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沖縄の祝福を祈ろう!

2015年4月26日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書 29章10節〜12節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。One Way Boysの演奏、良かったですね。彼らは毎回成長しています。楽器もうまくなっているし、全体的に成長しています。いいなぁと思います。純粋な気持ちを忘れないで、これからもイエス様だけに仕えていってほしいと思います。

 先週はちょっと悲しいことがありました。信長和男君が天に召されたからです。彼と小さい頃からの知り合いで、この辺の有名人でした。彼は少し体が悪かったのですが、いつも私に、「おい順、最初に俺の所に挨拶に来いよ!」と言いました。だから私は、「はっ!信長様!」と言っていた次第でした。それができなくなって、ちょっと寂しい気がします。彼は天国で身体の問題からすべて解放され、走り回っているのではないかと思います。先週は、地域の人たちが多く葬式に来られたのですが、「教会はいいですね。」と、つくづく言っておられたそうです。地域の方々が教会に来て天国まで行くなら、本当にすばらしいと思います。
 また先週は記念会もありました。教会は、ゆりかごから墓場まで、いや、墓場で終わらず、永遠の世界まで進んで行く場所です。

 もう一つ、昨日大きなニュースが飛び込んで来ました。それはネパールで大地震があったからです。今年も新城教会から七月にネパールに行くことが決まっています。チケットもすでに予約済みです。今朝のニュースだと、千五百人くらいの方々がカトマンズ近辺で亡くなっています(死者が一万人に達するという情報もあります)。今年のネパール宣教旅行はどうなるのか、今祈っているのですが、是非とも、ネパールのために祈ってください。

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 向こうの建物は、人が揺すっても倒れるような柔いものです。

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 かなりの被害が出ているのではないかと思われます。是非とも、ネパールのために、祈って下さい。
 今年は、ボランティア支援旅行になるのかもしれません。
 昨日からネパール宣教旅行の準備の祈りが始まりました。体も鍛えてと言う事で、昨日は十キロ歩いたそうです。しかし、目的地についた頃に地震があったと言われました。私たちクリスチャンは管理人ですから、地球の管理人として責任を果たし、祈っていく必要があります。

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 みなさんの祈りに支えられ、ただいま、「沖縄70」というミッションが開かれています。是非、沖縄のためにも覚えていただきたいと思います。私も、その働きの為に、過ぎる二週間は大変忙しかったのです。沖縄リバイバルミッションでは、七十箇所で集会を開催する計画で進めております。最後の六月二十日、二十一日は、嘉手納文化センターに集結して、少し大きな集会があります。みなさんも沖縄にお越し下さい。
 この頃、飛行機のチケット代が大変安くなりました。LCCという航空会社が就航し、安い時には片道五千円です。ここから東京に行くよりも安いです。いつもリバイバルミッションが用意してくれるチケットは安いチケットです。多少混んでいますが、ちゃんと飛びます。大丈夫ですから、みなさんにも参加していただきたいと願っています。

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 沖縄に行ったことがある方々は、ご存じだと思いますが、美しい景色が楽しめます。

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 青い海、青い空。いいですね、しかし二週間、沖縄は雨でした。こういう景色は見ていません。結構寒くて、大変でした。しかし晴れたら、美しい空と海を見ることができます。

 今年、「沖縄70」がなぜ開かれるかについては、以前もお話しさせていただきましたから、分かっておられると思います。テーマの御言葉は、今日読みましたエレミヤ書二十九章十節〜十二節です。特に十節にこう記されています。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

 この箇所は、ユダという国が、バビロニア帝国に捕囚され、奴隷生活を余儀なくされたのですが、エレミヤを通しての預言でした。「七十年が満ちたら、あなたがたを自分の国に帰してあげますよ」という預言でした。その通りに、七十年が満ちた頃、ユダはバビロンから解放され、自分の国に帰ることが出来たという記録を、聖書から見ることができます。
 神様は民を放っておかれる方ではないのです。どの国においても、必ず、助けの手を差し伸べてくださるお方です。そして回復まで一定の期間があることを、聖書から学ぶことができます。その期間が「七十年」だというのです。
 この言葉は、一義的にはユダに対しての言葉ですから、今の時代に直接適応するのには注意が必要です。しかし神が一定の期間を経た後に、民を助けてくださるという原則は、昔も今も変わらないはずです。

