『砂漠が花園になる!

2016年1月10日(日)
新城教会牧師 上條実
第一ペテロの手紙5章7節~10節

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたの ことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

ハレルヤ!こうして、みなさんと共に礼拝を守ることができ、心から感謝します。年末年始の慌ただしさから通常に戻り、皆さんも通常の生活に戻られていると思います。

二十四時間連鎖賛美集会の時、グロリアシンガースが復活して素晴らしい賛美を聞かせて下さいました。その後我が家では、朝誰かが起きてきたり帰ってきた時、グロリアシンガースを歌ってリビングに入ってきます。それも「子どもの頃の思い出」を歌って入ってきます。またある孫は、グロリアシンガースのある人のものまねをして笑わせてくれています。よほどグロリアシンガースの賛美は、若者にとっては新鮮というか、衝撃的だったんだろうなと思います。まあ世の中の歌を歌っているよりは良いと思いますが、いつまでこれが続くか楽しみです。

 また、我が家のためにもいつもお祈り下さり感謝いたします。昨年は様々なことがありました。八月一日に父親が亡くなりました。その後八月九日に三男が婚約式しました。彼の思いは、おじいちゃんが生きている間に婚約式を見せてあげたい、という事でその日にしたのですが、かないませんでした。そして十二月三十一日には、五番目の孫になりますが次男の所に男の子が生まれました。お祈りに支えられて、本当に楽に生まれた様です。分娩室に入って、五分もかからないうちに生まれたそうです。お祈りを感謝いたします。

 そして感謝の中で二〇一六年を迎えることができました。昨年の終わりのカウントダウン・ワーシップでも語らせて頂きましたが、私がこの二〇一六年に与えられたみことばはイザヤ書五十五章八節~十一節です。

『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、 芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 昨年は、本当に私にとって、多くの喜びがありましたが、父の死や家内の病気など、祈らさせられた一年でした。そして正直、自分の信仰を見つめる時でもありました。ここまで主のために奉仕して来たのに、なぜこのような状況になるんだろう?どうして?という思いがありました。
 去年は、戦後七十年ということで、全日本リバイバルミッションでは沖縄七十リバイバルミッションを沖縄県で百近くの集会を展開させて頂きました。また、インドのナガランドやインパールでの集会などで戦後七十年のとりなしと和解の集会をさせて頂き、神様が素晴らしい祝福をくださるという約束の中期待して、二〇一五年を進みました。戦後七十年のみことばとしてエレミヤ書二十九章十節~十一節、

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

主がバビロンに七十年が満ちるころ、将来と希望を与えて下さるという幸いな約束のみことばで、励まされ、二〇一五年を始め、今年は将来と希望を与えていただける年なんだとこのみことばを握り、一年を始めました。

 しかし、現実はそうではありませんでした。
滝元明牧師は、沖縄で多くの集会を担当してくれました。病気があることを判らず、元気に奉仕をしてくれました。しかし六月後半に調子が悪くなり、八月には亡くなってしまいました。正直驚きました。元気でいたにも関わらず、なぜ?と思いました。
また家内の病気のことがあり、先ほども言いましたように、神を信じ、神に仕えていながら、なぜこのようになるの?と苦しんでいました。そんな中インターネットのニュースの中で、南米のチリの砂漠ですごい事が起きていることを知りました。それはアタカマ砂漠という、平均標高は約二千メートルにも達し、その過酷さからアタカマ砂漠への道は「死への道」と恐れられ、世界で最も降水量の少ない地域として知られる大きな砂漠があります。

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 チリ、ボリビア、アルゼンチン、ペルーにも少しかかっていますが、大きな砂漠で東西が百六十キロで、南北が一万キロの大きな砂漠です。

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 昨年の三月、アタカマ地方には28人が死亡し、数千の家屋が破壊される強烈な嵐に伴う大雨が降りました。アタカマ砂漠にも大量の雨が降り、その結果、地表近くで「冬眠」状態であった200もの固有種を始めとした花々が一斉に芽吹き、花開きました。

