『ニューイヤー・セレブレイション・メッセージ

2016年1月1日(金)
新城教会主任牧師 滝元順


 ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。高い所からですけれども、今年もよろしくお願いします。
 今、二〇一五年を振り返る映像を見ましたが、いや〜、よくもまぁ、いろいろやったもんだなと感心しました。今年もこんな年になるのでしょうか。一つ一つの働きを通して、イエス様のお帰りを待ち望み、その道が整えられていると信じます。二〇一六年はどんな年になるのか分かりませんが、クリスチャンには希望があります。

 全然関係ないですが、子どもたちの為に面白写真です。
これが本物のカッパ巻きです。

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 これをブルートゥースと言います。

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 平岡先生の幼い頃の写真です。

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新しい年も、笑いから始まったほうがいいかなと思います。


 昨晩は新城教会の、私以外の五人の先生方がメッセージを語ってくれました。毎年、十二月三十一日に語られるメッセージは、次の年の方向性を示していただく大変重要なメッセージだと考えています。まもなく文字化されて、みなさんに届きますので、よく読んでいただいて、祈って吟味していただきたいと思っています。

 昨夜の順番は、最初、上條実先生が語ってくれました。いつも順番を決めるのは、くじで決めているのですが、私がくじを作る係です。それは、普通のくじではなく、真剣に祈ってからくじを作ります。聖書の中にも、くじには神様が関わるということが書かれています。「じゃぁ、宝くじ買おう。」とか、ではなく、すべては神様が決定されるという意味です。「主よ。どうか順位を決めてください。」と祈りました。そして、先生方も祈って引いてくれたのですが、最初に上條先生が一番くじを引きました。
 彼が引用した聖書の箇所は、イザヤ書五十五章八節〜十一節でした。

『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 上條先生にとって2015年は、「えっ?なんで?」ということが多かったというのです。人生の中で「えっ?嘘?」という事って、結構ありますよね。
 我が家にかかってくる電話は、喜ばしい電話はあまりありません。何か問題があるとかかってくることが多いのです。私の所よりも、家内の所に第一報が入ることも多いです。家内がどう受け答えているのかが、気になります。その後に、私にふられますから。
 その多くが、「こんにちは。どうも。えっ?うそ!」という反応がある時には、覚悟しなければいけません。必ずその後に、悪い知らせがくっついていますから。
 上條先生には、去年、そういう事が多かったと話しました。特に奥さんが病気になったりして、一生懸命祈ったけれどうまくいかなくて、本当にがっかりしたというのです。奉仕もちゃんとできなくなったし、これからどうなるんだろうかと。
 それに追い打ちをかけるように、父に病気が発見され、亡くなったわけです。ある意味、打ちのめされたというわけです。

 それで神の前に出て、真剣に祈ったというのです。「神様、どうしてですか。なぜ、こういう事が起きるのですか。」と。みなさんにもそういう時が、あるかもしれないですよね。もしかしたら今年も、一つや二つはあるかもしれません。牧師をやっていると、そういうことは多いです。暮れにもいくつかありました。

 けれども、その時に与えられた箇所が、イザヤ書五十五章八節〜だったというのです。これをリビング・バイブルで読むと、こうなっています。

『わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、わたしの思いはおまえたちの思いと同じではない。』

 私たちは、今までの経験の中で、一つの方程式を持っています。未知数があっても、ある数字を代入したら結果が出るという、係数を持っています。未知数、XとかYは常にあるのですが、今までの経験の中から予測される係数を代入して、事前に答えを出すのです。
 しかし神様の持っている方程式は、私たちのものとは、全く違うのです。うそぉ?というような事柄に関しても、神の計画は必ずあり、神様はご自分の計画を必ず実現されるというのです。

 三月にチリのアタカマ砂漠で起こった事を話しました。アタカマ砂漠は、年間降雨量がほんの数ミリです。砂漠というくらいですから、草木一本も生えていない場所です。

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 日本では砂漠のようなドライな場所は体験できないです。海外に行くと、日本に水があるのは嬉しいと感じます。とりあえず水があるというのは、本当に感謝しなければなりません。砂漠で水が飲みたい人には、水一本、一億円でも売れると思います。
 しかし、三月にこの砂漠に大雨が降ったというのです。それも一晩で七年間に降るほどの雨が一度に降ったというのです。

