『悪霊どもを追い出せ!パート2』

2016年1月17日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書12章28節〜29節

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。共に礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。
 今日は一月十七日ですが、今から二十一年前になりますか、阪神淡路大震災が起こった日でもあります。次に何が起こるのか分からない中に住んでいるわけですが、今年も主の御手の中で守られるよう、祈っていきたいと願っています。

 昨日はミュージックスクールが行われていて、若い世代が一生懸命練習している姿を見て感動したのですが、それに先だち、子どもたちだけの賛美大会があって、それを見て、本当に恵まれました。子どもたちがミュージックスクールで一生懸命練習して、少し大人も手伝っていましたが、自分たちで賛美集会を開き、賛美リードも子どもたちがやっていました。
 先ほどの聖歌隊も、すばらしい賛美を捧げてくれました。「いずくまでもゆかん」と歌っていましたが、いずくってどこだいという感じですが、どこまでも付いて行こうという意味だろうと思うのですが、おじいちゃん、おばあちゃんから子どもたちまで、真剣に主に仕える姿はすばらしいです。ドラムもベースも子どもたちです。麗しいじゃないですか。大きな拍手をしましょう。

 昨年も話しましたが、神様の国の働きは「全員参加型」です。子どもたちから大人、老人まで、全員参加して、イエス様が帰られる道を作るのです。
 そんな中、世界宣教の働きは大変重要です。今年も、ネパール宣教があります。日程が決まりました。七月二十九日から八月四日までです。ちょっと期間を短くしました。なぜかというと、今回、特別対象としている人たちの為です。それが誰かと言いますと…。おじさんたちです。
 おじさん達を対象にしています。今年はおじさん達にぜひ、ネパールに行ってもらいたいです。みなさんの中でおじさんたちは、どのくらいいますか。大勢おられますね。若者たちにも行ってほしいですが、やはり、おじさん達が行ってくれると、この国は変わるんじゃないかなと思うのです。おじさんたちと一緒にネパールの山に立ちたいと考えています。私はおじさんというより、おじいさんになってきましたが、がんばって参加したいと思っています。是非とも祈ってください!…というか、決断してください。決断です。決断したら、道は開けます。

 今日も、「悪霊どもを追い出せ!」というテーマでお話します。「悪霊どもを追い出せ!」というテーマは、教会はあまり扱っていないのですが、たいへん重要なテーマです。なぜなら、今読んでいただきましたマタイ十二章に、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 神の国とは、究極的には、イエス様がこの地上に再び帰って来られる「再臨」を意味します。イエス様が帰って来られるために必要なのは、悪霊どもを追い出し続けることです。
 以前に何度もお話ししたように、イエス様が十字架にかかり、息を引き取られた瞬間、神殿の幕が上から下まで破れたのです。

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 それに続けて何が起こったのか、それは「墓の中から聖徒たちがよみがえった」のです。墓の中から聖徒たちがよみがえって、三日目にイエス様が墓から出て来た時、一緒に現れたのです。
 イエス様の十字架のただ中で起こったこの事件は、イエス様の十字架に埋もれて、見えづらいところもあるのですが、すごいことです。イエス様が息を引き取った瞬間に、なんと墓が開いて、聖徒たちがよみがえったのです。
 幕が破れるとは、イエス様が地上にもう一度戻って来られる、再臨を意味します。

 今でも、イエス様は、私たちのすぐ側におられます。しかし幕があって、見えません。イエス様が共にいてくださいます!と、いつも聞いていますが、どこにおられるんだい?と、全然見えない、と言うかも知れません。
 人の死は、ある意味、瞬間的に、幕の後ろ行っちゃうような感覚です。
 私は父の死ぬ瞬間をネパールから見たのですが、それまで父は寝返りをうったりしていました。昨日も息子と話したら、死ぬ二時間前くらいに父はトイレにも行ったというのです。だんだん血圧が下がって来て、危ない時に、「がんばって!」と耳元で叫び、声をかけたというのです。そうしたら、「ちょっと静かにしてくれんか。」と言われたそうです。それまでは、生体反応があったのです。
 しかし死んだ瞬間、いくら声をかけても、全く反応しなくなりました。死って、神秘的だなぁと思いました。幕の後ろにくるっと、隠れてしまったような感じがしました。今まで、そこにいた人が、瞬間的にいなくなっちゃうわけですから。

