「正義と真実の帯を締めよう」

2017年4月30(日)
新城教会牧師 四元雅也
イザヤ書11章1~9節

『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。』

 ハレルヤ!今日はみなさんの前で、み言葉を取り次ぐ光栄に預かれて心から感謝します。
 今ゴスペルクワイヤーのみなさんが賛美してくださった、「なんて偉大な神様、偉大な神様を誉め称えます!」という賛美でありましたが、本当にアーメンです。今日もこうして神様を皆で礼拝できることを感謝します。

 私がメッセージをする時に、よく家族の者が言うのです「前置きを短くしてね。」と。どうも私は前置きが長いようなので、今日は短くしたいと思うのですが、やはり長くなってしまいそうです。
 今週はゴールデンウィークで、昨日から始まり次の日曜までですので、明日明後日をお休みすると、九連休になるという日程です。企業によっては九連休まるっともらえる所もあるかもしれませんね。みなさんはどんな予定でしょうか。きっと楽しいことを計画されている方も多いと思いますが、教会のほうもいろいろ予定があります。

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 週報をご覧いただきますと載っているのですが、まず今日は、開先生ご夫妻のCDが発売されます。ざわめきミニストリーの一環で、今回CD発売されましたが、お二人はもう長いこと二人で伝道の賛美をあちこち回って歌っておられます。メッセージ性のある歌とトークも織り交ぜながら一つの作品が仕上げられていくような感じで、コンサートされるのを私も拝見して、本当にすばらしいなぁ、早くCDが出るといいのになぁ、と思っていたのですが、ついに出ました。
 今日は、先・先行発売!ということで、新城教会の方は特別早く手にすることができるんです。ところでみなさん、このCD、聴きたいですか?聴きたい?・・・聴きたい方はぜひ今日の礼拝後に買ってください!(笑)。
これも前置きを短くする苦肉の策です(笑)。今日は特別、消費税サービスということだそうですので、よろしくお願いします。
 このCDは、プレイズ出版のサポートで制作されたそうですが、今後も平岡先生の本、順先生の本がプレイズ出版から立て続けに発売されることになっておりますので、ぜひ楽しみにしていただきたいと思います。

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 そして、今週は水・木と、ゴールデンウィークの特別集会、二十四時間PPHが行われます。三日の昼十二時から四日の昼十二時までこの教会でやります。今回は、私も気づいていなかったんですが、すごいことになっています。というのは、全国でライブツアーに駆け回っている滝元堅志君始め、プロのミュージシャンたち、ミュージックスクールや、先日の復活祭にも来られて素晴らしい演奏をしてくれていたメンバーが勢揃いして、PPHで賛美の奏楽をしてくださる。今回はその演奏をバックにみんな気持ちよく賛美できるのではないかと思いますので、みなさん楽しみにしていただきたいと思います。
 それだけではなく、PPHの中でミュージックスクールのようなプログラムも入って、演奏の指導もしてくださるそうです。ですから、特に、奏楽奉仕者の方々については、ぜひこの機会を見逃さずに参加してください。PPHの登録費だけ支払えばミュージックスクールに参加することでできるそうです。そして、PPHが四日の十二時に終わったら、中庭でバーベキューもあります。今回のPPHはてんこ盛りですよね。新城教会でよくやっているイベントを、これでもか!と盛りつけたようなPPHですので、楽しみにしていただきたいと思います。

 そして翌日の五日は何かというと、新城教会春の遠足「地引き網」です!先週も順先生がお話していました。これも楽しみです。でも順先生が、網元のおじさんがさくらの魚を網の中に投げ入れていたとか、聞き捨てならない発言をしていました。地引き網の夢とロマンが地に落ちたというか・・。でも、この企画はそう言っていた順牧師の長年の悲願なんです。順先生が一番好きでやりたかったという企画であります。やりたい!ということだったのですが、長年できなかったのです。なぜかというと、天候によって左右されますから。これまで新城教会の歴史の中で、計画したのに天気のおかげで地引き網できなかったことが3回も!あるんです。それで悔しい思いしているんですけれども、それでもどうしてもやりたいわけです。それで、4度目の正直なんです。さいわい天気予報は良さそうですので、楽しくできるように祈ってください。

