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主の夢をかなえる為に。パート2

2015年2月22日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書6章33節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日も、みなさんとご一緒に、主を心から礼拝できる特権を感謝します。
 年度末にさしかかり、受験生の方々は、ほぼ受験も終わり、新しい道が決まったのではないかと思います。様々な領域に新しく踏み出すのが、この時期です。
 新城教会も、みなさんの祈りに支えられ、ここまでこれましたことを、本当に感謝します。

 先週の日曜日の夜、私事ではありますが、私の母親の誕生会がありました。母が九十二歳の誕生日ということで、滝元部族というか、親族一同が集まりました。結構大勢だったので、教会にお願いをして、教育館ホールを貸していただきました。それで持ち寄り誕生会をやりました。

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 周りの人たちも来てくださり、こんなに大勢でした。母は今年で九十二歳ですから、これが最後の誕生会かなと思い、開催しました。もしも来年、母が生きていたら、みなさんも招待したいと思うのですが、父も母も、健康で感謝します。孫たちに風船を付けてもらい、喜んでおりました。

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 教会は、赤ちゃんからお年寄りまで、幸せに暮らすことができる場所です。この地上で長く生きることができるのは、幸せですね。

 母の世代は、青春をほとんど戦争で取られた世代です。母は戦争に参加して連合軍と戦いました。どこで戦ったかというと、インドネシアで戦いました。どういう戦いかというと、教育部隊でした。
 以前にもお話ししましたが、日本には、二つのアジア侵略の柱がありました。一つは大東亜共栄圏に、日本の神々を伝えるという目的。もう一つは、大東亜共栄圏をすべて、日本語化する計画でした。「言語の中に文化も入っている。日本語さえしゃべれば、自動的に日本人になる。」という考えで、日本は日本語教育をしました。そのために、母はインドネシアに遣わされました。しかし九十二年間も、よくぞ生きることができたと思うわけです。

 しかし今の時代、また日本が戦争に向かっているようで、本当に嫌な感じがします。なんとなく心配です。案外、私たちは、自分の足下しか考えていない場合が多いのですが、それではいけないと思います。
 受験生なら、やはり受験だけ、真剣になりますよね。この頃、受験戦争も大変ですから、家族一丸となって受験に臨んでいるみたいです。弁当から違うみたいです。

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「夢を叶えろ!のり弁」です。こういうのもありました。

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「すべてが思い通りになると思うな!弁当」です。こっちのほうがいいですよね。本当に親も子も大変です。弁当にまで細工しなければならない世の中です。もっといじわるな弁当もありまして、

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「呪い弁当」です。

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キンチョール弁当もあったり、いろいろありました。やはり「夢を叶えろ!」というのが、人生のテーマみたいなところがあります。何しろ、自分の夢をかなえるんだ!と、それがすべてだ!と考えるのです。
 しかし聖書は、人生とは、自分の夢をかなえるためではなく、神様の夢をかなえるためだと教えています。その為に、私たちは存在しています。

 去年の十月、私はこのメッセージを語ったのですが、天野先生が昨年来てくださり、新城教会に対するメッセージを語ってくださいました。神様が「わたしの夢をかなえてくれ」と語っておられますよ!といわれました。あれは、天野先生じゃなく、主から直接語られたような気がして、心震える思いでした。
 先生のメッセージ、すごく良かったので、今年も奉仕をお願いしました。十月十七日、十八日に来てくださることになりました。予定に入れておいてください。
 人生は、自分の夢をかなえるためと考えることが多いのですが、聖書を読むと、人間が造られたのは、神様が持っておられる夢をかなえるために、その働き人として創造されたのです。また、この地を管理する者として創造してくださったのです。

