『主の夢を叶えるために 2016 
 ~悪霊どもを追い出せ!!~

2016年1月3日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書12章28節〜29節

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

 ハレルヤ!おはようございます。そして、新年あけましておめでとうございます。十二月三十一日から四日間、集会が続いておりまして、曜日感覚がなくなっているような気がしますが、やはり日曜日の礼拝は違いますね。なにか、ピリッとするといいますか、普段の日とは違う厳粛さがあります。今日は二〇一六年、最初の礼拝ですが、共に守ることができて、たいへん幸せです。

 二〇一六年、すでに始まりましたが、どんな年になるのか、少々、心配でもあります。しかし結構いいニュースもあります。新城教会にとっては、大変良いニュースです。それは、二月に新東名が開通し、新城にインターチェンジができるからです。こんな事、誰が考えたでしょう。

0003.jpg

 新東名、「二月十三日」に開通です。預言的じゃありませんか。新城教会が変えられたのは、一九九二年二月十三日です。聖霊が注がれて、その日から、教会に新しい道ができたような体験をしましたが、なんと、二〇一六年二月十三日、新城インターチェンジが開通して、豊田東と浜松いなさがつながります。新城教会の宣教範囲がぐっと広がります。浜松のほうからは十五分くらいで来られるでしょうか。また、豊田からは二十分くらいです。こんな時代が来るとは、誰も予想だにしなかったですが、主が国を動かして、新城教会のために、このような高速道路を作ってくださったと、私は勝手に思っています。すべてのことを相働かせて、益としてくださるお方です。本当に待ち遠しいです。

 十二月三十一日は、夜の九時から十二時過ぎまで、カウントダウンワーシップという集会がありました。その時には、新城教会には、現在、私を含めて、六名の牧師たちがいるのですが、私を除いて五名の先生方が二〇一六年に対する導きを求めて、主からみ言葉をいただき語ります。毎回、私はそれを楽しみにしています。それは、新しい年のための一つの指針として、受け取っているからです。今回もたいへん祝福されました。主が二〇一六年に期待しておられるというか、私たち一人一人に期待され、願っておられる事柄があると、ひしひし感じました。別に打ち合わせをして、メッセージを語るわけではないのですが、同じテーマで、主が語っていてくださっているのを見て、本当にうれしく思いました。
 まもなくそれらのメッセージは、文字化され、みなさんのお手元に届きますので、読んでいただき、ご自分でもまとめていただきたいと思います。
 今日は、私に主が告げて下さった二〇一六年に対しての、み言葉をシェアさせていただきたいと思います。

 一日から二日にかけて、全日本リバイバルミッション主催の恒例の「二十四時間PPH」がありました。二十四時間連続で、賛美と祈りを捧げる集会ですが、二十数年続いています。毎年集まって、一日中、主を賛美するわけです。
 強者たちは、二十四時間、集会に出ています。この人たち、いつ休んでいるのだろうと思いました。しかし今回、彼らがいつ休んでいるのか、分かりました。それは、メッセージの時間に休んでいることが判明しました。しかし、それでもいいと思います。主の宮で一日を過ごすのですから。

 その中で今回、新しい企画がありました。先週もお話しましたが、私は若い頃、グロリアシンガーズというバンドをやっていました。父や田中政男先生と一緒に、日本全国の教会をめぐり、伝道集会で演奏していました。
 去年、父が亡くなったことをきっかけに、ひょんな事から、もう一度バンドを再結成して、昔懐かしい伝道集会を再現してCDを作ったらどう?ということで、先週は、私たちの賛美と父が最後に語った伝道メッセージを収録したCDを、発売させていただきました。今日も売っていますから、良かったらお買い求めいただければと思います。懐かしい感じです。
 新しく三曲録音しました。もうお聴きになりましたか?結構いいでしょう。あれは、修正なしです。平岡先生が、「この頃はデジタル技術が発達していることがよく分かりました。」とコメントしていましたが、私たちは修正していないです。なぜならば、プロデュースしてくれた上條頌くんが、「あっ!しまった!忘れた!」と、何を忘れたかといったら、音を修正する機材を家に忘れたと言って、修正なしでやるハメになったからです。「少しくらい音が狂ってもいいじゃん。それも味」とか言われて、それもそうだな、それが現実だもんなということで、整形なしで素でやったのですが、結構いいものができました。そして、PPHでは生演奏をしました。

