「2017年あなたは良いもので満たされます!パート13
~いのちを豊かに持つために~」

2017年5月28(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネによる福音書10章10節

『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。みなさんと共に礼拝が守れますことを、本当に感謝しています。安武さんのすばらしいサックス演奏を聴かせていただきましたが、安武玄晃(やすたけもとあき)さんです。来週は安武さんと一緒に東北を日本縦断ミッションで巡ることになっています。是非とも祈っていただきたいと思います。
 ロンさんの音色と同じですよね。ロンさんに師事して、ロンさんの演奏を受け継いでおられます。私の顔を見て、目をつぶって彼の音を聴いたら、ロンさんが浮かんでくるかもしれません。昨日もすばらしいSweet Nightでしたが、多くの方が来てくださいました。スイーツを堪能して、サックスの音色に耳を傾けてくれました。

 また、お祈りいただきまして、先週まで、スペインに行かせていただきましたが、無事に帰ることができました。お祈りを、ひしひしと感じながら働きを終えることができました。今回、ザワメキの開夫妻と一緒に行きましたが、彼は足を怪我して骨折しているのではないかと思いますが、今回、ロシア航空という、最も安い航空会社で行ったのですが、モスクワの乗り換えが大変です。それがスペインよりも、祈りの課題だったのですが、乗り継ぎが三十分しかありませんでしたが乗り継ぎ出来ました。彼は途中で「順先生、先に行ってくれ。」と言いました。やっぱり安く行くにはリスクと努力が必要なわけです。今日午後二時から、報告会をさせていただきますので、是非お越し頂きたいと思います。

 到着して早速、一人の方が私たちを迎えてくれました。彼を知っていますか?真ん中にいるのは、この教会の出身者の山口基頼さんです。

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 彼はスペインの日本大使館の外交官です。私はびっくりしました。普通、出迎えは、空港の外で迎えるでしょう。しかし飛行機を下りてすぐに彼がいたので、わかりませんでした。彼は外交官なので、中まで入れるのです。今回は、チーム新城で奉仕をさせていただきました。本当に神様の働きって、不思議だなぁと思いました。

 今から二十五年以上前になるのですが、新城の文化の中心地、新城ユニーがあったのですが、そこでチラシ配布をしていたら、二人の日本人じゃない顔色の方々がトラクトを受け取ってくれました。誰かなぁと思ったら、クリスマスの集会にその二人が来てくれました。それはペルー人の方でした。私はペルーってどこにあるのか、本当にバカですね、知らなくて、アフリカにあるのかなと思っていました。しかし南米でした。ちょうど外国人労働者の方々が日本に入って来た走りの頃で、この地域の工場などに隠れるように仕事をしていることに気づきました。
 ちょうどクリスマスの頃で、教会にお誘いして、訪問部会を作って、送迎をして一生懸命がんばりました。特に今日司会をして下さった、雅也先生が若い頃で、本当にがんばってくれました。
 その中からフェルナンドが来て、今や牧師になりました。そして東栄チキンで働いていたホルヘが、スペインで牧師をしています。

 今回、最初の仕事が、TBNというテレビ局での二時間番組でした。それがいきなり到着した翌日にありました。少し助走をつけてからやりたかったのですが、その仕事がありました。

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 ザワメキも歌いました。TBNの放送局は結構立派で、ヨーロッパ全土にライブで流れるのです。

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 これを見てください。ホルヘ、フェルナンド、私、開、典子さん、チーム新城です。

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二時間、CMなしで全てやれというのです。えっ!?という感じでした。よくぞ信用してやらせてくれたと思いますが、二時間番組で、それもライブです。途中で視聴者から電話がかかって来るのです。良い内容だと、電話がじゃんじゃん来ます。あまり感動しないと、電話はかかってこないのです。
 なぜ、私たちに番組を任せてくれたかというと、以前に結構電話がかかって来たからです。今回も、新城教会の名誉にもかけて、もちろん主の御名にかけてですが、がんばりました。

