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2016 ニューイヤー・
カウントダウン・メッセージ

2015年12月31日(日)
新城教会牧師 上條実
四元雅也
公畑フェルナンド
滝元開
岡本信弘

≪上條実 牧師≫

 ハレルヤ!今年一年間みなさんにお祈り頂き、今この場所に立たせて頂けますことを心から感謝いたします。二〇一五年は様々な出来事がありました。家族では家内が病気になりましたが、皆さんのお祈りと愛の支えにより守られています。また三男が感謝な事に、Y姉と婚約することができました。二〇一六年三月十九日土曜日、結婚式の予定ですので続けてお祈り下さい。また次男のところに今日の午後四時四十分に男の子が生まれました。十真(とうま)という名前にしたそうです。こ偽りの多い世の中で、真実の十字架のみ見上げて欲しいという意味を込めて「十真」と名付けたそうです。お産もとても守られ、分娩室に入って、たった五分も経たないうちに生まれたそうです。お祈りを感謝いたします。

 私が去年ここに立たせていただいた時に、語らせていただいたみことばが、イザヤ書四十二章九節でした。

『先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」』

 二〇一五年は、新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせようと神さまが言われている。神の声を聞き、先取りのとりなしをさせて頂き、備える人生。勝利を頂く二〇一五年にさせて頂こうと語らせて頂きました。そしてそのためには聖さが必要であり、神の前にへりくだりも必要であると語り、勝ち取る二〇一五年とさせて頂きましょう。とメッセージを語らせて頂きました。
 しかし二〇一五年を振り返ると、戦後七〇年と言うことから、4月から「沖縄七〇リバイバルミッション」という名称で、沖縄県の各教会にて七〇箇所集会を計画させて頂きました。そして六月二〇日と二一日に沖縄県の教会合同で、ファイナルの集会をする計画をさせて頂きました。感謝な事に各教会にて百回の集会を開催することができ、ファイナルの集会をあわせて約七千人に福音を伝えることができました。大変恵まれた集会でした。 しかしその「沖縄七〇リバイバルミッション」では、多くの教会で力強いメッセージをしてくれた父が、八月一日には天に凱旋していきました。また家内も病気で苦しみ、なぜ?こんな事が起きるのだろうか?なぜ?と、自分の中で問いただした一年でした。

 そんな中で、二〇一六年のみことばを求めて祈りました。すると神さまは私にイザヤ五十五章八節~十一節を教えて下さいました。

『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 このイザヤ書五十五章八節からのみことばは私と私の家族だけでなく、この新城教会にも語ってくださったと信じます。二〇一五年のはじめは戦後七十年ということで、霊的に大きな期待と勝利を信じて始めました。確かに沖縄においても、インドはインパールやナガランドでの大会を通して和解と勝利を見せて頂きました。しかし先ほど言ったように、父が亡くなり、家内も病気になり、祝福がある反面どうしてこんな事が起きるのだろうか?と心騒がせる出来事がありました。そんな中先ほど読んだイザヤ書五十五章八節をリビングバイブルで読むと、

『わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、わたしの思いはおまえたちの思いと同じではない。天が地より高いように、わたしの道はおまえたちの道より高く、わたしの思いはおまえたちの思いより高い。』

 様々な問題が起こり、神の国の実現のために前進しているのではなく、かえって後退してしまったのではと考えてしまう出来事がありながらも、神さまはこの五十五章八節で、神さまの計画はおまえたちの考えつく計画とは違う。神さまの思いはおまえたちの思いと同じではない。それも天が地より高いように、わたしの思いはおまえたちの思いより高いと言っています。「おまえの考えとわたしの考えは違うんだ。」とみことばを通してはっきり語ってくださいました。第一コリント八章六節には

『私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。』

 私たちは自分で生きているのではなく、神のために存在している。分かりやすく言えば、神さまに私たちは生かされているのです。だから様々な問題が起きたとしても、神さまが私やこの新城教会のプランをお持ちであるので、信仰を失わないで前進しなさい!と、慰めの言葉を語ってくださいました。わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、天が地よりはるかに高いように、わたしの道はおまえたちの道よりはるかに高く、わたしの思いはおまえたちの思いより高い。となぐさめと期待を与えて下さいました。そして五十五章十節~十一節では、

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 雨や雪が降ったら、それは必ず地にしみこみ地を潤します。それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えて下さる神。神の口から出ることばは絶対にむなしく、わたしたちのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させると教えて下さいました。安心しなさいと語って下さったのです。

 十月末のインターネットでのニュースにこんな出来事が掲載されていました。それはチリ、ペルー、ボリビア、アルゼンチンにまたがる二千メートル級の、世界で最も渇いた場所とされるアタカマ砂漠での出来事に私はびっくりさせられました。それはもう一度場所を確認すると

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 このアタカマ砂漠は死への道と恐れられて、世界で最も降水量の少ない地域だそうです。

 こんな過酷な場所、アタカマ砂漠に奇跡が起こりました。三月、歴史的な豪雨があったそうです。一年間でも数ミリしか降らない所なのですが、なんと一日で七年分の雨が降ったそうです。その雨が地にしみこみその後、どうなったかというと、見てください。

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 このような花畑になったのです。一面花畑になりました。今年3月に歴史的な豪雨による洪水が発生し、約30人の死者が出るほどの豪雨が降り、この大雨が砂漠に異変をもたらしたのです。今回できた花畑は規模がとてつもなく拡大、これまでに見たことのないほどの広大なエリアに広がり、砂漠地帯一帯が壮大な花畑となったとのことです。それも3月の大雨とエルニーニョ現象の為に、なんと2回も花畑になるという現象が現れたそうです。地表近くで「冬眠状態」となっていた花の種が、今回の大雨で一斉に目を覚まし開花しました。花は種類によって違うそうですが、何千年もの間冬眠し続け、環境が開花に適した状況になるまで待ち続け、気温や日射量や水分が開花にふさわしい状況になった時、咲き始めるそうです。水がなく、死への道と恐れられていた場所に花園が現れたのです。
 私はこのニュースを見た時に、私と私の家族、そして新城教会と日本にも同じことを起こして下さることを信じました。今まで私たちは祈って来ました。奉仕してきました。また毎週礼拝に出席し、献金を献げ、神に仕えて来ました。しかし現実を見つめると悲しくなります。失望します。苦しみます。しかし、私たちの神さまは祈り求めてきたことは絶対に無駄にしない。今がどんな状況であろうとも、神さまは必ず私と私の家族にも、またこの教会にも芽を出させ、花を咲かせてくださる。冬眠状態であった霊的な状況が、大きく開花する年になると教えてくださいました。

