「—2017年あなたは良いもので満たされます— パート15
 〜あなたに良い知らせがあります〜

2017年6月25(日)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書61章1節〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。おひさしぶりです。お会い出来て、嬉しいです。「いずくまでもゆかん」という賛美を聞きましたが、私たちはどこまでも、イエスさまについて行くという意味です。その決意を新たにするのが礼拝でもあります。

 みなさんに祈っていただき、日本縦断リバイバルミッション、今回は、東北を巡回させていただきました。熱い祈りに支えられ、感謝しています。
 全日本リバイバルミッションの働きは、何度も話していますが、一九七〇年にこの二人から始まりました。

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 滝元明、田中政男の二人は伝道者で、日本全国を巡回伝道をしていました。しかし近年、いろいろ社会に変化があって、なかなか伝道集会を持つのが難しい時代となりました。特に、ウィークデーの集会が難しいです。伝道集会となりますと、講師と共に、音楽ゲストがいないと寂しいですから、教会でそれらを計画・実行するのは結構、経済的にも大変で、力もいるのです。しかし全日本リバイバルミッションでは、先の二人の遺志も受け継ぎながら、日本の少し弱ってきた教会を励まし、力づけるために巡回伝道をおこなっています。毎回、すばらしい集会になっています。みなさんを一緒にお連れしたいくらいです。

 実はキリスト教界では、現在、二〇三〇年問題というのが論議されています。それはどういうことかと言いますと、現在、日本に八千くらいの教会がありますが、二〇三〇年になると、統計上、教会数が約半分の四千位になってしまうというのです。東北の田舎の教会などに行きますと、なんとなくそんな雰囲気がします。ある教会に行ったら、教会員の方々がご高齢で十名くらいでした。次の教会に行ったら、また同じようでした。十年もしたら誰もいなくなっちゃうんじゃないかという気がしました。しかし今回集会を開いたら、大勢の方々が教会に集まりました。私は九日から十四日まで担当させていただいたのですが、安武さんとコンビを組んでやりました。

 私たちは、ゴスペルを伝えるわけですが、ゴスペルとは、ご存じのように、福音と訳すことができます。安武さんの音楽はスムース・ジャズというジャンルのゴスペル音楽です。ゴスペルが奏でられると、結構、教会に人が溢れるのです。ゴスペル・ブームもありますし、教会員が十名くらいの教会に、新聞広告や新聞記事で、多くの方が集まりゴスペルに耳を傾けてくれました。福音とは、良い知らせという意味です。

 近ごろ聞く知らせって、あまり良い知らせはないですよね。私は地方に行って、「新城市から来ました。」と言っても、だれも知らないのですが、今回は、「新城市から来ました。」と言ったら、全員知っていました。「あっ!車が空から降って来た町ですよね!」と言いました。いいような、悪いような、良い知らせを伝えに来たのに、悪い知らせの町から来たの?という感じでした。
 一緒に奉仕をした安武さんはどこから来たかというと、九州の小郡市です。小郡市からも、大変悪いニュースが全国に流れました。警察官の主人が二人の子どもと奧さん、三人を殺したという悪い知らせです。それも、安武さんの隣というか、道を挟んだマンションだといいました。
 なんと今回、日本の二大悪い知らせの町から来たということで、なんとなく微妙な感じでした。しかし、最も悪い知らせが全国に届いた町から、良い知らせを宣言します!と、メッセージをさせていただきました。日本で近ごろ聞く知らせは、良い知らせよりも、悪い知らせがずっと多いと思います。

 今朝も七時頃、大きめの地震がありました。朝の地震に気づかなかった人たち、スイッチオン!おられますね!この付近は、震度三くらいだったと思いますが、震源地では、震度五強です。いつ何時起きるか分からないです。
 今回、東北地方を回らせていただいて、やはり地震の傷跡がまだまだ深いと感じました。不用心に地震のことは語れない感じです。原子力発電所が壊れて、今なお、日本は様々な試練の中にあります。人々に届いている知らせは悪い知らせばかりです。
 しかし聖書が私たちに知らせたいメッセージは、決して悪い知らせではなくて、良い知らせです。