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こんなにも花々が激しく咲き乱れているのは先例がなく、それも一年に二度もこんなことがあったそうで、こんな事が起こるのはチリの歴史始まって以来のことだったそうです。
今年の暖冬に大きく関係のあるエルニーニョ現象や、地球規模の気候変動が影響しているのではないかと言われていますが、砂漠、雨が降らない所に大雨が降り、一面花畑になった事を目にして、もう一度目が覚めたような気がしました。暗い、辛い所ばかりを見てしまい、なんで?とばかり苦しみ不信仰になっていました。イザヤ書五十五章のみことばのように、私の思いと神様の思いとは全く違う。頭で考えてみても考えが及ばない大きな方。今のわが家の問題や、教会、この日本に対しても、神さまのプランの中で動いている。だから、必ず雨が降ったら、絶対に無駄にならない。砂漠に雨が降り、一面花畑が広がったように、今、自分がどんなに乾ききっていても、必ず主は、雨を注いでくださり、花畑、花園にして下さる。必ず勝利を与えてくださると言うことを、もう一度知る時となりました。
 今まで、一生懸命祈ったこと、今まで奉仕したこと、献げたこと、それが水の泡の様に消える、そんなことをされる神ではない。主は全部ご存じであり、神の時が来た時、奇跡の業を起こしてくださる。それは私にとても慰めであり、私たちの砂漠のような状況に、花園が現れること。長い年月眠っていた事も、必ず神の時に勝利を見せて下さる。神の時があると言うことを教えられました。

 先ほど特別賛美をして下さったBack2Edenの賛美、良かったです。恵まれました。あの歌は、マタイの六章の所を引用して作られたものだと思います。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられるというみことばです。すごく自分も励まされました。心配してはいけない。みことばをしっかり信じ、神を信じて進んで行こうと再確認させて頂きました。自己実現のためにではなく、商売が恵まれるとか、自分が良くなる、家庭が良くなる。経済的に良くなると言う私たちの願いではなく、神の国がこの地に現されるように、節に求めていきたいと思います。
 しかし、先ほど読んでいただいた第一ペテロ五章七節のみことばの中に、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

とあります。私たちの敵である悪魔も生きています。必死になって、私たちの周りを回り、私たちの祝福を奪い取ろうと必死に働いています。種まきの例え、ルカの八章の十二節から十五節のみことば

『道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。』

 ここには四つのパターンがあります。道ばたに落ちた種は、悪魔が持って行く。二番目の岩の上に落ちる種は聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、しばらくして試練の時になると身を引いてします。とあります。この八章十三節をリビングバイブルで見るとこのようにあります。

『次に、土の浅い石地とは、喜んで教えは聞くものの、ほんとうの意味で心に根を張れない状態のことです。 教えられたことはいちいちもっともだと納得し、しばらくの間は信じているのですが、迫害の嵐がやってくると、すぐにぐらついてしまうのです。』

試練や迫害の嵐が来るとぐらついてしまうとあります。まさにそのとおりです。そしていばらの中に落ちるとは、みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。これまたその通りだと思います。しかし十五節に、

『 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。』

と書いてあります。ここに、良い地に種が落ちるとは『正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、』とあります。みことばを信じ、正しい生活をし、良い心で、みことばを信じ続けていく時、実を結ぶ。今日私が語ったことばではなく、神のことば、みことばを信じ続けて行く時、砂漠が花畑になる、花園になるのだということを、ここで教えています。

 先ほどの第一ペテロ五章十節を、リビングバイブルで読んでみますと、こういう風になっていました。

『キリスト様を通して、あふれるほど恵みを注いでくださる神様は、あなたがたに、しばらくの苦しみのあとで、永遠の栄光を与えてくださるのです。神様がじきじきにあなたがたを力づけ、堅く立たせて、今まで以上に強めてくださいます。』

