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『重荷を主にゆだねよう!』

2016年5月29日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇55篇22節

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 ハレルヤ!みなさんと共に礼拝が守れますことを、心から感謝しています。今、「Back 2 Eden」のすばらしい賛美を聴きましたが、良かったですね。歌詞の内容がなかなか深い歌でしたね。やはり高校生たちと比べると、考えていることが違うなぁと思いました。だんだんと人生って深くなるもんだなと。歌詞を忘れた時には、歌いながら作詞すればいいのです。私は昔よくやっていました。歌っていると頭が真っ白になる時があるのです。「二番の歌詞、全くわかんない!まあ即興で作ればいいか!」と、適当に作って歌った事が何度もあるのですが、主を賛美するのは奥深いなぁと思います。

 今日は、「重荷を主にゆだねよう!」というタイトルでお話しさせていただきます。大変、有名な聖書の箇所です。もう一度読んでみたいと思います。みなさんでご一緒に読んでみましょう。詩篇五十五篇二十二節、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 イエス・キリストを信じると、誰でも、神が正しい者と認めてくださるのです。嬉しいですね。正しい人なんて、どこにもいませんけれど、イエス・キリストを信じる時に、今も歌われていたように、十字架の愛によって、血潮によって、正しい者と宣言してくださるわけです。だから、私たちはこのみ言葉を自分のこととして、受け取ればいいわけです。
 ですから今度は、「あなた」という所を「私」と置き換えて、ご一緒に読んでみましょうか。

「私の重荷を主にゆだねよ。主は、私のことを心配してくださる。主は決して、私がゆるがされるようにはなさらない。」

 いい言葉ですね。これをリビングバイブルで読みますと、

『重荷は神様におゆだねしなさい。 神様が背負ってくださいます。 信じて従って来る者が足をすべらせたり、倒れたりするのを、神様が黙って見ておられるはずがありません。』

 なかなか身近な訳ですね。今日は、悩みがあったり、重荷があったら、主にお渡しする機会にしたいと思います。

 みなさんのお祈りに支えられまして、私は先週、アメリカに行って参りました。今回の一番の大きな目的は、リバイバルミッションから依頼されて、ロンブラウンさんのお見舞いと祈りが一番の目的でした。
 ロンさんは、リバイバルミッションと深いつながりがあって、十数年間、一緒に働いてくれました。アメリカに住んでいるのですが、毎年七十日くらい日本に住んで、日本各地を回って働いて下さいました。他国に毎年、七十日間住むのは大変なことだと思います。リバイバルミッションにとって、ロンさんは本当に恩人です。
 昨年の十二月までは日本で演奏して下さいましたが、病気になって、二度と日本には来られないということで、私たちも心配していたのですが、実際にお会いしてお祈りできたらということで、行かせていただきました。ちょうど、岩井さんとか、サックスの安武さん、いろんな方がロスに行っていたので、みんなで励ますことにしました。
 十九日に、ロンさんのお宅にジョー先生とご一緒に訪問したのですが、久しぶりにお会いして、たいへんショックを受けました。本当に涙が出ました。ロンさんは、ソファに座っていて、呼びかけても全く反応がないのです。

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 「ロンさん!ロンさん!日本から来ましたよ!順ですよ!分かりますか?」しかし、固まったまま、全く動かないのです。三十分間くらい声かけをしても、反応がなくて、みんなで真剣に祈りました。変わり果てたロンさんの姿を見て、悲しかったです。涙が出て来ました。でも、一時間くらい経ったら、ようやく元気になってくれました。

 霊的戦いもあるなと思って、二日目は、ジョー先生と、地域をいろんな角度からとりなしの祈りに行きました。山に登って、ロンのために真剣に祈りました。それから訪問に行きましたら、この教会にも来てくださいましたが、ベーシストのスミティー・スミスさん、大変な有名な方ですが、来られて、みんなでお祈りしたら、おしゃべりもできるようになりました。

