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2017 ニューイヤー
カウントダウン・ワーシップ

2016年12月31(日)
滝元開 牧師 
岡本信弘 牧師
四元雅也 牧師
公畑フェルナンド 牧師
上條実 牧師

滝元開 牧師

ハレルヤ!感謝します。こうして二〇一六年、最後の日に、元気で健康に、守られて、みなさんの前に立つことができて、本当に心から感謝しています。
 この一年を振り返る時に、本当にいろんな戦いがありましたが、今はただただ感謝な思い一杯でここに立っています。主が成してくださったすべてのことを本当に心から感謝しています。
 昨年、父が天に帰って、そして、今年、母が天に帰って、この二年間、いろんな意味で、怒濤のような二年間でした。この一年というより、この二年間を通して、大きな節目の年々であったような、そんな気がしています。
 神様が、これから現実的にスタートしてくださる、大きなリバイバルというご計画の中で、この二年間は、とても大切な二年間であったと思っています。主が私たちに与えてくださった二年間でしたが、来たる二〇一七年には、心から本当に期待しています。神様が何をしてくださるのか、私たちは大きな期待を持って、いよいよこれから進んで行かなければならない時が来ていると思います。

 昨年、この場所で語ったみ言葉は、「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」という、黙示録三章八節からのみ言葉でしたが、この一年を振り返ってみても、本当に主が新しい扉を開いてくださって、確実に主ご自身が私たちの前を進んで、今までなかったような領域の扉を開いておられることを、行く先々で、本当に強く感じた一年であったことを本当に心から感謝しています。

 さて、二〇一七年に向けて与えられたみ言葉をご紹介させていただきたいと思います。ルカの福音書十二章三十五節〜三十六節、

『腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。』

 このみ言葉が二〇一七年に向けて神様がこの教会に対し、また、この終わりの時代に選ばれた、すべての主の兵士に語ってくださったみ言葉であると、私は信じています。
 『腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。』私たち、これから起きるリバイバルという大きな戦いに向けて、もう一度、新たに腰の帯をしっかりと締めなおして、そしてあかりをともしていきたいと思っております。
 そして、このみ言葉の中で特に心にとまったみ言葉が、三十六節の、『主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。』という個所でした。イエスさまはまもなく帰って来られますが、主人であるイエスさまが帰って来られたら、その帰られた時「すぐに」戸を開けようと待ち受けている、そのような人たちのようでありなさいと、このみ言葉が心に深くせまってきました。「すぐに」対応できるものでなければならないのです。
 いつかイエス様が帰って来られます。そのことは、私たち信じていますが、それはもしかして私たちが思っている以上に早いのかもしれないと思うのです。いつか来られるから、その日が近づいた時に、その備えをしようという、その気持ちが私たちの心のどこかにあるのかもしれないと思うのです。しかし、それがひょっとしたら間近に迫っているのではないかと思うのです。
 もうその主人が、戸口に近づいて来て、「さぁ!戸を叩こう!」という、その時の、気配を感じて、すぐに開けられるように備える、そんなしもべたちのような体制で絶えずいなければならない時が、この二〇一七年なのです。
 ですから神様ご自身、イエス様ご自身が帰って来られる日を、心から待ち望む者として、この二〇一七年、腰に帯をしめて、あかりをともして、いつイエス様が帰って来られても良いように、万全の状態でおりたい!と、心から願っています。

 ヨブ記を見ると、こんな言葉があります。ヨブ記三十八章一節、

『主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。』

 ヨブの前に、神様が立たれて、『さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。』と言っているのです。その前にヨブは、神様の前にいろんな言葉を並べ立てたわけですが、しかし、神様ご自身がヨブの前に立った時は、彼はもう何もできない、ただ彼は恐れおののいたわけです。
 そして、神様が、ご自分の偉大さというのを示されたわけです。そこで自分がどのように偉大な者であるのかをお示しになられました。神は神であるのだと。神様がどうこうあるから、私たちがどうこうではなくて、神様は神様であるゆえに、私たちはただただ本当に神様を恐れないといけない存在だと思うのです。

 つい先日、ある一つの教会に行って、礼拝を守ったのですが、そこの牧師先生がクリスマスメッセージをされたのですが、そのメッセージの中で、「この世の中には光と闇がある。そして、光もあれば闇もあるけど、人間にとっての一番の闇は何か?」という話をされました。なんていうのかな?罪かな?死かな?いろんなことを考えていました。
 そうしたら、その牧師先生は、こうおっしゃいました。「人間にとっての一番の闇は、神を恐れないことだ。」と、そうおっしゃいました。人間にとっての一番の闇というのは、神を恐れないこと、すなわち神様を信じないことが、一番大きな闇だ!ということに結論をつけておられましたが、私たちは神様を恐れなければならない。そんな時に来ているのではないかと思います。
 ヨブが本当に神様の前に、自分の義を示そうとして、「私はこれだけのことをした!このように潔白だ!」と、いろんな事を語ったわけですが、いざ神様ご自身が来られた時に、「さぁ!腰に帯をしめよ!」と、神様に言われたわけであるわけですが、同じヨブ記の四十章を見ても、主は再び同じように語っておられます。ヨブ記四十章六節〜七節、