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 これは、新城教会で最後にやった地引き網、二〇〇九年です。地引き網というのは、本当にすごいんですよ。網を漁師さんが船で張りまして、私たちが引っ張るわけですが、引っ張っているときは、はっきり言ってちっとも楽しくないんです。なんか延々とずるずるロープを引っ張り続けているだけで、かったるいわ腕は疲れるわで、なんか「地引き網ぜんぜん面白くないな」って、テンション下がるんですけれども、後がすごいんです。いよいよ網が岸に近づくと、どこからともなく海鳥たちが集まって低空飛行し始めると、もうすぐそこで海面に魚たちが飛び跳ねているのです!
 そうすると、いよいよ私たちの野生が目覚めるわけです。これが地引き網の醍醐味です。おお!獲物がもうすぐそこだぞ!っていうわけです。そして、網引く腕にも力がみなぎります。そしていよいよ網が陸に引き上げられるわけですが、こういう状態ですね。

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 ものすごい数の魚が網にかかるわけです。これは資料映像ですが・・(笑)。これが本当の写真です。

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 でもバケツにいっぱい入っております。

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 そしてこれが、順先生がお話していた「やらせ疑惑」のスズキという魚です。網元が投げ入れたのではないかという物ですけれども、そこは関係ないです。その新鮮なやつを調理し、海の恵みをみんなでいただく。すごくおいしい食事になります。魚だけでなく肉なども出ますし、ここぞとばかりに登場するのが、新城教会の鮮魚担当牧師、岡本先生です。岡本先生が来て、板前になってくださるそうです。先生は昨日、遠足に向けて気合いの入った準備をされていました。この教会の包丁という包丁を先生が一人で研ぎまくっていました(笑)。この遠足のため、すばらしい愛を実践してくださっています。
このように人間の本能的な喜びを実感するひとときですよね。いま学んでいることをあてはめるなら、「自然を管理する実感」というのでしょうか。まぁ、大物がどれくらい獲れるかは分からないのですが、でも、入っていなくても大丈夫です。今回は、岡本先生がとれた魚以上に新鮮な刺身をわざわざ切って、会場まで持って来てくださることになっております。なので、獲れなくても大丈夫です。これで怖いものなしです。でも、すべて当日地引き網ができれば!の話です(笑)。是非地引き網ができるようにお祈りしていただきたいと思います。地引き網ができなかった場合には、ちょっと別のプランを考えて、また前日にみなさんに発表したいと思いますが、是非ご一緒に海へ狩りに出かけましょう!申し込み用紙が後ろにありますので、お書きになってください。

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 そして、もう一つついでに案内させてください。五月の二十七日(土)夜七時からは、「The Call Sweet Night」が開催されます。これは毎年青年会が中心となって開催される集会です。サックス奏者の安武玄晃さんが来てくださいます。新城教会でもおなじみですし、リバイバルミッションでも日本縦断ミッションなどで奉仕してくださっている兄でありますが、去年の秋にCDを出されて、CD発売後に初めてこの教会に来られますので、新しいCDの曲なども聴かせてくださると思います。これは、青年会主催でありますが、青年会以外の方でも、クリスチャンでない方を連れて来られたら、参加していただけます。ぜひ、福音の良き伝道の時となるように、青年会の為にもお祈りください。

 話は本題に戻ってくるわけですが、最近、新城教会の礼拝の中では、順牧師がずっと連続して、「福音」という言葉についてお話しされています。
 「福音」という言葉は少なくともここにいるクリスチャンの方でしたら、みなさん聞き慣れた言葉ですので、その意味について改めて考えるということは、今まで深くされることはなかったかもしれません。「福音」は良い知らせであり、私たちの救いについて聖書で語っている真実であるということを私たちは知っています。でも、この福音の全容を理解していなかったのではないか、ということが語られています。それゆえに私たちはこの福音を力強く広げていこう!と努力するわけですが、一部しか取り扱わないので、広げようとしてもなかなかうまくいかない、という現実があるのではないかとお話されています。今こそ、私たちが、限定的な福音という殻を打ち破り、もっと広い包括的な福音といいますか、深い福音を理解して主の前に出て働いていく時ではないかと思います。その時に、詰まっていた部分が一気に開かれて、福音が勢いよく、世界に向けて拡大していくことになるのではないかと思います。