 教会に来ますと、今まで持っていた世界観が、大きく変えられます。そして、その変えられた世界観の中に、真理があるわけです。その結果、人生もうまく軌道に乗るのです。
 自分の夢をかなえようと、人は一生懸命やっていますが、かなう人は本当に一握りです。しかも、夢がかなって良かったのか、悪かったのか、なかなか判断が難しいです。
 しかし私たちが造られた目的が、「神様の夢をかなえるためだったんだ!」と、気づかされる時、人生は大きく変化するのです。

 聖書は一口でいえば、「神の国完成へのシナリオ」と言ってもいいと思います。神様がこの地上に、ご自分の国を実現するためのシナリオ、それが聖書です。
 そのシナリオの中で、人類は何をしなければならないのかを、学んでいかなければならないわけです。その理解とともに、マタイの福音書六章三十三節を読むと、心動かされるものがあります。このみ言葉は、大変有名です。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 先週、孫たちが東京からやって来ました。長男の娘に、たみぃちゃんという、小粒でかわいい子がいるのですが、「じいじ!歌、歌ってあげるよ。」と言って、何を歌ってくれるのかなと思ったら、「神のくにと、神のぎを〜♪」と、歌ってくれました。近くの教会付属の幼稚園に行っていて、いつもその歌を歌うみたいです。
 私たちが、このみ言葉を読む時に、どこに注目するでしょうか。『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』という所には、あまり注目しないのです。『これらのものはすべて与えられます。』という、「与えられるためには、何をしたらいいのか。あっ、そうか。神の国と神の義だったな!」という具合になるわけです。私たちは自己中心な世界に住んでいますから、自分の得になることは一生懸命やる、しかし、あんまり得にならないことはやらないくせがついています。
 イエスさまの弟子たちも、結構打算的な所がありました。マタイの十九章を読みますと、こんなことをペテロが語っています。マタイの福音書十九章二十七節〜三十節、

『そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』

 イエスさまの弟子たちも、「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ったんです!何をいただけるんですか?」と聞いています。
 日本の仏像って、指を丸くして片手を手を出しています。くれよ!くれよ!と言っているみたいです。人生を表しているような感じです。私たちはいつも「何かもらえるんですか。」と考えます。教会に来たら、「今日の礼拝で何かもらえるかな…」という期待があるわけです。
 しかしこれは決して悪いわけではありません。なぜならイエスさまも、「何を言うか!」と弟子たちを叱りつけたわけではなく、ペテロを叱責したわけでもありません。「すべてを捨てたら、最終的には捨てた幾倍も与えられるよ」と語られているわけですから、イエスさまのために命をかけて、イエスさまに投資しても、絶対に失敗はないということです。
 イエスさまに命をかけるとき、日本においては、捨てなければいけないものが多くあるかもしれません。しかし、決してそれは無駄にはならないのです。永遠のいのちにつながり、捨てた幾倍をも受けるのです。私たちが主にいのちをかけるのは、本当にすばらしいことです。
 なぜなら私たちの主は、初めであり終わりで、すべてを支配しておられる方だからです。「ほかに神はいない!」と宣言されています。
 イザヤ書四十四章六節に、こんな言葉があります。

『イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』

 力強い言葉ですよね。みなさんでご一緒に、このみ言葉を宣言しましょう。私たちが信じている神様の自己紹介文です。ご一緒に、読んでみましょう。さんはい!

『イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』

 いや〜、すごい言葉じゃないでしょうか。私たちが仕えている神様は、「わたしのほかに神はない!」と言い切っておられる方なのです。この方に、すべてをかけているわけです。すべてを与えてくださらないはずはないのです。
 しかし、この神様が、なぜ、地球を造られ、人間を造られたのかを、しっかりと理解することが重要です。それが、「わたしの夢をかなえてくれ!」と言う事です。主の夢をかなえるために、私たちは存在しているのです。
 主の夢とは何か。それはこの地上に、神の国が現され、神の支配が百パーセント及ぶ地球ができる事です。私たちは、神様の夢をかなえるために、存在しているのです!決して、自分の夢の実現のためではないことを、よく知ることが必要です。