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 私は二日間しかロスにいることができなくて、ヤキマのほうに移動したのですが、その後、どうなったのか聞いたら、その後も良くなったそうです。今まで出なかった言葉が出たりして、家族も本当に喜んでくれたそうです。このまま、良い方に向かってほしいと思ったのですが、いずれにしても、最後の機会かと思いました。病気も、ある線を越えると、祈ってもなかなか、いやされない領域に入ってしまう気がします。しかしその手前で、引き止めることができることがあると思うのです。
 しかし普通ならば、ある意味、地上での最後のお別れかなと思いました。記憶も飛んで、誰が来たのか分からない状態になってしまいます。すでに、私たちが訪問した朝、ロンさんが、「俺は今どこにいるんだ?」看病している長女が『家にいるよ。』「ところで、あんた、誰だい?」と聞いたそうです。彼女も泣いていて、普通なら、こういう病気は徐々に進行してしまうのですが、祈りの力によって引き止めることができるはずですから、祈り続けなければいけないと思いました。
 そして、抱えきれないいろいろな重荷は、主にゆだねることも重要だと今回、教えられながら、アメリカを後にしました。

 十九日の夜は、ロサンジェルスで日本とアメリカ合同祈祷会も開かれまして、ビクトリーバイブルチャーチという教会で、奉仕をさせていただきました。黒人の方々の教会ですが、すばらしい集会となりました。

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 先週も雅也先生のメッセージの中で紹介されていましたが、リオネシアさんという方と出会いました。

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 彼女が今、こうしているのは、奇跡中の奇跡です。彼女は昨年、大きな交通事故に遭って、重体になって、絶対に助からない状態になったのですが、なんと、祈りによって癒されたのです。彼女の事故の様子を、誰かが現場で動画に撮って、YouTubeに載せたことがありました。本当にひどい状態でした。アメリカの大型トラックって、どでかいのですが、その真ん中に挟まれて、彼女の車はぐちゃぐちゃになり、どこに人がいるのか分からない状態の中から助け出されたのです。意識不明の重体だったのが、今では元気になって、お母さんと一緒に来てくれました。もしかしたらクリスマスのツアーで、日本に来るかもしれないと言っていました。いや〜、こういう奇跡も起こるのですから、最後まであきらめずに、主に祈り続けるのは大切だと思います。

 先週の日曜日は、私はワシントン州ヤキマの、ジョー先生の教会で奉仕をさせていただいたのですが、大変恵まれた教会に成長していました。ジョー先生は毎年、新城教会に来てくださるのですが、三年ぶりに奉仕しました。新しい方々が加えられていて、そこでメッセージを語らせていただきました。

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 不思議なもんだなぁと思いました。今から三十年くらい前、新城教会の教育館を作るために、アメリカに視察旅行に行きました。その帰り道、飛行機の中で私はアヤコ・ビラップスさんと出会って、それがきっかけでアヤコさんと交流が始まって、「誰か英語の先生として日本に来てくれる人、いませんかねぇ?」と、ぺろっと聞いたのです。そうしたら、アヤコさんは本当に誠実な方で、ワシントン州の一つの教会から英会話の先生を送ってくれました。それがジョイさんという方です。そして、ジョイさんが行っていた教会の副牧師が、ジョー先生だったのです。そんな事から交流が始まって、すでに三十年以上になりました。大きな展開が起こったなと思いました。
 今回、私の通訳をしてくれたのが、ヤエちゃんだったのです。ヤエちゃんがピアスと結婚して、彼女が私の通訳をしてくれました。でも、私が三十年前、飛行機の中で聖書を読んでいなかったら、ヤエとピアスは結婚しなかったはずです。本当にイエス様を信じて歩む人生って、エキサイティングですね。玉突きみたいに、いろんな領域を突きながら、不思議な事が起きるのです。

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 今回、このおばあちゃんも訪問しました。メリーさんというのですが、れっきとした日本人です。ヤキマに、四十年以上に渡って、ひとりぼっちで住んでいた人です。ヤエがバイト先で、いつもコーヒーを飲みに来るおばあちゃんを見つけて、今では、教会がお世話して、養老院に入っているのです。

