「—2017年 あなたは良いもので満たされます!
 〜パート18 あなたを今よりとこしえまでも守られます〜」

2017年7月30(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇121篇1節〜8節

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今、「若いっていいなぁ」という歌を歌ってくれましたが、私は今週、六十六歳になります。若い時もあったのですが、あっという間に、こんな歳になってしまったなと思いながら聞きました。でも心は、中学校の時とあまり変わっていません。成長していないというか、明日にでも東郷中学校に自転車で向かってしまいそうな僕がいるのですが、万年少年の心を忘れないで生きていきたいと思っています。
 夏になり、なんとなく雰囲気が柔らかくなったと言いますか、子どもたちが学校に行かなくなるだけでも、なんとなく、ぴりぴりした雰囲気がなくなりました。子どもたちはいいですね。あの夏休み、もう一度、体験してみたいなぁと思います。

 今朝は九時から、七時間の連鎖賛美が続けられています。どおりで、礼拝の賛美も恵まれましたよね。やはり、ずっと賛美していますから。いや昨晩も、ザワメキがあって、みんなで賛美しましたので、その連続性の中、やはり主の臨在が違うなぁと感じました。

 しかし賛美と礼拝は、ただ人間だけがすればいいのではないのです。被造物全体が主を誉め称えなければならない、と聖書は告げています。本日の連鎖賛美は、被造物全体が主を礼拝するという位置付けで過ごせたらいいと思います。
 教会の前は田んぼですが、田んぼに水が張られると、カエルの大合唱がすぐに始まります。私は昨年まで、「毎年、うるせぇなぁ」と思っていましたが、この頃は考え方を変えました。「カエルも主を賛美しているんだ!」と思ったら、なんだか嬉しくなりました。セミも、しゃんしゃんしゃんと、うるさいなぁじゃなくて、「セミも主を賛美して礼拝しているんだ!」と考えると変わってきます。被造物全体が、主を礼拝していることを心に刻んで、社会に出て行くと、喜びが湧いて来ます。

 しかし八月は、危険な季節でもあります。先ほども祈られましたが、台風もいっぱい来るし、大雨も降ります。昨夜の九時頃、すごかったですよ。みなさんの地域はどうだったかは知りませんが、雨は降るは、台風も日本をめがけて来るわと、なんで日本だけ?といつも思います。台風も、南から北上して、このまま、台湾とか中国に行け!と日本人はつい思っていますが、ご丁寧に、ぐいっと日本のほうに曲がって、日本列島を舐めるように進むわけです。私たちの先祖は、本当にひどい所に入って住みついたものだと思います。
 でも台風も、感謝しないといけない面もあるのです。沖縄なんか、台風が来ないとインフルエンザが流行るそうです。台風が来ると、風邪引かないというのです。なぜかというと、インフルエンザのウイルスが台風で飛ばされるからだそうです。それでウイルスは本土のほうに来るのかどうか知りませんが、台風で生態系は保たれているわけです。
 夏は子どもたちは川に行ったり、山に行ったりと、行動範囲が広がりますから、主の守りが必要です。
 また夏バテがあったり、健康上も調子を崩しやすい季節です。今朝、ある方と出会ったら、なんとなく足取りがゆっくりなのです。どうした?と聞いたら、夏バテだと言っていました。
 教会に属するすべての兄弟姉妹が、全員、完璧に守られて、祝福された夏になるように心から願っています。

 私は年間一度は、「守り」というテーマでメッセージを語らせていただくことにしています。昨年も、詩篇百二十一篇からお話させていただきました。一節〜二節に、

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』

と述べられています。力強い言葉です。山とは現実的にも、昔の旅人は越えて行くのに力がいったわけです。この山を越えないとエルサレムにまで辿り着かない!という心境です。都上りの歌でしたから、現実的にも山を越えるのは大変だったわけです。同時に人生には、山もあり坂もあり、「まさか」という坂もあると聞きましたが、時には、まさか!というようなことも起こります。これからどうなっちゃうのか、というような事もあります。
 詩篇の作者も、そんな人生体験も重なって、百二十一篇を詠んだと思われます。
 しかし助けはどこから来るんだ?と叫んでいるのですが、二節は、素晴らしいです。「私の助けは天地を造られた主から来る!」と、力強く言い切っているのです。
 私たちの助けは、天地を造られた主から来るのです。ご一緒に、二節の言葉を、大胆に、私たちの宣言として、読んでみましょうか。

