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『前進し続ける教会』

2016年8月28日(日)
リバイバル聖書神学校長 山崎ランサム和彦師
使徒の働き9章31節

『こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。こうして久しぶりに、礼拝において、神様のみ言葉を取り次ぐ特権が与えられていることを感謝します。
 早いもので、長かった夏もそろそろ終わり、八月最後の日曜日を迎えました。九月からは、学生さんや子どもたちは、新しい学期が始まって、学校に戻って行きます。大人も含めて、それぞれに与えられた場所で、与えられた立場の中で、新しく一歩を踏み出して前進していく、そういう季節ではないかと思います。

 今日は、使徒の働き九章三十一節のみ言葉を開かせていただきました。今日は、このみ言葉から、ここに書かれているように、教会が前進し続けたということが書かれているわけですけれども、「前進し続ける教会」というテーマでみ言葉を学んでいきたいと思います。

 ご存じのように、使徒の働きはイエス様が昇天されてから、どのようにして教会が誕生し、イエス様の地上における働きを引き継いでいったかについて描いています。使徒の働きを書いたのは、ルカ福音書の作者であるルカであると言われていますが、彼は初代教会の最初の約三十年間についての歴史を物語っていくにあたり、時々立ち止まって、その時その時の教会の歩みを要約するような記述を入れています。そのような要約は使徒の働きの中に六つありますが、今日の箇所は、その二番目のものです。
ルカは使徒の働きの中で、イエス様の昇天後にエルサレムで誕生した教会が、だんだんとその活動範囲を拡大していく様子を描いていますが、それはイエス様が弟子たちに語られた約束にもとづいていました。イエス様が復活されて昇天される直前に、弟子たちにこう言われました。使徒一章八節を読みましょう。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 この前半部分(「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」)は、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれて教会が誕生することを預言していますが、後半部分(「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」)はその教会を通してどのように福音が広められていくか、ということについて語っています。この箇所はいわばイエス様が弟子たちに遺言のように残された「宣教プログラム」なのです。そして、このプログラムは次の三段階で語られています。
 このプログラムは、三つの段階で進んでいくということが分かります。

一、エルサレム
二、ユダヤとサマリヤの全土
三、地の果て

 そして、使徒の働きの内容を見ていくと、初代教会による福音宣教はまさにこのプログラムに沿う形で展開していったことが分かります。けれども、それは必ずしも当時のクリスチャンたちの意図した形では進んでいきませんでした。エルサレムで聖霊が注がれ、教会が爆発的に成長した後何が起こったかというと、ユダヤ当局との対立が深まり、それはついには最初の殉教者としてステパノが殺されるという事態においてクライマックスに達します。八章一節の後半には「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」と書かれています。そして、四-五節には「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」とあります。つまり、福音がエルサレムの境を超えてユダヤとサマリヤに広がっていったのは、迫害というある意味否定的なできごとがきっかけでしたが、神様はそのようなできごとをも摂理的に用いて、福音宣教のご計画を前進させて行かれたのです。
 イエス様が示された福音宣教のプログラムは、ただたまたまエルサレムで始まったキリスト教の運動が徐々にその周囲に広がっていった、という地理的拡大について語っているのではありません。そこには旧約聖書にもつながる、深い神学的な意味があるのです。
 まず、エルサレムから福音宣教が始まったのには意味があります。イエス様が十字架につけられて三日目に復活し、天に帰られたのはエルサレムでした。でも最初の弟子たちのほとんどはガリラヤ出身の人々でしたので、イエス様が天に帰られてから、エルサレムからガリラヤに帰り、そこで教会を始めても良かったかも知れません。むしろ彼らにとってエルサレムは、敵対的なユダヤ人指導者たちのいる、あまり留まっていたくない場所でした。けれども、イエス様ははっきりと彼らにこう言われました。

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ二十四章四十九節)

弟子たちはエルサレムで聖霊を受け、福音宣教を始める必要があったのです。エルサレムはユダヤ人にとって神学的には世界の中心でしたし、終わりの時代の主の救いは、エルサレムから出ると預言者も語っていました。

「多くの民が来て言う。 『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。 主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。 私たちはその小道を歩もう。』 それは、シオンからみおしえが出、 エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ二章三節)