 明日、明後日と、「霊的戦い専門課程」があります。いつもここで愚痴っていますが、始めてしまったもんだから、後に引けないところもありまして、一ヶ月は、あっという間に過ぎます。しかしすでに三年目です。ずっと学びに来てくださっている先生方もおられます。だから、昔のテーマをくり返しやることはできません。毎回、新しい情報を提供するのは、なかなか難しいです。毎月、これで終わりだな…と、思うのですが、しかし続けてやっている自分が、不思議になります。先週はいろいろと、勉強しました。
 毎回、いろいろな本を読むのですが、先週、おもしろい本を読みました。それは現役の坊さんが書いた本で、ドイツ人の坊さんの本です。その人は、日本仏教に憧れて、禅宗の僧侶になったというのです。しかし、「日本の仏教にがっかりした」というのです。

 実は日本は、世界でも稀に見る仏教大国です。仏教とは、世界の三大宗教の一つと言われるわけですが、世界に三億数千万人の仏教徒がいるそうです。しかし、日本に仏教徒が何人いるかというと、「八千四百七十万人」だというのです。すごい数です。現在日本の人口は、一億三千万人くらいでしょうか。ですから、七割近くが仏教徒です。ほとんど仏教国と言っても過言ではないのです。寺は七万五千寺あるそうです。仏像は三十万体以上だそうです。こんな国は、他にないというのです。仏教国、それが日本です。だから日本仏教にあこがれて来た。しかし、がっかりしたというのです。
 彼はこう書いています。「日本である日、仏教の教えが突然、消えてしまったとしたら、どうだろうか。国民の誰一人、教えが消えたことに気づかないであろう。」とありました。ほとんどの日本人は、仏教の教えなんて、関心ないですから。
 また次にこう書いてありました。「ある日、突然、日本から僧侶が消えたら、どういうだろうか…。たぶん、葬式や法事がなければ、誰一人として、僧侶が消えた事に気づかないだろう。」とありました。「あっ!葬式だ!坊さんは?!」と、やっと気づくというのです。それさえなければ、全く坊さんを気にしていないというのです。
 また、「ある日、突然、日本中の七万五千の寺が公園になった場合、どうだろうか。…誰も悲しまないだろう。」と言うのです。「金閣寺とか銀閣寺なんかが消えたら、文化財がなくなって寂しいという人もいるかもしれないが、普通の寺が消えたとしても、誰一人、悲しむ人はいないだろう。」と書いていました。そんな仏教に身を置いても、救いはないです。
 ある時、曹洞宗が信徒たちに、アンケートを取ったそうです。「仏壇を何のために拝んでいますか。」というアンケートだったそうです。仏壇ですから、仏の為の祭壇です、仏を拝まなければいけないわけです。しかし、日本人は「仏ほっとけ」で、拝んでいるのは、先祖の位牌を拝んでいるのです。本尊を拝んでいると答えた人は、ほとんどいなかったというのです。でも、中には本尊を拝んでいる人がちょっといたらしい。しかし、その目的は、自分の願いがかなうように拝んでいたというのです。「本来、仏壇は、修業の場なのに、全く理解されていなかった。がっかりだ。」と言うのです。
 ある日、その坊さんは初めての葬式を頼まれたそうです。「困ったな・・。私は外国人だし、うまく経があげれるかな。」と心配して、先輩の僧侶に相談に行ったそうです。「どうしたらいいんですか。」と聞いたら、先輩の僧侶が答えたそうです。「全然、心配ない。大丈夫だ。経なんか間違えたって、誰も分からない。俺もよく間違えているよ」と言ったそうです。
 いよいよ葬式となりました。初めての葬式で、緊張して経をあげていたら、葬儀屋さんがこそこそやってきて、彼に耳打ちをしたそうです。「すみませんが、もう少しお経を引っ張ってくれますか。焼香がまだ全員済んでいないので…。」と言われたそうです。彼は愕然としたそうです。「俺の経は単なるBGMか…。」と。
 そんなもんです。仏教で救われるとは思えません。

