父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。』

とあります。天から声が聞こえ、わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そうと語って下さっています。新しい年は主の栄光が現れる年。祝福を現実の世界で、教会で現させて頂きたいと願います。そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと思っていました。しかし「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」とあるように、私たちは神の声をしっかり聞き、この世を支配する者を追い出す者となりたいと思います。この新城教会は、霊的に目が開かれれるのと同時に、耳が開かれるように、三十節に、

『この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。』

とあるように、神の声をしっかり聞くのは、私たち、新城教会のためです。しっかりと耳を開き、悪魔が準備している罠を全部打ち砕き、先々に戦って勝利できる教会になれたら最高だと思います。

この三十一節に、『今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。』というみ言葉をリビングバイブルで読むと、

『さばきの時が来ています。 この世の支配者サタンは追い出されるのです。』

とあります。私はこのリビングバイブルを読んで本当に恵まれました。先々に、私たちはいつも神の声を聞き、準備してとりなし、祈り、戦い、この世の支配者であるサタンを追い出していきたい。打ち砕き暗闇の力を打ちくだいて行きたい。神様の声を聞き、その声に従って進んでいきたいと思います。『それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』と、このみことばを信じて進んでいきたいと思います。この十二月、私はルカによる福音書を通読していました。その中にルカ五章に、一晩中漁をしたが何もとれず、網を洗い、片づけていた弟子たちのことが書かれています。これが五章一節から十一節に書かれています。するとそこにイエス様が来られ、シモン・ペテロの持ち舟に乗って、群衆に語られました。その後「深みに漕ぎ出して網をおろしなさい」とイエス様が言われました。ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ってそのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになったとあります。今まで夜通しやっても、何も成果がない。暗闇の中では成果はなかったと言っています。しかし神の声に従って、深みに漕ぎ出して網を降ろしたのです。すると一度網を降ろしただけで、二そうとも沈みそうになったのです。暗闇の働きが邪魔をしていたため、夜通し働いても何もとれず、むなしさと疲れが残るばかりでした。しかし神のことばを聞き、漁をすると一度で二そうとも沈むほど魚が捕れたのです。
神の声を聞く時、祝福は与えられます。二十何年戦わさせていただいたが何も起こらなかった。ある時はあきらめてしまって、漁をやめてしまっている時があります。しかし神様の声を聞いて、網を下す器になりたいと願います。
またルカ九章の所では、二匹の魚と五つのパンの記事があります。男だけで五千人、ある人は、民全体で一万人とか二万人いたと言う人がいますが、そんな中でイエスさまは「あなたがたでこの人たちに食べさせなさい。」と言われました。弟子たちは、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言ったのです。しかしイエスさまはそんな暗くなろうとする時に「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と、弟子たちに言ったのです。そんなとき、「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」と言いました。二万人の群衆の中で五つのパンと二匹の魚しかなかったのです。これを読むと今の日本の教会を現しているように思えて仕方がありません。二万人いるにも関わらず、少年一人分の弁当だけでした。そんなときイエスさまは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ祝福して裂きました。そしとて群衆に配るように言われたのです。すると人々はみな、食べて満腹し、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあったという奇跡を現して下さいました。今の日本は苦しいことばかり。特に教会は、少年一人の弁当しか持っていない状態。最悪な状態です。しかしイエスさまは人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさいと言い、すわらせ、五つのパンと二匹の魚を少年から受け取り、奇跡をなさいました。暗くなりつつあり、食べるものがないし、泊まるところもないへんぴな状況下で、奇跡を現されたのです。どんなにあきらめてしまう時でも、私たちの手には何にもないに等しい状況でも、神さまの声を聞く時、奇跡が現され、満足することができました。今日、神様が語っていることばを聞く事ができる耳をつけて頂きましょう。新しい年、二〇一五年は、戦って、戦って、勝利を得る事のできる教会にして頂きましょう。どんなに寂しい、悲しい、どんなに大変な時でも神さまの声を聞きましょう。もう一回はじめにお読みしたイザヤ四十二章九節をお読みします。

『先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』

このみことばが今年のみことばです。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせようと神さまが言われています。神の声を聞きましょう。先取りのとりなしをして、備える人生。勝利を頂く二〇一五年にさせて頂きましょう。しかしやはり神さまが語ってくださっていることばを聞くためには、聖さが必要です。私たちは神の前にへりくだり、聖くなって神の声を聞いて、そのことば通り戦って、勝ち取る二〇一五年とさせて頂きましょう。