 そうしたら、その後、砂漠には花が咲き乱れ、花園になったというのです。

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 こんな事、誰が考えたかということです。実は、この砂漠には、花の種がいっぱいすでに蒔かれていたそうです。蒔かれていたというよりも、風で飛んで来ていたのです。この砂漠には、何千年も前から花の蒔かれていたのです。しかし、発芽する為の水分がなかったのです。
 去年の三月、エルニーニョという海水の温度の上昇と関わりがあって、砂漠に雨が降ったらしいのです。それで瞬間的に、砂漠は花園に変わってしまったのです。

 日本では、砂漠に種を蒔いているような事が多いのかもしれないです。今まで一生懸命祈って来たけれど、まだ答え見ていない。「私はこの事に関して、二十年間も祈っているけれど、神様は全く動いてくれない!神様は不誠実!」と言ってしまいがちです。私も時々、そう思わないわけでもありません。
 しかし、私たちの祈りは、決してむなしく返って来ないのです。こんな殺伐とした、命が全くないような場所にも、突然の雨で花園になるように、今まで日本のリバイバルのために祈ってきた祈りは、決してむなしく返ってきませんというメッセージでした。すばらしいメッセージでした。苦しみの中から、主が語られたのだろうと思いました。
 昨年たいへんだった方は、二〇一六年に期待してください。大雨が降るかもしれないです。突然、花園になるような事が起こったらいいですね。


 続いて語ったのが、四元雅也先生でした。彼が引用した箇所は、ヨエル書三章九節〜十節でした。

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

 この頃、「聖戦」という言葉が、マスコミなどに出ますけれど、一般的に、「聖戦」という言葉には、良いイメージはないと語りました。ジハードとかいって、イスラムの人たちが、自分たちの宗教が絶対だとして、他をすべて悪として戦う戦いを聖戦と呼ぶわけです。
 日本もかつて、七十年以上前は、太平洋戦争を聖戦として戦ったわけです。それで、あんな悲惨な事が起こったわけです。
 ですから、「聖戦」には、良いイメージがありません。しかし聖書の中の聖なる戦いは、究極的には、天地宇宙を造られた神様の元に集結し、悪魔の力と戦う戦いを意味します。
 そして今年、主がこの教会に語っておられることは、「聖戦をふれよ!勇士たちを奮い立たせよ!」と語っておられると話しました。私はこれを聞いて、全く同感でした。
 後から私自身に主が語ってくださったみ言葉も紹介しますけれど、やはりキリストのからだの中で、主は同じことを語られるなと思いました。

 赤ちゃんからお年寄りまで、全員を奮い立たせ、主の戦いのために戦わせなければならない、と語られました。今の時代は、まさしく、モーセの世代からヨシュアの世代に入ったような、戦いの世代です。今年は、私たちは、さらに霊的戦いを意識し、戦わなければいけないのです。
 具体的な戦いとして、一つは、「肉の欲との戦い」があると語られました。誰にでも欲望はあります。それは、悪いものではありません。たとえば食欲。これは神様が与えたものです。これが正常に機能すれば、その人を生かすのです。
 しかし、食欲が異常になったらどうでしょう。その人を殺すのです。欲との戦いとは、正常な欲を異常にさせるものだと、語られました。
 私たちの中にある、様々な欲望が正しくコントロールされれば良いけれど、暴走させ異常にさせるのが、悪魔の力です。様々な欲望渦巻く社会に生きていますが、決して正常な欲望が暴走することがないように、自分を制しながら、み言葉に従って歩み、勝利しなければならないのです。
 そしてもう一つは、背後に働いている、悪魔・悪霊どもとの直接的な戦いだと話しました。
 そして、宣教の戦いが強調されました。今年、私たちは、主が「聖戦をふれよ!勇士たちを奮い立たせなさい!」と語られていることを、心に留めたいと願います。


 三番目に講壇に立ったのが、公畑フェルナンド先生でした。彼のメッセージも預言的なメッセージでした。彼が教えられた聖書箇所は、普通ではなかなか気がつかないような、マタイの福音書五章四十一節の言葉でした。

『あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。』

 「ミリオン」というのは、「一キロ」とか「一マイル」とかいう距離の単位です。日本的に言ったら、「一キロ」と言ったほうが分かりやすいですね。アメリカなら「一マイル」のほうがいいです。あなたに「一キロメートル行きなさい。」と強いる者がいたら、二キロ行きなさい。
 これはどういう意味かというと、イエス様の時代は、イスラエルはローマの支配にあったのですが、ローマ兵は、歩いているユダヤ人を突然呼んで、「おい。そこのユダヤ人、ちょっと来い!この荷物を運んで行け!一キロ先まで運んで行け!」と強いることがよくあったというのです。ローマにはそのような権限があったのです。だから、ユダヤ人にとって、そういう現場に出くわすのは、良くないことでした。
 そういうことが、街で頻繁に起こっていたのでしょう。しかしイエス様が言われたのは、ローマ兵が「一キロ向こうまで運んで行け!」と強いたら、「わかりました。二キロ向こうまで行きますよ!」と答えるつもりでいなさい、と語られたわけです。

 時々私たちは人生の中で、こんな現場には遭遇したくない、こんな人と出会いたくないとか、様々なストレスを抱えるような問題が起きますが、神の祝福は、それを越える向こう側にあると語られました。
 時に、強いられるような、強制されるような事が人生にあり、なんとか避けたいと思うのですが、それを越える向こうに、神の祝福はあると語られました。

 昨年のことを考えても、ある意味、強いられるというか、いやでも受け入れなければならない事柄が、私にも多くありました。「もう嫌になっちゃうなぁ。こんな所から逃げ出したい。」と、時々、思うことがあります。逃げに入ってしまうことが多いのですが、それを越えて行くんだ!という意識を持たなければいけないと思います。忍耐と共に、それを打ち負かし、越えて行く中に、神の祝福は待っているのです。

 イエス様が十字架を背負って、ゴルゴダの丘に向かう途中、クレネ人シモンという人物と出会います。彼はたぶん、アフリカから連れて来られた黒人ではなかったかというのです。その日も、一日も農作業を主人から強制され、泥だらけで、早く家に帰って風呂に入りたいという気持ちでいたのではないかというのです。
 しかし、角を曲がったら、十字架背負って今にも倒れそうな男がいました。するとローマ兵が、「おい。そこのクレネ人。ちょっとこっちに来い。この男の十字架を代わりに担いで、あのゴルゴダの丘にまで行け!」と強いられたのです。彼は嫌だなと思ったに違いありません。
 しかしシモンは、イエス様の十字架を担いで、今までの苦しみをさらに越えて、十字架を担いだ時に、なんとイエス様の十字架という歴史的な場面にも遭遇したし、歴史が続く限り、彼のことは記憶されるでしょう。聖書の中に記録される人物となったのです。

 時には、辛い事やきつい事があるかもしれないけれど、そこから逃げるのではなく、一ミリオン行けと強いる者に対しては、「二ミリオン行きましょう。」という決断をして、二〇一六年をはじめてください!というメッセージでした。


 その後に、語ったのが、ザワメキの滝元開先生でした。彼は、黙示録三章七節〜十一節の言葉を引用しました。

『また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』

 ここから語ったのですが、『だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。』とあるように、今、新城教会に、私たちの前に、すでに、だれも閉じることのできない門が開いているというのです。感謝ですね。誰も閉じることのできない門を、神ご自身が開いておられるというのです。
 普通なら、「うわぁ〜!神様が誰も閉じることのできない門を開いてくれた!嬉しい!」とはしゃぐはずですが、このみ言葉を受け取った時、はしゃぐ心はなかったというのです。

 実は、その後、何が書かれているかというと、「全世界に苦しみが来る」とあるのです。それは、イエス様のお帰りを示唆しているわけです。イエス様がもう一度、この地上に帰って来られる再臨が、本当に近くなったと思われます。ですから私たちは、そのために準備しなければいけません。
 二〇一六年に主が帰って来られてもいいように、そのような心づもりをして、準備しなければならないのです。

 イエス様が帰って来られる直前の世界は、ある意味、全世界に苦しみが来るような時代となります。世界情勢がかなり荒れることが予想されるわけです。この頃の世界を見れば、これからどうなるのかな〜と、不安な要素がいっぱいです。
 一昔前なら、「これから十年後、二十年後、どうなると思いますか?」と言う質問に、「科学がもっと進歩して、良い時代が来ますよ。」と答えましたが、この頃はそう言えないのです。「これからどうなるだろうか・・・」と全世界が心配しています。イエス様が帰られる日が、間近なわけです。
 そんな時に私たちは、この日に向かって準備しなければいけないのです。誰も閉じることのできない、主がお帰りになる門が開かれていることを意識して、ダビデの鍵と書かれていますが、これは賛美だと語られました。私たちが遣わされているすべての領域に入り、主を賛美しなさい!と励まされました。