 しかし私たちが信じている、信頼している神様は、「初めであり終わりであり、わたしのほかに神はいない!」と宣言されているお方です。
 日本人は、真理に仕えて行くことが、得意ではないのです。日本人とは、他からどんな宗教が入って来ても、全て、自分の都合の良いように変えてしまうというのです。「絶対神に服従していく」ことに慣れていないし、駄目だというのです。私たちはそのような霊的土壌の世界に住んでいるので、知らないうちに、天地宇宙を造り、唯一のお方に仕えていくことに、障害を感じてしまうわけです。
 しかし、私たちは、すべてを創造され、自己存在しておられる、「わたしのほかに神はない!」と宣言されている方にお仕えしているのです。そして、その方の夢をかなえるために存在しているのです。
 マタイ六章三十三節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 私たちは、あくまで、神の国と神の義とを第一に求めるのです。そうすると、気がつくと、自分の夢も願いもかなえられているということです。何か与えられるために仕えるのではなく、神様の夢のために働き、礼拝する時、気がついたらすべてが与えられていますと、イエスさまは語られたのです。
 どこに力点を置くのかといったら、後半に置くのではなく、前半の、「神の国とその義を第一にする」部分に力点を置くのです。神様の国がこの地上に現されるために働きなさい!と告げているわけです。

 この頃、教会に、「マラナタ!主よ、来てください!」という祈りが与えられています。
 先週、ここでザワメキの集会がありました。私も出席しましたが、まもなく、「Zawamek12」がリリースされます。その証しなど、いろいろと聞きましたが、今度のザワメキは、期待が大きいですね。すごい。今までにないサウンドみたいです。証しは聞いたのですが、音は全く聴かせてくれませんでした。まだ制作途中なので、是非とも祈ってあげていただきたいと思います。
 しかし新しい賛美を聞いて、再臨の歌が多いのです。これって、偶然ではないだろうなと思いました。主が帰って来られる。この地に、神の国が現実するという賛美が、多く込められています。

 日々の祈りの中で、神の国を求める祈り、「主よ、早く帰って来てください。この地に、あなたの国を造ってください!」と祈ることは重要です。「神の義」とは、神様の正義により、世界が治められることです。
 今の世界は、神の義ではなく、人の義によって治められています。それぞれの国が、それぞれの正義を持っています。だから戦争にもなるわけです。
 この頃、イスラム国という存在が出て来て、世界を震撼させています。私たちはしっかりととりなし、目を覚まして祈らなければいけないですね。やはり世の終わりを表している一つの現象だと思います。
 日本はどうでしょう。国全体が戦争に向かっています。先ほども語りましたが、母親の世代は、青春が戦争そのものだったわけです。しかし、戦争を知っている世代が、この世を去っているのです。どんどん少なくなっているのです。
 今度、日本が戦争する為に、新しい世論を作らなければいけません。それは若者たちの間です。「日本」の正義で若者たちを教育し、世界に兵士として遣わそうとしています。その背後には悪魔がいます。
 今、国会で論議されていることは、自衛隊が海外で活動できる法律だとか、選挙制度が改正され、選挙権が十八歳にまで引き下げられる法律を作っています。今まで政治に関心がなかった若者たちに投票させ、「選挙で、あんたが決めたんだよ。あんたに責任ある。さあ、戦争に行ってください。自分で決めたことですから。」と言う時代が近づいています。これは、神の義によるものではありません。悪魔の考えによって、国が支配されている証拠です。

