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『失望しないで、祈り続けて』

2016年7月31日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ルカの福音書18章1~8節

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」』

ハレルヤ、感謝します。
今日はこうして皆さん前で礼拝のメッセージできますことを、心から感謝しています。
只今新城教会ではネパール宣教のまっただ中にあります。新城教会からは三十二名の方が、そしてハワイから冬木先生と娘さん、息子さんが参加しておられます。今日は、いよいよ山岳民族のところに出かけて行きます。多分、三十分ぐらい前から出発して、山に登っているところかもしれません。
この礼拝が始まってからも、すでにラインで何回か途中経過が報告されていました。突然雨が降って来たりしているそうなので、天候が守られ安全に山頂まで全員たどり着くことができるように祈りながら、礼拝メッセージを聞いていていただきたいと思います。

七月後半から八月いっぱいにかけて、新城教会ではいろいろなプログラムが予定されています。先週からネパール宣教がなされています。また先週は子どもキャンプが行われました。

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掛川の花鳥園に行きました。

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八月になりますとミュージックスクールの夏期集中講座やサマーコンサート。また九月に入ると、ヘブンリーキングダムのコンサートがあります。

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先週、順先生に「森の中の怪しい白衣の集団」と言われていましたが、チラシが出来上がりまして、こうなるとなかなかいいと思います。このような活動が盛んに行われていきますので、教会のプログラムのためにもぜひ祈っていいただきたいと思います。

昨日から新城教会にはお客様が来ておられます。アメリカのジョー先生の長女のチェルシーさんが、今週末まで新城に滞在されることになっています。彼女はいま素晴らしい働きをされています。バイブル・フォー・キッズというスマートフォン向けのアプリです。聖書について、小さな子どもに分かりやすく学んでいただくことができるアプリです。この制作をしている仕事をされています。今からチェルシーさんにこちらで来ていただいて、少し皆さんにアプリについてご案内させていただきたいと思います。通訳は山崎先生にお願いします。

ハレルヤ、ここに来られて本当に嬉しく思います。七年ぶりです。最後に来たのは、里辺架さんの結婚式だったと思います。それから何人もの方が結婚されたり、お子さんが生まれたりしました。私の弟のピアスは皆さんもご存じだと思います。ここで一年間お世話になりました。そして、やえちゃんと結婚し、日本とアメリカのハーフの赤ちゃんが生まれました。オーエンは来年一歳になります。私たち家族にとって、新城教会は家族のようです。ですからここに来て、皆さんと一緒に礼拝できることを本当に感謝しています。
雅也先生が紹介して下さいましたが、私はONE HOPEという会社で働いています。私たちの使命は「すべての子どもたちに聖書を伝える」ことです。そのためにいろいろな方法を使っているのですが、お話を使ったり、印刷物を使ったり、またコンピューターのソフトを使ったりしています。ここにご紹介する、スマートフォンで見る、子ども用の聖書アプリが、私の一番好きな製品です。

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このアプリは四歳から十歳ぐらいまでの子どもを対象に作られ、十七か国語で利用でき、千二百万ダウンロードされています。そして聖書のお話とゲームをミックスし、楽しく学べます。今日は、その中の一つのお話を、皆さんにご紹介します。たくさんのお話があるのですが、世界の創造についての話しをお見せしたいと思います。

<世界の始まり>
私たちは美しい世界に生きています。
あなたの周りにあるいろいろなものを見てみてください。
どれも素敵ですね。
これから始めのときに戻って、世界がどのように始まったのか聖書が教えていることを見てみましょう。
初めに神様が天と地をお造りになりました。
神様は暗闇の上を動きながら「光よあれ」と言われました。そして光を昼と呼び、闇を夜とお呼びになりました。
一日目が終わりました。

他にもいろいろな物語が含まれています。アンドロイドでもアイフォンでもアイパッドでも使うことができます。ブラジル人の方のためにはポルトガル語でも、フェルナンド先生のためにはスペイン語でも使えます。ありがとうございました。