ここでもお話されていますが、ネパール宣教が四回に渡って行われてきました。特に新城教会の兄弟姉妹が参加するようになった4年前のネパールツアーというのは、その方向性と目的が、特に若い兄姉、学生たちを対象に、彼らの社会勉強といいますか、成長に力点が置かれていたものでした。
 現代社会の青少年たちは、多くが、学校生活、また人間関係に問題を抱え苦手意識を持って自信を失い、自分の個性を生かす機会にも恵まれずに、悶々としています。そういう若者たちを対象に、電気・水道もなく、インフラが整っていない、自然の中で生活しているような環境に遣わし、文明から隔離されてたくましく生きている人たちと触れあうことを通して、目が開かれて立ち上がるきっかけになることができたら、という目的であったように思います。
 また、文明の利器の便利さを知らず、ちょっとかわいそうな生活をされている彼らに、我々の豊かさの中から少し分け与えて、仕えることを通して彼らに祝福されてもらいたい、そういう中で福音を宣べ伝えていけたらいいな、という目的がありました。
 でも、ここでも語られていますように、何回か続けて行われていく中で、私たちが遣わされているチェパンの人々は、実は世界的に見ても珍しいくらいに最近まで、資本社会やグローバル化という波に汚染されずに、独自の小さな共同体のまま、外界から隔離されたような状態で生活している。神様の目から見たら、特別な賜物を持った人々であるということがわかった。
 当初は、我々がお世話になった宣教師の先生が、定期的に行っている宣教地の人々、というくらいの認識しかなかったわけですが、そうではない。彼らは神様によって、この現代社会のために取っておかれた「残され人」、特別な賜物を持った民であって、我々が遣わされているのは、彼らと共同戦線を持つためである、という理解に変えられてきている。それが最近お話しされている全幅の福音という概念の中で開かれてきた真実であります。

 今まで教会が語ってきた福音というものも、決して間違いではありません。重要なことです。「イエスを信じたら、罪が赦される。天国に行くことができる。しかし、イエスを信じなかったら、滅びてしまう。これが福音だ。」としていました。もちろんこれも福音です。
 しかし、聖書をしっかり読んでいくと、福音とは、これも順先生がよく言われる言葉ですが、全宇宙、地球、自然、すべての生物、社会制度、すなわち、「被造物全体の回復」というものが福音であるということが語られています。その中に、「人類の救い」というものも含まれているということです。
 このいわば全幅の福音とでも言うべきもののためにイエスさまの十字架は実行されたというわけであります。

 では、人類の救いがどうして、そんなにも重要かというと、人類が救われないと、他の被造物を管理できないからです。神様は人を全被造物の管理者として、創造された。だから、まず神様は人を回復して、本来のポジションに付かせて、人類を通して被造物全体を回復しよう!とされているのです。
 私たちがただ救われるだけでなく、被造物全体の回復というのを妨げている悪しき力に立ち向かって、そしてその力を打ち破るならば、この福音の力が広く拡大して、そして新しい天と新しい地の創造につながっていくということになります。

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 かける眼鏡によって、見えるものは変わります。今まで私たちが持っていた福音の理解が色眼鏡になって、全幅の福音を見えなくさせてしまっていた。だけど、目が開かれる時に、私たちは新しい視点で御心を理解して、さらに前進していくことができるわけですね。
 そういった視点で、聖書を読んでいくと、聖書が私たちに語りかけてくることも変わってくるわけです。マルコの福音書十六章十五節には、このような言葉があります。

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』

 この言葉が、「すべての作られた者に」と、これは人物を表す漢字の意味をもっている言葉ですが、これを英語のNIV、New International Versionで読むと、

「He said to them, "Go into all the world and preach the good news to all creation.」

All Creationという言葉は、「全被造物」とも訳すことができる言葉です。私たちが福音を宣べ伝えるために、イエスさまから受け取ったこの言葉も、私たちは暗記できるほど知っているわけですが、その全容を「全幅の福音」という理解に照らし合わせる時、意味も変わってくるのです。All Creationという意味が輝きを持って迫って来る、そういうことを体験できるわけであります。

創世記二章十五節を読んでみたいと思います。

『神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』

 創世記において、私たちの祖先が神によって創造されたときに、神様は人を目的もなく、むやみに造られたわけではありません。神様が「なんか全部造り終えちゃって暇になったから、ちょっとなんか造ってみようか。」みないなことで人間を造ったわけではないのです。ちゃんと目的を持って創造されています。それが、「全被造物を管理する」ためだということです。これは、すごい役割ですよね。ここにおられるすべての人が、神様によって与えられた役割、被造物の管理者としての役割が全人間に与えられている。私なんか何の目的もない、生きる甲斐がない、何のために生きているのか分からないという人が、もしもこの中にいらっしゃったら、心配しないでいただきたいと思います。絶対に、おひとりおひとりに神様は目的を持っていらっしゃる。そして、その人にしかできない天職のような働きをゆだねようとしてくださっています。