 賛美は、霊的戦いの武器です。賛美は諸刃の剣で、神様を礼拝すると共に、敵が打ち砕かれる、重要な武器です。私たちが今年、遣わされたすべての場所で、主を賛美する者にならなければならないと語られました。


 五番目に、最後のくじを引いたのが、岡本信弘先生でした。彼は、昨年は無茶苦茶に忙しかったです。私はそれを心から認めます。本当によく生きているなぁ、というくらいです。先ほども映像に出て来ましたが、プレイズ出版の新規事業によって、新城教会としては喜ばしいことですが、社会的領域が整って来ました。
 それらをすべて一手に背負って、借金も全て保証人となってやっているのは、信弘先生です。今回私は、嬉しいです。なぜなら、保証人じゃないですから。よくやっていると思います。
 「先生、元気ですか?」と聞くと、以前は、「あぁ、元気だよ!」と、いつも答えましたが、この頃では、聞いてみてください。「元気ですか?」と聞くと、「そうでもない・・・」と返ってきます。そういう目で先生を見たら、だいぶお疲れのような顔でした。髪の毛を分ける位置もだんだんと下がってきているような気がします。私と同じように、素顔で勝負すればいいわけですが、いずれにしても、本当に大変だと思います。

 しかし、主が、彼に励ましの言葉をくれたというのです。それが、詩篇一篇一節〜三節の言葉だというのです。

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 いいですね。この言葉。『その人は、何をしても栄える。』彼は、「その人」の所を、自分の名前を入れたみたいです。「岡本信弘は、何をしても栄える。」と。なにか、老体に鞭を打っているような響きもありますが、そうではありません。神様が語ったのです。みなさん、今年、何をしても栄える年になったら、最高じゃないですか。

 そして、信弘先生のメッセージと、上條先生のメッセージは、基本的には同じでした。あの二人、仲悪いですから、あっ、それは冗談です。誤解しないでください。お互いに話し合ったりしていないのですが、神様はちゃんと、同じことを語って下さいました。信弘先生はヨハネの四章の所を引用しました。ヨハネの福音書四章三十五節〜三十八節、

『あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」』

 この教会も、六十年以上の歴史の中で、私の父から始まって、初代のクリスチャンたちが、様々な種を砂漠のような場所に蒔いてきたのです。しかしそれが瞬間的に芽を出して、収穫の時が来ると話しました。「蒔く者と刈る者が互いに近づく」と語りました。
 普通ではどうでしょうか。種を蒔いたら、収穫まで四ヶ月待たなきゃいけないのは当然です。種を蒔いて、収穫を楽しみにすることもあると思いますが、普通は、「何か月か待たないといけない。待ち遠しいな・・・。」と。
 しかし、なんと、蒔いた瞬間に、刈り入れの時が来るというのです。これが神様の法則だというのです。そういう時が来ますから、準備してください!と話しました。

 そして、何をしても栄える条件が、詩篇の一篇の所に、『悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』とあるように、私たちが罪から離れて聖く歩み、主ご自身を喜びとする時に、「何をやっても栄える」というメッセージでした。
 ある日突然、蒔く者と刈る者が近づく事が起きますよと。みなさん、二〇一六年、その日を心して歩んでいきたいと思います。


 これらが五人の先生方が語ったメッセージです。私自身、神様から今回与えられた聖書箇所は、マタイの福音書十二章二十八節〜二十九節でした。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

 一九九二年に新城教会に聖霊が注がれて、その後、霊的戦いが始まりました。悪霊が打ち負かされる光景を頻繁に見るようになりました。
 悪霊に苦しめられている人が解放される光景を見たことがありますか?私は、よく見ます。そういう現場に出くわすと、「何これ!」と、びっくりして引いてしまう人も多いです。イエス様の時代も同じでした。今までそんな事、一度もなかったのに、イエス様が来られたら、人を捕まえている悪霊どもが、人から手を放して出て行く事が頻繁に起こるようになりました。
 隠れていた敵があらわにされたのです。イエス様の時代、人々は混乱して、「イエスはベルゼブルという、悪魔の力でそんな事をしているんだ!」と悪口を言ったのですが、悪霊が追い出されるということは、怪訝なことが起こっているように見えるのですが、実は、神の国が来ている証拠だというのです。神様の国が来ている、すなわち、神の国が暗闇の国に侵入している証拠だというのです。
 神の国が暗闇の国を浸食している証拠を、どこで見いだすのか?それは、悪霊どもが打ち負かされている光景の中に見いだすのです。