『私の助けは、天地を造られた主から来る。』

 お隣の方に、「あなたの助けは、天地を造られた主から来る。」と宣言してあげてください。そうです。その通りです。すばらしいですね。

 一九九二年七月は、私にとっては辛い月でした。なぜなら新城教会に新しいことが起こったからです。二月に聖霊が激しく注がれて、七月から霊的戦いが始まりました。当時は、そのような世界観は全くなかったですから、予想がつかなくて本当に不安になりました。これからどこに向かうのだろう・・・、教会の前にそびえる雁峰山以上に高い、問題の山がある気がして、心中穏やかではありませんでした。
 七月三十一日のことでした。ちょうど名古屋で集会があり、重い心で出かけて行きました。始まるまでに一時間くらい時間があって、木陰に車を停めて休んでいました。その時、私は不思議な体験をしました。

 私って、あんまり霊感は強くありません。不思議な体験って、少ないのですが、「天狗見たじゃん!」と言われるかもしれませんが、それ以外、あんまりないのです。
 しかし九二年七月三十一日の体験は、すごい体験でした。
 「もう駄目だ。山があって越えることができない・・。」と感じているただ中で、車を停めた両横に街路樹があったのですが、初め、右側の街路樹がざわざわと揺れ始めました。しかし左側は揺れていませんでした。変だなぁ、不思議だなぁと、雀か何かが木の中にいるのかな?と思って見ると、ぴたっと動きが止まりました。すると、今度は左側の木がざわざわし始めました。私は右を見たり、左を見たりしていました。私以外は全員寝ていました。右見て、左見て、右見て、左見て、ぱっと天を見上げた瞬間です。夏の空に、光り輝く十字架が突然、雲の中から出て来たのです。嘘じゃないです。

0001.jpg

 この写真はネットから拝借したものですが、ちょっとこの写真に似ています。これは斜めですが、正面から見ました。雲の中から十字架が出て、すぐに引っ込んでいきました。あまりにも突然で、声をあげることも出来ませんでした。私は疲れているんだと思い、いろんな所を見ても十字架なんか見えないし、もう一度空を見上げたら、先ほど十字架が出現したちょっと右下に、もう一度、十字架が出て、引っ込んで行きました。あまりにも突然で、周りの人たちに、何も語りませんでした。

 その時に隣の席で寝ていたのが、四元雅也先生でした。でも、私がキョロキョロして、天を見つめて目が点になっていたのが、彼の目に映ったらしいのです。
 集会が終わって帰る時、彼が私に質問しました。「順先生、今日、なんか見たら?」ってね。「実は空に十字架が出て来た!」と、彼に話しました。
 あの体験はある意味、大きな励ましとなりました。「私の助けはどこから来るのだろうか・・・」というただ中で、「わたしがついているじゃないか!」と、「助けは天地を造られた主から来る!信仰を持って前に進め!」というゴーサインでした。
 その体験に後押しされるかのように、二十五年間突き進んで来ました。イエス様の十字架はおとぎ話じゃないか・・・と、ふっと思ってしまう時もありますが、十字架は聖書に記されている通り、事実であることを教えられました。それを、私のような不信仰な者にも、教えてくれたんだと感謝しています。

 詩篇百二十一篇には、「あなたを守ります!」という言葉が、「六回」出て来ると、以前にもお話ししましたが、原文でも守りという単語が六回出て来ます。聖書の中で六という数字は、人間を表す数字だと言われます。
 私たちが日々の生活の中で守られる条件は、第一に、自分たち人間側に任されている守りの領域があると思われます。人間側が守らなければならない条件があるわけです。
 例えば、「主が私を守ってくれるから大丈夫!」と言って、四十キロ制限のところを百二十キロで走ったら、どういうことになりますか。警察に捕まりますから、気をつけてください。警察に捕まるというよりも、交通事故を起こします。それも大事故になります。四十キロ制限という所は、四十キロ以下で走るのは無理かもしれませんが、四十五キロか、五十キロよりも遅い速度で走らないと危険なのです。一般の法則の中で、守らなければならない領域があるわけです。
 「私は絶対に病気にはならん!」とか言って、暴飲暴食をしていたらどうでしょうか。健康を崩します。人に任された領域は、私たち側で注意することが必要です。

 しかしこの箇所で六回、「あなたを守ってあげますよ」をベースとして、「助けは主から来る!」と告げているのは、自分の力が及ばない領域は、「主が助けてくださる」と教えていると思います。
 努力しなければならない領域は十分注意しながら、力の及ばない領域は「主が助けてくださる!」という信仰と理解を握ったら、守られるはずです。
 百二十一篇七節に、

『主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。』

 すばらしいですよね。「すべてのわざわい」から守って下さる、というのです。「いくつかは、わざわいが降り注ぐ」というのではなく、「すべてのわざわいから守って下さる」というのですから、今日はこの約束をキャッチしようじゃありませんか。「この言葉は私に語られている言葉だ!」と捕らえて、「すべてのわざわいから、主は守ってくださる」と信じましょう。
 その前の六節に、不思議な言葉が記されています。

『昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。』

 この頃、熱中症が流行っているそうです。私は熱中症とは、趣味に没頭する病気かなと思っていましたが、そうではないみたいです。太陽の熱を受けすぎて病気になるのが熱中症らしいですよね。熱中症って、日がカンカン照っている時に起こるとは限らないというのです。案外、曇った日でも、熱中症で病院に運ばれる人が多いというのです。湿度が高いといけないらしいです。だからみなさん注意しましょう。今日は曇っているからいい、というのではなくて、曇っていると、肌から汗が蒸発しないで熱中症になるらしいです。十分に注意していただきたいと思います。
 お年寄りの方々、あっ、私もそうですが、気を付けないといけないです。私も六十六歳ですから、以前とは違うと思います。もうネパールの山は登れんな、と毎年思っているのですが、毎年登っています。
 今年はネパールに、三月に行ったでしょう。七月、八月ではありませんでした。考えてみれば、よくぞ、夏にネパールの山に登って成功したなぁ!と、主の守り以外のなにものでもないと思います。私も去年も、一昨年も、八月に五時間かけて登りました。本当に守られたと感謝しています。これからは三月なので、案外楽ですが、それでも主の守りが必要です。

 昼は日があなたを打つことがないって、日射病とか熱中症だと思うのですが、理解できないのは、「夜は、月があなたを打つことがない」という部分です。イスラエルの月はめっちゃ強力みたいですね。砂漠の月は日射病ならぬ、月射病になるみたいです。すごいでしょう。
 夜、砂漠に出て行くと、月に打たれて月射病になって倒れる人がいたのでしょうか。そうではなくて、どういう意味かというと、昔の人は月には魔力があると考えていたみたいです。月の光って、ちょっと不気味ですよね。青白くて、あの光に照らされると、魔術にかかるとか、呪われるとか、そういうふうに考えていたらしいのです。だから、「月があなたを打つことがない」と記したらしいです。

 現実的にも、月って、結構支配力が強いのを知っていますか?すべての生物は、月のサイクルに沿って生きているらしいです。昨日聞いたのですが、虫なんかも、月のサイクルで卵を産んで孵化するらしいです。太陽ではなくて、月のサイクルだそうです。人間もそうでしょう。月って、結構、支配力が強いのです。昔の人たちは、そういうサイクルを知っていたのかもしれないです。また、暗い夜に霊的力が働くのを、昔の人は感じ取ったのでしょう。
 「日と月」とは、「現実の世界と、霊的世界」です。主は、現実の世界も、霊的世界でも、すべてのわざわいから守って下さる、見える世界も、見えない世界も、共に守られることを教えていると思います。
 私たちは見える世界だけで生きているのではなく、見えない世界も関わりながら生きているわけです。そのための守りの武器というか、アイテムを、主は、聖書の中に置いておられます。

 まず第一に、以前も学んだのですが、守られるための基本的条件が、詩篇百十九篇百五節にあります。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 暗い夜道を歩く時、フラッシュライトがないと危ないです。この頃は携帯電話が懐中電灯の代わりになって、ちょっとした時に助かります。フラッシュライトは一キロ、二キロも先を照らしてくれるわけではないのですが、足許さえ、安全が確保されたら前進できます。
 私たちも、未来についてもっと明らかになったら歩みやすいと、時々思うのですが、聖書のみ言葉は、近未来から、永遠の世界まで貫いていますが、多くの場合、「足のともしび」です。自分が立っている場所が安全か否かを、示してくれるものだというわけです。

 これに関連して、詩篇百十九篇九節〜十一節は、特に若い方々に覚えてほしいと思います。

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

 この頃の時代は、価値観がころころと変わるし、道徳の規準だって、毎年のように変わります。何が正しくて、何が間違っているのか、本当に分かりません。
 しかし、聖書の言葉は、時代がどんなに移り変わっても、変わらない価値観と世界観を提供しています。私たちがしっかりと、神のみ言葉を心に蓄えておくことが大切です。
 特に若者たちの環境は、日々、めまぐるしく変わります。しかし心の中にみ言葉をしっかりと蓄積していたら、様々な危険から守られるということです。行動にブレーキがかかるのです。今の時代は、ブレーキをちゃんとかけないと、人生は暴走してとんでもないことが起きます。人生のブレーキは重要です。マスコミから流れる情報も、人生を壊すような情報ばかりが氾濫していますから、何をどのようにブレーキをかければ良いのか分かりません。しかし、聖書のみ言葉と知恵がブレーキとなるのです。