 先週は、小野紘毅さんという方が天に帰りました。彼がこの教会に来られるようになって、十二年が経ちました。彼は寝たきりで、あまりこの場所には来られなかったのですが、新城教会の男性スタッフたちは、一番彼と出会っていました。なぜなら、毎週訪問して、共に祈ったり、家庭集会をやっていたからです。七十一歳で亡くなられました。家族だけの召天式でした。死って不思議だなぁと思います。
 しかし死んだ人たちは、消えたのではないのです。ある意味、私たちのすぐ近くにいると思われます。なぜなら彼らは、イエス様と一緒にいるのですから。イエス様が私たちのすぐ側におられるのなら、死んだ人たちだって、近くにいるはずです。でも、手は届きません。
 しかし、イエス様が帰って来られる日には、生ける者と死者の世界を隔てていた幕が破れて、死者たちが飛び出して来るはずです。イエス様の十字架の時に起こった事件は、やがてイエス様が帰って来られる日を現しているわけです。
 イエス様が地上に帰って来られる日、神の世界、死者の世界、そして人間の世界を仕切っている幕が破れるのでしょう。その時、死者たちは出て来るし、なによりも、イエス様の姿も見えるようになるのです。そして、イエス様が世界の王となって、世界を治めるようになります。これがイエス様が帰って来られる瞬間です。

 今年、そういうことが起こったら、すばらしいと思います。イエス様が世界の王となるわけですから、世界には絶対的な平和が訪れます。この地を新しく造り直されるので、二度と悲しい出来事もなくなります。地震もなくなるし、天災もなくなるし、犯罪もなくなる。差別もなくなる。天国が、この地上に実現するのです。クリスチャンは、そのことを目標にして祈り続けなさいというのです。

 幕が破れる為には何をしたらいいのか。それは、暗闇の幕を破り続けなければいけないのです。
 去年も、堤防が決壊して大洪水になった地域がありました。堤防の決壊も、初めは堤防に小さな穴が開くのです。水がちょろちょろ流れ出るのです。その時に手当てをすれば、堤防の決壊は起きないけれど、放っておくと、ちょろちょろが、じょろじょろになって、最後には堤防が切れて、街が水浸しになるのです。これは悪いほうの例です。
 イエス様の再臨も、ある意味、同じだと思います。ちょっとずつ、小さな神の国がこの地に訪れて、それがどんどん広がって行くと、ある日のこと、幕が破れて、霊的世界が決壊するのだと思います。暗闇の幕が破れたのをどこで確認出来るかというと、今読んだように、『しかし神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』というわけです。

 神の国とは真っ暗闇に穴が空いて、光が灯るようなものです。これを続けて行くと、光の穴が広がるのです。

 悪霊をどんどん追い出していけば、神様の領域が広がって行きます。すると最後に、イエス様が地上を火で聖めて再創造し、世界の王となられます。

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 霊的戦いにより、悪魔の領域に穴が開くのです。でもまだ、幕は破れません。しかし、どんどん続けて戦っていくと、やがて幕が破れて、イエス様が姿を現されるのです。

 ということは、悪霊どもを追い出し続けなければいけないのです。
 十字架によって神殿の幕が破れたのは、象徴的な出来ごとだと思われます。幕を破り続けていけ!やがて再臨に続く!ということです。

 最近、科学の世界においても、宇宙には幕があるのが分かってきました。高次元の幕があるというのです。見える世界だけではなく、目に見えない高次元があるのが分かってきました。ある一点に高エネルギーがかかると、次元の幕が破れる事が分かってきました。昨年、少しお話しさせていただきましたが、究極的な幕が破れるのは、イエス様が帰って来られる日です。しかしすでに十字架の勝利から、神の国は地上に侵入しているのです。
 神とは、すべての次元を造り、次元の外におられるお方です。そのお方が地上に侵入されたら、地上は全く新しく造り直されなければ起こりえないことです。新しい天と新しい地を創造し、神の国が地上を征服する日が来るのです!それが、イエス様が再び帰って来られる日です。そのために必要なことは、悪霊を追い出し続ける事です。