DSC_3214.JPG

 来られなかった方たち、残念でしたね。かっこいいでしょう。

DSC_3189.JPG

 自分でかっこいいというのもなんですが、親父が死んで兄弟の仲が少し良くなったところがあるのですが、新城教会でも一回くらいお聴かせしたらいいかなぁと思っています。今日やれば良かったな、と思ったのですが、またやりますから。これっきりと言って、けっこうやりそうです。
 案外評判が良かったのです。この日に向けて、私たちは二十数年ぶりに、三回も練習しました。三回練習するのは、至難の業ですが、昔取った杵柄ってやつだなぁと思いました。結構、新鮮なサウンドでした。
 私の息子は、東京でプロのミュージシャンをやっているのですが、私たちの演奏を聴いて、「良かった。」と言うのです。プロがいいって言うんだから、良かったのかと思ったのですが、「なにが良かった?」と聞いたら、「おもしろかった」と言いました。なんだそれ!と思いましたが、おもしろくて、人に喜びを与えるならいいです。

 先ほど聖歌隊の素晴らしい賛美を聴きましたが、「歌いつつ歩まん」という、今日の聖歌隊はうまかったですね。「今日の」じゃなくて、いつもうまいですが、特に良かったですね。今年一年間、歌いつつ歩むことができたら、幸せです。今年は歌いつつ、喜びながら生活ができたら、どんなに幸いでしょうか。

 この一年を幸せに過ごしたかったら、聖書の中に秘訣があります。それは何かと言ったら、「祈りと賛美、そして、み言葉」です。やはり祈りがないと駄目です。祈りって、大変だなぁと思うかもしれないけれど、祈りは未来を切り開くための鍵です。
 今日は、午後から、祈祷会がありますから、是非ともお越し下さい。みなさんをすばらしい場所にお連れします。新城全体が一望できる場所を、去年だったかなぁ、見つけたのです。「新城か。俺の町は見えないじゃないか。」と言う人がいるかもしれませんが、豊橋も見えますよ。豊川も見えます。浜松も見えます。海の向こうまで見える所です。私は十二月三十一日に、密かに一人で行って祈って来ました。

0007.jpg

 ここで祈ると、町全体を勝ち取った気分になれるというか、気分いいですよ。山の向こうがかすんでいますが、浜松です。肉眼ならばちゃんと見ることができます。東三河全体を見ることができます。こういう場所で、まず、霊的勝利を宣言しておくことが、大変重要です。是非、この一年、まずは祈りから始めましょう。

 しかし、祈りで勝利することは確かですが、「私は祈って来たけど、全然答えがない。」という人もいます。私だってあります。「このテーマだけは一生懸命祈って来たけど、なかなかうまくいかない。両親の救いのために祈って来たけれど早、二十年だよ。この祈りは聞かれない・・・。」というような課題もあるのです。しかし、それらの祈りも無駄にはなっていません。

 十二月三十一日のメッセージの中で、二人の先生方が同じようなテーマで語ってくださいました。それが上條実先生と岡本信弘先生です。上條先生のメッセージ、良かったですよ。いつも私がいない時にやっていますから、あまりメッセージを聞いたことがないのですが、良かったです。
 彼には昨年、いろんな試練があって、神様は祈りを聞いてくれないんじゃないかと、少々、不信仰があったみたいです。
 しかし神様が語ってくれたというのです。「わたしの計画、わたしの思いは、おまえたちとは違う。」と、み言葉を通して語って下さり、雨が降っても絶対に無駄にならないのと同じで、地を潤し、収穫のための準備となるように、祈りも、ある時は、全く動いていないかのように見えるけれど、ある日突然、実現する。そのような信仰を持て!と語られました。
 岡本信弘先生も同じようなテーマで語りました。時々、私たちは、砂漠に種を蒔くような気分になる事があります。種を蒔いたって無駄じゃないかと、発芽しないような、祈りもあるのかもしれません。けれども、神は、時を用意されているのです。