 これらがすべてクリアされるためには、何をしたらいいのか。それは、神の国が現され、イエスさまが日本の王となってくださる以外にありません。そのことを祈らなければいけないわけです。
 実はマタイ六章を読んでいきますと、三十三節の前後を見ていきますと、一つのテーマがあります。それが、「心配」というテーマです。
 イエスさまが「心配するな」と、何度も語られています。その流れの文脈で、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』と語られているのです。
 「心配」とは、ギリシャ語で、「メリムナオ」という言葉ですが、私がチェックしたところ、新約聖書では十七回しか使われていません。
 しかし、マタイ六章の『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』とイエスさまが語られた前後で、すでに七回も消費されているのです。ということは、私たちが様々な心配のただ中にあって、心配から解放されるために必要な祈り、それが「神の国と神の義を求める祈り」であるということです。

 イエスさまの時代は、今から二千年以上前のことです。当時の心配事としてあげられている項目が、「食べ物に対する心配」と「着るものに対する心配」でした。食べ物とか、着る物に対する心配は、二千年前の人たちにとっては、深刻だったわけです。今のように、農業の技術が発展していたわけではありません。化学肥料や薬品があったわけではないです。食糧が取れるか取れないか、作物が収穫出来るか否かはたいへんな心配だったわけです。
 このへんの偶像って、ほとんどが農業神との関わりがあります。特に稲作と関わりがあるのは、昔は、食糧が取れるか否かが、大きな心配だったわけです。
 もう一つが、着るものの心配でした。今はどうでしょうか。着るものなんか、いくらでも溢れているじゃないですか。タンスの半分以上は、古着です。着ていないものが多いのではないでしょうか。
 昨日テレビを見ていたら、Facebookを発明して成功したアメリカの青年は、どんな公の場に出るのも、同じTシャツだというのです。彼は大金持ちですが、どの写真も同じTシャツです。彼のクローゼットを見ると、同じTシャツだけが何十枚もあり、それしか着ないというのです。なぜかと聞いたら、着る物にエネルギーを使うのはあほらしいと答えていました。それも一理あるなと思いましたが。
 イエス様が歩まれた当時は、シマムラも、ユニクロもありませんでしたから、自分で紡ぐしかなかったわけです。こういう事柄は、大きな心配事だったわけです。
 しかし現代においては、食べ物とか、着物に関する心配は、ほとんどクリアされています。だから、イエスさまの時代の人たちよりも安心して生きることができる、はずです。それは感謝しなければいけないのです。

 しかし、もう一つ述べられている心配事が何かというと、「明日に対する心配」でした。これは、二千年前も、今も、共通の心配です。私たちにとっても、やはり明日に対する心配は、大きなものです。しかし『神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。』の次に、マタイの福音書六章三十四節、

『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 私たちが神の国と神の義にフォーカスを当て、神様の夢を実現するために祈りはじめると、「あすの心配はなくなる」のです。不安定な時代に生きていますから、明日が心配です。明日、何が起こるのか分からないです。だから、私たちは不安なわけです。
 しかし、神様の国を求めていくならば、神の国は、すべてが整った国ですから、心配のない国なのです。これが神の国です。神の国を求める時、やがて来たるべき、神の国の前味を、生活のただ中で体験できるのです。

 ここで「国」という言葉は、「支配」とも訳すことができる言葉です。「神の国」、「神の支配」。そもそも、「国」とは、どこまで支配が及んでいるかです。それで国が規定されるわけです。
 日本は、北海道から沖縄まで、多くの島々も含め、日本の支配が及んでいるわけです。しかしかつてはその支配が、お隣の韓国、北朝鮮、そして中国にも、また台湾にも及んでいました。しかし、戦争に負けたことにより、支配権を失ったわけです。

 実は、今週、韓国から二十五名の方々が新城に来てくださいます。是非ともお祈りいただきたいと思いますし、金曜日には、韓日の交わりの集会をしたいと思っています。今回は、韓国の先生方も来られるので、いろいろと証しを聞いたりしたいと思います。また日本側からも、「どのようにイエスさまを信じて救われたのか」の証しをする機会を持ちたいと思います。神の支配の中では、今までお互いに誤解していたような、心配していたような事柄も、全く消えてしまいます。偏見も、消えてします。

