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『主の恵みの年を告げ知らせよう!パート3』

2016年6月26日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書4章14節~21節

『イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。ヘブンリーキングダムのすばらしい賛美を聴かせていただきました。九月にはヘブンリーキングダムは小坂井のフロイデンホールでコンサートを企画しています。それに向けて一生懸命、練習しておられますが、是非とも祈り、協力してあげていただきたいと思います。

 今日は、六月最後の日曜日となりました。あっという間に月日が過ぎていきますが、今週は七月になります。暑くなったり、大雨が降ったりと、なかなか激しい気象環境ではありますが、お互いに支えられますよう、祈っていきたいと思います。

 実は、一九九五年のことだったと記憶していますが、六月二十五日、新城市を回って賛美する、マーチ・フォー・ジーザスというプログラムがありました。みんなで賛美しながら、新城を巡り歩きました。新城を一周して、教会に戻って来た時、ある人が空を見上げて、「あっ!」と、大声で叫びました。それは新城の街を縦断するかのように、巨大な雲の十字架が街を覆っていたからです。おりしも、その時に歌っていた賛美が、「この地は主のもの。この地は主のもの。この地の真ん中に十字架が立つ。」、先ほども歌いましたが、ザワメキの賛美を歌っている時に、雲の十字架が出現したのです。
 そのとき雲を目撃した方も、この中にはおられると思いますが、それは神様からの何らかのサインだったと思われます。「やがてわたしはこの街をかえりみ、大いなることをしますよ。」という、サインであったと信じます。
 あれから二十年くらい経ちますが、その時のことを思い出しながら、この地が主のものであることをもう一度、宣言したいと願っています。
 さて、今日のメッセージ・タイトルは、「主の恵みの年を告げ知らせよう!パート3」です。今までにも二回ほどシリーズで語りました。その3です。

 今、読んでいただきましたルカの福音書の四章は、イエス様がイザヤ書を受け取って語られたところです。イエス様が語られた中心は、「主の恵みの年の実現」でした。
 会衆の面前で、「今日、聖書のこのみ言葉があなたがたが聞いた通りに実現しました!」と宣言されたのです。
 「主の恵みの年の実現」とは、聖書の概念中、ある意味、最大だと思われます。私たちは何のために、毎週のように礼拝を守っているのか。教会の存在目的は何か。一言で言えば、「主の恵みの年の実現の為」であるわけです。
 イエス様は、イザヤ書の六十一章を引用されたわけですが、イザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 この箇所をイエス様は引用し、「主の恵みの年を告げ知らせるために」と結ばれました。
 実は、イザヤ書六十一章では、『主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、』と語られていますが、『われわれの神の復讐の日』は、そこでは語られませんでした。
 なぜでしょうか。「主の恵みの年」は、イエス様から始まったのですが、「われわれの神の復讐の日」は、やがてイエス様がこの地上に戻って来られ、王となってくださる日に実現するからです。
 「われわれの神の復讐の日」、誰に対しての復讐か、それは、この世の王であるかのようにふるまっている、サタンとその一味、悪霊どもに対して、完全な復讐がなされるのです。
 ということは、イエス様から始まった主の恵みの年の実現は、「われわれの神の復讐の日」で終わりを告げるわけです。イエス様から始まって、主が帰って来られるその日までは、教会の時代であり、教会によって、霊的戦いがなされる期間です。そして、その日、イエス様が最期の決着をつけてくださるのです。
 主の恵みの年の実現とは、聖書全体のストーリー中、最も重要なテーマです。主の恵みの年とは、ジュビリー、「ヨベルの年」の事です。
 ヨベルの年とは、どういう年であるのかについては、すでにご存じだと思いますが、私たちは六日間働いて、七日目に教会に来て礼拝を守っています。一週間七日制は、聖書からきているのですが、六日間社会に出て、七日目は教会に来て礼拝を守っています。全世界の教会が、このサイクルで動いているわけです。もちろんウィークデーにも様々な集会があったりしますが、基本的には、六日間働いて七日目を主の日として礼拝を守るのが、教会のライフスタイルです。そして、この概念はさらに大きく広がっています。
 私たちは何気なく、日曜日に礼拝していますが、一週間七日の概念は、七週という概念に拡大され、さらには七年という概念にも拡大され、七を七倍して四十九年という概念にも拡大されています。そして、四十九年経った翌年、五十年目が、ヨベルの年、「主の恵みの年」と呼ばれたのです。
 ヨベルの年の実現は、どこから始まるのかといったら、主の宮に集まって主を礼拝する、礼拝から拡大して行きます。
 以前もちょっとお話しさせていただきましたが、歯車と同じです。