 次に、「ユダヤとサマリヤ」というのは、もちろんイエス様の当時のパレスチナの地理的領域を指している訳ですが、旧約聖書の背景を考えると、南北に分裂してしまったダビデの王国を意味しています。ダビデとソロモンの治世では統一が保たれていたイスラエルの王国は、その後南北に分かれてしまいました。サマリヤというのは元々は北王国の首都の名前だったのが、イエス様の時代には地域の名前になっていたわけです。そして、北のイスラエル王国はアッシリヤに、そして南のユダ王国もバビロンに滅ぼされていくことになります。「ユダヤとサマリヤの全土」において主イエスの福音が証しされるということは、分裂してしまったダビデの王国が、ダビデの子であり新しい永遠の王であるイエス様の支配の元で再び統一されるということを表しているのです。九章三十一節ではこれにパレスチナ北部のガリラヤも加わって「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり」という表現がなされていますが、基本的には同じことを意味しています。
 最後の「地の果て」は地理的にパレスチナの外まで出て行って伝道するという側面もありますが、むしろ異邦人への宣教という意味合いがあります。使徒の働き十三章四十七節にはこうあります。

「なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。 『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。 あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

ここでパウロはイザヤ書四十九章六節を引用していますが、その中では異邦人への宣教ということが「地の果てまで」という表現とともに語られています。
 このように、エルサレムで誕生した教会はパレスチナのユダヤ人を中心に働きを広げていき、ついに民族的な境界線も越えてすべての人に福音を宣べ伝えるようになっていったのです。使徒の働きの記述では、このような三段階のプログラムに沿う形で、福音が拡大していったことが描かれています。
そのような流れの中で、九章三十一節では「教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられ」という要約が述べられているのです。この時点で教会はユダヤ人クリスチャンのみから成っていましたが、伝統的にユダヤ人の住んでいたパレスチナ全域に教会は広がり、建てあげられて行ったことが分かります。それはこの後、最初の異邦人クリスチャンであるコルネリオの回心を皮切りに始まっていく異邦人宣教の働きを準備するものでした。

 このような前後の文脈を頭に入れた上で、もう一度、この九章三十一節を読んでみたいと思います。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」

 初代教会はここにありますように、「前進し続ける」教会でした。教会が「前進する」ということは、ただ組織が大きくなって活動が地理的に拡大していく、ということではありません。もちろん、ここに書かれているように信者の数が増えていくこともその一つの現れですが、それはあくまでも教会の「前進」の結果であって本質ではありません。
ここで「前進する」と訳されているギリシア語はいろいろな訳ができますが、「旅する」と訳すこともできます。一番はじめの頃のキリストの弟子たちは自分たちを「クリスチャン」とは呼んでいませんでした。「クリスチャン」という呼び名は、後になって部外者のノンクリスチャンがつけたあだ名だったのです。使徒十一章二十六節では、「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」とあります。
では最初の弟子たちは自分たちを何と呼んでいたかというと、「道の者」と呼んでいました(使徒九章二節など)。それはイエス・キリストを主として従う道を旅する共同体、仲間たち、という意味です。

ここまで、初代教会はイエス様が弟子たちに与えられたプログラムに従って宣教を進めて行ったことを見てきました。つまり、教会は神様の御心、ご計画に従って進んでいったのです。それが教会が「前進する」ということでした。私たち現代の教会が「前進し続ける」教会となるためには、今の時代において私たちのために神様が持っておられるご計画を知り、その道を歩んでいく必要があると思います。

 さて、九章三十一節を詳しく読むと、教会は「主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けた」とあります。ここから「前進する教会」には二つの特徴があることが分かります。「主を恐れること」と「聖霊に励まされること」です。神様の御心に従って前進する教会とはまず第一に「主を恐れかしこむ教会」であり、第二に「聖霊に励まされる教会」なのです。

主を恐れること

まず、最初の「主を恐れる」ことについて考えてみましょう。恐れというものは人間の基本的な感情の一つで、身近に迫る危険や未知の事態に対して抱くものです。恐れは必ずしも人間にとって悪いものとは限りません。聖書では神様は繰り返し「恐れるな」と語られていますし、不健全な恐れが罪につながっていくこともあります。その一方で、「主を恐れよ」ということもまた繰り返し語られています。神を恐れることは、信仰者の持つべき基本的態度と言って良いでしょう。では、どういう恐れが、私たちが持つべき健全な恐れであり、どういう恐れが私たちが避けるべき不健全な恐れなのでしょうか?ルカの福音書十二章を開いてみましょう。