 日本にある、様々な心配事、壁に対して、神の国、神の支配を宣言しなければいけません。その背後に、必ず、悪魔の力があるのです。霊的戦いと共に、心配事の背後の力を打ち破り、支配を取り戻して行く時、神の支配が現され、心配は消えます!
 個人的にいろんな心配事があるかもしれませんが、心配に打ち勝つには、神の国と、神の正義が地球に現れるように祈る時、心配事も消えてなくなるのです。
 今週、神の国が一刻も早く、この地に現されるように祈っていただきたいです。「マラナタ!主よ、来てください!」と、必ず祈ってください。「神の正義がこの世界を包みますように!」と、祈っていただきたいです。その祈りにより、主が帰られる道が用意されるのです。

 先ほども、聖書は、「神の国の完成のためのシナリオ」だと話しました。旧約聖書から新約聖書まで通して見るとわかりますが、悪魔が支配しているこの世界を、神の民、教会が、悪魔・悪霊どもを駆逐し、イエスさまが帰られる道を用意し、やがて主が、この地の王となって帰られる、シナリオが聖書そのものです。

 この教会に、一九九二年二月に聖霊が注がれました。その時に私たちは大きく変えられたとよく話すのですが、何が変えられたのかと言いますと、力が与えられたとか、そういうのではなく、内側の価値観、考え方が変えられました。
 私は大学の専攻は土木工学でした。豊橋市役所に勤務したこともあり、公務員をやったこともあります。また、設計事務所で働いたことがあります。そういう職業をやっていると、すべて計画です。道路を計画するとか、ダムを計画するとか、橋の計画、都市計画とか、計画ばかりを仕事としていました。
 だから私は牧師になっても、常に、五年後、十年後の計画を立て、教会の五年後のビジョンはどうか。十年後はこうして、こうなってと考えすぎて頭が禿げたところもあるのですが、頭で考えていました。何でも、先に計画しなければいけないと思っていました。
 しかし聖霊が注がれ、何が変わったかというと、「おまえが持っているビジョンを捨てろ!」でした。「ビジョンを捨てろ!」と。普通は、ビジョンを持たないと駄目だ!と聞いていたのが、「おまえが持っているビジョンを捨てろ!」だったのです。また、「教会のビジョンを捨てろ!」でした。
 そして、「わたしが持っている御心を求めなさい!」と語られました。自分でもびっくりでした。「ビジョンを捨てろ!神の御心を求めろ!」という思いが与えられた時、ちょっと戸惑ったのです。しかし今、本当に、あれは神様の声だったな!と気がつきます。
 私たちが、自分のビジョンを捨て、神様のビジョンと、その実現を喜ぶなら、必要なものはすべて付け加えられるのです。

 やがてイエスさまが帰って来られる時、何が起こるのでしょうか。世界中の悪魔の主権や支配は打ち砕かれるのです。そして、神の義により、世界が統一される時が来るのです。それは他の宇宙に実現するのではなく、私たちの地球に、この目の前の景色が変わるのです。それを楽しみに、歩まなければいけないです。
 悪魔の悪意が、あたかも正義のように覆っているこの国が、一瞬にして変えられる日が近づいていることを、夢見なければいけないのです。

 戦争を体験された方は、終戦の時、たいへん混乱したと思います。なぜなら、今まで正義として教えられてきた事柄が皆、否定されたからです。今まで学校で使っていた教科書に、終戦の時何をされたかと言ったら、墨を塗らされたのです。「私は墨を塗ったことがある」という方が、この中にもおられるかもしれません。

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 これは戦後の「黒塗り教科書」です。今まで教えていた事柄を、全て否定し、墨を塗りました。「私は実際に、教科書に炭を塗ったことがある」という方、この中におられますか?何人かいますか?いたずらで塗ったという人もいます、、私も塗りました。そういうのではなく、本当に塗ったという方。
 これって、今まで真理だと思っていたすべてを塗り潰していったわけです。なぜなら、この男が日本に来たからです。

