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『悪霊どもを追い出せ!パート4』

2016年2月28日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書12章28節

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 ハレルヤ!おはようございます。今も、聖歌隊が、「進め!主イエスの兵士らよ」と、力強く賛美してくださいました。私たちは神の国をこの地上にもたらすための兵士たちです。

 今日のメッセージのタイトルは、今年、主から導かれたみ言葉を中心に、語らせていただきたいと願っています。

 マタイの福音書十二章二十八節、

『わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 メッセージを語る前に、少しご案内をさせていただきます。来週、私はペルーに行きます。是非とも祈っていただきたいと思います。一週間くらいの働きになります。
 下田先生が先日、ここに来られて語っていたのですが、今回私たちは、フジモリさんと会うことが出来そうです。

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 隣の女性は、ケイコさんといって、フジモリの娘です。今年、ペルーでは大統領選挙があり、たぶんケイコが大統領になると思われます。前回、ここに来てくださったミゲル先生は、ケイコの顧問です。ミゲル先生ともお会いして、お話しすることになっています。二十数年前、ペルー人の方が新城教会に来て以来、こんなに広がるとは思っても見ませんでした。是非とも働きのために祈っていただきたいと思います。来週も、私が礼拝メッセージですので、そのことをお話しさせていただきます。

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 そして、ネパール宣教二〇一六!が動き始めました。「集まれ!若者!おじさんたち!」と、勝手にタイトルをつけさせていただきましたが、おばさんでも結構です!誰でもご一緒出来ます。今から十分な計画を立てていきたいと願っています。
 今年は、山上のワークキャンプで、水を浄化する施設か、トイレか何か分かりませんが、献品したいと願っています。礼拝が終わってから、説明会がありますので、まずは出てみたらよろしいのではないでしょうか。

 今日から、そのために献金し、働きに備えたいと願っています。ツアー参加費用は八万円です。八万円で十日間くらいのネパールツアーに行けるのは、普通ではありません。なぜなら、世界宣教のためにご献金下さっている基金から、補助があるので安く行けます。それと共に、みんなで献金したいと思います。

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 今日は、終わってからキムチ販売があります。岡崎から来て下さっている韓国人の熱心なクリスチャン、林福子さんが、教会にキムチを献品してくださいました。キムチを売った代金は、全て、ネパールのために捧げてください!ということで、五百円で四百グラム!福子のキムチ、うまいですよ!是非ともキムチを食べながら、ネパールのためにお祈りください。今週と来週の二回、販売があります。本格的キムチです。

 そして、今日の午後は、ファミリーコーヒータイムですが、なんと、ザ、グロリアシンガーズのコンサートです。一時間もやります。一時間やってくれと言われて、あんまり曲数がないので、しゃべりが多いかもしれませんが、その辺はご了承いただきまして、老体にむち打ってがんばっておりますので、励ましていただきたいと思います。しかし、結構いいと思いますよ。
 礼拝しか出られない方もおられるので、礼拝で一曲くらいやったらどう?ということになって、今から一曲だけ、やらせていただきます。

 黙示録四章八節に、こんなみ言葉があります。

『この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」』

 今でも、天においては、完璧な礼拝がなされています。昔いまし、後に来られるお方、そして、今もおられる主が、天において礼拝されています。グロリアシンガーズは、昔、この賛美をよく歌っていました。簡単な歌ですが、「主イエスの御名は」という歌を演奏させていただきます。
 それでは、グロリアシンガーズです。私は二十年くらい、ギター弾いていなかったです。二度と弾くことはないだろうと思っていましたが、三十年くらい弾いていましたから、指が覚えているのです。では、いきましょうか。


♪主イエスのみ名は

主イエスのみ名は 天と地であがめられ
聖なる聖なる主よ 私はあなたをほめたたえる

主イエスのみ名は 天と地であがめられ
聖なる聖なる主は

昔いまし 常にいまし のちに来られる方です

聖なる聖なる主は
昔いまし 常にいまし のちに来られる方です


 今日の午後からは、賛美させていただきたいと思っています。昔、私たちは、こんなバンドを組んで、日本中を回って演奏していました。いろいろな場所で伝道集会を開催しました。しかし今、日本の教会から、伝道集会が減っていると言われます。今年は、四十七都道府県を巡って、伝道集会を開催することにしています。是非とも祈っていただきたいと思います