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 アメリカの養老院、広くて、中がお店みたいになっていて、なかなかすごいでしょう。しかし良さそうに見えるけれど、あまり良くないです。だいたいアメリカの平均的な養老院に入るには、一ヶ月、百万円かかるそうです。この施設も、だいたい百万円位だそうです。本当に大変だと思います。自分の財産を全部使って、例えば五百万円あったら、五ヶ月入れるのです。それがすっからかんになったら、社会保障が動いて政府が出すというのです。日本のほうがまだいいな、と思いました。でもTPPが入って来ると、やがて外資が入り、同じようになります。祈っておかなくてはいけません。
 でも、人生って不思議です。ちょっとしたことが大きく広がっていくからです。これは、神様が私たちのことを心配してくれていなければ、関心を持っていてくれなければ、こういうふうに広がることはありえません。

 人生によっては、末広がりの人もいれば、どんどん狭くなっていく人もいます。なぜ、どんどん悪くなっていくの?という人もいます。好きな言葉じゃありませんが、「あみだくじ」ってあるじゃないですか。阿弥陀が人生をコントロールすると、どんどんビリのほうに行くのです。
 私たちはあみだくじではありません。「イエス様くじ」です。イエス様が横棒を入れてくれるものだから、どんどん一番のほうに近づいていくのです。
 だから、イエス・キリストを信頼して、重荷をゆだねていくことはすばらしいです。

 その手助けをする場所が教会です。こうして私たちは礼拝を守っています。現代社会は、生活も多様化して来ましたので、インターネットで礼拝を守っている方とか、水曜日の礼拝とか、週の最中で行われる家庭集会に参加して礼拝される方もおられます。いずれにしても、週一日、神様の前に出て礼拝するって、大きなことです。出エジプト記二十章八節〜十一節、

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。』

この言葉を読むと、「日曜日は教会に行って礼拝しなきゃいけないのか。厳しいなぁ。忙しいのに。」と思うじゃないですか。でも、これは、神が人を造った時の基本的法則なのです。

 隔月に、新城教会ニュースが発行されます。私は巻頭言を書かせていただいているのですが、結構、いろんな原稿を依頼されることが多くて、昔作文が一番嫌いだったのに、なんでこんなに原稿を依頼されるんだろうと思います。それも、重なる時には重なるのです。
 先々週のアメリカに行っている最中、四つくらい原稿が重なっていました。原稿って、書くのはなかなか大変です。しかし、「何を書いたらいいですか?」って祈ると、結構、原稿も、天から降ってくるところがあるのです。六月号で書いたのを、先に読ませていただきたいと思います。こんなふうに書きました。
 「人生の歯車を正しく回転させる秘訣」というタイトルで書かせていただきました。


人生の歯車を正しく回転させる秘訣!
 一週間は7日で構成されています。現在、世界は一週間7日制を当然のことのように受け入れていますが、この習慣は、「神が天と地を6日で創造し、7日目に休まれた」という、聖書の記述を元にしています。しかしそれは神のためではなく、「人の幸せのため」と聖書は告げています。
 かつて、フランス革命やソビエト革命後に、1週間7日制を廃止し、独自のサイクルを試みた歴史があります。しかしそれは人の生活サイクルに合わず、7日制に戻されました。神は人を創造されたとき、肉体的にも、精神的にも健康に生きるサイクルを定められたのです。それは7日目を神を礼拝する日とするなら、人は健康に生きることが出来るという法則です。
 クリスチャンは日曜日を週の初めの日とし、6日間を社会で過ごします。そして、7日目には神を礼拝するために、教会に集います。このサイクルを自分の習慣とするなら、たとえ狂った人生の歯車でも、正しくかみ合い始めます。幸せに生きる秘訣は、結構、身近なところに落ちているのです。

