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『主の夢を叶えるために!パート8
 ~新しいいのちの証人となろう~』

2015年10月25日(日)
新城教会 主任牧師 滝元順
使徒の働き4章32節〜33節

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。ヘブンリーキングダムのすばらしい賛美を聴くことができて感謝します。励まされます。
 先週は、天野先生に来ていただき、すばらしい聖会を持っていただきましたが、みなさん、恵まれましたか?きっと恵まれたことと思います。天野先生を通して、新しい扉が開かれたことを信じます。新城教会に、主が、「わたしの夢をかなえてください!」と語られているならば、主の夢をかなえるために、働いていきたいと願っています。
 今日は、『主の夢を叶えるために!パート8~新しいいのちの証人となろう~』という主題でお話をさせていただきます。

 みなさんのお祈りに支えられ、様々な働きが進んでいることを心から感謝します。今もお祈りの中にありましたように、十一月は、ナガランド、そしてインパールで、リバイバルミッションが開かれます。是非とも祈っていただきたいと思います。日本から三十名の方々が行かれます。行くからには、すばらしい働きができるように、そして新しい扉が開かれるように、祈って下さい。
 また、来年は、ここにチラシがあるのですが、

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 「二〇一六年は巡回伝道の年」というキャッチフレーズで、「四十七都道府県巡回リバイバルミッション」を開くことにしています。日本全国で伝道しましょう!というミッションです。先日、天に帰った私の父だとか、田中政男先生は巡回伝道者として長いこと働きました。その頃の日本の教会は、結構元気でした。しかしこの頃は、ちょっと元気がないなぁと思うのですが、当時は、日本の教会も伝道のスピリットに燃えていました。ですから、もう一度、その頃を思い出して、みんなで伝道しましょう、という企画です。
 父とか田中先生が巡回伝道者として働いていた頃、私が若かった時代ですが、「グロリア・シンガーズ」というバンドをやっておりまして、一緒にいろんな教会を巡回して、私たちが賛美して、父や田中先生が伝道メッセージを語るということをやっていました。
 八月十四日に父の凱旋式を持っていただいたのですが、その前の晩に、弟から電話がかかってきて、「グロリア・シンガーズで一曲やらないか?」と言って来ました。私はそんなこと、全く考えてもみなかったのですが、父の凱旋式だし、一回くらいやってもいいかなということで、やってみたら、案外、みなさん、私たちのことを覚えていてくださいました。それで、もう一度やってみたらとおだてられ、また、父の残した伝道メッセージの音源も多くあるので、CDにしようという企画もあり、メッセージだけじゃぁ寂しいからということで、私たちが三十年も、四十年も前に歌っていた曲を録音し直して、一緒にCDにしたらどうかという話になりました。
 凱旋式の時に、差し上げたプログラム中で、すでにお読み頂いたのではないかと思いますが、「父、滝元明の思い出」という文章を書かせていただきました。このような文章です。

「父、滝元明の思い出」    滝元順

 主の御名を心から讃美いたします。本日は暑い中、父、滝元明の「リバイバル感謝聖会・凱旋式」にお出かけ下さり、心から感謝を申し上げます。

 私は滝元家の長男として、長年にわたり、父の歩みを間近で見て来た者の一人です。また、本日の会場、「新城市民文化会館」の建っている場所は、私の幼い記憶の原点でもあります。なぜなら、父が新城市において、最初に宣教を開始したのが、他でもなく、この場所だからです。
 青春時代、私はゴスペル・フォーク・グループ「グロリア・シンガーズ」を結成し、伝道者であった父と共に、全国の教会を巡回させていただいた思い出があります。その時に必ず歌った曲に「子どもの頃の思い出」があります。
 その歌詞の中に、「あの頃 僕の家は 四軒長屋の片隅 時には思わぬ出来事 お米もお金も底をつく 子どもの頃の思い出 鮮やかによみがえる 米びつ囲んで祈った そして僕がここにいる♫」というユニークな一節があります。それもこの辺の風景を歌ったもので、私たちの信仰の原点ともなりました。

