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『あなたは「残りの者」です!』

2016年10月30(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ミカ書5章7節〜9節

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。聖歌隊の賛美、本当に良かったですね。心にしみました。イエス様の十字架と勝利を歌っていましたが、礼拝は、主が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださった、よみがえりを祝い、記念し、やがて私たちもよみがえりにあずかることが出来ることを期待しつつ守ります。

 前回もお話ししましたが、礼拝は、本当に大切です。週の初めの日に礼拝し、六日間、社会で働き、また礼拝に集うという、一週間七日制は、拡大して、七週、七年、七の七倍、四十九年、そして、五十年目のヨベルの年につながると話しました。私たちは、真のヨベルの年である、イエス様がこの地に帰って来られる日まで、礼拝を続けるのです。
 その最小単位と積み重ねが、週の初めに主を礼拝し、一週間を始める七日制にあります。そこに、ヨベルの年の最小単位があるわけです。この積み重ねが、主の帰られる日につながるわけです。
 願わくば、私たちが礼拝しているただ中に、イエス様のお帰りを体験することができたら、そんなすばらしいことはありません。礼拝が、大変重要であることを覚えなければならないのです。

 ですから逆にいえば、礼拝とは、大きな霊的な戦いでもあります。みなさん、どうでしょうか。土曜日までは礼拝に行く気、満々でも、日曜日になるとなぜか腰が重くなったり、布団から出られなくなった体験がある人は、スイッチオン!半分くらいですね?という感じかもしれません。

 私は牧師だから、礼拝に出て来てほしくて、このように語っているのではありません。イエス様が帰られる日を迎えるためには、一週間七日の枠組みを、しっかりと位置付けることが大切だからです。週の初めに、皆が集まって主を賛美し、祈り、み言葉に耳を傾ける事は、本当に大切だと、近頃、強く感じています。戦いに勝利し、礼拝に集わなければなりません。

 今から何年か前のことですが、ある一人の娘さんが、この教会におられました。彼女は、ウィークデーの集会にはよく来られるのです。県民の森の祈祷会は、夜中の十二時くらいになりますが、そこにも出て来られて、一生懸命賛美し、祈るのです。しかし、日曜日の礼拝となると、めっぽう弱いのです。どうしても、目が覚めないというわけです。土曜日までは礼拝に出席する気満々で、準備しているのですが、日曜日の朝になると、なぜか布団から出られないというのです。これは霊的な戦いだと思いました。
 それで、教会のスタッフ達が、彼女が住んでいる地域の為のとりなしの祈りをしました。その地域に、日曜日の朝になると、礼拝に行くのを止める力が働いているような気がしたので、暗闇が砕かれるように祈りました。
 すると、不思議なことが起こりました。ある日曜日の朝のことです。その日は目覚ましをいくつもかけて、礼拝に行く準備をしていたそうです。目覚ましがいくつも鳴ったので、寝てはいられなくなって、着替えをし始めたそうです。
 すると、頭の上の方で、何かざわざわ、誰かの話し声が聞こえ始めたそうです。

 「あいつ、今日は礼拝に行きそうでっせ!」という声が聞こえたというのです。そうしたら、他から「早く行って、止めて来い!」という声が聞こえ、その声を聞いたとたん、力が抜けて、また布団の中に戻っちゃったというのです。変だな、気のせいかな?と思って、もう一度、頑張って起き上がったら、またざわざわ声がして、「ボス!やっぱりあいつ礼拝に行きそうでっせ!」「早く止めて来いよ!」と声が聞こえて、また力が抜けたというのです。そんな体験が何回か続いたそうです。
 それで、はっと気づいたそうです。礼拝に起きられないのは、自分のせいだと思っていたけれど、そうではない。悪霊どもが、「教会に行くな!礼拝に行くな!」と、「耳元でささやいているんだ」、と分かって、がんばって立ち上がって、礼拝に来たと言いました。
 みなさん今度、朝礼拝に行こうとしたら、力が抜けて、「今日は寝ていようかな・・・」と思ったら、この話を思い出して下さい。「ボス!あいつ礼拝に行きそうでっせ!」「止めて来い!止めて来い!」と、悪霊どもに止められていると思って、戦って、出席してくださいね。
 一週間七日制が、ヨベルの年につながる大変重要なカギなのです。

