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『子どもの信仰にならう』

2016年9月25(日)
新城教会牧師 岡本信弘
マタイの福音書十八章二~五節節

『そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」』

皆さん、おはようございます。はっきりしない天気が続いていますが体調はいかがですか?
私は、八月に六十歳となり、なかなか疲れが抜けなかったりして歳をとったなぁと思ったりしますが、皆さんのお祈りに支えられて、守られていることを感謝いたします。
プレイズ出版の働きも、皆さんに祈っていただいていることを心から感謝いたします。アークホームをはじめとする福祉関係も祝福されています。また、飲食部門においては、今までランチだけだった雲の柱は、火曜日から土曜日まで、夜も営業することになりました。今後の働きのために、続けてお祈りいただきたいと思います。

私事ですが、孫が生まれて早四ヵ月になろうとしています。最近、「先生の子育てのころはどうでしたか?」とよく聞かれますが、もう三十年以上も前のことで、どうやっていたのかほとんど覚えていません。
孫は、ご機嫌な時はいいのですが、お腹がすいたりおむつが濡れれば泣くし、眠くなればぐずるし、こんなに大変だったかな?と思ったりもしますが、ニコッと笑うのを見るといやされます。「お孫さんに会いに飛んでいきたくなるでしょう」とか言われますが、そこまでではありません。息子は仕事の関係で日曜日に来られない時があり、そんな時は水曜礼拝に来るので、一週間に一度はだいだい会えます。今のところ私も忙しいので、それくらいがちょうどいいかなぁと思っています。

孫を見ながら、子どもと大人は、どこが違うのだろうと、ふと考えました。二十歳になって成人したら大人だと言われます。とは言っても、親のすねをかじって面倒を見てもらっている間は、大人とは言えないかもしれません。仕事をして稼ぎ、経済的に自立したり、結婚して家庭を持ったりしたら世の中的には一人前と言われます。
ある人が「大人の定義」をこのように書いていました。

「人生について、自分の中でとことん突き詰めて、それに自分なりの答えを見いだした人間。
自分の人生の責任を持つのは自分しかいないという覚悟ができた人間。
最終的には、自分だけで判断して、自分の力で生きていく、という覚悟をした人。
これが、私が行き着いた“大人”の定義です。」

これを読んで、自分はここまで覚悟を持って生きているかなぁと思いますが・・・。

信仰においても、大人と子どもはどのように違うのかと考えました。そんな時、ある信仰書にこのような記事が載っていました。
ある田舎の出来事です。日照り続きで雨が降らず、米が不作で、皆とても困っていました。そこで、クリスチャンたちが、「教会に行って、雨が降るように神様に祈ろう」という話になり、雲ひとつない晴れた日、教会に集まりました。その中で、一人の子どもが傘を持って教会に来ました。大人たちは、「どうしてこんなに天気がいいのに傘を持ってきたの?」と子どもに尋ねました。その子は、「だって、神様に祈ったら、すぐに雨が降るんでしょう。それなら帰る時には傘が必要になるでしょう」と答えたそうです。
皆さんどうですか。大人たちは、降ってほしいけど、降るかもしれないし降らないかもしれない。降ったらいいな、くらいに考えていたのでしょう。しかし、この子どもは「神様に祈ったら百パーセント雨が降る!」という信仰を持っていたのです。そこに大きな違いがあります。皆さんにもこの大人たちのような不信仰がありませんか?
私は、小さな子どもたちが大好きです。教会にたくさんの子どもたちがいてよく抱っこします(ほとんど名前を覚えられないので、申し訳ないのですが・・・)。子どもの無邪気に笑う顔を見ると嬉しくなります。子どもたちは純粋です。しかし、だんだん成長して知恵がついてくると、人見知りをしたり、遠慮したり、だんだんと何を考えているのか分からなくなってきますが、いつまでも純粋さを失わないでいてほしいと思います。

さて今日は、マタイの福音書十八章より、学んでいきたいと思います。
イエス様は、二節のところで、子どもを引き合いに出しています。

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。』(マタイの福音書十八章二節)

ここにいる方はほとんどがクリスチャンですので、イエス様の十字架の贖いを信じ、永遠の命をいただいていらっしゃいますが、イエス様はこの箇所で、「子どものようにならなかったら天国には入れない」と語っています。では、ここに書かれている「子どものように」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。
イエス様がこのことを言った背景には、一節に書かれている弟子たちの質問がありました。