 その頃の父は若く、イエス・キリストに全幅の信頼を置き、目をキラキラと輝かせながら、懸命に伝道に励んでいました。そして、その姿は、天に凱旋するその日まで、少しも変わりませんでした。
 8月1日、父が召天した日、私は新城教会の若者たち25名と共に、ネパール宣教に赴いていました。そんなただ中で、父の容体急変の知らせを受けました。しかし、感謝な事に、死を目前とした父とテレビ電話で結び、最後の会話を交わすことが出来ました。そこで父は、たとえ自分が召天しても日本に戻らず、ネパールでの宣教を全うするよう、励まし、祈ってくれました。私たちは父の遺志を尊重し、残された一週間の宣教を継続し帰国しました。
 彼の口癖は「リバイバル」でした。すべての人が救われ「永遠の命」を受け取ることを心底願い、そのためだけに一生を費やした男でした。
 私は父を近くで見ていて、彼は特別な人物ではなく、単純な、ごく普通の人物でした。ただ、神からまかされた使命には、忠実であったように思います。

 今回、「全日本リバイバルミッション」・「プレイズ出版」・「新城教会」が合同で、父のための「リバイバル感謝聖会・凱旋式」を開催して下さいました。私もこの三つの団体の中におらせていただいている一人として、私たちも、主から任された使命に忠実であり続けたいと願っています。

 本日お集まりくださったお一人ひとりに、重ねて、心からの感謝を申し上げます。
神の祝福が豊にありますよう、心から祈ります。


と書きました。
 凱旋式は、新城市の真ん中にある、「新城市民文化会館」で行われたのですが、あの場所は、新城教会の原点です。新城市に父と母が入って来て、初めて教会を建てた場所です。あの近くにダンスホールがありまして、それを買い取り、そこから教会が始まりました。ですから、私たちの幼い頃の記憶は、あのへんが記憶の中心です。それをモチーフにして、「子どもの頃の思い出」という曲を作りました。私たちも歳を取って来たので、その曲を入れてCDを作ったらということで、全部で三曲録音し直しました。
 前置きは長くなりましたが、先週、久しぶりにレコーディングをやりました。私は、ギターのピックを二十年ぶりに買って、新鮮な思いがしました。楽器も自分たちで頑張って演奏しました。

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 みなさん、聴きたいですか?午後のセミナーの時に聴かせようかな、と思ったのですが、一曲だけお聴かせしたいと思います。「子どもの頃の思い出」というタイトル曲です。他の二曲は、午後のセミナーの前にお聴かせします。結構うまくできましたよ。ブランク三十年とは思えないできばえです。しかし、ライブでやるのはちょっと無理かなという感じです。ましてや、他で奉仕するとかは絶対にできない感じですが、一応、聴いてくださいね。なかなか懐かしいです。当時を知っていると、涙が出て来ちゃうような感じです。当時のことを知っている人は、自分の思い出に重ねて、お聴きいただきたいと思います。

♪空に浮かんだ雲を 野原に寝転び数えた
サメや鯨や魚が心の海を泳いだ 
子どもの頃の思い出 鮮やかによみがえる
大きな空を作った 神様がそこにいる

あの頃の僕の家は 四軒長屋の片隅
時には思わぬ出来事 お米もお金も底をつく
子どもの頃の思い出 鮮やかによみがえる
米びつ囲み祈った そして僕がここにいる

子どもの頃にやどった イエス様への思いは
大きく強く育って 心燃やしてる 心燃やしてる


 平均年齢六十くらいの男たち三人が歌っている感じではなく、少年たちが歌っているような、さわやかさも感じませんか。上條頌君がプロデュースしてくれて、良い物ができて、本当に感謝しています。
 昔やっていたことを、三十年くらい経っても案外覚えているものだなぁと思いました。人生って本当に不思議なものだと思いました。歌詞は少し変えています。この曲の最後は、「命燃やしてる」という歌詞だったのですが、六十代ですから、ここで命を燃やしちゃったら、死んじゃいますから、「心燃やしてる」と、最後だけ変えました。人生って、あっという間に過ぎていきます。しかし、振り返ってみると奇跡が見えるのです。