 しかし約束があっても、放っておいては預言は実現しないのです。約束を知った上で、一つの条件があります。それが十二節に書かれていました。

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 そこには、「祈り」という条件が付けられているのです。信仰を持って、国のために、地域のために祈り始める時、回復のスイッチがオンにされるのではないかと思います。

 今年、日本には、すでに内外で話題となっている、「戦後七十年」というテーマがあります。太平洋戦争が終わったのは一九四五年ですが、それから七十年が経ったわけです。
 明治からこの方、日本は戦争ばかりして来ました。日清、日露、日中、そして太平洋戦争と、お歳を召された方々の青春は、戦争で明け暮れていたのではないかと思います。若い方々は、このような平和な時代に生まれたことを感謝しなければならないです。私も、こう見えても戦後生まれの人間です。戦争中に生まれたら、自分の人生どころの騒ぎではなかったはずです。生きるか死ぬかの世界でした。

 先日、ユダヤ人が書いた本を読んだら、日本について「日本という国は、本当の意味で、戦争を体験したことがない国だ。」と書いていました。私はそれを読みながら、「何を言うんだ。日本のことを全く分かっていないな」と思いました。しかし、日本の戦争は、過去の歴史を見ても、「関ヶ原の戦いだって半日で終わったじゃないか。あんなの戦争じゃない。」というのです。設楽原の戦いだって半日で終わっているのです。あんなのは戦争じゃないというのです。「イスラエルを見てみろ。三千年に渡って、地上戦がずっと続いている。これを戦争と呼ぶんだ。戦争の悲惨さは地上戦にある。」と結んでいました。
 日本は原爆を落とされたりして、大変な目にあったのですが、本土においては、地上戦はなかったのです。空爆だけです。しかし、日本国内で、唯一、地上戦が行われたのが、どこかと言えば「沖縄」でした。沖縄県民の三人に一人は沖縄戦の犠牲になったと言われます。一般人を巻き込み、悲惨な地上戦が繰り広げられたのです。今はこんなに美しい海です。

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 七十年前はどのような状況があったかといったら、

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 このように湾は軍艦で埋め尽くされ、島は焼け野原になったのです。二十万人以上の人たちが犠牲になり、県民は難民となって、ひどいめにあったわけです。

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 日本の帝国主義が、沖縄に連合軍をおびき寄せ、本土決戦を遅らせるための持久戦を行ったとも言われます。ある意味で、日本の犠牲となった場所、それが沖縄です。私たちは、沖縄というと、リゾート地のように思い、あまりその場所に起こった事に関し、関心を持っていないです。しかし日本の一部として、沖縄のために真剣に祈らなくてはいけないと、今回、沖縄を回らせていただき、強く感じさせられた次第です。

 リバイバルミッションは、今、国内唯一の宣教団体です。かつて、日本には伝道者といわれる人たちが多くいました。日本中を巡回して、伝道メッセージを語っていました。私の父や、田中先生も、そのような働きのために人生をかけた人達でした。どこの教会でも、伝道会というプログラムがあって、伝道師たちが回って来て、伝道メッセージを熱く語ったものです。そういう働きが日々、成されていたのですが、現在、日本の教会で伝道会がめっきり減ったと言われます。
 しかしそんな中、唯一、リバイバルミッションでは宣教の働きを全国的に続けています。その為に二十年以上にも渡り、力を費やしているのです。今回私は、ティム・ケプラーさんという四オクターブの声域を持つシンガーと組んで、沖縄の様々な場所に行って集会をさせていただきました。すごく恵まれました。「本当に、この働きを続けなくちゃいけない。我々がやめたら、誰が続けるのだろうか。」と思いました。
 リバイバルミッションでは、沖縄の小さな村の教会まで行き、力いっぱい奉仕しています。ティムさんはアメリカでは、一万人くらいの会衆の前で賛美リードをしていると言っていました。また、大リーグのオープニング・セレモニーでは彼がいつも歌っています。バスケットボールとか、ホッケーとかのオープニングのセレモニーでよく歌っているのです。でも彼は、沖縄の田舎の十数人の前でも、真剣に歌っていました。私は感動しました。あのような超一流のシンガーの後で、私がメッセージを語るのは、ちょっとプレッシャーでした。私みたいな者でいいのかなという感じです。
 沖縄では、どこに行っても歓迎してくださり、沖縄の方々はすごく性格が明るいのです。よく話をするし、夜型で、集会が終わっても帰る人はほとんどいないです。どこに行っても、素晴らしい集会がなされています。それも、みなさんが祈ってくださり、この働きのために重荷を持って献げてくださっているゆえに、なされていることを心から感謝しています。