『主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。』

 神様ご自身の偉大さ、その前に私たちが立つ時に、私たちは本当に何もできない者なのです。その間もなく帰って来られる主を、恐れ畏きつつ、備えていなければならないのです。神様が「帰る!」と言われたら帰られるのです。私たちは、ただ神様を恐れ、備えなければならないのです。ですから腰に帯を締めて、あかりをともす時が来ていると、強く感じております。
 この年は、ザワメキでイスラエル旅行に行かせていただき、大きな恵みと祝福をたくさんいただきました。「イエス様の帰られる道を備える」というテーマが与えられて旅をしたのですが、行く先々、イスラエル中に、ずっと賛美を響かせることができ、本当に大きな喜びに溢れた時でした。
 そんな中で、主が、ギデオンの三百人の勇士を選んだその場所に行きました。ハロデの泉という所ですが、そこで私たちは、「もう一度、主の勇士として立ち上がろう!」という、そんな思いで祈って、賛美しました。
 三百人の勇士が選ばれた時、最初は三万二千人から始まっているのです。三万二千人、これじゃぁ多すぎるから、恐れ退く者は帰れ!と言って、一万人に減らされるのです。そして一万人がハロデの泉に来て、そこで水を飲むのです。
 今回、ハロデの泉に到着し、ガイドさんが、「さぁ、水を飲むことをしてみてください。」と言われました。そうしたら、一人の人が、水を両手ですくって飲もうとしました。すると「はい、あなたは失格です。帰ってください。」と言われていました。三百人の勇士として選ばれた、その飲み方というのは、片手に剣を持って、もう一つの片手で水をすくって手で口を湿らすという、そういった飲み方をしたわけです。結果、三万二千人から、何と、たった三百人になっているのです。
 少数の勇士を通して、神様は大きな勝利を、ミデヤン人から奪いとったわけですが、この終わりの時代、決して多い人数ではないかもしれないと思うのですが、私たちが主の働き、主の帰られる道を備えるための勇士として、選ばれた者として、その三百人に選んでいただく、そのような者でありたいと、心から願います。

 ネヘミヤ記四章十七節には、
『城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。』

とあります。
 ネヘミヤは、崩れた城壁を再建する働きをしていたわけですが、その時のネヘミヤと城壁を再建する勇士たちの姿が、ここに書かれていますが、片手で仕事をして、もう一つの片手では、投げ槍を堅く握っていたというのです。城壁を建て直す仕事をしていますが、でも片手では投げ槍を持って、いつ敵が来ても戦うことができる備えをしたというのが、ネヘミヤの戦いの時の姿でした。

 二〇一七年、これから神さまがなされるリバイバルの戦いに向かって、私たちは進んでいかなければならないところに、主は、私たちを導いてくださっていると信じます。そのような中で、私たち一人一人がギデオンの三百人の勇士のように、そしてネヘミヤの城壁を建て直した兵士たちのように、絶えず、主の前に良き備えをさせていただき、腰に帯を締めて、そしてあかりをともす。そのような者でありたいと心から願っています。

 主が帰って来られたら、すぐに動くことができる、そのしもべたちのように、いつイエス様が帰って来てくださっても良いように、私たちに与えられたそれぞれの使命を百パーセントまっとうする、そのような二〇一七年であると信じて、進んでいきたいと思います。一言お祈りします。

 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて、心から感謝します。この二〇一六年、あなたが与えてくださった、この恵みを覚えて、もう一度心からすべての栄光をお返しします。
 本当にすばらしい年であったことを心から感謝します。様々な戦いがあり、様々な試練の中にも、あなたが共にいてくださり、この一年を振り返る時に、大きな祝福と恵みであったことを覚えて、心から感謝し、今もう一度すべての栄光を主にお返しします。
 主よ、来たる二〇一七年に向かって、あなたが私たち一人一人に、さらに、み言葉を語ってくださることを心から感謝します。今、お与えくださったみ言葉、「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」という、このみ言葉を持って、この二〇一七年を迎えようとしています。どうぞあなたが帰られる日に備える、私たち一人一人であることができるように助けてください。あなたがここまで導いてくださったことを心から感謝します。
 これからも主よ、あなたにすべてをお捧げしますから、あなたがお導きください。すべての栄光を主にお返しし、尊き主イエス・キリストの御名によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。 アーメン。

岡本信弘 牧師  「神の栄光をほめたたえる者となる」

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。二〇一六年最後の日、こうしてみなさんと共に主を賛美し、新しい年を迎えることができることを心から感謝いたします。
 歳のせいかどうかわかりませんが、一年があっという間に過ぎたという感じがします。

 昨年は、明先生が天に召され、今年は清子先生が召されました。また私の母が亡くなって、もう十年になりました。先人達が次々と召されて行くなかで、ひとつの時代が過ぎ去り、世代交代の時期がきていると思います。リバイバルミッション、プレイズ出版においても、新しい領域に神様が導いてくださっているんじゃないかと思わされています。

 私は八月で六十歳になりひとつの節目を迎えました。この年は、個人的には大きな喜びの一年でもありました。六月に初孫が生まれて明日で七ヵ月になります。だんだんできることが増え、いろいろなことが分かるようになってきました。私の顔がおもしろいのか、私の顔を見るとニコニコ笑ってくれます。ジジバカだと皆さんに言われていますが、かわいいですね。また、娘の泉が婚約することができました。いつも皆さんに我が家のためにも祈ってくださっているので、守られ、祝福された一年であったことを心から感謝いたします。

 私が、昨年この場所で二〇一六年の御言葉として語らせていただいたのは、詩編一篇一節から三節でした。特に三節にある、『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』のみ言葉を心にとどめ、この一年間走り続けてきましたが、一年を振り返ってみると、イエス様からはたくさんの恵みをいただいたけれど、はたしてどれだけイエス様の役に立てたのだろうかと思わされました。

 そんな中で祈っている時に与えられたのがエペソ書一章十一〜十二節でした。

『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。』

 私たちクリスチャンの大きな人生の目的は、「神の栄光をほめたたえる者となる」ことだと思います。そのためには、まず、イエス様を信じ、イエス様に従って、神様の計画を実行する者となるということが重要なことだということを教えられています。