 今年は、一丸となって、幕を破るために働きましょう。では、具体的には何をしたらいいのかといったら、「悪霊どもを追い出し続ける」ことです。そうしたら、早く、イエス様とお会いできると思います。先に天に帰った人たちにも、再び会えるのです。みんな幕の後ろから飛び出して来ます。本当に楽しみです。
 その日、私たちは、栄光のからだに瞬間的に作り直されます。その日を楽しみにしてくださいね。歳を取ったって、失望することはありません。髪の毛だって、瞬間的に生えますから。私なんか、その日、どういう髪型にしようか、今から楽しみにしています。早く幕が破れないかなぁと。

 でも、悪魔は何をするのかといったら、幕が破れないように真剣にとどめる働きです。幕の破れは、自分たちの最後の日です。そうならない為には、何しろ社会を悪くし、幕が破れないように真剣にとどめるのが、悪魔の働きです。悪魔・悪霊どもはみなさんの所に来て、みなさんをいじめて喜んでいる存在なのか・・。そんな事にはあまり関心はないと思います。もしも、あなたに悪魔が攻撃を仕掛けるとしたら、あなたは相当、幕が破れる為に重要な人物だからです。あなたが神様のために働くようになったら、幕が破れることにつながるから、働きをとどめたいのではないかと思います。
 悪魔の究極的な目的は、イエス様が帰って来られるのを阻止する働き以外の、なにものでもないのです。私たちはそのことをよく理解し、敵と戦わなければなりません。

 どうでしょうか。世界の情勢を見たら、良いほうには全く進んでいないです。悪いことばかりです。これから、世界はどうなるのか、本当に心配になります。どうしてかといったら、悪魔が真剣に、幕が破れるのを阻止しているからです。

 今から話す話は、あんまり恵まれる話ではありません。クリスチャンって、真理は知っていますが、真実をあまり知っていないのではないかと思われます。特に、現実を知らないクリスチャンが多いのではないかと。
 真理を知ったクリスチャンが、現実を知ったら、敵の力は破られるのです。だから悪魔は、私たちが真理を知る事は致し方ないとしても、真実を知らせる事に関しては、なんとかとどめたいと考えているのではないかと思います。
 こういう本があります。

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 「宣教師が観た、天皇制とキリスト教」、これは一九九〇年代に書かれた本ですが、著書のヤングという人は、両親が宣教師で、それも、一九〇〇年代の初頭に、中国と朝鮮半島の宣教に関わった人たちです。
 ヤングさんは、宣教師の息子として、日本が朝鮮半島を支配しているただ中に生まれました。日本の帝国主義がアジアを支配しているただ中に、親子二代で身を置いた人なのです。彼が晩年、この本を書きました。「宣教師が観た、天皇制とキリスト教」という本です。
 この本の内容は何かというと、「二度あることは三度ある」という事です。私たちもよく言います。「二度あることは、三度ある」。それは「歴史はくり返す」という意味です。「二度あることは、三度目があるから、気をつけろ!」という警告の本です。

 キリスト教は、どのように広がってきたのかというと、イエス様を信じたら、みんなハッピーになって、問題が解決して、幸せになった!嬉しい!と、人から人へ伝わった面もあるのですが、事実はそうではないのです。どのようにしてキリスト教は伝わったかといいますと、「迫害」です。
  使徒の働き八章一節〜八節に、こんな記述があります。キリスト教が爆発的に世界に出て行くきっかけとなった事件です。

『サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』

 エルサレムからサマリヤの町に、リバイバルが伝播した様子が記されているのですが、リバイバルが、どういう中で前進したかというと、実は、迫害だったのです。宗教学的に言えば、激しい迫害が起こってキリスト教は、世界宗教となったのです。
 最初、サウロという男がクリスチャンをひどく迫害していたのです。しかしこのサウロが、やがて主に捉えられ、パウロと改名され、宣教する側に立ち、私たちの信仰の基盤を作ったという、すごい出来事につながるわけです。いずれにしても、迫害が宣教の根底にあるわけです。

 今、私たちは信教の自由を、憲法二十条によって保障されています。自由に礼拝を捧げることができます。本当に感謝しなければなりません。
 しかし今後、どういうことが起こるのかは、予想がつかない時代に私たちは生きているのです。今、マスコミなどでも報道されているように、「憲法改正」が叫ばれています。憲法が改正されたら、必ずしも、信教の自由が保障されるかどうかは分かりません。それは疑わしいのです。
 もしも将来、憲法が改正され、教会が迫害される時代になったら、みなさん、どうしますか?今日ここに、多くの方が来られていますが、教会に行くことが違法となったり、礼拝が困難になった場合、あなたは、どういう立場に立ちますか?「それでも私は信仰を守り通します!」と、もしかしたら、今から決断しなければいけないのかもしれません。そんなふうになったら大変です。でも、それが現実味をおびてきました。