 そもそも人が救われるとは、どのようなものかと言いますと、使徒の働き二十六章十七節〜十八節に、このように記されています。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 救いとは何か、それはサタンの支配から救い出されて、神の支配に移される、それが救いです。今日、ここにお集まりのイエス様を救い主として信じておられる方々は、救われています。その方々は、かつてはサタンの支配下だったのです。しかし今は神の支配に移されたのです。
 しかしある人は、「私はイエス様を信じる前も、結構良い人でしたよ。悪魔に支配されてなんかいませんでしたよ!」と言われるかもしれません。そのように言う人は、結構多いと思います。けれども、真の支配とは、支配されていても気づかないのが、真の支配です。
 例えば、今日ここにおられる日本人の方々は、全員、日本国の支配を受けています。また、諸外国から来られている方々は、遠い日本に住んでいても、本国の支配を受けているのです。今朝起きたら、「支配が強くて、頭が痛かった。」という人は、いなかったと思います。支配されていても、全然気づかないのです。
 しかし日本人が、日本国の支配を受けていると分かるのがいつかというと、国を出る時です。私は来週ペルーに行きますが、チケットだけではペルーにいけません。パスポートが必要です。パスポートは、日本人の証明であり、国の支配を受けている証拠です。パスポートがなかったら、国から出ることもできないし、相手国に入ることもできません。ペルーに着いて日本のパスポートを差し出すと、ペルーと日本の間に協定があって、日本人はペルーに入国させても良いという約束が国際間でなされているので、私は入国できるのです。そこで、「私は日本の支配を受けていた・・・。」と気づくのです。

 霊的にも同じです。私たちがどこの国の支配を受けているのか。悪魔の国の支配を受けているのか、それとも、神の国の支配を受けているのか、はっきり分かるのがいつかというと、やはり、国から出て行く時です。誰でも、この地上から出ていかなければならない日が来ます。去年も、兄弟姉妹たちが天に帰って行かれましたが、私たちが死ぬ瞬間ってどんな感じかなと、時々考えます。たぶん、海外旅行の出国の列につくようなものだと思います。出国の列につく時って、パスポートを手に持って、なんとなく、どきどきします。別に悪いことをしていないのに、係官の前に出て、パスポートを差し出すと、にこりともしない係官が、上目遣いに実際の顔とパスポートの写真を確認して、ハンコを打ってくれて出国できます。
 私たちが死んだ瞬間も、同じだろうと思います。なんらかの書類を手に持たされて、神の係官の前に出るのです。係官は書類を確認して、「あっ!あなたは神の国の支配ですね。右のほうに曲がって、天国に入国してください。」という感じじゃないでしょうか。神の支配でなく、悪魔の支配のパスポートなら、他のほうに行かなければなりません。
 イエス・キリストを信じて救われるとは、気づく気づかないにかかわらず、霊的支配が変わるのです。今日、私たちは、悪魔の支配ではなく、神の支配に移っているのです。今は、はっきり分からないかもしれませんが、死んだ時、楽しみにしておいてください。「教会に行ってて良かった!!」と、絶対に叫ぶと思います。「私は救われていて良かった!」と感謝することでしょう。救われること自体、霊的戦いなのです。悪魔の国の支配が破られ、悪霊どもが追い出されることによって、神の国が来るのです。

 続くクリスチャン生活も、霊的戦いそのものです。なぜなら、地球は、主の再臨までは悪魔の支配下にあるからです。イエス様が、弟子たちを信仰告白に導いたのは、どこかと言いますと、以前にもお話ししたことがありますが、「ピリポ・カイザリア」という場所でした。そこまでわざわざ、弟子たちを連れて行って、信仰告白を引き出したのです。

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 イエス様の初期の伝道の中心は、ガリラヤ湖周辺でした。ピリポ・カイザリアは、ガリラヤ湖から北に上ったところにあります。その地は、ガリラヤ湖の水源です。