 先ほどの遠足の話ではないですが、網元の漁師さんでも、またスポーツ選手でも、また、主婦でも、学生でも、職人でも、肉体労働者でも、学者でも、社長でも、大統領でも、健常者でも障害者でも、老人でも赤ちゃんでも、男でも女でも、国籍も関係なく、同じ使命の中、この地上に造られて命が与えられているというわけです。
 そして、現実的に、我々人類によって、地球は管理されているのです。

 ところが人間は堕落しました。創世記三章四~五節、

『そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』

 ここで、人間が蛇の姿をしたサタンにそそのかされ、神様がやってはいけないといわれたことを犯して、堕落してしまったことが書かれています。では、この時、何が起こったのでしょうか?
 創世記二章を見ますと、神様が「これを食べるときあなたは死にます。だから食べないでください。」と言われました。これは人間と神様との愛を確認するために、人間が自由意志で、「神様がおっしゃったんだからこれを食べずにおこう。」と、自分の意志で食べないことを選択していれば、神様との愛の関係は永遠に続き、人の営みも、永遠に神様に祝福された中で増え広がっていったことであろうと思うのです。
 堕落した時に何が起こったかというと、すぐ死ななかったのです。もちろん何百年も後にアダムも死にましたし、エバも死にました。死ぬ者になったということは確かなことでありますが、すぐには死ななかった。では何が起こったかというと、まず人間は自分が裸であることに気づきました。それは、それまでは神様が男を造って、必要な助け手としてエバを造って住まわせたわけですが、その時には互いに裸であることに気づかず、恥ずかしいとは思わなかったのです。しかし、堕落とともにそのことに気づいた。
 ここで起きたことは、「性の堕落」であると思います。それ以前は、裸であっても別に恥ずかしくなかった。だけど食べた時に恥ずかしくなって葉っぱで腰巻きを作って体を覆ったわけです。
たぶん現代社会ほど性に関する価値観がリベラルになっている時代は未だかつて歴史の中でないかもしれません。
 人々の会話の中にも性についての話題が露骨にみられ、婚前交渉は当たり前、好きになれば結婚していなくても肉体関係を結ぶ、あるいは同性同士でそういった行為をする、そのような「ゆがんだ性」と言いますか、それが生きる上での興味とか、活力の源みたいな、あるいは生きる目的のような状態になってきてしまっています。しかし、そのよう価値観が「性」というものを恥ずかしいものにしているのです。大人の世界の隠れた楽しみというような、そういう領域になっているわけですね。
 堕落する前、神様は男女を造り、神様が二人を会わせ、そしてその二人は父母を離れて、妻と結び合って一心同体となる、と仰せられて夫婦の営みを祝福されました。結婚が祝福され、その中でなされる夫婦の交わりが良きものだと神様はされたのに、現代の性というのは、そういった正常な結婚によってもたらされる営みに興味がなくて、人目をはばかって隠れて行う破廉恥な「性」の方が、大きく肥大して、テレビやメディアに登場してくる。そういう時代になっています。
 人間の性の堕落というのは、アダムとエバが罪を犯した時に、自分たちが裸であったことに気づいた時、「性」というものが恥ずかしいものになってしまった、というところに根源を見いだすことができるのではないかと思います。
このように人類が堕落した時に、はじめに起こったのは、「性の堕落」でした。

 しかし、本当はそうではありません。死ぬ者となったことより、性的な堕落が起きるより、もっと先に起こったのが何かというと、これは「知識」の堕落です。
 なぜなら、神様が「取って食べてはならない。」と言った木の実は、「善悪の知識の木の実」であり、そして人間が悪魔に騙された誘惑そのものも、悪魔が人間に言ったのは、「あなた方の目が開かれる。そして善悪を知るようになる。」と悪魔はささやいて、その誘惑に引き寄せられて食べてしまったのです。食べた時にどうなったかというと、人間の目が開かれたとあります。神様は「我々のひとりのようになってしまった。」といわれました。それはどういうことかというと、それまでは人間は、「悪を行う」ということを知らなかった。「悪」という知識がなかった。けれども、善悪の知識の木の実を食べた時に、人間の中に悪の領域が入り込んできたということなのです。悪をする知識、知恵を身につけてしまったということなのです。

 そこからエデンの園を追い出されて、人間の苦しい歴史が始まっていくわけです。人間が堕落したことにより、人間が治めるべきであった被造物の中にもその悪知恵が浸透していったわけです。人間が悪知恵を持って地を牛耳るようになってしまったわけです。そして、土地は呪われるものとなってしまったわけです。そして、すべての被造物が今、あがなわれることを願ってうめいているとローマ書八章に書かれている状況が現代まで続いているわけですね。