 もう一度、イザヤ五十五章八節から九節のみことばをお読みしたいと思います。

『わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、わたしの思いはおまえたちの思いと同じではない。』

 クリスチャン人口がたった〇・二パーセントくらいの日本です。そんな状況の中で、私たちの教会は一生懸命リバイバルのために求め続けてきました。しかし全く動かず、死んでいるのではないかと、リバイバルをあきらめてしまっている状況かも知れません。しかし神さまの計画は私たちが考えるのとはるかに違う。私たちが見たことも聞いたことも考えたこともない大きな祝福を与えてくださると教えて下さいました。二〇一六年は、生きることができないような日本であって、霊的に砂漠のような状況であったとしても、大きな花畑を作っていただきたい。圧倒的な勝利と祝福を見せていただきたいと思います。私はその砂漠が花畑になった記事を読みながら、雅歌二章のみことばを思い出しました。雅歌二章八節~十七節をお読みします。

『愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に 聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。』

 このみことばが賛美にもなっていますが、今まで本当に我慢してきたことが、今度は新しい、神様の計画の中で大きな勝利を見せていただく年であることを本当に願って、待ち望みましょう。信じましょう。死んだところが生き返るのです。最後にイザヤ書三十七章一節~十節をお読みします。

『主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

死んで干からびた骨に預言して、「干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」と命じると骨がつながり、今度は「息よ四方から吹いてこい。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」と預言すると生き返り自分の足で立ち上がった。それも非常に多くの集団であったとあります。
私たちは信じて預言しましょう。聖霊さまは教会に対しても、日本に対しても、ましてや私と家族に対しても、死んだ者が生き返る。渇いた地が花園になるように信じましょう。最悪な状況に見えたとしても、主は、私たちが考える思いとは違うことをしてくださるという約束を語ってくださったことを信じます。これが私に対して、また教会に対して語ってくださった二〇一六年のみことばであることを信じます。ハレルヤ!

≪四元雅也 牧師≫

 ハレルヤ!二〇一五年もこうして、一年間、神様の前に守られて、また今年最後の集会にこうして参加できますことを感謝します。
 また、私の家族も一年間、みなさんのお祈りに支えられまして、今日この場所に全員いますことも、本当に感謝します。
 今年は、個人的な話なのですが、個人的にも一つ節目な年でありまして、結婚して二十周年になりました。一九九五年の十一月十一日に結婚しました。その年は、新城教会の結婚ラッシュイヤーでした。朏夫妻もそうです。あと、公畑フェルナンド先生夫妻、岩井勝夫妻、今松さんもそうです。石塚さんも、宮木さんも、鈴木剛夫妻もそうです。その年は、二ヶ月に一回ペースで結婚式がありました。その後、ベビーラッシュも続いて、私たちの年代に子どもたちが新城教会に大勢います。

 今年も先ほどのスライドにもありましたように、一月には有川夫妻が誕生しまして、六月に僕は中国の張さんの結婚式にも参加させていただいて、また同じ六月に、みなさんにも6月の礼拝の中でご紹介したのですが、浜松の大村兄弟の結婚式があり、七月には佐野満君たちの結婚式があったり、上條聖都君たちの婚約式があって、来年三月には結婚式と、今年もその時に近い結婚ラッシュが来たなぁと思っています。ぜひ、またこれに続いて、若者たちが、主にあって良い結婚に導かれるようにということを二〇一六年に向けて期待しております。
 もしも結婚のために何か相談がありましたら、秘密厳守で無料でやらせていただきますので、是非私のほうにご相談いただければと思います。


 来年のために与えられたみ言葉は、ヨエル書三章九節~十節、

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

 十二月に入った頃から、二〇一六年に向けて、み言葉を求め始めたとき、この「聖戦をふれよ」というフレーズが心に響いてきました。
「聖戦をふれよ」というと、今の世界情勢を見ると、ちょっと物騒な言葉です。
 「聖戦」を辞書でひきますと、「宗教的に神聖とみなされる、正義のための戦争」と書かれております。現代「聖戦」と聞いてあまり良いイメージが浮かばないです。
 特に、IS(イスラム国)が好んで「聖戦」という言葉を使うからです。
前の礼拝で順先生が、先日、道を走っていたら『「アイエス生命保険」という看板を見てちょっと驚いた』という話をされていました。その後、昨日になって事務所にこんなものが貼ってありました。

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 「アイエス労務士事務所」と書いてありまして、またまたびっくりしました。「アイエス」という名前を結構社名で使っているんだなぁと思ったのですが、社名にした人たちにとっては、はた迷惑なことなのか、逆に一度で名前が覚えられて良いのか、どっちかな?と思います。

 ISは、支配している地域の民を恐怖で締め付けていますね。「イスラムか?さもなくは死か?」という感じです。また、テロや武力で恐怖を与えて土地を支配し、既成の政府には敵対し、軍事行為を通して革命を起こそうとしています。それで政府側と戦争になっているわけです。西欧諸国は政府側を助けているものですから、ISは西側諸国にも「悪魔の手下だ」「異教の征服者だ」とか言って、無差別テロなんかをして、恐怖をもたらそうとしているわけですね。そこに都合よく「神」を引き出して、「これは聖戦である」というふうに自分たちを正当化しているのです。

もちろん聖書がいう「聖戦」とは、そのような恐怖を与えるものではありません。でも、「聖戦」は、先ほど辞書にあったように、「神様の意志を含んだ神聖な戦い」という側面があるということには疑いの余地はないのです。
 ウィキペディアに、「聖戦」の意味について、こんなふうに書かれていました。

Wikipedia:『聖戦』
人類の歴史の草創から見られる現象である。古代、都市国家と都市国家の間の戦争は都市の究極的な所有者である守護神同士の間の戦争であると信じられてきた。古代人は、敵と戦って打ち勝つことを、単なる世俗的な利害の勝利とは考えず、自分達の信じる神が、地上の悪と不正義を一掃する行為を代行しているのだと考えた。