 そんな中、語られたのが、南米チリにアタカマ砂漠という砂漠があるそうですが、全く水のない、荒涼とした、殺伐とした場所です。砂漠に行ったことがあるかどうか知りませんが、日本人には基本的に、砂漠という概念がありません。なぜなら、水はどこでもありますから、本当に水のない所に行くと、びっくりします。すごいなぁ、地球にこういう場所もあるんだって。

1.jpg 2.jpg

 私は砂漠に、何度も行ったことがあるのですが、こういう所で水は最も貴重です。水がなかったら人は生きることができませんから。
 ペットボトルの水は、日本では百円以下で買えますが、砂漠で喉が渇いて死にそうな人には、一億円でも売れると思います。
 ここは年間降雨量が数ミリしかないそうですが、去年の三月にエルニーニョ現象の影響で、一晩の内になんと七年分の雨が降ったというのです。今まで降ったことのないような雨が、一晩のうちに突然降ったというのです。
 そうしたら、その後、砂漠がどうなったかと言ったら、こうなったそうです。

4.jpg 6.jpg

 花園になったのです。なぜかというと、この砂漠には、何千年も前から、いろんな所から花の種が飛んできて、埋まっていたからです。しかし水がないので発芽しなかったのです。けれども昨年は突然雨が降った為に、一瞬にして花々が咲き乱れ、こんなにすごい花園になってしまったのです。
 私たちがいつも祈っている祈りも、時には砂漠に落ちた種のような気がする時があります。しかし、神は時を支配しておられ、一瞬にして花園にする準備がなされていると語られました。
 今年、きっと主は何かをしてくださると、私も大きな期待を持つことが出来ました。

 人生とは、何か?去年から語っていますが、多くの人が自分の人生だから、自分のために使えばいいと思っています。しかし、そうではないのです。人生とは、自分の夢をかなえるためではなく、神様の夢をかなえるためにあるのです。
 人生の目的が、「神様の夢をかなえるため」と切り替わると、人生は大きく変わります。

 神様の夢とは何ぞや。これは聖書全体のテーマです。それは、「天と地の創造から始まって、新しい天と新しい地の創造で終わる」のです。何度も語らせていただきましたが、神様の夢とは、この地上に天国を造ることです。
 クリスチャンになったら、永遠のいのちをもらって、どこか遠い星の世界に天国があって、そこに避難するように考えていました。この地球はあまりにも汚れていて悪いから、滅びてしまうという考え方が強かったです。しかし聖書をよく研究してみると、そうではない。イエス様が語られた神の国とは、他の天体ではなくて、私たちの目の前に現れると言われました。
 聖書学の研究が進んで、今まで、キリスト教の伝統の中で公然と語られていたことの中に、当時の文化とか、様々な思想が関わり、影響を受けていたことが知られるようになりました。そして、聖書が言いたいことは何なのかが、はっきしてきたのです。
 それは決して、私たちがこの星から逃げるのではなく、この地にもう一度イエス様が戻って来られ、この地を新しく再創造されるというのです。
 永遠のいのちとは、死後のいのちではなく、死んだ後にもう一度、この地上によみがえって、イエス様の支配のもとで新しくされ、共同相続人となる、それが永遠の命であり、ゴールです。その日を目標にして、生きていかなければならないのです。各時代を生きるクリスチャンは、神様の壮大なプロジェクトの側面をサポートしているのに過ぎません。
 今年、主が持っておられる、新しい天と新しい地の再創造のスケジュールの中で、私たちにやってほしいことがあるのです。
 神様のプロジェクトに参加できて、その一員として働くことができるとは、なんて幸せなんだろう!という思いで生活するなら、人生の価値観は変わるはずです。その事を意識するようになってから、私の信仰も変えられた気がします。
 そして、気がつくと自分の夢も、かなっているのです。しかし自分の夢が先行すると、なかなか、夢はかなわないものです。神様の夢の実現のために働くならば、気がつくと自分の夢も、その中に含まれています。生き甲斐もその中に含まれます。
 誰かが救われるとは、ただ単に、その人が滅びから救われるだけではありません。もちろんそのような側面もありますが、それ以上に、人が神様のプロジェクトに招かれることです。今年は、多くの人たちが、イエス・キリストを信じて、この壮大な新しい天と新しい地の再創造という、プロジェクトに入ってくれるように伝道しなくてはいけません。