 今紹介した本は、「二度あることは三度ある」と警告しています。日本には、歴史において大きく分けて、二回、迫害があったのです。クリスチャン迫害が、二度起こったのです。そして、放っておくと三度目が必ず起こるというのです。
 最初の迫害はいつかというと、十六世紀のことです。「以後よく(一五四九)伝わるキリスト教」と言ってローマ・カトリックが入って来た時です。カトリックが入って来た時、日本人はものすごく大勢、「キリシタン」になりました。
 しかし、その後、キリシタン大迫害が起こりました。もしも江戸時代などに生まれていたら、クリスチャンにはなれなかったと思います。江戸時代には、各所にこういう立て札が立っていました。

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 これは高札という江戸時代の掲示板です。ここに「キリシタン宗門禁制」とあって、「ばてれん」とは宣教師です。「いるまん」とは、伝道師みたいな存在です。「立かへり者」とはキリシタンをやめても、戻った人のことです。銀五百枚とか、三百枚って、書かれていますが、これは今の金額に直すと、数千万円単位です。キリシタンを見つけたらすごい懸賞金が出たのです。捕まったキリシタンたちは十字架にかけられて、殺されたりしたわけです。
 また、キリシタンにならないように、「五人組制度」が作られました。

 「五人一組でグループを作らせ、相互監視と、治安維持、そして年貢徴収のための連帯責任を負わせた。特にキリシタン検索と摘発に大きく利用された。」

と言われます。
 もしも、見つかったら、五人組の中だけでなく、周辺の家々も、一族も、罰せられたわけです。
 五人組制度は、なんと、明治時代になっても継続されました。今、どうでしょうか。日本って、なかなかクリスチャンになりにくい環境がありますよね。これはどうしてかというと、五人組制度の影響です。

 海外から見ると、日本人は性格が暗いと言われます。また、知らない人と、あまり話をしないです。
 今日、礼拝が終わったら、私は東京集会の為に東京に行くのですが、山手線なんかに乗りますと、友人以外で隣の人と話している人は、ほとんどいません。みんなスマホを、ぴこぴこやっています。知らない隣の席の人が、あなたのスマホを覗いて、「何をしてるんですか?」と声をかけたら、どうですか?大変なことになります。お互い絶対にそんなことは、しないですよね。
 でも、日本からちょっと外に出ると、知らない人ともけっこう話しをするのです。前にも話しましたが、私は韓国に行って地下鉄に乗った時、隣の韓国人のおじさんが、『あんた、日本人か?』とか言って、日本語で話しかけてきました。「はい。そうです。」と答えたら、何しに来たと聞かれたので、「私は牧師です。韓国の教会に来ました。」と言ったら、私の服装を見て、『その服装でも牧師か。』なんて言われました。要らんお世話だと思ったのですが、『韓国の牧師はちゃんとネクタイしている!』と言って、また他の人も話しに加わってきました。
 『あんたたち、今からどこ行くんだ?』「南大門に買い物に行く。」と言ったら、『なんで韓国まで来て、買い物するんだ。日本に何でもあるじゃないか。』と言うわけです。
 「南大門に行くと韓国の文化が見えるから。」と答えると、『文化を知りたかったら博物館に行け。』なんてつっこまれて大変です。そして、最後には、自分の人生話でした。『私は生きる目的が分からん。』とか言うもんだから、私もおじさんに伝道して、地下鉄の中でお祈りしてあげました。そんなのが普通なわけです。

 またアメリカなんかに行きますと、人気のあるレストランには列ができます。日本人も、この頃は行列を作るようになりましたが、行列は、だいたい嫌いですよね。なぜかというと、待つのがじれったいからです。
 でも、アメリカなんか、一時間でも二時間でも平気で待つのは、知らない人とぺらぺらしゃべるからです。ああでもない、こうでもないとしゃべるのです。私はジョー先生とレストランなんかに行くと、先生はいろんな人としゃべるわけです。
 「親戚?」と聞くと、『いや、知らない人。初めて会った。』とか言うわけです。でも、日本人は、どうですか。全くしゃべらないです。