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 歯車とは、小さな歯車が回り始めると、中くらいの歯車が回って、やがて大きな歯車まで回るようになります。しかし、小さい歯車がうまく機能しなかったり、歯車が欠けていたりすると、歯車は止まってしまうのです。
 主の恵みの年の実現は、聖書の中で最も大きな概念だと話しましたが、小さな歯車、六日間働いたら、七日目に、主を礼拝するところから動き始めるのです。
 悪魔も真剣になって、歯車をバラバラにしたいと躍起になっていると思います。そうしたら、大きな歯車は回りませんから。

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 毎週、地道に教会に集って主を礼拝するのは、大変重要なことであることを、よく認識したいと思います。「日曜日になったから、教会に行かなくちゃならない・・・」ではないのです。この小さな歯車が、やがて大きな歯車、すなわち、主の恵みの年の実現につながることを、よく意識する必要があるわけです。

 安息年が七回で四十九年。その翌年が五十年でヨベルの年。この年は、通常の安息年で行われる、「耕作地を休ませる」、「ヘブル人の奴隷を解放させる」、ということに加えて、「自分の所有地に帰らなければならない」、つまり、「生活が困窮して売り払ってしまった土地を取り戻し、そこに帰ることができる」というもの。この制度は、イスラエルの民とそこに住む人々の富を再分配して、「富が少数に集中しないよういするための制度」

と言われるのですが、古代イスラエルにおきましては、ヨベルの年になると、国中で歓声が上がったのです。「やったー!」と、歓声が上がりました。なぜなら、先祖の土地は、戻って来るし、奴隷は解放されるし、借金で苦しんでいた人たちも、借金がチャラになって、もう一度、生活を建て直すことができたからです。
 だから、五十年目をみんな楽しみにしていたわけです。五十年目が来たら、全土に角笛が吹き鳴らされ、歓声と共に、人々は解放されたのです。

 イエス様がこの地に来られたのは、ヨベルの年の実現のためです。奴隷は解放され、土地が戻って来、借金がチャラになり…という、ヨベルの年の概念が、個人的にも、家族に、国に、世界に起こるのです。私たちの中にもヨベルの年が実現していくことを信じたいと思います。
 日曜日に、礼拝するのは、ヨベルの年につながる、重要な最初の歯車です。主を礼拝する時、ヨベルの年の油が注がれているのです。

 ヨベルの年の大きな目的は、富の再配分と、「富が一部に集中しないようにするための制度」でした。
 先日も話しましたが、今、世界に格差が広がっています。富が一部に集中して、多くの人たちが貧困の中で暮らしています。

 七月に、ネパールに宣教旅行が行われます。是非お祈りに覚えていただきたいと思います。今回は、三十五名の大チームになってしまいました。三十五名全員が、元気に帰って来ることができるかな、とちょっと心配です。しかし今回は、万全な対策を取っております。
 先週、すでに特派員を一人、現地に遣わし、とりなしと準備を開始しました。すでに一人、秘密諜報員を送っております。それは誰かといったら、別に秘密でも何でもないのですが、そういう時にはいつでも最初に乗り込む、岡本泉ちゃんです。今もインターネットでメッセージを聞いているかもしれませんから、下手なことは言えませんが、昨日、彼女がホットな写真を送ってくれました。