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 アメリカが正義だとは、言いませんが、この男が日本に来て、

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厚木飛行場に一歩足を踏み下ろした時、なんと、今まで日本で真理だと教えていたものが、全て変わってしまったのです。なぜなら、支配権が変わったからです。
 こんなのとイエスさまを比較しては、本当に申し訳ないですが、イエスさまが帰って来られたら、世界で正義だと思っているものが、全て塗り替えられるのです。そして、神の義が第一になるわけです。それを先に知っているのは、教会であり、クリスチャンです。

 ネブカデネザルが夢を見、ダニエルが解き明かしました。それは、頭が金、足が鉄と粘土で出来ている大きな像に、どこからともなく小石が飛んで来て、人手によらずに飛んで来て、この像を打ち砕き、籾打ちの場所の籾殻が風に飛ばされるように、跡形もなく消え去ったのです。

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 ダニエルがその夢を解き明かしたのですが、これは、やがて未来に、私は近い未来だと期待しますが、起こることなのです。今までの偽りの正義が全て消え去り、神の義が、この世界を覆う日が来ます。地球は、主の手に覆われる日が来ます。そのために、私たちは働かなければいけないわけです。

 主が帰って来られる時、どんなことが起こるのか。その前後に関しては、いろんな理解がありますから、これ!と、決めたくはありません。決めてしまうと、他が違ってしまうことになるし、イエスさまが帰って来られないと分からない所もありますから。でも、イエスさまが帰って来られ、この地の王となることは、絶対に確実なことです。
 イエスさまが帰って来られた時、どんな世界になるかをうまく表しているのが、イザヤの預言です。以前にもお話ししましたが、六十五章十七節〜二十七節です。これをリビングバイブルで読むと、結構、臨場感があり、分かりやすいです。イエスさまが帰ったその日に、支配が変わる時に、実現する世界です。ちょっと読んでみます。イザヤ書六十五章十七節〜二十五節(リビング・バイブル)、

『わたしは新しい天と地とを造る。 それは目を見張るほどすばらしいので、もうだれも、古い天と地とを思い出さなくなる。わたしの造るものをいつまでも喜べ。 わたしはエルサレムを、幸福の都として建て直す。 そこに住む者はいつも喜びにあふれる。 エルサレムとわたしの国民とは、わたしの喜びだ。 そこにはもう、泣き声や叫び声は聞かれない。 生まれてすぐ死ぬ赤ん坊はいなくなる。 百歳まで長生きしても、まだ老人とは呼ばれない。 その若さで死ぬのは罪人だけだ。その時には、家を建てればいつまでも住みつける。 昔のように、外国の軍隊が侵入し、家をこわされることはない。 わたしの国民はぶどう園をつくり、取れた実を自分で食べる。 敵が横取りすることはない。 だれもが木の寿命ほども長生きし、丹精して作った穀物を、長いあいだ楽しみながら食べる。 せっかく刈り入れた物が敵の食糧になったり、生まれた子供が戦場で死んだりすることはない。 彼らは神様に祝福され、その子らも祝福されるからだ。 彼らが呼ばない先から、わたしは答える。 彼らが困って相談を持ちかける時、わたしは先回りして、彼らの祈りに答える。狼と子羊はいっしょに草を食べ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇はちりを食べて、人にはかみつかない。 その時、神の聖なる山では、傷つくものは一人もなく、こわれるものは一つもない。 そう神様は断言なさいます。』