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 私もメッセージをさせていただきましたが、ザワメキは二十分間、賛美をさせていただきました。不思議な導きでして、なかなか好評でした。結構、電話がいろんな所からかかってきて、ヨーロッパ中から、イランからもかかってきたとか、アフリカからもかかって来たそうです。いろんな祈りのリクエストがあって、結構評判が良かったです。みなさんの祈りによって、守られました。
 神様は意外な方法を使うと思います。まさかこういう形でヨーロッパ全土、アフリカまで福音を伝えることができるなんて、夢にも思っていませんでした。二十年前に、東栄町にホルヘを迎えに行った時、これがやがてスペインにつながるなんて、誰が思うでしょうか。絶対につながらないと思います。でも、神様の働きは、そういうものだと思います。

 今回、霊的戦いセミナーがありまして、これもホルヘ夫妻が計画をしました。ヨーロッパ中に案内して、大勢の人が集まりました。それも多人種の方々が来られました。本当にすばらしいセミナーになりました。
 講師は、私たちと共に、この方はユダヤ人の牧師です。

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 ユダヤ人というか、イスラエル人です。彼はクリスチャンですから、ユダヤ人にはなれないのです。ユダヤ人になるためには、国のインタビューに、「私はイエスを信じません!」と宣言しないといけないからです。だからイスラエル国籍は取れても、ユダヤ人にはなれないと言っていました。彼はベエル・シェバに住んでいる人です。彼も私たちと一緒に奉仕をしたのですが、ザワメキに感動しました。彼らは全てスペイン語で歌いました。大したもんだと思います。私なんか舌がもつれて、ついて行けませんが、開先生のスペイン語賛美のあんちょこを見たら、ある部分は漢字で書いてありました。すごいなと思いました。
 スペイン系の教会をイスラエルで牧会しているそうです。今、イスラエルには、スペイン語系の人たちが六万人いるそうです。ベエル・シェバには、一万五千人いるそうです。今度はざわめきをヘブル語に直して歌うと言っていました。どんどん広がる感じです。神様の働きは作為的にではなく扉が開くのです。そんな感じがしました。セミナーで話しましたが、みんな、私の話に熱心にメモを取って聞いてくださり、感動でした。

 午後からまたお話しさせていただきますが、スペイン人の教会でも奉仕をさせていただきました。この教会に聖霊が注がれて、霊的戦いが始まり、一時はどちらに向かうのか心配でしたが、このように主が大きな勝利につなげてくださっていることを本当に感謝します。

 今回、いろんな国から来られたのですが、特にイタリアの方が多く来られました。イタリアからわざわざツアーで来てくれて、私たちのセミナーに出てくれたのですが、スペイン語とイタリア語って、我々が聞くと同じかと思うのですが、違うらしくて、私のメッセージを、今ではフェイスブックで中継ができるらしいのですが、イタリア語で通訳をしていました。それでイタリアのほうでも話を聞いていて、今度はイタリアで霊的戦いセミナーをやってください!と頼まれました。どうなるか分かりませんが、すべては主の御手の中にあります。本当にこのように、主のために奉仕出来ることは嬉しいです。
 でも私たちが心置きなく主に仕えていくためには、やはり、クリスチャンが祝福されないと駄目ですよね。
 特にクリスチャン・ファミリーが祝福されないとなかなか働きは進んで行きません。もしも私が毛生え薬を売っても、絶対に売れないと思います。「毛生え薬、よく効きますよ。どうぞ。」と言っても、私とか伊庭兄弟が売ったって、たぶん無理だと思います。「あんたら自分で使って生えたら来てよ。」と言われてしまうと思います。同じだと思います。クリスチャンのファミリーが祝福されて元気なら、働きは前進します。
 新城教会に来られている方々、総じて言えば、いや〜本当に子どもたちも祝福されているなぁと思います。