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 去年よりも、幾分、街がきれいになっている感じがしますよね。これから、どんどん良くなりますよ。

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 街には、こんな屋台がいっぱい出ています。

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 ネパールでは牛が神様です。そこら中に牛がいます。人のウシろに牛がいるって感じです。牛は神様ですから、ネパールでは、牛に下手なことはできないのです。牛を車ではねたら、すごいお金を取られます。人をはねて殺すのと、牛を一匹はねて殺したのとは、同じ金額です。牛が座り込んだら、追うことはできません。車は全てストップするし、大変です。

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 これは、ネパールの教会です。泉ちゃんは礼拝に出席したみたいですが、礼拝が二時間以上で、言葉が分からなかったから、辛かったと言っていました。そしてこれも昨日の写真です。

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 昨日のネパールの写真ですが、真っ裸の赤ちゃんが、道ばたに座っています。このような国に行きますと、本当に心が痛いです。日本では、こんな光景は、絶対に見ることはないですね。でも、向こうに行きますと普通です。
 今、世界に格差が広がって、金をいっぱい儲けている人もいれば、貧困の中で苦しんでいる人たちもいるわけです。

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 この写真は、どこの国の写真でしょうか。手前にはバラックが建ち並んでいて、その奥に、近代的な高層ビルが建っています。これが世界の現実です。
 人類が本物の神様から離れて、自分勝手な生活をすると、こういう世界になることを、神様はよくご存じでした。ですから、五十年目は富を再配分して、みんなが平等になるシステムを作られたわけです。
 そればかりか、イエス様がこの地上に来られて、物質的だけでなく、霊的にもヨベルの年を宣言してくださったのです。
 日本人には、このような町並みを見ても、冷めた部分があることも確かです。日本はここまでひどくない、こんな国も世界にはあるんだろうな、こんな国に生まれなくて良かったな・・、ってね。そう思ってはいけないけれど、ふっと、思ってしまう自分がいるのではないでしょうか。
 イエス様がこの地上に来てくださったのは、ヨベルの年の宣言ですから、このような現実を見たら、ヨベルの年が必要だ!みんなが平等に暮らせる世界が必要だ!と、真剣に祈らなければならないのです。
 平等な世界を実現するための鍵が、クリスチャンと教会に与えられています。教会がこの現実を見て、真剣にとりなし祈ったら、社会は変わるはずです。
 リバイバルを求めるとしたら、このような悲しい現実が変えられることを、祈らなくてはいけないのです。

 そもそも、初代教会の人たちは、どのような生活をしていたか。それが使徒の働き四章三十二節〜三十三節に記されています。

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 聖霊が注がれて、教会が出現した時の様子です。その時、弟子たちは何をしていたかといったら、心と思いを一つにしていたのです。団結していたのです。やはりリバイバルのために、心と思いを一つにしなければならないですね。
 「心と思いを一つ」が、どこに現れていたかというと、『だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。』というのです。
 クリスチャンならば、すべてのものを共有にしましょう!なんて言ったらどうでしょう。「私の財布はあなたの財布。あなたの財布は私の財布。」なんて、出来るでしょうか。夫婦の間だって難しいじゃないですか。しかし、初代教会は、すべてを共有にしていたのです。これを実践してみましょうか?なんて今朝、私が言ったら、来週から、誰も教会に来なくなってしまうのではないかと思います。しかし、そこには、「大きな恵みがあった」と記録されています。

