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Don't forget!
 主の良くして下さったこと。

2015年6月28日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇103篇1~5節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 ハレルヤ!おはようございます。みなさんのお祈りに支えられ、「沖縄70リバイバルミッション」も無事に終了しました。本当に感謝します。四月一日から始まり、六月二十一日まで、実に、三ヵ月間に渡り続けられました。今年は戦後七十年の年であり、沖縄で七十回の集会をしよう!と計画されたわけですが、実際には、100回くらいの集会がもたれました。
 先週の土曜日、日曜日には本大会が行われ、終結したわけです。私も様々な場所に行き、奉仕をさせていただきました。日本のリバイバルを感じさせる、すばらしい集会となりました。みなさんの祈りを、常に感じながら奉仕をさせていただきました。現地に出向いてくださった方々、後方でとりなしてくださった方々、一丸となって働きが進められたことを、心から感謝します。

 先々週になりますが、沖縄北部の本部町という、小さな漁村で集会を持たせていただきました。

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 本部町は海に囲まれた漁村です。魚も熱帯魚のような赤い魚ばかりです。食べれるのかなと思ったら、「うまいよ」と言われました。

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 普通、こういう場所で伝道会を開催しても、ほとんど人は来ないです。漁村とか農村でやったって、新しい人はほとんど来ないと思います。それも小さな教会が主催しました。何人集まったかというと、実に、七十人集まりました。クリスチャンが二十人。あと五十人は地域の人たちでした。会場いっぱい溢れて、本当にすばらしい集会となりました。こういう所から、リバイバルが起きるのかなと思いました。

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 その時の集会の模様です。村の書道教室でやったのですが。人で溢れました。

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 本大会も、みなさんが祈ってくださった結果、多くの方が集まってくださり、最後は熱い集会となりました。本当に主が願っておられる集会だと、強く感じました。これからも沖縄のことを忘れないで、祈って行きたいと思います。
 私は沖縄を忘れないように、今日もかりゆしウェアで登場しました。

 今週は結婚式があります。久々のクリスチャン・ファミリー同士からの結婚式です。佐野満君と伊藤結実さんの結婚式です。是非とも、お越しになってください。両家ともクリスチャンホームです。赤ちゃんの頃から教会に来て、二人とも教会で育って、結ばれ、主の前に新しい家庭ができるのです。本当にすばらしいと思います。
 先ほども二人が、何かひそひそと玄関先で話していたので、満君に、「今の気持ちはどう?」と聞いたら、「天にも昇るような気持ちです」と答えました。

 先週は、お二人の方が天に昇りました。それと重ねてはいけませんが、一人は、神谷さんという方で、菊池君のおばあちゃんにあたります。私はおばあちゃんとお会いしたことはないと思うのですが、沖縄に電話がかかってきました。「おばあちゃんの具合が悪いので祈ってください。もしかしたら、危ないかもしれない。」と言われました。私は沖縄だったので、雅也先生に電話をして、お見舞いに行ってもらいました。そして、雅也先生が病床で一緒に祈って、おばあちゃんを救いを導きました。その二日後くらいでしょうか。天に帰って行かれました。あの時、雅也先生に行ってもらって良かったです。葬式は雅也先生が司式しました。彼は牧師になった途端、仕事がどっさり増えました。これで私たちも安心です。

 そして、もう一人は院南枡枝さんが天に帰って行かれました。八十九歳でした。
 院南さんはご一家で、教会に来られています。枡枝さんと初めて会ったのは十五年前です。印南家にいろいろあって、お宅を訪問しました。奥を覗いたら、暗い部屋に、何か蠢くものがありました。「なんですか?」と聞いたら、おばあちゃんが床に伏せておられました。肝臓癌で、危ない状態でした。おばあちゃんの枕元には、大きな仏壇があり、仏間の暗い部屋で寝ていました。私はかわいそうに思い、「おばあちゃん、イエス様を信じて一緒にお祈りしましょう。」と言いました。おばあちゃんは、「私の主人が先に逝ったもんだから、この仏壇は大切」と言っていました。しかし、「おばあちゃん、仏壇にはご主人はいませんよ。ご主人の魂は、神様がちゃんと管理していてくれているから、大丈夫だよ。ここにいるのは、ゴキブリと悪霊くらいだよ。仏壇を拝むのをやめて、イエス様を信じてよ。」と言ったら、様々な問題のただ中にありましたから、おばあちゃんはイエス様を信じました。やがて、おばあちゃんの意志で、仏壇を処分してしまいました。