 クリスチャンの人生って、試練があったり、様々な事があって、時には大変だと感じる事もあるのですが、振り返ってみると、「いや〜、すごいな〜、よくぞうまくはまったな」と感心する事が多いです。
 私たちは、まことの神、生ける神様に仕える者たちです。人生は、神様の持っておられる夢を実現するためにあることを、この頃、お話しさせていただいています。神様の夢、実現部隊として人生を進めていく時、気がつくと、人では絶対に書くことのできないシナリオを見いだすのです。

 今日は、どんな気持ちで、イエス様に仕えていくべきかを学んでいきたいと思います。先週は、天野先生を通して、聖霊に満たされることについて語られました。初代教会の百二十人に聖霊が注がれた後、彼らがどんな気持ちで、福音を伝えたのか、その心境を学ぶ時、それに習うことができます。聖霊が注がれた後、弟子たちがどのような心境であったのかが、先ほど読んでいただきました箇所に記されていました。使徒の働き、四章三十二節と三十三節ですが、

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 このように記録されています。聖霊が注がれた後、弟子たちは、「主イエスの復活を非常に力強くあかしした」というのです。イエス様がよみがえったということを、「非常に力強く」とは、相当力を込めて語っていたようです。 

 そんな弟子たちの上には「大きな恵みがあった」というのです。本来私たちが真剣に語らなければならないことは、「イエス様は死を打ち破って、よみがえってくださいました!」ということを、力強く証しなければいけないのです。
 言い換えれば、「新しいいのちの証人となる!」ということです。死を打ち破ってよみがえられた方の証人となる時、人生に大きな恵みがあるのです。
 神様の夢とは、何でしょうか。イエス様だけを死からよみがえらせるだけではなく、主を信じる者たち全員が、新しいいのちで永遠に生きること、それが夢なのです。私たちも、新しいいのちの証人であるということです。

 聖書の中の聖書と呼ばれる箇所があります。ご存じのように、それは、ヨハネの福音書三章十六節です。一緒に読んでみたいと思いますが、これは聖書の中の聖書と呼ばれている箇所です。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 神様が御子イエス様を、この地上に遣わしたのは、『御子(イエス様)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』というのです。永遠のいのちが本当なら、すごいことじゃないですか。三河弁で言ったら、どすごいことです。宗教とか抜きにして、本当に永遠のいのちがあったら、世界中、誰であっても絶対に欲しいはずです。なんと聖書の中心テーマは、「永遠のいのち」です。

 実は、このヨハネ三章十六節は、聖書の中の聖書と呼ばれて、大変有名な箇所ですが、この訳は、ちょっと荒っぽい訳だと言われます。
 聖書の翻訳とは、元々新約聖書はギリシャ語で書かれましたから、ギリシャ語を日本語に直しているわけです。ですから、訳の中には、様々な世界観が入り込むわけです。以前にも、世界観についてお話しさせていただきましたが、例えば、山と言っても、自分たちがいつも見ているような山を想像しながら山という単語が訳されます。様々な世界観が入り込むのは、やむをえません。キリスト教の歴史は二千年もありますから、二千年の歴史の中で、やはり様々な世界観が入り込んで、特に、新約聖書の翻訳の中には、ギリシャ的な世界観が紛れ込んでいるというのです。
 実際は、初代教会に関わった弟子たちが、どういう世界観でこの箇所を読んでいたのかを知らないと、聖書の真理をつかみ取ることができないわけです。
 ヨハネ三章十六節は、有名な箇所ですが、ここには、プラトン主義的な思想、それはギリシャ思想ですが、それが紛れ込んでいて、本質から外れた訳になっているというのです。
 後半の部分、『ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』を、初代教会のクリスチャンたちは、どのように捉えていたかというと、「神による新しい時代のいのちを共に生きる。」と受け取っていたというのです。