チェルシーさん、ありがとうございました。このアプリは無料でダウンロードできるので、スマホをお持ちなら誰でもできるし、子どもたちに見せてあげたらよいと思います。また伝道にも役立てると思います。このような働きに彼女は従事しています。また祈ってあげて頂きたいと思います。このアプリが日本語になったのも最近のことです。本当に素晴らしいものだと思います。

ネパールの働きも続いておりますが、順先生から逐一写真付きでレポートが送られ、毎日通知がピコピコ鳴って、まめだなあ、と思うんですが、これを見ながら、我々もネパールにいる様な感覚を持って祈ることができるのは素晴らしいと思います。

これは本体が行く前、泉ちゃんが送ってくださった先発隊の写真です。七月二十一日に旅立っていった先発隊が、先にチトワンの山の中に入って、山岳民族のために作業の奉仕をしていました。

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これが作業の様子です。皆さんにもご紹介した新城教会の教育館の横に設置されていました浄水装置です。現地まで持って行き、設置作業をしました。

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そして水場のヘドロを除去してみたり、新しいチャペルのペンキ塗りで、後から来る酒井さんが作業する前の下塗りをしているところだそうです。その他にも家具や机を作ってみたり、椅子にペンキを塗ってみたり、さまざまな物を作るんです。
この作業の中心にあたっているのが、鈴木剛君を始めとする先発隊のチームと、現地で泉ちゃんやその他何人かの方が一緒に、四日ほど作業を続けられたそうです。
報告を聞くに大変な作業だったろうと思いますが、こんな労働を四日間もしてくださいました。慣れない人もいたと思うんですが、一人生き生きと仕事されている方がいました。

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棟梁の鈴木剛君です。こんな笑顔の剛君、めったにお目にかかれないとおもいませんか?
現地で飛び回っているみたいです。どの写真にもこの笑顔で写っております。手に持っているのは剛くん手製のしゃもじだそうです。後発隊が行って、ご飯を提供するフードミッションのために、実際これが本当に必要なのかと思いますが、たぶん必要なのでしょうね。
多くの仕事をして、無事にミッションを終了されたということです。先週の木曜日の夜には後発隊も出発いたしまして、無事にネパールに着きました。

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ここにも剛君が笑っておりますけれども、彼が飯の種にしている分野で、神様のためや現地の人のために、与えることが出来る奉仕の喜びに沸きかえっているような感じです。すごいことだと思います。神様と隣人のために賜物を生かして働くというのは、これ程嬉しいものなんだろうなと思います。また本隊の方たちもとりなしをしています。

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ここは順先生が何回も紹介されましたが、死人を焼く火葬場です。この川で野焼きをして、余った灰は川に流してはいさよなら、という感じです。

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これが二日目だと思いますけれども、チトワンでの集会になります。ホテルの一室を借りきって、このような大きな集会を持っています。

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新城の賛美チームもダンスをしながら賛美をささげています。ステージの前で踊っているのは、現地の賛美チームの方たちです。牧師たちも踊っています。そこで順先生がメッセージをしました。冬木先生の娘さんが英語で通訳され、現地の方がネパール語に通訳をするという三次元通訳です。このような働きがなされています。
この二日間は山の上に通信の電波が届かないために、情報を送ることができない場所です。二日後、三日後にどんな奉仕をしていたか、レポートがどっと届くと思います。最後まで守られるようにぜひお祈りして下さい。山に登っている写真もありましたけど、道なき道ですね。そして、上にいってから日本とはほど遠い、文明とは無縁のような場所で作業を中心にいろいろな働きをされます。そんなことが現地でなされますので、ぜひ覚えて祈っていただきたいと思います。