 ですから、人間が今、いくら知恵をしぼって良いものにしていこうと思っても、悪いものもちゃんと混ざっていますから、同時に悪いものも生み出されてしまうという現実があるのかもしれません。

 冒頭にお読みしたイザヤ書十一章のみ言葉を開いてみましょう。イザヤ書十一章一節~九節、

『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。』

 ここでエッサイの根株から生え出た新芽、これは「イエスさま」のことを表しているのですが、預言者イザヤが、イエスさまがお生まれになる七百年ほど前に、イエスさまのことを預言した言葉です。エッサイとは、ダビデのお父さんですので、「ダビデの末裔として救い主がやってきますよ!」と言う意味です。イエスさまは、この地上を歩まれた時に、まさにこのみ言葉のように、主の霊に満たされて、正しい裁きをしました。貧しい者や虐げられている者たちの友、また解放者となった。権力にへつらうことをせず、欲によって行動せず、愛によって行動された。また、悪魔に対しても一歩も引かずに、神の国の権威を持って対峙され、さまざまな挑戦や誘惑にも勝利された。そして自然の法則に対しても権威をもって命じられて、正義と真実で治められた。まさにこのみ言葉を成就されたのがイエスさまであります。
 そして、イエスさまが十字架についてくださり、あがないを完成されたことを通して、私たちも救いの道を通って、神様と共に生きる歩みをすることができるようになった。その私たちは、神の子どもで、イエスさまの弟、妹です。イエスさまが、天において、地において、いっさいの権威を持っておられると言われた、その権威を私たちもいただいて、そしてゆがんでしまった被造物の管理権を正しく回復させて、そして地を管理する者とされることができる、ということですよね。
 ですから、このイザヤ書十一章一節〜五節のみ言葉は、イエスさまのためのみ言葉でありますが、そのまま私たちに当てはめることのできるみ言葉でもあります。私たちが主の霊に満たされる。それも、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊だというわけです。
 私たちに与えられる主の霊は、知恵と悟り、はかりごとと能力の霊、主を知る知識、主を恐れる霊です。この世で偽りをもって、神様から引き離すために働いている悪魔の知恵に対して、私たちはそのような神の知恵によって立ち向かって勝利して、またこの地を管理することができるということですね。

 そして、この十一章一節から五節の先を読んでいくと、こういうみ言葉が書いてあります。六節〜九節、

『狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。』

 これはやがて来たる天の御国の描写であると思われます。これも最近お話しされているように、天国というのは、この罪にまみれた浮き世から離れて、そしてどこか遠い所か、異次元か分かりませんが、この地上を離れた所、遠い所に存在している。仏教でいう西方極楽浄土みたいな感じ、そういうふうに私たちは考えていたのですが、実はそうじゃない。天国というのは、この地上にこのみ言葉のような形で現されるのだということです。そして、地上がそのような楽園になるわけです。いつかこのような世界が現されるのを私たちは待ち望んでいるわけです。
 獅子が子羊と共に宿るとか、乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べるとか、この情景は、常識で言ったら猛獣とか危険生物と言われるものです。人間が丸腰でむやみに手を出したり近寄ったりしたら大変なことになってしまう、そういう生き物です。それが、おとなしくなるというのです。ライオンも藁を食べていると。そして小さい子どもがペットと遊ぶように猛獣を追いかけていくというのです。それでも害を加えない。安全である。究極の平和、こういう世界が来るというのです。

 しかし、考えてみると、世界の歴史の中で、少なくとも二回は、これと同じ情景があったと思います。現実的に。それは何かと言いますと、エデンの園でです。

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 当然罪を犯す前ですので、裸でも恥ずかしくないですし、ライオンや猛獣も一緒で、右の端っこのほうには恐竜みたいなのも描かれているようです。インターネットから取りましたので、誰が描いたのか分かりませんが。
この時はライオンも藁を食べていたのでしょう。毒蛇も毒がなかったのでしょう。

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 もう一回ありました。それは、ノアの箱舟の時です。ノアの箱舟の中で、ライオンが他の動物を襲っていたら、大変な修羅場になっていたと思いますし、せっかく神様が助けられた動物が食べられてしまったら絶滅してしまうので、ライオンも他の動物を殺したりはしなかったと思います。まむしも噛んだりしなかったと思います。だから、神の支配の中で限定的に、ノアの箱船の中では天国のような状態になっていたのではないかと想像ですが思います。神の国では、このように危険な生き物がいなくなっちゃう。そしておそらく地震などの自然災害もない。そして、ウイルスも細菌も無害になる。聖書の時代に細菌やウイルスの概念があったら、このみ言葉にもこんな文言が入っていたでしょう。「インフルエンザは人に高熱をもたらさない。」