 その後、何が起こったかと言うと、なんとおばあちゃん、元気になって、それから十五年間生きながらえ、八十九歳で、天に帰って行かれました。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と聖書にあるけれど、本当だなと思います。
 私たちクリスチャンは、ゆりかごから墓場まで、いや、天国まで、よみがえりまで保証されています。こんなすばらしい救いは、どこにもないですね。私たちは、もっともっと、福音を伝えなければならないと思います。

 この七月は、新城教会にとってたいへん忙しい月です。様々なすばらしいプログラムがあります。是非とも予定に入れていただきたいと思います。七月は、いろいろなお客様も来られます。七月二十二日には、タコマから竹内先生が来られます。竹内先生は、アメリカで一番燃えている先生ではないかと思います。今日は竹内先生の教会から、二組のご家族が来てくださっています。本当に感謝します。ゆっくりしていってくださいね。パスター竹内が、二十二日の水曜礼拝で奉仕をしてくださいます。リバイバル聖会にしますから、みなさんに集まっていただきたいと思います。
 また、七月二十六日には、ナガランドから九名の牧師たちが来ます。二十六日の礼拝メッセージは、ナガランド人の牧師が語ってくれます。ナガランドは、インドですが、モンゴロイド系で、私たちと同じ顔をしている人たちです。十一月にはインパール、ナガランドでミッションがあります。行ける人は行っていただきたいと思います。
 また、七月三十日にはパスター・ジョーが、アメリカンジョークと共にやってまいります。八月十六日に奉仕して下さいます。楽しみにしていただきたいと思います。また、八月十六日にはサマーフェスティバルもあります。

 その間、ネパール宣教もあります。今回、私も行くことにしています。二十六名行きます。カトマンズに着いたら、すぐに、チトワンまで行って、次の日には、山に登って、二日間、山頂で過ごします。今回は、若者たちが行ってくれます。私を担ぎ上げるためではなく、いろいろ奉仕をするためです。地震で大変ですから、どんなことができるかわかりませんが、村に仕えたいと思います。
 今回は、メディカル・キャンプも行います。ドクター岩井が一緒に行きます。看護師もいますから、山頂にテントを張って、患者さんを見るのです。新城教会医療チームが働きます。ぜひ、医者が倒れないように祈ってください。元も子もありませんから。それから、ツアーメンバーが治療に並んでいたら、何もなりませんから祈って下さいね。

 また私は、ネパールに行く前、来週になるのですが、ジャマイカに行きます。この教会にキャリアンさん、ゼモラちゃんという、ジャマイカ出身の方々がおられます。何年も前から、「ジャマイカに来て、祈ってください!」と言われました。なかなか時間が取れなかったのですが、ちょうど時間があったので、ジャマイカに行って、ジャマイカの教会も訪問させていただきます。
 地球の歩き方という本があります。それと同じような本で、「危ない国の歩き方」という本がありす。どこの国の事が書いてあるかというと、彼女たちの前で話すのは悪いですが、ジャマイカです。私はそれを読んでみました。国には様々な問題があります。しかし新城教会で、彼女たちは霊的戦いについて目が開かれ、「自分の国に行って、とりなして祈りたい!」という、強い思いを主がいただきました。今回ジャマイカに行きます。
 瀧川充彦スタッフと一緒に行きます。きっとすばらしい働きとなるのではないかと思います。
 七月は、私たちにとって、ちょっと目の回るような月ですが、そんな中に、主のすばらしい計画が用意されていると信じます。