 聖書は、ぶ厚くて難しい書物ですが、全体的な枠組みを押さえておくと、よく理解できます。
 聖書の序論から結論、プロローグからエピローグ、それは、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」にあると、以前にもお話ししました。聖書の最初は、「はじめに神が天と地を創造された。」という天地創造から始まります。しかし最後の書、黙示録の結論は、「新しい天と新しい地の創造」です。
 聖書一冊を通して、神は、人に何を伝えたいのでしょうか。聖書は、神は天と地を創造して終わりではない、新しい天と新しい地を創造する為の「物語」なのです。
 そして、天国とは、他の天体にできるものではなく、混沌とした罪に満ちた、この地球を新しく造りかえて、天国にするための物語が、聖書一冊にこめられているのです。天地創造から、新しい天と地の創造という枠組みを、しっかりと押さえて、その為の出来事が聖書にちりばめられていることを意識して読むと、大変分かりやすいです。
 今日、ご一緒に読んだ、ミカ書も、まさに天地創造から、新しい天と新しい地の創造の過程を頭に入れて読むと、よく分かって来ます。

 ミカという預言者は、紀元前八世紀くらいに活躍した預言者でした。彼は偉大な預言者でした。ミカ書五章二節には、こんな言葉があります。

『ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』

 これは誰のことと思いますか?これは、イエス様がベツレヘムでお生まれになることを、預言していのです。
 ミカが活躍した時代は紀元前八世紀です。実は、紀元前十世紀に、ベツレヘムから、すごい人物が出ました。それが誰かというと、ダビデ王です。ダビデ王は、イスラエルのヒーローです。そんな人物がベツレヘムから出現しました。その後に、こういう大胆な預言をするのは、なかなか勇気がいる事と思われます。すでにヒーローがこの村から出たのですから、これ以上、どんな人物がこの田舎から出るのか?という感じです。
 しかしミカはイエス様のことを預言したのです。イエス様はベツレヘムの馬小屋でお生まれになられました。その目的は、イスラエルの支配者であり、世界の支配者です。そして、その預言は実現したのです。

 今週は十一月になりますが、一年早いですよね。あっという間に過ぎてしまいます。十月まで、本当に忙しかったのです。しかし、ちょっと一段落した感じです。しかしもう一つ、大きな山があります。是非とも祈っていただきたいのですが、それは十一月にイスラエルに行くからです。今年、リバイバルミッションでは、二つのイスラエル・ツアーを計画したのですが、一つはザワメキ・イスラエル賛美ツアーです。そしてもう一つ、ニュース誌には載らないツアーが、何を隠そう、私の「イスラエルとりなしツアー」です。
 それも前代未聞の、現地集合、自己責任!ツアーです。こんなもん、誰がいくのかなと思っていたのですが、なんと、定員三十名のところ、三十名集まったのです。すごいでしょう。命知らずの連中が、三十名も集まって、私と運命を共にしてくれるというのです。嬉しいなぁ!という感じです。
 どうして、現地集合、自己責任かというと、今回、このベツレヘムにも行くのですが、一般のツアーではベツレヘムへは行けないのです。なぜなら、この場所は、ウエストバンクと呼ばれる「パレスチナ自治区」に含まれる地域だからです。危険地域となるわけです。今回、私のグループは、パレスチナ自治区を巡るツアーです。ガイドさんは、アラブ人、イスラム!というおもしろいツアーです。やはり、とりなしの祈りには、敵方の情報がいりますからね。
 今回、「霊的戦い専門課程」に出席してくださっている先生方とご一緒に行けること、また、新城教会の兄弟姉妹も参加してくださる事を、心から感謝しています。是非とも、生きて帰れるように祈ってください。でも、みんな喜んで帰って来ると思います。「危ない、危ない」と言われている場所が、案外、安全なのです。みんな、メディアに洗脳されていますから。
 でも、普通のツアーでは、ベツレヘムに行くことができないのです。行くとしても、ちょっと行って、すぐに帰って来るのです。でも今回は、ベツレヘムのホテルにも泊まります。ベツレヘムは、世界の王、イエス様がお生まれになった場所です。
 是非ともみなさん、祈って支えていただきたいのです。ミカという預言者は、ダビデ王が生まれて、イスラエルを支配した後に、それに輪をかけるような支配者が生まれる!と、預言したわけです。
 そして、ミカ五章七節から九節の言葉って、本当に、すばらしいと思います。もう一度、味わいながら、読んでみたいと思います。
 ミカ書5章七節〜九節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 ミカの預言は、当時の状況と共に、近未来も預言しているのですが、究極的には、イエス様が帰って来られる前の時代、すなわち、今の時代とリンクしています。それを意識して読むと、心躍る約束となります。
 今の時代は、混沌とした時代です。これから世界は、どこに向かっていくか分からないです。