 『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。』とあります。クリスチャンには「聖さ」が大切です。夏の暑い日に、一週間、風呂に入らないで試してみてください。すごい臭いになるはずです。誰も近づいてくれないでしょう。それと同じです。聖さがないと、霊的には、夏の暑い日に一週間風呂に入らないのと同じような状態になるわけです。神様だって、近づきたくないはずです。
 私たちが聖く生きるためには、神のみ言葉をしっかりとキャッチしておくことが大切であり、聖さをなくす情報が溢れている時代ですから、ブレーキをかけてくれるみ言葉を蓄える必要があるのです。
 私も今まで危険から守られたのは、幼い時から両親にみ言葉を教え込まれたからです。それで守られたと思います。始めはちょっと堅苦しく思いました。モーセの十戒も、十回以上暗記させられて、やってはいけないことが多すぎるなと思いました。天国にもしも行けたら、最初にモーセに会いたいと思いました。「あんたがもうちょっと交渉して、十を五くらいに減らしたら、人類はもっと楽だったよ!」と、文句を言ってやろうと思いましたが、そうではないのです。律法は私たちを守るために、主が人類に与えたものなのです。
 み言葉をしっかりと心に蓄えて、武装しましょう。その時、主は私たちに権威を授け、同時に、み翼の陰に私たちを置いてくださるのです。
 詩篇百五篇十節〜十五節に、こんな言葉があります。

『主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 この言葉、私は好きなのですが、イスラエルの人たち、ヘブル民族は、かつてエジプトで奴隷になっていた人たちでした。しかし、エジプトから奇跡的に脱出して、シナイの砂漠に出たわけです。どれくらいの人たちが脱出できたのかは、様々な説があるのではっきりとは言えませんが、男で歩ける者たちだけで六十万人くらいでしたから、百万人以上の人が砂漠に出たと思われます。
 でも、エジプトで奴隷だった人たちですから、当時の大国からして見れば、まさに少数民族で、なんの力もない人たちの集団に見えたはずです。しかし、主は、イスラエルを今に至るまで、守っておられます。
 イスラエルの歴史を見ると、迫害から迫害へと、常にユダヤ人達はひどい目に遭っているのですが、生き残っています。なぜかというと、主の権威の下に置かれている民だからです。
 私たちが守られるためには、主の権威の下に身を置くことです。

 ある意味、日本のクリスチャンは、日本全体から見たら「少数民族」です。そして国はまさに、かつて教会を迫害した時代と同じコースへと、戻ろうとしています。これから私たちはどうなるのでしょうか。
 日本のクリスチャン人口は、一パーセント以下です。プロテスタント教会で毎週、礼拝を守っている人口は、二十数万人と言われます。ということは、日本において生きたクリスチャンは、〇・二パーセントくらいしかいない事になります。まさに少数民族です。これから、どうなっちゃうのか、国から見れば、クリスチャンなんか吹けば飛ぶような存在で、どうにでもなる!と考えているかもしれません。
 これから、いろいろ起こってくるかもしれないけれど、全宇宙を支配しておられる主のみ翼の下にあるならば、イスラエルが守られたのと同じように、「守ってあげます!」という約束です。
 ここに、『わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。』という言葉があります。その意味は、主がイスラエルを、ご自分の後ろに隠して、敵に対して宣言しておられる言葉です。
 今日ここにおられるお一人一人は、主からの油注ぎがある方々です。なぜなら、主を信じていますから。天地宇宙を造られた主の陰に宿っています。ゆえに主は、あなたをご自分の後ろに隠して、敵に宣言されるのです。「わたしが油注いだ者たちに触れることはできない!危害を加えるな!」と宣言してくださるのです。
 いつも私たちは、主の権威の下に生きることが大切です。

 同時に、私たち主の民は、管理人としての役割がありますから、その役割を果たしていかなくてはいけません。管理人に委ねられているのは、「とりなしの祈り」です。その権限が委ねられていて、様々な領域に私たちを送り込まれます。社会と主の間に、時には、敵との間に入って、とりなす役割があります。悪魔・悪霊どもと社会の間に割り込んで、とりなし祈る役割があるのです。
 世界は、見えない世界で起こっている事柄が、現実を支配する構造になっていることを理解しないと、主の法則の中で生きることができないのです。
 日本の教会は、見えない世界で起こった結果が、現実の世界を支配するという理解に乏しいのではないかと思われます。私たちも同様でした。しかし、一九九二年七月から、はっきりと、見えない世界で勝利を取らない限り、現実の世界で勝利することは出来ないということを教えられ、以来、二十五年間、教え続けてくださっています。そんな中、主がみ言葉から教えてくださったのが、出エジプト記十七章十節からです。私はこの箇所が大好きです。十七章十節〜十三節、

『ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。』

 モーセ、アロン、フルの行動が、とりなしの祈りの見本となっていると思います。アマレクとの戦いは、「現実の戦い」です。アマレクという軍隊は、大変強い軍隊でした。イスラエルは彼らと戦ったのですが、そこには、血みどろの現実の戦いがあったのです。しかし、モーセが山の上から手を上げている間は、イスラエルが優勢になったのです。それが現実の戦いのただ中で起こったのです。
 しかし、モーセの手が重くなって、下がって来た時、アマレクの軍隊が優勢になったわけです。手をあげるとは何かというと、「とりなしの祈り」を表します。私たちが主の前に、とりなして祈る時、現実の戦いが勝利へと動くわけです。
 モーセが手を上げている間は、イスラエルがどんどんアマレクを打ち破ったのですが、腕が下がって来たら、勝敗が逆転したのです。もしかしたら、初めは、祈らないよりも祈ったほうが少しはましだ、くらいにしか考えていなかったかもしれません。たぶんアロンとフルとモーセは、途中で、手の上げ下げと連動して、現実の世界の戦いが左右されることに気づいたのかもしれません。「こりゃまずいぞ!」ということで、アロンとフルが両側からモーセを支えて、石の腰掛けを置いて、日が暮れるまで手を支えて、戦いに勝利出来たのです。これこそ、目に見えない世界の勝敗が、現実を支配することを表している箇所ではないでしょうか。

0002.jpg

 それもモーセだけでなく、アロンとフル、この三人がチームとなって、特定の戦いに関して、とりなしたことによって、勝利が来た!ということです。
 九二年七月に霊的戦いが始まって、この教会に主が教えてくださった事柄が、「とりなしの祈り」でした。とりなしの祈りがないと、現実の戦いに勝利することができないことを教えられて、お互いが支え合いながら、手を上げて祈るようになりました。見えない世界の敵が打ち破られた結果として、現実の戦いに勝利するようになりました。その勝利を、二十五年間、様々な領域で見させていただきました。

 先週、雅也先生がちょっと触れていましたが、先日、レッツプレイズという集会がありました。実は目に見えない世界と、見える世界が連動しているということを教えられたのは、一九九二年七月に行われた「レッツプレイズ」という、中高生の集会からでした。先週もその事について触れられていたでしょう。
 それまでは、中高生集会をやっても、数人しか来ませんでした。しかし主が、中高生がなぜ、教会に来ないのか、「学校の近くには多くの偶像があって、偶像礼拝が強力になされている、それが覆いとなって、子どもたちは心を開かない。背後の暗闇を打ち破る祈りをしてから、チラシ配布をして集会をやってみろ!」と教えられました。

 初め私は半信半疑でした。そんなことやっても、うまくいくわけがないってね。でも、試してみたのです。ためしてガッテンではありませんが、すると、今まで数人しか来なかった集会に、突然、中高生が八十人くらい来ました。しかし、これは偶然だと思いました。私は理工系なので、実験しないと信じられないところがあって、もう一度、実験的に集会をやってみました。今度こそ、元の数人に戻るぞ!と思っていたら、なんと、百人くらい来ました。びっくりしました。それ以来、中高生の集会は、ずっと祝福されています。
 今年は、それから二十五年経った記念の年です。先々週、開先生が、「今回のレッツプレイズは、規模が小さいと思うから、そのつもりで」と言うわけです。小さい規模のつもりでプログラムを立てたというわけです。中高生に最初に食事を出すと、食い逃げする連中がいるらしいのです。だから食い逃げ防止のために、先に集会をやってから食事にすると言うのです。でも、腹を空かした中高生が最後までもつかなぁ?、余計に荒れるのではないかと思いました。二十五年目にして、ついに人数が少なくなったかと思ったら、彼の信仰に大きく反して、今回は「過去最高」でした。クリスチャンではない中高生が、百四十人参加しました。クリスチャンたちは四十人くらいで少なかったのですが、後から食事をさせるなんて、間に合わないから、先に食べさせました。でも、彼らは真剣に話を聞いてくれました。記念すべき集会になりました。

 目に見えない世界で勝利を取ったら、見える世界も変わるということを、主は今も語り続けて下さっていることを、確認させていただきました。見えない世界で勝利を取るには、とりなしの祈り以外にありません。見えない世界から主の働きを阻んでいる暗闇の勢力を打ち破るために、誰かとチームを組んで祈ると、見えない世界で勝利が来ますから、現実の世界も勝ち取ることができるはずです。これは、大きな守りとなります。