今日のメッセージは「失望せずに祈り続けなさい」というテーマを付けさせて頂いたのですが、先ほど上條先生に読んで頂いたみことばがそのままタイトルになっています。

みなさんに今日お話ししたいことは、難しい話しではなく、皆さんが信仰生活を送る上で重々ご承知のことをもう一度確認するような、そういう時間になるかと思います。

アダムとエバが罪を犯し、エデンの園を追い出され、人間の営みが始まりました。そして、最初の頃アダムの息子セツの子エノシュの時代、創世記でいうと、二章です。その時代に、人々が「主の御名によって祈る」ことを始めたと書いてあります。
エデンの園に人間がいたときには、神様と直接顔と顔を見合わせ会話することができ、交わりを楽しむことができたのですが、アダムが罪を犯したために、その交わりができなくなりました。その後、人間は神様を求めて祈るようになりました。人類の歴史の始めの時代に。考古学的に見ても聖書に間違いはなく、古代から人間は祈っているのです。
世界には推定八七〇万種類もの生き物があるといわれています。神様が全部作ったのですけれども、その中でただ一種、人間だけが「祈り」を捧げるのです。猿も犬も蛇も、将来のことを心配して願いを神さまに託すなんてことはしません。魚であれ、虫であれ、微生物であれ、祈るものはありません。祈るのは人間だけです。
「祈る」とは、考えれば不思議なことで、人間以外の生き物達は、自分の力でのみ生きている。もちろん神様が生かしているわけですけれども。霊的なものに頼り期待する、自分の人生との関わりを求めて祈りを捧げるというのは、人間だけに与えられた特別な機能であり性質です。
科学や文明が進んだと言われる現代でも、人間から「祈り」を取り上げることはできません。

「祈り」の不思議な力を考えると、お祈りをして応えられたとか、霊的な体験をしたという人も皆さんの中にいると思います。
僕がクリスチャンになって、「神様はすごい」と、目に見える形で体験したことが何度かありますが、はっきりと祈ってすぐに応答してくださり、答えを現してくださった体験を一つ、証ししたいと思います。

今から二十四年前、一九九二年に新城教会に聖霊様が注がれて、七月九日に霊的戦いが始まりました。それから、毎日のように祈りの時間が持たれました。とりなしの祈りでいろいろな所に出かけて行きました。
ある日、新城を取り巻く山の頂上に、何チームかに分かれて、とりなしに行こう、ということになりました。それまで僕は、あまり外に出てとりなすチームに加わらず、どちらかというと、出て行くチームを祈りながらサポートをする、とりなし隊のとりなし、というような役割をしていたのですが、初めて一つのとりなしチームを任されて、「行ってこい」と言われました。
何処へかというと、教会の正面玄関を出て正面に見える尾根の頂上付近にある「額岩」と言うところに行きなさいとのことでした。