 僕は二年前くらいに、寄生虫や寄生生物に興味が出て、少し調べました。ここでもみなさんに紹介しました。

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 きのこも生木とか枯れた木に寄生して、養分を宿主から拝借して成長していきます。
 みなさん「寄生」というと、多くは映画の「エイリアン」みたいに、他の生き物の体内に潜り込んで栄養を横取りし、食い尽くして腹の中から飛び出す邪悪な生き物と考えるかもしれません。実際そうやって生きる生物もたくさんいるわけですが、寄生生物をみると、そこには驚くべき神様の創造の素晴らしさを見ることができます。

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 この生き物は綺麗な玉虫色をしていますが、ちょっと出で立ちはグロテスクです。これは「エメラルドゴキブリ蜂」と言います。これ、ネットに動画があったので見せたいのですが、閲覧注意というグロいやつなので、みなさんには言葉で申し上げます。この虫はハンターなのです。名前の通り、この虫が狩りをするのはゴキブリです。ゴキブリを狙います。この虫の大きさはだいたいゴキブリと同じくらいの大きさで、数センチかな。
ゴキブリが何も知らずに歩いていますと、そろそろと忍びより、近くまでいくと電光石火です。ばっと取りついて、何をするかというと、ゴキブリの首根っこに毒針を刺すのです。そして、ゴキブリを麻痺させるのです。それを二、三回やると、どうなってしまうかというと、ゾンビ化するなんて言われるのですが、ゴキブリの意志が麻痺するのです。生きているんですよ。動けるし。でも、その毒を注入されたゴキブリはどうなっちゃうかというと、すべての行動をこのエメラルドゴキブリ蜂にコントロールされるのです。そして、この蜂は、ちょうどリードで犬を散歩させるように、ゴキブリの触覚に噛みついて引っ張っていくのです。そうすると、ゴキブリが付いて行きます。それで予め用意しておいた巣穴まで連れて行きます。巣穴に連れて行き、いよいよ卵を産むわけです。ゴキブリは六本の足がありますが、一番前足と二番目の足の間に卵を産みます。そして、今度は枯葉とかで巣穴に蓋をするのです。ゴキブリはなされるがままです。生きているのです。近くに餌があれば食べるのです。ゴキブリって大きくなっていくと脱皮したりしますので、脱皮とかもするのです。だけど、まさに意志が失われたように、その場にじっととどまるわけです。脱出しようとも試みず。しばらくたって卵から幼虫が孵ると、ゴキブリの節の間から体内に侵入して、幼虫はゴキブリが生きたまま、体内で成長していきます。いつでも新鮮なゴキブリの生肉が食べ放題というわけですね。えさでできた家に住むわけです。私だったらカレーライスの家に住むみたいなものです。そして、ある程度成長すると、エイリアンと一緒です。ゴキブリの殻を破って、外に出て、さなぎになって成虫になって巣穴から飛び出してくるのです。
 誰がそんな知恵を身につけさせたのでしょうか。すごいものであります。

これは前にもご紹介した映像でありますが、ハリガネムシです。

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 このハリガネムシがものすごい知恵を持っているのです。これは昔、爪の間から入って体に寄生するんじゃないかって怖かったのですが、そんなもんではありません。
ハリガネムシはカマキリの腹の中にいたり、コオロギの腹の中にいるわけです。

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これはコオロギから出てきたハリガネムシですが、こんなに詰まっているのかというくらい長いです。栄養を吸って腹の中ぎゅうぎゅうに入っているのでしょう。
 このハリガネムシもまた、寄生した昆虫をコントロールするのです。ハリガネムシに寄生された昆虫は、水が大好きなのです。水たまりがあると、そこに飛び込まざるを得ないという衝動に駆られてしまうのです。正気な昆虫だったら水に飛び込む行為が何を意味するかよく分かっています。それは自殺を意味する最も危険な行為ですので、決してそんなことはしません。けれども、ハリガネムシに取り憑かれたやつは、水が大好きダイビング大好きになってしまうのです。そして、飛び込むと、このハリガネムシがすかさずお尻の所からにょろにょろっと這い出て水中に去っていくわけです。そして、何をするかというと、水中で他のハリガネムシと出会って結婚するわけです。そしてハリガネムシは水中でのみ産卵できるのです。水中で産卵すると、どうなるかというと、卵をボウフラの幼虫とか、カゲロウの幼虫とか、トンボのヤゴとかが食べます。食べるとどうするかというと、腹の中で卵から孵るわけですが、決してその幼虫の中では大きくならないのです。絶対に成長していかない。幼虫のまま。そして水中の虫がある時、成虫となって水面から飛び立って、他の大型昆虫に捕食されるのを、じっとその腹の中で待つわけです。めでたくカマキリなりコオロギの腹の中におさまった時が、彼らの活動の始まりになるのです。捕食されたのを察知するわけです。そして、腹の中で栄養を横取りして長いと何十センチにもなるわけです。そして水に飛び込ませる。水に飛び込ませると、またにょろにょろっと這い出て、異性に出会って、結婚して卵を産む、そうして食べられて腹の中に入る、そういうライフサイクルです。みなさん、誰がこんな知恵をハリガネムシに授けたのでしょうか。自分が食べられることで水中から地上に出て、その上また宿主が食べられることで、別の宿主に潜り込み、自分の成長と繁殖に役立てる、なんてすごいことでしょう!本当に知恵のある虫だなと思います。