 沖縄県の方々は、時間も、この辺とは全くペースが違うのです。「集会は七時半から始まります。」というチラシを配っても、教会に電話がかかってくるのです。「もしもし。今晩の七時半の集会、何時から始まるんですか?」「七時半に決まってるじゃん!」と私たちは思いますが、沖縄ではだいたい一時間遅れが常です。ですから、何時から始まるのかの質問は、三十分に縮めるのか、いつものペースでいいのかという事です。本当にゆったりしているのです。電車がないのも、要因の一つではないかと思います。

 しかし、悲しいことに、沖縄本島におきましては、精神的な病の方々の率が、本土の二倍というのです。これは一般の精神医学界においても、話題となっています。あんなにも明るいのに、なぜ、精神病の率が倍なのか、腑に落ちないのです。どこかに原因があるはずです。いろんな調査がなされています。

 沖縄に行きますとある、ことわざがあります。例えばみなさん、病気になったらどうしますか。すぐに病院に行きますよね。当然のことです。しかし沖縄には、「医者半分、ユタ半分」という言葉があるのです。どういう意味かというと、医者にも行くけれど、ユタとは霊能者ですが、そこにも行って拝んでもらうという意味です。これは一般社会で、市民権を得ていることわざです。ほとんどの住民が持っている世界観ですから、行政も無視することができないというのです。それが「医者半分、ユタ半分」という考え方です。

 ある所に行ったら、かつてユタをやっていたおばあちゃんと出会いました。その人は、若い頃、霊感が芽生え、長年、ユタをやっていたそうです。ユタは地域の祭りも仕切ります。そして地域のスピリチュアル・カウンセラーみたいな存在です。人々はいろんな問題を持って、ユタの所に相談に来るわけです。そういうシステムが、社会に構築されているわけです。
 おばあちゃんに、「なんでユタになったの?」と聞くと、ある時、自分の息子と庭にあるガジュマルの木を見ていたというのです。ふっと、木の根元を見たら、金色の椅子が現れたというのです。すると突然、裏山から鬼が下って来て、おばあちゃんと息子に「カモーン!」と呼んだというのです。それを二人とも見たというのです。
 鬼の側に行ったら、「いいか。俺はこの山に住む神だ。俺をちゃんと拝めよ。おまえらが俺をちゃんと祀ったら、良いことをしてやる。でも、それを忘れたら、何が起こるのか保証できない。じゃぁな!」と言って、消えたというのです。
 そんな霊体験があってから、おばあちゃん、当時は若かったのですが、霊感が芽生え、ユタになったというのです。
 沖縄の霊能者は突然、霊が下って来てなるわけです。それで地域の人々のために真剣に働いたというのです。鬼と出会って、「俺のためにちゃんと働け!」と言われたので、真剣に働いたというのです。
 しかし、気づいた時、何が起こっていたかというと、おばあちゃんには男の子三人と女の子一人がいたのですが、男の子三人全員が重度の精神障害者となり、包丁を振り回すような子どもたちになってしまったのです。唯一期待していた娘は、自ら命を絶ってしまったというのです。どん底に落とされたそうです。
 そんな時に、クリスチャンと出会ったのです。「おばあちゃんは、神様と出会ったというけれど、最初会ったのは鬼だったよね。鬼はやっぱり鬼だよ。鬼なんか拝んでいたら良いことないよ。」と言われ、目が開かれたというのです。
 沖縄の方々は霊的に敏感です。頭の上にアンテナがついているようで、悪霊の電波を受けている時には騙されますが、神様のほうにアンテナを向けたら、すぐに分かるのです。「そうだ。イエス様を信じよう!」と、ユタを止めて、イエス様を信じました。そうしたら家族が変わったのです。子どもたちも落ち着いて、今まで拝み場だった場所が、家庭集会の場所になりました。私もそこに行って、一緒に集会をしたことがあります。