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 私は何度もこの場所に行ったことがあるのですが、泉が流れて出ている水源地です。イエス様は弟子たちをそこまで連れて行って、「あなたはわたしのことを、誰だと思っているのですか?」と質問されました。
 ガリラヤから、ピリポ・カイザリアまでは、バスで二時間くらいかかります。徒歩なら、大人の足でゆうに一日くらいは、かかったと思われます。そこまで、わざわざ連れて行って、「あなたはわたしのことを、誰だと思いますか?」と質問されたのです。
 それは一つ、大きな理由があったと思います。当時、この地域はどんな場所だったかを調べると、このみ言葉の意味が浮かび上がって来ます。現在のピリポ・カイザリアは、こんな光景です。

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 大きな洞窟になっています。イスラエル旅行に行かれた方なら、知っていると思います。この洞窟に、昔、何があったのか、これが昔の光景です。

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 そこには、ギリシャ風の神殿が建っていました。神殿は洞窟に直結する形で建てられていました。
 これは何の神殿かと言うと、偶像礼拝の神殿でした。イエス様が生活しておられた頃、この付近はローマ帝国が支配していました。ローマ帝国は、ギリシャ帝国の遺産をそのまま受け継ぐ形で出来たのですが、その元となったギリシャ帝国は、西洋にも東洋にも、大きな影響を与えました。ギリシャの文化をヨーロッパとアジアに伝えました。みなさんも聞いたことがあると思いますが、ヘレニズム時代と呼ばれ、多くのギリシャ化した街々が東西に出来ました。
 ピリポ・カイザリアは、その影響で作られた街であり、この神殿にはギリシャ神話の神々が祀ってありました。特に洞窟の神殿には、牧羊神パンと呼ばれる、半分が人間で、半分が羊のような、気持ち悪い存在が祀られていました。

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 この地域の人に、「神様とは誰ですか?」と聞いたら、「あの洞窟に祀られている、牧羊神パンですよ。」と答えていたわけです。ピリポ・カイザリアは、牧羊神パンを拝みに来た人たちでごった返していた街でした。この街は地域の信仰の中心地だったわけです。

 イエス様は、わざわざ弟子たちを異教の神々の神殿の門前にまで連れて行ったと思われます。そして、「あなたはわたしのことを、誰だと思いますか?」と質問されたのです。

 日本式に言えば、初詣で多くの人たちが神社に来ている参道に連れて行って、「あなたはわたしを、誰だと思いますか?」聞くのと同じです。神社の神々しか拝んでいない人たちのただ中で、ただ一人、信仰告白をするのと同じです。「あなたは神の御子キリストです!」と。そんな環境で、はっきりと自分の信仰を宣言するのは、なかなか大変です。

 聖書の記述は、二千年前の記述ですが、二千年前も、今も、信仰告白の環境はあまり変わらないのです。当時、イエス様を主として信じた人たちも、異教の神々のただ中で、「あなたこそ、生ける神の御子キリストです!」と宣言したのです。
 その時、イエス様はなんと言われたかというと、マタイ十六章、十八節、十九節を見ると、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

と言われました。ペテロを代表として、弟子たちに告げられたのは、『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。』
 この岩とは、イエス様ご自身です。イエス様が揺るがない、永遠の救いの岩だからです。同時に、神殿の写真を見ればわかりますが、人々は、この大岩を神体として拝んでいたのです。
 岩の上に教会を建てるとは、大きな意味があると私は考えています。「ハデスの門もそれには打ち勝てない!」とあるように、ハデスとは、「悪魔の住処」を意味します。

 ハデスの門とは、何をイメージしてイエス様は語られたのかと言えば、パンの神殿の入り口です。神殿の門から、人々は洞窟に入って行きました。ハデス、それは悪魔・悪霊どもの住処を意味しますが、悪魔・悪霊どもは何を拠点に働いているのか、それは、「異教の神々、偶像礼拝の背後に、ハデスがありますよ。地獄がありますよ。」と語られたのです。多くの人が、この門をくぐって洞窟に入っていく姿を見せながら、イエス様は、この様に語られたのです。

 そして教会とは、岩の上に建てられる存在なのです。ハデスの門、すなわち、悪魔・悪霊どもの住処を打ち破る役割として、教会は建てられるのです。ハデスに落ち込んで行く人たちを、救出し、神の国に入れるために建てられたのが教会です。岩を打ち砕く、悪しき力を打ち破り、悪霊どもを追い出す、社会で唯一の存在として神は教会を与えられたのです。