 現代人は、「永遠のいのち」と聞くは、「死後のいのち」と考えてしまいます。死んだ後も、ずっと生きることができると捉える傾向があります。「明先生は死んだ。天国に行ったんだね。永遠のいのちの中に入ったんだね。」と捉える傾向です。しかし、いつもお話ししているように、永遠のいのちとは、死後のいのちではないのです。永遠のいのちとは、「死後のいのちの、後のいのちと」して、当時のユダヤ人たち、初代教会の人たちは受け取っていたというわけです。聖書を先入観なしに読めば、そのことが分かるはずですが、異なった世界観が挟まりますから、永遠のいのちを、死後のいのちのように考えてしまうのです。しかし実際はそうではなくて、「死後のいのちの更に、後のいのち」だというのです。
 ですから、当時のクリスチャンたちは、永遠のいのちを、今言ったように、「神による新しい時代のいのちを共に生きる」と受け取っていたというのです。
 聖書のゴールは、やがてイエス様がこの地上に帰って来られて、新しい天と新しい地を創造されて、イエス様が王となって、新しいいのちで共に生きる時代が訪れるのです。初代教会のクリスチャンたちは、そのような世界観でこの言葉を受け取り、励まし合っていたわけです。
 そして、「主イエスの復活を非常に力強く証ししていた」というのは、やがて目の前に、新しい天と新しい地が創造され、天国が実現すると言うことを固く信じて語っていたはずです。新しいいのちの中、主と共に過ごす時代が来るのです!弟子たちは、そのことを一番強調していたのです。その先駆けとして、イエス様はよみがえられたのです!だから、それは必ず起きますよ!と人々に話していたのです。その時、大きな恵みが一人一人の上にとどまっていたのです。

 やがて、目の前に、神の国が実現して、イエス様が世界の王となって、私たちは永遠のいのちを、この地上において受け取り、主と共に過ごすことができるのです。そんな日が来る事の証人が、クリスチャンです。

 イエス様が十字架にかかって死んでよみがえるという、三日間のプロセスの中には、普通では考えられないすごいことが起こっています。もしもこれが歴史的事実ならば、人類にとって、本当に大きな希望です。マタイが信じられない事件をレポートしています。
 マタイの福音書二十七章五十節〜五十三節。これは、イエス様が十字架の上で息を引き取られた瞬間の事が記されています。

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。』

 みなさん、この記録を信じることができますか?本当なら、超すごいじゃないですか。イエス様が十字架にかかって死なれた時、神殿の幕が破れたというのです。当時の神殿には、聖所と至聖所を隔てる幕がありました。至聖所には、一般人は絶対に入ることができなかったのです。しかし、その幕が破れたというわけです。これは何を意味しているのでしょうか。
 それは誰でも、神の前に、恐れなく近づくことができる時代が到来したことを意味します。それと共に、やがて、幕が破れる日が来ることを示唆しています。
 今、私たちは、イエス様がすぐ側におられても、幕があるのです。だから、イエス様を見ることはできないし、触ることもできないのです。でも、イエス様はすぐ側におられます。
 今日の科学と合わせて説明するとわかりやすいかもしれません。次元の幕と言ったらわかりやすいかもしれません。私たちは、現在、三次元の次元の中に住んでいます。もしも四次元というような、高次元があったらどうでしょう。今日の科学は高次元があることを告げています。高次元から、低次元はお見通しだけど、低い次元に住んでいる者たちは、高次元を見ることはできないです。
 例えば、床は平面です。床の上にいる虫は、三次元の世界に住む者たちからは、どこからでも見通すことが出来ます。「あっ、あそこにゴキブリがいる!」とか、すぐ分かるわけです。しかし、平面に住んでいる生物は、自分たちを常に把握している三次元の世界に住む生物を見ることはできません。
 神様は次元を超えた方、次元さえも創造された方ですから、私たちは低次元の生物として、神の中に生き動き、存在しているのですが、やがて次元の幕が破れる時が来て、イエス様ご自身を見ることができる日が来るのです。イエス様と会うことができる。そして、先に死後の世界に入った人たちも、幕が破れると、飛び出して来るということではないでしょうか。イエス様が帰って来られる時には、そのような事が起こるはずです。