 近頃私は、「経済」の中に、様々な霊的戦いがあるとお話しさせていただいています。そして、世界は、たった六十二人の富裕層に牛耳られていると以前に、話しました。ある方は、「そんなことがあるものか・・・」と思いながら聞いておられたかもしれません。しかし、先週、「NHKスペシャル」で、三回シリーズで、そのことをやっていました。大本営のNHKが、こんな番組を放映するのは驚きです。

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 その中で、地球の人口の下位の三十六億人が持っている資産と、最も裕福な六十二人が持っている資産が、今や同じだと言っていました。
 今までは、世界経済に問題があっても、国々がちょっと対処して、金利を下げたりしたら、すぐに回復出来たというのです。しかし、近頃はどんな対策を施しても、回復しないというのです。リーマンショック以来、世界中が経済の回復のために努力しているけれど、全く、経済成長は横ばいだというのです。これは、近代資本主義が終焉期に入っている証拠だ、人類は、誰も経験したことがない、恐ろしい時代にさしかかっているのでは?と、番組の中で語られていました。
 しかし、NHKは危機的なことを伝えても、必ず後から、明るい話題を出して危機感を薄めます。あれが彼らの手口ですが、そこで騙されてはいけないのです。現代資本主義の終焉は事実です。

 私は以前に、アベノミクスの基本理論、トリクルダウン理論について話しました。しかし実際は、上のグラスが大きくなるだけで、下には全く滴り落ちないと、話しましたが、NHKがその事を認めていました。

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相当、世界は危機に瀕しているということです。資本主義は終焉期を迎えているのです。
 これが回復するためには、世界大戦争でもあって、世界が丸焼けになるとか、よほどのことがない限り、絶対に変わらないです。これから、年が過ぎる中で、考えられない事が起きそうです。

 十一月は、アメリカ大統領選挙があります。ヒラリーとトランプの一騎打ちですが、すでに勝負があったようなものです。多分、ヒラリーが、大統領になるでしょう。なぜかというと、NHKスペシャルでもやっていましたが、この六十二人のような、超富裕層の人たちが会合を開いたというのです。そこで、「次期大統領はヒラリーにする」と決めたからです。彼らがヒラリーを応援すると決めたのです。そうしたら、体制がトランプからヒラリーに、がらりと変わったのです。
 これから私たちが迎える時代は、さらに超富裕層の手の中で転がされ、考えられないほど格差が広がる時代になるのです。