 日本人は、性格が暗いものだと思っているかもしれませんが、カトリックが入る以前は、めちゃ明るかったそうです。めずらしいものがあると、「なになに?」と、すぐに寄って行く人たちでした。だから簡単にキリシタンにも改宗したわけです。
 でも、今、暗いのはなぜかというと、五人組で縛られたからです。「自分は性格的にちょっと内向きだ。私の性格は暗い。」とか思わないほうがいいです。五人組の束縛を打ち破らないといけないわけです。迫害により、日本では、キリスト教は迫害されて、伝わりにくくなったわけです。

 続く明治政府によっても、教会は大きく迫害されました。以前にもお話ししましたが、帝国主義の時代は、教会は「宗教団体法」で、国家の下に全てまとめられ、礼拝はしてもいいけれど、その前に神道の儀式をやれということでした。なんと十字架の上に神棚が置かれたのです。
 下條先生は幼い頃、その光景を見たと言われました。「なぜ、十字架の上に神棚があるんだろう。」と、すごく不思議に思ったというのです。
 牧師が礼拝が始まる前に、神棚を拝んだのです。また、君が代を歌ったり、宮城遙拝といって、天皇が住んでいる方角に向かって頭を下げて、それから礼拝を始めたわけです。だから、一般のクリスチャンたちは、その儀式に出るのが嫌だったので、礼拝に遅れてやってきたというのです。その習慣が、今まで残っていると言われるわけですが、今日も礼拝に遅れた方々は、帝国主義の影響で遅れたのでしょうか。そのように教会は、国の管制下に置かれた時代があったのです。それに反発した教会、クリスチャンたち、牧師たちは投獄され、拷問により、獄中死した人たちも多くいます。

 つい最近まで、七十年ちょっと前まで、そういうことがあったわけです。大きくわけて日本の歴史で二回、迫害があったのです。そして、「二度あることは三度ある。また来るぞ」というのが、先ほどの本が警告している事です。
 私たちは、そういう時代が来てもあわてないように、準備しておかなければいけません。また、来ないように、祈らなければなりません。これは、たいへん現実的な問題です。
 しかし、聖書は、「二度あることは三度ある」ではなくて、「二度目でとどめられて、三度目はない」という記事もあるのです。
 みなさん、どちらがいいですか?二度あることは三度あるという法則に従って、日本の教会が迫害され、苦しい時代が来るのがいいのか、二度目でとどめられて、阻止されて三度目が来ないほうがいいのか、どちらがいいですか?絶対に阻止された方が良いですよね。

 そのために必要なのが、やはり「霊的戦い」です。いまからの話も、去年扱ったメッセージなので、思い出していただければよいのですが、エズラ記五章一節〜五節に、こんな記述があります。

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

 ユダの人たちは七十年間、バビロニア帝国で捕虜になっていました。七十年後に解放されて、自分たちの国に帰ることができたのです。七十年、自分の故郷を留守にしたのです。
 どうでしょうか。七十年間、自分の家を留守にして、帰ってたら、家はどんなふうになるでしょうか。

 ちょっと話は変わるのですが、先週は、九州に行ったのですが、九州リバイバル聖会の講師として行きました。九州リバイバル聖会は、私の父と田中政男先生が始めた働きで、今年で三十六年目になります。よくぞ続いて来たと思います。三十六年間、九州でリバイバルを求めての聖会が続けられています。

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 これが先週の写真ですが、多くの方が全土から集まって、皆でリバイバルを求めて祈りました。本当にすばらしい集会でした。

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 今、それを運営しているのは、初代の牧師たちではなくて、二代目の牧師たちでした。働きは新しい世代に受け継がれていました。すばらしいなぁと思ったのですが、今回の講師は私と、福島第一原発の五キロ手前にある教会の牧師だった、佐藤彰先生夫妻でした。