 私たちは、どちらかというと、戦争よりも平和を求めますし、またこの人生においても、波瀾万丈の人生よりも、安定した人生を求めます。
 日本では、一九九〇年代にバブルが崩壊して以来、二十年間に渡って、経済の低迷が続きましたが、その中で安定志向がますます強くなっていると思います。人々が大きな夢を追いかけるというよりは、現実的な将来像を思い描きます。夢を思い描いて海外に留学する学生も減ったというのです。

 特に、今年は「戦後七十年」が、大きなキーワードというか、ある種「非戦」のスローガンのようになっているところもありましたよね。社会でも平和が語られて、平和の歌が世間でも流行っています。昨日の夜、集会がなかったので、家でぼーっとテレビを見ていたら、日本レコード大賞で、AKBが平和の歌を歌っていましたし、沖縄戦の悲しみを歌う曲も歌われていました。戦後七十年を象徴する歌です。あぁ本当に今年は日本中で平和(非戦)をもう一度見つめ直す年だったなぁと思わされました。

 私たちが行っているリバイバルの働きの中でも、平和がクローズアップされていまして、ナガランドでは和解の祈りがささげられ、象徴として剣が置かれる、そういった預言的な行為がなされていました。

 一見、「平和」と「戦争」とは相反するというか、互いに同時に成り立たないような気もするのですが、聖書の中で見ると、平和と戦いというのは、決して矛盾するものではないと思います。
 むしろ、主の戦いの勝利の結果として、神様の平和が訪れるということが、聖書を見ると描かれているのを見ることができます。第一テモテ人への手紙六章十二節には、

『信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。‥』

 またローマ人への手紙十六章二十節を見ますと、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。‥』

と書かれています。先ほど読んだヨエル書三章十節では、

『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

と書かれています。

 聖戦とは何か?またその相手は誰かと考えると、私が言わなくても、みなさんよくおわかりだと思うのですが、究極的には悪魔とその勢力に対する戦いであることに疑いの余地はありません。悪魔は「吠えたける獅子のように私たちクリスチャンを付け狙っている」とも書いてあります。

 まず第一に、悪魔は私たちを罪の誘惑を通して、神様から引き離そうとしています。第一ヨハネ二章十六節、

『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』

 「この世」を支配している者はサタンなのです。
「目の欲」とは「好奇心」。手を伸ばさないまでも心でそれを慕い求める時に、それは目の欲になって、神様から私たちを引き離す力になっていく。「肉の欲」とは、それが行動に移って、一つの行為に対して、必要以上に執着していく。私たちが持っている欲に対して、必要以上に執着していく時に、それが肉の欲になって、それが神様から私たちを引き離すものとなっていく。
 また「暮らし向きの自慢」というのは、人よりもなるべく高くなることへの執着であります。これらのことを神様は「罪」と言うわけですね。

 そして、第二番目は、私たちから希望を奪い、失望、落胆させる。失望、落胆すると、神様への信頼・期待もなくなる。ヘブル人への手紙六章十一節を見ると、

『そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。』

というふうに書かれています。

 そして、第三は、偽りを信じさせ、心理から引き離して無力にさせる。詩篇八十九篇八節を見ますと、

『万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。』

 ここで、「あなたの真実」が、「力」と関連して描かれています。悪魔はエバを偽りで誘惑し、善悪の木の実を食べさせたわけですよね。これらの悪魔からの挑戦に対して、私たちは戦い続けなければならないということです。

 もう一つは、やはり福音宣教の戦いであります。先ほど、二〇一五年のスライドを見て、またその後に、明先生の一生をダイジェストで、写真に綴ったものを拝見して、一年間をもう一度振り返って、また私自身も明先生から受けた恩を振り返って、胸が熱くなりました。
 神様がこの教会において、明先生に始まって、今日に至るまで、救いの業を拡げてくださって、また様々な働きを拡大し続けてくださいました。これは本当に神様の戦いですよね。私たちがその戦いに携わらせていただくことができました。そのことを本当に感謝したいと思います。

 そして、明先生が天に帰られてから、ヨシュアの時代というふうに教会の中で語られるようになりました。やはりヨシュアの時代を考える時に、それは戦いの時代であります。今まで約束の地に向けて前進を続けてきたイスラエルの民が、いよいよヨルダン川を渡って、土地を獲得するための戦いを、これから展開していく。そういう時代が始まったと言われています。
明先生は夢見る人でありまして、先生を通じて、様々な働きが教会の中に、現実のものとして現されて来ました。明先生は絶えず何かに挑戦されている方でした。

 そんな先生もこの地上にはおられなくなったわけですが、これからの新城教会、この主の働きは、まさに私たちにゆだねられているわけです。私たちがヨシュアの世代として、約束の地を勝ち取るための戦いをこれから進めていくわけです。

 そんなことを考えていくと、実に、今、この時は、「聖戦をふれよ」と、神様がイスラエルの民に語られたその時と、ぴたっと来る、そんな時ではないかと思わされました。それを私たちが理解して、全ての戦士、子どもからお年寄りまで集めて戦う必要があるのです。

 十節に、「鍬や鎌を剣や槍に打ち直す。」という言葉が書かれていましたが、これは、今まで農業の道具だったものを戦いの武器にすることです。私が、あなたが、今まで生きてきた道、その産業、職業、得意分野、あなたの人生を支え、豊かにするために、あなたが使っていたものを、戦いのために、神の国のために転用していくということです。あなたの賜物をもって、主に仕えていくことを、このみ言葉を通して、私たちは教えられることができます。

 新城教会の二〇一六年が、主が生きて働かれ、豊かな実を結んでこそ、今日までのリバイバルの激しい戦いが生きていくのです。

 二〇一五年は、後の日になって振り返ったとき、新城教会にとって大きな転機の年であったといわれるような年であったと思います。しかし、「あの時以来、新城教会も、リバイバルミッションもパッとしなくなった。元気がなくなった。あのリバイバルは今どこに?」なんて言われるようなことにだけは、なってほしくないです。「あの時から、新城教会は火がついたように本気になりましたね。」とか、「次の世代が出てきてリバイバルために働きを担うようになりましたね。」と主にあって言われるようになっていきたいと思います。神様の栄光のために戦う教会として、神様が私たちに「聖戦をふれよ。勇士たちを集めて上らせよ。そして鍬を剣に、鎌を槍に打ち直せ!」と言われていると思います。「弱い者に私は勇士だと言わせよう!」というふうに語っておられる、そのような時と信じて、そして神様からのメッセージとして、私たち一人一人、受け取らせていただいたら、本当にすばらしいなと思います。そのような祈りを神様の前に捧げて、前進していきたいと思います。