 新城教会の納骨堂は、今や、満員です。百名以上の人たちが入っていて、これからどうしようかと考えています。どこか良い所に、お墓を作らないといけないなと思っているのですが、現在の納骨堂はロッカーの中に遺骨が納められています。しかしよみがえりの時には、幕が破れる時には、教会の屋上のほうから、百人くらいが飛び出してくるはずです。そんなこと、普通では信じられないです。
 昨日、息子がミュージックスクールに来て、一緒に、例の、たみぃちゃんという孫が来ました。以前、「新城の順じいじの所に行くよ!」と言ったら、「えっ?順じいじ?順じいじは死んだんじゃなかったの?」と言った孫なのですが、彼女は本当にユニークです。この頃は、死んだのは明じいじで、生きているのは順じいじということがわかったみたいです。昨日はたみぃちゃんの誕生日だったから、一緒にサティに行って、自転車を買ってあげました。「順じいじは生きているでしょ」と言ったら、「しってるよ。」と言っていました。
 新城まで来る途中、「今日は、順じいじの所に行くんだよ。明じいじはいないよ。」と言ったら、「うん。明じいじは、もう箱の中に入っちゃったから。」と、彼女はよく分かっていました。そうしたら、息子が納骨堂の事を話して、「もしかしたら、明じいじはよみがえっているかもしれないよ。」と冗談を言ったら、「でも、鍵がかかっているもん。」と彼女は言っていたそうです。
 よみがえりの日は、納骨堂の鍵なんか関係ないのです。鍵がかけてあったって、幕が破れたら、死後の世界の人たちが飛び出して来るはずです。

 マタイは何気なく記しているのですが、超すごいレポートです。幕が破れて、死人たちが飛び出したレポートです。これは新しいいのちが始まった時の象徴的、預言的出来事であったと思われます。これが宗教の世界ではなくて、現実の世界に起こったとしたら、えらいこっちゃですよね。私たちは、そのような世界に生きる者たちなのです。
 クリスチャンというのは、決して、宗教に入っているとか、宗教家ではないのです。天地宇宙を造られた神を認めている者ですから、これらの記述を事実として、当然として認めるのです。
 当時のクリスチャンたちが、イエス様のよみがえりを非常に力強く証ししていたのは、実際に、このような現実に接したからでしょう。やがて新しい世界が、この地上に実現するんですよ!と。私たちはその証人なんです!と。その代表として、イエス様はよみがえられたのです。死んでいた聖徒たちさえも、十字架と復活を通して、飛び出て来たじゃないか!と、自分の目で目撃した者たちは、その事を、火の玉のようになって、人々に伝えていたはずです。
 私たちも、幕が破れる日が来ることをしっかりと捉え、その日を目指して、前進していくことが重要だと思います。

 聖書の中に、新しいいのちが実現するためのプロセスが示されています。特に、大きな柱として、私が考えるところで、四つくらいあるのではないかと思います。
 まず第一は、「奴隷からの解放」という救いの原点となる柱です。聖書の最も大きなストーリーは、エジプトに長いこと奴隷として捕まっていたヘブル人たちが、解放されて自由になったという、「奴隷からの解放」です。モーセをリーダーとして、ヘブル民族が解放されたわけです。
 先週も天野先生がプリンス・オブ・エジプトというDVDをちょっと上映されましたが、紅海を渡るという奇跡を通して、奴隷であったヘブル民族が決定的に、エジプトの奴隷から解放されたのです。

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 聖書を見ますと、「水をくぐって救われる」という第二のテーマがあることに気づかされます。

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 その後、ヨルダン川を渡る時にも川の水が分かれる奇跡が起こっています。ヨルダン川が裂けて、水をくぐって救われたわけです。

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 また、イエス様ご自身も、バプテスマを受けられました。これも、水をくぐって救われる象徴です。