 実は、ユタの所に行くことと、精神的な病がつながっているのではないかとも言われています。なぜかと言うと、盆だとか、祖先崇拝を一生懸命やる季節になると、そのような方々が落ち着きをなくし、事件が起こるというのです。だから病院も宗教的イベントがある季節は緊張するというのです。今回も医療関係の方に出会ったのですが、先々週は、シーミーといって、先祖の墓に行って食事をするイベントがあったのですが、それは沖縄の習慣です。昔は先祖の骨を引きずり出し、洗骨と言って、骨を風呂に入れていました。先祖の霊と一緒に食事をするという習慣です。何らかの霊が関わっているという前提で、島全体がそういう行為をするわけです。その季節、精神的に人々が荒れて、いろんな事件が起きるというのです。だから医療関係も、その時になると緊張すると、病院に働いている方が言われました。
 このような場所で、回復が起こる事は重要だと思います。むなしい祖先崇拝や偶像礼拝から解放され、自由になり、今度は真の敵と戦う勇士となるよう、奉仕をさせていただいています。
 七十年の節目、私たちがタイミングを掴え、祈り始める時、きっと主が大きな勝利を与えてくださると期待します。

 沖縄は、日本のルーツがある所だと思います。日本人は、最初は縄文人から始まったのです。縄文人は海洋民族です。

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 私のDNAを調べたら、母方が海洋民族だったとお話しました。私の母方の祖先は、こんな感じで日本に来たみたいです。沖縄の中心的な人たちは、海を渡って来た人たちです。また、中国から渡って来た人たちもいます。ということは、日本のルーツが沖縄にあるのです。私は沖縄が勝ち取られたら、日本全体に大きな勝利が表されるのではないかと考えています。

 今回沖縄に行きましたら、「嘉手納基地で、とりなして祈ってくれますか?」と言われました。
 日本に米軍基地はたくさんあるのですが、東洋一の空軍基地が嘉手納空軍基地です。そこに働いている人が「地球が存続する限り、この基地はなくなりません。」と言っていました。世界で二番目に大きな空軍基地だというのです。アメリカの最新鋭ジェット戦闘機が離着陸し、さながら戦争をやっているような雰囲気です。
 そこに行きますと、日本が戦争に負けて署名した、降伏文書が銅板に写され、基地の真ん中に据えられています。「俺たちは日本に勝ったぞ!」という碑が、基地の真ん中に掲げられています。そこに行って、ティムさんと、沖縄の方々と一緒に、真の平和が訪れるよう祈りました。
 今、ニュースでよく耳にするのが、辺野古という所に、普天間基地が移るか否かという話です。二転三転していますが、この頃、知事が反対派になり、反対運動が盛り上がっています。私は、左翼的な人たちが反対運動をやっているのかと思ったら、今は、県民運動だと言っていました。沖縄から米軍基地を排除する運動は、今や、県民八十パーセント以上が支持している、県民運動となっています。
 政府に物が言える人ってほとんどいなくなってしまいました。しかし唯一、沖縄県だけは、政府と激しくやりあっています。沖縄が霊的に勝ち取られることが、日本の将来を左右すると思います。
 私たちクリスチャンは、霊的管理者であり、とりなし手です。今年は特に、沖縄県に関心を持ち、祈ることが、ひいては私たちの未来をも変えることになるのではないかと思います。
 案外、私たちは、自分の足下だけ固めればいいと思っています。大きな視点での祈りを忘れることが多いのです。それではいけないのです。国の未来に関心を持ち、とりなして祈らないと、新しい世代に何こそ、起きるか分からないです。
 七十年目に、ユダに解放が起こったように、日本に解放が起こってほしいです。クリスチャンたちが、今年は戦後七十年という節目の年だと意識し、今年こそ、沖縄の祝福のために祈らなくちゃいけない!と祈るなら、大きな変化が将来に向かってなされるのではないかと期待します。

 先ほど読みました二十九章十節〜十二節の言葉を、もう一度読んでみたいと思います。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 これが、ユダという国に対しての将来と希望の約束でした。国とは、国民一人一人の集合体ですから、この言葉は、一人一人に対する言葉でもあるはずです。国民一人一人が幸せでなかったら、国は幸せじゃないですよね。国という枠組みだけでなく、個人的な御言葉として受け取ってもいいと思います。
 さて、この「将来と希望」とは、最終的には、何を意味しているのかについて、私は「舟の右側」という雑誌の2月号に書かせていただきました。興味のある方は読んで下さい。究極的には、イエス様が再臨され、主が世界の王となり、この地を治められる所につながります。七十という数字は、完全数だと言われます。完全な勝利が取られる日は、主がこの地に帰って来られ、世界の王となられる日です。しかしそのプロセス上で、将来と希望という約束は実現していくはずです。