 しかし、クリスチャンは、そういう中でも、生き抜く秘訣があります。今日、学んでいるみ言葉は、まさに、その為のカギです。ミカ書全体のテーマは、金持ちが貧乏人の土地を搾取して、太っていく中で、神が彼らに裁きを下すというテーマです。
 そんなただ中で、ヤコブの残りの者は、国々の民のただ中で、主から降りる露だと語られています。
 イスラエルは、春と秋の二回しか雨は降りません。あとは乾燥期です。ということは、乾期中の水分は、朝、露が降りるか否かです。ギデオンという人物が神に祈り、「露が降りる場所と、露が降りない場所」をしるしとして求めました。神に祈った時、願い通りに露が降りた!という箇所があります。どんなに乾燥した時代が来ても、主を信じる者たちの上には「露が降りる」のです。
 世界は乾燥期に向かっています。しかしどうしたら露が降りるのかを、ここから学ぶことができます。

 ここに、一つのキーワードがあります。それが、「ヤコブの残りの者」、すなわち、「残りの者」というキーワードです。
 近頃は、コンピューターで、キーワードを設定して、聖書のどこにどういう箇所があるのか、手軽に調べることが出来ます。私もよく使わせていただいていますが、「残りの者」というキーワードで、聖書全体を検索しますと、その言葉が多く使われている事が分かります。
 神が業を行う時、まずは一つのグループ全体を選ぶのですが、さらにその中から、「残りの者たち」を選んで、業を行うという原則がある事に気づかされます。
 イザヤという預言者が、イザヤ書を記しましたが、キーワードは、「残りの者たち」です。イザヤは自分の子どもに、「残りの者は帰って来る」という名前を付けています。エレミヤ書のテーマも「残りの者」です。聖書全体は、「残りの者」というキーワードによって解き明かされます。

 私たちクリスチャンは、あまり多くないかもしれません。特に日本では、クリスチャンは少ないです。しかし、残りの者として、この特権を使えば良いのです。
 ミカ書の五章には、残りの者たちに、どんな特権が与えられているのか、どんなポジションが与えられるのかが、記されています。
 八節を見ると、『ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。』とあります。

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 百獣の王、ライオンは、獣の中の王様です。森の中には多くの獣が潜んでいるかもしれないけれど、残りの者たちは、森の中のライオンのようなポジションだというのです。世界がどのように砂漠化しても、どのように混乱しても、残りの者たちには、ライオンのようなポジションを与えてあげるというのです。

 そして、私が好きなのは、『羊の群れの中の若い獅子のようだ。』という記述です。羊の群れの中に、若い獅子が入ったら、どうなりますか?羊食べ放題です。羊のバイキング。

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 羊は全て喰われちゃいます。羊があなたではなく、ライオンになるのがあなたです。国々にどんな困難の中があっても、残りの者たちは、羊の群れの中に送られる、腹を減らした若い獅子のような存在として、生きることができるのです。
 まさに、終わりの時代にあって、私たちは、残りの者とならなければならないのです。『あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』のです。痛快じゃないですか。主は、私たちに、こんなポジションを用意しておられるのです。これ、本当にすばらしいです。聖書は、やはり読み方と視点です。悲観的に読めば、とことん悲観的になるような読み方もありますが、全体的な枠組みから、時代を抽出して読み取っていくと、まさに、私たちは悲観することはありません。羊の群れの中に送られる、腹を減らした若い獅子のような存在として、生き抜くことができるのです。

 天地創造から、新しい天と新しい地の創造という、聖書全体を心棒のように貫いているのが、「霊的戦い」です。創世記三章のところに、すでに霊的戦いが起こっています。創世記三章十五節、これは、人が蛇に騙され、罪を犯した時のことですが、その後、主は、このように言われました。

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」』

 これは、十字架の最初の預言でもあると言われるのですが、ここで語られているように、『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。』とあります。「おまえ」とは「蛇」です。人類は蛇とのバトルから始まったということです。
 そして、黙示録にいきますと、黙示録十二章十七節〜十八節、前後も読むといいのですが、時間の都合で抜き出しますが、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。』

 創世記においては、蛇だったのが、黙示録まで来ると、蛇ではなくて、「竜」と表現されています。その間、相当、人の血を吸って、蛇も成長したと思われます。
 そして、竜は誰に対して怒っているかといったら、「竜は女に対して激しく怒っている」というのです。これは創世記のテーマと全く同じです。