 新城教会に来られた人数をトータルすると、先週は案外多かったですね。五百十一名と週報に書かれていますから。五百人以上の方々が、教会に来られています。しかし私は、心が痛い時があります。
 教会に来られていても、ある方は病で苦しんでおられます。また、家庭に問題があって、苦しんでいる方もおられます。別に何の問題もなく、経済的にも祝福され、うまくいっている方々も多くおられます。ある意味、教会の中にも、格差があるわけです。また、霊的領域においても、格差があると感じます。
 ある人の病のために祈ると、奇跡が起こって、瞬間的に癒される人もいます。私はこの目で、何度も奇跡を見ました。病が瞬間的に癒される奇跡を見ました。しかし同じように祈っても、癒されないのです。
 「あの時はこう祈って奇跡が起こったから、同じように祈ってみよう」と、いやしを祈っても、いやされないのです。問題も、解決しないのです。どうしてだろうと、いつも心の中に葛藤があることも事実です。
 この頃、一つのことに気づきました。霊的な世界に格差があるということです。教会の中に、ヨベルの年が実現していない。ヨベルの年は霊的領域においても、平等になるはずです。霊的領域にヨベルの年が起こり、すべての領域が平等になるように、強く祈りなさい!と、主が語ってくださっているような気がします。
 今週、是非とも祈っていただきたいです。教会の中の格差が打ち砕かれ、ヨベルの年が実現し、誰でも神の恵みを平等に受け取ることができるように祈って下さい。そのような教会にならなければいけないと思うのです。
 日本全体の教会にも格差があります。多く集まっている教会もあれば、長年宣教をしていても、魂が救われずに苦しんでいる教会もあります。やはり格差です。ヨベルの年は、すべての教会が祝福される事です。
 現在、四十七都道府県リバイバルミッションが開かれています。これは、ヨベルの年の実現の為です。日本のすべての教会が祝福されますように!ある一部の教会だけが祝福されるのではなく、日本中の教会に主の恵みがありますように!という願いと共に、この働きはなされています。是非とも、祈って支えていただきたいと思います。

 今、世界を見渡すと、様々な不条理な事柄が起こっています。しかし、すべての問題は、「経済」という軸から見ると、本質が見えてきます。すべてが「金がらみ」です。ということは、経済のただ中に、悪魔が送った最強軍団が働いているということです。
 経済のただ中に、大きな格差を生み出す、悪魔の力を打ち倒すために、教会が祈る必要があります。

 先週も一つのニュースを見たら、なんかあほらしくなってきました。みなさんの中で、ソフトバンクの携帯を使っている人がいるかもしれません。社長の孫さんが、次期社長としてグーグル社から引き抜いた、アローラという副社長が、先週、解任されました。
 このアローラさん、一年九ヶ月、副社長でした。一年九ヶ月で、いくらもらったか知っていますか。「二百五十億円」だそうです。一ヶ月、十二億円になります。三十・五で割ってみると、一日、四千万円もらっていた計算になります。一日四千万円ですよ。信じられますか?してやったりという感じですね。
 一方では、赤ちゃんが道路に放り出されているような国もあるのです。
 なんか、腹立ちませんか?二百五十億円、ネパールに寄付したらネパールは変わると思います。人は一度金を持ち始めると、絶対に手離したくないみたいです。私たちは、「うらやましいなぁ〜。いいな〜。」とか、思ってはいけないのです。
 この格差こそ、悪魔の働きです。イエス様は地上に来て、平等な世界をつくろうと願っておられるのに、どんどん格差が開いていく現実を見たら、クリスチャン、教会は真剣に霊的戦いをしなければならないのです。

 もうすぐ、参議院選挙があります。今回の参議院選挙は、本当によく祈って投票してください。今回の選挙の結果は、クリスチャンと強いつながりがある、重要な選挙です。
 今回から、十八歳から選挙権が与えられます。この中にも十八歳の方、おられるかもしれませんが、十八歳で選挙権を与えるって、どうかなと思います。このような中にも裏があります。今回の選挙の結果次第では、憲法改正に、ぐっと近づくからです。
 もしもある政党が三分の二以上の議席を取ったら、ぐっと憲法改正に動きます。憲法改正を問う国民投票になります。先週はイギリスがEUを離脱するか否かの、国民投票がありました。その結果、離脱派が勝ちました。それにより、リーマンショック以後、最大の経済危機だと騒いでいます。株価は大きく下がるし、経済界は大混乱です。
 国民投票の結果で、瞬間的にそのようになったのです。今後もどうなるのか心配です。すべて金がらみです。