 二十九章の七十年が満ちたら、あなた方に将来と希望を与えてあげます!という約束が、三十一章で繰り返されています。エレミヤ書三十一章十六節〜十七節、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主の御告げ──彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──主の御告げ──あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 「将来と希望」とは、まず第一に、「敵の手からの解放」だというのです。今までバビロニア帝国に捕虜となっていた民が、敵の手から解放されて帰って来る、敵の手からの解放が、将来と希望につながるのです。
 私たちがキリストを信じて救われるとは、敵の手からの解放です。暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移されるという、敵の手からの解放です。
 国々に様々な問題が起こる背後に、目に見えない敵の力があります。

 沖縄という美しい島が、なぜあのような悲惨な歴史をたどったのか、不思議です。沖縄は、元々「琉球王国」という、一つの独立国でした。王国は四百年以上続いていました。しかし明治維新の時に、明治政府が廃藩置県と国際的事件を絡めて、沖縄県として日本に繰り入れたのです。
 しかし一九四五年、日本が戦争に負けた時、沖縄の所有権はアメリカに移り、一九七二年まで沖縄はアメリカの一部でした。それまでの通貨はドルでした。車も右側通行だったのです。
 それが日本に返還され、車は右を走っていたのが、左になり、バスも入り口を逆にしなければなりませんでした。私はその時、沖縄に行ったことがあり、かなり混乱していました。
 沖縄はあっちに渡ったり、こっちの国に行ったりと、たいへんな歴史を刻んできました。そして現在、沖縄では、「沖縄独立論」が出ています。「沖縄は日本から独立すべき。」という意見も強まっています。そうなったら、またいろんな問題が起こってくるだろうと思います。まさにユダの国と同じような歴史を辿っています。私たちが重荷を持って、沖縄の為に祈ることが必要です。

 神様は三十一章で、『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。』と告げています。そんな複雑な歴史の中に生まれたらどうでしょうか。人々の目には涙、口には泣き声です。生まれる場所は、選ぶことができません。そこで生きて行くしかありません。沖縄戦のただ中で生まれた方もおられます。育った方もおられます。自分の人生は涙と泣き声の連続だったと言われます。しかしある人は平和な国に生まれ、経済的にも豊かで、何の問題もなかったという人もいます。そんな不公平なことはないです。
 主は必ず、助けの手を差しのばされるお方です。その時に鍵となるのが、クリスチャンであり、教会です。約束をにぎって、祈るか否かが、重要な鍵となるわけです。七十年というきっかけで、私たちは沖縄のために心を込めて祈る必要があるのです。
 三十一章でもう一度、『あなたの将来には望みがある。──主の御告げ──あなたの子らは自分の国に帰って来る。』と、預言されています。

 そして三十一章後半では、涙と泣き声の根源が何であるか、将来と希望は何であるかという結論が述べられています。それが、エレミヤ書三十一章二十七節〜三十一節ではないかと思います。

『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。──主の御告げ──その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 ここに結論があるような気がします。何を意味するのでしょうか。様々な側面があるとは思うのですが、エレミヤが預言者として働いていたのは、今から二千数百年前のことでした。遠い昔のことです。しかし当時、誰もが知っていたことわざがありました。それが、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という言葉でした。
 これは聖書の御言葉というよりも、当時の人たちが誰でも知っていたことわざであろうと言われています。『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』
 こんな事、普通では、ありえないです。「あぁ!歯がいてぇ!また親父だな。酸いぶどうを食べたな…」というのは普通はありません。
 しかしこのことわざを、みんな知っていたというのは、父親が犯した罪の結果が子どもに反映されるということが、体験的に理解されていたからでしょう。
 また、父や母と同じ問題が、子どもの世代でくり返されることが起こっていたのでしょう。家系の中で同じ問題がくり返し起こるような現実を、人々は長い歴史の中で体験していたのではないかと思われます。

 先ほど、沖縄で精神的な病が、本土の率の倍だと言いましたが、一つは霊的な原因があるのではないか言われますが、もう一つ、沖縄戦が関わっているのではないかという研究結果があります。
 人は堪えられないような大事件に遭遇したり、自分ではどうにもならないパニックが起きると、その時点で、体内のDNAが書き換えられる可能性があるそうです。先日、そのような報告を読んだのですが、動物実験で、同じにおいを嗅がせながら親を刺激すると、そのマウスから産まれた子どもに、ただ、においを嗅がせただけで、同じ反応をするそうです。沖縄で精神的な問題が本土より多いのは、沖縄戦で甚大な被害を受け、その時点で、DNAが書き換えられてしまったのではないかと言うのです。私は多分、そうではないかと思います。