 さて、1週間7日制は、さらに大きな概念へとつながっています。もしも世界がこの原則を受け入れるならば、世界の問題の多くは一瞬にして解決する事でしょう。1週間7日制の概念は、「7週間」、「7年」、そして、「7年を7倍する49年」へと広がっています。神は7年目を「安息の年」と呼び、6年間農地を使用したら、7年目は土地を休めるよう、連作を規制しています。それが自然の理にかなっていることは、言うまでもありません。
 さらに、神は7年を7倍する次の年「50年目」を「ヨベルの年」と呼んで、特別な年としました。
 ヨベルの年になると、国中に角笛の音が響き渡りました。その音を聞いた国民は、大歓声をあげて喜んだのです。なぜならヨベルの年になると、先祖から受け継いだ土地が他人の手に渡っていても、元の所有者に所有権が戻ったからです。古代イスラエルにおける土地所有は、最長49年の借地権付きの売買でした。またその年になると、借金はすべて帳消しとなり、奴隷はすべて解放されたのです。
 現在、日本政府は1000兆円の負債を抱えていますが、それがすべてチャラになるシステムが古代のイスラエルにはあったのです。そして、神がヨベルの年を制定されたのには、大きな目的がありました。それは、「一部の人たちに富が集中しないようにする為のシステム」であり、ヨベルの年は、「富の再配分の年」であったのです。それは誰であっても、「人生はやり直せる」ことを意味していました。

 現代社会におけるすべての問題の根源に、「金」が関わっていると言われます。金は魔物と言いますが、まさに現代社会は金によって支配されていると言っても、過言ではありません。ある研究機関によると、2016年は、「世界の富の約半分が、世界人口のたった一パーセントの超富裕層の手中に渡る」と発表しました。フランスの経済学者トマ・ピケティが2014年に発表した著書、『21世紀の資本』は、世界中で大きな話題となり、多くの言語に翻訳され、累計100万部を突破したと言われます。
 彼によると、現代の資本主義経済活動においては、資本収益率が経済成長率よりも大きく、その結果、富は一部の資本家へ蓄積され、貧困層は増大し、社会は不安定になると警告しています。彼の主張通り、今や世界の社会格差はどんどん広がっています。この先、どんな世界が待っているのか、事実を知れば知るほど、不安になります。

 しかし聖書は、世界の初めから、人が幸せに生きる知恵を提供しているのです。現代社会において幸せに生きるためには、神の定められた原則に沿って生活することです。それは決して難しいことではなく、「6日間働いたら7日目は教会に集い、創造主である神を礼拝する」という単純な原則から始まるのです。
 あなたもぜひ、この原則を試してみて下さい。必ず、人生に変化が訪れます。

 現在、世界は経済的にぐちゃぐちゃになっています。先週はG7サミットがどこで行われたかといったら伊勢・志摩でした。安部首相が、各国の首脳を伊勢神宮に連れて行ってから始めました。政教分離に反する事で、何を考えているのかという感じです。日本は本当に右傾化しています。
 そして、安部さんが言っていたのは、「今、世界経済はリーマンショックの前と同じような状況だ!」と強調していました。でも他の首脳たちは「いや、そんなことない!」と否定していました。しかし実際、大変です。現実を知れば知るほど、私たちの将来って大丈夫かな?って。知らないのがいいことで、知ったら不安で眠れなくなることって、世界にはいっぱいあるわけです。しかし、こういう世界をどう直すかって、直しようがないんです。

 でも、世界も人生も、歯車と一緒です。ここにも歯車の写真があります。

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 小さな歯車、中ぐらい、大きな歯車。うまくかみ合わせると、小さな歯車が回る中で、だんだんと大きな歯車も回るわけです。
 しかし現代社会って、こんな感じです。