 そして、「女の子孫の残りの者」とありますよね。先ほど、私たちは、「残りの者だ」と学びましたが、残りの者に対して、サタンは一番激しく怒っているのです。
 黙示録は、世の終わりを扱っていますから、今、サタンが一番激しく怒っているのは女に対してです。女とは、教会のシンボルです。教会に属する者たち、すなわち、クリスチャンは、残りの者という位置付けなのです。

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

 イエスの証しを保っている者たちは誰ですか?クリスチャンじゃないですか。「者たち」と、複数ですから、信じる者たちの共同体、「教会」のことです。
 今、竜は、教会に対して注視し、激しく、怒っているのです。この事実を知らないと、世界の教会は竜に喰われてしまいます。
 しかし、竜との戦いをしっかりと捉え、竜に対して立ち向かっていく教会にとっては、竜は、決して、恐ろしい存在ではないのです。ライオンにとって、羊が全く恐ろしい存在ではないのと同じように、なんと羊の群れの中の、飢えた若い獅子のようなポジションで、竜を打ち砕くことができるのです。
 今は、悪魔が真剣に教会を潰そうとして、働いている時代です。今、世界を見ますと、多くの教会が、迫害の中にあります。

 北朝鮮においては、金日成を拝まなかったら、捕まえられて収容所送りです。クリスチャンは表面的には誰もいないのです。
 今、中国でも、教会に対する迫害が本当に強いです。イスラムの諸国で、クリスチャンが生き抜くことは大変です。
 そして今や、日本も、憲法が変わったら、教会をあからさまに迫害するようになってくると思われます。もしかしたら、日本の教会は、大変な時代に入るかもしれないです。でも案外、みんなのんきです。「そんなことないでしょ〜。」と言って、教会は霊的な戦いを意識していません。自分たちのことだけを考えている教会が多いのかもしれません。それじゃいけないです。
 この終わりの時代は、竜は、クリスチャンたちに、教会に対して、激しく怒って挑戦していることを、しっかりと受け止め、悪魔に立ち向かうならば、ポジションは逆転して、教会は獅子のような存在となるのです。是非とも、日々の霊的戦いを意識していただきたいと思います。
 日曜日に礼拝に出席するだけでも、ざわざわするのですから、悪魔は主を信じる者たちが勇士となる事を、よほどいやがっているのです。
 また会社に行って、学校に行って、社会に出て行って、それぞれの場所で戦いがあります。それを人間的な戦いではなく、霊的戦いとして捉える時、残りの者として生きることが出来ます。終わりの時代の教会として、竜を倒す存在として用いてくださるのです。

 ミカ書に戻りますと、「残りの者たち」が、どういう者たちかが、述べられています。ミカ書五章七節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。』

 残りの者と認められる所以がどこにあるのかというと、「人に望みをおかなかった」、「人の子らに期待をかけなかった」という理由です。ここに秘訣があるわけです。
 社会に生きる中で、やはり、人とうまく関係を築いていかなければならないことも事実です。しかし、信仰という領域においては、揺るがない決断が必要です。時には妥協して、媚びたほうがいいのではないか?という場面もあります。どうしようかな?という、葛藤もあります。回りの人はなんと言うのか、自分をどう評価するのかで、行動を決める時があります。
 しかし、残りの者とは、主がどのように考えておられるのか、主がどう評価されるのか、主のみこころは何かと求める人たちを意味します。

 一九九二年、新城教会には、大きな試練がありました。聖霊が注がれ、霊的戦いが始まりました。すごかったです。それまでは、霊的戦いなんて、全然、意識していなかった中で、「どんっ!」と霊的戦いが始まりました。皆、ある意味で、試されました。それが、主から来たものか、逆に、悪魔が教会に入って来たのか、皆、混乱しました。今までにないようなことが起こったからです。
 しかしその時に、「これは聖霊によるものだ!」と、主からの声を聞いて教会にとどまってくださった「残りの者たち」がおられるのです。そのことによって、今があります。あの時、周りの人たちが語る噂に耳を傾けたら、誰もいなくなったと思います。そうしたら甲子園ミッションもできなかったし、今はないです。一番の困難を分かち合ってくださったみなさんに、高い所から、心からの感謝を申し上げます。