 今日の聖書の箇所は、先ほど読んでいただきました、詩篇一〇三篇一節〜五節です。主題は、「Don't forget!主の良くして下さったこと。」とつけさせていただきました。「Don't forget!・・・忘れるなよ!」と。何を忘れたらいけないのか、それは「主の良くして下さったことを忘れてはいけない」のです。
 もう一度、この箇所をご一緒に読んでみたいと思います。詩篇一〇三篇一節〜五節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 今日、ここに集まった方々は、ほとんどクリスチャンですから、人生の中に、主が良くしてくださった経験が多くあると思います。「あの時も主が助けてくださった。」「あの時も助けてくださった!」「あの時、主が私に触れてくださった。」
 天地宇宙を造ってくださった神との個人的体験が、誰にでもあると思います。そのことを忘れちゃ駄目だぞ!と言っているわけです。
 案外、私たちは、悪いことは長いこと覚えています。しかし良いことは、けろっと忘れるのです。なんでか分かりませんが、悪いことのほうがよく覚えています。それではいけないのです。悪いことは忘れて、良いことを覚えましょう。特に、主が良くしてくださったことを忘れるな!と言うわけです。

 全国を歩きますと、様々な場所に記念碑が建っています。良いことの記念碑もありますし、悪いことの記念碑もあります。しかし記念碑があると、その場所で何が起きたのかがわかります。
 私たちも生活の中で、主が良くしてくださったことを、心の記念碑として残しておくことが重要です。三節~五節、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。』

 心の記念碑として、主が良くしてくださったことを残すのです。私の咎を赦してくださった、病をいやしてくださった、いのちを穴から贖ってくださった、恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださった・・・。過去の良いことを記念碑として、残しておくと、また同じ事が、未来に起こるのです。「あなたの一生は良いもので満たされる。」

 『あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』希望の言葉ですね。だんだん、年を取ると、希望ってなくなりますよね。あと先、何年だろうなと。私も時々考えますが、主が良くしてくださったことを忘れないと、若返っていくのです。若返りたかったら、主が良くしてくださったことを思い出し、記念として、心に刻み込んでおく事です。

 旧約聖書の主人公は、見えない所におられるイエス様ですが、人物としては、アブラハムです。ヘブル民族の原点です。
 彼には約束の子、イサクが生まれました。イサクはやがて、リベカという女性と結婚しました。みなさん、リベカは誰と結婚したんでしたっけ?イサク。いや違います。陽介です。これは我が家のジョークです。
 イサクとリベカが結婚して、双子が生まれました。それが、ヤコブとエサウでした。しかし、この二人は性格が全く違いました。ヤコブには、女っぽい所があり、女性が好むような事が好きでした。エサウは野生人で、外に出て行って獲物を獲ってくるような性格をしていました。たぶんこの双子は、二卵性双生児だったと思われます。一卵性だと似ていると思うのですが、きっと二卵性ではないかと思います。
 二人がだんだんと大きくなった時、イサクの家で問題が起こりました。それは相続権に関する問題でした。イスラエルにおきましては、長男が後を継ぐ事になっていました。普通ならエサウが継ぐのですが、お母さんのリベカはヤコブのほうが好きで、策略をめぐらせてヤコブが受け継ぐようにしたわけです。その事がバレて、大変な争いになり、エサウはヤコブを殺そうとしました。そんな大きな争いに発展したわけです。
 財産争いは骨肉の争いになりますから、怖いですよね。これは今に始まったことではないわけです。リベカは、ヤコブに、「ここにいたら殺されてしまうから、ハランに、私の兄がいるから、兄の所に逃げなさい!」と、兄の所にヤコブを逃がしました。
 ヤコブは相続権を得て喜んでいたら、一転して殺されそうになり、砂漠を旅して、ハランまで逃げることになりました。結構な距離です。