 話はちょっと変わるのですが、正月、集会もたくさんあったけれど、我が家はたいへん忙しかったです。東京から孫たちが来て、長篠のほうからの孫たちも来ました。彼らは毎日のようにやって来ますけれど、家は豚小屋状態で、私の家内は、集会はあるは、飯を作らなきゃいけないわで大変だったです。
 息子は今、東京に住んでいて、子どもたちは、近くの教会がやっている幼稚園に通っています。
 上の女の子は、その幼稚園を卒園して、たみぃちゃんというユニークな子が、現在、その幼稚園に通っています。日本キリスト教団の古い教会幼稚園です。昔、父がその教会の伝道集会に行ったことがあると話していました。しかし私の父や、息子たちの事を知っている人は、現在、その教会にはいません。
 その教会幼稚園に一人のおばあちゃんが、長いこと働いているそうです。クリスチャンで、孫たちにもたいへん優しくしてくれるそうです。
 近頃、そのおばあちゃんは健康のために、東京はごみごみしていますが、ウォーキングしているというのです。
 毎日歩いていると、ある公園に、一人のおじいちゃんがいつも座っているというのです。おばあちゃんはクリスチャンだから、「あのおじいちゃんに、福音を伝えてあげたいなぁ」と思いながら、祈りつつその場を通り過ぎていたというのです。
 ある日のこと、勇気を出して、「おじいちゃん。いつもここに座っていますね。」と声をかけたそうです。そして、何度か話すようになって、仲良くなったそうです。

 近頃、おじいさんが、「わしは今度、引っ越すことになった。だから、もうあんたに会えなくなる。それで、あんたにこの本をあげる。」と言って、見知らぬ東京のおじさんが、そのおばあちゃんに一冊の本をくれたというのです。それが何という本だったかというと、「天国は本当にあるのか 滝元明」という本をくれたそうです。そのおじいちゃんは、すでに、誰かから伝道されて、滝元明の本をもらって読んで、それが良かったらしく、公園で仲良くなったおばあちゃんに、その本を渡したというのです。
 本をもらったおばあちゃん、私の息子たちが滝元明の関係者だとは、全く知らなかったのですが、本を読んだら、「あれぇ?うちの幼稚園に滝元さんという人がいるけど、滝元の元が「本」じゃなくて「元」だし・・・。何か関係あるのかな」と、「もしかして、この本の著者と、お宅とは関係がありますか?先日、おじいちゃんが亡くなって愛知に帰るとか言っていたので、何か関係があるんですか?」と、聞いたそうです。『その本は私のおじいちゃんの本です。』と息子が答えると、おばあちゃんは、たいへんビックリしたというのです。本当に不思議ですね。世界は狭いといえば狭いです。
 でも、誰かに関心を持って祈ると、やっぱり主が動かれるわけですね。
 今度、ウォーキングをしながら、「あの人、いつもベンチに座って寂しそうだな・・・。」と、気づいたら祈ってあげて下さい。


 さて、今回、私に与えて下さった御言葉は、マタイの福音書十二章二十八節?二十九節でした。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

 イエス様がこの地上に来られた時、今まで見たこともないような奇跡が起こりました。それは何かというと、悪霊どもが姿を現したのです。人類の真の敵である悪霊どもが、姿を現したのです。
 人類の真の敵とは誰か、それは決して人ではないのです。悪魔とその一味、悪霊どもです。
 そもそも人類を堕落させたのは悪魔です。しかし、その後、悪魔・悪霊どもは、深く潜行して、どこにいるのか分からなくなってしまいました。人々は、ただ目に見える世界だけに支配されてきたのです。しかしなんとイエス様が来てくださって、目に見えない世界が明らかになったのです。「おまえだったのか!おまえが人類の真の敵だったのか!」と、真の敵が露わにされたのです。