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この下にある黄色い〇印が新城教会です。その北側に石座神社というのがあります。これは新城で最も古い神社だと言われています。また山の上にある「額岩・石座石」という磐座に縄文人が霊を呼ぶ、「シャーマニズム」を行いました。それが里に降りて来て神社となったのが石座神社です。
「鳥居すね衛門の狼煙場登り口」から歩いて登って、額岩まで歩いて到達するというルートです。今はこのようなMAPサービスがあったり、GPSがあって自分の位置を確認しながら行けるのですが、当時はそういった物は全くなくて紙の地図だけでした。僕が行ったときには地図さえありませんでした。「車で走っていくと登り口が見えるから、そこから歩いて登って行けば見つかる」と言われました。
その時、僕と一緒に、さっきドラムを叩いていたヨセフ君とか、何人かがいました。彼らはまだ中学生や小学生でした。彼らを僕が引率して、そして他に何チームかが散らばって山に登り、無線を使って同刻祈祷をするから「この時間までに目的地に着くように」と言われて行きました。幸い登り口までは迷わず行けました。歩き始めましたが、しばらくすると細い草がいっぱい生えた誰も歩いていないような獣道になりました。今でこそ、とりなしで山に登ってよく祈るようになりましたが、当時は初めてでしたから、不安を感じながら「蛇でも出てくるかな」とか思いながら登っていました。すると、聞いてなかったんですが道が分かれるんですね。道しるべもありません。さてどうしよう?ということになりまして、どちら側もそれらしい感じがするし、何の情報もないので、「これは祈って決めよう」となりました。
当時は、とりなしの祈りで子どもたちに霊的な目が開かれて、大人に祈りの方法とか指図して、それを大人たちが吟味しながら祈る、そんなことをしていました。
「よし、みんなで祈ろう。そしてみんなの意見が同じ方向に向いたらそっちだと信じて行こう」と。他に情報がありませんから、そうしました。賛美しながら祈りながら登っていくわけです。またそれから分かれ道が二回ありました。「参ったな、時間に間に合うか?」と思うと、どんどん不安になって、何十分も歩くと、とうとう子どもが「やっぱりだめなんじゃない?」と言い出しました。僕も「ダメだ」と喉まで出かけていましたけど、イエス様を信じて行こうと強がっていました。とにかく行くしかないからイエス様に祈ろうと、みんなで祈ります。祈ると「こっちだ」という思いが来るんですね。それをみんなで分かち合って吟味し、進むわけです。それで一緒になって祈っていると、一人の兄弟が歴史に残る名言を言ったんです。これは「主が立ち上がられた日」の本にも載っています。
それは「鳥が導く」という言葉でした。言われて「何?それ」と思いました。鳥が導くってなんかの象徴的な言葉なのかな?解釈が必要なのかな?どういう意味かな?と思いました。意味は分からないけど、こっちの道でみんなの思いが一致しているから、行ってみようかということになりました。
歩き始めて数十歩も経たないうちに、足元の草ぼうぼうの所から、バサバサッと音を立てて一羽の鳥が突然飛び立ちました。我々が進んでいこうとする細い道に沿ってまっすぐ飛んでいきました。地上から一メートルぐらいの位置で。「それっ!追いかけろ!」と、みんなで走ってその鳥を追いかけていきました。なんか嬉しくなって、こんな粋な導きを神様はされるのかと思って笑いながら走りました。
一分ぐらい我々の前をその鳥が飛んでいきました。そして、急に鳥がどこかに行ってしまいました。我々は、神様が見せてくださったしるしだと信じて、しばらく進んでいきましたら、うっそうとしていた森が急に開けて空が見えました。立ち止まって見上げたら、すぐそこに大きな岩が斜面にそそり立っていました。「これが「額岩」か?」と思いましたが確信がないので、みんなに「これが額岩かどうかイエスさまに聞いてみよう。額岩だったら教えてください、と祈ろう。」と話してまた祈りますと「どうもこれらしい」ということになりました。それで、上に登って、そこで同刻のとりなし祈祷を無線を繋いでしました。時間にも間に合ってほっとしました。祈り終わって岩から降り、道に出てふと横に目をやると立て看板がありました。見ると「額岩」と書いてありました。
「やったぜ」と思いました。神様はこんな祈りに応えて下さるんだなと、とりなしの祈りの中で始めて体験させて頂きました。九二年当時、霊的な戦いが始まった時には、先生方やスタッフ、兄姉の中でも、祈りに参加されていた者は、日常的にいろいろな神さまの導きを感じるような日々でした。祈りのテーマの言葉、祈ったときの手応え、祈りに関する情報は、ほとんどそのような預言的な形で与えられていました。
子どもたちに語られたり、ある時は映像で見せられたり、大人たちは子どもたちに語られていることを吟味して、それをすりあわせながら、間違えることがないように、神様の御心を受け取ってとりなしの祈り、日本のための祈りが成されていました。本当にそういう中で祈ることは、驚きと感動の毎日でした。
あの時は、そういった導きがあったからこそ、祈り続けてこれました。教会の中では、分裂騒ぎがあったけれども、神様が導いて下さことが後押しとなって、続けることが来ました。
ちなみに先週は順先生が、空に光る十字架が現れた話をされていました。先週がちょうど順先生が九二年に十字架を見た週です。その時、私もその場所で、私が運転席で順先生が助手席にいて、車を止めていました。その時に順先生が急に空を見て、びっくりして目がまん丸になっていました。僕が隣でのぞき込んであとになって、「順先生、なんか見たでしょ?」って言った。「俺は十字架を見た」と話しをした状況を劇的に証しています。あれを聞きながら、ある人は「本当かな。なんか脚色ある?大げさじゃないかな?」と考える方がいるかもしれません。僕は証言しますが、あの話しは本当です。僕も隣にいまして順先生が驚いている様子を見ました。周りで木々がざわついていたのも覚えています。ただ一つ違うことは「順先生、何か見たでしょ?」と僕は言っていません。順先生が後になってから「実は、自分は十字架を見たんだ」と言われて、僕が「やっぱり、何か大変なものを見たようで、目をまん丸くしていたから」といいました。そこだけがちょっと違うんですけれども、起きていた現象は、その通り脚色なしだと僕は証言します。