 悪魔は策略を持って、人々をハデスに連れて行きます。一度、策略に引っかかると、人は知らないうちに、地獄の門をくぐるようになるのです。
 今の時代、策略が満ちた世界に私たちは生きています。策略を知らないと、大切なものを奪われてしまう時代です。
 この頃も頻繁にテレビで、振り込め詐欺とか、オレオレ詐欺にご注意ください!と、やっています。テレビで注意を喚起しているのを見て、「そんなのに引っかかる人なんて、いるのか?」と思うのですが、実際、オレオレ詐欺師から電話がかかってきたりすると、うまく対応できないというのです。
 しかし、振り込め詐欺師や、オレオレ詐欺師の策略と手口をよく知っていたら、引っかからなくて済むのです。「もしもし。オレオレオレ。」『誰だ?』「あんたの息子だよ。」「あんたの孫だよ。」と言われても大丈夫です。しかし、信用したらどうですか?根こそぎ持って行かれます。「詐欺師の策略だな!」と分かったら、受話器を置くだけで簡単に勝利できるのです。

 同じです。悪魔も策略によって、私たちに近づいて来ますが、策略が何かはっきりと分かったら、悪魔・悪霊どもを打ち破り、勝利することができるのです。すなわち、悪霊どもを追い出すことができるのです。

 パウロはその事に気づかされて、晩年、エペソ人への手紙を書いたのですが、エペソ六章十節〜十三節で、『終わりに言います。』と、重要なことを遺言のように語りました。エペソ人への手紙六章十節〜十三節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

 パウロは、晩年、しっかりと気づかされたのです。最も重要なことを、エペソ人への手紙の最後の部分で強調したのです。ここで、「私たちの戦いは血肉に対するものではない!霊的な戦いだ!」と告げています。

 日頃、社会の中で、様々な戦いを感じます。「あの人がこう言ったから、あの人がこうしたから…。」と、見える世界のことを分析する能力に人は長けています。しかし見えない世界に問題の震源地があることに気づく人は、あまりいません。
 クリスチャンは少なくとも、何か問題が起こった時、ただ単に見える世界だけの問題じゃないかもしれない、見えない世界と何らかの関連があるんじゃないかと、疑わないといけないのです。
 例えば、会社で人間関係がこじれたり、仕事がうまくいかなくなったり、学校に行って、様々なトラブルに巻き込まれたり、家庭でいろんな問題が発生したら、目の前の人を敵としないで、もしかしたら、背後に何かいるんじゃないかと疑わないといけません。

 もしも私が透明人間になって、ボスから指令を受けて、「あの家を壊して来い!あの家庭を壊して来い!」と言われたら、何をするのか。私は透明人間の特性を生かして、家の中で、互いに敵視して戦う事件を仕立てます。
 夕方、ご主人が、会社から疲れて帰って来た時、奥さんは忙しく夕食を作るために働いています。その時、奥さんとご主人が喧嘩するような事件を、発生させるのです。奥さんがご主人に、「あんた何してんのよ!」と怒るような事件がいいですね。そうすると、ご主人は、「何言ってんだ。今日一日働いて、俺は疲れてるんだ。」と言い返します。すると奥さんも、「私だって一日、十分働いたわよ!」と、大げんかするような事件を考えます。通り道にやかんを置いたりして、蹴飛ばすようにしたりとかですね。
 そうすると、子どもって、どちらに付いていいのか困ります。一般的には、母親に付きやすい傾向があるようですが、どちらに付いていいのか、困ります。お母さんも悪い、お父さんも悪い。どっちに付いていいのか、心傷つきます。
 そしたら、透明人間は子どもにもついて、学校に行くわけです。学校に行って、席替えとかの時などに、いじめっこを横に連れてきます。先生が作ったくじをちょっと変えたりします。そうすると、横にいじめっこが来るでしょう。
 席替えって緊張しましたよね。誰が来るかって。かわいい子が来ないかな?って。いじめっ子が来たら、たいへんです。私だって小学校の時、いじめられたというか、戦ったというか、よくありました。私の時代は戦後でしたから、みんな性格が荒くて、喧嘩しても、先生は全然注意しませんでした。喧嘩なんか始めると、机や椅子をどかして、真ん中で戦わせてくれました。今なんか、そんなことをしたら大変です。
 隣の席の子にいじめられたら、学校に行きたくなくなってしまいます。そのように、悪魔は働きます。家に帰ったら、心傷ついている子どもの所に行って、「学校大変だね~。」と、心の中に語りかけるわけです。「明日学校に行かないほうがいいんじゃないの?ちょっと休んだら、気持ちが楽になるよ。」とか言います。子どもは「うん!」と言って、翌日休むと、なんだか楽だな〜と感じるわけです。そうすると、悪魔がまた横に来て、「もう一日!休んでみよう。そうすると、疲れも取れて、三日目からは、元気に学校に行くことができるぞ!」とか言うのです。
 「そうだね。」と、二日目も休むのです。そうすると、三日目はちょっと学校に行きづらくなります。会社でもそうです。だんだんと引き延ばしていくのです。一ヶ月くらい引き延ばしたら、今度は、透明人間は、休んでいる子どもたちに告げます。
 「ちょっと外を見て。みんな元気にランドセルしょって学校に行ってるじゃん。行けていないのは、おまえだけだ。恥ずかしいなぁ。生きてたって、しょうがないじゃない?死んだら?」と語りかけるのです。すると、「死んでしまおうかな。」ともなりかねません。