『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」』(同十八章一節)

弟子たちの中には、学歴もなく、地位もなく、貧しい暮らしをしていた人、また漁師もいました。そんな彼らがイエス様の弟子となり様々な場所を巡っているうちに、イエス様の弟子だということで多くの人に尊敬されるようになったことでしょう。そんな彼らの心には、自分の師であるイエス様が王となり、国を再興してくださる、その時には、自分はどんなポジションにつけてもらえるだろうかと、偉くなりたいという期待がありました。いつの時代でも、世の中には、偉くなりたいと思っている人が多くいます。特に先日も語られたように、日本のような資本主義社会においては、金持ちが優遇され、学歴があり、出世した人が偉い人と、もてはやされます。しかし、弟子たちのこの質問に対してのイエス様の答えは意外なもので、「子どものようになりなさい」でした。
聖書中には人数を数える時に、女や子どもは数に入れられていないことがよくありました。ある意味、子どもは軽んじられた存在でした。しかし、イエス様は、あえて、『子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です』と言っています。
子どもに何が分かる、子どもに何ができると思っていた弟子たちにとって、この答えは理解できないようなものだったでしょうし、自分たちの質問に対する答えになっていないように感じたことでしょう。
また、マタイ十一章二十五節では、イエス様は弟子たちにこう語っておられます。

『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』

賢い者や知恵のある者には隠して、あえて幼子たちに現わしたとはどういうことでしょう。
現在の私たちの教会では、子どもは何も役に立たない、物の数にも入らない、と思っている人はいないと思いますが、最前線で働いている人、教会のスタッフや牧師、イエス様の喜ばれる働きをしている人が偉い人だと思ってはいないでしょうか。しかし、それは大きな勘違いです。
一九九二年に霊的戦いが始まり、子どもたちに霊的な目が開かれたと語られた時、私は、聖書もろくに読んでいない、祈りもほとんどしないこの子たち(自分の子どもも入っていましたから)が、用いられるはずがないと考えていました。しかし、実際はどうだったでしょう。皆さんがこれまで何度も聞いているように、子どもたちに確かに霊的な目が開かれ、時に悪霊が見えたり、預言的な御言葉が語られたりといったことが頻繁に起こったのです。そのことを目の当たりにして、私はすごく驚きました。
この時、なぜ子どもたちに霊的な目が開かれたのでしょう。ひとつには、純粋さではないでしょうか。何も考えていなくて、疑うことがないともいえるかもしれませんが・・・。大人は、イエス様は何でもできる、いちばんだと思っていながら、常識にとらわれ、信じ切れていないところがあるかもしれません。

聖書の中に、子どもであっても用いられた人物がいます。皆さんご存知のイスラエル二代目の王となったダビデです。彼は羊飼いでした。ちょうど彼の少年時代に、イスラエルはペリシテと戦っており、ダビデの兄さんたちは戦場に駆り出されていました。父の使いで兄たちに届け物を持っていったダビデは、戦場で、ペリシテの戦士であるゴリヤテの前に、大人たちがなすすべもなく恐れ、戦意を失っている様子を目の当たりにしました。

そのことが第一サムエル記十七章二十一~二十四節に書かれています。

『イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。』

ゴリヤテは、ペリシテ人の代表戦士であり、背も高く、青銅のかぶとをかぶり、うろことじのよろいを着けて、足には青銅のすね当てを着けていました。いかにも頑丈で強そうな、誰が考えても到底勝ち目がないと思うような、見るからに恐ろしいその男が、『きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう』と何度も挑発していたのです。それを聞いたダビデは、そばに立っている人たちにこう言いました。

『このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。』(同十七章二十六節)

ダビデは、割礼を受けていない、神様を信じていない者が神を侮辱しているのに苛立ちを覚えたのです。
しかし、ダビデの話を聞いていた兄エリアブは、ダビデに怒りを燃やして、こう言いました。

『いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。』(同二十八節)

やじ馬で来たのかと、ひどく弟を叱っています。しかしそれに対してダビデは、王であるサウルのもとへ行き、直談判したのです。

『あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。』(同三十二節)