 日本も、この延長線上では危ないです。憲法改正の国民投票になりそうです。日本国民は憲法について、あまり深く考えていません。しかしクリスチャンは、それではいけません。真剣に祈らないといけないのです。以前にもお話ししました。自民党が出している憲法の草案は、天皇が日本国の元首になり、国旗は日の丸。国歌は君が代。「日本国民は国旗および国家を尊重しなければならない。」とあります。それから、「特定の宗教団体に特権を与えてはならない。」としていますが、但し書きがあって、「ただし、社会的儀礼、または習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」としています。これは国家神道に戻っていく憲法です。
 一般に、憲法とは、権力を縛るものなのです。しかしこの草案は国民を縛っているのです。参議院選挙のために、よく祈って、選挙が神様の手によってコントロールされるように祈って下さい。安易な気持ちで投票するのではなく、よく、祈り、考えてから投票してください。国を守る責任が、クリスチャンに、教会にはあるのです。
 格差社会については、あまり論議されていないのです。経済成長!経済成長!と言っています。経済成長を第一に掲げても、未来は絶対にありません。なぜなら、前回も話しましたが、フランスの経済学者のトマ・ピケティが、過去の膨大な資料を分析して、資本主義経済の行く末を研究しました。すると、この先、格差がどんどん広がっていくという結果が出たわけです。経済成長を目指せば目指すほど、一部の人に資本が集積され、どんどん格差は広がり、大多数は貧困になってしまうのです。
 前回も話しましたが、二〇一六年は、世界人口のたった一パーセントの人たちに、世界の富の半分が集中すると言われています。
 日本人って、そういう事柄に関して、うといように思います。みんな中流意識を持っていて、日本は関係ないよ!と考えています。しかし気がつくと、身動きが取れない世界が出来るのです。
 ただ聖書の真理だけを知っているだけではいけません。聖書の真理を知ったら、同時に、現実をも知らなければなりません。
 現実はどうなっているのか。事実を知って、聖書の真理を宣言し、適応しない限り、世界の霊的環境は変化しないのです。
 クリスチャンの欠点は、真理は知っているけれど、現実をよく知らない事です。その為、真理を知っていても、社会に起る不条理な事柄を食い止めることができないのです。しかし、クリスチャンが真理を知り、同時に現実を知ったら、とりなして祈ることが出来ます。そうすれば、それらの領域にも主が働いてくださり、世界は変わるはずです。
 コリント人への手紙第二、八章一節〜四節を見ると、こんな言葉があります。パウロがコリントの教会に宛てて書いているのですが、

『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。』

 ここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、パウロは紹介しています。マケドニヤの諸教会に神の恵みが溢れ、喜びが溢れたというのです。
 どこから神の恵みと、喜びが湧いて来たのかというと、「極度の貧しさにも関わらず、施す富」を体験したというのです。
 マケドニヤでは、クリスチャンに対する激しい迫害があって、その上、飢饉もあり、極貧状態だったのです。普通、どうでしょうか。極貧になったら、誰かに施したり、献金したりするはずはありません。
 しかし、彼らはそんな超貧困の中から、なんと、エルサレム教会に献げたのです。マケドニヤの教会って、エルサレムの教会のことを、あまりよく知りませんでした。見たことも、会って話した事もなかったのです。それでも、頑張って献げたのです。
 そうしたら、なんと、すごい喜びが湧いて来て、神の恵みが溢れたというのです。だから、極度の貧困の中でも、「献げさせてください!」とパウロに願ったのです。だからパウロも感動したんでしょうね。
 そのことをコリントの教会に伝えたわけです。コリント第二、八章九節から読んでみますと、