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 先生たちから、震災、原発のことなど、いろいろ、聞いたのですが、この教会は原発事故で使えなくなって、今は、他の場所に新しい教会を建てたのですが、時折、自宅に帰ることが許されるそうです。それもすごい防護服を着てしか、帰られないそうです。帰るとすごく悲しくなるというのです。なぜなら、原発から五キロ地点は帰宅困難地域で、もしかしたら、永久に戻れないかも知れないというのです。
 今年で、五年経ったのですが、入って行くと、家の中でいのししが出産して、血だらけになっていたり、ねずみが大運動会をしていて、ねずみ取りなんか仕掛けると、回収に行けないから、ねずみ取りにかかったねずみが腐って、ウジが湧いて、さらに大変になっているというのです。五年でそんな感じですから、七十年間、ユダの人たちが国を留守していたのは、相当だったと思います。

 でも、ユダの人たちは、帰ったら、すぐに神の宮を建て直し始めたのです。かつて、ソロモンが建てた神の宮が破壊されていたのを、もう一度、建て直して礼拝を回復しようとしました。礼拝所を建て直し、また町を再建し始めました。すると、何が起こったかというと、川向こうから敵がやってきて、「おい。誰にことわって、こんな工事を始めたんだ。」と妨害され、中止させられたのです。
 七十年間留守していても、時の大王、クロス王が再建の許可をくれたのです。にもかかわらず、とどめられ、十数年間、まったく工事ができなかったのです。

 しかし、今読んだエズラ記五章は、最初は工事がストップさせられたのが、十数年後、同じ環境下で工事を再開したら、同じ敵に「やめてしまえ!」と妨害されたのですが、二回目はうまくいったのです。最初は駄目だったけれど、二回目はうまくいったというわけです。周囲の見える環境は、まったく変わっていないのです。同じ事件が起こっているわけです。しかし一回目は工事がストップしましたが、二回目は、うまくいったのです。
 なぜうまくいったのかの理由について、以前にも何回かお話しさせていただきましたが、「ゼカリヤ書の三章」に記されています。前後のことは省きますが、ゼカリヤ書三章一節〜五節を読んでみたいと思います。

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 エズラ記五章は現実的な工事現場の様子です。現実に起きている、地上のことをレポートしているのです。実は、ゼカリヤ書は、エズラ記に並行しています。エズラ記にもゼカリヤが登場しますが、その同時刻に、天で起こっていた事柄が記録されているのです。
 私たちは現実の世界がすべてみたいに考えますが、同時刻に、目に見えない世界でも事件が起こっていたのです。そして、ここから、目に見えない世界で勝つのか負けのるかが、地上の勝敗に関わる事を知るのです。
 実はこのゼカリヤ書の三章を図にすると、こうなります。

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 この図は、以前にもお見せしましたが、神様の前に大祭司ヨシュアが、被告人として立たされていました。その右側に、告発者サタンが立っていて、左側にはゼカリヤが立っていたわけです。そこには主の御使いも立っていました。天で裁判が開かれていたようです。
 なんと、悪魔が大祭司ヨシュアを訴えていたのです。「おまえの衣が汚い!」と訴えていました。しかしその時、大祭司ヨシュアの汚くなった衣が、白い衣に取り替えられ、頭に聖いターバンがかぶせられたりして、目に見えない世界で変化が起こったのです。
 大祭司ヨシュアを弁護したのは、主の御使いとゼカリヤでした。彼らがサタンの訴えに立ち向かったわけです。
 その時に、地上では何が起こったのかといったら、一回目の工事はストップしたけれども、二回目の工事は進んだのです。特に、二回目は弁護側に、ゼカリヤがつきました。

 これは、何を意味しているのかというと、目に見える世界で起こる事柄は、見えない世界での決定に、左右されるという事です。
 最初は、たぶんサタンの訴えが天で通ったのです。だから、神の宮の工事がストップしたのです。
 でも、二回目は同じような環境はあったものの、天の法廷で、サタンの訴えが却下されたのです。主の御使いと、ゼカリヤのとりなしがあったことによって、目に見えない世界で勝利があったわけです。
 第一回目も、主の御使いのとりなしはあったはずです。ゆえに、第二回目の勝因は、「ゼカリヤのとりなし」にあると思われます。人が神のみ前でとりなす祈りは、現実の世界を変えるのです。

 日頃の信仰生活の中で、どこで勝利を取らなければならないのかといえば、見える世界ではなく、見えない世界で勝利を取らなければいけないのです。勝利の秘訣は、サタンの訴えを打ち破ることです。悪霊を追い出すことです。それは目に見えない世界で、勝利を取ることであり、結果的に見える世界でも勝利を得る秘訣です。