 皆さんは、何か困ったことが起きた時、誰かに相談をすると思います。誰に相談しますか? お父さん、お母さん、奥さん、ご主人、友人など様々でしょう。私も相談をして、助言をいただき、助けられてきたことが多々ありますが、私はせっかちなので、問題に直面した時に、すぐに解決したい!と思うのです。そのためにどうするかをあれこれと考えて、解決するために紛争します。すぐに行動することが、結果的に良い結果につながることもあれば、かえって問題が大きくなってしまうこともあります。
 ですから、問題が起きた時、すぐに動くのではなく、まず祈ることが大切です。私はこう祈ります。「愛するイエス様、今、私は問題にぶつかっています。これからの道を教えてください。人間の知恵や思いや考えではなく、人の力や権力ではなく、神様の御心を悟り、神の計画が動きますように」と。
 聖書に次のようなみ言葉があります。

『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』(ゼカリヤ書四章六節)

 私たちが最も信頼できる方は、それはもちろん人間ではなく、神様であるイエス様です。自分の権力や能力によるのではなく、ただ、主の霊によって解決に導いていただけるように、したいものです。
 最初にお読みしたエペソ一章十一節には、『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。』とあります。私たちは天国を相続する者とされたということです。それは、この世にあって、どんなに土地や財産を持っていたとしても、比べものにならないほどの祝福だと思います。

 また、エペソ書一章四節を見ますと、『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』と書いてあります。

 ここには、この世界の始まる前から、神様が私たち一人ひとりを選んでくださっているとあります。時々、「なんで、私のような者を神様は選んでくださったのかな?」と思うことがありますが、これは本当に感謝なことです。

 また、ヨハネ一章十二節には、
『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』とあり、私たちは神様に選ばれただけでなく、神様の子どもとされ、財産を受け継ぐ者であるとされたと言うことです。これはすごいことだと思います。

 四千年ほど前、神はアブラハムを選び、「あなたの子孫によってあなたは祝福される」と約束してくださったとおりに、彼を祝福してくださいました。その同じ神様は、私たち一人ひとりに対しても、祝福を約束してくださっています。これからどんな困難な時代が訪れようとも、どんな問題にぶつかろうとも、神様の選びの中で、神の子どもとしてあなたを愛してやまないと、神は私たちに語ってくださるのです。
 私たちを愛し、相続人として選び、認めてくださった神様を信頼し、最後の最後まで神様に従ってまいりましょう。

 そして、もうひとつの目的は、あなたが、神様の計画を遂行する実行部隊であるということです。

 十一節の後半に、『私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。』とあります。
 世界の基の置かれる前から選ばれたと同時に、あらかじめ神様の目的に従って定められていたと書いてあります。
 神様は、無計画に、無差別に私たちを選んだのではなく、神様の計画のために一人ひとりを特定の人間として選んでくださったのです。

 私たちには計画を立てる自由があります。若い時には、将来何になりたいと考えます。そのためにはどこの学校に進学したらいいか、どうやって勉強すればいいかなど、計画します。就職や、結婚のためにもいろいろ考え、計画を立てることでしょう。しかし、歳をとってくると、長期的な人生の計画を立てることはあまりしなくなると思います。
 どの時点であれ、計画したことが思いどおりにいったとしても、計画変更を余儀なくされたとしても、どれも無駄なことはないと思います。

 私は、教会、ミッション、プレイズ出版において、様々な計画を立てる役割を担ってきました。特に、プレイズ出版の新規事業を進めるにあたっては、様々な資料に目を通し、色々なことを想定してたくさんの計画を立てる必要がありました。そのために専門家にも意見を聞きましたが、それぞれに着目点が異なり、何回も話し合いがなされました。大変ではありましたが、いろんな人と話をすることは楽しいことでした。
 安全性、デザイン性、地域性、採算性など、いろいろなことを考えなくてはならないわけですが、特に介護事業を進めるにあたっては、「これなら大丈夫でしょう」と許可が必要です。そのためには根拠となる計画書がないと、国は許可を出してはくれません。許可があってはじめてその事業が進んでいきます。その許可を得るため、申請書を提出しに何度も県庁に足を運びました。安全に事業を進めるためには、大切なことでした。
 一方、銀行は採算性をいちばんに考え、計画書を見て融資できるかどうかの判断をします。プレイズが融資を受ける時、メインバンクから何回も支店長が来ました。やっと「では、融資しましょう。大丈夫でしょう」と許可が下りたものの、「最後に一つ確認したいことがあります」と、数日後に、東京からわざわざ一人のお偉い理事の方が私の所に来ました。そして、「今までの事業では、うちがメインバンクとしてかかわらせていただきましたが、今後まったくジャンルの違う新しい事業を始めて、本当に大丈夫なんですか?」と聞かれました私がここに至った様々な経緯や今後のビジョンを話すと、「いや〜、そうですか。ここに来て良かったと思います。」と言って、融資を決断してくれました。

 このように、いろんな計画を立て、それに向けて準備をしていくわけですが、箴言十五章二十二節には、

『密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。』

というみ言葉があります。どんなに素晴らしい計画書ができたとしても、それは、単なる計画であって、明日のことは誰も「こうなる!」と断言できません。
 神様の計画とは、何でしょう。それは、私たちが永遠のいのちを獲得することと、そして、救われた私たちが、今も滅びに向かっている人々の救いのために働くことです。これが、神様が私たちを救ってくださった大きな目的なのです。
 そのために、神様は二千年ほど前、人となってこの世に来られ、全人類の罪の身代わりとなり、いのちまでも投げ出して、救いの計画を成し遂げられました。そして、その神の計画を遂行する実行部隊として召されたのが、私たち一人ひとりなのです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ書八章二十八節)