 しかし、私も人間ですから、がっかりしました。多くの人たちが教会から去って行き、この教会は将来、どうなるのかなと落ち込んでいたら、私と同世代の、今日もこの場におられます、佐野守孝さんと、岡本正広さんが、私のために励まし会をやってくれました。今でも忘れませんが、今まで彼らにおごってもらったことなんて、あんまりなかったけれど、「おい、順。ちょっと来い。」と言われて、ある所でステーキをご馳走してくれました。「がんばれよ!」と言って、「おまえをサポートしているから!」と、励ましてくれました。本当に、励まされました。
 そして、「俺たちはビジネスをやっているから、教会が経済的に困ったら支えるから!」と言って下さいました。あの時、教育館を建てたすぐ後で、多くの返済がありました。しかし、みなさんが一生懸命、献げてくださって、もう駄目かなと思ったけれど、経済的にも立ち上がりました。大きな励ましがあって、私も立ち上がりました。
 それから二十数年経って、新城市でビジネスをやっている人たちの中で、生き残っている人たちはあまり多くはいません。スーパーにしても、事務所にしても、バブル期には多くありました。しかし、今ではほとんど消えてしまいました。しかし、彼らは新城市内で、世代を超えて、祝福されています。
 新城教会には、良い手本があるのです。ある人たちの信仰を見れば、自分の将来が分かるのです。人に望みをおくのではなく、神に望みをおいて、しがみついていくと、十年、二十年経ち、砂漠のような季節が来ても大丈夫です。大手のスーパーは来るは、大きな事務所は入ってくるは、そういう中でも、森の中のライオンのように、羊の群れの中の若い獅子のように、動き回ることができるのです。それこそ、主の力です。危機的な状況の中、神を選ぶか、人を選ぶかで、将来が決まるのです。
 これは、すべての人と、すべての領域で言える事です。大小様々、神を選ぶのか、人に媚びるのかというような事柄って、結構起こると思います。その時に「主を選びます!」と宣言し、残りの者に入れていただくなら、世界を勝ち取る勇士として用いてくださるのです。

 私には子どもが二人いるのですが、二人ともすでに結婚して、彼らにも子どもたちがいます。もう少し、子どもたちが小さい時に一緒に、家族旅行とか、いろいろ楽しんでおけばよかったなぁと思います。あっという間に大きくなってしまいました。でも、子どもたちの成長も、やはり主を選んで子育てをすると、必ず、その後に続くのです。
 日本ではどうでしょうか。子どもを学校に行かせても、子ども園に行かせても、偶像礼拝との戦いが多くあります。また、組のつきあいとか、村の祭りに子どもたちが出られなければ寂しい思いをするんじゃないかと考えたり、人のご機嫌取りのような選択をしそうになるときが多くあります。でも、それじゃいけないです。人に望みをおかないで、主がなんと言われるのかに、心をとめなければいけないのです。

 私の息子のために、祈っていただいて、本当に感謝しています。彼は結婚してすでに十年くらい経ちます。彼はこういう話をすると、いやがるので、言わないでくださいね。
 彼が結婚した時、「東京に行ってミュージシャンになる」なんて言うもんだから、「嫁さんをもらってから仕事を決めるなんて、大丈夫か・・・。」と思って、「おぉ、主よ。」という感じでした。
 でも、十年くらいして、そこそこやっているわけです。みなさんの祈りによって支えられています。現在、新城教会の若者たちが、東京で、セキュラーミュージックの領域で、プロとして活躍しています。
 彼らは、ここで育ったから、いろんな誘惑もあり、戦いが多くても、神につくという芯は、しっかりとしているのではないかと思っています。まぁ、親バカ的なところもありますが。