 しかし、そんな光景は見たこともないので、人々は、たいへん混乱したみたいです。行く先々で、悪霊が追い出される現象が伴ったからです。
 悪霊とは、霊的存在ですから、姿はありません。姿形はないのですが、人を束縛しています。しかし人が束縛から解かれる時は、見えない力が、人を通して露わにされる事があります。
 それを見たイエス様の周りの人たちは、すごく混乱して、「あのイエスという男は、ゼルベブルという悪霊の力で、悪霊を追い出しているんだ!」と批判したのです。
 しかし、そんな時にイエス様は何と言われたのかというと、今の言葉を語られたのです。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 悪霊が追い出されるとは、おどおどした、奇っ怪な、なんじゃこりゃ!というような光景だったのです。しかし、それが、神の国到来の証拠だったのです。
 やがてイエス様がこの地上に帰って来られ、世界の王となって、この地を支配されるわけですが、すでにイエス様の十字架と復活によって、神の国は到来しているのです。
 それが、どのような形で現れるのかというと、悪霊どもが追い出されることと関連し、広がって行くとイエス様は語られました。
 ということは、神の国の現れ、すなわち、やがてイエス様が帰って来られ、完全勝利につなげるためには、「悪霊どもを追い出す」事が、重要条件であるということです。
 教会が、クリスチャンが、目に見えない敵とどのくらい戦うか、そのリアリティーをどのくらい持つか否かで、主が帰られる日が決定づけられるのではないかと思われます。
 教会にしか、クリスチャンにしかできない働き、それが悪霊どもを追い出す働きです。そして、その火蓋を切られたのが、イエス様ご自身であるのです。


 一九九二年二月十三日。この教会に激しく聖霊様が訪れてくださいました。その事を私は、「主が立ち上がられた日」という本に記しました。この教会に属する皆さんには、是非とも読んでいただきたいと思います。私の本は、韓国語にも英語にも訳されて出版されています。本当に不思議なことです。世界の人たちが、そのことに関心があるのですが、一九九二年二月です。突然、聖霊様が訪れて、リバイバルが起こるのかと思ったら、目に見えない敵が露わにされました。初め、私たちも、ついて行くことができませんでした。しかしそれが、神の国の到来と深く関わっているとは、夢にも思いませんでした。それは後になって気づかされました。

 一九八〇年代、教会には多くの試練がありました。私は結婚して、今年で四十年になります。家内は、今日が誕生日です。六十歳になりました。恐ろしい歳ですね。彼女は二十才の時に私と結婚しました。その後、一九八〇年代は、いろんな問題がまわりにありました。
 私は牧師の息子に生まれて、悪霊のことなんか、全く興味はありませんでした。教会で語られることは、主に、自分と神様との関係しか語られていませんでした。ある時、家内が病気になりました。
 本にも書きましたが、家内は本当に元気だったのですが、突然病気になって、朝起きられなくなり、どんどんやせ細っていきました。体重は三十キロ台になってしまったのです。

 それと共に、先ほど司会をした上條先生。彼は滝元家の兄弟の一人ですが、ちょっと異色で、髪はふさふさしているし、太っているし、背もちょっと高いし、こいつなんなんだろうと、私はいつも思っていました。いいな?とうらやましく思っていました。
 彼の結婚式の時、本当に腹が立つことがあったのです。司式の牧師が「今日は実くんの結婚式だけど、滝元家には男が五人いる。実くんは三番目だ。手のひらを出してみろ。三番目の指が一番高いじゃないか。彼が一番だ。」と言ったのです。その牧師は何が言いたかったかというと、「長男が一番悪い」ということを言いたかったのです。その牧師は私のことを嫌っていたからです。
 しかし彼は、突然、変な咳をし出して、止まらなくなりました。いろんな病院に行ったけれど、原因が全く分かりませんでした。最終的に、東京の慶応大学病院で診察を受けると、背骨の中に腫瘍があるという疑いでした。私もがっくりしました。
 家内も調子が悪いし、上條も病気。二つが同時に来ましたから、へこみました。さらに教会の中にも、いろんな問題が起こって、これからどうなるだろうかと、不安になりました。