 今年は、「あなたはさらに、この戦いを前進させなさい!」と、主から語られているような気がします。そう思っていたら、雅也先生が「聖戦をふれよ」と語り、これは絶対にそうだなと思いました。
 私は一九九二年から変えられて、霊的戦いの働きを始めたのですが、今年はある意味、悪魔とガチンコ勝負の年だと思っています。

 悪霊を追い出すことは、言い換えれば、神様の国が、私たちの領域に侵入している、すごいことなのです。

 第二ペテロ三章の所なんかを見ますと、これからどうなるのか、怖くなることが記されています。第二ペテロ三章十節、

『しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。』
 天と地は滅びる!と書かれています。これからの時代、どんなふうになるのかなぁと、ちょっと不安になります。
 しかし私たちが使っている、聖書は、翻訳される時、どうしてもその時代の人々の持っている世界観とか、当時の神学が背景となって訳されるのは、避けられません。そういう影響は多く含まれるのです。
 しかしこの頃、聖書の歴史的な研究が深くなされて、様々な箇所で再検討が加えられるようになりました。

 「舟の右側」という雑誌がありますが、この頃、内容がなかなかいいなぁと思います。是非読んでください。この本は、プレイズで印刷しています。「舟の右側」とは、どういう意味か。それは、大収穫という意味です。一月号に、新年特集メッセージが載っています。高橋という先生が、「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望む」というタイトルでメッセージを書いていますが、たいへん素晴らしいメッセージです。これを読むと、今まで私たちが考えていたような、イメージとは違うことがよく分かります。
 また、神の国と悪魔の国の対立に関して、山崎ランサム先生が書いています。山崎先生、やっぱ、頭いいわ。本当にすごい論文だなぁと、超感動しました。是非、これ読んで下さい。編集長とも友達なので、みなさん是非、買ってくださいね。最先端の神学情報が出ています。
 そんな中、ペテロ第2の手紙三章の記述について、要約するとこんな事が書かれていました。

 第二ペテロの手紙三章の聖書の訳を読むと、この日に、見える世界が神によって滅ぼされるというイメージに圧倒されます。これを一年の初めの日に読むのは、気が滅入ってしまうかもしれませんが、ここには十九世紀から二十世紀にかけて神学的な偏りが反映されているように思います。
 この「終わりの日」というのは、”The youngest day”「最も若い日」となって、元旦の意味にさえ通じるのです。
 それは、キリストのご支配が、全世界に明らかになる喜びの日!というニュアンスを明らかにしています。

 天地が崩れ去るとか、終わりの日というのは、滅びの日というニュアンスよりも、実は、「キリストのご支配が全世界に明らかになる日」だと言うのです。それが近づいているわけですね。
 そして火で焼かれるというのが、目に見えるものが煙によって消え去るというイメージではなく、火で精錬され、不純なものが取り除かれ、純粋な金が現れることを指していると。火は、このもろもろの天と、この地を聖めるために用いられるのですと。
 そして、この先生が語っているのは、「天」と述べられている箇所が、複数で使われている箇所と、単数で扱われている箇所があるというのです。
 以前にもお話ししましたが、今、私たちが住んでいる空間は三次元空間ですが、さらなる高次元があるというのが、現代の科学です。昔はオカルトの世界とか、SFの世界だったのが、科学の世界になってしまったのです。
 神様は、「もろもろの天」を創造されたのです。見える天だけを造ったのではなくて、多くの次元さえも造られたわけです。多くの人は、地球がだけがすべてのように考えていますが、更なる高次元が存在するのです。そして、主の日とは、神の領域と私たちを遮っている、もろもろの天、すなわち、高次元が破壊され、神の領域が地球に侵入する日です。それはすでに始まっています。

 その日、天にいるもろもろの悪霊とか、空中の支配者、高次元に住む悪しき存在が打ち負かされて、神ご自身がこの地上に現れる、そんな瞬間なのです。
 もろもろの天が打ち砕かれる時に何が起こるのか。イエス様がこの地上に足を置いてくださるのです。それが再臨です。
 案外、今まで、私たちは、イエス様が帰って来るのは、この苦しい社会、この世界から逃避して、他の宇宙に行くように考えていました。しかしそうではないのです。聖書の研究が深くなされたら、再臨は、もろもろの天という、悪魔・悪霊どもが支配している天が打ち破られて、主が降りてこられる日です。高次元がバリバリと破られるのでしょうね。次元の幕が破れて、イエス様がこの地上に姿を現す瞬間です。