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 歯車が全部バラバラになって、どう直していいのか分からなくなっています。しかし元に戻す基本はどこから始まるのか、教会ニュースに書いたように、結構足下に転がっているのです。六日間を働いたら、七日目に神を礼拝する、ここから始まります。一週間七日制が、最終的にヨベルの年という、富の再分配という大きな概念に結びつきますから、世界中が聖書の法則に従えば、一部に集中している富は再配分されるのです。「世界はこのままではいかん!ヨベルの年を宣言しよう!」と、世界中に角笛が吹かれるはずです。そうしたら、一瞬にして公平な社会が実現します。
 どこから始まるのかといったら、イエス・キリストを信じて、教会に集い、七日の内の一日は神を礼拝するという、基本形から始まるのです。このごちゃごちゃになっていた歯車が、かみ合うようになるのです。こうして教会に来て礼拝するのは、案外、小さく考えるのですが、実際は世界にまでつながる概念なのです。優先したいことがあっても、一週間の一日は神に礼拝を捧げる!と、しっかりと決断したら、人生の歯車って、正しく回転し始めます。

 私は長いこと牧師をやっていて、一週間の内、一日を神様のために使うか使わないかは、その後の人生に大きな差が出ると感じています。日曜日に教会に来れる来れないという話ではありません。インターネットで礼拝に出たり、水曜主日礼拝に出たり、自分で礼拝したりと、何しろ、神を礼拝するサイクルが大切です。このサイクルが壊れた人って、確実に人生の車輪が壊れていくからです。だから、怖いと思います。
 高校から大学に入って、「今日は疲れたから寝ていよう!」と、礼拝に行かなくなったりすると、それはすぐに習慣化するわけです。そうすると、人生が狂い始めます。狂ったものを後から回復しようとしても、なかなか難しいのです。ちょっとした習慣が人生を大きく変えますから、子どもたちにもしっかりと神を礼拝することを、習慣づけなくてはいけません。
 神の基本に歩むならば、必ず幸せに生きることができます。

 そして神は、『すべての重荷をゆだねなさい。』と言っておられるわけですから、難しいことを考えないで、教会に来て礼拝する時、神の手にゆだねることができるのは、すばらしいですね。
 「ゆだねる」という言葉は、ヘブル語で、「縫い付ける」という意味もあるそうです。時々、制服に学校のエンブレムが縫い付けられている学生たちがいます。縫い付けておいたら落ちないですよね。ゆだねるとは、イエス様の衣に、私たちの重荷を縫い付けるイメージです。
 今日、いろんな問題があったり、重荷があったら、イエス様の衣に縫い付けちゃって下さい。

 この概念は、旧約聖書だけではなく、新約聖書にも貫かれています。第一ペテロ五章七節に、こんな言葉があります。第一ペテロ五章七節、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 これは、詩篇五十五篇の引用です。ペテロは、新約時代のイエス様の弟子です。『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。』と語りました。
 「心配」とは何でしょうか。どうしよう、どうしようと、右往左往することがあります。しかし、神が心配して下さるとは、ただの心配ではないのです。英語では「支える」という言葉が使われていますが、ヘブル語の意味は、もっと広いです。「養う。育てる。背負う。阻止する。守る。擁護する。支える。生活一般に対する適用」というのです。
 「神様があなたのことを心配してますよ!」というのは、「心配でならない。夜も眠れない…。」というような、人間的なレベルではなくて、実際的に私たちの側に立って、実際的に行動を取ってくださるのです。

 先ほどもお話ししましたが、一つの出会いが、二十年、三十年経って振り返ると、「大きくなったなぁ!これは神様が行動を取って下さったに違いない!」と気づくようなもので、後から違いを知ることができるわけです。詩篇三十七篇五節には、