 日本では、年間、三万人以上が自殺すると言われます。えらいこっちゃです。相当の人が、悪魔のささやきを聞いていると思われます。人間って、一秒でも長く生きたいという、存在です。しかし自ら死んでしまうのは、やはり死の力が横で語りかけているとしか、考えられません。

 この間、ある本を読んだら、「本気で死にたいと思っている人はいない」と書いていました。「本当に死にたかったら、息を止めて死ね」とありました。「死にたい人は息を止めて死んでください」と言われても、途中で必ず、息をしちゃうのは、死にたくない証拠で、死にたいと思っているのは、首から上の部分だけで、首から下の大部分は、「死にたくない!生きたい!」と叫んでいる証拠なのです。息を止めて死ねる人って、いないです。人間は、「少しでも長生きしたい!」という、生命力あふれる存在です。しかし、後ろから悪魔は「死んでしまえ!」と語りかけるのです。
 透明人間みたいな、敵がいるなら、人間は、どんどん追い込まれていくはずです。霊的戦いは、教会とか、クリスチャンだけの問題ではないのです。地球全体、人類全体の問題です。いや、宇宙全体の問題だと思います。なぜならば、パウロが気づかされたのが、六章十二節、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 「天にいるもろもろの悪霊に対するもの」という「天」は「複数形」で記されているからです。天とは、見える天だけでなく、高次元が多くあるみたいです。そして諸天は、すべて、悪霊どもが支配しているからです。諸天に座を設けている、悪霊どもとの戦い、それが人生そのものであり、霊的戦いです。なんと、霊的戦いは宇宙規模です。すごいじゃないですか。クリスチャンたちが地球で霊的戦いをすると、諸天を支配している敵の力が打ち砕かれる。なんと、すごい戦いを神は委ねて下さったのでしょうか。本当に感謝しなければいけないです。しかし案外、目に見える世界のことしか、私たちは関心を持っていないのが現実です。見える情報だけで支配されてしまうのです。
 クリスチャンになってからは、「ちょっと違うぞ!見えない世界との戦いだ!策略を見破ろう!」という視点が加えられると、人生って大きく変わるのです。

 聖書の中で最も大きな霊的戦いとして、記録されているのが、イエス様がガリラヤ湖を渡り、ゲラサという地に行った時に起きた戦いです。これはイエス様の人生において、十字架を除いて、最も大きな霊的な戦いだったと思われます。
 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の記者たちが、全員取り上げているからです。これは悪魔・悪霊どもの策略の根源を見抜くために、記録されたのではないかと私は考えています。
 古代のゲラサがどこか、考古学で特定されています。

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 この地図に示されている、ヒッポス、現代名スシータが聖書の記事の舞台であったと思われます。そこに渡る途中、イエス様一行は、大嵐に会いました。大風が吹いて舟が沈みそうになりましたが、イエス様はそれを静め、ゲラサに上陸すると、悪霊に支配された、マタイでは二人と記していますが、男たちが出て来たのです。そこでレギオンという悪霊どもが追い出されたという記事が三人の記者たちによって取り上げています。相当重要な霊的戦いであったと思われます。この中から、サタンの策略を見抜け!と教えていると思います。