 昨日、ザ・コールで司会をしてくれたのは、梶村文平君でした。彼は今、声優の勉強をしているので、本当にうまかったです。目をつぶって聞いていると、ガンダムのナレーションのような感じで、かっこいいなぁ!と思いました。いろんなタラントがあるもんだなぁと思います。昨日、安武さんにも感動しましたが、文ちゃんにも感動しました。そこらを走り回っていた子どもたちが、こんなにも成長するのか!っていう感じでした。クリスチャンの・ファミリーが幸せになることは大変重要だと思います。

 今日読んだ聖書の箇所、イエス様が来てくださったのは、『羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』とあります。羊というのは私たちのことを指しています。私たちがいのちを得、それを豊かに持つことが、イエス様が来てくださった目的でもあります。いのちを豊かに持つ、「クリスチャン・ファミリーが幸せになる秘訣」について、考えていきたいと思います。

 まずは、超不幸なクリスチャン・ファミリーを二つほど紹介したいと思います。

 一つめは、よく話している第二列王記四章に出て来る、預言者の家族です。あの家族は、現代ならば、クリスチャンホームに置き換えることができると思います。真剣に主に仕えていた家族でしたが、いい事なかったです。第二列王記四章一節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

 ご主人は預言者で、主に真剣に仕えていたのです。家族全体で主に仕えていたこの家庭に何が起こったのでしょうか。ご主人が死んでしまい、そればかりか借金は残るは、なんの罪もない二人の子どもたちが借金取りから追われて、奴隷になる寸前でした。
 こんな記事を読みますと、ちょっと不安になります。神様に真剣に仕えていても、このような例もあると。しかし、この家族のところにエリシャが来て、油を増やす奇蹟を行いました。その結果、何が起こったのか。
 第二列王記四章七節、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 その結果、油を売って、負債がなくなりました。負債がなくなったということは、二度と借金取りは来ないのです。残った油で、その家族全員、子どもたちも含めて幸せに暮らしたのです。
 油とは、新約聖書では、聖霊ご自身に置き換えることができます。私たちが幸せに暮らす条件は、家族全員が聖霊に満ち溢れて、聖霊に満たされて生活することです。それが大事だということを、ここから学ぶことが出来ます。

 聖霊に満たされるとは、日本の教会ではあまり強調されないのですが、本当に大事なことです。聖霊に満たされるとは、聖霊の支配を表します。人間には自由意志があり、自分で生きることができるのですが、聖霊の支配が及ぶと、知らないうちに導かれます。そうすると結果がいいわけです。

 昔、訪問部会というのがあって、外国人の方々に奉仕をさせていただいた時期がありました。あれは聖霊様の支配だったと思います。その時は、ちょっぴり大変ではあったけれど、それが世界宣教につながったわけです。
 今では、多くの外国人の方々が日本にはおられますが、当時はそんなに多くおられなかった時代でした。しかし、主がこの働きをしなさい!と言われて、忠実に働いた結果、大きな働きにつながっていく。それは聖霊の支配です。
 私たちが幸せに生きるためには、日々、聖霊に満たされることです。聖霊様の支配の中に生きる。油注ぎを求めるとは、家族全体が幸せに生きる秘訣です。最も不幸な家族に最高の祝福が来たのが油が増えた結果であることは、重要なポイントだと思います。
 この箇所からは何度も話しているので、過去のメッセージとも合わせて、理解していただきたいと思います。

 もう一つ、不幸のどん底のクリスチャン・ファミリーは、先々週も語らせていただきました、ヨブの家族です。ヨブの家族は、初めは最高に祝福された家族でした。
 ヨブ記一章一節〜五節を読んでみますと、