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

また、箴言十六章三節、

『あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』

 神様があなたのために将来と希望の計画を持っておられるから、それを受け取って歩むなら、人生は揺るぎませんよ!と教えているわけです。

 日本で一番長く権力者として君臨したのは、徳川家康です。愛知県の人物ですが、愛知県というのは、結構いろんな人を排出しています。その一人が徳川家康です。彼は何と語ったかというと、「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし。」と語りました。有名な言葉でしょう。歳を取れば取るほど、重荷は多くなるんだと。
 どうでしょうか。聖書の中にこんな言葉があったら、聖書の神様をあんまり信頼しないほうがいいですよね。しかし聖書にはこういうことは書いてありません。
 徳川家康って、今では、日本の神々の一人です。徳川時代までは、伊勢神宮なんて、日本の国神でも何でもなかったのです。皇室の祭っていた氏神で、江戸時代までは誰が日本の主神だったかと言えば、「徳川家康」だったのです。日光東照宮には誰が祭ってあるかといったら徳川家康です。この近所にも、鳳来寺山に行くと東照宮があるでしょう。岡崎にも東照宮があります。今でも、徳川家康を日本人は拝んでいます。
 でも、彼が語ったことは「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」です。救われようがありません。
 しかし、イエス様が語られた言葉、そして聖書が告げている言葉は全く違います。詩篇五十五篇二十二節、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 どちらの神様がいいですか。たくさんの荷物を負って、苦しい苦しいって一生を過ごすのと、それとも、「全部まかせなさい!わたしの衣に問題を縫い付けて!」と言ってくれる神様に信頼するのと、どちらがいいかということです。
 すでに、おわかりのように、教会に来ておられる方々は、このすばらしい神様に頼っているのです。

 でも、クリスチャンになっても、重荷を背負ったままの方も結構多くおられます。下ろさないと損です。
 私が学生の頃、飯田線で名古屋まで通っていました。一時間目から授業がある時は、五時四十分の飯田線で通っていました。今の飯田線と、私が大学生の頃の飯田線とは、車内の様子が全く違いました。その頃、五時台の飯田線には、買い出しのじいちゃん、ばあちゃんがいっぱい乗っていました。豊橋の問屋に何かを買いに行って、戻ってくるわけです。ほとんど車内は買い出しのおじちゃんおばちゃんに占領されていて、学生なんて、隅のほうに追いやられていた感じでした。そのボスが、岡本啓一さんでした。岡本家のおじいちゃんでした。
 時々、不思議な光景を見ました。おばあちゃんとか、乗ってくるのですが、でかい荷物を背負いながら、そのまま電車にいるのです。下ろせばいいのにと思うのですが、ずっと背負ったまま豊橋まで行ったり、帰って来る時にも背負っている姿を見て、「おばあちゃん、荷物を置けばいいのに!」と、よく思ったことがありました。
 案外、クリスチャンになっても、同じようなところがありますよね。「主にゆだねなさい!置いてください!あなたは福音の汽車に乗っていますから!」と言われても、なかなか下ろせない場合が多いのです。私たちは信頼して、下ろすことが必要なわけですね。
 有名な、イエス様が語られたマタイの福音書十一章二十八節〜三十節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 イエス様がこの地上に来られた時に、もちろん、「すべての荷を下ろしなさいよ!」と語っていますが、人間って、ストレスがないと生きていけない生物です。

 以前にも話しましたが、近頃、ストレスが身体に良いか悪いかという、どちらかの価値感を持っている人たちを、十年くらい追跡調査をしました。ストレスは身体に悪いと信じている人たちと、ストレスは身体に良いと信じている人を比べたら、どちらが早く死んだかといったら、ストレスが身体に悪いと信じていた人の死亡率が一番高かったそうです。
 どうでしょうか。あなたにとって、ストレスは身体にいいですか。悪いですか。ストレスは自分の人生のバネだ!と考えている人が、一番長生きしたというのです。私は考え方を変えました。「ストレスは身体にいいんだ!」と。いろんなストレスがあったら、「健康のエキスがいっぱい出ているんだぞ!」というくらいに考えて、生き抜いています。

 ストレスがなくなると、人間って生きていけないのです。イエス様も、私たちのすべての重荷を取ってあげますという視点と共に、ここでは「くびき」について語っています。「くびき」は、現代社会では見ることができなくなってしまったので、理解しにくいですが、昔田んぼや畑を耕作する時、一頭の牛で田んぼを耕すのは大変でも、二頭の牛をくびきでつないで鋤を引っ張らせると、何倍もの力になるのです。
 同じように、イエス様が私たちの人生の中に入ってくださって、私たちと二人三脚となって下さいます。多少、ストレスはあるかもしれないけれど、イエス様とくびきを共にしますから、ここに書いてありますように、『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』と、適度なストレスと共に歩むことができるのは、一番すばらしいことではないでしょうか。イエス様はそのように、あなたを変えてあげますよ!と、教えているのです。