あの当時、甲子園ミッションを控えていまして、この祈りの先にリバイバルがあると信じ切っていました。甲子園では溢れかえるような人々の波が、球場に押しかけて来ると信じていたんですが、実際は、そこまで人が集まったとはいえなかったんです。三日間で十八万人集まったと言われていますが、一つひとつの集会では一万人か三万人の集会でした。球場がいっぱいになることは最後までありませんでした。そう意味では当時関わっていたものたちは肩すかしを食らいました。「あれっ?何で?神様はリバイバルを起こすって、祈らされてきたんだけどな」と思ったんです。
でも私たちがその当時から導き入れられた祈りの日々は、甲子園が終わってから今まで継続して続いているんですね。私たちが思い描いていた画図とは違うんですが、逆にそれが良かったと心から思います。

当時のとりなしの祈りは、そこにある偶像に関わる悪霊を、祈りによって叩きつぶす、みたいな戦いの祈りでした。偶像礼拝の背後には本当の神様ではなくて神様のふりをした偽りの神々、悪魔であり悪霊の軍団がいて、それに対して立ち向かって祈るのは、私たちの一つの使命であります。でも、更に祈りは広く深くなって現在まで続いているわけですね。最近では当時だったら思いも寄らなかったようなとりなしのテーマが広がっています。

世界をめぐっている巨大な力。TPPというテーマで祈らされたり、大統領選挙であったり、そういう中に巨大な力、全世界を牛耳るような闇の力が働いている。国々の関係にも影響を与えるような仕組みが、世界の「経済」の中に潜んでいると知って、祈るということを私たちはさせて頂くようになった。あるいは、日本が過去に犯した様々な罪、戦争時の罪のために、海外まで出かけて行って現地のクリスチャンに仕えながら祈る。リバイバルミッションでそのような祈りがされている、望先生の働きもそうですね。私たちの祈りは予想だにしないような方向に、境目なく広がっています。実を結んで多くのクリスチャンに励ましを与えるような働きになっています。
以前、霊的戦いが始まっていない時代、我々は資本主義の時代に生まれて良かったなあ、信仰は自由だし、そして豊かだ。なぜ資本主義社会は豊かなのか。それは彼らがキリスト教国だからだと、そう思っていました。そして、イスラエルの国は神さまから選ばれた民だから、あれほど祝福されているんだ、ということを単純に信じていましたけれども、先週、順先生のセミナーの中では、そんな単純な話しではない、そこにも様々な仕掛けが仕組まれていて私たちを騙している。見破って祈っていくことが非常に重要なことだ。資本主義はいいものだと思っていたけれど、それほど「良い=善」というものでもなさそうです。
世界人口の1%の人が、世界の半分の冨を握っている、といいます。
実は資本主義とキリスト教は浅からぬ関係があります。例えばイスラム教国とかヒンズー国とか、仏教国と言われるようなアジアの諸国から資本主義は誕生しませんでした。彼らも商売はしますし、金儲けはします、拝金主義の人もいっぱいいたと思います。資本主義のような社会構造は存在しましたが、そこから資本主義は発達しませんでした。資本主義はみなさんご承知のように欧米で発展しました。そこはキリスト教国と言われるような国が集まった地です。そして資本主義の原点となったのはピューリタンと呼ばれるような禁欲を信条とするプロテスタントの流れからだと言われています。
私たちは、自由経済、資本主義を見るとき、取りなして祈ることが大切ですが、私たちプロテスタント教会の中からも、経済の力がもたらす束縛から断ち切られるように祈る必要があるのです。