 先ほど、「ゴスペル」が福音であり、良い知らせであるとお話ししましたが、良い知らせと訳されている言葉は、イザヤ書六十一章から来ています。
 「貧しい者に良い知らせを伝え」と記されていますが、良い知らせが、福音と訳され、また、ゴスペルと訳されている言葉です。
 良い知らせとは何かに関して、イザヤ書六十一章一節から三節は、様々な方面から情報提供しているのですが、聖書の前提は、私たちを造ってくださった神がおられる、創造主がおられることを前提としています。はじめに、神が天と地を創造されたのです。

 前回もお話しさせていただきましたが、神様は、地球にどれだけ多くの生物を創造されたのか分からないくらい、多くの生物を創造されました。そして天も、地も、見えるものも、見えないものも、王座も、主権も、何もかも創造されたと聖書は告げています。そんなすばらしい神を、私たちは信じて行動できることはすばらしいです。

 今の時代、神を否定できない時代になりました。なぜなら、神がおられるということが、科学的に証明されたような時代であるからです。「科学的」という言葉にも、いろいろありますから、注意して使わなければいけないのですが、今日、教会に入ったら、ここはうまく設計しましたね!と言われると思います。同じように、人間の設計図が発見されたからです。

 実はこの教会堂が完成したのは一九八〇年です。今年で三十七年目です。普通、三十七年も経ったら、家はつかいものにならないと思います。しかしどうですか。この会堂、うまく設計したから、三十七年経っても新鮮さがあるでしょう。音響もいいし、何もかも、うまくできたと思います。当時、新城教会には建築委員会というのがありまして、私もそのメンバーの一人でした。時間をかけて、錬りに練ってこのような設計ができました。

 今日は教会員の皆さま方に「リバイバル感謝報告書」をお渡ししたのですが、一年間の出来事をまとめて、報告書としてお渡ししているのですが、今回、表紙にも力を入れて、アルバム風に作りました。なぜなら、この報告書を税務署や銀行もほしいと言うので、ぱっと見て活動のすべてが分かるように編集しました。一年間、よくもいろんなことをやったと感心します。今日まで守られ、心から感謝します。

 去年度、二〇一六年は、新城教会にとって、ある意味、大きな切り替えの年であったと思います。なぜなら、教会の創立者、私の両親が相次いで亡くなり、創始者たちが誰もいなくなったということで、新しい世代に切り替わったのが二〇一六年度でした。歴史をふりかえっても、神が私たちと共にいてくださったのが分かります。
 三十七年前に会堂を建てた時の図面が今でも残っています。万が一、地震で会堂が倒れても、図面が残っていますから、もう一度同じものを建て直すことも可能です。
 同じように、神様は人間を造った時の図面を持っておられます。人間を創造した時の図面が見つかったのです。どこで見つかったかというと、聖書も見つかったのが、洞窟の中で巻物として見つかったのですが、人間の設計図も洞窟の中で巻物として見つかったわけです。

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 細胞という洞窟の中に、巻物としてDNAが入っていたのです。はじめの人間、アダムとエバにも、DNAがあったのです。これは情報の宝庫です。DNAは、たった四つの物質でできていると言われます。A,G,C,Tと呼ばれる、四つの塩基です。それが三十億個くらい並んでいて、この情報を元にして人間の体は出来ているし、将来、起こるであろう事柄もこの中に含まれているというのですから、ある意味で怖いです。