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(ルカ十二章四-七節)

 ここでイエス様は、私たちが何を恐れ、何を恐れるべきでないかについて語っておられます。まず、私たちが持ってはならない恐れは、人間に対する恐れです。私たちは私たちを迫害し、危害を加えようとする人を恐れてはなりません。それと同時に、イエス様は私たちが「恐れなければならない方」がいると語っておられます。それは神様ご自身です。なぜでしょうか?それは、神様だけが、私たちの究極的な運命をその手に握っておられる方だからです。人間は私たちを脅し、傷つけ、時には肉体のいのちを奪うことさえできるかもしれません。けれども、たとえ殺されたとしても、私たちの永遠の運命は神様の御手の中にあり、それにはどんな人間も手を触れることができません。つまり、私たちの神様への恐れは、神様の持つ絶対的な権威に基づいているのです。これが信仰者の持つべき、聖書的な健全な恐れです。
 使徒九章三十一節で前進する教会が持っていた、「主に対する恐れ」は、このようなものでした。ここで「主」と訳されているギリシア語は「キュリオス」ということばです。このことばは、旧約聖書がヘブル語からギリシア語に翻訳されたとき、イスラエルの神様の固有名である「ヤハウェ」ということばの訳語として用いられました。「主」とは神様ご自身を指すことばです。しかし、新約聖書ではイエス様も「主(キュリオス)」と呼ばれ、イエス様がイスラエルの神様と重なる存在として描かれています。
 使徒の働きにおいては、イエス様は死からよみがえり、天の父なる神様の右の座にあって、すべてを治めておられる偉大な王として描かれています。「このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒十章三十六節)。初代教会はこの絶対的な主権者であるイエス・キリストを恐れかしこみつつ、前進していったのです。
 教会が主を恐れて前進するとは、具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?聖書の中で主を恐れるということは、いろいろな概念と結びつけて語られていますが、根底にある基本的な考えは、唯一の神であり主であるキリストの主権を認めて生きるということです。そこから、私たちの信仰生活において、「主を恐れる」ことのさまざまな具体的な適用が生じてきます。今日は使徒の働きの中から、三つの点について学んでいきたいと思います。

 一つは「迫害や反対の中でも、キリストのみを主として生きる」ということです。初代教会は、迫害の中で前進していったことが分かります。エルサレムで教会が誕生した当初から、教会はユダヤ当局との摩擦を経験しました。多くのユダヤ人たちが救われていく中で、指導者たちからの圧迫も強まり、それはついにステパノの殉教とエルサレム教会に対する激しい迫害において頂点に達しました。しかし、使徒たちはどのような迫害にも屈せず、主であるイエス・キリストを宣べ伝え続けたのです。これはまさに、先ほど引用したルカ福音書の箇所に記されていたイエス様の教え、「人を恐れるのではなく、神を恐れて生きる」ということの実践でした。大祭司たちに、イエスの名によって語ってはならないと脅された使徒たちはこう言いました。「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒五章二十九節)。彼らは人を恐れるのではなく、神を恐れたのです。

 二番目のポイントは、「悪を離れて正義を行い、清い生活をする」ということです。使徒の働きは初代教会の歩みを決して何の問題もない、順風満帆の歴史としては描いていません。むしろ、いろいろな問題が生じつつも、それを乗り越えていく様が描かれています。その一つとして、教会の中にある罪や偽りを取り除いていく、ということがありました。
使徒五章には、教会を欺こうとして神に打たれて死んだアナニヤとサッピラの話が記されています。彼らは持ち物を売り払ってその代金の一部を教会にささげたのですが、偽って代金の全部を捧げたと告げたために、神の裁きを受けてしまいました。彼らはお金の一部を自分たちのために残しておいたとはいえ、教会に献金した人々でした。それがどうして死ななければならないような罪に当たるのか、私たちには不思議に思えるかもしれません。ここで神様が裁かれた罪は、自分たちの行為を実際以上に良く見せかけ、人々の称賛を得ようとした高ぶりにあったと思われます。ペテロは彼らの罪は聖霊を欺き、神を欺く罪であると言っています(三、四節)。アナニヤとサッピラの罪は、教会に対する神様の主権を侵す罪だったと言えるでしょう。そして、アナニヤが神に打たれて死んだときには「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」(五節)とあり、サッピラが死んだときには「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」(十一節)とあります。アナニヤとサッピラの事件は最初期の教会で起きた特殊な事件であって、すべての罪がこのように即座に、奇跡的な方法でさばかれるわけではありません。しかし、このできごとは、今日の教会も主を恐れて歩むべきことを示していると思います。