 過去、二回に渡って、教会に迫害が起こったとは、どういうことかというと、一回目も二回目も、目に見えない世界でサタンの訴えが勝利したということだと思われます。その結果、教会は迫害されたのです。
 しかし三回目、目に見えない世界で、私たちが勝利を勝ち取ったら、迫害されずに済むはずです。逆に、リバイバルが起こるかもしれないのです。
 大祭司ヨシュアの衣が汚いと指摘されているのは、かつてイスラエルとユダが犯した「偶像礼拝の罪」です。

 先ほど紹介した本が指摘しているのも、日本で過去に二回、教会が迫害された原因は、偶像礼拝だと指摘しています。最初、カトリックが入って来た時、日本は仏教国でした。人々はキリシタンにはなったけれど、祖先崇拝や偶像礼拝からは離れなかったというのです。カトリックは、そもそも偶像礼拝に対して何も言いません。今まで使っていた観音像も、ちょっとノミをあてたらマリア像に転用できたのです。仏教のすべての用具、ロウソク立てや用具も、全てカトリックの用具として使うことができたというのです。それで偶像礼拝から離れなかったというのです。

 第二回目も教会は妥協して、神社を拝むような行為をしたのです。偶像礼拝に妥協したのです。だから、結局、同じことが起こったわけです。
 私たちが、偶像礼拝と完全に縁を切って、真の神だけを礼拝することは、未来を変える為の重要なポイントです。教会に来て、多少大変かもしれないけれど、祖先崇拝や偶像礼拝から離れる決断するのは、見えない法廷で勝利するための、最も重要な要素なのです。

 最近、日本の教会は偶像礼拝のことをあまり、語らなくなりました。このまま放っておくと、同じ事が起きそうです。日本が、たいへん右傾化していると言われます。やがて同じような状況になった時、教会は昔と同じように、妥協し、困難に巻き込まれるんじゃないかと、私はすごく心配です。
 しかし真理を知った者たちが、真実を知って、悪魔と戦ったらどうでしょうか。天の法廷で勝つことができるなら、三度目の迫害はキャンセルされ、リバイバルが起こって、イエス様のお帰りを待ち望むことができるのです。

 この頃、日本が右傾化していると言われますが、本当に、危ない状況です。
 今から政治の話をしますが、政治の話として聞かないでください。霊的な視点で聞いてほしいと思うのですが、今は第三次改造安部内閣です。第三次安部内閣の閣僚たちって、どういう人たちなのか知っていますか。今日は礼拝なので、詳しいことは話しませんが。

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 第三次安部内閣の閣僚がどんな団体に属する人達か、見ていただければ分かります。「日本会議国会議員懇談会」という人たちが、八十四パーセントを占めています。今、日本で「極右派」と呼ばれるグループが「日本会議」です。これは、世界的にも「日本会議は危ない」と言われています。右派中の右派です。この日本会議に入っている議員たちが八十四パーセントです。
 そして、「神道議連」という、日本の神社を復興しようという議員たち、昔のように国家神道を復活させたい人たちが「九十四・七パーセント」も占めています。これを見たら分かるでしょう。今の安倍内閣がやりたいのは、昔の国家神道を復活させる事が大きな目的だということです。
 日本会議のメンバーを見ると、神社本庁、解脱会、国柱会、霊友会、という宗教団体です。キリストの幕屋という異端も入っています。日本会議の役員、六十二名のうち、二十四名が宗教関係者です。

 そのような人たちが日本の中枢を担っているということは、将来何が起こるのか、ということです。こういう人たちが意図していることは、憲法を改正して、昔と同じような体制を作りたいという考え以外の、何ものでもありません。
 国民はのほほんとしていますが、現実は、本当にやばい状況になっています。放っておいたらどうですか。昔と同じように教会は迫害され、大変な時代が来ることは、火を見るよりも明らかです。

 みなさん、こういう時に何をしたら良いでしょうか。政治運動をしたって、何もならないです。かえって逆に強く迫害され潰されます。社会運動を起こしたって、何もできません。どうしたらいいかと言えば、目に見えない世界での訴えに勝利するしかないのです。それは、霊的戦いです。