 人はなぜ生まれるかご存じですか?父と母がいて、子どもが生まれるわけですが、性染色体がXとYの遺伝子で男となります。XとXで女性となるのです。私は男ですから、滝元明のY遺伝子をそのままコピーしてもらったのです。そして、滝元清子のXXの片方をもらったのでしょう。だからXとY。母方と父方の種をもらい、私という人間ができあがったわけです。
 女性は、Xが二つあるわけです。Xは数学では未知数です。女性はダブルXですから、男性が女性をよく理解できないのは、その為かもと思います。男性はXが一つしかありませんから、Y=Xで単純なグラフです。父母の遺伝子をコピーしてもらって、人は生まれるわけです。
 現代、分かっているのは、すでに種の中に、情報があるという事実です。以前にもお話しさせていただきましたが、神が人間のために書いた設計図、それが遺伝子情報です。けれども、遺伝子の中に、すでに悪い情報がありますから、どうしようもないです。悪い情報も、人は引き継ぐわけです。

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 以前にもお話ししましたが、根源に情報ありきとは、知的存在が関わった以外、考えられない事です。現代は神はいないと言えない時代です。人間をずっと辿って行くと、一人の人に突き当たるというのは、今や、定説です。ということは、初めの人にも、遺伝子はあったわけです。遺伝子がなかったら、次の人は生まれません。
 根源に塩基情報があったとしたら、情報って、偶然に組まれるものではありません。三十億くらいの塩基が組み合わさり、人間が生まれたのです。人が自然に生まれる確率は、竜巻がくず鉄置き場を通過し、竜巻が過ぎ去ったら、ジャンボジェット機が出来ていたのと同じくらいの確率だと言った人がいますが、そんなことは絶対にあり得ないのです。神が人を創造されたのです。

 最初、神が人類にくれた遺伝子は完璧だったはずです。しかし人間は罪のゆえに、データをどんどん改ざんされ、現代に至っています。
 現代は、神様が情報を人類に開示している時代です。時間も、知識も、すべて神のものですから、遺伝子を人間が発見したようだけれど、そうではなく、神が人間に教えた情報です。「これ見てみろ。人間の根源に情報があるだろう。ということは、神は存在するのだ」と。
 この頃では、遺伝子の情報さえ、解読できる時代になりました。アメリカのアンジェリーナ・ジョリーという女優は、病気でもないのに乳房を取ってしまったのです。乳がんになる確率が八十数パーセントあったからです。あの方は近頃、子宮も取っちゃいましたよね。今の時代って、将来起きる病気すら分かる時代です。遺伝子の中に書き込まれている悪い情報を、事前に知ったらどうでしょう。将来も希望もないです。
 これから科学がさらに進んで、それがどんどん解析され、「あなたはこれから癌になりますよ。心臓病になりますよ。こういう病気になりますよ。楽しみにしていてください。」と言われたら、とんでもないです。楽しみでも何でもないです。すでに、お金を出せば、それらを知ることができる時代です。
 そんな事実を知ったら、涙と泣き声しか出ないです。生まれた時、すでに、情報を受け継いでいますから、将来と希望なんて、あったもんじゃないのです。
 そして突然、遺伝子が書き換えられ、次世代に受け継がれたら、さらに悲惨です。次から次へと新しい世代に継続していく、そんな悲しいことはありません。しかし現代は相当、遺伝子情報も狂っていると思われます。
 だから神は人類に、遺伝子情報を解読する能力を与えられたのではないでしょうか。

 何週間か前に、私は「毒を飲んでも害を受けない」というメッセージをさせていただきました。今日の午後からは、「食をとりなす」というセミナーをさせていただきます。是非とも出席していただきたいです。真剣に祈らなくちゃいけないテーマだと思います。現代は、健康で生きているほうが、不思議な時代だと思います。
 何を食べさせられているのか、本当に分からないです。食品関係でお仕事をされている方もおられますから恐縮ですが、この写真はコンビニ弁当の中に含まれている添加物です。

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 日本は化学合成された食品添加物が、世界で最も多く認可されている国です。三百五十一種類です(400種類以上というデータもあります)。イギリスはたったの二十一種類です。