DSC_6067.JPG<滝元開 牧師>

「主の臨在がサタンの力を打ち破る」

ハレルヤ!感謝します。こうして二〇一四年、最後の日に、健康で、喜びとともに、今ここに立つことができること、本当に心から感謝します。

まず、私に与えられた二〇一五年のみ言葉をお読みします。第一サムエル記五章一節~四節、

『ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。』

このみ言葉が二〇一五年、与えられた御言葉です。「主の臨在がサタンの力を打ち破る」これが与えられているテーマです。
神様は、この二〇一四年、本当にすばらしい恵みを与えてくださいました。ある意味、この新城教会にとって、すごく大きな祝福と、何か本当に大きな門が大きく開かれた年であったなということを強く感じています。
この教会においても、また私はザワメキの働きの中でも、主が豊かな祝福を注いでくださった年であったことを覚えて、本当に心から感謝しています。
二〇一四年、与えられたみ言葉は、「倒れたダビデの幕屋を建て直す」という言葉でした。賛美を通して奪われた神様の栄光を取り戻すというヴィジョンの中で進むことができました。サタンに音楽そのものも奪われているので、それを主によって奪い返し、賛美を捧げる時に、その中にある主のご臨在そのものが敵の力を打ち破るという、そういった約束を与えられて、この一年間、いろんな所で賛美をさせていただきました。
ニ〇一五年は、その主ご自身のご臨在が、サタンの力を打ち破ることを、さらに、現実に体験していける年になると、本当に心から信じています。
第一サムエル記五章一節には、『ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。』と書かれています。ペリシテ人に、その神の箱そのものが奪われていたわけです。神様の臨在の象徴である神の箱、主のご栄光は奪われていたわけですが、しかし、神様は奪われたままにされるお方ではありません。私たち一人一人が心から主を賛美するとき、主の臨在は回復されるのです。その現実を信じ切って歩む時に、イエス様がそれぞれの歩みの中に、ご臨在を現してくださるので、その事を信じて、この二〇一五年、さらに歩んでいきたいと、本当に思います。

二〇一四年を振り返ると、本当に主はすばらしいことをしてくださったと、本当に思います。ザワメキの働きも、主は導いてくださって、タイミッションに行かせていただいて、その時に、タイの山岳地での賛美の中に、本当に主はご臨在くださって、またその地の宣教の働きで、神様が新しい扉を開いておられる姿を見ました。
チェンマイの街を歩いている時に、私は主から語りかけを受けました。その時に語られたみ言葉が、ヤコブの五章九節だったのですが、主が語ってくださった言葉が、『わたしは戸口の所に立っている。』と、ふと語られました。主は戸口の所に立っておられるというのです。もう間もなくイエス様が帰って来られるわけですけれども、主は、その扉を今にも開けようとされているんです。もうすぐそこまでイエス様が近くに来られているんだということを、すごく強く感じました。
それから本当に色々なことがありました。思ってもみなかったのですが、ベトナムに導かれて、カンボジアに導かれて、今の世界の現状を目の当たりにして、でもそこに主のご臨在が現される時の祝福というのを見ました。

そして、その後、この年は、なんといってもネパール宣教でした。ネパールに行かせていただいて、しかも、新しい世代が主によって遣わされ大きな奇跡の旅を目の当たりにしました。Dancing & Praiseというテーマで行きましたが、その賛美の中にある主の臨在が、その敵の力、特に悪しき霊的な流れのルーツのような所に主が若い世代を遣わしてくださって、そこで賛美が捧げられた時に現された祝福というのを、本当に目の当たりにしました。行った兄弟姉妹たちが本当に変えられて来た、その姿を見て、いや~、本当に神様がこの二〇一四年、すばらしい扉を開いてくださったなということを、すごく強く感じることができる時であったことを、本当に心から感謝します。
ネパールでの印象に残る出来事がたくさんありましたが、クマリという所で、兄弟姉妹がみんなで躍りました。そこは日本でいう伊勢神宮みたいな所なのですが、そこで神様への賛美の生け贄が捧げられたわけですね。それがどんなに大きな意味があったことか。そのことの結果が、これからの歩みの中で現されていくのではないかと思います。
また、サドゥーという、全身白くして、人生すべてをサタンに捧げてしまったような人たちの中で捧げたあの賛美が、本当にこれからの宣教の中にどういった形で現されてくるのかということを、この二〇一五年の中で見ることができるのではないかと、そのようなことを思っています。
さらに神様が本当にこの教会に対して、新しい扉を開いてくださいました。「人とは何者でしょう」という、私たち一人一人の存在の価値そのものを見させてくださって、主ご自身の夢を実現させるために、私たちがここにいると、この新城教会は夢の実現のためにある教会だということを、深く示してくださった、すばらしい年であったことを覚えて、心から感謝していいます。