 さて、初代教会が主を恐れて前進したもう一つの証しは、「唯一の主であるキリストにあって、教会が愛を持って一致すること」でした。初代教会が直面していたもう一つの問題は、多種多様な背景を持つクリスチャンたちが、どのようにして一つになっていくことができるのか、ということでした。六章のはじめのところで、ギリシア語を話すユダヤ人クリスチャンと、ヘブル語を話すユダヤ人クリスチャンとの間に、食糧の配給の問題で分裂が起こったことが記されています。当時ユダヤ人はパレスチナに住んでいたばかりではなく、世界中に散らばって住んでいました。こういう人々のことを「ディアスポラ」と言います。このユダヤ人たちはもはやヘブル語や当時パレスチナのユダヤ人が話していたアラム語を話すことができず、当時の世界の共通語であったギリシア語しか話せない人もいたのです。今日で言うと、ちょうどアメリカに住んでいる日系人が日本語を話せなくて英語しか話せないようなものです。使徒の働きの二章に書かれているように、初代教会はペンテコステのお祭りの日に、巡礼のために世界中からエルサレムに集まってきていたユダヤ人たちが大挙して救われることによって誕生しました。そこで、互いに言葉の通じないユダヤ人グループの間で摩擦が起こってきたというのです。
その時、使徒たちは七人の指導者たちを任命してその問題の対処に当たらせ、その結果としてさらに教会が前進したことが六章七節の要約に書かれています。「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」
 もう一つ、教会の一致を脅かしかねない事件が起こりました。それは、教会の強力な迫害者であったサウロ(パウロ)が救われたことです。サウロは主の弟子たちを迫害するためにダマスコに向かう途中に、復活の主イエスに出会って劇的な回心を経験し、すぐさまこのイエスというお方こそが救い主キリストである、と宣べ伝え始めました。ところが、いざ彼がエルサレムに上っていって、弟子たちの交わりに加わろうとしたときに問題が起こったのです。

「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出入りし、主の御名によって大胆に語った。そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。」(使徒九章二十六-三十節)