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。』

 家に帰ってから、この箇所を味わって読んでいただきたいと思うのですが、かつて出エジプトをしたヘブル人たちに、毎日マナが降りました。ある人は、欲深くて、マナをいっぱい拾い集めました。しかしある人は、身体が弱かったりして、あまり集めることができなかったのです。でも、不思議や不思議。集めてみると、欲をかいて、多く集めた人も、少なく集めた人も、同じ量になっていたというのです。
 ここから神様は何を教えたいのかといったら、神様は決して、偏って、誰かを祝福する方ではないという事です。みんなに平等にしたいのです。
 あなたの余裕がある人を満たし、ある人の余裕が、あなたを満たすのです。マケドニヤの教会は、余裕なんてなかったけれど、それでも献げたのです。しかしその結果、大きな神の恵み、大きな喜びとして、戻って来たのです。
 ということは、キリストの身体は、決してえこひいきがなく、神は平等にキリストの体全体を祝福しようとされていることを、教えています。
 私たちの神様は、決して、えこひいきされる方ではありません。平等なお方です。ヨベルの年とは、教会の中にも宣言されなければなりません。病は癒され、問題がある方も、皆、解決するヨベルの年が起こるように祈らなくてはいけないと思います。
 それが実現するためには、どうしたらいいのか、それは社会の格差を見て、放っておくのではなく、そこに関心を持ち、祈りによって切り込んでいくことだと思います。

 今回、私たちがネパールで働くことも、実にそうです。ネパールに行かれたことのない方々も、一生懸命祈り、捧げてくださっています。本当に感謝します。
 皆様の捧げ物によって、ネパールの人々が潤され、変えられているのです。しかし同時に、彼らによって、私たちも祝福されています。まさに神の平等の原則の成就です。
 今回のネパール・ツアーには、三十五名の方々が参加して下さっています。すばらしいですね。普通は、あまり行きたくない所です。私は何回も行きましたから、山の上での野宿などを考えると、「あまり行きたくないな・・・」と思っちゃうんですが、今回行く人たちの多くが、リピーターです。トイレもない、風呂もない、何もない場所に喜んで行くのです。

 私は、ジョー先生に冗談ぽく、「ジョー先生!ネパール行きませんか?」と言ったら、ジョー先生は、『山の上にホテルはある?』と、聞きました。ハイトという名字は、ヒルトン家の家系なのです。彼は、『俺はハイト家だからヒルトンホテルにしか泊まらないよ。そこに、ヒルトンホテルはあるかい?』と冗談を言うのです。彼はジョーク大好き人間です。だから私は、「ヒルトンホテルはないけれど、ヒル・トップホテルはあるから心配するな。」と言い返しました。「ヒルトンホテルは、五つ星くらいだけど、ヒル・トップホテルは、サウザンズ・スターだよ。何千という星が付いているから行こう!」と言ったら、爆笑していましたが、あの山の上から見える星空は最高です。でも、他には何もないです。
 普通なら、二度と行きたくないと思うような所です。でもそこに行くと、なにか知らないけれど、満たされるのです。もう一回行きたい!となるわけです。二回も三回もよく行くなぁという感じです。
 変な虫もたくさんいて、ちくちくさされるし大変です。このおじさんは六十五歳でも一緒に行くのです。信先生、上條先生、どうして一緒に行ってくれないのかな・・・。これから行くように、押してあげて下さい。
 あのような貧しい場所に行きますと、本当に向こうから受けるものって大きいです。二つを足して割ったら、平等だなぁって、マケドニアの諸教会に起こった事と同じだと思うのです。
 ネパールと日本の間には大きな格差があります。ネパールに行けばすぐに、それが分かります。しかし案外、知っているようで全く知らないのが、日本の現実です。