マタイの福音書六章三十三節〜三十四節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 新改訳聖書では、『あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』と、「苦労」と訳さずに「労苦」と訳したのは、いいなぁと思います。「苦労」と「労苦」は違うと思います。「苦労」というのは、一日八時間働いても一銭にもならないのは、苦労ですよね。でも、同じように一日八時間働いたら一万円もらえるという目標があったら、どうでしょうか。苦労も労苦になるわけです。報いがあるからです。
 私たちクリスチャンは、多少ストレスがあって、様々な苦労はあるけれど、苦労ではなくて労苦です。必ず、神からの報いがありますと、教えているのです。

 だから、日々、イエス様が一緒にくびきを負ってくださっていることを信じて、これを苦労だとは思わないで、労苦として扱っていきたいと思います。詩篇六十八章十九節、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

 ここに、私たちの神様は日々、私たちのために重荷をになってくださるとあります。ある意味で、苦労、労苦というのは、日替わりですから、それを、毎日主は関心を持って負ってくださるというわけです。

 詩篇百三篇二節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

とも書いてあります。案外、私たちって、良いことは忘れやすい。悪いことは覚えているものですよね。
 主が良くしてくださったことを、ちゃんと覚えておくのはたいへん重要なことです。ちょっと悪いことが起こると、「本当に神様っているのかよ〜」なんて言う人がいるわけですが、それではいけません。過去に主が、何をして良く下さったかを覚えておくことは重要です。旧約聖書の中にエベン・エゼルという言葉があります。それは主が良くしてくださったことを忘れないための、記念の石塚です。

 全国を回ると、記念碑が多くあります。アメリカに行っても、記念碑って、結構多いです。歴史的に何がその場所で起こったのか、記念碑が立っていると分かります。記念碑がなかったら、全くその場所で起こった事件は、現代に記憶されないだろうと思います。
 例えば、この教会の近所は、設楽原ですが、五百年くらい前に大きな戦争があって、一万六千人も死にました。今、どうでしょうか。記念碑もなければ、また、話題にもならなかったら、誰が感心を持つでしょう。しかし、現場に行きますと、「激戦地」と記念碑が建っているわけです。それで分かるのです。これは、悪いほうの記念碑ですが。
 私たちも、悪いほうの記念碑ではなくて、良い記念碑を建てるべきです。それが将来と希望につながるのです。
 クリスチャンでも、「これは耐えられんぞ!」というような、「綺麗事じゃ済まされん!」ということも起こるわけです。そういう時、「神が生きているなんて信じられん!」というような事件に遭遇する時もあるわけです。しかし、そういう時に、信仰を持てるか否かが、将来と希望に関わります。

 私の親父、昨年、天に帰って行きましたが、彼の生涯を見ていると、案外脳天気でした。そして結構、強い信仰を持っていました。「絶対にできる!」と。それで我々も苦しめられたところもありましたが、いろんな事があっても、大丈夫だ!と、信じ切っていたのが、最終的には益になったと思います。彼が生きている時は、そういうことは言いたくなかったけれど、死んだから少し評価してあげないといけないと思っています。
 パウロも実にそうでした。第二コリント人への手紙一章七節〜十一節、

『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 パウロという人物は、現代のキリスト教の基礎を作ったような、すごい人物でした。でも、あれほど神に近い人物だったのに、「もう駄目だ!今回だけは助からん!」というようなことに、何度も何度も遭遇したというのです。それでも切り抜けたというのです。それを振り返って、「どうして切り抜けることができたのか。」
 その秘訣を彼は語っているわけです。「それは、過去にも同じようなことがあったけれど、助けて下さったじゃないか。あの時だって、助けて下さったから、今回だって、助けて下さらないはずがない!」という信仰を持って切り抜けたのです。
 ということは、彼は、過去に主が良くしてくださった記念碑を、ちゃんと心に据えていたわけです。