天野先生がここに来られて、この教会に対して主の夢を実現する教会だと言ってくださったのですが、それから何日も経たないうちに、私たちが行ったザワメキでの出来事ですが、それは先日の礼拝でも少しお話ししましたが、ザワメキで行った教会の一人のお医者さんだったんですが、その方から私は手紙をいただいて、「ザワメキに主が持っておられる夢がかないますように」と書かれていました。本当にびっくりして、こんな事があるんだ!天野先生を通して語られた直後でしたのですごく驚きました。その後、さらに、その方から、メールをいただきました。こう書いてありました。「毎日ザワメキのことをお祈りしているのですが、主がザワメキに持っておられる夢がかなえられるように、祈り続けなさいと、主の声が聞こえたような気がしたので、その事を書きました。」とメールが来たのです。ここにおられる皆さん、それぞれに対しての主の夢というのがあって、それぞれ主によって与えられている主の夢の実現のために存在し、それぞれの働きというものがあると思います。先ほど信弘先生が語ってくださったように、主から託された種を蒔ききらなければいけないと、本当に思います。それぞれが蒔かなければいけない種というのがあるので、それこそが私たちが生かされている存在の目的そのものであるのではないのかと強く感じさせられた年であったことを本当に覚えて、心から感謝します。

この十二月というのは、そういったすべての一年間の働き、またすべての戦いの総集編のような月だったのではないかと思います。すべての集会が祝福されて、すべての中に神様のご臨在があって、そして救いの御業が現された。そういったすばらしい月だったなということを本当に思います。
毎年、十二月になると、スタッフも集会から集会で、疲れ切るのです。そして戦って、ちょっと重いな、苦しいなという、そういった姿を目にするのですが、今年は、終わりの交わりの中で、皆がこう言っていたのです。「今年の十二月は軽かった」と、こう言っていました。本当に神様ご自身が共にある祝福というのは素晴らしいなと、思いました。主の大きな勝利の印です。

私たちもそのザワメキで行かしていただいた中で、賛美の中に、主がご臨在くださることの祝福というのを本当に見ました。一人のおじいちゃんが、賛美の中で、すごく触れられているのを見ました。そうしたら、そのおじいちゃんはちょっと不思議な方で、牧師先生が話しているうちに、「はーい!」と手をあげてしゃべりだしちゃうようなおじいちゃんだったのですが、でも賛美の中で本当に「あっ!このおじいちゃん触れられたな」ということを感じました。
集会終わってから、おじいちゃんが私の所に来て、「祈ってください」と言ったので、お祈りしました。祈る前はガウンを着ていたのですが、祈り終わったら、どういうわけか、ガウンを脱ぎました。ガウンを脱いだら、ここに偶像の守りをぶら下げていました。そうしたら、それを見たそこの教会員の人たちが「それ偶像じゃん!駄目じゃん!駄目じゃん!」と言いました。そうしたら、何をしたかというと、「悪気はないんだ。悪気はないんだ。」と言いながら、その人はそれを取りました。賛美の中で、悪しき土台が崩された結果だなと思ったのですが、そして私たちが帰ろうとしたら、そのおじいちゃんが私たちの所に来て、今度は財布を持って来たのです。「ここにも偶像があった!」と言って、そのおじいちゃん自らその偶像を撤去していくその姿の中に、主のご臨在が敵の力を打ち破るという御業が現される姿を見させていただいて、この事が、これからの二〇一五年の中に現されるのではないかと本当に強く感じさせられた出来事でした。

また、もう一つ、私と家内といろいろな奉仕をさせていただく中で、一つの教会に行って、賛美を捧げさせていただいたら、某宗教団体の一人の方が来られていました。四十過ぎの一人の男性だったのですが、九年間教員をされていて、すごく知識のしっかりある方なのです。でもその方は、S学会という、そういったある団体に入っていたので、ずっと毎日六時間くらい、なんか題目だかなんだかをあげて、喉から血を出すほど叫び続けていたんですって。
だから、教会なんていうところに来てはいけないのに、初めて来たというのです。そうしたら、本当にその賛美の中で主の臨在に触れて、「これは、なんて世界なんだろう!」と、最後は、「イエス様、私の人生と共に、イエス様歩いてください」という祈りまでして帰りました。神様のご臨在が、敵の力を打ち破るという業をみさせていただきました。これからの二〇一五年、主ははじめようとされているなということを、すごく強く感じさせられた十二月でした。

最後に、出エジプト記三十三章十二節を読みたいと思います。まず十二節を読みます。

『さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。』

モーセに対して神様が与えた、モーセの使命、それぞれに与えられている使命があるわけですが、モーセはその民を連れ上るという大きな使命があったわけです。そして十三節、モーセは何を言っているかというと、

『今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。』

と言っているのです。こんなに大きな重荷があって、神様、あなたの働きを私は担いますが、どうしたらいいんですか!と、神様の前に言うんですね。そうすると、十四節、

『すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」』

と、イエス様がおっしゃっています。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」他の訳を見ると、「あなたを安息の地に導く」というふうに書かれているのですが、リバイバルへ導かれる、何よりもの大きなしるしは、「わたし自身が一緒に行く。」主ご自身のご臨在が、敵の力を打ち破り、主の勝利を現す。
これが二〇一五年に与えられている御言葉であると信じています。主の臨在が偶像のただ中で、偶像を打ち倒すほどの大きな勝利を現すことが、二〇一五年に現される年であると信じて、期待していきたいと思います。