≪公畑フェルナンド 牧師≫

ハレルヤ!感謝します。今年、私たちのために、インターナショナル部会のためにも祈ってくださって、本当に心から感謝します。二〇一六年のためにも是非祈ってください。

 私が二〇一六年のために主から受け取ったみ言葉はこれです。マタイ五章四十一節、

『あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。』

 日本語の聖書では、「ミリオン」と書いてありますが、これは「マイル」のことです。北米でよく使われる単位なのですが、一マイルは千五百メートルくらいです。
 しかし、ここでイエス様はローマや、その当時、東方の国にあった習慣について伝えています。ある国が別の国を支配している時に、支配者があることを命じると、支配を受けている方はその通りにしなくてはなりませんでした。ローマには法律があり、彼らはユダヤ人に要求する権利がありました。それは自分たちのために労働させることができる、という法律でした。言い換えるなら、ローマ人たちは日常の中で、どんなユダヤ人にでも声をかけて、強制労働をさせることができました。その労働は多くの場合、命じられた人にとって、不快なものでした。

 ここでイエス様が言われた教えはとても強い言葉です。「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」と書いてあります。
 言い換えると、イエス様が私たちにこう言われています。この説教の文脈とは次の通りです。「人生には快くないことに驚かされる事があるが、信仰によってあなたに言います。その悪い状況を越えた先を見なさい。」イエス様は言われます。「不当に扱われたことなどに対する怒りの先を見なさい。」と言われます。「信仰によって少しでも先を見なさい。」と言われます。「信仰によって動かさなさい。」と言われます。
 生来の自分では難しい事でも、あなたはできるのです。しかし私はあなたが、もっと先に行くように励ましたいと思います。その状況を乗り越えて、その向こう側と、そして神にはできるということを見ることができるように。
これがイエス様がここで言われている文脈です。

 私は今晩、これを二〇一六年に対しての原則として、みなさんに分かち合いたいと思います。そして、これからあなたにこのように考えていただきたいと思っています。
 あなたも、私も、嫌なことに直面しなければならない時があると思います。失望に直面したり、また目指しているように自分がなれなかったり、二〇一五年にあった失望を二〇一六年に持ち越す事もあるでしょう。
 自分が受けたひどい扱いであったり、不当なことであったり、自分から去った人がいたり、裏切った友人がいたり、また仕事をくびにされたり、誰かがあなたを落ち込むようにしたり、また状況が変わることを待っている人もいるかもしれません。長い間祈り続けたけれど一向に変わらない、そのような現実に、状況が変わることを期待するのは意味がないと考えているかもしれません。 おそらくあなたは教会に来る事に慣れ、霊的な雰囲気に慣れてしまい、自分に、また自分の家族に、何か変化が起こることを期待することを忘れてしまったかもしれません。

 しかし神は私たちに、二〇一六年が始まるにあたって、語りかけています。 「そこに留まっていてはいけない!」と。もしあなたが不当な扱いで打ちひしがれているならば、もう一マイル先へ行きましょう。なぜなら、あなたがもう少し進むなら、神様は何かをしてくださるからです。もしあなたが目標に達していなくて、自分自身に失望しているなら、今はタオルを投げる時ではありません。もう一マイル歩く時なのです。

 あなたはこういう人かもしれません。「私は断食を試みました。祈ろうとしました。聖書を読もうとしました。でもどれもうまくいきませんでした。」このようなあなたに、神は二〇一六年の原則を言います。「もう一マイル行きなさい」と。
 神は、「あなたが困難を越えた時に私が行うことができる業を、あなたは知らないのだ」と言われます。物事も夢も祈りも、あなたが行く一マイル先にだけ、大きな変化が待っているのです。もしあなたが主を信じればです。ここに鍵があります。主を心から信じることです。
 もしあなたがもう一マイル行くなら、あなたに対して行われた侮辱が、ただ自分だけのいやしとして体験するだけではなく、あなたの家族の驚くべき回復になるかもしれないのです。あなたに必要なのは、もう一マイル行くことです!

 ルカによる福音書二十三章二十六節をお読みします。

『彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。』

 このシモンはとてもまれな体験、考えられる中で最も不快な経験をしました。このシモンという男はたぶんアフリカが起源の人で、畑から戻って来たばかりだったと考えられます。畑仕事の一日を終え、疲れ、おそらく履物を脱ぎ、足を洗い、家で食事をし、休もうとしていたと思います。
 しかしある街角に来ると、群衆とその叫び声に遭遇します。そして一人のローマ兵に髪の毛を引っ張られて、通りに押し出されました。気がつくと重たい十字架を負わされました。また、たたかれ、指をさされながら、ゴルゴダの丘を目指す人に気がつきました。彼には何が起こっているか分からなかったでしょう。たぶんしばらくの間、訳が分からず、何が起こっているんだ?と言わなければならなかったでしょう。不愉快な思いをしなければなりませんでした。誰が計画したのでしょう。罪のない、仕事を終えたばかりで、ただ休みたいと願う人に十字架を負わせて運ばせるなど。彼は仕事を終えて、ただ自分の家に帰って休みたいと願っていただけなのに。
 人間は常にだれかに責任を転嫁します。しかしクレネ人シモンを通して私たちには学ぶことがあります。「私は不当な扱いをされ、重たい十字架を担わされた。しかし私はもう一マイル行かなければならなかった!」と。その道の途中、おそらく、その道の終点で、天が閉ざされ、太陽が隠れ、雨が降り、とどろきと地が揺れる中、百人隊長が「この方はまことに神の子であった。」と言った時に、クレネ人シモンは、不当な扱いが実は恩恵であった事に気がついたのです。
世界の救い主のそばに連れて行かれていた事に気がついたのです!もう一マイル行くことが、あなたを素晴らしい場所に導くことになるのです。

 新しい年を問題の中で始める方もおられると思います。しかし、私は神から受けたことをあなたに伝えたいと思います。今あなたは神と会う一マイル上にいるかもしれない。イエス様とさらに近くなる一マイル上にいるかもしれない。家族が神にもっと近づく一マイル上にいるかもしれない。人生の多くの分野で勝利を手にする一マイル上にいるかもしれない。いつも心待ちにしていたことを見る一マイル上にいるかもしれないのです。もう一マイル先へ、信仰と、神に対する祈りと、献身と、心から求めて行くということだけでいいのです。 
それを受け取るには、あと一マイルの距離なのです!