と語っておられます。
 これからも戦いは続いていきますし、ますますはげしくなるでしょう。そんな中で、若い人たちが活躍する時代がきます。しかし、前線部隊の若者たちだけでなく、私たち年配の者も、後方部隊としての役割があります。ここにいるすべての人が戦いの勇士とならなかったならば、この戦いに勝利していくことはできないのです。

 時に戦いの中で、「今日は負けたな」と、敗北感を覚えることがあるかもしれません。

 二千年前、イエス様と生活を共にしていた弟子たちも、敗北を味わいました。三年半イエス様とずっと一緒にいたペテロは、イエス様が十字架にかかる時、三度もイエス様を知らないと否んでしまいました。
 また、イエス様が復活した時、弟子たちに現れたにもかかわらず、その時、そこにいなかったトマスは、「直接、私はイエス様に会うまで決して信じない」とイエス様を悲しませてしまったのです。その時にも、イエス様は弟子たちの目には見えませんでしたが、すぐかたわらにおられたのです。
 しかし、そんな敗北を味わった弟子たちも、その後、聖霊に満たされ、いのちがけで神様の計画を遂行し、リバイバルのために働いたのです。

 私たち一人ひとりに神様が与えられた計画があります。どんな時にも、あなたを召した神様は、あなたに与えられた計画を遂行してほしいと、私たちに願っておられます。
 私たちは失敗をし、自分の弱さに心くじかれることもあります。しかし、ローマ書八章三十七節には、
『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』という力強いみ言葉があります。

 二〇一七年に向けて、私がこの御言葉から教えられたことは、二つです。
 一つは、私たちは神に選ばれ神の子どもとされているので、人に頼るのではなく、どんな時にも神様に祈り、神様に相談して進んでいくなら、必ず道が開かれ祝福されるということです。
 もう一つは、あなたの計画ではなく、人間的な計画ではなく、神様があなたに持っている計画がありますから、その計画を遂行するために、神があなたに望んでおられることが何であるかを悟り、祈り、実行していくなら、主が働いてくださり、神の計画が実現していくということです。

 最後に、エペソ書一章十二節にあるように、『それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。』という御言葉を実行できる二〇一七年にさせていただきましょう。
 皆さんの二〇一七年が、神様に豊かに祝福された年となりますよう、お祈りいたします。

四元雅也 牧師

 ハレルヤ!カウントダウンの集会に、このように立たせていただきまして、またみ言葉を取り次ぐ光栄に預かることができて感謝します。
 このように、一年の締めくくりがみ言葉を持って締めくくられ、新たな年、明日は、順先生が五人の語ったメッセージを取りまとめ、またご自分が祈って与えられたみ言葉も加えて、み言葉によって一年を始めることができるのは、すばらしい事だと思います。
 クリスチャンの信仰生活の中で、毎週、礼拝に参加し、神様からのみ言葉を受け取りながら過ごすことができるのは、大きな恵みです。ローマ人への手紙の十章十七節には、

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』

というみことばがありますが、私たちの信仰の歩みの基本は、みことばを「聞く」行為から始まっていきます。マタイの福音書四章四節には、イエス様が悪魔の誘惑にあった時に答えられたみことばですが、

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』
 毎日の食事で、パン、日本ならご飯ということになりますが、毎日食べても飽きることはないですね。同じように、みことばを繰り返し受け取り、繰り返し口ずさむことで、私たちの人生は建てあげられていくのです。
 そして、第一ペテロの手紙二章二節には、

『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』

と書いてありますが、生まれたばかりの赤ちゃんは、母乳だけ飲んで成長していくわけですが、そのように私たちは、みことばを求めて生きるということを、ここでは勧めております。それによって、霊肉魂が健やかになる、また成長していくことができるのです。私たちの身体はご飯だけによって作られているわけではなくて、み言葉によっても作られている、ということであります。今日もみ言葉を、このように学ぶことができることを心から感謝します。

 私は十二月に入って、ダニエル書を読み始めたのですが、改めて大変恵まれて、その中から教えられて、カウントダウンのメッセージを語るように導かれています。ダニエル書二章二十節~二十三節、

『ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」』

 これは、ダニエルが祈った祈りでありますが、ダニエルという人物は、紀元前七世紀後半から六世紀後半まで生きた方であります。彼は、ユダの国の王族か貴族として、王様の近く、おそらく宮殿の、王様に近いところで生活していたと思われます。
 彼の幼少時代に活躍したユダの王様はヨシヤ王です。ヨシヤは、ユダを神様に立ち返らせた指導者でした。現代のキリスト教界で表現すると、彼はリバイバリストということですね。ヨシヤのリバイバル・改革は、偶像を破壊し、また偶像に仕えている祭司とか、呪術・呪法師たちを処罰し、そして国民を神様に向かわせる強力なものでした。
 そして彼の時代に、他のユダの王たちが誰もすることがなかったような過越の祭が行われています。それは、王の財政の中から生け贄が拠出されたと言われています。

 このヨシヤ王の治世の元で、若きダニエル、そして、彼とともにいて働いた、後に火の燃える炉に投げ込まれて、なお生きて戻ってきた、あのハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は成長したわけですね。さらに、捕囚前後にユダの預言者として活躍したエレミヤ、エゼキエルも、ヨシヤの治世の中で、リバイバルを見て成長した人であります。
 この時代に育った若者ダニエルが、当時の大国であったバビロニアの王ネブカデネザルからベルシャツァル、それに継ぐペルシャ帝国のダリヨス、そしてクロス王までの治世七十年間にわたり活躍する、その記録が、「ダニエル書」です。

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 これが、ダニエルが活躍した時代の年表、新バビロニア王ネブカデネザルの元年、前六〇六年から、ダニエルは、バビロニアの首都、バビロンに捕らえ移され捕囚となりました。そして王に仕えることになるのですが、すぐに引き上げられて、政治の要人となって活躍していくのです。その後、六章に移ると、メディヤ・ペルシヤの時代、クロスの治世まで彼の活躍が続きます。