 数年前のことですが、ああいう仕事って、タイミングで良い仕事がくれば、お金になるけれど、先に安い仕事が入たりしていると、せっかくおいしい仕事が来ても逃してしまうのです。
 ある時、「ちょっと仕事のために祈ってくれ。」と、なかなかそんなこと言わないのですが、祈ってくれというのです。二つの仕事が同時に入ったというのです。一つは何かというと、ロン・ブラウンさんのバックでの仕事です。これもすばらしい仕事です。そして同時に、当時有名な、ボアという韓国の歌手がいたのですが、彼女のバックで演奏するという、二つの仕事がほとんど同時に来たというのです。それで、一番の違いは、ロンさんの仕事は・・万円。しかし、ボアの仕事は・・十万円。この差、大きいじゃないですか。どっちにすべきか、悩んでいるから祈ってくれと言うわけです。
 私はすぐに言いました。「祈るまでもない。ボアを取れ!」ってね。「ロンさんはまたチャンスが来るかもしれないけれど、ボアなんて来ないぞ!この仕事を選択したら長いこと生活できる。」と言いました。でも彼は、ちゃんと祈ってから決めたいと言うのです。あんまり祈らない男だと思いますが、その時は、真剣に祈ったそうです。
 私は、彼の奧さんにも、「ボアを取るように押してやってくれ!」と言いました。でも、彼は真剣に祈ってました。
 そうしたら、ある朝起きて来て、「俺はロンさんをやることに決めた。」と言ったそうです。「ばっかだなぁ!」と私は思いました。でも、ばかなほうは私かもしれないです。彼が真剣に祈ったら、「わたしの為の仕事を取れ!」と、語られたそうです。それでみすみす、おいしい仕事を断りました。あの頃、ボアって一番売れていましたから、それを逃しました。一回逃したら、来ないじゃないですか。こいつ!と思っていました。
 でも、考えてみたら、あれは彼にとっての、テストだったと思います。「金に仕えるのか、神に仕えるのか。」親父は金に仕えろと言うけれど、どうしたらいいのか?ってね。人に望みをおくのではなく、人に期待をかけないで、主に聞いて選ぶというのが大切です。彼は、あの戦いである意味、勝利をしたのかもしれません。それから、いろんな仕事が入って来て、今年なんか、本当に忙しかったようです。
 そして気がついたら、クリスチャンのミュージシャン仲間も、大勢、与えられて、不思議なもんだなぁと思います。あの時、私が言ったことは、彼の将来を閉ざす選択を語っていたかなと、反省するわけです。
 案外、アドバイスも、すぐ人間的な方向に流れちゃいそうですが、主を第一にするという基本姿勢が大切です。絶対に動かない基準を通しておかなければいけないのです。

 この頃、MayJという歌手が大変売れていますが、彼女の全国ツアー、息子たちがやっていました。バックのバンドの人たち、ほとんどがクリスチャンです。新城教会のミュージック・スクールに来てくれている先生たちが、やっています。本当に活躍しています。「クリスチャンである!」ということを、あのような業界の中で、びしっ!と通しておくことは重要です。

 これを私の自慢話として聞かないで下さい。霊的戦いの情報として、お聞き下さい。ある教会に、毎回、自分の息子の自慢話をする先生がおられて、聞きながらあまり良い気がしないので、私もこういう話をして、皆様を嫌な気分にさせたくありません。ただ、霊的戦いの情報として提供しているつもりです。また、彼らのためにも、祈ってあげていただきたいです。クリスチャンたちが、祈りつつノンクリスチャンのアーティストをサポートしているのです。
 以前も、AIという歌手のバックを彼らがやっていました。それをNHKが追っかけて、ドキュメンタリーを制作しました。コンサートの始まる前に、みんなで手を繋いで祈っている場面も放映されました。彼らも、森の中に送られた獅子のように、様々な、猛獣が森の中にいる中で、戦っているのではないかと思います。