 あなたは今、家族に起こる奇跡の手前にいるかもしれないのです。あなたの健康に対する奇跡までもう少しのところにいるかもしれないのです。あなたの夫婦関係に対する奇跡まであと少しのところにいるかもしれないのです。神にあって夢見てきた生活になる、あと少しのところにいるかもしれないのです。まだ今日勝利できていないことに、勝利するあと少しのところに来ているかもしれないのです。もし今日あなたが神を信じる決断をするならば、すべてが現実となります!

 あなたの力で今まで到着した場所のその先へ行くようにと、神様はあなたを呼んでいます。神はあなたにこう言います。もう一マイル根気よく続けなさい。もう一マイル待ちなさい。もう一マイル祈りなさい。もう少しの時間賛美しなさい。もう少し信じていなさい。そうすれば、その一マイルの終点に、待ち続けた先に、賛美の先に、奇跡が待っている、と、神様は言われています。

イザヤ書四十章三十一節、
『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 今日あなたは自分の力が限界にきているかもしれません。新年を始めるにあたって、ほとんど、又は、全く力がないかもしれません。しかし今日、あなたに言います。神と共にもう一マイル行きなさい!神と共に思い切ってその先へ行きなさい!
 今日、悲しみの中で神に賛美するなど思ってもいなかったかもしれません。しかし、もしあなたが悲しみの中で立ちあがって、神を賛美することを決意するなら、神はあなたに約束します。あなたの周りの状況が一日では変わることがないとしても、あなたは変わることができます。なぜなら、今お読みした箇所に書いてある通り、新しい力が神からあなたに与えられるからです。
 「私は自分の部屋でひざまずいて祈って来たけど何も起こらなかった」と言われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、あなたが次にひざまずいて全能の神の名前を求めて、心から祈る時に何が起こるか、あなたは予想できないのです。神ができることをあなたは知らないのです!
あなたに言いたいと思います。神が私たちにもう一マイル行きなさいという時は、必ず何かを準備しておられるのです。最後に、エレミヤ書二十九章十一節をお読みします。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 あなたに必要なのは信仰です。あなたに必要なのは決意です。そして、みんなで一緒にもう一マイル行きましょう!以上です。ハレルヤ!

≪滝元開 牧師≫

 ハレルヤ!感謝します。こうして二〇一五年の最後、健康で、この場所に立たせていただける恵みを心から感謝いたします。
 今日はちょっと派手なネクタイで来ましたが、このネクタイは、明牧師が使っていたネクタイです。まさかこんな事になろうかと思ってもみなかった一年でありました。私だけではなくて、みなさんにとってそうだったと思うのですが、この一年、本当に神様のご計画の中の一年であったと信じて、心から感謝しています。

 この一年の最初は、上半期はザワメキのレコーディングをさせていただいて、そのための半年でした。ちょうど一年前くらいから、新しい曲が神様から与えられて、与えられた曲がJesus is coming soon!という、イエス様がまもなく帰って来られるという、そういったテーマの曲が多く与えられ、それは思ってもみないことでした。私たちが思っている以上に、イエス様が帰られる日があまりにも近いんだ!という、そんなことを感じながら、この年は始まりました。
 そしてレコーディングが始まって、そのレコーディングもすごく祝福されましたが、かつてないほどの大きな戦いを感じるレコーディングでした。これほどまでに主の時が近いということを強く感じながら、レコーディングがなされました。
 六月一日に新しいCDがリリースされたのですが、そして下半期、七月五日の父の帰宅から始まり、七月七日の癌宣告で、思ってもみない下半期スタートとなりました。怒濤の一年と何度も何度も言われて来ましたが、振り返ると本当に怒濤の一年で、まさかこのような一年になると思わなかったのですが、神様がくださった一年であったと本当に心から今、感謝しています。

 父が天に帰った後も、ザワメキでいろんな所を回らせていただいて、行く先々で、みなさん泣くのです。「明先生がうちに泊まったのよ〜。」とか、いろんな話を行く先々で聞くのですが、でもそれぞれの方々の、その悲しみが、ただ明先生と別れてしまった悲しみというのではなくて、目指してた「リバイバル!」という、その張の本人がいなくなってしまったという、その悲しみのようにすごく感じました。

 奥山実という先生がいらっしゃいましたが、あの先生もリバイバルのために本当に戦い続けておられて、凱旋式の後に、ちょうど私たちが関東でザワメキの集会をしていた時に、先生がわざわざ来てくださいました。そして来てくださって、私は一枚の写真をお見せしました。それは、ちょうど一年前くらいに、父と先生、二人が並んでいる写真を後ろからぱっちり撮ったのです。

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 その写真をお見せしたら、すごく喜んで、「この写真、欲しい!」とおっしゃいました。すぐにお送りしたのですが、二人のおじいちゃんがリバイバルに向かって熱く、楽しそうに語っている後ろ姿の写真だったのですが、奥山先生がこうおっしゃいました。「本当にリバイバル、リバイバルと叫んで来て、滝元明先生が天に帰ってしまった。本当に悲しい。」と言ってくださいました。
 そして集会の中でも、顔をぐしゃぐしゃにしながら、私たちの証しを聞いてくださいました。その集会で最後に、先生にお祈りしていただいた時に、先生は、一言こうおっしゃいました。「自分の人生で、こんな事はじめてだ。」と言われるのです。何がというと、「明先生が天に帰って、なにか自分の中の一本、引っこ抜かれてしまったような、そんな気持ちだ。こんな気持ちになったのは初めてなんだ。」と、先生がそうおっしゃってくださいました。
 その先生の言葉の通り、行く先々でいろんな方が涙して、いろんな方が悲しんでくださっているのですが、その悲しみというのが、一人の人物がただ天に帰ってしまって別れたゆえの悲しみということではなくて、なんかこの日本のリバイバルというものを求めて、今まで来たけど、その張本人がいなくなっちゃってどうなるの?という、そこで、みなさんが涙してくださって、最初は本当にすごく戸惑いを感じているように感じましたが、でもみなさん、不思議なことに、いろんな所でお会いする方々が幻を見たというのです。
 どういった幻かというと、明先生が天国で大笑いをしているという、そんな幻だというのです。ある人は、「今まで見たこともないような大笑いを天国でしていて、何のために笑っているかと言ったら、『日本にリバイバルが来る!』と笑っている」というのです。そんな幻を見たというお話を聞いたりして、最初、本当に大きな悲しみの後に、必ず主はこの事もすべて益としてくださって、神のなさることは時にかなって美しいので、これから主はリバイバルをくださる。それも新たなる世代に対する主のご計画というのがあるんだということを、この教会のみならず、日本の教会、先生方、兄弟姉妹が、北海道から九州、沖縄にいたるまで、それぞれが受け止めてくださっているということを肌で感じさせていただいた、そんな下半期でした。