 私たちは生まれた時に、一生分のすべての情報を抱えながら生きているのです。病気なんかも、このDNAの狂いから始まると言われます。本当に、いつ何時、時限爆弾のスイッチが入って、体が壊れるのか分からない恐怖があります。しかし、私たちの情報を最初に組んでくださった神様がおられるのです。
 最初の人類、アダムとエバは不死の存在でした。永遠に生きる存在でした。永遠に生きる存在とは、DNA情報に何一つ狂いがなかったと言えます。何の欠陥もない、完璧なデータを、初めの人間アダムとエバに神は与えて、人類を始められたということです。
 以来、人類はどれだけ発生したか分かりませんが、ファイルのコピーの連続です。コピーにコピーを重ねて何百億、何千億人という人類が生まれたのです。やはりコピーをすると、どこかにエラーが出るものです。さらに近ごろでは、原子力発電所なんかが壊れて、放射線が飛び出て、放射線は微少の弾丸みたいなものですから、DNA情報の鎖を打ち抜いて壊すらしいです。だから遺伝子情報が壊れて、突然、問題が起きるらしいです。これは防ぎようがないですから、目に見えない世界も、悪いものばかりという感じです。
 このような時代にあって、良い知らせなんて、どこにあるの?という時代です。でも、最初に情報を組んでくださった神がおられるならば、その方と友達になったら、最高じゃないですか。はじめの人間アダムとエバの遺伝子を構成された方ですから、多少狂った情報だって、絶対に、直すことができるずです。今日、初めて教会に来られた方がおられたら、キリスト教を宗教と考えないでください。真の神と出会うことは宗教じゃありません。私たちの情報の根源と出会うというのは、重要なことです。私たちは創造主に出会わないといけないのです。

 でも、残念なことに、日本人って、「創造主」となると心を閉ざすのです。天地宇宙を造った神がおられますよ!なんていうと、「いやいや、人間は進化してきたんだ!」と答えます。なぜ、そのように答えるのかというと、学校で進化論を教えられたからです。

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 以前にも、この図を見せましたが、みなさんはどこまで進化されたでしょうか。私なんか、一番右端近くまで最強に進化した人類かもしません。一歩手前くらいで止まりたいものです。日本人は、猿から進化したって、みな信じています。
 私たちクリスチャンは、進化論は、ただ、創造主なる神を知らないだけの話だと考えているのですが、そうではないのです。進化論は理論です。
 なぜ、日本人が進化論を信じるのかというと、教育の中で教えられているからです。

 今日は午後から、そのことに関して、セミナーもさせていただきたいと思います。ヒューマニズムという言葉を聞いたことがありますか?多くの日本人が、それが博愛主義のように考えているのですが、ヒューマニズムは博愛主義とは全く違う考えです。何かというと、ヒューマニズムとは、人間中心主義であって、博愛主義とは別の思想です。一言でいうと、「無神論、進化論、唯物論」です。一言というか三言ですが、聖書の世界観とは、真っ向から対立する思想です。
 世界中で、無神論、進化論、唯物論を基礎に学校教育がなされているから、知らないうちに、日本人も、神はいない!とか、人類は進化してきた!と考えているのです。唯物論とは、人は物だという考えです。ただの有機体です。死んだらすべて消えてしまう存在だと考えるわけです。それは自然に考えているのではなくて、「教育の中で吹き込まれた」ものなのです。

 教育には必ず、何らかの目的があるわけです。進化論を教える目的があるわけです。その目的を知ると、ちょっと怖くなります。今日は、午後からその事を学びます。私たちを造ってくださった神がおられて、人間をどのような目的として造られたのか、それは、人間を被造物を管理する管理人として造って下さったのです。人間だけが特殊じゃなくて、すべての生物の中で、人間には役割があるのです。それは管理人として、創造されたのです。
 まず神様との関係が正常化したら、今度は使命があるのです。神が造られた被造物を管理するという、大きな使命です。ある方が、「被造物という言葉は無機質であまりよい言葉ではないから、神の愛着物」と表現していましたが、神は人間だけでなくて、全ての被造物に愛着を持っておられるのです。それらを管理する役割が、人間に与えられているのです。