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 聖書は地図を見ながら学ぶとよくわかるのですが、彼らはベエル・シェバという場所に住んでいたのですが、ハランまで、なんと七百五十キロの旅をしなければならないはめになりました。まさしく、ハラン万丈の旅のはじまりであったわけです。
 砂漠で、ある夜ヤコブは、石を枕にして寝ていました。その時、不思議な夢を見たのです。その事が書かれているのが、創世記二十八章十節〜十五節、

『ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』

 時々、私も夢を見ます。ほとんどがとんちんかんな、訳のわからない夢ですが、どうしても忘れられない夢も時々あります。そういう時は、主の前に出て、祈ることが必要かもしれません。
 ヤコブが見た夢は、まさしく神から来た夢でした。ヤコブは、砂漠の真ん中で、石を枕にして寝ていたとあります。今度、ネパールに行きますと、同じような状況になるわけですが、すばらしい夢を見せてくれないかなと思います。
 ヤコブが夢の中で見た光景は、はしごが見えて、天使が上ったり下ったりする光景だったのです。これは、Jacob’s ladderと呼ばれ、よく絵で見ることがあるかと思います。こんな絵です。

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 自分の側で、天使が上ったり下ったりしている構図の夢を見たのです。
 主を信じる者たちには、この構図が常にあると信じましょう。見えない世界では、天使たちが上り下りしているのです。これは、いたずらに上り下りしているわけではありません。上って行くとは、私たちの祈りを、神の御前に届けているのです。下ってくるとは、祈りの答えを携えて来ている象徴的な姿です。
 イエス・キリストを信じる前も、はしごがかかっていたはずです。しかし、それは天に続くはしごではなく、地の底に下りていくようなはしごでした。そのはしごを使って、悪霊が上ったり、下ったり、周りには深い穴があったはずです。しかし、イエス・キリストを信じた時、穴は埋められ、天にかかるはしごに変えられたのです。

 ヤコブはこんな夢を見ました。彼は財産を受け継ぐと思っていたら、全て失うことになったわけです。「俺は一文無しだ・・・」と失望していたら、アブラハムが持っていた財産どころか、『あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』という、信じられない言葉を聞かされたのです。

 ヤコブが主と出会ったのは、決して良い状況ではありませんでした。お先真っ暗というただ中で、このような体験をしたのです。
 眠りから覚めたヤコブがどんな行動をとったのか、創世記二十八章十六節〜二十二節に記されています。

『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」』

 夢から覚めたヤコブが最初に語った言葉が、『「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。』というのです。
 様々な問題が起こったりしますと、主はどこかに行ってしまった、と思うかもしれません。しかし、主は共におられるのです。
 共におられたのに、気づかなかっただけです。ヤコブに気づかせるために、このような夢が与えられたのです。夢は、すでにあった現実を教えるに他ならないわけです。
 彼はその時感動して、自分が枕としていた石を立てて、記念の石塚としました。ここで主が私に現れてくださった!と、そのことを忘れないように、彼は石の柱を立てたのです。
 様々な局面で、主がおられることに気づかせて下さいます。その事を忘れないように、石を立てるというか、心にしっかりと刻み込んでおくことが大切です。

 そしてもう一つ、ヤコブが決断したことは、「あなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と言いました。
 旧約聖書を流れてる一つの概念は、神からいただいたものの十分の一を感謝し、主に捧げるという考え方です。今は、新約の時代ですから、それは強制されるものではないのですが、主からいただいた十分の一を毎月、捧げさせていただくのは大きな恵みであり、感謝の石塚なのです。主が今まで良くしてくださったことに感謝して、忘れないために、十分の一を捧げるのです。
 「また献金か…」ではなく、一ヵ月間、主が守ってくださった、祝福して下さった、これを忘れないために、記念の石塚として十分の一を捧げるのです。これは、主の良くしてくださったことを忘れないことにつながり、次の祝福もつながるのです。