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 これが新バビロニア帝国の勢力図です。

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 これがその後のペルシャ帝国の治世です。

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 これはダニエルが活躍した年表ですね。ヨシヤが死んで、その後、ネブカデネザルがエルサレムに攻めて来るのですが、その時にバビロンに連れて行かれた中にダニエルがいた。これは第一回捕囚の前で王とその貴族たち、数人くらいが移されたのではなかったかと言われています。その中に彼がいたということです。
 その後には、一万人くらい捕囚となって移されるのですが、その中にはエゼキエルがいました。しかし、ダニエルが最初にバビロンに移されたのです。

 ここで、一つ目のメッセージとして私が受け取らせていただいたのは、この新城教会では滝元明牧師が天に凱旋されて以来、ヨシュアの世代と言われた若者たちが次の世代を担ってリバイバルを押し進めていく!と言われていますが、ダニエルも、まさにヨシヤのリバイバルの時代に育ち、バビロンに移された時には、まだ若い青年であったわけですが、その後、七十年に渡って、敵の国、偶像礼拝の国であった、バビロニア、またメディヤ・ペルシヤの国で、神の器として用いられました。そのように、二〇一七年は、若者たちが、現代のダニエル、またシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、さらにはエレミヤ、エゼキエルとなって、神様の業を世界に現す年となることを信じます。

 ダニエルは、バビロニアに捕えられた捕囚でありましたが、神様の祝福によってネブカデネザル王に仕える者とされました。この物語の詳細はあまりにも有名ですので時間の都合もあって割愛したいと思いますが、最初にお読みしたみ言葉の時、まさにダニエルは死に瀕した状況でした。それは、ネブカデネザル王が見た夢を解き明かせ!と国中におふれが出て、呪法師、呪術師がかき集められましたが、誰もその夢を言い当てることができなかった。王は怒り猛って、国中の呪術者たちをすべて殺してしまえ!と、言いました。ダニエルもその中に含まれており、自分を含め大勢の者が殺されかかっている、そういう絶体絶命の状況で彼は祈って、王の夢を見事に解き明かします。この夢は新城教会でもよく話がされる、「巨大な金の頭の像」の夢です。それは、これから後に世界で起こるであろう事柄を、預言的に示した、秘められた意味のある夢だったのです。
 夢を解き明かして、未来を指し示していく、そういう働きは聖書の中にいくつか出て来ます。ヤコブの息子の一人であったヨセフも、兄弟達の陰謀によって、単身エジプトに売り渡されて、彼も囚人となって牢獄に閉じ込められたりする困難な状況の中、夢の解き明かしをしたわけです。
 ダニエルもバビロンの王ネブカデネザルの見た夢を解き明かします。捕らわれの身で、いつ殺されてもおかしくない、ダニエルと一緒にバビロニアに移されたヘブル人は、当時数人だったのではないかと言われているのですが、そういう極めて弱い立場ですよね。
 しかも相手は、当時の世界の覇権を握っていた大国の王です。そういう中で、彼は恥を見ることがなく、かえって王たちの前で神様の業を表して、国を治めるような重役を担って行ったのです。ダニエル書二章二十節~二十三節、

『ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」』

 ここに、「知恵と力は神のもの」とあるように、神様を賛美する根拠に、神様の全知全能の力がたたえられています。神様は自然と歴史を支配される方で、いかなる地上の王も、神の絶対的な主権の前には無力です。その神様が、ネブカデネザル王に世界の主権者が誰であるのか、そして、偉大な王の力であっても神の前には無力だということが次々と示されていくのが、ダニエル書の内容です。

 現代は情報化された社会の中で、メディアを通しさまざまなコンテンツが投げかけられ、まさに玉石混淆の情報が氾濫しているような時代ですよね。言い換えれば、さまざまな嘘で塗り固められ、本質を見極めることが難しい時代であると思います。
 記憶にも新しい、先日アメリカで行われた大統領選挙はわかりやすい一例です。世界で最も強大な国の頭首を決定するという機会でした。そんな重大な出来事であったのに、情報を正しく理解することができずに、多くの人は、「トランプ大統領誕生」を見極められなかったのです。そこにメディアからは常に真実が語られているわけではない、という状況が現されています。
 情報によって今を知り、未来を読まなければならないのに、同じ情報によって幻惑され、誘導されている、そういう現実に、不安を覚え、苛立ちを覚えているのが現代を生きる我々の姿だと思います。ある意味で、ネブカデネザルのように情報という「夢」に悩まされているのではないでしょうか。
リバイバルの働きであっても、反対者とか、神の働きに戦いを挑んで来る者たちの間違った情報が飛び交っています。そして、さまざまな妨害によって神の働きを止めようとする。この時代に、「夢」を解き明かす「知識」と「知恵」の賜物が必要なのです。

第一コリント人への手紙十二章八節を見たいと思います。

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。』

 ここでは、新約の教会の時代になって、神の国を建て上げるための「御霊の賜物」が紹介されています。この御霊の賜物の中で最初に挙げられているのが、「知恵と知識」という賜物であります。
 「知恵と知識の賜物」こそ、ダニエルに与えられた「時代の秘密を解き明かす」賜物であり、神様が与えてくださる賜物です。

 冒頭のみ言葉の中から与えられた二つ目のメッセージ。この二〇一七年は、ダニエルに与えられた「時代の秘密を解き明かす」油注ぎが与えられる年になると信じます。弱い立場である事を苦にする必要はないです。大国に対しても、世界に対してであっても、神様ご自身は私たちクリスチャンを大きく用いて働かせることがお出来になります。