 私は古代のゲラサ、ヒッポスという所に、二度行ったことがあります。

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 イエス様の時代にも街があったことが分かります。

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 今、発掘調査が継続中で、その全容が徐々に分かって来ました。

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 ここにはこんな崖があるのです。イエス様が悪霊どもを追い出された時、二千匹ほどの豚がガリラヤ湖になだれ落ちて死んだという記録がありますが、まさに、とんころりんの丘と呼ぶにふさわしい、聖書の記述そっくりの場所も残っています。

 二〇〇〇年前と言っても、現代とあまり変わらないような街が存在していたのです。人間って、脳みその量は昔も今も同じですから、街作りもそんなに変わらないのです。

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 この柱は、街のど真ん中にギリシャ神殿が建っていた証拠です。ガリラヤ湖を見下ろすような位置にある街でした。

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 この街に行く途中に、大風が吹いて、舟は沈没しそうになり、イエス様が「黙れ!静まれ!」と叫んだら、大なぎになって、舟はゲラサに着き、墓場から、悪霊に憑かれた男が出て来たというストーリーです。舟が着いた時、マルコ五章一節〜三節、

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。』

 イエス様をゲラサで最初に出迎えたのは、ゲラサの市長ではなく、悪霊に支配された男たちだったのです。悪霊どもを追い出した結果、デカポリスと呼ばれる、「十の街連合」の街々に、イエス様の噂が広り、人々はイエス様に関心を持ったという記事です。これは、霊的戦いの勝利が、福音を大きく広げる!ということを表しています。
 この箇所は多くの教会で、取り上げられる箇所ですが、男が墓場に住むようになった理由や、悪霊に支配された原因については、聖書にはっきりと記録されていないので、あまり関心が持たれません。

 私は霊的戦い専門課程をやっておりまして、原因について究明する働きです。私は原因について興味があります。悪霊が追い出されて、男が正常になったこともすばらしいけれど、なぜ男たちは、墓場に住むようになってしまったのか。社会から阻害され、人々に大きな被害を与えるような、ひどい人生になってしまったのか。その原因について知りたいのです。
 現代はどうでしょうか。墓場に住んでいた男と同じような人たちが、社会には多く存在します。毎日のニュースを見れば、ほとんどがゲラサの男、ゲラサの女タイプの事件ばかりです。普通では考えられない!というような事件が、多く起こっています。ニュースといったら、悲惨なことしか聞きません。近頃の殺人事件も、人の首を切たり、体をバラバラにしたり、普通じゃない殺人事件が起こっています。およそ人がやることじゃないと思います。子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したりと、普通じゃありません。ゲラサの男以上の事件が、多く起こっています。
 社会はどんどん悪くなっています。これを、人間のせいだけにしてはいけません。もちろん人間には罪の性質がありますから、罪を台座に自分で引き金を引き、悪い行動を取ってしまうのですが、同時に、後ろに、悪魔・悪霊どもが働いているのです。人々を悪にいざなう力が、社会には満ちています。背後の敵をやっつけない限り、なかなか人間は、正常な判断ができないのです。

 では、墓場に住んでいた男は、なぜ、そのようになったのでしょうか。やはり、究極的な原因を究明しなければいけません。しかし聖書の中には、記録されていないので、分からないです。しかし聖書全体から考察すれば、原因が浮かび上がってきます。その原因として最も大きな位置を占めるのが「偶像礼拝」です。
 当時の環境を調べ、聖書の記述と重ねると、原因が分かって来ます。先ほども紹介しましたが、この地域には、異教の神々の神殿がありました。

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 聖書が語る問題の根源、最も大きな罪が偶像礼拝です。しかも、悪魔が持っている策略の中で、最も、効果的に人類を騙す方策が偶像礼拝です。なぜなら、悪魔・悪霊どもを、神だと思い込ますことが可能だからです。これこそ、人類最大の誤解です。日本には、八百万の神々といって、鰯の頭だって神様になってしまうのですから。そんなものを神だと信じ込まされるのは、相当、マインド・コントロールがなされているはずです。昔も今も、悪魔が最も成功している方法です。