 いいですね。みなさん。こんな世界に住みたいと思いませんか?アーメンがちょっと足らないかもしれませんね。韓国の方々も来られることですから、こんな世界に住みたいと思いませんか?? アーメン!!
 これを生きている間に、体験したかったら、神の国とその義を第一に求め、祈ることです。この事を祈らないで、足下だけを祈っても、うまくいかないです。この究極的な事柄を祈ったら、神の国が近づきます。神の国は支配ですから、悪魔が支配している国の支配を打ち破ります。霊的戦いが、主の帰って来られる道を備えることになるのです。
 主が持っておられる夢を実現するために、日々を送る時、すべての心配事もなくなり、イザヤが預言した世界に住むことが許されるわけです。
 六十五章の二十四節、良かったですよね。

『彼らが呼ばない先から、わたしは答える。 彼らが困って相談を持ちかける時、わたしは先回りして、彼らの祈りに答える。』

 教会に、いろいろな相談が寄せられますが、事が起きてから、相談に来られるのですが、イエスさまが帰って来られた時には、相談しようかなと思ったら、「あれ!解決してるわ!」ということです。すごいですね。これが起こるように、私たちは祈らなければいけない。これが我々の夢にならなければいけません。これこそが神ご自身の夢です。それを自分の夢としいく時、主が帰られる道が用意されるわけです。

 もうメッセージ、終わりますけれど、新城は、神様が何か大きな目的を持って造られた街のような気がします。一九九二年二月、聖霊が注がれ、七月から霊的戦いが始まりました。その後、この街を勝ち取るために、街のために祈るようになりました。当時の若者たちが、十字架をかついで、新城市を何回も歩いて、「ここが神の国となりますように」と、真剣に賛美し、祈りました。
 ある時、一つの賛美が与えられました。それは、開先生に夜中に、突然、与えられたそうです。

「この地は主のもの 
この地は主のもの
この地の真ん中に
十字架が立つ」

という賛美でした。これを皆で歌って、新城中を練り歩いたのです。
 教会まで帰って来たら、ある人が空を指さして、「すげぇ!」と叫んだのです。何があったのかと言うと、新城市を縦横断する、でっかい雲の十字架が出現し、街を覆っていたのです。「私は肉眼でその十字架を見た!」という人、どのくらいいますか?おぉ!おぉ!こんなに大勢の証人がいます!生き証人。私の話は、いつも大げさだと言われるのですが、はい、それは少し認めます。しかし、これは本当です。

 街中を覆う十字架が出現したのです。イエスさまが帰られる時、この街を、何かの目的で使いたいと、主が計画されているのではないでしょうか。
 新城教会に集っている方々は、是非、新城の街に神の国が現れるように祈って下さい。イエスさまが帰って来られた時、すばらしい計画がなされるように、祈っていただきたいです。また一人一人住んでいる街に広がっている光景は、やがてイエスさまが帰って来られる時、風景が全く変わるのです。
『わたしは新しい天と新しい地を造る。それは目を見張るほどすばらしいので、もう誰も古い天と地を思い出さなくなる。』
 瞬間的に新しい創造が行われ、こんなすごい事が起きる。それは唯一、実現していない聖書の預言かもしれません。これを真剣に求める人生そのものでありたいと願っています。

 最後に、ご一緒にお祈りしたいと思います。主の夢をかなえるために、ここにいます!と宣言し、イエスさまが来られるその日まで、聖餐式を行いなさい!と主は命令されましたが、主が持っておられる夢を実現するために、聖餐を守りましょう。一言、祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。私たちは、自分の夢の為ではなく、あなたが持っておられる夢を実現するために、生きていきたいです。イザヤ六十五章の記述が、私たちの目の前に、肉眼で見たいと願っています。主よ、天から見るのもいいですけれど、この地上で、その瞬間を目撃できたら、どんなに幸せでしょうか。
 イエスさま、私たちは、あなたの持っている夢の実現のために、これからの人生、いのちをかけて働きます。主よ、私たちを用いてください。今から受ける聖餐も、イエスさまの夢の実現のために、すべてを捧げる決断の時となりますように。イエス・キリストの御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。