今世界に必要なのは、先日順先生が言いましたけど、「ヨベル」富む者から貧しい者に対する再分配、このことを祈ることが大切だと言われました。そのために祈りを通して奉仕を通して働いていくということこそ、私たちに与えられた特権であり使命です。
ネパールに出向いて、あの貧しい国に我々の持てるものによって奉仕するのは、「ヨベル」の働きです。新城教会では半年前から準備して献金して、山に登ってとりなしをしました。
家の経済の柱である、ご主人や奥さんたちが現地に赴いていく。また若い人の中でも三回連続で行く人が何人もいるとか、何に取り憑かれてあんな所に行きたいのかな、と思ったりするけれども、先ほど写真で紹介した剛君の笑顔が答えを現していると思うんです。そこで与えていく、捧げていく、神様が喜ばれるわざがそこに現されて、世界に現されるということなんです。素晴らしいことだと思います。
そのように、私たちに開かれた働きは、九十二年に開かれた霊的戦いから今日まで導かれている。あのときから今に至ってネパールというテーマが私たちに与えられ、現実のものとなっています。だから、にここにおられる皆さんが捧げられている祈りは、神様に聞かれているんです。その時その時、一生懸命祈っているわけですけれども、神様が間違いなく導いて下さっていることを覚えていきたいと思います。

神様の力が働かないようにすることは簡単なことです。不信仰を持てばいいんです。マルコの福音書の六章の一節から六節を見ますと

『イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。』

不信仰にならずに祈り続けることは大切なことです。最初のみことばは、「私たちの神様は正しい裁き主。夜昼神を呼び求めている選民のために、すみやかに正しい裁きをして下さいます。」と書かれていますが、同時に「しかしこの地上に信仰が残されているだろうか」と、後にクリスチャンとなる私たちのことをイエス様は心配しておられます。私たちがどんな状況の中でも信仰を持ち続けることは非常に大事なことです。

また話しは変わりますが、七月の最初の礼拝の中で順先生が言われたことです。この新城教会に一時期来られていた田邉雅樹さんという方が、今大分の刑務所に服役しておられるのですが、彼が犯人とされた豊川の幼児殺害事件の再審申立てが決定しました。少し見ていただけますか?新聞記事です。

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これは二〇〇二年に起こった、当時1歳の男の子が亡くなった事件で、ほどなく田邉さんが犯人とされ、裁判で争われました。一審では無罪が言い渡されましたが、検察が告訴して二審の判決が出るまで一年ぐらいの間、彼は教会に来てイエス様を信じました。しかし高裁で逆転有罪、そして最高裁でも有罪が確定して、懲役十七年で現在服役中です。
順先生も言われていましたが、えん罪ではないかと言われていて、弁護団がいよいよ再審請求を申立したのです。

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名古屋高裁に再審申立てが出されました。私もそこに行って田邉さんのため祈りました。支援団体の方が集まってこのような集会を持っておられました。またテレビ局などもたくさん来て再審申立ての様子をカメラに収めていました。