 とりなしに関連して、もう一つ、好きな箇所があるのですが、それが、第二列王記六章です。ここに預言者エリシャのことが記されています。

『アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 エリシャという預言者が主から与えられていた能力は、すごいですね。こういう能力をもらったらすばらしいです。とりなしの祈りも、事件が起きてから祈り始めることが多いです。「あぁ〜、病気になっちゃったので祈ってください!」とね。病気になってから、とりなしの祈りで勝利することも多いですが、それよりも、病気になる前にすでに、病の道筋をしっかりととどめて、事前に敵を打ち破る祈りができたら最高です。
 エリシャに与えられたのだから、私たちにも与えられないはずがないと信じます。今日は新城教会に来ておられる、すべての兄弟姉妹に、エリシャが持っていた油注ぎがあることを、主の御名によって宣言します!
 韓国ならばすぐに、「アーメン!」と反応が来るのですが、日本では〇・二、三秒遅れますね。今週は、ちょっと韓国に行きますが。この油注ぎをもらったら、本当にすごいです。

 アラムの王が、内側にスパイがいると思ったのは、当然です。ことごとく自分が立てる計画が見破れるわけですから。
 しかし、エリシャは敵のただ中にいたわけではなくとも、王夫妻が寝室でひそひそ話をしていることすら、聞き取っていたのです。これぞ、地獄耳というか、天国耳というのか、こういう油注ぎがほしいですよね。

 これから、私たちがどういう道を歩んだらいいのか、あまりにも、不確定過ぎます。良さそうに見える道が、破滅の道だったりすることも多い時代です。どこに道筋を付けたらいいのか、昔のような単純な時代は終わりました。特に、若い方々の未来は大変だと思います。
 でも、このような先読みをするエリシャの油注ぎがあったら、すべての領域に、事前に軍隊を配備するというか、霊的守りを置くことができるはずです。
 主からそのような能力を是非とも、いただきたいと思います。

 私は、「霊的戦い専門課程」を毎月やらせていただいているのですが、数年前から、悪魔・悪霊どもが、最も大きな罠を仕掛けている領域がどこかを、考えていたのですが、それが「経済の領域」だと気づきはじめました。
 経済の領域は、すべての人が関わらないと生きていけない領域です。ゆえに最も悪魔・悪霊どもが、偽りと仕掛けを置いている領域であることに気づき始めました。ここにしっかりと、守りを宣言しないと、足許はすくわれるし、人生は倒されます。
 あるクリスチャンの弁護士の方と話したことがあるのですが、彼がこう話していました。いろんな事件を扱ってみて、必ず、後ろに経済的問題が関わっているというのです。私が、経済の後ろに強力な悪しき力が働いていると話した後に、そのように言われました。「それ分かりますよ!罪を犯す人たちって、必ず、経済的な問題が絡んでいるんです。」ってね。「経済が安定していて、問題を起こす人って、少ないですよ。」と言われました。
 ということは、敵が支配している経済の領域を、いかに、神の知恵によって勝ち取っていくかが、ある意味、人生を安定させる秘訣でもあるのです。
 しかし人は、金銭の領域に簡単に縛られますから、本当に、注意しないといけないです。

 そもそも、金というのは、不確定なものです。例えば、一万円がどうして使えるのかというと、日本中の人が、「この紙っぺらには、価値がある」という、共通の認識を持っているからです。しかし一万円に代わる、金や銀という裏付けは、一切ありません。現代の金は、ただの紙っぺらです。金銭の後ろに、日本国政府がいて補償してくれるのだろうという、あわい期待があるから流通するのです。本当に補償してくれるかどうかは分かりません。しかし、そのような了承の元で、皆、金って使っているのです。
 日本人は一生懸命貯金する国民です。みなさんの中でも、貯金が好きな人がいると思うのですが、貯金を一生懸命する人は、日本国政府をかなり強く信用している人たちです。他の国に行くと、金を手にしたら、貯金しないですぐに使う人たちも、結構多いのです。「なぜ、あんたたちはすぐに使うの?」と聞くと、その国の通貨と政府を信用していないからです。早めに、通貨を物に変えておいたほうがいい、と考えているのです。金は、いつ価値がなくなるか分からないから、物に変えちゃえ!ということで、金遣いが荒く見えるのです。
 しかし、日本人が一生懸命、貯金するのは、ある意味、架空の信頼の上に成り立っているのです。
 今後、日本の経済がどうなるかは、はっきりいって分からないです。