 このハリガネムシとか、エメラルドゴキブリ蜂だとかを見ると、私たちは気持ち悪い!他の生き物の体を宿にし寄生して生きていこうなんてむごいやつだ!と感じたりするわけですが、でもこの自然のサイクルが生態系を作るわけですね。
 ある研究結果によると、川に生息する川魚のえさの六割は、ハリガネムシの洗脳によって川に飛び込んだ虫だそうです。つい先日ある方から川で釣れたというヤマメをいただき、塩焼きにして食べました。おいしかったです。これもハリガネムシさんのおかげなのです(笑)。
 ある学説によると、すべての生き物の半数は寄生生物だという説もあります。
 どうでしょうかみなさん。「寄生」というと、「エイリアン」みたいに他の生き物の体内に潜り込んで栄養を横取りし、食い尽くして腹の中から飛び出す邪悪な生き物と考えるかもしれません。しかし、実際は違うのです。私たち人間にももちろん、多くの生き物が入り込んで住んでいます。

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 これはデモデクスという、顔ダニと呼ばれる、顔をはじめとする人間の毛穴という毛穴に生息しているウジみたいななりをした、目にも見えない小さな生き物です。97パーセントの大人はこいつを持っています。この生き物は顔を始めとするすべての毛穴に住んでいて、皮脂などを食べてニキビの原因になったりします。彼らは夜になると活動を活発化するそうで、朝顔を洗わないと、彼らの排泄物でいっぱいになった顔で外に出て行くことになります(笑)。
これは赤ちゃんにはいないそうです。でも赤ちゃんにほおずりすると移るそうです。これはちょっと嫌なやつですが、だからといって誰ともほおずりせずに赤ちゃんを育てることはできませんので、こいつらと一緒に生きていくしかないのです。

 もう一つ。これは何かというと、人の腸の内部のイメージ画像です。

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 順先生もお話しされていた、腸内フローラといわれる細菌たちの集合体です。同じ部分の色は同じ種類の細菌というわけですね。こんな感じで腸の壁一面にぎゅうぎゅう詰めになって生息しています。腸の壁が見えないくらいですね。有名なので乳酸菌とかがあります。善玉・悪玉とか書いてありますが、これは人間が勝手につけた悪名です。これらは、人の営みにとって大切な消化吸収の手助けをしているのです。

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 大人の人間の細胞の数は六十兆だといわれていますが、この腸内フローラ、腸の中のお花畑みたいにぎっしり花がいろんな種類で並んでいるように、腸の壁にぎっしり菌が詰まっていることで呼ばれていますが、千種類以上、数にすると千兆個もの腸内細菌で覆われている。人間の細胞よりもよっぽど多い数の腸内細菌が我々の中に住んでいるということですね。
 人によって宿している腸内フローラの種類とか数の割合が違うみたいです。ある人はユリ、ある人はバラ、こっちではチュウーリップ、といった感じです。

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 国によって食材や主要な料理は違います。日本ではお米、味噌、醤油ですが、アメリカだったらパンと肉、ケチャップですかね。個人的にもある人は野菜が好き、私みたいにカレーが好き、お寿司、焼き肉だ、揚げ物だと、好みは分かれます。
案外私たちは腸内フローラによって食べ物の好き嫌いも誘導されて食べているのかもしれません。腸内フローラが揚げ物を好きだったら、宿主に「揚げ物食べろ〜揚げ物食べろ〜」と、カマキリを操るハリガネムシみたいに、私たちは体内の細菌に洗脳されているのかもしれません。腸内フローラの意思によって、私たちは食べたい物も方向づけられているかもしれません。
 人間が一番偉いと思って生きていますが、そうではないのです。こんな風にすべての生き物は互いに互いを必要としているのです。この不完全な地上にあっても、そのようなバランスが取られているわけです。