これを聞いたイスラエルの誰もが、何と馬鹿げたことを言っていると思ったことでしょう。
サウルも『あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから』と、一度は止めたものの、ダビデの熱心さに心を動かされ、『行きなさい。主があなたとともにおられるように』と、ダビデが行くのを認めたのでした。
この時、なぜそこまで恐れなく、みんなの止めるのも聞かずダビデは出て行かれたのでしょう。それは、ダビデには目の前の巨人ゴリヤテではなく、もっと大きな神様を見ることができていたからだと思います。だからこそ、「私が行って戦います」と言えたのです。
そして、ダビデは羊の番をしている時にいつも使っている石投げを使って、たった一つの石でゴリヤテを倒してイスラエルに勝利をもたらしました。彼の腕力が強かったわけでもなく、戦術が功を奏したのでもありません。ただただ、彼は自分の信じている神様がいちばん強く、私たちと共にいるという確信があったからこそ、この勝利を得ることができたのです。
時に私たちは、見えるところで判断してしまうことがよくあります。しかし、聖書には、

 『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章十八節)とあり、イエス様は、「見えないものにこそ目を留めなさい」と教えています。

話は少し変わりますが、先月、滝元清子先生が九十三歳で天に召されました。すごく寂しい気がします。召天式の日、平岡先生が思い出を語られましたが、「清子先生は、私の知る範囲では、一度も信仰がぶれなかった人だった」という言葉が心に残りました。本当にそうだなぁと思います。
東京で生まれ育った娘さんにとって、何もなく、誰も知り合いのいない、もちろんクリスチャンもいない山奥で、初めはとても苦労されたそうです。新城に来てからは、明先生を支え、子どもたちを育てながら、いつも巡回伝道で出かけている明先生の代わりに教会を守ってこられました。信仰がぶれていたら、やっては来れなかったと思います。
十年前に天に召された私の母キヨは、清子先生と同じ大正十二年生まれでした(ここには母のことを知らない方も多くいらっしゃると思います)。母が召されてしばらくたったある日、明先生が私に、「キヨさんが亡くなった時、いちばんショックを受けて元気を失くしたのは、うちの家内だと思う。五十数年前にこの新城に伝道に来てからというもの、数々の戦いがあり、僕がいない時が多かったなかで、キヨさんは、家内の親友であり、相談相手であり、戦いの同志であったように思う」と語ってくださいました。
私は母から、因習の深い、この新城の田舎においての伝道活動は困難を極め、祭りへの参加や寄付の問題、偶像の葬儀、クリスチャンになろうとした時の家族からの反対、もめ事など、様々な戦いの連続であったと聞いています。どうやって戦ったらよいのか、負けて当然と思えるような、到底勝てないような戦いの中、まだ、数少なかった新城教会の初代クリスチャンが共に戦った歴史があり、その戦いの勝利によって、今の新城教会の祝福があることを私たちは忘れてはなりません。
私たちの目の前には、いつも様々な問題があります。人には言えず、どうすることもできないことがたくさんあります。そんな時、世の中の多くの人は、神社や寺に行って手を合わせるのです。しかし、どんなに賽銭箱に金を投げ入れ、手を合わせても、何の効力もなく、人間が作ったものは人間を救うことも願いをかなえることもできません。それどころか、その背後で支配しているサタンは、人間に祝福をもたらすどころか呪いを持ってくるものだということは、皆さんよくご存じのことですね。そのようなサタンの支配から逃れて救われた方もここにいらっしゃると思います。

このメッセージを考えている時に、「日本のお寺が経営の危機に瀕している」というニュースが流れたので、どういうことかなぁと見ていました。皆さんは、現在、日本にどれだけの寺があるかご存知ですか。七万七千もあるそうです。その半数以上が経営の危機だというのです。経営のことはともかく、七万七千もあるということにビックリしてネットで調べてみると、神社は八万五千あるそうです。多少の増減はあるようですが・・・。ちなみに皆さんがいつも利用していて、ここにもあそこにもあると思うものは何ですか? それはコンビニです。皆さんの町にもたくさんあると思います。新城にもここ数年で何軒も建ちました。そのコンビニでさえ、五万~六万軒だそうです。そう思うと、いかに神社仏閣が多いのかが分かります。
それに対して教会は、教団、教派、異端もあり、ネットではなかなか数が把握できないのですが、だいたい八千くらいだろうと言われています。神社の十分の一にもなりません。そんな中で戦っていくのは大変なことです。
しかし、ヨハネの福音書五章二十四節には、 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです』とあり、信じるだけで救われることができると言っています。
また、第一ペテロ一章八節には、『 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています』とあります。私たちは目の前にイエス様を見ることはできないけれど、イエス様は確かにおられることを信じ、偉大なる神「イエス・キリスト」を愛し、喜びの中に、祝福の中にいることを感謝したいと思います。