 今回、秋田県とか、青森県に行きましたが、北の方の方たちって、ここにも、そちらの出身の方もおられると思いますが、案外、霊感が強い人が多いです。青森に行きますと、恐山って知ってます?不気味な山があります。イタコと呼ばれる死人の声を聞くと言われるおばちゃんが地域にいたりします。秋田県は、ナマハゲが出たり、目に見えない世界が人と一緒にうごめいている地域です。
 科学にもならないし、学問にもならない領域ですが、日本人って、本来はすごく霊感の強い人たちだと思います。でも、本来は真の神様をキャッチするための機能として、与えられているのにも関わらず、アンテナをねじまげられて、悪魔・悪霊どもに利用されていると思いました。

 この教会は六十五年以上の歴史がありますが、この場所に教会が建ったのが、私が小学校二年生の頃でした。教会堂と言っても、小さなものだったのですが、今から五十数年前でした。
 五十数年前に、この土地を父が買ったのですが、坪いくらで買ったと思いますか?何回も話しているので、新城教会ではあまりおもしろくないのですが、実は坪五百円で買いました。子どもの小遣いでも一坪くらい買えそうです。親父は五百円と言われて、あまりにも安すぎて申し訳ないので、坪千円で買ったというのです。博愛精神の強い人だったなぁと、土地を倍もらえば、もっと広く使えたのにと思ったのですが、元々は坪五百円だったのです。なぜ、五百円だったのかって、安すぎると思ったらしいのですが、親父は外部から入ってきた人間で、この辺の事情をよく知らなかったのです。
 いつも話していますが、この近所って、あんまり心地の良い場所ではないわけです。設楽原の戦いがあって、一万数千人が数時間で死んだという歴史がある場所です。

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 この絵図の川は、今でもちゃんと残っています。
 連吾川といいます。ここが最前線だったわけです。ここでドンパチやったわけです。しかし昔の火縄銃って、鉛玉で、当たってもすぐには死ななかったのです。この近所にまで逃げてきて命果てたらしいです。この近所は、土地に血をいっぱい吸い込んで、養分たっぷりな土地だったわけです。その事を知っている人は、この近所にはあまり家なんか建てたくないわけですね。だから安かったみたいです。
 この辺、時々出るらしいです。こんな所に家なんか建てたら大変だ!という感じです。当時、誰かが買いたいなんて言ったら、「持ってけ!いくらでもいいわ!」という感じで、親父たちは買っちゃったところがありまして、日本人って結構、こういうものに関しては敏感じゃないですか?
 みなさんの中にも「私は霊体験をしたことがある」という人もいるかもしれませんが、この付近の人たちは、案外霊感が強いんじゃないかな?と思います。

 話は全然変わりますが、昨日私は、ある町にとりなしの祈りに行きました。なぜ行ったのかというと、私の友達のラフィー君がプエルトリコから、新城に来たからです。私の弟みたいな男です。

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 カリブ海のプエルトリコの青年なのですが、彼は今から二十数年前に、ある町に、何かのプログラムでホーム・ステイしたというのです。
 彼は古い、旧家にホームステイしたらしいのです。何も知らない、言葉も何も分からなくて来たそうです。三十人くらいの若者たちと日本に来て、全国いろんな場所に散らされて、彼は旧家にホームステイさせられたというのです。

 日本の旧家って、空いている部屋が一つあるのです。それは何かというと、仏間です。仏間だけはどこの家でも空いています。お客さんが来ると、その空いている部屋にどうぞという感じです。彼はプエルトリコから、何も知らないで通された部屋が仏間でした。なんとなく雰囲気悪いなぁと思ったというのです。線香臭いし嫌だなぁと不安だったというのです。
 すると、ある晩のこと、寝ていたら、誰かに起こされたそうです。見たら、仏壇の上に死んだ人たちの写真が並んでいますが、その中のおばあちゃんが目の前に立っていたというわけです。そして、「おまえ。何しにこの家に来たんだ?帰れ!」と言われて、首を絞められたというのです。彼は助けてくれー!!と叫びたくても、声が出なかったそうです。
 彼は二階にホームステイしていたそうですが、別の夜中には、髪の長い女が、外からじーっと彼を覗いて、早く帰れと睨まれたそうです。彼はそこで二ヶ月間我慢したけれど、どうにも我慢できなくなって、体の具合が悪くなって、プエルトリコに逃げ帰ったというのです。日本のイメージも超悪くて、怖い場所だと思って帰ったというのです。