 奴隷からの解放があって、その後、水をくぐって救われるというテーマは、クリスチャンが誰も体験していることなのです。

 奴隷からの解放は、究極的には悪魔の手からの解放です。悪魔に捕まえられていた人たちが、救われ、解放されることを意味します。
 今日、午後から霊的戦いセミナーをさせていただきたいと思うのですが、奴隷解放というテーマでお話をさせていただきます。私は日本に奴隷制度が、どのように影響しているのか、長年、興味があって祈っていたのですが、この頃、その点について気づかされて、その事についてお話しさせていただきたいのです。
 それは日本で最もタブーとされている領域の話ですが、午後からお話しさせていただきます。日本にもかつて奴隷制度が長きに渡ってあり、今もその影響が強く残されています。実は、日本の社会の中で、一番口にしにくい事は何かというと、「被差別部落」についてです。みなさんもご存じかもしれませんが、差別された人たちがいるのです。日本全国にどのくらい差別部落はあるかというと、六千あるそうです。そしてそこに属する人たちは、三百万人もおられるのです。これは大きな社会問題です。
 実は、その根源に、奴隷制度が関わっています。その領域をしっかりと理解し、とりなして祈っていくのは、日本人が救われ、解放されるための重要なカギじゃないかと感じています。午後からお話しさせていただきますので、これ以上はここではお話ししませんが、何しろ、奴隷からの解放は、聖書の大きなテーマです。

 そしてもう一つ。「水をくぐって救われる」は、イエス・キリストを信じて救われるのですが、聖書には、「信じてバプテスマを受けるなら、救われる。」とあります。信じることと、救いの間に「水」があるのです。
 実は今日、感謝なことに、二人の方が洗礼を受けられます。小林さんと大島さんという方です。いずれも、少しご高齢のお方です。七十代以上の方々です。お二人が、今日、水をくぐるのです。年を取ってからイエス様を信じて、洗礼を受けるとは、なかなかの決断です。よくぞ決断されたなぁと思います。感謝なことですね。でも、水をくぐるということは、重要なのです。後から、そのテーマについても触れたいと思います。

 一番が奴隷解放、二番目が水をくぐる。そして三番目は、十字架です。十字架とは「贖罪」です。贖罪とは、罪をつぐなう事です。難しい言葉ですね。キリスト教用語には、結構難しい言葉があります。贖罪とは、罪をつぐなうことです。イエス様が十字架にかかられたのは、私たちの罪をつぐなってくださる為でした。
 「イエス様の十字架が分からないと、クリスチャンにはなれませんよ」と、よく聞きますが、案外、そうは言うものの、実際、イエス様が十字架にかかってくださった理由は、よくわかっていません。そのことを論じるのを、贖罪論というのですが、結構いろんな説がありまして、定まっていないところがあるのです。「私は分かっています」なんて言いながら、実は、分かっていないと思われます。
 贖罪、罪をつぐなうとは、例えば、借金をしていて、罪をつぐなうなら、百万円借金したら、百万円支払わなければ、つぐないは完了しません。人の罪をイエス様が十字架上で身代わりとなって、つぐなってくださったということですが、借金は、神様に対する借金なのか、それとも、悪魔に捕らわれていたということは、悪魔に対して借金があったのか。どちらか。どちらの方向性を取るかで、全然、十字架の意味についての理解も変わってきます。
 今、日本のキリスト教会の考え方は、罪とは、父なる神様に対しての借金だという考えが中心です。だから、イエス様が十字架で、父なる神様に借金を返してくれた。ゆえに人の罪は赦されたと捉えています。
 でも、聖書を見ると、我々は、悪魔の奴隷になっていたわけですから、悪魔の奴隷とは、やはり、敵に対して代価が払われなければならないわけです。昔、実際に奴隷を救い出すためには、それなりのお金が払われました。ということは、イエス様の十字架が、悪魔に対して代金が支払われたという、どちらを取るかで、十字架の意味も変わってくるわけです。でも案外、そういうところって論議されません。