神様は、単純な信仰、純粋な信仰をいつの時にも喜ばれます。その単純な信仰を実践して喜ばれた代表的な人物が、私の生涯の師であり、皆さんも尊敬している滝元明先生だと思います。
私は、物事を進める時に必ずシミュレーションします。どのようにすれば経営が成り立つか、レストランに何人のお客さんが入ったらいくら儲かるとか考えるのが好きです。もちろん、信仰の上に計画を練るわけですが、確率的に勝つ見込みがない戦いはしない、と考えています。しかし、明先生は違いました。甲子園ミッション以来、驚かされることばかりでした。
甲子園の始まりについて、知らない人が大勢いらっしゃると思うので少しお話をすると・・・
毎年、愛知県民の森でリバイバルクルセードが開かれていました。そこに、一麦西宮教会の下條先生が来られ、「高校野球が行われる甲子園球場で、日本人の手で、日本人のメインスピーカーが立って伝道集会をして、あそこに一杯の人を集めたい」と何度か語られました。何度も語られたからといって、「やってください」と頼まれたわけでもないのに、誰が「やります」と言えますか。下條先生がビジョンを語られたのですが、明先生は、神様が私に語っていると言って、「私がやります」と手を挙げられたのです。お金もない、何の保障もない、協力者もろくにいない、まして明先生はそれまで一度も甲子園球場に行ったことがなかったのです。私からすれば、何のシミュレーションもない(笑)という状態です。
当時まだ若かった私でも、成功する確率はゼロに等しいとすぐに答えは出ました。そのあと先生に、「先生、甲子園球場に行ったことがないんでしょう」と言うと、「テレビで何度も見たよ」(笑)とあっさり言いました。「お金もないでしょう」と言うと、「あるよ。百万くらい」(笑)と。百万円は大きいお金ですが、甲子園の集会をしようとするには、それだけで何ができるのかと私は思いました。
それからいろいろな話し合いがなされましたが、明先生の心は揺るぎませんでした。そして、皆で祈り、先生のその熱意に動かされ、甲子園リバイバルミッション開催が決定していきました。
甲子園の準備が始まって間もなく、新城教会の中に分裂が起こり、全国あちらこちらから考えられないような反対が数々起こってきました。私たちの知らないところで、あることないこと様々な噂が流され、文書が送られていました。私も読んだことがありますが、「何も知らないのにいい加減にしろ!」と言いたくなるようなものでした。しかし、その一方で全国から多くの勇士たちが祈りの手を挙げてくださり、協力してくださり、大会まで進んでいったのです。
結果はどうだったでしょう。甲子園リバイバルミッションは、多くの神を信じる方々が起こされ、祝福のうちに幕を閉じました。なぜ成功したのでしょうか。それは、金銭欲も名誉欲もなく、ただ、「神様が働かれたら不可能なことは絶対ない」という純粋な信仰、それに加えて多くの方の真剣な祈りの結果だと思います。

先日、ある教会の方々がプレイズ出版に来られました。老人ホームやレストランを見て、「岡本先生のビジョンは素晴らしいですね」と言ってくださったのですが、私は即座に「私は夢も見ていないし、ビジョンも持っていなかったんですよ」と答えました。
一九九〇年にプレイズ出版は始まったのですが、それも明先生が「自分の本をこの教会から出したい。トラクトをカラーで作りたい」という願いを持たれたのがきっかけです。先生のその夢がなかったらプレイズ出版の誕生もありませんでした。
また、一九九八年に行われた武道館の東京リバイバルミッションも、明先生の桁違いなビジョンがなかったら実現しなかったことです。誰が考えても武道館で、しかも十日間も借り切って集会をするなどと、無謀しか思えないことでも、日本のリバイバルを願う明先生の子どものような信仰、主を信じきる純粋な信仰が、神様を動かし実現したのです。
 その明先生が、昨年天に凱旋され、今年、清子先生が召されたことで、新城教会のひとつの時代が幕を下ろしたと思います。しかし、リバイバルの戦いは、これからも続いていきます。