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。』

 こんな記事があります。彼は神から祝福されていて、この地域で一番の富豪だったのです。お金の流通がなかった時代でしたから、財産というと動物でした。彼は、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、そして多くの使用人たち、当時は奴隷たちが、周りに侍っていて、子どもたちは十人いました。毎日のように宴会をやっていたみたいです。
 特に、「それぞれ自分の日に祝宴を開いて」とありますが、誕生会です。誕生パーティーが、すでに行われていました。日本では誕生日を祝う風習は、十六世紀までありませんでした。どこから入って来たかというと、スペインから入って来ました。信長が誕生日を祝う習慣を受け入れて、祝うようになったのですが、ヨブ記は、何千年前のストーリーか分かりませんが、すでにヨブの家族では、どこもやっていないような、盛大な誕生会を催していたのです。本当に幸せに毎日を暮らしていたのです。
 しかしある日突然、すべてを失う結果となったことを先々週も、お話しさせていただきました。

 でも、本当に不条理なのは、ヨブは全焼の生け贄を子どもたちの分までも捧げていたのにも関わらず、事件が起こったことです。全焼の生け贄とは神との和解を意味します。
 「もしかしたら、うちの息子や娘たちは、心の中で神を呪ったかもしれない。」と、罪を犯したわけではないですが、可能性をも含めて、全焼の生け贄を捧げていたのです。ある意味、完璧です。相当、神の前には正しい人であったと言えます。
 心の中のことまでさらけ出せと言われたら、誰も立つことは出来ません。心の中まで聖い人って、ヨブくらいのもんです。自分の息子たちの分まで、真剣に神に取り組んでいた、そんな家族に突如として、大問題が起こり、一日のうちに、財産も、使用人たちも、息子・娘たちも、全員死んだのですから、信じられないです。その上、ヨブも病気になりました。こんな不幸なクリスチャン・ファミリーってありますか!という感じです。冗談じゃないぞ!という感じです。

 しかし、聖書のすばらしいところは、それで終わっていないことです。長いプロセスを経て、ヨブが回復していくことが述べられているわけです。また、災いの原因についても、ちゃんと教えている所に、聖書の素晴らしさがあります。

 私は明日から、霊的戦い専門課程がありまして、忙しいなぁという感じですが、隙間の時間をうまく使わないと準備が出来ないので、飛行機の中とかでいろんな本を読んだのですが、今回、ヨブ記をちょっと違った視点で学んで見ました。興味深い本を読みました。読んだことがある人もいるかもしれませんが、「なぜ私だけが苦しむのか」という本です。「現代のヨブ記」とも言われます。クシュナーという人が書いて、かつてアメリカで大ベストセラーになりました。
 彼は、米国在住のユダヤ教のラビです。ラビとは、旧約聖書の専門家です。人々に聖書を教える人でもあるわけです。
 しかし、彼の幼い息子がプロゲリアという、どんどん歳を取ってしまう、子どもなのに老人になってしまう病気になりました。これは遺伝子の病気です。目の前でどかどん衰えて、死んでいくわけです。神に仕えているのに、なぜ、こんな問題が起きるのか!と、彼は悩むわけです。
 普通ならどうでしょうか。一生懸命神様に仕えていて、こういう問題が起こったら、神なんか呪ってやる!という心境になりかねません。

 現に、ヨブの奧さんはそういう心境になったみたいです。「あんた、なんですか!このざまは!神を呪って死んじまえ!」なんて言っています。それゆえにヨブの妻は、世界の悪妻の一人になったのですが、気持ちは分からないでもないです。クシュナーもヨブと同じような体験をしたのです。

 でも彼が偉いところは、神を呪うのではなくて、ユダヤ教の教師として、ヨブ記を今まで何度も研究していたというのですが、自分がヨブと同じような体験をして、もう一度詳しく、ヨブ記を学び直したというわけです。それで、その中に書かれている事を自分の体験も合わせながら、読み解いたのです。幼い息子は死んでしまったわけですが、その後、その体験と共に本を著したら、多くの人たちが読んで慰められ、ベストセラーになったわけです。
 興味があったら読んでみてもいいかもしれませんが、ある意味での結論というか、私たちが疑問に思っている答えはあります。しかし、完璧ではないなと思ったのですが、ヨブ記は読んでいきますと、初めは不幸なことから始まるのですが、やがて神が答えます。それが三十八章から四十一章くらいにかけて、神の答えが与えられるわけです。ヨブ記三十八章一節〜七節(リビング・バイブル)、