 教会の最大の迫害者の一人であったサウロが救われたというのは、素晴らしい知らせでしたが、あまりに素晴らしすぎて信じられなかったというのです。二十六節には「<みなは>彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」とあります。エルサレム教会の誰も、サウロが本当にクリスチャンになったとは信じられなかったと言います。そして彼らはサウロを「恐れていた」のです。これはクリスチャンが持ってはならない、不健全な種類の恐れでした。彼らは主を恐れないで人を恐れていたのです。
使徒の働きでは簡潔にさらりと書かれていますので、うっかりすると気づかずに読み飛ばしてしまいがちな箇所ですが、これは初代教会における、危機的な瞬間の一つでした。このサウロはやがてパウロという名前で知られるようになり、特に異邦人に対する宣教活動において偉大な働きをするようになります。けれども、彼の異邦人宣教の働きは決してエルサレムにあるユダヤ人クリスチャンを中心とした働きから独立した別個の運動ではありませんでした。パウロの異邦人宣教の働きを理解せず、疑いの目を向けるユダヤ人クリスチャンたちもいたわけですが、使徒の働きにおいても、またガラテヤ書をはじめとするパウロの手紙においても、パウロの宣教活動がエルサレム教会の働きとつながった一つのものである、ということが繰り返し強調されています。しかし、もしここでエルサレム教会がパウロを受け入れなかったとしたら、どういうことになったでしょうか?もしかしたら、パウロはエルサレムの教会とは交わりを持つことを諦め、自分だけで独立した宣教活動を始めていったかもしれません。もしそうなってしまったら、教会はもはや唯一の主イエス・キリストの主権のもとに一致した存在とは言えなくなっていた可能性があったと思います。この問題を回避する鍵となるのは、エルサレムの教会がサウロに対する恐れを克服できるかどうかにあったのです。
 ところが、ここにただ一人、サウロを恐れない人がいました。バルナバです。彼はサウロを引き受けて面倒を見、エルサレムの弟子たちとの仲立ちをし、彼らがサウロを仲間として受け入れるように説得したのです。その根拠はサウロが「主」を見たこと、「主」が彼に語りかけられたこと、そして彼がイエス様の御名を宣べ伝えたことでした。サウロはエルサレムの弟子たちと同じ「主」を信じ「主」に仕える存在である、だから彼を受け入れるべきだ、ということです。バルナバは人を恐れず主を恐れる人でした。
私たちは時として、自分のよく知らない人、あるいはある固定化されたイメージを抱いている人に対して恐れを抱くことがあります。人を恐れている時には、心を開いてその人と交わることができません。エルサレムのクリスチャンたちは、サウロを恐れ、彼に対して心を閉ざしていたのです。けれども私たちは、そのような人に対する恐れを克服し、それを主に対する恐れに置き換えていく必要があります。どれほど苦手なタイプの人であっても、もし同じ主がその人を受け入れ召しておられるのなら、私たちはその人を主にある同労者として受け入れなければならないのです。
エルサレム教会はバルナバのチャレンジにみごとに応えました。彼らはサウロを同じキリストの弟子として受け入れました。彼らはサウロとともにエルサレムで伝道したばかりでなく、サウロに対する殺害計画が明らかになったときには、彼を守って逃亡を助けるということまでしたのです。三十節ではそのようなエルサレムのクリスチャンたちが「兄弟たち」と呼ばれているのは意味深いことだと思います。彼らはサウロにとって、主にある兄弟となったのです。
そして、このエピソードの後に、今日の主題聖句である九章三十一節が置かれているのは偶然ではありません。そこでは「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち」と書かれています。ここで「平安」と訳されているギリシア語は「平和」とも訳すことのできることばであり、新共同訳では「平和を保ち」と訳されています。教会は分裂の危機を乗り越えて主にあって一致し、平和を保っていました。それが主を恐れる教会のしるしであったのです。榊原康夫先生はこの箇所について、こう書いておられます。「聖徒の交わりとか教会一致というものは、要するに、この主キリストへの絶対服従の具体的表現にほかなりません」。教会が前進するためには、主にあって一つになることがどうしても必要です。足並みが揃わなければ前進していくことはできません。そのためには、私たちがどれほど多様な立場や価値観、背景を持っていても、同じ主に仕えているという意識、そしてこの主を恐れて従って行くという態度が必要なのだと思います。
 ここまで主を恐れる教会のしるしとして三つ見てきましたので、簡単にまとめたいと思います。

一、イエス・キリストのみを主と認めること。
二、罪と悪から離れること。
三、キリストにあって一つになること。
 
このうち、二番目と三番目は、一番目から出て来るものだと思います。イエス・キリストの絶対的主権を認め、それに従って生きることが、主を恐れかしこむということです。

 ここで少し立ち止まって、「自分は誰を恐れているか?」ということをそれぞれ考えてみたいと思います。皆さん、自分の心の中を探ってみてください。私たちが本当に恐れているのは何でしょうか?他人の目でしょうか?環境でしょうか?病気や経済的困難でしょうか?将来への不安でしょうか?自分のプライドが傷つけられることでしょうか?他にもいろいろあるかもしれませんが、私たちが唯一の主であるイエス・キリストよりも恐れているものがあるとすれば、それは私たちにとって偶像となっているのです。なぜなら、私たちは自分が恐れるものに支配されているからです。まことの主よりも恐れるものがあるかぎり、私たちの心にも、教会にも平安はありません。けれども逆説的なことに、主だけを恐れていく時、主は私たちに「恐れることはない」と言ってくださるのです。私たちの心から偶像を取りのぞき、主のみを恐れて前進していく教会となっていきたいと思います。