 今日与えられているみ言葉をお読みさせていただきたいと思います。ヨハネの黙示録三章七節〜十三節、

『また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。』

 このみ言葉が与えられています。ちょうど九州に行く飛行機の中で、『わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。』という言葉が、突然、聞こえてきました。
 あぁ、二〇一六年に対する主の言葉だな!と思ったのですが、これでイエス様、あなたの門、開いた!という喜びではなくて、なんかすごい恐れを感じました。この後の九節と十節を見ていくと、三章十節をお読みします。

『あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。』

と書かれています。
 神様が新しい門を開いて、新しいことをこれから始めようとされるわけですけれども、それと共に、時代はどんどんどんどん終わりの時代に向かっていて、本当にイエス様が帰られる日があまりにも近い所に私たちは立たされていて、そしてヨシュアの時代、新しい時代に入らないといけない!というところに立っている中で、「わたしは門を開いた。」と、イエス様はおっしゃって、その開かれた門の向こう側に行くのは、喜びでもありますが、やはり大きな戦いだと思います。今まで語られた通り、本当に「聖戦をふれよ」と、主の戦いが始まっていくのが、これからの時代だということを、本当に強く感じています。

 今年は戦後七十年、節目の年ということで、エレミヤ書二十九章のみ言葉が何度も語られました。その中で主の約束として語られたのは「将来と希望」でした。神様が私たちに与えてくださるのは将来と希望なのです。
 今の時代は、将来だとか、希望だとか、未来だとか、そういったものがない時代だと思います。ほんの二十年、三十年前は、「さぁ、未来。これから我々の未来は何が待っているのだろう」と、少しわくわく感というのが、全世界的にあったのではないかと思います。未来はいろんなものが発達して、もっと良い未来になるんじゃないかという、そういった希望と将来というものに対して淡い望みがあったと思うのですが、今の時代、将来、希望、これからの未来どうなるかって、世界中の人に聞いたら、きっともっともっと戦争は激しくなるし、気象状況ももっとおかしくなるし、「将来はない。暗闇がある」というのが、今、全人類が感じている出来事ではないかと思うのです。
 しかし、神様が私たちに対しておっしゃるのは、あなたがたに与えるのは将来と希望だというのです。だから、私たちはその事を信じて、主が開いてくださるその門に向かって、これから進んでいくべき時が、この二〇一六年であると信じています。

 この年、世界でいろんな事件が起きましたが、ある意味、本当に大きな事件の一つは、先ほどから語られているように、ISISの問題であると思います。多くの方々が殺害され、日本人の方も殺害されましたし、また世界中でテロが起きています。
 その中でもパリで起きた同時多発テロというのは、すごく大きな悪い門が開いてしまった瞬間かなと思います。いろんな紛争だとか、いろんな戦争等々は、ある意味、悪霊が働きやすく、そういったことが起こりやすい場所に起こっているのが、戦地であり紛争地ではないかと思うのですが、しかし、今回起きたパリ同時多発テロというのは、コンサート劇場だったり、カフェだったり、すごく身近な、生活に近い所での悪しき門が開いてしまっているのです。
 ですから、これから、いつどこで何が起こってもおかしくない時代に、もう私たちはすでに入ってしまっているのです。そのような時代の中にあるので、主が開いてくださる新たなる主の門を通して、主のご栄光の現れを見る二〇一六年になるように、主に求めていきたいと、本当に心から願っています。
 主がどんな門を開いてくださるのか、本当に期待して、恐れることなく進まなかったらいけないと思います。恐れ悩んで、「これから大変な時代になってしまうから、どうしよう。どうしよう。どこに逃げよう。どのシェルターに逃げよう。」ということを考えるのではなくて、私たちはこれから、主の戦いのために、イエス様が帰られるのがあまりにも近いこの時なので、私たち一人一人が進んで行って、開くべき門を開いて、主の戦いの勝利を勝ち取る、そのような二〇一六年にさせていただきたいと本当に心から願っています。

 この今のみ言葉の最初に、七節の所に、

『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、』

と言われています。「ダビデのかぎ」というのは、他でもなく、ダビデというのは、賛美をたくさんして、賛美を捧げた王様でしたので、賛美を通して、神様が新しい門を開いて、新しいことをなしてくださる二〇一六年であると、本当に心から信じています。
 ですから、賛美の中に働かれる主ご自身の御業が現されることを信じて、是非みなさんも、今まで以上に、みなさんの職場であったり、学校であったり、家庭であったり、地域であったり、さらなる主への賛美を捧げていく時に、神様ご自身が新しい門を開いてくださるので、そのことを信じて、ぜひ歌っていただきたいと思います。
 今までと違う時代が、これから本当に始まってしまうので、そのことを信じて戦うならば、戦うしかないと思います。戦うか、戦わないか。やるか、やらないか。といった、そういった時代がこれからなのかなと、すごく感じます。