 『ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。』

 「将来と希望」とは、どこから生まれるのか。それは、もう駄目だ!というような時に、過去を振り返って、「あの時、主が助けてくれたじゃないか!だから、必ず助けてくれるはずだ!」という信仰によって、将来と希望は生まれるのです。

 実は、この箇所を2000年に行われた、「東京スーパーミッション」の時にいただきました。あの時のテーマは、「将来と希望」というテーマでしたが、あの時ほど、リバイバルミッションが大変だったことはありませんでした。経済的にも、何もかもガタガタで、「何が将来と希望だよ!」と思っていたのですが、もう最悪!と思っていた時に、「将来と希望とは、バラ色の未来が見えてから始まるのではない!大変な時があって、過去を見て、神様はあの時、助けてくれたじゃないか!だから、今回だって助けてくれる!それが将来と希望につながる!」ということを、教えられ、力を受けた経験があります。
 ある人は、いろんな重荷があって苦しんでおられると思いますが、主があなたの重荷を任せなさい!と言われるみ言葉の中には、様々な事柄が含まれているのです。
 最後に、マタイの福音書十一章二十八節〜二十九節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』

 ここから、ただ単純にイエス様が助けてくださると受け取るのですが、福音書って、立体的に読まないと真の意味が見えてこない部分があるのです。
 このマタイの十一章は、ルカ十章の七十人の弟子たちが、二人組で出て行った記事と突きあわせると意味が分かってきます。びびって出て行った弟子たちは、「あなたの御名を使うと悪霊どもさえも服従しました!」という、勝利の報告の文脈の中で語られています。
 帰ったら、マタイの十一章とルカの十章を並行して読んでください。その中で、『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』という言葉が、霊的戦いと関連していることが分かります。その結果、重荷を主にゆだねることもできるし、荷が軽くなることを教えています。

 実は詩篇五十五篇の『いっさいを神にゆだねなさい。』というのを、ペテロが引用しているのですが、ここにもその事を思い出させる記述があります。第一ペテロ五章七節〜九節、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 いろんな重荷があったり、問題があったら、それを単なる人間的なものと考えてはいけないのです。背後に悪魔・悪霊どもが働いているのです。
 だから、『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。』というのも、ルカの十一章と一緒に読むと、霊的戦いによって、荷が軽くなるんだ!と分かります。
 詩篇の五十五篇の『思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。』も、ペテロは、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。』と、「悪魔に立ち向かえ!」という文脈で語っているのです。悪魔に立ち向かうことで、重荷が軽減され、主に重荷をゆだねることができることを教えています。
 『あなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』と、過去に、苦しみを通って来た聖徒たちの根本的原因は、霊的原因だったと語っています。

 様々な問題があった時、単なる人間的な問題ではなくて、霊的戦いとして悪魔に立ち向かっていく時に、重荷は軽くなるし、委ねきれない所から神に信頼する信仰が湧いてくるのです。
 今日、重荷を主にゆだねることができる。これはすばらしい恵みです。今から聖餐式をもちますが、神の前に出て、「今、すべての重荷をあなたにゆだねます!縫い付けます!」という祈りのひとときです。
 それと共に、イエス様の十字架の血潮を仰いで、悪魔に立ち向かっていく決断の時でもあるわけです。最後にひとことお祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝をいたします。「あなたの重荷を主にゆだねなさい!」と語ってくださっていることを、ありがとうございます。主よ、今日、私たちはあなたの前に出ています。すべての重荷をあなたに丸投げします。また背後で働いている、敵に立ち向かっていきます。今日は一人一人が抱えている問題がすべて、消え去っていきますように!主の勇士となって、末の時代を雄々しく生き抜くことができますように。尊いイエス様の御名によって、聖餐式を始めます。アーメン。