 悪魔が必死になって働いて、良い地に種が落ちないように、邪魔をしてきます。私たちに現実を見させて来ます。不信仰を私たちに見させ、砂漠を見せてくるのです。しかし

『神様がじきじきにあなたがたを力づけ、堅く立たせて、今まで以上に強めてくださいます。』

とあります。神様が直接、じきじきあなたを力づけてくださる。堅く立たせて、今まではすぐに倒れてしまうような弱い者であったとしても、強くしてくださる。神が力づけて下るとあります。ですから、今日、このみことばを剣として持って進んで行きたいと願います。今、どんな状況の中にあっても、真の神を信じるなら、砂漠が花園になるのです。

 先週ここで滝元順牧師が触れていましたが、私は二十九年前ですが、病気になりました。私は調子が悪くなって、地元の病院に行きました。するとその診断は心臓が悪いと言われました。そして治療とて与えられた薬を飲みました。そうしたら症状が益々悪くなってしまい、あまりにも調子が悪くなってしまいましたので、心配した家内が、家内の妹に相談しました。当時妹は東京のとある病院で看護師をしておりましたので、「私の病院には、大変良い先生がいるので、是非、うちの病院に来て診察してもらったら。」ということで、教会にお休みをいただいて、東京の病院に行かせてもらいました。そして、診察してもらったら「心臓ではないですね。」と言われるのです。「肺が悪い」と言われたのです。しかしはっきり病気が何かまだ分からないので「検査入院してください。」と言われ一ヶ月間検査入院しました。なんの病気か特定されないので、薬を頂くこともできませんでした。そして一ヶ月間、検査、検査の毎日でした。本当に辛い毎日でした。
その時、症状の一つに、痛みがありました。それも、脇腹の下のほうで絶えず痛くてたまりませんでした。痛み止めの薬をいつも飲んでいました。そうしたら、今度は胃が荒れ、痛くてたまらない状態になりました。そうしたら「座薬にしましょう」と言われ、惨めなものですが、痛みが来ると隠れてトイレに行き、またカーテンを引いて、誰も見られないように座薬を打っていました。経験者は分かると思いますが、座薬を入れた後、溶け出て、下着が汚れたりして辛い思いをしました。ついに担当医が「最後の検査です。これでなんの病気か分かると思います。」と言われて、私は家内と共にある病院に行きました。当時七十二キロだった体重が、五十七キロまで減りました。歩くのも辛く、体力もなく、地下鉄で向かう途中、紹介状を手にしていましたが、普通ではありえないと思いますが、紹介状の封が開いていました。そこで、見てみるとそこには、「愛知県の何歳の男性で…」と、私の紹介がずっと書いてありました。こんな検査をしたとか読みました。そして、一番最後に、「今、一番疑っているのは、悪性腫瘍です。」というような事が書いてありました。私は、最初理解できませんでした。しかしすぐ分かりました。その日の検査は骨の中に腫瘍があるかないか調べる検査だと聞いていました。「これで分かる。これで最後ですよ。」と医者に言われて私は送り出されたのです。しかし鈍い私は今まで癌を疑われているとは全く考えもしませんでした。その紹介状を見て初めて、「自分は癌なのか?」と初めて癌の可能性があると知りました。その時は教会のスタッフをしていました。講壇からメッセージもしていました。しかし、現実を知り、自分はどうなっちゃうんだろう?家内と子どもを残して、若くて死ぬのか?とか、様々なことを考え、心の中は死に対して恐怖を覚えました。

 死の恐怖で苦しくてたまりませんでした。そして暗闇の中でもがいていた時、不思議なことを体験しました。真っ暗な私の心の中に、一つのみことばが投げ込まれてきました。それはとても有名なみことばです。ヨハネ十四章一節、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