 昨日も、ザワメキの時に話しましたが、今、経済のシステムは大きく変りつつあります。この頃は、現金を使うことが、以前と比べて大分少なくなって来ました。銀行に預金があると言っても、通帳に数字が書いてあるだけです。百万円あるならば、百万という数字が記されているだけで、百万円あるんだな!と信じています。これ、数字だけです。コンピューター上の現金です。時々、「明日の朝には、数字の丸が三つくらい増えていますように。私の通帳が変わりますように・・・。」と、祈りたくなる時があります。銀行のコンピューターが故障したりして、丸が一個でも多くなったり、少なくなったら、変わる可能性があるのです。
 この頃は、通貨は、仮想空間にあるのです。この頃、スイカとか、トイカとかを使っている人がいると思います。私はよく東京なんかに行きますから、Suicaを使っています。東京に行って電車に乗ると、スイカがないと、手間がかかってしょうがないです。カードで乗り降りするわけです。しかしこの近所の飯田線は最悪です。ドアを自分で開けろ、と言うのですから。放っておくと、電車は行っちゃいます。近ごろ飯田線はワンマンで、無茶苦茶面倒くさいです。この辺しか通用しない文化だと思います。しかし、世界は変わっているわけです。

 今、通貨が変わって、「仮想通貨」って知っています?この頃、ちょっとマスコミにのって来ているのですが、仮想通貨、「ビットコイン」を知っているという人、スイッチオン!結構いますね!すごいですね。

0004.jpg

 私はこのことを七年前から知っていたという人、スイッチオン!そして、七年前に私はビットコインを購入した!という人、いますか?もしもいたら、今日はその人とお友達になったほうがいいですよ。
 これ、七年前に始まったのですが、ピザ二枚が「一万ビットコイン」で販売されたのが始まりです。ピザ一枚を買うと、もう一枚が無料なんてやっていますが、ピザは一枚千円くらいでしょう。二枚のピザを買うのに、一万ビットコインが支払われたのです。ピザ屋さんは、「一万ビットコインで、ピザ二枚あげるわ!」とビットコイン一万と引き換えに、ピザ二枚を手渡したわけです。

0005.jpg

 それから、七年経ったのです。ピザが二枚だと、当時は一ビットコインは〇・二円くらいの価値になると思います。
 でも今、知っていますか?七年後、一ビットコイン、本日の価格で「三十万円」です。七年間で、「百五十万倍」になったのです。
 ピザを二枚売ったピザ屋さん、一万ビットコインを受け取ったので、七年間で二千円が三十億円になった計算です。経済とは、こういうものです。
 七年前に主から、「ビットコインを買いなさい。」と言われて、買っておいたら、今頃、変わったのに!ミッションなんか、献金のお願いなんて書かなくても済んだのにと思うのですが、事前情報があるかないかは、未来を変えます。
 これからの世界って、こういう世界ですから、また、逆もありです。三十億円持っていると思っていても、ピザ二枚分になっちゃった!なんてこともありえますから。これから、どういう時代に生きるのでしょうか。
 経済のことを勉強して、私は二年前、ビットコインを買っておいたら儲かるかなぁ?と、ちょっと思ったのです。その頃、一ビットコインが五万円でした。五万円で買っておいたら、今頃、三十万円です。買わないで損したな!と思いますが、人生ってそんなもんです。
 でも、私たちは、このような仮想空間に生きていますから、今後、どういうことが起きるのか、全く分からないです。まさに、エリシャの油注ぎを必要としている時代です。

 すべての領域において、主が私たちを守ってくださるように、祈らなければならない時代であることは確かです。霊的戦いが、あからさまになっているのです。

 今日、七時間連鎖賛美をしていますが、この賛美、守りのためにも、大変重要なアイテムであることを、最後に学んで終わりにしたいと思います。
 出エジプトした民は、四十年間砂漠で暮らしたのですが、常に、主の臨在と共にありました。昼は雲の柱、夜は火の柱で、主は民を導かれたのです。一番すばらしかったことは、自分の目で、主がおられるか否かを確認できた事です。すごい安心感だったと思います。
 どうでしょうか、いろんな問題があった時に、「主よ、どこにおられるのですか。」と、真剣に主を尋ね求めることがあります。あのイスラエルの民って、四十年間、そのような必要はありませんでした。主は共におられるのかな?って、外を見れば、あっ!雲の柱がある!主が共におられる!夜は餃子のノブズがある!ではなくて、火の柱があったわけです。だから、主が共におられることが分かったのです。目で、確認できたわけです。