 もう一つ、祈ってほしいので、お話をさせていただくのですが、今、日本のショービジネス界でトップのグループがあります。集客力もすごい。チケットなんか売り出したら、瞬間的になくなって、何万人も集まるのです。そして、そのグループの為のバックバンドは、日本のミュージシャンの中で、トップ中のトップです。
 先日、息子の家に行って、一緒に食事をしていたら、メールが来て、「おっ!」なんて言っているのです。何と、そのグループのバックでベースを演奏してほしいと言う、依頼のメールだったのです。びっくりして、「いたずらメールじゃない?」と言ったのですが、そうではありませんでした。
 でもそのポジションはオーディションで選ばれます。トップ中のトップの中で最も適した演奏を選ぶわけです。また、ショービジネス界の細かい契約も関わってくるわけです。今回は彼一人です。アウェイなわけです。初めてのバンドの中に入って、どうなるのか、選ばれるのかどうか分からないけど、祈ってくれというわけです。一応、祈りました。そうしたら、なんと、彼が選ばれたのです。不思議ですね。イエス様が、道を開いてくださいました。
 昨日からそのツアーが始まりました。ある意味、霊的戦い最前線です。孤独な霊的戦いです。その時に、主は、「よし、分かった。おまえを、森の中で最も強い獅子にしてやる!羊の群れの中の若い獅子にしてあげる!」と認めて下さると信じます。残りの民として、混沌とした時代の中にあって、勝利を与えてくださるのです。

 これは、全員に言えることだと思います。大きい小さい、様々な立場で、同じストレスがあります。どっちにつくんだ?イエス様につくのか?この世につくのか?二つの内、一つを選べ!ということが、日々、くり返し起こってきます。その時、主にのみ仕えていく宣言を日々、するならば、砂漠のような時代が来たとしても、「あなたを守ってあげますよ!」と語られています。
 今週、様々な戦いがあっても、主を第一にして、主を選んでいただきたいです。人に媚びたり、ご機嫌とりのようなことをしてみても、あんまりいいことはないです。もちろん、総合的な中で、決断する必要もあります。しかし、今話しているのは、信仰がかかっている時の話です。信仰がかかっている時、人を選んでも、決して後には続かないのです。主のみを選んでいくことが重要です。

 ミカ書五章のみ言葉、今の時代を生き抜く秘訣です。
 来週私たちは、イスラエルに行きますが、テーマは「残りの者」です。私たちクリスチャンは、残りの者ですが、同時に、世界中には、「この領域の人たちが勝ち取られたら、残りの者として、イエス様が帰って来られる道が備えられる」という、カギを持っている人たちがいます。
 七月から八月にかけて、ネパールのチェパン族の所に行きましたが、まさに、チェパン族の人たちって、残りの者たちというカテゴリーに当てはまる人たちだと思います。そのことをすでにお話しさせていただきましたが、イスラエルの中にも、そのような人たちがいます。そのような人たちが、主に触れられて、勝ち取られるように!という思いで行きます。是非とも、今回のとりなしの旅行が祝福されるように祈ってください。
 また、ザワメキの賛美ツアーもありますから、イスラエルの残りの者たちというのは、主が帰って来られる道筋の中で、注目し、とりなしの祈りを置かなければいけない人たちであると思われます。そのような人たちに、祈りを置くことができるように、是非とも祈っていただきたいと思います。

 ミカ書五章七節〜九節まで、もう一度、最後にみなさんで声をあげて、読んでみたいと思います。自分が残りの者であることを宣言する意味で、最後に、このみ言葉を読んでみましょう。

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』


 ハレルヤ。父なる神様、感謝します。この時代にクリスチャンとしてくださり、教会に属することができて心から感謝をします。私たちが世界にあって、残りの者として働くことができますように。今日、ここに、聖餐を用意させていただきました。用意されたパンとぶどうのジュース、イエス様、あなたの裂かれた肉と流された血潮であることを宣言します。
 私たちはよみがえりのイエス様と、一つとなって、残りの者として、時代を生き抜いていきたいと願っています。今日は、残りの者の油そそぎをください。皆が、上からの油を注がれて、勇士として用いられますように。
 主のみを選ぶことを宣言します。尊きイエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。