という言みことばでした。私はそのみことばで救われました。「そうだ。大丈夫だ。」本当にあの時、一瞬のうちにですが、「命を取られても自分は天国だ。神様は絶対に悪くしない。」あの時、本当に一瞬でしたが、暗闇から光に、今日のタイトルでいえば、砂漠から花園にガラリと変わりました。そして検査を受けて、結果を聞きましたら、「何も見つかりませんでした。」ということでした。早速担当医に「他に検査することはありますか?」と聞きましたら「今のところありません。全く分からないんです。」ということでした。これを聞くともっと不安が襲って来ると思いましたが、全くありませんでした。とにかく不思議でした。確かにまだ痛みはあるし、数値も悪く、どこかに病気があるのは分かっていましたが、医学では分かりませんでした。私は思い切って、「先生、じゃぁ、病院にいるのも嫌だし、家に帰らせてください。」と言って、退院して家内の実家に帰らせてもらいました。その後も検査や診察のために病院には行きましたが、不思議何の病気が分からず、元気になり、今があります。

 霊的な力が働いていたと思います。悪魔との戦いがあったと思います。また新城教会では一生懸命祈って下さいました。その祈りの結果だと思います。癒されました。あの当時霊的戦いと言うことは全く理解できていない時でした。しかし確かに癒されましたし、神様は生きている!みことばの力は一瞬で人の心を変えることのできる力あることばだと理解できました。死の恐怖からも解放されました。実際に体験させて頂いたのです。今までの奉仕や信仰は、野球にたとえると空振りばかりの状態でした。しかしあの病が癒されたと言うことを体験したことによって、確かに神様がいる。聖書は神のことばで、力があり、今も働くことばだと知り、もう一度再献身しました。
 聖歌の中に「みな捧げまつり」という賛美がありますが、私の全部を使って、あなたのために働きます。「みな献げます。」と、決心して、今があります。

 しかし、現実に、自分の家内が調子悪くなったり、様々な問題が見えてくると、私の心の中に、信仰が揺らいでしまいます。第一ペテロ五章八節に、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

とありますが、目には見えませんが、腹ぺこのライオンがあなたの周りを回っているというのです。あなたの弱点を悪魔は握ろうとしています。急所を探して、一番痛い所を掴んでやろうと思って働いてきます。悪魔は痛いところが分かっているのです。その痛いところを突いてくるのです。食い尽くそうとしてきます。しかし先週の礼拝で語られた様にマタイの福音書12章28節から29節

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

まず強い人を縛っておく必要があります。悪魔に対して戦わなくてはいけません。霊的戦いを意識しながら、暗闇に立ち向かい、雄々しく、福音を伝えることができるように。イエス様の弟子として、七十人の弟子の一人のように歩むことができるようにしなくてはなりません。また私たちは信仰の大盾があります。完璧な守りを神様からいただいて、戦って行く事が大事だと先週教えられました。急所を狙って来ても、いつも主が助けてくださいます。申命記三十一章八節に、

『主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」』

 このみことばを読むと理解できるのです。「恐れてはいけない。神様がいるんだ。」と分かるのです。しかし、悪魔は、砂漠を見せて来ます。現状を見せて不信仰にさせてきます。「こんな砂漠がある」と見せて来ます。しかし今日、もう一度、私があの病の中で立ち上がったように、みことばだけに土台を置いて行きましょう。みことばは剣です。

 滝元明牧師が亡くなった後、よくここで話されるみことばが、モーセの時代からヨシュアにバトンタッチした。というみことばが語られます。そしてモーセの時代からヨシュアに変わり礼拝のスタイルが変わったと語られました。昼は雲の柱、夜は火の柱で、いつも主の臨在があった。しかしはヨシュアの時代になったら、戦いの中で礼拝していくというみことばが語られていました。霊的戦いを今年おし進めていくことを再度教えられました。 私は聖書を読みながら、モーセとヨシュアとまた違う人物たちを思い出しました。それは誰かというと、エリヤとエリシャです。エリヤの時代からバトンタッチして、エリシャに変りました。第二列王記二章九節に、

『渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。』

というふうに書いてあります。

 『あなたの霊の、二つの分け前が私のものにしてください』

 と言っています。そしてエリシャは二つの分け前をもらいました。今回いろいろと調べて見ました。また神学校の校長であられる山崎ランサム先生に聞いて見ました。するとその二つの分け前というのは、これは長子の特権で、「あなたを正式な跡継ぎとしますよ。」という意味もあると教えて下さいました。エリヤの跡継ぎとしてエリシャ任命されたのです。
 エリヤはバアルの預言者たちと戦いました。それは第一列王記十八章に書かれてあります。その時は、バアルの預言者四五〇人対エリヤとの戦いでした。直接対決でした。一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せ、火をつけてはならないで、あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。と戦いました。ご存じのようにバアルの預言者が祈っても火が降ってきませんでした。
 しかしエリヤが祈ると火が降ったのです。この時は、三年六ヶ月間雨が降っていませんでした。そんな中で、エリヤは民全体に「私のそばに近寄りなさい。」と言って近寄らせ、主の祭壇を建て直し、ヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘り、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、その後四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。と言いました。そしてそれを二度、三度せよと言三度水をたきぎに注いだのです。水は祭壇の回りに流れ出て、みぞにも水が満ちました。三年六ヶ月も雨が降っていない状況の中で、水をかけたというのです。それも調べてみると海水ではなく、真水。飲み水です。みんなが喉から手が出るほど欲しいその水を、かけさせたのです。そしてエリヤは祈りました。そして火が降り注ぎ、「主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。」とあります。直接対決で勝利をえました。そしてエリヤは「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。とあるようにバアルの預言者たちを全部殺しました。
 しかし、エリシャの時代になって戦いが変わりました。第二列王記六章十五節~十七節、

『神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。』

 第二列王記六章八節から十二節

『アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

アラムの王がイスラエルとの戦いの中でエリシャの存在を聞きました。エリシャがアラムの戦い方を全部知り、アラムは惨敗した。アラムの王はエリシャ捕まえる為に馬と戦車と大軍とを、エリシャがいるドタンに夜のうちに来て、その町を包囲したのです。

 第二列王記六章十五節から十七節

『神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。』

エリシャの召使いが、朝天幕から出ました。そして軍隊が取り巻いているのを見て、恐れたのです。砂漠のような状況です。もうこれは駄目だと、あきらめてしまうような状況です。しかしエリシャは召使いの目を開いて、見えるようにしてくださいと祈りました。そして目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていたことが分かったのです。
 そして、その後、六章十八節から二十四節を見ていきますと、エリヤはバアルの預言者と直接対決でしたが、エリシャはアラムの軍隊が向かってきた時

『アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。』

不思議な戦い方をしました。目が見えなくなるように祈り、みなが盲目となり、その軍隊をサマリヤまで引き連れて行き、今度は目が開かれ見えるようになれと言い、目が見えるようになりました。イスラエルの王は「私が打ちましょうか」殺しましょうかと言いました。しかし殺さず、逆に飲み食いさせ帰したのです。本当に不思議な勝利を持つことができました。私たちは、今年、霊的戦いの中で、やはり根源である、その悪魔を打ち砕くことが大切だと学びました。今年は戦いましょう。しかし私たちは霊的な牙城に行って、祈ろうと思っても、仕事や日常生活の中ではなかなか祈ることができません。今年は出て行って福音を伝えることが霊的戦い。また社会においてクリスチャンとして堅く立つことも霊的戦い。私たちの生活そのものが、霊的戦いだと先週語られていました。そして今年、戦いをしっかりと意識して歩むなら、大きな勝利を見ることができると語られていました。そればかりか、神の国が近づく。神の国の現れ、イエス様が帰って来られる日と霊的戦いは、密接に関わっている。その事をしっかりと心に留めて、日々の生活を勝ち取っていかなければならないと言われました。その通りだと思います。私たちはみことばに沿って、みことばに土台を置いて進んでいきたいと思います。
 悪魔は急所を押さえたい。一番の弱点を取って、「神様を信じても無理だ。」と戦ってきます。しかし私たちの神は生きています。そしてみことばは今も生きています。みことばを信じて、宣言していきたいと思います。みことばをいくつかご紹介したいと思います。