 ヤコブは、このような体験を通して、彼の人生は変わりました。そして、祈りました。「必ず、私はここに戻って来て、あなたを礼拝します。このことを絶対に忘れません。」
 それから旅立って、ハランに行きました。ハランに行ってから、様々な事があったのですが、期せずして、二人の嫁さんをもらうことになりました。妹のラケルをもらったつもりが、姉さんのレアでした。それで、二人の嫁さんをもらう事になったのです。子どもたちも生まれ、ヤコブは、ハランに定住してしまいました。ハランは、ベエル・シェバとは全く違った異教文化を持っていて、彼もその文化に浸かって、だんだんと主の事を忘れかけたようです。
 そんな中で、事件が起きました。子どもたちが事件を起こし、地域の住民を殺して、そこで生活できない状況になったのです。創世記三十五章を読むと、そんな中で主が再び、ヤコブに告げられた言葉が記されています。創世記三十五章一節〜七節、

『神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。』

 ベテルで石の塚を立て、ヤコブはそこに戻る事を決断してハランに上って行ったのですが、ハランに定着してしまい戻る事がなかったのです。しかし問題を通して、主はベテルに行けと言われました。
 平和な時代が続くと、知らないうちに悪の道に戻す力が働きます。純粋に主の前に出る事を忘れてしまう傾向があります。
そんな時、問題が起こることがあるのです。しかし問題解決のために、何をしたらいいのかが、ここに記されています。それが「原点に戻れ」ということです。主に誓った、あの誓いの石の塚に戻れというのです。

 その時、ヤコブは、今まで持っていた偶像を全て捨てたのです。耳飾りも捨てたのです。当時の耳飾りは、呪術や魔術のための品物でした。本当は偶像は壊さないといけないけれど、ヤコブは異民族のただ中にあって、壊すのが怖かったのでしょう。シェケムはこの間、私が行った所ですが、そこの木の根元に埋めたのです。後から文句を言われたら、掘って返そうと思ったのかどうか知りません。なにしろ、偶像から離れたのです。
 そうしたら、ベテルに安全に戻ることができたのです。

 砂漠の真ん中ベテルで、かつて石碑を立てたことが、後になり、彼が助けられる重要なポイントとなったのです。
 かつて主が良くしてくださったことを忘れない為に立てた石塚、それが、後の問題解決に役だったのです。日々、主が良くしてくださったことを忘れない事が、将来と希望につながる大きな要素になることを、教えられます。

 さてヤコブから時代は進み、サムエルの時代になった時、ペリシテという海洋民族にイスラエルはたびたび苦しめられていました。しかし主がペリシテ人から、イスラエルを助けてくださったことがありました。その時、サムエルは何をしたのかが記されています。第一サムエル記七章十二節〜十三節、

『そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。』

 サムエルが、「主がここまで私たちを助けてくださった」と意識して、記念の石塚を建てたのです。その時、主はその後もイスラエルを助け続けてくださったのです。私たちの人生でも、主が良くしてくださったことを忘れてはいけないのです。

 ここを読みながら、「今回も、沖縄リバイバルミッションを助けてくださった!感謝して、記念の石塚を心の中にしっかりと立てなくてはいけない。」と思いました。エベン・エゼルとは、「助けの石」という意味です。ざわめきもこの中から、曲を作りました。開先生、来て、歌ってくれますか?主が私たちを今まで助けてくれた!という歌です。今までの人生の中で、様々な事があったけれど、イエス様が助けてくれた!これを忘れてはいけないのです。
 今から歌いますが、今まで主が良くしてくださったことを思い描いて、今の問題は横において、賛美していただきたいと思います。

♪エベン・エゼル

ここまで主が我らを 助けてくださった
主の偉大なる み力に支えられて
ここまで主が我らを 助けてくださった
主の臨在に包まれて 導かれて
エベン・エゼル エベン・エゼル 主は共に
エベン・エゼル エベン・エゼル 我らの助け
エベン・エゼル エベン・エゼル 
ふと見上げれば 主はここにおられる

 主に心からの感謝の拍手をいたしましょう!