 最後に、ダニエル書の二章四節を読むと、「-アラム語で-」という言葉が出て来るのですが、旧約聖書は主にヘブル語で書かれているのですが、二章四節〜七章二八節までは「アラム語」で書かれています。
 「アラム語」とは、シリアの言語ですが、当時中東世界の貿易に用いられた言葉で、ある意味で共通語、今で言ったら「英語」のような言葉であったと言われています。

 ここにダニエルたちがバビロンに捕え移されながらも、いかに神様を信頼し、死に瀕しながらも信仰を守り通したか、それ故に、大国の囚われ人であった彼を、神様がいかに用い、王と国々の歴史の中に大きな影響を与える者とされたか、ということを、「アラム語で書くことによって世界に示した」のです。
 ちなみに、ダニエル書のその前後はヘブル語で書かれていて、ユダの後の未来のことについて、また終末のことについて書かれています。

 私たちの働きの中に知恵の賜物、知識の賜物が現され、時代の秘密が解き明かされ、世界に対して神様の業がニュースとなって駆け回り紹介されるようなみ業が現される、そんな働きがなされるように。情報によって人々が惑わされ、誘導されるのではなくて、逆にいかに神の器たちが神様の前で用いられ、大きな働きをしている、ということがニュースになって世界で紹介されるように、また、主の働きが批判的な敵の的となり妨害されることなく、かえって偉大な主のみ業が紹介されていくように、祈り求めて行きましょう。

 最後になりますが、二〇一七年は、記念すべき一年です。それは宗教改革五百周年です。マルチン・ルターが、九十五箇条の論題をカトリックに対し提出したのが一五一七年。それ以来、プロテスタントの教会の営みが、五百年間続いてきたのです。プロテスタントの歴史は霊的改革の歴史です。
 人間的な信仰にシフトさせようとする力に対して、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」という「原点に引き戻す」という働き、これが教会によってなされてきているのが、プロテスタント本来の働きです。
 人を、社会を、世界を「神様の前に立ち返らせる」働きが、私たちが行っていく働きでありますが、二〇一七年、宗教改革の記念の年に、神様が大きな御業を現してくださることを信じて、前進していきたいと思います。

公畑フェルナンド 牧師

 ハレルヤ!感謝します。今、順先生が言った通り、今までホールで、インターナショナルニューイヤーセレブレーションをして、メッセージをしていました。でも今またここでメッセージをします。本当に嬉しいです。
 私が主から二〇一七年に与えられた御言葉は、ヨハネの黙示録二十一章五節です。

『すると、御座についておられる方が言われた。「見よ。わたしはすべてを新しくする。」 また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』

 ここには、「書きしるせ。」とあります。神が人にしなさいと言われたことを書き記さない事が、人の問題です。人生にかかわる神の計画が実現しないのは、私たちがそれを書き記さないからです。
 多くの人は夢を持ちます。それは素晴らしく、美しいものです。しかしそれに届きません。なぜなら、それを獲得するための目標を書きしるさないからです。しかし、そのような目標を立てるためには、まず、ビジョンが必要です。自分のものとする前によくそれを見る必要があるのです。みなさん、ぜひ書きしるしていただきたいと思います。なぜなら自分のものとなる前によく見る必要があるからです。
 そして私たちは、人生の中に、神様が行おうとしておられることの可能性を見なくてはなりません。あなたが自分の将来をどのように見るか、信仰の目で見るか、恐れの目で見るかで、あなたの将来は決まります。

 さて、そのビジョンが与えられるためには、信仰が必要になってきます。それを見るだけではなく、信じなければならないのです。なぜならば、ビジョンは描くけど、信じない人がいるからです。聖書は、信じる者は、何でもできると書いてあります。
 霊的な目標を立てる時に、何かが起こります。今から、私たちが自分の目標を持つことを理解すべきであるという理由を説明したいと思います。
 第一に、目標とは霊的な鍛錬であるということです。霊的訓練なのです。祈り、断食をするといった訓練なのです。
 ネヘミヤ書を見るなら、それは目標の書であり、再建の書です。それは五十二日間のエルサレムの城壁を再建する計画でした。
 また、ノアが箱舟を造った時、とても細かい計画を立てました。ノアは百年以上かけて箱舟を造り、造りながら神のことばを証していました。それは内と外にヤニを塗り、仕切りを造り、幅も、高さも、長さもすべてが細かく計画されていました。結果的に、目標を持つことが霊的訓練になったのでした。

 なぜ神は私たちに夢や目標や計画を持たせるのでしょうか?聖書には神ご自身が計画を持っていると書かれています。エレミヤ書二十九章十一節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 神様は計画を持っておられます。神様がアダムをエデンの園に置かれたときに、すでに黙示録の計画を立てておられたのです。神が創世記を始められる前に、すでに黙示録が完成されていたのです。神がアルファでありオメガであると言われているとおりです。神様はすべてを定められました。天地創造、預言者、地上にキリストが来ること。細部にわたり、すべて預言されました。どこで、いつ、どのように呼ばれるか、彼が何をするか、すべて予定されました。それはイエスが正しい時に生まれ、適した時に生まれるためでした。神はすべてを計画されるのです。
 多くの人はこう言います。「ああ、牧師先生、私は計画しません。神様が私にくださるものだけを待っています。神様の御心がなりますように。」と。しかし、もしあなたが計画しないなら、あなたは何にも到達できません。何年待っても、何十年たっても、何も獲得できずに同じ所にとどまり続けるのは、あなたが計画しないからなのです。
 エペソの手紙二章十節をお読みしたいと思います。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 神様はあらかじめすべてを備えてくださっています。神様はち密な方なのです。目標を立てることは、私たちに訓練、規律を与えます。例えば、もしあなたが来年の十二月三十一日までに十キロ落としたいと思うなら、何キロ走らなくてはならないか、何カロリー消費しなくてはならないかを、まず知る必要があります。その目標は、訓練、規律を生むのです。