 しかし、カナンの地に入った時、何が変化したかというと、二年前くらいにお話ししたのですが、主の御姿が変わったのです。どんな姿で主が出て来られたかと言ったら、今までの四十年間とは全く違った姿で、出て来られたのです。それは、武装した姿で、剣を持ってヨシュアの前に出て来られたのです。ヨシュアはそれが誰か分かりませんでした。敵か?味方か?と聞いているのです。しかしそれが、カナンの地に入った後、ご自分をイスラエルに現された、主の姿だったのです。
 四十年間、祭司やレビ人たちは、幕屋で主を賛美し、礼拝していたのですが、軍隊の将のような姿をされた主が何を語られたのかというと、幕屋で仕えていた祭司とかレビ人たちを外に引き出して、戦いに使え!と語られたのです。
 最初に立ちはだかった町が、エリコという巨大な町だったのですが、今まで後方で主を賛美し、祈りに携わっていた祭司とかレビ人が、エリコの町を攻め落とすために、最前列に出て、主を賛美し、角笛を吹き鳴らして、軍隊と一緒に回ったのです。

0003.jpg

 その時に何が起こったのか、七日目に、難攻不落の城壁が崩れて、町を勝ち取ることができた!と以前に、話しました。今の時代、十字架と復活以後の時代は、まさに、カナンの地に入った時代に対応しています。それは、戦いの時代です。
 礼拝が、どこでなされたのかと言ったら、幕屋の中ではなくて、外に出て主を賛美し、礼拝しろ!と言われたのです。
 今日、私たちは教会の中で、主を賛美していますが、ここだけで賛美を止めてはいけないのです。今週は、みなさんが外に出て、会社で、家族で、学校で、学校休みか!、いろいろな所で主を賛美して、主の御名の勝利を宣言する時、暗闇は打ち破られ、完璧に守られ、町も変えられ、主が帰って来られる道が用意されるのです。

 外に出て行って賛美するのは、「被造物全体の賛美」につながります。今日は、午後から、真剣に主を賛美をしようじゃありませんか!そして、会堂の中の賛美だけでなく、賛美を外に持ち出して、被造物全体と共に賛美したいのです。
 もしもセミが鳴いていたら、セミが鳴いている木の下でセミと共に賛美してください。セミも真剣に、賛美すると思います。その時、大きな勝利が来るのではないでしょうか。
 外に賛美を、礼拝を持ち出す!というのが、カナンの地に入ってから、主が強調されたことでした。

 でも人って、一度体験しても、忘れるんですね。イスラエルは、こんなすごい体験をしたけれど忘れて、やがて神の宮を建てて、神の宮の中だけで賛美し、礼拝するようになりました。そこでは、雲が満ちるようなすごい臨在も体験しました。しかしその王国も、北と南に分裂してしまいました。
 第二歴代誌二十章二十一節〜二十二節、

『それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

 この時、アモン人、モアブ人、セイル山の人々の連合軍が、ユダを攻めて、もう絶体絶命、これでイスラエルは終わりだという時、ヨシャパテ王は、主からの預言を受け取ったのです。しかしこれは以前、主が、イスラエルの民に告げられた基本形を、もう一度教えられたのに過ぎなかったのです。

 それは何かと言ったら、主を賛美する者たちを、戦いの最前線に出して、賛美させよ!と言う事でした。戦いの最前線で主を賛美するのは、一番、ばかげたことだと思われがちです。
 現実に敵の面前で賛美させられた人たちは、びびったかもしれません。しかしその時、主が伏兵を設けたというのです。伏兵とは何か、それは、天の軍勢であろうと言われます。天使たちです。天使たちが来て、現実の敵を打ち破り、ユダに勝利をもたらしたのです。
 これは何を表しているかと言ったら、イスラエルがカナンの地に、最初に入った時に、主が語られた、基本形に過ぎないのです。

 私たちも、この事をよく心に刻んでおきたいですね。主を礼拝し、賛美するのは、教会だけの出来事ではなくて、外に出て行って主を賛美しなさい!勝利を宣言しなさい!その時、伏兵、天使たちが来て、私たちを守るどころか、勝利をもたらします!ということです。

 今日は、ピザのテイクアウトではありませんが、賛美のテイクアウトで、外に持ち出して、賛美しようじゃありませんか。その時、主が天使たちを遣わして、大きな勝利が現されると信じます。
 最後に守りを宣言して、祈って終わりにしたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。感謝します。今日は主を賛美するただ中で、このような礼拝が行われていることを、心から感謝します。主よ、今年は一人一人が守られるだけでなく、大きな勝利につながりますよう、お願いいたします。どうか一人一人に、特別な油注ぎを与えてください。エリシャに与えられたような、先読みの油注ぎを与えてください。
 そして守られるだけでなく、敵の軍隊を殲滅させる、大きな勝利につながりますように。
 今から私たちは聖餐式を行います。イエス様、あなたの血潮の中で、守ってください。今週は守りと共に、大きな勝利を体験する週となりますように。尊きイエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。