 ヤコブは最悪の環境だ!と思っていた事でしょう。しかし、そこに主がおられたのです。ヤコブは主との出会いを忘れないで記念としました。サムエルも同じようにしました。その時、未来が変えられたのです。私たちも主が良くしてくださったことを、決して忘れないようにしなければなりません。

 紀元二〇〇〇年を記念して、東京で「東京スーパーミッション」が開かれました。四十日間に渡り、東京で、朝から晩まで集会が開かれました。四十日間、東京でホールを借りて集会するのは、本当に大変でした。東京は、ホールを借りるのにも多額の費用がかかります。車を一台置くだけでもお金がかかる。私は四十日間、ウィークリー・マンションに住み込んで、集会に参加しました。
 毎日朝早く出て、夜遅くまで集会が続きました。しかし思うようには人が集まらなかったり、献金が集まらなかったりして、大変でした。スーパーミッションの経費は全体で一億円くらい必要でした。うまくいく計算で、集会を始めたわけですが、なかなかうまくいかないで、本当にがっかりしました。このまま俺たちはどうなるんだろうかと、本当に落ち込みました。私も時には落ち込むことがあります。私の頭を見れば分かると思います。いろいろストレスがあるわけです。信弘先生は、落ち込まないと言っておりますが、彼もその時は落ち込んだと思います。彼は財務を担当していますから。本当にこれからどうなるだろうかと。ふだん八時二十分の眉毛をしている先生は、八時二十分どころか、六時半くらいの眉毛になりました。全く希望が持てなくて、ある日、がっかりしながら、新城に帰った日がありました。
 その時、主の前に祈っていると、コリント人への手紙第二、一章七節〜十一節を読むように導かれました。

『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 時々、人生の中で、絶体絶命!というような場面を体験するかもしれません。しかし、クリスチャンにとっての絶体絶命には、意味があるのです。その意味とは、今ここで述べられているように、人に頼ったり、お金に頼ったり、方策に頼るのではなく、「神に頼り切る」という信仰を持つためだ!というのです。
 もう誰にも頼ることが出来ない!という時、一つだけ希望があります。それが神です。「絶体絶命!という時には、神に頼れ!」と、言い切っているのです。
 あの「東京スーパーミッション」の時、「もう駄目だ。もう一歩も先に進めない!」と落ち込んだ時、主がこの事を語ってくれました。
 パウロは、自分の心の中で死を覚悟しました。しかしその意味は、『これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。』・・・死者をよみがえらせる神に、絶対的に信頼しろ!という主からのメッセージであったのです。
 ここで、「将来と希望」と述べられています。将来と希望とは、どういうものかが一章十節に記されています。

『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 エベン・エゼル、助けの石は、主が私たちを助けてくださった証しです。今まで助けてくださったのなら、必ず、将来も助けてくださらないはずがない!と信じる信仰、それが、「将来と希望」です。
 今まで主があなたを助けてくださったと思います。ということは、必ず、将来も助けてくださるのです。これが将来と希望です。

 二〇〇〇年の時に掲げられたみ言葉は、エレミヤ書二十九章十一節、「将来と希望」でした。私は、将来も希望も何もないと思いました。こんな御言葉を選んだのは間違いとさえ思いそうな時期でした。しかし、「振り返ってみろ!おまえたちの働き、今までコケたことあるか?毎回助けられたじゃないか!これからも絶対に助けてくださる!その信仰が将来と希望だ。」と。そして、「過去に主が良くしてくださったことを、決して忘れてはいけない!」と教えられたのです。
 今日の聖書の箇所、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 このみ言葉通り、主が良くしてくださったことを、決して忘れてはいけないのです。来週は、「リバイバル感謝報告会」もあります。一年、主が、この教会に良くしてくださったことを忘れないために、レポートをみなさんにお渡しします。教会は生ものですから、良い時もあれば、悪い時もあります。この教会は六十年以上経ちますが、振り返ってみると、奇跡が見える、本当に良かったな、助けてくださったなと心から感謝出来ます。ならば将来だって、主が助けてくださらないはずはないのです。