聖霊の励ましと慰め

 次に、教会が前進し続けるためにもう一つ必要なこととして、「聖霊に励まされる」ことについて学びたいと思います。使徒の働き九章三十一節では、教会は聖霊に「励まされて」前進し続けた、とあります。原文のギリシア語を直訳すると「教会は聖霊の励ましのうちに前進し続けた」となります。「励まし」と訳されているのはパラクレーシスということばですが、これは「慰め」とも訳すことのできることばです。使徒四章三十六節に登場するバルナバは「慰めの子」という意味のあだ名ですが、ここでもパラクレーシスが使われています。そして、新共同訳聖書では九章三十一節のこの箇所は「聖霊の慰めを受け」と訳されています。
 このパラクレーシスという名詞の動詞形はパラカレオ-ですが、これは元々は「傍らに(パラ)呼び寄せる(カレオー)」という意味です。そこから、側に呼び寄せて親しく語りかける内容に応じて、「願う、勧める、励ます、慰める」といったいろいろな意味が生じてきました。したがって、教会が聖霊のパラクレーシスを受けるということは、教会が聖霊のみ側に引き寄せられ、親しい語りかけを受けることです。そして、教会は聖霊との人格的な親しい交わりの中で、時には慰めを受け、時には励ましを受けながら前進したということです。
 教会が聖霊によって慰め・励ましを受けるということは、具体的にはどういうことを意味しているのでしょうか?人生にはいろいろな苦しみがあり、クリスチャンになっても苦しみがなくなるわけではありません。けれども、私たちクリスチャンは、苦しみの中でも慰めを与えてくださる神様がおられることを知っています。そこが主を知らない人々との違いです。パウロはコリント人への第二の手紙でこう言っています:

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。」(第二コリント一章三節-七節)

 パウロが言うように、私たちの神様は「すべての慰めの神」であり、「どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」これはなんという素晴らしい希望でしょうか。

けれども、使徒の働き九章三十一節で教会が聖霊に励まされて(慰められて)前進したと言うとき、もう少し具体的な内容を考えることができるように思います。この節では、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち」とあります。教会は「平安を保っていた」のです。さきほどお話ししたように、ここは「平和を保ち」と訳すこともできる箇所で、教会が一致していた、ということが語られています。聖霊が教会をご自分のみ側に引き寄せ、親しく語りかけるとき、その分裂していた傷がいやされ、教会は一つに結び合わされ、強められ建てあげられていくのです。この箇所のすぐ前では、かつて教会の迫害者であったサウロ(パウロ)がエルサレムの使徒たちと和解して一つになったできごとが語られました。その間を取り持ったのはバルナバでした(二十七節)。バルナバという名前は、先ほど述べたように、「慰めの子」という意味です。バルナバがこの時直接的に聖霊の語りかけを受けてパウロを受け入れていったのかどうかは分かりません。しかし、「慰めの子」というあだ名がつくほど、人を慰め励ます愛に満ちた彼の人格は、聖霊によって練り上げられたものであったことは疑いありません。
 使徒の働きの中でもう一つ、聖霊による励ましによって教会が一致していった例を見ることができます。初代教会が直面していた最大の問題は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがどうすれば一つになれるか、ということでした。キリスト教はもともとユダヤ教の中から生まれた信仰運動です。クリスチャンたちはアブラハム、イサク、ヤコブの神を信じ、その神様がお与えになった聖書(今で言う旧約聖書)を神のことばとして受け入れていました。イエス様はイスラエルのメシヤすなわち救い主として来られましたし、最初のクリスチャンたちもみなユダヤ人でした。しかし、ユダヤ人ではない異邦人たちが福音を受け入れていったとき、一つの疑問が生まれました。それは、「異邦人たちはまずユダヤ教に改宗して、割礼を受け、モーセの律法を守らなければクリスチャンにはなれないのか?」という問題です。ユダヤ人クリスチャンのある人々は、異邦人も割礼を受けなければ救われないと論じていて、異邦人はユダヤ教に改宗することなく主イエスを信じるだけで救われるというパウロたちと激しく対立しました。この問題を解決するために、初代教会の指導者たちがエルサレムに集まって会議を開いたことが、使徒十五章に書かれています。詳しい経過は説明しませんが、結論だけ言いますと、この会議の結果、異邦人クリスチャンたちは割礼を受けるなどしてユダヤ教に改宗することなく、そのままクリスチャンの兄弟姉妹として教会に受け入れられる、ということが決議されました。これは教会史上たいへん重要な転機となったできごとです。
 そして、エルサレムの使徒たちは、この決議を異邦人の諸教会に告げ知らせるために手紙を書いて、それを何人かの兄弟たちに託して送りました。実はこの代表団の中に、パウロとともに「慰めの子」であるバルナバも入っていたのです(二十二節)。それだけではありません。彼らに託された手紙には、次のように書かれていました。

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(十五章二十八節-二十九節)