 実は、先週私は、東京の足立区の教会で奉仕しました。そこで私はヨベルの年のことを話しました。そうしたらその教会の先生が、「本当に今日の話は、足立区のためのメッセージだったと思う!」と言うのです。
 実は、今、日本に大きな問題があります。それが「子どもの貧困」です。みなさんも報道で、少しは知っているかもしれません。今、日本においては、「六人に一人」の子どもたちが貧困の中で暮らしています。その現実を、どのくらいご存じでしょうか。
 北海道のテレビ局がそのことをレポートした、ユーチューブがありました。北海道の子どもたちの貧困の現実を、みなさんにお見せします。現実を知らないと、何を祈っていいのか分かりませんから。放っておけば、加速度的に広がるのです。みなさんの子どもたち、孫たち、先週も信弘先生のお孫さんの写真が、ここで公開されました。かわいいねぇ。でも、あの子たちが大きくなった頃、へたすると、貧困の中で過ごすようになるかもしれないのです。ちょっと見ていただきたいと思います。


<北海道6ch 子どもの貧困>

 これが、日本の現実です。六人に一人の子どもたちが、貧困だというのです。しかし、足立区に行きますと、「四人に一人」の子どもが貧困だというのです。日本で最も、貧困率が高いのが、東京二十三区の中の足立区だというのです。
 私たちの仕える神様は、平等な方で、ヨベルの年の実現のために御子イエス様をこの地に送って下さいました。ヨベルの年の本格的実現は、主が帰って来られて、王となる時に実現します。その先生が、「もう、主が帰って来てくださるのを、求めるしかないですね」と語っておられましたが、その日に向かい、私たちは社会の現実について関心を持ち、そこに真理のくさびを打ち込む使命があるのです。

 ネパールに主が道を開いてくださいましたが、それはただ、ネパールだけでなくて、日本にも通じることです。現実を知っていただき、さらに祈り、行動する教会になりたいと願っています。
 ヨベルの年の実現のために、主は、この地に来てくださった!すべての格差をなくし、平等な世界の実現です。経済的だけでなく、霊的世界でも同様です。この教会におられるすべての方々が、霊的な祝福も平等に受けることができますように。

 明日から、霊的戦い専門課程があるのですが、経済の背後に働く暗闇の力を見破る学びがなされます。今日は、午後からセミナーを行います。特にこの教会のルーツに関してお話しさせていただきます。
 水の浄化装置をネパールに持っていくのですが、初めは、こんなに濁っていた水も、浄化装置を通すと、綺麗になるのです。ぴかぴかの水になるのです。
 川は、下流に行けば行くほど汚いと思うじゃないですか。なぜ、汚いか。途中から汚いものが入るからです。でも、実際は、川は、下流になればなるほど、浄化されていくのです。
 どうしてかというと、バクテリアが汚物を食べて沈殿して、きれいな水になるからです。水が綺麗になるのは、実は、上流ではなく、下流なのです。
 教会も同じです。初代教会の源泉は純粋でも、それ以後、川と同じように様々な汚水も流れ込んでいます。その時点では、どうにも抜け出すことのできない、社会的環境や時代的背景があったのです。それを浄化するのは下流の使命です。
 その使命が果たされるとき、主の働きは、はじめは小さくても終わりは、はなはだ大きくなると信じます。それを怠ると、格差が広がってやがて倒れるのです。

 ご一緒にお祈りしたいと思います。イエス様がこの地上に来てくださったのは、主の恵みの年の実現ですから、教会の中に、まずは主の恵みの年が実現し、すべての領域で格差なく、平等になるように祈りましょう。
 そして、主の恵みの年を社会に宣言できるように、祈っていきたいと思います。
 今、日本の貧困の現実などを見ていただきましたが、日本に主の恵みの年が宣言されるように、ご一緒に祈りの時を持ちましょう。

 ハレルヤ。父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今日、教会の中にヨベルの年を宣言します。教会のすべての兄弟姉妹が、主からの恵みの年の中にあることを宣言します。全員が平等に、神の恵み、祝福を受け取ることができますように。問題が解決し、病が癒され、主の恵みの年が実現しますように。
 また、日本の社会の、背後の暗闇の力に立ち向かい、主の恵みの年を宣言します。今から聖餐式を行います。あなたの十字架によって、主の恵みの年が実現したことを感謝を致します。
 私たちの内側に、家族に、主の恵みの年が実現する聖餐式となりますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。