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 イギリスの飯がまずいのは、そのせいだと思います。素材だけで食べているからまずいのかもしれません。日本の食品はなんでおいしいのかというと、添加物がいっぱい入っているからうまいらしいのです。コンビニで買う時も、ちょっと後ろを見て、気をつけながら買ったほうがいいと思います。そのような事について、セミナーをお昼からやります。いろんなところで、私たちの遺伝子は書き換えられているんだろうな…。現代人には、将来も希望もない感じです。

 イスラエルは、かつてエジプトの奴隷でした。しかし、解放されました。しかしその後、バビロニア帝国の奴隷にもなってしまったのです。そして現代まで、イスラエルでは、地上戦ばかり続いているとしたら、どのくらいDNAが荒れているか分からないです。
 先ほどの三十一章の二十七節から三十一節の記述は、DNA情報なんか知られてはいない時代に、神がユダの人たちに語った言葉です。

『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。』

 「種」とは、ヘブル語では、「精子」とも訳せます。

『かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。──主の御告げ──その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。』

 神様が私たちに現在、開示してくださっている情報を重ね、エレミヤ書三十一章を読むと、よく分かります。種の中に、すなわち、男性ならばお父さんのY遺伝子とお母さんのX遺伝子の中に、「引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわい情報満載」です。放っておいても、父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮くという事になります。宗教的に言えば、家系の呪いと言われていたのが、今では宗教どころか、科学の領域になってしまいました。私たちには、将来も希望もありません。あるのは、涙と泣き声だけです。
 しかし、「その日が来る」と約束されています。その日とは、新しい種が蒔かれる日です。人間だけでなく、家畜にも蒔きますと、神は告げています。その日とは、どういう日ですか。新しい契約が結ばれる日です。それはイエス様の十字架と復活による「新しい契約」です。クリスチャンが神の約束を握ったら、今まで私たちを引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわい満載だったのが、今度は、『彼らを建て直し、植えるために見守ろう。──主の御告げ──』と約束されています。
 まさしく、私たちの遺伝子さえも、変えてくださり、いやしてくださるという約束ではないでしょうか。
 これは、現代社会にとって、一番重要な約束ではないかと思います。今年は二〇一五年、戦後七十年。七十という数字を意識できる年です。この年に祈り求めるなら、主が成して下さるはずです。

 ある意味、日本で最もDNAをめちゃくちゃにされたのは、沖縄県の方々かもしれません。歴史を見ると、本当に大変だったと思います。そこに主が、憐れみの手を差しのばしてくださるように祈りましょう。私たちもそのことに気づき、主の前に出る時、世界がどんな状況でも、今後どのように推移したとしても、将来と希望を持つ事が出来るのです。新しい世代にも、主は新しい種を与えてくださるのです。父方から受け継いだ私のY遺伝子の中にも、母方から受け継いだX遺伝子も、聖めて、最初の情報に変えられるはずです。医学的には不可能と見えても、私たちは神様にとって、不可能はないことを信じる者です。
 今年はこの奥義が私たちのただ中に現されることを、心から願うと共に、沖縄のために心を込めて、祈り奉仕していく時、主が恵みを共有させてくださるのではないかと期待しています。

 今日はみなさんとご一緒に沖縄のために祈り、主が幸いな計画、将来と希望の計画を実現してくださるように祈りたいと思います。
 新しい契約とは、イエス様の十字架で裂かれた肉と、そこからほとばしり出た血を表します。それが聖餐式として、私たちの目の前に置かれています。今、食品の中にも様々な添加物が入れられ、前回話したように種も悪いし、すべて良い所がないけれども、私たちは、平和に暮らすことができるのです。安心してください。
 では最後にご一緒にお祈りします。聖餐を受け取ったら、立ち上がって、沖縄のために祝福を祈りたいと思います・まずは一言祈らせていただきます。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。今日、ここに備えられた聖餐の糧を感謝します。パンとぶどうのジュース、御言葉と聖霊によって、今、主の新しい契約であると宣言します。
 今日、新しい契約が結ばれた日に、将来と希望の計画が実現することを学びました。今日私たちは、沖縄のために特別、祈りを捧げます。沖縄が変えられ、日本の歴史も変えられますように。すべての栄光をお返しし、尊きイエス様の御名によって、この聖餐を祝福して祈ります。アーメン。