『その時、神様はつむじ風の中からヨブに答えました。「なぜおまえは、わたしの摂理を否定しようとして、無知をさらけ出すのか。さあ、遠慮なくかかってこい。これから幾つかの質問をするから、きっぱり答えてみろ。わたしが地の土台をすえた時、おまえはどこにいたか。わかるなら言ってみろ。おまえは地の寸法がどのようにして決められ、だれがその調査にあたったかを知っているか。その土台を支えるものが何か、だれが隅の親石をすえたかを知っているか。その時、明け方の星は声を合わせて歌い、御使いたちは歓声をあげた。』

 ヨブは「私は正しく歩んできたじゃないか。神様の前に全焼の生け贄を捧げ、正しく生きてきた。しかしこの不条理はなんだ!神の義はどこにあるんだ!」という鼻息でした。
 しかし、二週間前にも話しましたが、神は、ちょっと違った視点で答えられるわけです。まず言われたのは、「なぜおまえは、わたしの摂理を否定しようとしているのか。」と言っているのです。「わたしの摂理」とは、自然界の法則について語られているのです。神様は、自然界の法則をも創造されたことを述べているのです。

 案外、神の被造物とは、創造後、そのまま放置されているように感じるのですが、全宇宙、生態系全ては自動運転しています。それは、創造の原点に、神は自然界の法則と呼ばれるものを、最初に置かれたのです。
 ヨブに、自然界の摂理をよく知っているか?と問いかけていると、前にもお話しさせていただきました。

 クシュナーが語っているのは、ヨブ記には三つの命題があるというのです。三つの命題とは、簡単に言うと「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という三つだというのです。
 そして、何もヨブに問題がない時には、「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という、三つがすべて連立するのですが、今回のようにヨブの家に大変な問題が起こると、「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という三つの命題のうち、一つを取り下げなければならなくなるというのです。このうちのどれか一つを取り下げなければ、ヨブの状況は説明できないというのです。

 つまり、神が正しくて全能ならば、苦しんでいるヨブは悪人で罰を受けていることになるわけです。
 案外、私たちにはこういう考えがあります。いろんな問題が起こると、私の罪のゆえに罰を受けているのかな?と考えやすいです。
 また、神は全能でヨブが正しいならば、神は悪だということになるのです。神は全能で、すべてを支配している。しかしヨブも正しいとなると、神は悪いことをするのか!となるわけです。
 そしてもう一つは、神は正しくて、ヨブも正しいならば、「神は全能ではない」ということになるというわけです。

 なかなか深い考察があるのですが、それでクシュナーは、この三つの命題の内、ヨブ記の著者は何を取り下げているのかというと、初めは、え?というような結論ですが、「神は全能である」という命題を取り下げているというのです。
 「神は正しい。ヨブは正しい。」とは、もちろん神は究極的には全能だけれども、ヨブ記においては、神の全能さが取り下げられていると結論づけています。

 それはどういう意味かというと、「世の苦しみは不完全な世の中にあっては避けられないものであると理解すれば、問いも変わってくると著者は述べる。聖書が述べる神の創造とは、混沌に秩序を与えることであり、今なおその作業は継続中で、世界に混沌が未だにある以上、混沌の部分の中にある不条理な苦しみが理由もなく今存在しているのだ。」と述べています。

 ある意味でこれ、当たりだと思います。先ほど神が自然界の法則を造られたと語りましたが、聖書のテーマは、天地創造から、新しい天と新しい地へのプロセスを述べていて、私たちは新しい天と新しい地に向かって、進んでいるわけです。しかし現在の世の中とは、混沌、カオス、無秩序から始まり、秩序が訪れる主が帰って来られる日まで続くのです。
 今私たちは混沌さの中に生きているというわけです。それは言い換えれば、自然界の法則みたいなものです。
 神がすべて、一から十まで支配しているというのではなくて、「混沌さの中、言い換えれば、自然界の法則の中で、様々な不条理な問題は起きるんだ。だから問題は神が起こしているのではない。」と彼は主張しているのです。
 「世の苦しみは不完全な世の中にあっては避けられないものであると考えれば問いが変わる。」と彼はいいます。ある意味、それは事実であると思います。