それでは、私たちは何をなすべきでしょうか。
ヨハネの福音書十五章十六節には、こうあります。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

神様は、私たち一人ひとりを、そして、あなたを選ばれたのです。ですから選ばれた私たちが、その選びにふさわしい働きをしなければ、神様に申し訳ないと思います。といって、私ができているわけではないので、自分を情けなくも思っているのですが・・・。

先週の礼拝メッセージで、賜物について語られました。ここにいるすべての方々に賜物が与えられています。老いも若きもそれぞれに与えられた賜物を使っていきましょう。リバイバルの前進には、ここにいるすべての人が必要なのです。
同時に、これからのリバイバルの前進のために、最前線に出て行くのは若者だと思います。先日のネパール宣教においても、中・高生、若者たちが率先して奉仕をした素晴らしい証しを聞いています。そして、この働きはもっともっと広がっていくでしょう。しかし、いくら賜物を使っていきましょうといっても、「じゃあ、俺がやってやろうじゃないか」というのではありません。

ルカの福音書十六章十節に、こんな御言葉があります。

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』

この中には、まだ、自分の賜物が何か、はっきり分かっていな人も多くいると思います。私もそうでした。甲子園の時に、明先生から「あなたに財務・運営を任せたい」と言われ、甲子園の話し合いに連れられて行った時、そこには年輩の牧師先生はじめ、そうそうたるメンバーが集まっていました。その人たちの私を見る目は、「こんな若造に何ができる」という感じでしたし、私自身もそう思っていました。
そんな状態の中で甲子園の働きを始めていったわけですが、「私には賜物があるから、その賜物を使って私がやりましょう」と思ったわけではありませんし、思える状況でもありませんでした。でも、与えられたポジションを忠実に奉仕させていただき、純粋な信仰、単純な信仰で、私がその信仰を持ったというよりも、引きずられるようにその働きに投げ込まれたようななかで、私に与えられていた賜物が生かされていったというのが事実だと思います。

ヨブ記八章五~七節には、こう記されています。

『もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。』

これは、ヨブが何もかもを失った時に、友人がヨブに語った言葉です。
時に、ある奉仕は、誰の目にも留まらないような、また、人から見たら小さな働きに見えるかもしれません。しかし、『小さな事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり』とあるように、事の大小にかかわらず、どこまでも主を信じ、与えられた小さな奉仕を喜んでさせていただく時に、必ず祝福されます。小さなことであっても、忠実にやり続けるなら、やがて大きな働きを委ねていただける者になることを覚えてください。そしてそれは、リバイバルにつながる働きになると信じています。はじめは小さくても、終わりははなはだ大きくなるのです。
先のことは分かりません。主の働きも変化することもあるでしょう。しかし、たとえ時代が移り変わっても、どんな変化があったとしても、私たちがどこまでも忘れてはならないのは、子どものような単純な信仰と純粋さではないでしょうか。
ただただ子どものように主に信頼してまいりましょう。子どものように、「神様がいれば何でもできる!」という信仰を持ちましょう。「私たちの信じている神様がいちばん強く、私たちをどんな時にも見捨てることはない!」という信仰を持ちましょう。神様は、私たちの問題に必ず解決を与えてくださる、必ず祝福を与えてくださるという信仰を持ちましょう。
また、世の終わりの近い時、私たち一人ひとりは小さな者ではありますが、お一人おひとりに賜物が与えられていますから、こうだったらいい、ああだったらいいという自分の願いではなく、日本のリバイバル、世界のリバイバルのために働いてまいりましょう。
主は、お一人おひとりを必要として選ばれました。主が愛しておられます。その愛に応え、愛に報い、主の御心を現していきたいと思います。何をすればいいか分からない時でも、まず目の前におかれている小さなことを忠実に行っていきましょう。その時に、主がリバイバルの働きを前進させてくださると信じます。
私たちに課せられた任務があるならば、それを喜んでさせていただきたいとの願いを持って、主の前に出てお祈りしましょう。