 彼はクリスチャンで、牧師の息子です。ある日のこと、日本で働いているプエルトリコ人の宣教師が、彼の教会に来て、日本の宣教についていろいろと話してくれたというのです。彼は日本で働いているプエルトリコ人宣教師に、日本での体験を話したそうです。日本でのプログラムが全て終わっていなかったから、もう一度、日本に戻らなくてはならなくて、戻りたくないと思っていたけれど、戻る前に宣教師と出会ったというのです。それで、事情を話したというのです。
 そうしたら、そのプエルトリコ人宣教師が、「日本に帰ったら、滝元順という男に会いなさい。彼はそういうことに詳しいから、あなたの力になってくれると思うよ!」と言ったそうです。
 でも今から二十数年前のことですから、インターネットもないし、携帯電話もないし、調べようもなく時が過ぎて、日本に一年近くはいたけれど、結局、私と会うことができなかったというのです。

 しかし、あの体験はなんだっただろう?と、ずっと心に引っかかっていたというのです。滝元順に会えたら良かったのに・・・と思っていたそうです。

 それから帰国して、その事も忘れかけた数年後、彼は音楽好きで、プエルトリコからアメリカに渡って、音楽学校に行くことになったそうです。アメリカには大変有名な音楽学校があって、ボストンにバークリーという学校があります。彼はそこに入ろうと思ったらしいのですが、直前に、ロサンジェルスの音楽学校に変更になったそうです。
 ちょうど九・一一のテロのあった年でした。テロがあったために、彼はちょっと遅れて入学したそうです。
 そうしたら、学校の先生が、彼が元日本に住んで、日本語が少し出来るということを知って、こう言ったそうです。
 「この学校に一人、英語があんまりできない日本人学生が入学して来たので、ちょっと助けてやってくれないか?」と頼まれたとうのです。彼は、軽く「あぁ!いいっすよー!」と、その日本人の所に行って、ヘイ!と声をかけて、いろいろと話したそうです。そして、この日本人に、「僕は日本にいたけれど、一人の人物に会いたいと願っていた。しかし会えなかったんだ。」日本人って一億何千万人もいますし、アメリカの学校に日本人がいたって、知るわけがないと思うのです。特に、私なんか、有名でもなんでもありませんから。
 「滝元順という人物だったんだよ〜。君は知らないかい?」と、日本人の男に聞いたそうです。そうしたら、その日本人青年がびっくりしたというのです。その青年が誰かというと、この人でした。

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 私の息子だったのです。信じられますか?この事だけでも、主は生きておられると思いませんか?ラフィは日本で、本当に私を探していたのです。アメリカには何億人も住んでいる中で、一つの学校に来て、「滝元順って知らないか?」と日本人に聞いたら、その相手が、私の息子でした。その学校は、音楽学校で、彼も息子と同じベース科で、同じクラスだったのです。彼は堅志と出会った時、鳥肌が立って、涙が出たって言っていました。私の息子が、彼のクラスメイトになったのです。信じられない!
 それから交わりが始まりました。私も、プエルトリコで奉仕をさせていただいたり、今回は、ラフィー君と一緒に、地域のとりなしの祈りに行くことができました。彼は泣きながら、二十数年ぶりに勝利した!と言って、大変喜んでいました。

 神様は、私たちの願いを知ってくださるお方です。これは無理かなと思うことも、奇跡的な方法で実現されるのです。神様ってグローバルなお方ですよね。何億人という中の一点と一億何千万という中の一点を結び合わす事が出来るお方です。主は生きておられます。

 この話は本にも書いたのですが、昨日、もう一度、詳しく聞くことが出来ました。彼は泣きながら、その話をしてくれました。昨日は一緒に祈りに行かせていただいて良かったと思います。