 案外、私たちは、いろんな問題に直面すると、「なぜ私は、こんなふうになるの!神様にこんなに仕えているのに!」という心境になりやすいけれど、様々な事が起きる原因に、やがて来たるべき、「新しい天と新しい地の創造までは、様々な不条理も含まれている」という理解を持つ必要があるんじゃないかと思うわけです。

 だから神様は最初に、この宇宙と自然界の神秘について語られたと思われます。だから私たちが、すべてを神様のせいにしたり、すべてを悪魔のせいにすることは出来ない、原因がどちらかにあるとは言えないのです。今この世自体が、混沌とした世であり、私たちが、世界全体の中で自分をどの位置に置くかが、重要な視点だと教えられました。
 時々、人生の中には、不条理な事も起こってくるけれど、やがて主が帰って来られるまでは、混沌さの中を生き抜いていかなければなりません。理解できないような事もある、という前提も押さえておかないといけない条件だと思います。

 次に神が語られたのが、動物の生態でした。ヨブは動物を多く持っていました。しかし、彼にとって動物たちはどういう位置付けであったかといったら、たぶん自分の財産としか、考えていなかったと思います。
 しかし神様が語りかけられたのは、動物一匹にも、神は目を注いでいるということを、ヨブに語ったわけです。この二つの話を神から聞いた時に、ヨブは口をつぐむのです。彼は、はっとさせられるわけです。「私はもう、口答えできません。」と言うわけです。
 ヨブ記四十章一節〜八節(リビング・バイブル)、

『神様はさらに続けました。「まだ全能者と口論したいのか。 それとも降参するか。 神のあらを捜す者よ、答えてみよ。」ヨブは神様に答えました。「私は少しの値打もない者です。 どうして答えることができましょう。 口に手をあてて黙り込むだけです。私はしゃべりすぎました。」神様は再びつむじ風の中から、ヨブに語りかけました。「さあ、男らしく立ち上がり、戦いに備えてかぶとの緒をしめろ。 わたしの質問に、答えてみろ。おまえは自分の正しさを主張しようとして、わたしのさばきを無効にし、わたしを罪人呼ばわりするのか。』

 こんなふうに神は語られたわけです。ヨブは神から自然界の法則について語られて、続いて、動物の世界にまで、神は目を注いで向いることを語られました。「おまえはあまりにも人間中心主義的すぎる!」と指摘されるわけです。その時、彼は、神の前に口をつぐむわけです。
 私たちも、地球、大自然、大宇宙の中に住んでいて、すべてが人間を中心に回っているような気分で生きていますが、そうではない!と語っています。その後、ヨブは回復につながっていくわけです。
 イエス様はこんな事を語られました。マタイ十章二十九節〜三十一節、

『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』

 イエス様は一羽の雀さえも、神の許しなしには、地に落ちないと言われたのです。ということは神様は、私たちにだけ目を留めているわけではなくて、その辺に飛んでいる、雀にも目を留めておられるというのです。神様の許しがないと雀も落ちないというのです。時々、雨の日などに、雀が落ちて死んでいることがあります。それも神の許しの中にあるというのです。
 そして、『あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』と言われました。雀よりも、人間のほうがすぐれているということです。でも、「たくさん」って、どれだけの雀なのか分かりません。雀百羽なのか、一万羽なのか、十万羽くらいの雀を持ってくれば、人間とイコールになるかもしれないです。
 ということは、神様にとっては、「雀の生き死にも、神の体験の一つ」というわけです。