 今まで私たちが持っていた、再臨についての理解や情報も、再チェックしなければならないのではないかと思われます。
 主がもろもろの天、すなわち、諸天を支配している悪魔の力を打ち破り、この地上に現実的に現れる日が近づいています。
 イエス様が十字架で息を引き取られた瞬間に幕が破れ、死人がよみがえったのは、それを象徴的に現しています。そのことに関して以前に語りました。マタイの福音書二十七章五十節〜五十三節、

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。』
 私はこの出来事って、イエス様の再臨を預言的に現していると信じています。幕が破れる時、死人たちが飛び出て来るのです。

 二〇一六年に、そういうことが起こるのか、起こらないのか分かりませんが、私たちはその日をゴールにしなければいけません。地上から逃げるのではなく、この地上に幕が破れて、主が帰って来られる瞬間がある。それを待ち望みつつ、今年も歩んでいかなければいけないことを、私自身、強く教えられています。

 この時代に生きているのは、ある意味、いにしえから今日まで、主に仕えた人たちが最も、期待していた時代であると信じます。最も、エキサイティングな、最も多くの聖徒たちから、うらやましがられる時代に、生きているのかもしれないのです。
 今年私たちが、神の国を地上にもたらせていただくために、神の軍隊が霊的戦いを、さらに前進させなければならないのです。

 神の国という概念は、決して静かな概念ではないのです。敵前上陸のような、緊張感溢れる激しいものです。それは敵の領域に突撃していくようなイメージです。
 今年、主の兵士として、すべての聖徒たちを立ち上がらせよ!と言われています。子どもたちからお年寄りまで、全員参加で敵を打ち破る教会になりたいです。

 私たちは牧場の羊です。昔、見せたことがある写真ですが、羊の上を狼がジャンプしているクリスチャンが多いのかもしれないです。

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 でも、今の時代、このようではいけないのです。これも、昔、見せた写真ですが、こういうクリスチャンにならなければなりません。

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 私たちは敵前に上陸して、敵を打ち破る戦うクリスチャンにならせていただきたいと願っています。

 最後に、メッセージを全てつなげて、私の独断と偏見でまとめてみました。お読みしたいと思います。


==2016年に対する預言的メッセージ==

主は言われる。「わたしの計画はあなたたちの考えつく計画とは違う。わたしの思いはあなたたちと同じではない。」わたしは一瞬にして砂漠を水のある地と変えることが出来る。あなた方の祈りは、砂漠に蒔かれて眠っている種のようだ。時が来れば、砂漠は一瞬にして花園となる。わたしの計画は必ず実現する。

今はヨシュアの世代であることを忘れてはならない。聖戦をふれよ。子どもたちから老人まで、霊的戦いのために奮い立たせよ。いままで直面してきた苦しみや失望、落胆を超えたところに、わたしの祝福がある。あなたは今の場所から、もう一歩前に前進せよ。

門はすでに開いている。まもなく、栄光の王が来られる。そのために備え、全ての場所で賛美し、賛美によって敵と戦え。

今まで蒔かれてきた種が、一斉に芽を出す日が来る。目を上げて畑を見よ。色づいて、刈り入れるばかりになっている。聖く歩み、わたしを喜びとせよ。そうすればあなたは何をしても栄える。

すでに神の国は、悪魔の国に激しく侵入している。今年はさらに激しく悪魔の国が打ち破られるのを、あなた方は見るだろう。今まで以上に、霊的戦いを意識せよ。なぜなら、わたしが帰る日が近づいているからである。

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 このようにまとめさせていただきましたが、このメッセージを、心していきたいと願っています。

 今から聖餐式を行いたいと思いますが、聖餐式というのは、決断の時でもあります。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった。よみがえってくださった。というのは、ある意味で、私たちが神の軍隊の入隊式のようなものです。私たちはあなたの軍隊に入って戦いますと、決断する時でもあります。
 それだけでなく、神の愛を心から感謝する、ひとときでもあります。一言お祈りして、今から聖餐式を受けたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。このようなすばらしいひとときを私たちに与えてくださったことを、ありがとうございます。
 イエス様、あなたも、この地上に一刻も早く帰って来たいと願っておられると信じます。それを準備するために、私たちを使ってください。
 主よ、この聖餐式の時を、決断の時としてください。イエス様の御名によって、祈ります。アーメン。