 ここで、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けること」というのは、異邦人クリスチャンが守らないと救われない新たな律法、ということではなくて、異邦人のクリスチャンがユダヤ人クリスチャンと交わりを持つために必要なことがらに関する注意事項です。しかし、ここで注意したいのは、この手紙を書いた使徒たちは、異邦人クリスチャンをユダヤ教に改宗しない異邦人のまま受け入れるという決議について、「聖霊と私たちは・・・決めた」と言っていることです。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを一致させるこの重大な決定は、ただ人間的な協議によってではなく、聖霊の導きのもとになされたのです。
 そして、その手紙を受け取った異邦人クリスチャンの反応がその後に書かれています。

「さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。」(十五章三十節-三十二節)

ここで、三十一節では、エルサレム教会からの手紙がアンテオケのクリスチャンたちにとって「励まし(パラクレーシス)」であったことが書かれています。さらに、三十二節には、ユダとシラスは兄弟たちを「励ました(パラカレオー)」とも書かれています。ユダとシラスは預言者であったと書かれていますが、預言者とは聖霊の導きによって神様からのメッセージを取り次ぐ人々のことです。アンテオケのクリスチャンたちは使徒たちからの手紙と預言者のメッセージによって二重の励ましを受けましたが、それらはどちらも、聖霊の導きのもとになされたことが分かります。つまり、ここで聖霊は、ユダヤ人教会と異邦人教会に分裂する危機にあった教会を励まして一つにしているということが分かります。
 聖霊によって励まされる教会とは、御霊によって一致し、平和を保つ教会でもあるのです。けれども、ここで注意したいことは、今見てきた箇所で与えられる聖霊の励ましとは、聖霊が個々のクリスチャンに直接働きかけて与えられるというよりは、むしろ聖霊に満たされたクリスチャンが他の人々を励ますことによって与えられる、間接的な働きだということです。つまり、聖霊が教会を励ます時、あるいは慰めるとき、それは私たち一人ひとりのクリスチャンを通してなされるということです。
現代の個人主義的な文化の中に生きている私たちは、聖書を読むときも、ついつい個人の視点から読んでしまうことがあります。けれども、聖書は「教会」という共同体の視点から読まなければなりません。聖霊はどのようにして教会を励まし、一致させてくださるのでしょうか。それは弱さを覚えている人々に個別に働きかけて、その方々を強めてくださる、ということもあるでしょう。けれどももっと大事なことは、聖霊は私たち一人ひとりに働きかけて、お互いの弱さをかばい合い、互いに支え合い仕えあうための愛を与えてくださるのです。そのようにして、教会全体は励ましと慰めを受け、前進していくのだと思います。

「前進し続ける教会」とはどのような教会でしょうか?それはすべてのクリスチャンが問題のない、賜物に満ち溢れた、何でもできる教会、ということではありません。実際、初代教会はそのような教会ではありませんでした。けれども、個人としては弱さや問題を抱えながらも、教会全体は建て上げられ、前進し続けたのです。どのようにしてでしょうか?さまざまな問題や苦難の中にあって、互いに弱さを抱えながらも、支え合い、仕えあって一致していったからこそ、教会は前進していったのです。
そして、最後に忘れてはならないのは、教会が「前進する」とは、ただ人数が増えたり、活動が広がっていくことではありません。最初に見たように、それは神様のご計画に従って、主の道を歩んでいくことです。その中で教会が外面的に成長するだけでなく、私たち一人一人がキリストに似た存在へとつくり変えられていく内面のプロセスもまた、教会の前進にほかならないのです。私たちもそのようにして、聖霊の励ましを受け、前進し続ける教会になっていきましょう。
最後に、一言、お祈りさせていただきます。

 愛する天の父なる神様、あなたの御名をほめたたえて感謝いたします。使徒の働きのみ言葉の中から、最初の教会が主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けていった様子について学びました。今日の教会もまた、あなたによって前進させ続けられている教会であることを感謝します。
 この新城教会も、あなたがこの地において、神の国を現すために建てあげてくださっている大切な教会であることを感謝します。この教会が、あなたを恐れかしこみ、また聖霊の慰めと励ましを豊かにいただいて、平和を保ち、そして前進する教会となっていくことができるように、助けてください。
 そのためにお一人お一人に、あなたが今、触れてくださり、私たちがこのキリストのからだのために何をすることができるのか、そのことを教えてくださいますように。また、そのことをする力を与えてくださいますように、お願いいたします。
 このみ言葉のひとときを感謝し、尊き主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。