 第二に、目標は信仰を成長させるものです。個人的な目標は信じることを強いるのです。言い換えると、目標とは、あなたがそれを実際に見たいのであれば、目標が信仰の告白になるのです。「私はこれをします!」「私は限られた期日までにこれを獲得します!」それは信仰を必要とします。そして、あなたにやる気を起こさせるのです。
 夢を持つことはいいことですが、目標を立てないとその夢を獲得できません。目標のない夢は、ただの幻にすぎません。目標は夢を実現させるために立てられるのです。
 例えば、十二月三十一日までにこれをしようと思うなら、そのために目標が必要ですし、また大きな信仰を持つ必要があります。しかし、もしも立てる目標があまりにも簡単すぎるなら、それは神からのものではありません。それは信仰を必要とはしません。自分の力でできる目標なら、信仰の目標とは言いません。神を必要とはしないのです。信仰を必要とする目標とは、とても大きなもので、それを獲得するために、あなたが神を信じるようになるものです。もし神が偉大な方であると信じるなら、信仰を大きくさせる、大きな目標を持ってください。
 もしあなたが、体重百グラム落としますと言うなら、それは一夜にしてできることですから、それは目標となりません。しかし、十キロ落としますというなら、話は別です!私たちは大きな人生の目標を持たなくてはなりません。

 第三に、目標は、良い人格を形成します。最も大切なことは、目標を獲得することではなく、目標獲得後にあなたがどう変わっているかです。神はあなたがしていることだけに目を留めてはいません。あなたがそれをどのように獲得し、どのようにあなたの人格が形成されていくかを見ているのです。
 信仰の目標を立てる意味は、それを獲得することではなくて、その過程であなたに起こったこと、どのように霊的成熟に到達したかなのです。目標が目的ではないのです。神の真の目的とは、あなたが成長し、あなたがイエス様の姿に日々近づくことなのです。そして天国に行く時、あなたは地上でもらったトロフィーや賞状や経歴や成績表などを持っていくことはできません。しかしあなたは、自分の成熟した人格を天国に携えていくのです。神があなたをいまだ天国に連れて行かないのは、あなたには、まだその人格を成長させる必要があるからでしょう。

 第四に、目標は、希望を与えるものだからです。あなたは毎日希望を持つ必要があります。人は水なしで三日間生きられるそうです。四十日間食べ物なしで生きられるそうです。息をしないで五分間生きられるそうです。しかし人間は希望なしでは生きてはいけないのです。希望はあなたを立ち上がらせるものです。
 聖書(詩篇二十三篇四節)には、『死の陰の谷を歩くときも、私は恐れません』と書いてあります。この死の陰の谷を歩く時、前進するために希望が必要です。トンネルの先にある出口の小さな光を見る必要があります。そこにたどり着けることを知る必要があるのです。
 しかし、もしあなたが、この始まろうとしている新しい年に向けて目標がないとしたら、過ぎていった年の目標よりも良くないものになるでしょう。なぜなら、あなたは年を取るわけですし、劣っていくからです。
 ですから、目標を立てましょう。新年に向けてのあなたの経済的目標は何ですか?新年の霊的目標は何ですか?肉体的、精神的、社会的目標は何ですか?
 信仰によって目標は立てられます。それが大きくて、神の臨在がある目標であるように。そんなに大きくなく、信仰からきていない目標なら、それはただ「やることリスト」の項目をこなしていくのに過ぎないのです。自分の力でできることは神からのものではないからです。
 ゼカリヤ書には、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と書いてあります。神の与える夢はとても大きいので、神ご自身が介入し、その力によってなされる必要があるのです。ですから兄弟姉妹たち、この二〇一七年、目標を立てましょう。それを書きしるしましょう。それを信仰により見ましょう。そして、それを信じましょう。そしてそのために働いてまいりましょう!
 神様の祝福がありますように。

上條実 牧師

 ハレルヤ!一年間みなさまのお祈りによって守られてきた事を心から感謝します。特に家内の為にお祈り下さり感謝致します。なんとか支えられております。また家族も守られていますことを感謝します。
 去年の十二月三十一日に五番目の孫が生まれました。次男の所に三番目の十真という男の子が生まれました。また六人目の孫が、来年の二月に生まれる予定です。家族が増えていくというのはただ主の恵みであると感謝しています。
 さて来る二〇一七年に対してのみことばを与えて下さいと祈り続けていました。私と新城教会の為に、またこの日本のために何を神様が語ってくださるのか期待して祈っておりました。するとこんなみことばが与えられました。私が二〇一七年のために与えられたみことばはローマ九章九節です。

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」』

 えっ?なんでこんなみことばが?と不思議でした。今度二月に産まれる予定の子どもは女の子と言われているので違うぞ?と思いました。また私の所はもう産まれまいし、長男や次男の所?なんて考えながら思いを巡らせていました。しかし確かに主はこのみことばを語って下さいました。毎朝聖書を通読しているのですが、大げさに言うならば、光が私の心に射し込んできたかのように、このみことばが注目させられ、それ以来ずっと私の心の中にありました。私はなぜこのみことばを主が下さったのか祈りました。そして神さまから様々な事を学ばせて頂きましたので、お分かちしたいと思います。

 このみことばはアブラム、のちにアブラハムに語られた言葉です。この時アブラムは、七十五歳の時でした。創世記十二章一節~三節に、そのみ言葉があります。

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。』

とあります。主が「あなたを大いなる国民とする。」と言われ、神がアブラムを選び、祝福の担い手として任命してくださった年齢が七十五歳でした。ノアの息子セムから数えて10代目のアブラハムは、ウルで生まれ、ハランに移り住んだ。ある日、神は「私が示す地に行きなさい。」とアブハムに言われ妻のサライや甥のロトとともに旅立ちました。一行がカナンに入ると神が現れ、「あなたの子孫に、この地を与える」と言われましたが、カナンは飢饉に襲われ、一行はエジプトに避難し、創世記十三章十二節には、

『アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。』
アブラムはカナンに戻り、アブラハムはカナンに、甥のロトはヨルダン川流域のソドムに移り住みました。創世記十五章三節~五節、

『さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。とアブラムは語って頂きました。素晴らしいことばです。しかしまだこのときは世継ぎである子どもは生まれていませんでした。七十五歳の時に神様から祝福の担い手だと言われたアブラムが、七十五歳から十一年後、創世記十六章十六節に、

『ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。』

とあります。祝福を下さると聞きながらアブラムは不信仰をいだき、女奴隷のハガルによってイシュマエルを産ませてしまったのです。しかしイシュマエルは世継ぎではないと言われ、創世記十七章一節~五節

『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。』

 七十五歳の時に、アブラムに言われた言葉、そして九十九歳の時に言われた言葉も、神様が言っている事もあなたから出る者が大きな祝福を与えると言われています。しかしアブラムはハガルによってイシュマエルを産みました。不信仰を犯してしまいました。アブラムは九十九歳になった時、神は祝福を与えるともう一度語り、ここでアブラムからアブラハムに名前を変えさせました。みなさんご存じだと思いますが、「アブラム」という名前はどういう意味かと言いますと、「高貴な父」とか「高貴な族長」という名前だそうです。しかし神は「アブラム」ではなく「アブラハム」だと言われました。アブラハムと言う名は「多くの国民の父」という意味だそうです。アブラムは「高貴な父」「高貴な族長」という小さな単位でしたが、神がアブラハムにしたのは、「多くの国民の父」という国民の父としました。国民という事はイスラエル全体が祝福を頂く事ができるというのです。
私は反省させられました。家内のことや教会の事などあまりにも小さい単位を見ていました。しかしもう一度日本の為に祈り、とりなし、信仰を持ってリバイバルを求めなさいと教えられました。また「サライ」から、「サラ」としました。これは創世記十七章十五節~十六節、

『また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」』

 このサライという名前は、「私の女王」という意味があるそうです。しかし、「サラ」は、「国々の民の母」という意味があるそうです。ここでも、アブラハムも「国々」でしたが、サラも「国々の民の母になる」と言っています。この二〇一七年は大きく、私たちは教会、家庭だけを考えるのではなく、日本を変えていただきたいと教えられました。

 そして創世記二十一章一節~五節、

『主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。』

とあります。このサラは胎が死んでいた。アブラハムも百歳であり誰が考えたとしても、絶対に生まれないような状況です。しかし子どもができました。しかし子どもができたとしても、決して男の子かどうか分からない。女の子かも知れない。しかしに神様はアブラハムに約束した通り、年老いた夫婦に世継ぎの子である、イサクを与えてくださったのです。  
今の日本はリバイバルは全くおきていない。暗やみの力がこの日本を支配し、暗黒の時代となっています。しかし神はあり得ない事をして下さる方です。信じましょう。今年は変革の年になると信じます。無理だと言われた状況の中であっても、アブラハムが、世継ぎの子であるイサクを与えて下さったように、日本に約束の祝福を与えてくださいました。

私は今回祈る中で、アブラハムが百歳になって、約束の世継ぎであるイサクが生まれました。アブラハムは七十五歳で、「あなたを大いなる国民とする」と言われて、甥のロトと分かれ、世継ぎが産まれたのは何歳ですか?百歳です。七十五歳から百歳。この間二十五年間かかりました。

私は計算してみました。新城教会で聖霊様が訪れてくださった年は、いつだったと思いますか?これは一九九二年二月十三日。突如、天が開かれて聖霊様がこの教会に臨んでくださいました。そしてその年の七月に霊的戦いが始まり、その後様々な事がありました。そして今度の年は二〇一七年、聖霊様が訪れてから何年になると思いますか?二十五年です。私は驚きました。
 
 神がこの教会に、選んでくださり、任命してくださって、霊的戦いを与えてくださいました。私たちが求めたのではなく、期待したのでもなく、主から突如新城教会に与えて下さいました。そして二十五年目、今まで様々な戦いをしながら、いろんな問題があったり、苦しいことがあり、このままで本当に大丈夫だろうかと、たびたび心配し、考えたりしました。しかし今度の年はアブラハムにイサクが産まれた年です。この新城教会も神が霊的戦いを任命して下さって二十五年。何にも変わっていないかのように思えますが、世継ぎが産まれる年なのだと教えて下さいました。
 
 アブラムはロトと別れて、カナンの地に住みました。新城の教会も、二十五年前に大きな悲しみがありました。新城教会に分裂がありました。また所属していた教団から追い出されました。ある面悲しい現状でした。来年は、教会が分裂して二十五年。教団から出されて二十五年。その二十五年目にアブラハムに世継ぎが産まれた様に新城教会にも約束が始まる年だと信じましょう。アブラハムは、創世記十五章三節~五節、

『さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

と語られました。この新城教会も同じように祝福を頂き、霊的戦いの結果が現実の生活の中で現れる年となり、これから祝福が激しい流れが流れはじめると信じます。アブラハムの後イサク、ヤコブと、代々継承していったように、新城教会もこれから代々すばらしい祝福が流れはじめると信じます。ローマ九章九節

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」』

二〇一七年、私たちの教会、私たちの国は、世継ぎが産まれます。祝福が始まる年です。日本はあり得ない出来事、主の祝福。主が良くして下さる事、大いなることが起きます。私たちは神さまからの祝福の担い手です。信じて行きましょう。ハレルヤ!