 十字架の意味をしっかりと教えているのは、コロサイ人への手紙二章十二節〜十五節ではないかと思われます。これは、バプテスマ式の時に毎回、読ませていただく箇所ですが、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 ここを見ると、「罪の赦し」と、もう一つ、十四節。「債務証書が無効になる」という二つの側面があることに気づかされます。罪を赦すことができるのは、神以外にはないです。悪魔も、人も、罪を犯しても罪を赦すことはできません。神様しか、「あなたの罪を赦してあげますよ!」とは言えないのです。罪の赦しに関しては、神に対して、借金が支払われたことになります。
 しかしもう一つ、債務証書は敵に渡っているのです。十五節には、『すべての支配と権威の武装を解除された』とありますが、これは悪魔に対してのことです。ということは、イエス様の十字架は、神様に対する借金だけではなく、悪魔の手に渡った権利を十字架によって、取り戻してくれた!ことになります。この両面があるのです。どちらか一方では不十分で、両面必要ということです。

 新約聖書は、旧約聖書的背景から記されています。新約的考えのモチーフとなるのは、旧約聖書のユダヤ教の中に隠されているものです。
 今でも、ユダヤ人が最も厳かな日として守っている日があるのですが、それが、贖罪に「大」をつけて、「大贖罪の日」というのが、ユダヤ人の祭りの中で、最も厳かな日です。大贖罪の日とは、大があれば小があるというわけではないのですが、大贖罪の日には、ユダヤ人たちは断食をして、神の前に悔い改めの時を持ちます。

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 大贖罪の日は、「ヨム・キプール」と呼ばれ、年間一度あるのですが、今年は九月二十三日がヨム・キプールの日でした。ヨム・キプールに、どういう事が行われていたかというと、レビ記十六章に記述があります。サマリヤ教団の人たちは今でも行っている儀式です。

『アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。』

 大贖罪の日には、やぎを二頭選んで、一頭は主のために捧げます。しかしもう一頭は、「アザゼルのため」といって、荒野に放つのです。
 アザゼルが何であるのか、どういう行為だったのかは意味不明なところもあるのですが、この頃、いろんな研究がなされて、アザゼルとは、ヘブル語の語源の分析などからも分かるのですが、「荒野に住む悪魔」と当時のイスラエルでは捉えられていて、「アザゼルのため」とは、荒野に住む悪魔の生け贄として、やぎを放したというのです。

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 ある時は、崖からやぎを突き落とすような儀式をしていました。実は、このアザゼルのためにやぎを荒野に放す前に、どのようなことがなされたかが、レビ記十六章二十一節〜二十二節に書かれています。

『アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。』

 祭司は、やぎの上に手を置いて、イスラエルのすべての罪、これは国家的な罪ですね。また民族的な罪、個人的な罪を、全てやぎの上に乗せてから荒野に、「アザゼルのため」と宣言して放ったのです。これは、先ほど読んだ、コロサイ人への手紙の二章のところと合わせると、贖罪が、神のためと、悪魔に渡った債務証書を勝ち取るためであった、十字架の意味につながります。すごいことだなぁと、私は思います。
 イエス様の十字架は、私たちの罪を赦すのと、もう一つは、悪魔に渡った債務証書を無効にしてくださったのです。そして、水をくぐって救われる。バプテスマを受けるのは、たいへん重要なことで、神様に対する罪、悪魔・悪霊どもに渡った債務証書をすべてチャラにしますよ、と言っているわけです。今日、二人の方が洗礼を受けるのは、すばらしいことですね。