 日本人は、頭の上に霊的パラボラ・アンテナみたいのがついています。無神論と進化論で、本物の神様に対しての思考は停止させられていますが、アンテナはそのままついていますから、悪魔が情報を流し込むわけです。そうすると、悪魔を自分の神かのように信じ込んでしまうのでしょう。そうすると、人生はどうなるのか、「悪魔の支配下」になってしまうわけです。
 そもそも、私たちが救われるとは、使徒の働き二十六章十七節〜十八節に、こう書かれています。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 救いとは何か?それは、サタンの支配から、神の支配に移されることです。これが救いのまず第一段階です。知らないうちに、本物の神に対しては閉ざされて、サタンを自分の神かのように、礼拝させられています。知らないうちに、悪魔の支配下に陥るわけです。悪いことがあって、霊能者に拝んでもらうと、言われることは一つです。「あんたの先祖がたたっている」と言われます。やがて私たちも先祖になりますが、新しい世代をたたりたくはないです。でも、それを信用しちゃうのです。

 そして、仏壇には先祖がいると騙されます。仏壇には先祖なんかいないのです。仏壇と先祖とは関係ないです。仏壇と関係あるのは、仏壇屋です。仏壇大セール!とか言って、広告が新聞に入っているじゃないですか。先祖と仏壇は全く関係ないです。人間は死んだら、神の手に戻りますから、地上にうろうろしているわけではありません。
 しかし、仏壇に先祖がいるように信じて拝み始めると、拝むということは、霊的存在の支配下に入ることになりますから、結局、悪霊どもの支配下になるのです。だから仏壇に、いろいろな現象が出て来るわけです。

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 それは仏壇を拝むからです。仏壇に寄りついている霊は、絶対に先祖じゃありません。怖いものが出て来ること自体、おかしいです。
 拝むと先祖のふりをして、悪霊が出て来るわけです。ラフィーの所にもばあさんのふりをした、悪霊が出て来たのです。もう一人、窓の外から髪の長い女に、睨まれたというのです。
 昨日、町にある城にとりなしに行きました。そうしたら、そこに一枚の絵図がかかっていました。ラフィーが見て、「うわー!この女だ!」と言っていたのですが、

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 何かというと、城を作る時に人柱となった娘だというのです。人間ってひどいですね。城を守るために、生きている娘を悪霊に捧げて、人柱にしたというのです。そうすると、娘のふりをした悪霊が来るわけです。そこにクリスチャンが来たら、「早く帰れ!」追っ払うわけです。悪魔に騙されちゃいけないのです。私たちは、本物の神と結びあい、本物の神の支配になったら神の国に入るわけです。

私たちはやがて、この地上から出て行かなければいけないです。どんな感じかなぁ?と時々考えます。たぶん、外国に行く時、出国の列に着くようなものではないかと思います。誰でもいつか、地球から出国しなければいけないわけです。
 死んだ時って、結構、びっくりすると思います。世界で一度に大勢の人たちが死ぬもんだなぁという感じで、周りの人と、「あなたはどのように死んだのですか?」って、死因について会話するかもしれないです。「交通事故で死にました。」とか、「癌で死んだ。」とか、いろんな死亡原因があるかもしれないけれど、みんなここに行き着くわけです。
 出国したら、他の国に入国です。海外旅行は、出国してから入国出来る国々は何百とあります。しかし死後の国は、入国できる可能性がある国は、二つしかないです。私たちが地上で持っているパスポート次第、ビザ次第で、死後入国出来る国が二つの内一つで変わるのです。これは宗教の話じゃないです。現実の話です。
 もしも私たちが、悪魔の支配のビザを持っていたらどうですか?その国の国民になるわけです。出国した後に入るのは、サタンの支配下の国です。でも本物の神、天と地を造ってくださった方を信じたらどうですか?神の支配下ですから、入国する国は神の国です。二つに一つです。