 実は今回、もう一冊の本を読みました。「動物と共に生きる。全ての被造物に告ぐ。」という本ですが、私が一番弱いところが、動物に対してあまり関心がないということです。昭和二十六年生まれで、動物を見ると、うまいか、まずいか、食えるか、食えないか、それで判断してしまう悲しいところがあったのですが、今回、私はちょっと悔い改めました。
 ヨブは多くの動物を持っていたけれど、それらは自分の財産の一部としか、考えていなかったんじゃないかと思いました。動物を殺して、全焼の生け贄なんかにしていたけれど、自分の家族さえ守られればそれでいいと、その一念しか持ち合わせてなかったんじゃないかと思いました。
 しかし神は、すべての被造物を愛していて、近頃語っていますが、最初に人間を救い、被造物全体を人の足下において管理させ、やがて被造物全体の救いにつなげたいと願っておられるのです。新しい天と新しい地が創造される時には、生けるものすべてが光輝く、そんな日が来るんだ!と教えているわけです。

 ヨブに対する神の答えは、答えになってないように見えますが、人間中心主義を取り下げると、まさに、これは完璧な答えなのです。大宇宙のこと、自然のこと、そして、動物たちのことを語って、神はそんな所にも目を向けているんだぞ!おまえはあまりにも、自己中心的すぎるんじゃないか!と指摘されたわけです。

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 この世界に命あるものって、どのくらいあるのかと調べてみたのですが、現在知られているといっても、一九九二年の統計なので、ちょっと古いですが、バイ菌たちから植物、動物たち、全部合わせると、「百四十一万三千種類」だというのです。
 一番多いのは、昆虫類みたいです。七十五万一千種類の昆虫たち。
 動物たちは二十八万一千種類。この中に人間も含まれているわけです。人間を一番大事に神は造られたように思いますが、神は昆虫に興味があり、一番たくさん造っているみたいです。すべての生態系の中に人間もおかれているという、謙虚さを持て!ということを教えているのではないかと思います。

 四十章を先ほど読みましたが、ヨブが口をつむった後、四十章七節に、

『さあ、男らしく立ち上がり、戦いに備えてかぶとの緒をしめろ。』

と神はヨブに告げています。「戦いに備えろ!」と言われているわけです。

 続く、四十一章に、何がでてくるかと言ったら、「レビヤタン」という生物が出てきます。動物たちのカテゴリーの中で述べられているのですが、四十一章全体で、レビヤタンについて述べられていて、四十一章三十三節、三十四節を読みますと、こんなふうになっています。レビヤタンについて、ヨブ記四十一章三十三節〜三十四節(リビング・バイブル)、

『これほど恐れを知らぬものは地上にいない。それは、獣の帝王で、獣の中で一番いばっている。」』

 普通では歯が立たない動物がいると告げているわけです。その動物との戦いに備えろ!とヨブに告げて、その後、回復が起こっているのです。

 前回も話しましたが、ヨブ記の一番重要な点は、最初の一章、二章にあると思います。なぜならば、ヨブに災いを与えたのは他でもない、悪魔だったわけです。サタンだったわけです。サタンが神の前から出て行った時、全ての持ち物は奪われ、大変なことが起こったわけです。ヨブの最も大きな悲劇は、災いをもたらした真犯人について気づかなかったことだと話したのですが、実は、神様は四十一章で、レビヤタン、サタンとの戦いに備えるように、ヨブに告げているわけです。きっと彼は、そのことを意識したと思います。

 その後、何が起こったかと言ったら、彼は失ったものを二倍にして、取り戻しています。ヨブ記四十二章十節、

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。』

 私たちの人生の中に起こってくることは、自然界の法則の中で、致し方ない、どうにもならないことも確実にあるのです。しかし、そんな背後に、目に見えない敵がいる!ということを、しっかり理解する時に、不幸のどん底にあるような家族さえも回復します!ということを、ヨブ記はメッセージとして、私たちに投げかけているのではないかと思います。
 四十一章全体でレビヤタンという生物との戦いについて教えているわけです。このレビヤタンというのは、サタンです。この事を告げられて戦いに備えた時に、ヨブが回復したということは、見落とせない点ではないかと思います。