 ローマ人への手紙二章十一節、私の大好きなみ言葉の一つです。

『神にはえこひいきなどはないからです。』

 エリヤはすごい。エリシャはすごいと思います。しかしえこひいきはありませんと言うことは、神の目はエリヤやエリシャ、そしてあなたも同じ愛で愛して下さっています。平等に私たちを愛してくださる神さまです。そして、ヘブル人への手紙十三章八節、

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

 聖書の時代と今と違いはありません。神は今も同じように働き、癒し、奇跡等、素晴らしい神さまです。また有名なみことばイザヤ書四十三章一節~四節リビングバイブルで読んでみたいと思います。

『だが、イスラエルよ、あなたを造った神様は、今こう慰めてくださいます。「わたしが敵の手から買い戻してやったのだから、こわがるな。わたしはおまえの名を呼んだ。おまえはわたしのものだ。たとい水の中をくぐり、大きな困難にぶつかっても、わたしはそばにいる。悩みの川を渡る時も、おぼれはしない。反対の火の手が上がり、そこを突き抜けていく時も心配はない。炎はおまえを焼き殺さないからだ。わたしは主、おまえの神、おまえの救い主、イスラエルのきよい神だ。わたしはおまえを自由の身とする代わりに、エジプトとエチオピヤとセバを〔クロスに〕与えた。おまえを生かすために他の者が犠牲になった。おまえのいのちを買い戻すため、他の者のいのちで取り引きした。わたしにとっておまえは、愛してやまない、かけがえのない国民だからだ。』

 分かりやすいと思います。私を高価で尊いと言って下さり、愛して下さった神は、わたしにとっておまえは、愛してやまない、かけがえのない国民だからだと言って下さっています。なんと幸いなことでしょう。また、イザヤ六十三章九節、

『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』

 私が苦しい時には、神も苦しいんだと書いてあります。共に戦ってくれています。私たちは、砂漠を見て、苦しみ、不信仰を抱いてしまうと、何を不信仰を持っているんだと怒られる神様のように考えてしまう時があります。しかし、そうではなくて、一緒に苦しんでくださって、救って下さる。背負ってくださる。というのです。だから今日、私たちは神さまに信頼して、神さまは絶対に忘れはしないし、あなた一人を愛してくださっていると信じましょう。ローマ書八章三十七節~三十九節を読みますと、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 そしてあなたを愛してくださっている神さまは、圧倒的勝利者だとあります。完全勝利を与えて下さる神さまです。しかし仕事が忙しかったり、自分はもう年で戦えないとか、病がある。砂漠の真ん中にいるから戦えないと言われる方が多くいらっしゃいます。しかし、みことばは今も働き、圧倒的勝利があります。吠えたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔を打ち砕く事のできるみことばがあることを信じましょう。みことばの権威を回復しましょう。みことばは剣です。みことばを宣言しましょう。会社でも、学校でも、出かけて行くどこででも宣言しましょう。床の上でも、食事の前でも、いつでもいいので、宣言しましょう。その時に、圧倒的な勝利を私たちに与えてくださいます。
 今日私たちが砂漠になってしまっている所に宣言しましょう。今は砂漠であっても、必ず花園になる。私たちの神は、今も生きていて、今も働きます。
 私もみことば、ヨハネ十四章一節

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

で不思議ないやしを体験しました。みことばは今も生きています。あなたのために十字架で命をかけてくださり、葬られ、三日目によみがえられた神さまを信じて今から聖餐を受けたいと思います。圧倒的な勝利者である神。あなたは弱いけれども、あなたを守ってくださる神は今も生きていることを信じていきたいと思います。一言お祈りします。


 愛する天のお父様。私たちには砂漠があります。しかし、今日私たちの手には武器があることを信じます。みことばがあることを信じます。知らない間に、権威を失ってしまっていたことを許してください。もう一度、みことばには力がある。権威があることを信じます。戦って行きます。砂漠を花園にして下さい。今、私のために十字架に架かり、葬られて、三日目によみがえってくださったイエス・キリストを覚え、聖餐を受けます。この聖餐を祝福してください。今日はその聖餐を受ける時、砂漠が花園のようになりますように。感謝して祈ります。アーメン。