 特に、明牧師が癌になって、すごく私は教えられたことが一つありました。父が天に帰る前に、私はここでメッセージをさせていただいたのですが、その時に、信仰ということを語りました。信仰というのは、やはり信じ切ることが大切なのです。なんとか信じます!ではなくて、信じ切ることが大切だというお話をここでしました。
 父の願いで、県民の森に行って一緒に祈ろうということで、七月九日に一緒に行って祈りました。でも明牧師が願っていたのは、山の上で叫んで祈ることだったので、その後、父の代わりに山の上に祈りに上りました。父がいつも使っていた県民の森用の杖を拝借して、山の上に上がったのですが、その時父に、「何を祈って来てほしい?」と聞いたら、「癌の悪魔をやっつけて来てくれ!」と言われて、「わかった。」と言って、私と陽介さんの二人で、真夜中に山の中に上がって祈ってきました。そして、「イエスの御名によって、癌の悪霊よ、出てけ!」と叫んだら、わっ!と、そこに、癌の悪魔がいたのです。本当に。そこで、これはもう、戦うしかない。やるかやらないか。やらなかったら癌にやられちゃうからと思って、「イエスの御名によって、癌の悪霊よ!出てけ!」と、祈りきって、すっきりして帰って来ました。
 でも、父はそうこうしているうちに、あっという間に、すっと天に帰ってしまいました。ただ父の天に帰った姿を見て、「癌の悪魔にやられちゃった。伝道者の最後がこれか…。」というのではなくて、「勝利の凱旋!」という感じで天に帰ったので、「癌の悪魔はやっつけられたな。」と、すごく思いました。
 でも、そんな中で教えられたことは、サタンが挑戦してきた時に、戦うか戦わないか、やるかやらないか、ということでした。「悪魔来ちゃった。逃げろ!」といったら、それっきりで私たちに与えられた使命を果たせずに終わってしまうと思うのですが、でも神様は、それぞれに戦うべき時に戦うべき戦いを戦え!とおっしゃっているのではないかと思います。
 ですから、本当に神様が開いてくださる二〇一六年の門を、私たちは堂々と戦っていく年にさせていただきたいと、本当に心から思っています。その中に救いの門が開かれ、また癒しの門が、奇跡の門が開かれていくことを信じて、前進していきたいと信じます。

 もう一箇所だけ、聖書をお開きしたいと思います。詩篇二十四篇七節〜十節、

『門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ』

 永遠の扉が、門が開こうとしているというのが、今、私たちが生かされているこの時代です。賛美の門が開く時、癒しの門が開き、救いの門が開き、そして、いよいよ栄光のイエス様ご自身が帰って来られるのです。栄光の王をお迎えするために、私たち一人一人、主の戦いを戦い抜く、二〇一六年でありたいと、本当に心から願います。主の御名によって、戦い続ける二〇一六年とさせていただきましょう。ハレルヤ!

≪岡本信弘 牧師≫

 ハレルヤ! 目が閉じかけている人もおられますが・・・(笑)。
皆さんにいつもお祈りいただいていることを、心から感謝します。
 昨年、「プレイズ出版の新規事業が始まれば忙しくなるだろうなぁ」と予想はしていましたが、私の予想をはるかに超えて、忙しい、怒濤のよう日々で、あっという間にこの一年が経ちました。
毎年、この日を迎えてここに立たせていただく時、「今年も健康が支えられ、ここに立たせていただけることを感謝します」と挨拶をしていますが、この年は、時に疲れたと感じる時もありました。礼拝で一人の姉妹から「先生、お元気ですか?」と聞かれて、「いや〜、ちょっと疲れましたね」と言ったら、「先生からそんな言葉を聞くなんて!」とひどく驚かれてしまいました。
また先日は、夜、食事をした後、なんだかぶるぶる震えがきて、熱を測ると三十九度もありました。「大丈夫かな~」と思ったのですが、家族にも祈ってもらってすぐに寝たところ、朝には熱が下がり、休まずに仕事ができました。
忙しい一年でしたが、皆さんのお祈りにより支えられ、恵みによって倒れることなく、一日も休むことなく、主の奉仕をすることができ、今日を迎えることができたことを心から感謝します。

 さて、本題に入りたいと思います。私は、二〇一四年のみ言葉として第一テモテより、「まことのいのちを得るために、未来に備えて、基礎を自分自身ために築きあげるように」というテーマで語らせていただきました。二〇一五年のみ言葉としては、ガラテヤ人への手紙より、「御霊のために蒔く者となる」と語らせていただき、この年が始まりました。
 そして、来る二〇一六年に対して私に与えられた御言葉は、詩篇一篇一〜三節です。

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 皆さんもよく知っているみ言葉であり、賛美にもなっています。順先生であればここで歌っていると思いますが、私は音程が外れるのでやめておきます(笑)。

 先程、明先生の映像を見ました。また今も先生方が語られていましたが、八月に明先生が召されたことは、教会にとっても、もちろん私にとっても本当に大きな出来事でした。
明先生の凱旋以来、先生の歩んでこられた宣教の足跡を振り返ることが時々にあります。
 先生が東京で救われ、津具に伝道に戻ったところから、この新城に出て来られ、多くの種が蒔かれ、多くの実が結ばれました。私の母もその実の一人であるわけですので、先生が新城に来てくださらなければ、私は今、ここに立っていなかったでしょう。明先生が蒔いた種は、この新城にとどまらず、日本各地、世界にも蒔かれ、多くの人が救われ実を結び、加えられた人たちがまた種を蒔き、さらに広がり続けているのです。
 私は自分自身を振り返る時、今までたくさんの種を蒔き、たくさんのものを収穫してきたけれども、本当に最善の時期に種を蒔き、一番良い時期に収穫して来たのだろうか、と疑問を持つことがありました。
 種が芽を出し成長し、収穫時を見極めるわけですが、見える所だけでは本当の収穫時期を見極めることは難しいと教えられたのが、一九九二年に起こった霊的戦いだと思います。ここには、その時のことを知っている方は少ないかもしれません。
当時、新城教会の礼拝出席者は、もうすぐ三百名というところまできていました。教会がこれからも成長し続け、多くの収穫ができると思っていた矢先に霊的戦いが始まり、多くの人が出て行くような事態が起こりました。人数も二百名を切り、残った私たちは、「これから新城教会はどうなるだろう。大丈夫だろうか」と不安を持ちました。
 しかし、こんな予期せぬことが次々と起こったことで祈らされ、主の御心をより強く求めていく中で、これが神の計画であり、さらに多くの収穫をするために神様が御手を伸ばされたのだということを、私たちは後で知らされたのです。
 その翌年行われた全日本リバイバル甲子園ミッションでは、多くの人が救われました。「私はあの、甲子園ミッションで救われました」と言われる方が大勢いることを耳にしています。その後もリバイバルミッションは、様々な場所でのミッションを通して、多くの種を蒔いてきました。そして、この教会も、礼拝出席者は三百名を超え、今も成長を続けています。
 同じ時期に誕生したプレイズ出版の働きも、今年で二十五年となり、新しい領域が広げられました。