 腸内フローラみたいのは、「寄生生物」とは言わずに「共生生物」といいます。宿主に益をもたらしてくれるものを共生生物と呼ぶのですが、これも人間が勝手につけた名前です。「寄生」なんて言われたら生き物にとってはいい迷惑だと思いますが、神様が造られた、完全に贖われた世界では、そこに完全なバランスが形成されていて、有害も無害もないのです。罪にまみれた人間が自分の都合で寄生だ共生だと差別しているだけです。

 そして、私たちクリスチャンが、正しい知恵と知識の油そそぎを受け、全被造物のあがないの福音を理解し、宣言する時、そのような神様の御国が完全な形で到来するのです。エデンの園のような、いやもっと素晴らしい世界かもしれませんが、そういう世界になるのです。
 先ほどお読みしたイザヤ書十一章九節には、海の水が地を覆うように、神を知ることが全地を覆うときに、被造物の贖いが成し遂げられるのです。

『わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。』

 そのために、私たちはそれぞれが与えられた使命に立ち、神の御心を知り、神様によって与えられる正義と真実を帯として身につけ、悪魔が世界に置いてきた偽りと欺きを見破って、正しい裁きを宣言していきましょう。神様がここにおられるお一人お一人に期待してくださっています。新城教会は特にその使命に召され、活動する教会でありますが、順先生だけがそういうことを勉強して祈りを実践していても、それこそ限定的な中でしか働きが進んでいくことができないのです。みなさんがそれぞれの立場で、それぞれが神様の知恵をいただいて、それぞれ職場だとか、学校だとか、家庭、社会、いろんな場所で、神様の知恵を宣言していく時に、このような贖いが成し遂げられていくということであります。ですから、ここにいる一人一人が、聖霊の油注ぎ、それも知恵と知識の油注ぎを求めて、お祈りしていきたいと思います。その時に本当に神様が私たちの思いを越えた大いなるすばらしいことを成し遂げてくださるということを確信して前進して参りたいと思います。
 み言葉は以上です。みなさんでご一緒にお祈りしたいと思います。

今お話ししたように、ここにおられるお一人お一人、あなたのいる場所にある問題・痛み・苦しみ、これらは人類が堕落した時に、罪を通して被造物の管理権に悪というひずみが入ってしまった結果として表れているものです。やがて来る神の国にはそういうものはないのです。私たちはこれらの問題に対して、この世界だからしょうがない、不均衡な悪い世の中だからしょうがないと悟ることもできます。でも主が教会に与えられた勝利の為の管理権を使って贖いのために働くこともできます。そして、教会はそれを使うために存在しています。ですから、どうぞお一人お一人、その権威を使っていただきたいと思います。
権利は使えば得になるものですが、使わなければないのと同じで、益を受けることはできません。私たちが使うかどうかは、決断することにかかっています。今みなさんお一人お一人が直面している問題や、問題意識を感じているもの、ある方は病かもしれません。ある方は人間関係の問題かもしれません。ある方はどうしても離れることのできない罪かもしれません。それらのためにも解放を宣言して、今、祈る時を持ちたいと思います。そこから必ず勝利が始まっていくことを信じていきたいと思います。一人一人、示されることは違うと思いますが、短く、個人個人で、神様の前に真実な思いで出て、私の上に、神様、聖霊様を注いでください!と、また剣を与えてください!そしてこの地をあなたの勝利のために勝ち取っていくことができるように、贖いの管理権を使っていくことができるようにと、お祈りの時を持っていきたいと思います。

 一言お祈りさせていただきます。
 ハレルヤ。イエスさま。あなたが私たちに与えてくださったすばらしい権利を、管理者としての役割を、主よ、心から感謝します。ここにおられるお一人お一人が、今週一週間、どうぞ主よ、その役割を心の中にしっかりととどめて、信仰によって勝利を宣言していくことができますように。お一人お一人が今感じておられる様々な必要や、問題や、またいろいろな神の国の到来を妨げている悪しき力を、今週与えられた剣を持って打ち砕いていくことができるように、どうか祝福してください。そして、教会のすべての営みの中に、お一人お一人の置かれた領域の中に、あなたの御国が拡大していくことができるように、全幅の福音が拡大していくことができますように。
すべての栄光をお返しして、イエスさまの御名によってお祈りします。
アーメン。