 しかしそういう時にこそ、祈らなければいけないです。その頃、私が一番嫌っていたのが、勉強と祈りでした。祈りは大嫌いでした。神様は全部知っているはずだ!なんて、偉そうなことを言っていたのです。しかし問題があると、人は祈り始めるものです。これはちょっとまずいなと思いました。人生の中で、最大の危機だ!と思いました。
 それで、ある夜、私は決断しました。愛知県民の森に行って、祈ってこよう!と思いました。普通では、夜中に一人であんな所に行って祈るなんて、ありえないですけれど、そのくらい追い込まれていたのです。私は一人で、夜中に、愛知県民の森の広場ではなく、頂上まで登って祈る計画を立てました。誰か、ちょっと私のマネして一回行ってみてくださいよ。
 冬の寒い夜でした。一月でした。夜の祈りのために、私は準備して、お腹が空くといけないから、おにぎりを自分で作って、かばんに入れました。家内が、「私が作ったよ。」と言っていましたが、あれ?そうだったかな。自分で作ったと思ったのですが。
 また熱いお茶をポットに入れて、聖書もリュックの中に一度入れたのですが、どうせ暗くて読めないと思って、重いから出して、山に登って真剣に祈りました。寒風吹きすさぶ、山頂の岩の上で、真剣に「主よ助けてください!」と叫んで祈りました。「このままでは、我が家は滅びてしまいます。教会も滅びてしまいます。どうなるんですか!」と叫んで祈りました。

 これほど悪いことが同時に起こるのは、もしかしたら、霊的なことかもしれないと、ちょっぴり思いました。聖書の中に、イエス様が悪霊を追い出した記事があるじゃないですか。だから、ちょっとマネしてみようと思いました。
 夜中の二時頃、愛知県民の森の岩山に立って、悪霊どもに命じて宣言してみました。「悪霊どもよ、よく聞け!今、我が家に、家内に、教会に手出しをしていたら、出て行け!」と、大声で怒鳴ってみました。
 怒鳴った瞬間です。初めての体験でした。私は霊感なんてないのですが、目の前に、真っ赤な顔の天狗が現れました。私はそれを肉眼で見たのか、心の眼で見たのか分かりません。目の前に天狗が現れました。私を斜めから睨んでいるような感じでした。ぞっ!としました。その頃は、髪の毛があったのですが、総立ちになった感じで、その後、どうやって山を下って来たのか覚えていません。転がるように下りて来ました。
 みなさん、この話が嘘だと思ったら、今晩あたり、県民の森の山の上で、試しに怒鳴ってみてください。天狗に会えるかどうかは知りませんが。

 次の日、私は教会に行って、スタッフたちに言いました。「昨夜、県民の森に行って、悪霊!出て行け!と言ったら、天狗が出た!」と言ったら、みんなが、「へへへへっ!」と笑って、「そりゃぁ、夜中にそんな所に一人で行けば、そもそも恐怖心があるから、そうもなるわな?!」とか言って、とりあってくれませんでした。
 でも私は絶対に見ました。私は天狗を見た時、しっぽを巻いて逃げてきたというか、しっぽは別にないけれど、逃げて来た感じでした。これは放っておいてはいけないと思いました。
 次の週、一人じゃ怖いから、教会のスタッフたちを誘いました。「ちょっと一緒に来てくれる?リベンジに行きたいんだけど。」と、同じ頂上に登って、もう一度叫んで祈りました。
 その時は、天狗は出て来ませんでした。聖霊様が訪れて下さった感じで、祈りが止まらなくなって、朝まで祈った経験がありました。
 それがきっかけで、毎週月曜日の夜、県民の森で祈るという習慣がつきました。それは早、三十数年です。
 しかし悪霊に立ち向かう祈りをした後から、家内が知らないうちによくなってきたのです。上條君も見た通りです。今でも髪の毛があります。いつの間にか、教会の問題も消えたのです。
 あれ?もしかしたら、我々が考える以上に、霊的戦いって重要かな?悪霊って本当にいるんだ、と気づかされた瞬間でした。

 でも、私は、「なんで天狗が出て来たわけ?別に天狗じゃなくたっていいじゃん。」と思っていたのですが、後になって、なぜ天狗が出て来たのかが分かりました。天狗なんて、伝説の存在です。実在しません。
 しかし、愛知県民の森の山は、元々は修験者の修業の場です。天狗の面を付けた修験者たちの山なのです。あの近くに天狗の像が祭ってあります。天狗って、伝説の存在だけれど、誰かが霊体験の中で見たから、ああいうのを作って拝むようになったのでしょう。修験道という悪霊を呼ぶシャーマニズムが、あの山で古代から行われていたわけです。
 私は知らずして、その場所で「悪霊よ!出て行け!」と叫んだのですが、それは、天狗のふりをした悪霊に立ち向かうことだったのです。それに気づかされました。