 しかし、私の中では「まだ足りない」と主が語っておられるように思わされ、祈らされています。
ヨハネ四章三十五〜三十八節に、こんな言葉があります。

『あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。」ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。』

皆さんの中には、収穫時期はもう少し先なのかな、と立ち止まっている人もいるかもしれません。ある人は、これで十分じゃないか、と思っているかもしれません。しかし神様は、収穫できるばかりになっている実が多くある、とここで教えています。

 先日、順先生がメッセージで、「明先生は、イスラエルの民を出エジプトさせ、カナンの地の目前まで導いてきたモーセのような者」と言われました。出エジプトしたイスラエルの民のほとんどは、カナンの地に入ることができませんでした。しかし、神様の計画はそこで終わりではありませんでした。モーセの後を引き継いだヨシュアが民を引き連れ、ヨルダン川を渡り、そして約束の地カナンに入ったことを、私たちは知っています。
 明先生も、ある意味リバイバルを見ることができなかったかもしれませんが、その働きは、次の世代に引き継がれています。先生が蒔き続けてきた種が成長し、今、刈り入れるばかりになっているのです。先生が蒔いた時には考えもしなかったところでも、主は収穫を与えてくださいます。今年のナガランドもその一つだと思います。
私たちも、福音の種を蒔き続けると同時に、前の世代の方が蒔いてくれた種を収穫する時でもあります。それは、これからも続いていきます。若い世代のために私たちが蒔き続け、後の世代の人たちが収穫する。まさに、『蒔く者と刈る者がともに喜ぶ』と御言葉にあるとおりです。

しかし、最初にお読みした御言葉の『何をしても栄える』者になるためには、いくつかの条件があるのです。
 一つは、『悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』(詩篇一篇一節)です。
 サタンは私たちクリスチャンを目の敵にしてつけ狙い、いろんな誘惑をしてきます。
 世の中にはたくさんの事件がありますが、その中で、一番多いのは何かわかりますか? それはお金にまつわることです。殺人、強盗、様々な事件の背後に、お金がかかわっていることが多いのです。お金が人を変えてしまうということを、私たちはよく知っています。お金によって性格が変わり、お金によって夫婦がバラバラになり、お金によって人間関係がぎくしゃくするといったことを、皆さんも経験があるかもしれません。一歩間違うと、金の背後に働くマモンの悪霊に飲み込まれてしまうという状況があることを、私はいつも感じています。
私に与えられたビジョンの一つに、「経済を勝ち取る」ということがあります。順先生は、「不正の富を操り、そしてそれを神の元に持ってこられるように」とよく言われます。本当にそう思います。しかし、それには大きな危険が伴うとも思っています。
 プレイズ出版は印刷・出版ビジネスを始めてから二十五年が経ちました。そして、さらに違う畑にも種を蒔くこととなりました。新規事業の中でも、お金にかかわることがたくさんあります。ともすると世の中に引きずられ、違った方向に向かってしまう危険もあります。新規事業のためには、皆さんにいつもお祈りいただいていますが、この委ねられた事業を通して、どんな時にも、ただただ神様の栄光が現わされる働きにしていただきたいと切に願っていますので、ぜひプレイズ出版が正しくこの領域を勝ち取ることができるように、続けてお祈りいただきたいと思います。
 皆さんにもそれぞれ与えられているプロジェクトがあり、示される領域があるかと思います。その際、『悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない』というこのみ言葉を常に心にとめて前進していただきたいと思います。

 そしてもう一つは、『主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』です。御言葉に親しみ、それを実行すること、どんな時にも主のみ言葉に従い、賛美し、前進することです。
 旧約時代にも、偉大な預言者や、偉大な戦士が生まれていますが、その人たちも連戦連勝だったかといったらそうではなく、時に苦境に立たされ、成功から見放されたような時がありましたが、彼らは、どんな時にも主を自分の喜びとし、主の教えに従う、というライフスタイルを変えることがなかった結果として、多くの祝福を受け、勝利を勝ち取ることができたということを、私たちは聖書から教えられています。
 このように、私たちが、いつも聖書を読み、賛美し、祈り、イエス・キリストにつながっていることが、もう一つの大きな条件です。
 この二つの条件が満たされる時に、詩篇一篇三節に書かれているように、「水路のそばに植わった木のようになり、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、その人は、何をしても栄える人」となるのです。

 水路のそばに植わった木は、水分や栄養素をしっかりと吸収し、時が満ちると実がなり、その葉は枯れないとあります。つまり、その人を通して神のわざが現わされ、そして、その働きは衰えることがないのです。どんな逆境の時もどんな問題が起ころうとも、つまずきそうな時も、主の教えを喜びとし、信仰をもって前進していきましょう。そして、何をしても栄える者とさせていただきましょう。蒔く者と刈る者が共に喜ぶ、そのような年とさせていただきましょう。

 また、ヨハネの福音書十五章八節には、こんなみ言葉があります。
『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』

私たちが多くの実を結ぶことによって、「神様が」栄光をお受けになるとあります。私たちが称賛されるわけではありません。私たちがどんなに繁栄しても、神様の栄光が現されなければ何の意味もありません。キリストの弟子となり、自分のためではなく「主のために」働く時に、主が栄光を受け取られるのです。主の栄光が勝ち取られること、それがいちばん重要なのです。

 最近、メッセージでもよく語られているように、主の来られる時が近い昨今ですが、『時が来ると実がなり』とあるように、主は時を備えておられます。皆さんは神様に選ばれ今ここにおられます。何をしても栄える者としていただくためにも、二〇一六年、お一人お一人がその時をつかみ、多くの収穫をするための委ねられたそれぞれの役割を果たしてまいりましょう。そして、収穫したものを主の前に差し出せる者とならせていただきましょう。
以上です。ハレルヤ!