 先日、院南枡枝さんが危篤だという連絡を受けました。「医者が言うのには、あと五、六時間しかもたない」と言われました。だから「よろしくお願いします。」と言いました。よろしくお願いしますとは、葬式をよろしくお願いしますということです。
 教会は本当に便利な所で、明日はここに棺が置かれるわけです。でも土曜日は花婿、花嫁が立ちます。マルチで使っているわけです。教会は死を超越しているのです。なぜならば、主を信じる者たちには、永遠のいのちがあるからです。
 おばあちゃんが危篤だということで、私は救いに導きましたから、すぐに駆けつけました。危篤だと思って病室に入ったら、おばあちゃんは、「ハレルヤ!」と叫びました。点滴をぶら下げたまま、点滴が外れそうに、「ハレルヤ!」両手を挙げて私を迎えてくれました。「順先生。来てくれたのか!ありがとう!ありがとう!」と言って、テンションが思いっきり高くなりました。このまま、上るかなと思うほどでした。あと命が五時間しかないというおばあちゃんが、私に心から感謝を言ってくれました。
 私は思わず感動して、「おばあちゃん。ちょっとビデオを撮るから、言いたいこと言って。」と言ったら、急にかしこまって話し始められたのですが、明日のお葬式でそのビデオを親族に見せようと思います。おばあちゃんの、新城教会の兄弟姉妹への最後の挨拶の言葉です。聞いてください。おばあちゃんはその後、天に帰りました。明日は召天式です。

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「私は新城教会の守りの中でいれたこと、これが最高に、私の運命のうちで幸せなことでした。みなさんの愛をいただいて、先生方も愛がいっぱいある方ばかりで、こんなに恵まれたことはありません。感謝です。本当に、いつもいつも新城のほうを向いて感謝しています。ありがとうございます!ハレルヤ!ありがとう。」

 ちょっと感動でしょう。こういうふうに語って、天国に帰って行きたいものです。点滴をぶら下げながらハレルヤ!と叫んでいました。五時間で死ぬと言われたのが、その後、一ヶ月寿命が延びて、最後の最後まで、「感謝、感謝、感謝。」と語っていました。
 暗い部屋で、希望のないおばあちゃんが、イエス様を信じて十五年生き延び、最後には、「感謝、感謝、感謝」で、九十歳で天国に帰って行かれました。これがクリスチャン生活です。彼女は、感謝の記念碑を、決して忘れなかった人だったと思います。
 私たちも、多少、不平・不満はあるかもしれないけれど、主が良くしてくださったことを忘れないで歩むなら、必ず、将来が見えて来ることを、心に刻んでおきたいと思います。

 一番感謝しなければならないのが、主が私たちのために、十字架にかかって命をすててくださったことです。そのことによって、死から救われ、永遠のいのちが与えられ、地上において、管理人として過ごすことができるようになったのです。
 イエス様が私たちのために流してくださった十字架の血潮、これを心から感謝して、最後に、みなさんと共に、聖餐式を行いたいと思います。一言お祈りします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝いたします。「主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな!」とあります。今日は、あなたが良くしてくださったことを忘れないで、感謝と共に、聖餐式を行います。この時を祝福してくださいますように。ここに備えられているパンと、ぶどうのジュース、御言葉と聖霊によって、主と一つにしてくださいますように。
 今日、私たちに、教会に良くしてくださったこと、沖縄において良くしてくださったこと、何一つ忘れることなく、記念とします。将来と希望を感謝して、イエス様の御名によって、聖餐式を始めます。アーメン。