 しかし家族の中に、いろんな問題が起きるというのは、天狗、修験道と家族と関わりがなければ、悪霊は関わってこないはずです。どうしてかなぁと思っていました。
 私は、父の実家なんて、あまり関心を持っていなかったのですが、ある時、主が、「あなたの父が生まれた故郷に行って、とりなして祈って来い!」と、心に語ってくださったので、行きました。それは津具村です。
 父の実家は、橋を渡ると上津具に入って、一軒目が父の実家です。橋を渡った所に、大きな看板があり、何と書いてあったかといったら、「天狗の里へようこそ!」と、うちわを持った天狗の看板が出迎えてくれました。
 実は父の実家の周辺は、歴史的に修験道が強いのです。実家は、修験者たちが集まる集合場所だったのです。
 私のおじいちゃんも、ひいおじいちゃんも、修験道に関わっていて、実家の裏山には、滝元家専用の天狗の祀り場がありました。家系が長いこと、修験道に関わって、天狗を神として拝んでいたことが、滝元家を引き止める力であったことに気づかされたのです。
 それで、神様の前に、家族を代表して悔い改めました。「偶像礼拝やシャーマニズムにつながっていたことを赦してください。結ばれた契約を全て破棄します。」という宣言の祈りをしました。
 それ以後、家内も元気になって、三十数キロだったのが、四十キロになり、四十五キロになり、五十キロになり、五十五キロになり、六十キロ近くまで太りました。この頃は、ダイエットをがんばっていますから、少し痩せましたが、健康が回復しました。
 本当に霊的な存在って、我々が考えている以上に、人生に強い影響を与えているのです。

 聖書をそのような視点で読んだら、よく分かります。私たちは見えない世界で勝利しない限り、見える世界で勝利することは不可能です。クリスチャンには、そもそも見えない世界で勝利する武器が与えられているのです。案外、クリスチャンはそれを使っていないのです。現実の世界ばかりで戦っているのです。
 しかし見えない世界で勝利を取ることを理解すると、人生が変わって来ます。様々な問題にも、いろんな領域に勝利がやってくるのです。それ以上に、その戦いを通して、神の国が近づいて来るのです。神の国の現れと、霊的戦いは大きく関わりがあるからです。

 最後にルカ十章を少し学んで終わりたいと思います。これは二〇一三年に語ったメッセージの復習ですが、ルカの福音書十章十七節?二十節に、こんな言葉があります。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 二〇一三年に語ったメッセージを参考にしていただきたいのですが、この箇所を読むと、一般的には、二十節に、『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』という箇所を強調して、「あんまり霊的戦いなんか強調しないで、あなたの名が天に書き記されている、永遠のいのちをもらっているほうを喜びなさいよ」と理解するのですが、その理解は間違っています。

 以前にもお話しさせていただきましたが、これは、どういう意味かというと、『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』というのは、「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられる」という意味だと、お話しさせていただきました。

 名が天に書き記されるとは、イエス様と一体になるという意味です。イエス様の権威と同じ権威の中に、私たちはおらせていただくのです。
 だから、私たちが出て行く時、イエス様の名前の中にあるがゆえに、「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ服従させられる。」のです。
 私たちは、イエス様の名前の中に含まれた存在ですから、イエス様と同じで、悪霊どもが服従するのは当然なのです。

 この七十人が出て行く時、彼らはイエス様からちょっぴり脅されて、狼の中に羊を送るようなものだと言われました。みんなびくびくして出て行ったのですが、帰って来たレポートは、喜々として、「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従します!」と、大勝利だったのです。
 イエス様は言われました。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』
 この天とは、悪魔の支配している領域を指します。七十人の弟子たちが出て行ったら、悪霊どもは自分の領域から、敗北し、領地を失ったのです。その様子を、イエス様は見たのです。彼らは大勝利で帰って来たのです。