 私たちが教会に来て、偶像礼拝から解放されるのは、最大のマインド・コントロールからの解放です。

 日本人がクリスチャンになる時、最も強い戦いを感じるのが、偶像礼拝です。日頃やっていた祖先崇拝や、寺、神社から離れるのに、最も大きな抵抗があるのです。それら全てをやめて、イエス様だけを拝むようになるのは、最も大きな戦いであり、解放です。ということは、それほど大きな力が、背後には働いているということです。
 実はゲラサでどのような偶像礼拝が行われていたかを知ると、悪魔の策略が浮き上がって来ます。ゲラサがどんな場所であったのか、発掘作業がすすみ、解明されてきました。日本の大学もいくつか発掘作業に参加しています。遺跡からは、ギリシャ神話の神々とか、コインも出土しています。

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 右側のコインには、神らしい存在が馬に乗っています。この神は、ギリシャ神話の「テュケー」という偶像であることが分かっています。
 テュケーは、オリュンポス山の十二神の中から派生しています。

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 十二神の中に、「デメテル」という女神がいますが、それは豊穣神です。ゲラサの地域は農耕、牧畜が盛んな地域でしたから、農業神を祀っていたはずです。日本の神社に祀られている神々も、やはり、その多くが農業神です。ゲラサも農耕が中心で、豊穣神が祀られていたのです。デメテルという女神が主神として、祀られていたと思われます。そこから派生した女神、テュケーが祀られていたことは、発掘からはっきりしています。
 デメテルを根源にした神々だと仮定すると、マルコの四章から五章にいたる事象が解明されます。

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 実は、豊穣神デメテルは、どういう性格の存在かというと、「自然界を支配し、気象を操る女神」とされ、人々からの信仰を集めていました。
 イエス様がガリラヤ湖を舟で進み、ゲラサに行く途中、暴風が吹きました。しかし、イエス様が起き上がり、「黙れ静まれ!」と叫ぶと風が止まったのです。まるで、生き物みたいです。背後に、霊的な力が関わっていたと考えると、うまく説明がつきます。
 旧約聖書ヨブ記を見ますと、サタンが神の前から許可を得て出て行ったら、大風が吹き、ヨブの子たちが家の下敷きになって死んだ記事があります。サタンは気象に影響を与えることができるはずです。
 人はそもそも、地球の管理者です。神は人類に様々な領域に対する、管理権を委託しています。しかし人々が、管理権を放棄し、デメテルに権威を譲渡すれば、悪魔に権限が渡るのです。
 しかし、この時にイエス様が、「黙れ静まれ!」と声を出した時、風がぴたっと止まり、ゲラサに上陸できたのです。それは、デメテルという女神礼拝の背後に働いていた、悪霊どもが、打ち破られたことを意味します。

 また、男から悪霊が出て行った時に、悪霊どもはイエス様と交渉しています。その一つの頼み事が、マルコ五章九節〜十節、

『それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 普通ならば、レギオンは男と関わっているのですから、「この男から追い出さないでください!」と言うのが、普通だと思われます。しかし、悪霊どもは、「この地方から追い出さないでくれ」と頼んでいます。それは、ゲラサを含むデカポリス地方から追い出さないでくれ!と言う意味です。地方にこだわっていたのです。
 では、なぜ、こだわることができたのでしょうか。この地方の人たちは、先ほどもピリポ・カイザリアについて話しましたが、同一の霊的存在を共同体として祀り、維持し、礼拝していたからです。ピリポ・カイザリアの人たちは、岩を神とし、パンという神の神殿を建て、一つの存在を拝んでいたのです。
 ゲラサには、デメテルが祀られていて、人々はこぞって膝をかがめ、礼拝していたはずです。ということは、偶像礼拝には特定の地域性があったはずです。

 日本ではどうでしょう。この付近でも、村の真ん中に神社や偶像があって、地域住民がこぞって礼拝します。そうしたら悪霊どもは、「この地方から追い出さないでください。」と言うに違いないです。
 イエス様は、男から悪霊を追い出した様に見えますが、地域全体に働いていた、悪霊の軍団を追い出したのです。ゆえに、その後、地方全体に福音が広がったのではないでしょうか。