 「なぜ私だけ苦しむのか」という本も、その点に関しては、全く取り扱われていません。原因について取り扱っていません。私たちは、ヨブ記の中から霊的戦いについて知らなければいけません。

 旧約時代の悲しさは、神の前に一生懸命仕えていたヨブのような正しい人でさえ、悪魔に訴えられて、それをキャンセルする方法が無かったことでした。地上では宴会三昧。しかし目に見えない世界においては、同時刻に、「ヨブを苦しめる法廷」が開かれていたのです。天で許可が出された結果、ヨブの幸せは、絶頂からどん底に落ちたのです。天での法廷闘争に負けた事に、不幸の原因があるわけです。

 しかし、今、私たち、イエス様の十字架と復活以後のクリスチャンには、どのような立場が与えられているのかというと、エペソ二章四節〜六節、

『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 ヨブの時代、天の法廷に出入りすることができなかったのが、今私たちはイエス様の十字架と復活の勝利によって、ポジションが回復されて、天の法廷に出廷して、サタンの訴えに反論して、訴えを取り下げることができるわけです。

 LINEの絵文字はあまり得意じゃなかったのですが、この頃、いろいろあって、「了解!」とか、声が出るようなのとかがあます。スタンプというのでしょうか。こんなスタンプがありました。

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 「異議あり!」という、裁判ものというのがありました。天の法廷で悪魔が私たちを訴えても「異議あり!」と、異議を申し立てることができるのです。
 今週は、天の法廷で、「異議あり!」と異議を申し立てましょう。そうするなら、「勝訴!」となるわけです。

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 これが一番、私たちが人生の中で幸せに生きる秘訣ではないかと思います。目に見えない世界での戦いを知らないと、自然界の法則くらいで話は終わります。霊的戦いがあることが分かったら、本当に勝利することができるわけです。

 最後に一つのみ言葉を読みたいと思いますが、出エジプト記二十二章七節、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

 出エジプト記の二十二章とは、盗んではならないという十戒の細則です。自分の持ち物を隣人に預けて、盗まれた。それで、誰が盗んだか?と盗人を特定したら、泥棒から二倍になって返ってくる。二倍返しなのです。ヨブ記と共通します。
 出エジプト記の泥棒は、ただの泥棒です。しかし新約聖書になって、泥棒とは誰かと言いますと、盗み、殺し、滅ぼすものとは、「悪魔」のことです。私たちの人生の良いものを盗んでいたのは、「おまえだったのか!」と、悪魔が真犯人だと特定して、天の法廷で、「異議あり!」と、イエス様の十字架の勝利を掲げて宣言するならば、勝訴できる。そして、奪われたものは二倍になって戻ってきますよ!という法則を知るならば、家族全員が幸せに生きることができるのではないでしょうか。
 その姿を見て、多くの人たちが主を知るようになると信じています。

 今日ここにおられる一人一人が聖霊に満たされ、もう一つ、天の法廷で勝利する者になることができたら、幸せな家族が形成されると信じます。
 最後にみなさんで、祈りの時を持ちたいと思います。今から聖餐式を持ちたいと思います。聖餐式とは、私たちが天の法廷に出入りできるための道を開いてくださったイエス様の十字架を覚えるときです。死だけでなくて、勝利は、復活にあるのです。そのことを心に刻みながら、聖餐式に預かりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。心から感謝します。私たちは今、天の法廷に出入りして、異議あり!と唱えることができることを、心から感謝をいたします。今から聖餐式を行います。被造物のただ中で、私たちは被造物の管理人として、福音を、すべての造られたものに宣言することができますよう。今日この時を心から感謝します。人生の中に、新しい扉を開いてください。イエス様の御名によって祝福して祈ります。アーメン。