 これが誰に起こったのかというと、「七十人の弟子たち」の中に起こったのです。イエス様には、十二弟子という一軍がいました。七十人の弟子というのは、いわば、二軍です。他の箇所には、七十二人とありますから、ある記者は七十二人、あれ?七十人かなと人数も定かではないのです。名前も記されていないし、名も知られていない弟子たちでした。二人ずつ組にされて、現場に遣わされたのです。本当に不安でしょうがなかったと思います。
 しかしなんと、「イエス様、あなたの名前を使ったら、悪霊どもでさえ、私たちに服従したんですよ!」とレポートしたのは、何を意味しているのでしょう。私たちは十二弟子の一人にはなることはできないけれど、七十人の弟子の一人にはなれるのです。名前が書いていませんから。
 七十人なのか、七十二人なのか分からないような弟子たちにできたことは、私たちにも適用されるのです。イエス・キリストを信じて、天に名が記されるとは、イエス・キリストの権威のただ中に含まれることです。
 時々、私たちは、霊的戦いに恐れることがあります。しかし決して恐れなくてもいいのです。イエス・キリストを信じるならば、あなたは、わたしのただ中にあるのですよ、と言われます。わたしと同じことができるんですよ!と。
 実は、このレポートを聞いて、イエス様は、ルカの福音書十章二十四節、

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』

 聖書に出て来る預言者とか、様々な人たちが、何を願っていたのか、何を見たがっていたのか、それは、救い主と出会い、七十人の弟子たちが体験したことを見たかった、聞きたかったのです。それがあなた方の中に起こっているんですよ。名も知れないような弟子たちの中に起こった出来事は、実は、聖書の登場人物たちが期待していたことだったのです。
 悪しき力が打ち砕かれるとは、聖書の登場人物たちが見たい、聞きたいと、願っていたことだったとイエス様は言われました。

 今年、出て行って福音を伝えることは、霊的戦いです。また社会においてクリスチャンとして堅く立つことも、霊的戦いです。この日本においては、様々な偶像礼拝の習慣や、罪から離れることなど、なかなか難しい状況があるかもしれないけれど、それらに堅く立つことは、霊的戦いそのものです。
 私たちの生活そのものが、霊的戦いです。しかしそれは、イコール、天から悪霊どもが落ちることであり、今年、戦いをしっかりと意識して歩むなら、大きな勝利を見ることができるのです。そればかりか、神の国が近づくのです。神の国の現れ、イエス様が帰って来られる日と霊的戦いは、密接に関わっているのです。その事をしっかりと心に留めて、日々の生活を勝ち取っていかなければならないのです。


 最後にみなさんと一緒に祈って、今年初めの礼拝を閉じたいと思います。イエス様が十字架にかかって血を流し、よみがえってくださったのは、私たちを七十人の弟子の一人のようにして、世に遣わし、主が帰られる道を用意するためです。
 神のプロジェクト、それは、イエス様がやがてこの地上に帰って来られ、この地を天国にするためのプロジェクトです。そのために、みなさんを使おうとしておられます。今日はその為の決断の日として、聖餐式を行いたいと思います。
 ご一緒に祈りましょう。この一年間、霊的戦いを意識しながら、暗闇に立ち向かい、雄々しく、福音を伝えることができるように。イエス様の弟子として、七十人の弟子の一人のように歩むことができるようにご一緒にお祈りして、その後、聖餐式に入っていきたいと思います。ご一緒に声をあげて、一年の勝利を宣言して祈りましょう。


 ハレルヤ。父なる神様、御名をあがめて、感謝します。二〇一六年、始まりました。私たちは年の初めに、戦いの勇士であり、七十人の弟子たちと同じような存在であることを確認して出ていきます。
 私たちは名前が天に書き記されています。あなたと同じ名前の中に含まれていることを信じて、心から感謝します。与えられている権威を、この世を変えるために、やがてイエス様が帰って来られ、新しい天と新しい地ができるために、使っていくことができますように。
 今年一年間、誰一人損なわれることなく、病にかかることもなく、問題で苦しむこともないように。敵の力に挑戦し、勝利を宣言します。
 今日は、イエス様、あなたの十字架の血潮によって、すべての罪が赦され、暗闇の力との契約も打ち砕かれることを宣言します。聖餐式を祝福してください。主の御名によって祈ります。アーメン。