 出国した後、二人が迎えに来ていて、どちらかに引き取られるという話を前にさせていただきましたが、こういうのが迎えに来ているのかもしれません。

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 出国ゲートの外で、この二人がいつもうろうろしていて、「パスポート見せて!」と言って、悪魔の支配だと、しっぽのとがったやつが連れて行くのでしょう。でも、神の支配ならば、神の使いが、神の国に連れて行くということです。
 なぜ、私たちが教会をやっているのかといったら、全員、神の国の支配になってほしいからです。百年以内には、私も含めて全員、このゲートに行き着きます。「あの時にあのおっさんが言っていたことは本当だった。」と気づくと思います。
 どちらかに引き取られる準備をしておかないといけないのです。イエス・キリストは天地宇宙を造った神ですから、その支配下ならば、神の国に入ることができるのです。
 親父もお袋も、新城教会の兄弟姉妹も、神の国に入国したはずです。教会が始まって、六十五年以上経ちましたが、百名以上の方々が神の国に入っていると思われいます。しかし、本当の神の国は「死後の世界ではない」のです。

 聖書の告げるよい知らせ、「救いとは、復活」です。死んでも、復活がその後あるのです。
 聖書の救いをまとめると、まずは、悪魔の支配から神の支配下に移される事です。神の支配に移された人たちは、地上で、被造物の管理人となるのです。
 やがて誰でも、この地上から出て、死後の世界に入りますが、やがて、再びこの地上に復活して、戻って来るのです。復活して戻って来た時は、管理人から立場がランク・アップするのです。
 なんと、新しい天と新しい地においては、イエス様と共同に「相続人」になるというのです。すごいでしょう。

 聖書の良い知らせとは、悪魔の支配から解放され、被造物の管理人となり、やがて復活して、最終的には、新しい天と新しい地の共同相続人となるという事です。
 これが良い知らせでなくて、何が良い知らせでしょうか!

 今日、あなたが教会に来たのは偶然じゃないです。新しい天と新しい地の共同相続人になるという、すごい立場まで保証するためです。それが良い知らせです!と聖書は教えています。
 今日ここにおられます、すべての方がその特権を得ることができます。まずはイエス・キリストを信じたら、神の支配下に移されます!神の支配下になったら、今度はあなたに役割が与えられるのです。それが、創造主から委託された、自然界や、神が造られたもの、全てを管理する管理人です。今私たちは、管理人としての立場です。

 管理人について、聖書は初めから告げているのですが、やっぱり私たちは、人間中心主義なのです。あんまりその事には関心が無いのです。創世記二章十五節、

『神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』

とあります。また創世記一章二十七節〜二十八節には、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 はじめの人間に命じられたことって、これです。神が造られたすべての生き物を支配しなさい!これが任務です。
 しかしどうでしょうか。この任務から遠く離れているのです。教会も、創造主と人間との関係はよく話しますが、被造物に関しては、消えていっても、関心がないのです。
 個人の罪のことはよく話しますが、それは本当に重要なことです。これは欠かしてはいけないことです。神様の前に、ヨブのように、いかに正しくあるのかは大切です。
 しかし管理人ならば、「管理人としての罪」じゃないでしょうか。私たちが果たさなければならないのは、任されている領域を管理する管理人とならなくてはいけないのです。ここにしっかりと、視点を持って、最終的には共同相続人となるゴールに向けて、全幅の福音を携え、伝えなくてはならないと感じています。これが「良い知らせ」であるということを、しっかりと理解したいものです。

 今日、悪魔の支配から解放されて、共同相続人になるという、全幅の良い知らせの中にあることを感謝して、聖餐式にあずかりたいと思います。主が私たちのために流してくださった十字架の血潮を、心から感謝して、聖餐式にあずかりたいと思います。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。私たちを共同相続人にまで、高めてくださるという、この素晴らしい特権のゆえに心から感謝します。こんなすばらしい福音はありません。
 この全幅の福音を理解して、主に仕えていくことができるように。万物との和解の血潮を心から感謝して、今から聖餐にあずかります。個人の罪をと共に、管理人として果たせなかった罪も主の前に悔い改めます。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。