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そしてこれが弁護団です。一番前におられる方が田邉さんの主任弁護士です。この事件で田辺さんが一審無罪の後、教会に導かれたことで、私たちも関わるようになったのですが、控訴審で逆転有罪になったときには、非常にショックでした。そして、二〇〇八年に有罪が確定してしまったのですが、今に至るまで手紙のやりとりをしながら交流が続いています。
田邉さんは本当にやさしい方なんですけれど、事件に関しては「自分はやっていない、自白を強要された」と一貫して主張しています。送られてくる手紙に「私は無罪です」と書き続けています。また「もうすぐ再審請求が出されます。」とずっと書かれています。毎回同じように「もうすぐ出ます」と。諦めることを知らない人です。こっちは「また同じか」と思ってしまいます。「本当に再審請求出るの?」と疑ってしまう状況が、正直続いていました。でも先月末にニュースが出て、田邉さんが言った通りになったと、私も自らの不信仰を悔い改めました。二〇〇七年まで教会に来ていた当時、「神様が必ず働いて下さる。」と言っていました。最終的に刑が確定してからも、神様が必ず助けて下さると信じて祈ってきましたけれども、期待が長引いて心が萎えてしまっていた自分を教えられました。「諦めたらいかんな」と思わされました。

うちの息子が中学三年間バスケットボール部に所属していました。そのバスケットボール部の練習着としてTシャツを作ったんですが、こんなものです。

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背中に「あきらめたらそこで試合終了」しょっちゅう家の中でも着ていますが、見るたび「そうだ」と思います。やっぱり私たちは、ルカの福音書一八章一節に「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエス様はたとえを話された」と書いあるように、いつでも祈り続け、失望してはならない。
神様の前に信仰を保つということは大きなテーマですね、信仰は祈りの中心ですから。神様の御心を祈っているならば神様がなし遂げてくださることを信じ続けていきたいと思います。
「失望しないで祈り続けて」とは、シンプルですけれども私たちの信仰生活の中で、大きなチャレンジとなるテーマではないかと思います。「神様を信じ続ける、まだ見ていないものを見たように、起きていないことを起こったように疑わずに信じる」ことを、聖書は私たちに教えています。それを信じることが信仰であり、祈りです。これまで達してきたところを基準として、更に私たちは、まだ見ぬ未来に信仰を持ち、未来をたぐり寄せる。そして祈りによって神様の思いを地上に体現するために、私やみなさん一人ひとりの戦いを戦っていきたいと思います。

今日のメッセージで教えられたことを皆さんで祈りたいと思います。今日はこの教会に起きてきたことから教えられたことをみなさんにお分かちすることができましたけれど、個人的な人生でも同じです、みなさんに委ねられたことで、祈ってきたけれどもなかなか応えられない、何年もかかってしまっている。そんなことがあるかもしれません。でも田邉さんは無実の罪で起訴されてから、現在に至るまですでに十四年経っています。
田邉さんの報道と同時に、「松橋事件」というのが世間で報道されて、同じように「えん罪事件」の疑いのある事件として紹介されていました。その事件は逮捕から三十一年にして、ようやく裁判所が再審開始の判断を下しました。しかし、すぐに検察が即時交告しました。これからその判断について争われ、再審開始が決定しても、事件についてまた最高裁まで争われる。これから何年経つか分かりません。日本の刑事裁判は一度判決が出たら覆すのは容易ではありません。

神様の正しい裁きが速やかにあることを私たちは待ち望んでいますけど、イエス様は私たちに、ある時間待つことを良しとされることがあります。私たちは疲れあきらめて止めてしまわずに待ち続けていきたいと思います。
この日本のリバイバルのためにも、個々の戦いを勇敢に戦い、神様の御業を体験させて頂くことができるように祈っていきたいと思います。

では岡本先生に祈って頂きます。

お祈りします。愛する父なる神様御名をあがめます。
今日はすばらしいみことばを頂きました。私たちがあきらめずに、私たちを愛して下る神様に祈るときに、事がまだ実現されていなくても神様は必ず応えて下さり、かならず栄光を現して下さると信仰を持ち続けて参ります。主が一人ひとりを導き、私たちに課せれているこの働きを全うすることができますように、戦いの中で勝利を与えて下さって、主の力、御業を現して下さり、私たちのいくべき道を示して下さい。今なおネパール戦っている兄弟姉妹がおられます。私たちに、この教会に一人ひとりに与えられている使命を全うし、主の栄光を現すことができるようにお願いします。信仰を持って主の御名によって祈ります。 アーメン