 政治家の悪口を言うわけではないのですが、現実を知ってほしいのです。今の安部首相の家系を見てください。

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 安部晋三さんにしてみても、副総理の麻生さんにしても、親戚です。みんな親族なのです。天皇家さえも親族に入っているのです。今の内閣は、親族で固められているわけです。
 明治時代は神道を国神として始まりました。その時の意図がずっと受け継がれているのです。同じような体制にもう一度、持ち込みたい人たちが牛耳っているのです。
 このままなら、日本の将来は、どういう環境になるのか。教会に対して自由が与えられるのか?決して、そうではないはずです。

 「日本の近代史に大変興味があります。日本の近代史は得意です!」という人は、どのくらいいますか?あんまりいないですよね。なぜなら、教えられてないからです。日本の歴史教育って、おかしいです。縄文時代とか、弥生時代とか、古墳時代のことはよく教えますが、近代になると先生が、「あぁ、時間がありません。自分で自習してください。」と言って終わります。あれは絶対に策略だと思います。私は、歴史教育は、さかのぼり日本史でないといけないと思います。近代史をよく知らなければいけないのです。
 近代の歴史を隠したいのです。やはりこの国、隠したい歴史がたくさんあるわけです。なぜかと言えば、すべてお金がからんでいます。利権と関わっているのです。宗教的にも神道のほうがいいのです。
 前にもお話しさせていただきましたが、日本で最も、首相や政治家を排出している地域はどこかと言うと、この町です。

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 「山口県熊毛郡田布施町」という、誰も知らない人口一万人くらいの小さな町です。山の中ですが、ここから出た政治家って、見たら分かります。伊藤博文から、安部晋三に至るまで、全てここから出ているのです。これが事実です。

 今の日本は長州によって作られた国なのです。その人たちの利権の為に、昔に戻す力が働くのは当然かもしれません。

 日本、これからどうなっていくのか、心配ですが、明治からこのかたの、歴史を調べてみると闇が深いです。私たちはこのような事実に対して、真剣にとりなしていかなければならないのです。
 今年も明治天皇の神社、明治神宮は、三百万人以上の人出です。本当にすごい数です。

 大東京に、この広い敷地を確保している神社。江戸時代には明治神宮も、初詣もありませんでした。ここはかつて、徳川幕府の大老、井伊家の屋敷があった場所です。突然、その場所に神社が作られ、初詣も始まったのです。
 理由も分からずに、この神社に毎年、三百万人以上が集まるわけですから、日本の国って、海外から見ると怖いと言われます。正月になると、自動的に三百万人以上が、何も言わないのにこの神社に集まるのです。普通なら、集まるには、なんらかの理由があって集まるのですが、この人たちに、来た理由を聞くと、「原宿に遊びに来たから、ついでに来た。」とか、「みんなが来るから来た。」とか、「正月はここに来るものだと思って。」とか、ちゃんとした理由がないというのです。
 逆を言えば、何も理由がないのに三百万人以上が集まる国は、洗脳されていると言われるわけです。

 私たちは、このようなただ中に住んでいますが、二度あることは三度あるような迫害に持って行かれないようにしなければなりません。
 そのために必要なのは何かといったら、霊的戦い以外にはないと思います。

 今年、一人一人が、主の前に立つゼカリヤのように、目に見えない世界で勝利を勝ち取るために、とりなし手として祈る人になるなら、日本は変えられると信じます。
 毎日のニュースを見たり、現実を見て、常にとりなしの祈りをし、悪霊どもをやっつけたら、この国は変わっていくでしょう。真理を知った者たちが、真実に気づかず、見過ごしていくと、国には同じことが起こって来ると思います。今、その直前まで来ていると思います。決してこの国がサタンの手に取られるのではなくて、幕が破れて、再臨につながっていくように、祈りによる戦いを続けなければいけないのです。
一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたが帰って来られる日が間近ですが、悪魔も真剣になってそれをとどめようとしています。真理を知っている者たちが、真実に気づいて、この国の暗闇に立ち向かい、幕が破れて、イエス様が帰って来られる道を用意することができますように。
 主よ、私たちは、あなたの十字架の血潮によって聖められて、ゼカリヤが天の会議においてとりなしたように、神の前に立つ者とさせてください。
 今日は、一人一人がゼカリヤのように、主の前に立つ者とさせてください。今からの聖餐式を祝福してください。皆が勇士となって、この国を勝ち取るために、働く者とさせてください。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。