 またゲラサには、多くの豚が飼育されていたようです。実はこの地域の豚について調べるとたいへん興味深いです。なぜなら、デメテルの聖獣が、豚だからです。日本人にとって豚は、滑稽な顔をした動物としか考えません。しかし調べてみると、パレスチナ全域に渡り、豚は、聖なる獣として、礼拝の対象であったのです。
 初めてこの箇所を読んで、「イエス様ってひどいね。誰かの豚を二千匹も、湖に投げこんじゃって。誰が弁償するの?豚がかわいそう。」という人がいます。

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ではなぜ、湖の中にイエス様は豚を投げ込んで、豚を処分したかと言ったら、豚は、デメテルの聖獣として、礼拝の対象だったからです。豊穣神デメテルが神殿に祀られていたことを前提にすれば、これらの記述が、よく理解できます。

 そしてもう一つ、男が墓に住んでいたということは、墓場とレギオンとが、何らかの関連があるはずです。なぜ、男が墓場に住むようになったのかも、当時の文化を調べると分かります。

 小泉八雲という作家がいますが、彼は元々、ギリシャ人です。彼は著作の中で、古代ギリシャ人と現代の日本人はよく似ていると主張しています。その理由は何かというと、「古代のギリシャ人も、現代の日本人も、祖先崇拝でよく似ている」というのです。イエス様の時代、ヘレニズム文化の中で生活していた人々は、現代の日本人と同じように、先祖を一生懸命拝んだのです。
 日本は、どうでしょうか。一番思い入れがあるのが、祖先崇拝でしょう。人が死んだら、その霊は、生ける人と共に存在すると考えるわけです。その交流場が墓場です。特に命日には、日本人は先祖を拝みます。ギリシャ系の人たちも同じでした。それは、先祖の霊ではなく、先祖のふりをした悪霊です。
 人が死んだら、どうなるのか。聖書にはっきりと記されています。神によって人は造られましたから、魂はすべて神の管理下に戻るのです。天国にしても、地獄にしても、神が魂の管理者です。死後の世界から、生ける者の世界に情報を伝えようとしても、できないのです。基本的には、死後の世界と生きる者の世界には、壁があって、お互い、情報伝達ができないのです。しかし、日本人はどうですか?「交流できますよ。霊能者に頼んだら、死後の世界とも交流できますよ。」と言います。

 来週、ペルーに行きますが、ペルーも、先祖崇拝を一生懸命やっています。カトリックのマリアの名前で、先祖を呼び出すようなオカルトもあります。今回、そういう所にも行って、集会をやります。祖先崇拝が原因で、恐ろしい男ができあがってしまったのです。

 聖書は案外、極端な例を示しながら、「悪魔・悪霊どもは策略で人々を束縛していますよ!」と教えていると思います。これらを総合すると、こうなります。

 二大霊的束縛があると思われます。二大霊的束縛の原因の一つは、地域全体でなされる偶像礼拝、もう一つは、祖先崇拝です。ゲラサに、恐ろしい存在が出現するに至った原因が、この二つに集約されます。これこそ、悪魔の策略です。
 この原則を現代社会に適応すると、同じ構図があることに気づかされます。二つの束縛から解放されることは、神の国をこの地に来たらすための最も大きな霊的戦いです。
 「霊的戦い」と言うと、雲を掴むような戦いに感じるかもしれませんが、きわめて具体的な戦いなのです。偶像礼拝から離れ、自分たちの立場をしっかりと主張していくのは。

異教の神々のただ中で、「あなたこそ、生ける神の御子キリストです!」と告白し、二大霊的束縛から解放されたら、幸せになれます。

 最後に、お祈りして、礼拝メッセージを終わります。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて、心から感謝をします。私たちは敵の面前で、あなたは神の子キリストです!と宣言します。多くの偶像が満ちた地に住んでいますが、そのただ中で、悪霊どもを追い出し、神の御国を地に来たらすために用いで下さい。

 今、私たちは、イエス様の十字架の血潮によって、代価を払って買い取られたものであることを示す聖餐式を行います。聖餐式を祝福してください。イエス様の御名を通して、祈りを父なる神の御前にお捧げいたします。アーメン。