 コロサイの二章十二節には、『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』と、「キリストとともによみがえらされたのです。」とあります。
 なんと、この地上で主と共に生きることは、立場的には、「死後のいのちの、後のいのちに生きている」ということです。
 「明先生も死んだ。きっと死後の世界で、我々のために力強く祈ってくれているだろう・・・。」などと思いますが、死後の世界に入った人と、生きている人の、どちらに権威があるのかといったら、死んだ人は、「死後のいのち」です。でも、地上で、イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けた者たちは、「死後のいのちの後のいのち」で生きていることになります。
 ということは、生きている人に権威があるのです。死んでしまったら、死後のいのちになってしまいます。イエス様を信じて今、生きていることは、新しい天と新しい地が実現しなくても、立場的には「新しいいのち」に生きていることです。すごいことじゃないですか。もっと私たちは、その立場を強調しないといけないのです。
 何か、死んだ人たちのほうが、優れたいのちを持っているように思っていますが、死んだ人たちは、決して優れたいのちではないのです。生きているクリスチャンのほうが、よっぽどイエス様と共によみがえった、権威ある立場で生きているわけです。ゆえに、生きている時が花です。だから、生きている間に、私たちは、この立場と権限を使うべきです。この権威、立場を使って神様に仕え、この地の管理人として、働くことができるのもそれゆえです。
 水をくぐって救われ、新しいいのちに生きることができる、クリスチャン生活って、すごいことではないでしょうか。

 私たちは、この新しいいのちの証人となるのですが、イエス様だけではなく、私たち自身も、新しいいのちの証人なのです。イエス・キリストを信じて救われました!というのは、新しいいのちに生きる者として、人々に自分自身を証しすることになるわけです。一人でも多くの方が、この新しいいのちに生きるようになるために、私たちは福音を伝えなければならないのです。
 やがてイエス様が帰って来られて、幕が破れる時、新しいいのち、死後のいのちの後のいのちが現実のものとなります。立場だけではなくて、現実のものとして、この地に現されるわけです。その日を目標にして、私たちは歩んでいかなければならないのです。

 初代のクリスチャンたちが、「主イエスの復活を非常に力強く証しした」のは、その事に関して、しっかりとした理解があったからです。最も大切な真理を掴んでいました。ゆえに結果として、「大きな恵みが一人一人にあった」のは、当然のことだと思います。
 案外、クリスチャンとして生きる時、「小さく、弱い者です。助けてください。」というような、消極的な信仰に生きることが多いのですが、もちろんそういう面もあります。不自由なからだの中に生きていますから。しかし、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者たちは、水をくぐって何が起こったのかといったら、新しい地が創造される前に、すでに死後のいのちの後のいのちに生きているということです。なんとすばらしいことではないでしょうか!
 罪のためのすべての支払いは、神に対しても、敵に対しても、終わっているわけです。私たちの立場は、相当、優れたものだということです。自分の立場に気づく時に、大きな恵みがその上にあるわけです。

 主の夢をかなえるために必要なのは、「立場をしっかり理解すること」ではないかと思うのです。新しいいのちの証人となって、この地を管理し、イエス様が帰られる道を用意するなら、遠からずして、主は帰って来られ、幕が破れて、先に死後の世界に入った人たちは飛び出して来るし、私たちの立場も現実となって、この地で永遠に暮らすことができるというのが聖書の結論です。神による新しい時代のいのちを、共に生きる者となるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、神による新しい時代のいのちを共に生きるようになる。」

 これが聖書の真理です。今日、ここにおられる方、全員がその立場にあります。今から、聖餐式を行いますが、聖餐式も、新しい時代を共に生きること意識して行うものであります。イエス様の十字架は、神に対して、また敵に対して、すべて支払いが済んでいることを表します。今日はそのことを意識して、みなさんで共に、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。今、私たちは、新しい時代のいのちを共に生きる者として、この場に立っていることを、心から感謝します。主よ、私たちが生きている間、私たちはこの権限をしっかりと受け止め、新しいいのちに生きることができるようにしてください。
 初代教会のクリスチャンたちのように、主の復活を非常に力強く証しすることができますように。今日はそれを完成してくださったイエス様の十字架と、復活を、共に祝うことができることを心から感謝します。四本目の柱である復活を、私たちは力強く宣言して聖餐式を行います。ここに出されているパンとぶどうジュースを、聖霊によって、み言葉によって、よみがえりのイエス様と一つになることができる時としてください。イエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。